第十章 三か月目の答え
八月の終わりになっても、清澄村の朝は涼しかった。
午前五時を過ぎたばかりの山路館には、まだ宿泊客の気配がない。川の音と、途切れることのない蝉の声だけが、閉めた窓を通して部屋へ入ってくる。
田中美月は広縁の椅子に座り、ノートパソコンの画面を見つめていた。
清澄村へ来て、八十九日目。
東京へ戻るまで、あと四日だった。
画面には、二度の体験利用にかかった費用が並んでいる。
一度目の家族体験は、準備費を含めて七十一万三千四百八十円。二度目の温泉を組み込んだ体験は八万九千六百円。二つを単純に比較することはできない。最初の試行には、安全対策用品、木箱、案内資料、保険の手配、外部専門家への確認費用など、次回以降も使えるものが含まれている。
それらを除外しても、宿泊、食事、体験、移動、案内、安全管理を一つにすると、一組当たりの費用は安くなかった。
美月は表計算の項目を一つずつ見直した。
山路館の宿泊費。
食事の材料費と調理時間。
颯太が体験へ提供した木材。
森下の移動時間。
川音の湯の利用料。
参加者へ事前連絡するために費やした時間。
雨天時の代替案を準備する時間。
終了後の清掃と片づけ。
数字へ置き換えにくいものほど、人の負担に支えられている。
一度目の試行では、颯太が木箱を作るために使った時間を請求しなかった。澄江も食事の打ち合わせやアレルギー確認にかかった時間を、通常の宿泊料金へ含めていた。森下は休日に参加したが、役場へ時間外勤務を申請していない。
そのままでは、費用が低く見える。
美月は新しい行を作った。
『村内協力者の人件費』
数字を入力する。
想定より、さらに収支が悪化した。
赤く表示された合計額を見ても、美月は削除しなかった。
費用が高いからという理由で、人の時間をなかったことにはできない。
窓の外が少しずつ明るくなっていく。
広縁の小さなテーブルには、段ボールと割り箸で作られた「みんなのいえ」が置かれている。持ってきた時よりも、屋根の端がわずかに浮いていた。湿気のせいかもしれない。
その隣には、東京へ戻るための乗車券がある。
四日後、午前九時五十五分のバスで村を出る。
予定は三か月前から決まっていた。
美月は収支表を閉じ、新しい資料を開いた。
表紙には、次の文字がある。
『清澄村地域活性化共同プロジェクト 初期調査報告書』
全六十八ページ。
完成まで、あと十二ページだった。
*
午前七時、広間へ下りると、澄江が朝食を運んできた。
焼いた鮭、だし巻き卵、冷ややっこ、漬物、味噌汁。三か月前には多いと感じた量を、今ではほとんど残さず食べるようになっていた。
「今朝も早かったですね」
澄江が湯飲みへ茶を注ぐ。
「報告書の締め切りがありますので」
「東京へ帰るまでに仕上げるんですか」
「帰った翌日に、社内の報告会があります」
「着いた次の日ですか」
「午後には東京へ戻れますから」
「戻れることと、働けることは別やと思いますけどねえ」
澄江はそう言いながら、空いた小鉢を盆へ載せた。
「荷物、もう送りますか」
「明日、まとめます」
「三か月というのは、早いもんですね」
美月は箸を止めた。
「長く感じた日もありました」
「最初の頃は、夕食の時間を遅らせてばかりでしたからね」
「最近は七時に食べています」
「川魚は、焼きたてが一番でしょう」
「はい」
澄江は満足そうにうなずいた。
三か月前の美月なら、食事の時間まで他人に決められることを煩わしく感じていたかもしれない。今でも仕事が残っている時には落ち着かない。それでも、魚が冷める前に箸を置いて仕事を中断することを、以前ほど無駄とは思わなくなった。
「女将さん」
「はい」
「山路館で、一度に食事を提供できる人数は何人ですか」
澄江が美月を見る。
「また仕事の話ですか」
「すみません」
「謝ることやないですけど」
澄江は少し考えた。
「今の人数なら、宿泊のお客さんも合わせて十五人くらいでしょうか。献立を同じにして、事前に人数が分かっとるなら、もう少しはできます」
「二十人は?」
「毎日は無理です」
「週に二日ならどうでしょう」
「誰が運ぶんです?」
「そこも含めて検討します」
「食器は?」
「学校に食器を置き、使用後に洗浄して――」
「学校に洗う人がおるんですか」
何を返しても言い訳になる気がした。
澄江は美月の顔を見て、小さく笑った。
「料理を作ることだけ考えたらあかんのですよ。運んで、並べて、食べ終わるのを待って、下げて、洗う。アレルギーがある人なら、使うまな板から分けなあかんこともある」
「はい」
「学校に立派な台所を作るなら、うちは要らんでしょう」
「そのつもりはありません」
美月はすぐに答えた。
