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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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第十一章 帰る日

清澄村で過ごす最後の夜、美月は開いたままのキャリーケースを前にして座っていた。

 三か月前、東京から持ってきた衣類は、すべて収まるように畳み方まで決めていた。スーツは片側へまとめ、パンプスは袋へ入れ、充電器は端末ごとに分けていた。どこに何が入っているか、目を閉じても思い出せるほどだった。

 今、畳の上には、予定していなかったものが増えている。

 泥の跡が落ちなくなった防水靴。山仕事の時に颯太から借り、あとで同じものを買った厚手の手袋。川音の湯でもらった白い手拭い。松井フミから受け取った最後のトマトが三つ。北村春江が貸してくれた旧清澄小学校の卒業文集。森下から渡された村の防災地図。懇談会で使った色とりどりの付箋。

 どれも捨てることはできず、無理に詰めれば「みんなのいえ」が壊れてしまう。

 美月は、持ち帰るものを床へ並べ直した。

 衣類の一部は宅配便で送る。卒業文集は返す。防災地図と付箋は仕事用のバッグへ入れる。トマトは明日の朝、一つ食べる。残りは傷まないよう新聞紙で包む。

 最後に「みんなのいえ」を持ち上げた。

 段ボールの屋根は、持ってきた時より少し反っている。割り箸の柱にも、わずかなゆがみがあった。東京から清澄村へ運んだだけで、三十年近く前の工作には負担だったのかもしれない。

 美月は薄い紙で包み、衣類の間へ入れた。

 スマートフォンが震える。

 黒田からだった。

『報告書を受領した。常駐延長については、明日の報告会で説明してもらう。資料を増やす必要はない』

 資料を増やす必要はない。

 その一文は、美月が会議の直前まで新しい資料を作ると予想して書かれたように見えた。

 実際、ノートパソコンには、報告書を送信したあとで作った補足資料が三つ保存されている。

 宿泊室を三室とした場合の収支予測。

 宿泊室を六室へ増やした場合の収支予測。

 学校全体の改修費が想定を上回った場合の縮小案。

 黒田には、すでに見抜かれている。

 美月は返信した。

『承知しました。明日、午前十時に伺います』

 送信後、画面に表示された時刻を確認する。

 午後九時四十三分。

 明日ではない。報告会は、村を出た翌日だった。

 清澄村での日付と東京での日付が、頭の中で重なっている。

 美月はスマートフォンを伏せた。

 明日の午前九時五十五分、役場前からバスへ乗る。午後の電車と新幹線を乗り継ぎ、東京の自宅へ着くのは夜になる。

 戻った翌朝には、本社へ出勤する。

 三か月前まで、それが普通だった。

 移動の翌日に会議があっても、不自然には思わなかった。新幹線の中で資料を確認すればよい。夜に到着しても、必要な睡眠時間を逆算して動けばよい。

 今は、澄江の言葉が頭に残っている。

 戻れることと、働けることは別。

 それでも、報告会の日程を変えてほしいとは思わなかった。

 明日、村を離れれば、会社が判断する時間になる。

 美月は襖の脇に積まれた三つの箱を見た。

 この部屋へ来た日、窓の外には川と山しかないと思った。

 三か月たっても、見えるものは変わらない。

 川と山しかない。

 しかし、川沿いには温泉があり、その湯へ毎日通う人がいる。山には佐藤林業の仕事場があり、颯太や義一が木を切り、乾かし、出荷している。対岸の道を上れば旧清澄小学校があり、三時十八分で止まった時計の下に、村の記憶が残っている。