「新しい飲食施設を作って、山路館と競合する形にはしたくありません。食事をお願いする場合は、正式な業務委託にします」
「委託というのは、料理代だけですか」
「調理、運搬、配膳、回収、洗浄にかかる時間を分けて算定します。追加の人員が必要なら、その費用も含めます」
澄江は急須の蓋を押さえたまま、美月を見ていた。
「最初に来た頃より、聞き方が変わりましたね」
「そうでしょうか」
「前なら、何人分作れますかと聞いて終わっとったでしょう」
美月は手元の味噌汁へ目を落とした。
「実際にかかる仕事を、少しは考えるようになっただけです」
「少しで十分ですよ。全部分かったと思われるよりは」
澄江は盆を抱え直した。
「学校を宿にするんですか」
「まだ結論は出ていません」
「田中さんは、どうしたいんです?」
窓の外で、朝日が川面に反射していた。
「宿泊施設だけにはしたくないと思っています」
「それなら、何に?」
「今日、それを聞きに行きます」
澄江は、それ以上尋ねなかった。
*
午前九時、村役場の会議室には、藤井と森下がそろっていた。
点滅していた蛍光灯は、先月ようやく交換されている。長机の上には、美月が印刷した資料が三部ずつ置かれていた。
「三か月の調査結果を説明します」
美月はスクリーンへ表を映した。
「聞き取り調査は、住民四十七人、村外へ転出した方六人、村内事業者九事業所に実施しました。体験利用は二組です。件数としては、事業化を判断するには不足しています」
「足りんのですか」
藤井が尋ねた。
「はい。二組とも一定の評価を得ましたが、清澄村に来たい人がどれだけいるか、継続して料金を支払ってもらえるかは確認できていません」
「それなら、やらん方がええという報告ですか」
「そうではありません」
美月は次の画面へ進めた。
家族向けの宿泊体験。川音の湯。森林散策。木工。山路館の食事。村民との交流。
これまで別々に存在していたものを、一泊二日の流れとして図にしている。
「現在の資源を組み合わせれば、少人数向けの滞在事業は検討できます。ただし、観光客数を増やすことだけを目的にすると、村内の受け入れ能力を超えます」
「受け入れ能力というのは?」
「食事を提供できる人数、温泉の広さ、案内を担当する人、清掃、移動手段、夜間の対応です。どれか一つだけ増やしても、ほかが追いつきません」
森下が資料をめくる。
「宿泊室は三室になっていますね」
「初期段階では、それ以上にしない案です。一室当たり二人から四人、最大でも十人程度です」
「十人で採算が取れますか」
藤井の問いに、美月は収支予測を示した。
「宿泊だけでは難しいです。食事、体験、温泉利用を含めた料金設定が必要です。それでも、建物の改修費を宿泊収入だけで回収することはできません」
「会社が出すんですか」
「本格的な出資については、事業計画と住民合意を確認したうえで判断すると聞いています」
「判断するだけで、出すとは言うてないんでしょう」
「はい」
美月は認めた。
「国や県の制度も確認します。ただし、公的支援を使えたとしても、開業後の運営費まで補助に頼ることはできません」
藤井は腕を組んだ。
「三室の宿のために、学校を直すんですか」
「宿泊施設だけにする案ではありません」
美月は校舎の平面図を映した。
東側の三教室が青く塗られている。中央の二教室は緑、北側の一室は黄色。体育館は橙色になっていた。
「三教室を宿泊室にします。ほかは、村民が使える交流室、資料室、読書や学習に使える部屋として残します。体育館は、雨天時の体験、軽い運動、村の行事、防災利用を想定しています」
「誰が管理するんです?」
「決まっていません」
「鍵は?」
「未定です」
「掃除は?」
「運営人員の確保が必要です」
藤井の眉間にしわが寄った。
「未定ばかりやないですか」
「はい」
美月は画面を消さなかった。
「決まっているように見せることはできます。でも、実際には決まっていません。今日は、その部分を確認したいと思っています」
森下が、美月と藤井の顔を交互に見た。
「午後の住民懇談会で、この図を見せますか」
「完成案としてではなく、話し合うための案として見せます」
「宿泊施設に反対している人も来ます」
「その方にも見てもらいたいです」
藤井は資料の最後まで目を通した。
「田中さんの現地滞在は、今週まででしたな」
「はい」
「この先は誰がやるんです?」
「会社へ戻って報告します。その後は、会社の判断になります」
「三年半の事業やのに、田中さんは三か月で終わりですか」
「当初の現地滞在期間が三か月です。プロジェクト自体は続きます」
「担当者が変わるかもしれんということですか」
「可能性はあります」
口にした瞬間、会議室の空気が少し変わった。
森下が視線を落とした。
藤井は椅子の背にもたれたまま、何も言わない。
美月は、自分が発した言葉の響きを遅れて聞いた。
担当者が変わる。
会社の事業なら、珍しいことではない。引き継ぎ資料を作り、情報を共有すれば、仕事は続けられる。美月自身、東雲の計画を岡部へ引き継いで清澄村へ来た。
それでも、四十七人から聞いた言葉を、資料だけで次の担当者へ渡せるとは思えなかった。
「帰京後、継続体制についても協議します」
美月は、それだけを答えた。
*
役場を出たあと、美月は森下の車へ乗らず、旧清澄小学校まで歩いた。
ジャケットは役場へ置き、長袖のシャツに防水靴を履いている。三か月前、キャリーケースの底へ入れたままだった靴は、今では毎日のように使っていた。
坂道の途中で、草を刈る機械の音が聞こえた。
校庭脇の斜面に、颯太がいた。
腰の高さまで伸びた草を刈り、道へ倒れた枝を集めている。エンジンを止めると、蝉の声が急に戻ってきた。
「今日は役場で会議やなかったんですか」
「午前中に終わりました」
「その靴、やっと使ってますね」
颯太が美月の足元を見る。
「三か月前から持っています」
「持っとるだけでは、靴の役には立ちませんよ」
「分かっています」
颯太は草刈り機を地面へ置き、首に巻いた手拭いで汗を拭いた。
校舎は金網の向こうで、夏の日差しを受けていた。外壁の黒ずみや割れた窓枠が、雨の日よりはっきり見える。
「建物調査は来週でしたか」
「一回目は来週です。構造まで見る本調査は、予算が通ってからになります」
「そうですか」
美月は金網へ近づいた。
中には入らず、校舎の全体を見渡す。
「三教室を宿泊室にする案を作りました」
「三つだけ?」
「最大十人です。最初から大勢を受け入れることはできません」
「ほかの教室は放っとくんですか」
「村民が使える部屋にします。資料室や交流室も考えています」
「屋根は、客が泊まるとこだけ直すんですか」
「まだ調査前です」
「屋根はつながってますよ」
颯太は校舎の端から端まで視線を動かした。
「こっちだけ直しても、向こうから水が回ったら同じです。床下も、壁の中も」
「部分改修では済まない可能性があるということですか」
「俺は建物の専門家やないです。ただ、木は悪いところだけ見ても分からんことがあります」
颯太は金網に手をかけた。
「客が使うところだけきれいにして、残りを閉めたままにしたら、村の人はどう思うでしょうね」
「全部直すには、費用がかかります」
「三つだけ直して、何年か後にまた工事する方が安いんですか」
「調査しなければ分かりません」
「なら、調べた方がええ」
「その調査費も必要です」
「会社の仕事なんでしょう」
颯太の声には、責める響きがなかった。
「調査段階の投資上限は三千万円です。学校だけに使える金額ではありません」
「その先は?」
「事業計画と住民の合意を見て、本格的な出資を判断します」
「ほな、判断してもらったらええやないですか」
「会社は利益を求めます」
「当たり前でしょう」
颯太はあっさりと言った。
美月は颯太を見る。
「学校を全面的に直せば、必要な金額は大きくなります。会社が出資すれば、宿泊室を増やすことや、利用者数を増やすことを求められるかもしれません」
「それも話し合うんでしょう」
「会社と村の希望が一致するとは限りません」
「最初から一致しとったら、田中さんが来る必要ないでしょう」
美月は言葉を失った。
颯太は刈った草を熊手で集め始めた。
「会社が金を出したいと思う理由も必要です。村が受け入れられる範囲も必要です。どっちかだけ我慢したら、また続かんようになる」
「簡単に言いますね」
「難しく言うても、難しいままですから」
颯太は草の束を持ち上げた。
美月は足元に落ちていた細い枝を拾い、束の上へ置いた。
「体育館は、雨の日の体験に使えると思います」
「何するんです?」
「まだ決めていません」
「また未定ですか」
「木工はできませんか」
「刃物や機械を使うなら、安全管理が必要です。小さい子でもできるようにするなら、材料を事前に加工せなあかん」
「有料でお願いすることになります」
「それなら考えます」
返事があまりに早く、美月は颯太を見た。
「無料で頼むと思っていたんですか」
「今まで、そういう話が多かったんで」
「村のために協力してほしい、と?」
「ええ。村のためと言われたら、断った方が悪いみたいになる」
颯太は草の束を校庭の隅へ運んだ。
「木工だけやなくて、わら細工をできる人もいます。縄をなう人、正月の飾りを作る人。昔は当たり前やったけど、今できる人は減りました」
「教えてもらえるでしょうか」
「田中さんが聞いてください」
「颯太さんから頼んでもらった方が――」