 同じ景色を見ても、今は人の顔が浮かぶ。

 美月は窓を開けた。

 夏の終わりの空気が、畳の匂いと混ざった。

     *

 翌朝、川の音で目を覚ました時、目覚まし時計が鳴る三分前だった。

 美月は布団の中で、天井を見上げた。

 薄い木目。端に残る小さなしみ。窓側の柱についた傷。

 三か月見てきたものなのに、最後だと思うと一つずつ目に入る。

 起き上がり、布団を畳む。

 広縁へ出ると、川の上に薄い霧が残っていた。

 山の斜面にも白い霧がかかり、水面へ映った影と重なっている。初日に澄江が話していた、山が二つあるように見える景色だった。

 美月はスマートフォンへ手を伸ばした。

 撮影画面を開く。

 霧の白さを合わせると、山が暗くなる。山を明るくすると、水面の光が白く飛ぶ。

 一度だけ撮り、画面を閉じた。

 写真に収まらないことを、以前ほど失敗だとは思わなかった。

 美月は窓辺の「みんなのいえ」を手に取った。

 昨夜、箱へ入れたはずだった。

 もう一度だけ朝の光の中で見たくなり、取り出していた。

 割り箸の柱の間から、霧の残る山が見える。

 美月は写真を撮った。

 今度は母へ送った。

『三か月、部屋に飾っていました。今日、東京へ戻ります』

 すぐには既読にならなかった。

 母はまだ寝ているのかもしれない。

 工作を包み直し、キャリーケースの中央へ収める。隙間にタオルを入れ、動かないことを確認した。

 蓋を閉じる。

 三か月前より重くなったケースを持ち上げると、車輪が畳の縁へ引っかかった。

 美月は力を入れて持ち上げた。

     *

 広間へ下りると、いつもの席に朝食が用意されていた。

 焼き魚、卵焼き、煮物、味噌汁。その横に、昨夜包んだはずのトマトが切って添えられている。

「一つ、使わせてもらいました」

 澄江が言った。

「フミさんから買ったものです」

「知ってます。昨日、田中さんに持たせたと言うてましたから」

「まだ二つあります」

「東京まで持って帰るより、食べた方がええでしょう」

 美月は席へ座った。

「残りも使いますか」

「それは持って帰ってください。お母さんに一つあげたらええ」

「母が食べるか分かりません」

「トマトくらい食べるでしょう」

 澄江は茶を置き、美月の向かいへ座った。

 朝食の時間に澄江が腰を下ろすことは珍しかった。

「お会計です」

 宿泊費、洗濯代、追加の食事、会議で使用した弁当。長期滞在分の明細が、項目ごとに記されている。

 会社と村が負担する費用は分けられ、美月が個人的に頼んだものだけ別になっていた。

「確認してください」

 美月は一行ずつ目を通した。

「問題ありません」

「早いですね」

「三か月分、毎週確認していましたから」

「そうでした。田中さん、最初の日から領収書を一枚ずつ並べとった」

「必要なことです」

「はいはい」

 澄江は明細を封筒へ入れた。

「部屋は十時までで構いません。バスは九時五十五分でしょう」

「九時半には出ます」

「役場の森下さんが、車で迎えに来ると言うてましたよ」

「聞いていません」

「昨日の夜、電話がありました」

 美月は仕事用のスマートフォンを確認した。

 森下からの連絡はない。

「私に直接伝えてもらわないと困ります」

「三か月前にも、同じようなことを言うてましたね」

「予定表へ反映してもらわなければ――」

 そこまで言って、美月は口を閉じた。

 澄江が笑っている。

「何ですか」

「変わってないところもあって、安心しました」

「予定を共有するのは当然です」

「そうですね」

 澄江は立ち上がった。

「また来るなら、早めに言うてください。秋は紅葉のお客さんが来ますから」

「まだ、戻れるか分かりません」

「分かってます」

「三年間の延長を申請するだけです。会社が認めるとは限りません」

「はい」

「学校の計画そのものが、承認されない可能性もあります」

「それも分かってます」

 澄江は食器を盆へ載せた。

「でも、部屋の空き具合を聞くくらいはできるでしょう」

 美月は返事をしなかった。

 澄江が広間を出ようとしたところで、声をかける。

「女将さん」

「はい」

「三か月、ありがとうございました」

 澄江は振り向いた。

 美月は座ったままでは失礼だと思い、立ち上がった。

「最初は、ご迷惑をおかけしました」

「最初だけですか」

「その後も、通信回線や食事の時間で――」

「冗談ですよ」

 澄江は笑った。

「こちらこそ、ありがとうございました。三か月も同じ人に泊まってもらうことは、めったにありませんから」

「またお世話になることになったら、よろしくお願いします」

「その時は、夕食は七時です」

「仕事の状況によります」

「七時です」

 澄江は言い切り、食器を運んでいった。

 美月は椅子へ座り直した。

 皿に残っていたトマトを口へ入れる。

 初日に食べたものと同じように、甘かった。

     *

 荷物を玄関へ下ろしたあと、美月は最後に部屋を見回した。

 机の引き出し。押し入れ。浴衣を入れていた籠。洗面道具を置いていた棚。コンセントの脇。