「それをやったら、断りにくくなるでしょう」
美月は口を閉じた。
颯太の言うとおりだった。
「予約制なら、負担を限定できます」
「毎週やれと言わんことです。体調もあるし、田畑の仕事もある」
「講師料も必要ですね」
「払うと言うても、最初は受け取らん人がおるでしょうけど」
「受け取ってもらいます」
美月が答えると、颯太がわずかに笑った。
「そこは田中さんらしいですね」
「何かおかしいですか」
「いいえ」
颯太は再び草刈り機を持ち上げた。
「午後の懇談会、颯太さんも来てください」
「俺は、そういう集まりは苦手です」
「木工体験を提案した人がいないと、私が勝手に話したことになります」
「今の話で、もう決まったんですか」
「まだ案です」
「それなら、田中さんが説明したらええでしょう」
「逃げないでください」
颯太の手が止まった。
「逃げとるわけやないです」
「自分の意見を、私に言わせようとしています」
しばらく、二人の間に草の匂いと蝉の声だけが残った。
颯太は小さく息を吐いた。
「何時からですか」
「二時です」
「仕事が終わったら行きます」
「最初から来てください」
「一時まで山に入ってます」
「では、途中からで構いません」
「分かりました」
颯太は草刈り機のエンジンをかけた。
美月はその場を離れようとした。
「田中さん」
振り向く。
颯太はエンジンを止めないまま、大きな声で言った。
「東京へ帰るんですよね」
「四日後です」
「そうですか」
それだけだった。
草刈り機の音が再び斜面へ広がった。
*
午後二時、役場近くの集会所には、十七人の住民が集まった。
美月が予想していたより多かった。
北村春江、大西源造、松井フミ、井上亮平。川音の湯を管理する宮本和代もいる。後ろの席には、制服姿の竹内結菜が座っていた。
颯太の姿は、まだなかった。
美月は長机に、旧清澄小学校の平面図を広げた。
「今日は計画を決めるためではなく、学校を使うとしたら何が必要か、皆さんの意見を伺いたいと思います」
参加者へ、青、黄色、赤の付箋を配る。
「青には残したいもの、黄色には新しく必要なもの、赤には不要だと思うものを書いてください」
「学校を宿にすることは、もう決まったんか」
後ろの席から男性が尋ねた。
「決まっていません」
「東京で決めてから、形だけ聞きに来たんやないやろな」
「会社へ提出する計画も、まだ完成していません」
「三か月もおったのにか」
「三か月で決められることではないからです」
集会所が静かになった。
美月は付箋を一枚手に取った。
「私から書きます」
青い付箋に『三時十八分で止まった時計』と記し、図面の玄関へ貼った。
大西が、美月の手元を見た。
次に、黄色い付箋へ『安全なトイレ』と書く。
それを見て、フミが笑った。
「そこは新しゅうしてもらわな困るわ。昔の便所は、もう使えんで」
何人かがうなずいた。
少しずつ、鉛筆が動き始める。
春江は青い付箋に『図書室』と書いた。
「本は、だいぶ処分されましたけど、残っとるものもあります。子どもがおらんからいうて、本までなくすことはないでしょう」
結菜が黄色い付箋へ文字を書く。
『通信環境』
隣に座っていた女性が、その付箋を見た。
「山まで来て、またスマートフォンかいな」
「宿泊する人のためだけじゃありません」
結菜が顔を上げた。
「私はオンラインの授業を受けることがあります。家だと回線が切れる時があるから、学校で安定してつながるなら使いたいです」
「せっかく来た客に、携帯を触らせん計画やなかったんか」
別の男性が美月へ尋ねる。
「端末を取り上げる計画ではありません。一時間だけ、自分が置きたいものを選んでもらいます。緊急時の通信や、必要な学習まで止めるつもりはありません」
「それでは意味がないという人もおるやろ」
「その方には向いていない計画だと思います」
美月が答えると、数人が顔を見合わせた。
「客を選ぶんか」
「清澄村の暮らしと合わない利用方法まで受け入れることはできません」
「そんなんで商売になるんか」
「分かりません。これから検証します」
また「分かりません」か、と小さな声が聞こえた。
美月は聞こえなかったふりをしなかった。
「分からないことを、できると言って始める方が危険です」
大西が、ゆっくりと付箋へ文字を書いた。
青い紙には『体育館』とある。
「あそこは残してほしい」
「避難所としてですか」
「それもある」
大西は平面図の体育館へ付箋を貼った。
「山が動いた年、あそこで何日も過ごした。今の役場前の避難所だけでは、川向こうの者が来られんこともある」
森下が手帳へ書き込む。
「発電機や備蓄品を置く場所も必要ですね」
「宿の客がおる時に災害が起きたら、どうするんや」
「避難計画を別に作る必要があります」
美月は黄色い付箋に『防災設備』と記した。
フミが青い付箋を二枚貼った。
一枚には『校庭』。もう一枚には『家庭科室』と書かれている。
「家庭科室は、だいぶ古いですよ」
春江が言う。
「分かっとる。でも、水が使えて、大きい机がある部屋は便利やった。祭りの前に、みんなで料理したこともある」
「宿の厨房にするんですか」
澄江は懇談会へ来ていなかったが、朝の会話を思い出した。
「食事は山路館へお願いする案です。学校には飲み物や簡単な朝食準備ができる程度の設備を検討します」
「宿の客だけが使うんか」
「村民が行事で使えるようにしたいと思っています」
「誰が掃除する?」
別の方向から声が飛ぶ。
「管理人を置く必要があります」
「どこから雇う?」
「決まっていません」
「またや」
今度は、はっきりと笑いが起きた。
悪意のある笑いではなかった。
美月も否定できず、手元の資料へ『運営人員』と書き込んだ。
午後三時を過ぎた頃、集会所の引き戸が開いた。
作業着のままの颯太が入ってくる。後ろの空いていた椅子へ座ろうとしたが、美月が前の席を指した。
「木工について、説明してください」
「今ですか」
「今です」
颯太は集まった住民の顔を見た。
「体育館で、雨の日にできる体験を考えています。杉の端材を使って、小さい箱や箸を作る程度です。機械や刃物を使わせるなら、安全のために人数を限ります」
「颯太が毎回教えるんか」
井上が尋ねた。
「毎回は無理です。山の仕事がありますから」
「客が来るたびに呼ばれたら、仕事にならんな」
「だから予約制にします」
美月が補足した。
「実施できる日だけ日程を出し、担当者には講師料を支払います」
フミが顔をしかめた。
「木切れで遊ぶくらいで、金取るんか」
「材料費だけではありません。準備と片づけ、教える時間にも料金を設定します」
「わしらが昔やっとったことは、そない立派なもんやない」
大西が言った。
「立派かどうかを決めるのは、教える側だけではありません。知りたい人がいて、教えられる人が少ないなら、価値があります」
「何でも金にするんやな」
言葉は厳しかった。
美月は少し考えてから答えた。
「無料でなければ伝えられないものもあると思います。でも、無料だから続けられなくなるものもあります」
フミが腕を組んだ。
「わらで馬を作るくらいなら、できるけどな」
「教えていただけますか」
「毎週は嫌やで」
「毎週にはしません」
「人数も多いのはあかん」
「何人なら可能ですか」
「三人」
「少ないですね」
「ほな、やらん」
「分かりました。三人から始めます」
フミは、美月の顔を見た。
「子どもなら四人でもええ」
「では、子どもを含む場合は四人までにします」
「まだやるとは言うてないで」
「はい。ご都合のよい日だけお願いします」
フミは返事をしなかった。
しかし、赤い付箋ではなく、黄色い付箋を一枚取った。
『わら細工をする場所』
少し震える字で書き、体育館の横へ貼った。
平面図の上には、付箋が増えていた。
残したいもの。
新しく必要なもの。
不要なもの。
宿泊、読書、学習、木工、わら細工、防災、会議、食事。
一つの建物へ、いくつもの希望が重なっている。
すべてを入れれば、焦点のない施設になるかもしれない。それでも、宿泊者だけのために整えた建物より、使われる可能性は広がる。
「田中さん」
大西が呼んだ。
「はい」
「宿泊客が来んかったら、学校はまた閉めるんか」
美月は平面図を見た。
会社の投資を受け、観光事業として改修するなら、利用者数は必要になる。売上がなければ、従業員の給与も維持費も払えない。
「その可能性はあります」
集会所から、話し声が消えた。
「ただ、宿泊客が来なければ何も使えない施設にはしません。村民が使う部分と、宿泊事業の部分を分けます。避難所や交流室を維持する費用まで、宿泊収入だけで賄えるように見せるつもりはありません」
「村の金が要るということか」
「公共施設として必要なら、村の負担も必要です」
「東京の会社が出してくれるんやないんか」
「会社は、利益を生む見込みがある部分へ出資します。村民が使う部分については、国や県の支援も含めて考える必要があります」
「都合よう分けるんやな」
「分けなければ、何が利益を生み、何に税金を使っているのか分からなくなります」
大西は、すぐにはうなずかなかった。
「分けても、建物は一つや」
「はい」
「村と会社も、紙の上みたいに分けられんで」
美月は、その言葉も手帳へ書いた。
懇談会は、予定より一時間長く続いた。
最後まで、賛成か反対かを決める話にはならなかった。
誰も拍手をしなかった。
それでも、平面図には三十枚を超える付箋が残った。
*
懇談会のあと、美月は川音の湯へ向かった。
山路館から歩けば八分ほどの距離だが、集会所からは川沿いを十分ほど下る。傾いた日差しが川の上に落ち、山の緑が水面で揺れている。
川音の湯の玄関には、四足の靴が並んでいた。
受付に座っていた宮本和代が、美月を見る。
「さっきはお疲れさんでした」
「宮本さんも、ありがとうございました」
「私は聞いとっただけですよ」
「温泉の利用について、確認したいことがあります」
「また数字ですか」
「はい」
和代は笑い、古い帳簿を取り出した。
「こっちは紙ですよ」
「構いません」
日付、利用者数、入浴券の種類が手書きされている。
平日は二十人から三十人。休日でも四十人を超える日は少ない。利用者の大半は村民で、七十代以上が多かった。
「夏は少ないんですね」
「畑がある人は、暗うなってから来ます。冬は昼に集まります」
「旅行者は?」
「一日に二人か三人。多い日で十人くらいです」
「露天風呂は三人でいっぱいですよね」
「四人入ったら、膝が当たります」
「学校の宿泊者を最大十人にした場合、一度に来ると使えません」
「男女に分かれたら、十人全員が一緒に入ることはないでしょうけど」
「地元の利用時間と重ならないようにした方がいいと思います」
脱衣所の向こうから、女性たちの話し声が聞こえた。
「私らを追い出すんか」
声とともに、白髪の女性が暖簾の隙間から顔を出した。
美月が村へ来た日のバスで、前の席に座っていた女性だった。
「追い出しません。重ならない時間を考えたいんです」
「時間を分けたら、こっちが合わせなあかんのと違うか」
「村民の利用時間を先に決めます」
「今まで、好きな時間に来とったのに」
別の女性が後ろから言った。
和代が苦笑する。
「この人ら、毎日同じ時間に来るくせに、決められるのは嫌なんですよ」
「決められたら、遅れた時に困るやろ」
「三十分ずらすこともできんのですか」
「風呂に入る時間くらい、自由にさせてえな」
美月は帳簿から顔を上げた。
地元利用を優先する。
文章にすれば簡単だった。だが、地元利用者の時間を決めること自体が、これまでの自由を狭める可能性がある。
「宿泊者を、一組ずつ案内する方法もあります」
美月は言った。
「学校から予約の連絡を入れて、その時に空いていれば来てもらう。混んでいる場合は、少し待ってもらいます」
「客を待たせるんか」
「はい」
「都会の人、怒らへんか」
「待てない方には、山路館のお風呂を案内します」
「山路館に話したん?」
「これからです」
白髪の女性が笑った。
「あんた、三か月おっても、まだ決まってないことばっかりやな」
「本当に、そうですね」
美月が答えると、女性は少し驚いた顔をした。
「でも、勝手に決められるよりはええわ」
そう言って、暖簾の向こうへ戻っていく。
「写真はあかんで」
姿が消えてから、声だけが飛んできた。
「風呂で写真を撮る人は入れません」
「山は撮ってもええ。人は撮ったらあかん」
「承知しました」
和代が帳簿の端を指で押さえた。
「温泉は、客が増えたら少しは収入になります。でも、これだけで人を一人増やすほどにはならんと思います」
「学校の宿泊者から通常料金を受け取るだけではなく、清掃や予約対応に追加費用が必要ですね」
「入浴後の床は、人数が増えたら何度も拭かなあかんし、露天の湯加減も見に行く回数が増えます」
「試算に入れます」
「田中さん」
「はい」
「温泉をきれいに直してもらえるなら、うれしいですよ。床も滑りやすいし、脱衣所は冬に寒い。でも、旅行者のために直したことにされたくないんです」
「村の人が使うための改修を先にします」
「会社は、それでお金を出すんですか」
美月は答えを急がなかった。
「出す理由を作ります」
「村の人が喜ぶから、では足りませんか」
「会社には、足りません」
「難しいですね」
「はい」
美月は帳簿の数字を手帳へ写した。
「でも、その理由をごまかしたくはありません」
*
夜、山路館の部屋へ戻ると、仕事用のスマートフォンに黒田から連絡が届いていた。
『帰京翌日、午前十時から報告会。小田切本部長も出席する。資料は前日までに共有』
続けて、岡部からもメッセージが届いている。
『三か月、お疲れ。戻ってすぐ会議らしいな。東雲の方は順調。時間があったら飯でも行こう』
美月は返信欄を開いた。
『ありがとう。戻ったら連絡します』
そこまで入力し、送信せずに画面を閉じた。
東雲の計画は、自分がいなくても進んでいる。
三か月前、そのことを突きつけられるたび、胸の奥が落ち着かなかった。今は、岡部から届く報告を見ても、以前ほど自分の名前を探さなくなっている。
代わりに、清澄村の資料の中に、自分が見落とした項目がないかを探している。
美月はノートパソコンを開いた。
懇談会で使った平面図を机へ広げる。
青、黄色、赤の付箋は、剥がれないよう透明な袋へ入れて持ち帰った。
図書室。
通信環境。
防災設備。
わら細工。
木工。
村民が使える台所。
宿泊室。
新しいトイレ。
三時十八分で止まった時計。
美月は報告書の章立てを修正した。
『旧清澄小学校を活用した宿泊事業』
元の見出しを削除する。
代わりに打ち込んだ。
『旧清澄小学校の複合的再生』
その下に、用途を四つに分ける。
一、宿泊事業。
二、村民利用。
三、体験および技術継承。
四、防災および資料保存。
建物は一つでも、費用と責任は分けなければならない。
宿泊者が支払う料金で、すべてを賄えるように見せない。村民が必要とする公共部分には、公的な費用が必要になる。会社が出資する部分には、事業としての見通しが必要になる。
どちらか一方へ都合よく寄せれば、始めることはできるかもしれない。
続けることはできない。
次に、運営費の予測を作る。
三室。
最大十人。
週二日から開始。
月八回。
山路館への食事委託。
川音の湯の利用。
体験担当者への報酬。
清掃担当者二人。
夜間管理者一人。
予約、会計、問い合わせ対応。
すべてを入力すると、宿泊料金は当初の想定より高くなった。
美月は料金を下げるために、人件費の欄へカーソルを合わせた。
数秒後、手を止める。
削るなら、体験内容か、実施回数か、会社の取り分だった。
人の時間ではない。
新しい欄を作る。
『初年度は月八回を上限とし、受入回数を増やす場合は運営人員を先に確保する』
その下に、もう一行を加える。
『無償協力を事業計画上の労働力として算入しない』
入力し終えた時、時計は午後十時を過ぎていた。
廊下の向こうから、澄江が戸締まりをする音が聞こえる。
美月は椅子から立ち上がり、窓を開けた。
昼間の熱を残した空気の下を、川が流れている。対岸の山は黒い輪郭だけになり、その上に夏の星が出ていた。
三か月前と同じように、スマートフォンを空へ向ける。
画面には、目で見える星の半分も映らない。
美月は一度だけ撮り、すぐに端末を下ろした。
*
翌朝、役場へ向かう途中の赤い橋で、颯太と会った。
軽トラックの荷台には、短く切った杉材が積まれている。
「昨日の懇談会、お疲れさまでした」
美月が声をかけると、颯太が車を停めた。
「フミさん、帰りに俺のところへ来ました」
「何か言っていましたか」
「わら細工に使う場所は、床に座れる方がええそうです」
「まだ、やるとは言っていませんでした」
「家にあるわらを、何束持っていくか考えとりましたよ」
美月は思わず笑った。
「では、準備室に保管場所が必要ですね」
「もう設計するんですか」
「必要なものとして記録します」
颯太はハンドルに片腕を置いた。
「田中さん、昨日、ずっと未定やと言ってましたね」
「決まっていないので」
「前の会社は、できると言い切ってました」
「その方が安心してもらえるからでしょう」
「最初だけは」
川の上を朝の風が通り過ぎる。
「会社に、この案を持って帰ります」
美月は言い添えた。
「学校の全面的な建物調査と、三室から始める宿泊事業。村民が使う教室と体育館。温泉を含めた滞在です」
「全面改修するんですか」
「まだ分かりません。ただ、部分改修だけを前提にはしません」
「金、かかりますよ」
「承知しています」
「会社に出してもらうんでしょう」
「出資を求めます。国や県の支援も調べます」
「断られたら?」
「その時に考えます」
颯太は、しばらく美月を見ていた。
「少し変わりましたね」
「何がですか」
「最初の田中さんなら、断られた時の代わりまで作ってから話しとったでしょう」
「今も作っています」
「作っとるんですか」
「当然です」
颯太が笑った。
はっきりと笑う顔を、美月は初めて見た気がした。
「それなら安心しました」
「何がですか」
「東京で、いきなり会社を辞めると言い出すような人やなくて」
「辞めません」
美月は即座に答えた。
「これは会社の事業です。会社だから出せる金も、持っている知識もあります。利益を求めること自体が悪いとは思っていません」
「でも、村に無理をさせたくない」
「はい」
「両方取れますか」
「分かりません」
また同じ答えだった。
けれど、今度は颯太も笑わなかった。
「帰ったら、担当は変わるんですか」
「会社の判断です」
「田中さんは、どうしたいんです?」
朝食の時、澄江からも同じことを聞かれた。
美月は、すぐに答えられなかった。
「私が残れば成功するわけではありません」
「そんなことは聞いてません」
「私一人で決められることでもありません」
「それも聞いてません」
颯太は真っすぐ美月を見た。
「田中さんが、どうしたいかです」
美月は赤い橋の向こうへ視線を移した。
川沿いの道を進めば、山路館がある。反対側へ行けば役場とバス停がある。その先から、東京へ戻ることができる。
「三か月では、足りません」
言葉にしてから、自分の声が思ったよりはっきりしていることに気づいた。
「何が足りないんです?」
「事業を判断するための試行数。建物の調査。運営する人。県との調整。住民の合意。それから――」
美月は言葉を止めた。
「それから?」
「私が、この村を理解する時間です」
颯太は何も言わなかった。
軽トラックのエンジンが低い音を立てている。
「それ、会社に言うんですか」
「報告書には書きません」
「どうしてです?」
「事業計画の根拠にならないからです」
「田中さんらしいですね」
「ただし、現地滞在の延長は提案します」
「どれくらい?」
「三年」
口に出した瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。
まだ、社内で相談していない。
黒田が認める保証もない。小田切が出席する報告会で、計画そのものを否定される可能性もある。
それでも、美月の中では、すでに期間が定まっていた。
三年。
学校の調査を行い、資金を組み、試行を続け、運営体制を作る。短すぎるかもしれない。それ以上を最初から求めれば、会社は受け入れない。
「三年も、旅館にいるんですか」
颯太が尋ねた。
「許可が出れば」
「澄江さん、喜ぶでしょうね」
「部屋が空いているとは限りません」
「田中さんの部屋、ほかの人が泊まったところを見たことないですけど」
「それは失礼です」
「俺が言うたことにしないでください」
颯太は軽トラックを発進させようとした。
「颯太さん」
「はい」
「三年いることになっても、毎回木工をお願いするつもりはありません」
「分かってます」
「山の仕事を優先してください」
「それも分かってます」
「無料では頼みません」
「もう分かりました」
颯太は窓越しに美月を見る。
「まだ決まってないんでしょう」
「はい」
「ほな、決まってから教えてください」
三か月前、学校の坂道で聞いた言葉と同じだった。
今度は、その声に拒絶の響きはなかった。
*
その夜、美月は初期調査報告書の最後のページを開いた。
『今後の対応案』
一、旧清澄小学校の構造、耐震、設備、石綿に関する全面調査。
二、三室を起点とする少人数宿泊事業の継続検証。
三、校舎全体の保存および複合利用に関する住民協議。
四、体育館を活用した予約制体験事業と防災機能の検討。
五、川音の湯の住民利用を優先した連携方法の策定。
六、国および奈良県の支援制度に関する協議。
七、村内外からの運営人員の確保。
八、当社による本格出資の検討。
最後に、九つ目の項目を入力する。
『現地常駐期間を三年延長し、事業計画策定から試行、資金調整、運営体制構築までを一体的に実施する』
指を止めた。
その一文を入れれば、会社から理由を問われる。
利益が見込めない。
利用者数が少ない。
学校の改修費が分からない。
住民の合意もない。
未定ばかりの計画に、なぜさらに三年を使うのか。
美月は文末へ、もう一行を加えた。
『本計画は、大規模な観光開発ではなく、村の生活と共存できる規模で収益を生む地域事業の検証を目的とする』
保存する。
報告書の表紙へ戻った。
清澄村へ来た初日、美月は「目的が見えません」と黒田に言った。
今も、完成した答えが見えているわけではない。
それでも、何をしてはいけないかは分かり始めていた。
外から大きな答えを持ち込まない。
村の人の時間を、無料の資源として数えない。
観光客のために、村民の暮らしを後ろへずらさない。
補助金で改修できることと、事業が続くことを混同しない。
分からないことを、分かったように説明しない。
美月は最後のページに短い文章を加えた。
『清澄村の可能性は、何か一つの強い観光資源にあるのではない。森林、川、温泉、学校、食事、技術、住民の時間を、それぞれの生活を損なわない範囲で結び直すことにある』
読み返し、一部を削り、言葉を整える。
送信ボタンの横にカーソルを移した。
窓の外から川の音が聞こえる。
広縁には「みんなのいえ」が置かれ、その向こうに、暗い山の輪郭がある。
美月は報告書を本社へ送信した。
画面の中央で、読み込みを示す円が回る。
三か月前と同じ、遅い回線だった。
美月は急かすように画面を触らなかった。
やがて表示が変わる。
『送信が完了しました』
東京へ帰る日は決まっている。
その先は、まだ決まっていなかった。
美月はノートパソコンを閉じた。
川の音は、窓を閉めても消えなかった。