 忘れ物はない。

 広縁のテーブルには、何も置かれていない。

 「みんなのいえ」がなくなると、部屋が広く見えた。

 美月は襖を閉め、鍵を澄江へ返した。

 玄関の外では、森下の白い軽自動車が待っていた。

「おはようございます。連絡できなくてすみません」

 森下が運転席から降りてくる。

「迎えに来ることは、本人へ直接伝えてください」

「昨夜、電話しようとしたんですが、役場で漏水があって」

「メッセージなら数秒で送れます」

「はい。次から気をつけます」

 森下は三か月前と同じように、キャリーケースへ手を伸ばした。

「自分で持てます」

「知ってます。でも、後ろに載せます」

 二人でケースを持ち上げる。

 三か月前、森下は一人で持ち上げた。今は荷物が増え、一人では無理だった。

 車の後部には、役場の資料が入った段ボール箱と、交換用の電球が積まれている。空いていた場所へキャリーケースを押し込んだ。

「役場へ寄ってもいいですか」

 森下が尋ねた。

「バスに間に合うなら」

「藤井課長と村長が、ご挨拶したいそうです」

「はい」

 澄江が玄関前まで出てきた。

「忘れ物したら、送りますから」

「確認しました」

「確認した人ほど忘れるんですよ」

「忘れていません」

「東京に着いてから分かります」

 美月は車へ乗った。

 窓を開ける。

「行ってきます」

 言ってから、自分の言葉に気づいた。

 帰ってきます、ではない。

 お世話になりました、でもない。

 澄江は何も指摘せず、手を振った。

「気をつけて」

 車が動き出す。

 バックミラーの中で、山路館の格子戸と澄江の姿が小さくなった。

     *

「昨日、会社へ報告書を送ったんですよね」

 赤い橋を渡りながら、森下が尋ねた。

「はい」

「延長のことも?」

「書きました」

「三年間ですか」

「そうです」

「会社が認めたら、また山路館に?」

「宿泊先も含めて、村と会社の協議が必要です」

「澄江さん、部屋を空けて待ちそうですね」

「待たないように言ってください」

「どうしてです?」

「戻れない可能性があるからです」

「理解しました」

 森下は前を向いたまま答えた。

 しばらくして、また口を開く。

「でも、戻れない時は、連絡してください」

「当然です」

「メールだけではなく、電話で」

 美月は森下を見る。

「どうしてですか」

「田中さんが三か月で帰ることを、みんな最初から知ってました。でも、実際にいなくなると思ってなかった人もいるので」

「プロジェクトは続きます」

「担当者が変わるかもしれないんでしょう」

「はい」

「田中さんが、そう言ったと聞きました」

「もう村中に伝わったんですか」

「昨日の懇談会に十七人いましたから」

 美月は窓の外へ目を向けた。

「不確定なことを、決まったように広めないでください」

「誰も決まったとは言ってません。変わるかもしれないと言ってるだけです」

 言葉の内容は同じなのに、受け取られ方が違う。

 会社では、担当変更は業務上の選択肢だった。村では、次に誰が来るか分からないという不安になる。

 美月がいなくなることより、また一から説明しなければならないことを警戒しているのかもしれない。

「会社へ、これまでの聞き取り記録をすべて共有します」

「記録に書いてないこともあります」

「補足します」

「補足にも書けないことがあります」

「それは、どういうことですか」

 森下は少し考えた。

「フミさんが、本当は宿泊の計画を楽しみにしてることとか」

「わら細工を教える話ですか」

「昨日、帰ってから、押し入れのわらを出したそうです」

「颯太さんから聞きました」

「でも、役場へ聞かれたら、まだ反対だと言うと思います」

「なぜですか」

「賛成したあとで計画がなくなったら、恥ずかしいからでしょう」

 美月には、すぐには理解できなかった。

「計画がなくなっても、賛成したことが間違いになるわけではありません」

「そう思わない人もいます」

「期待したことを知られたくないということですか」

「期待して、裏切られたことが何度もあるからです」

 森下は速度を落とし、道端の自転車を避けた。

「そういうことは、資料には書きにくいでしょう」

 美月は膝の上に置いたバッグへ手を触れた。

 中には四十七人分の聞き取り記録が入っている。発言内容、希望、不安、過去の計画への評価。

 しかし、言葉にしなかった期待までは記録できていない。

「戻ってきて、自分で確認してください」

 森下は、それだけ言った。

     *

 役場へ着くと、会議室ではなく村長室へ通された。

 山根村長と藤井が、低い応接机を挟んで座っている。壁には歴代の村長の写真が並んでいた。

「三か月、ご苦労さまでした」

 山根が立ち上がり、美月へ頭を下げた。

「こちらこそ、ありがとうございました」

「東京へ戻ったら、すぐ報告会やそうですね」

「明日の午前十時です」

「うちからも、会社へ一言伝えた方がええでしょうか」

「正式な協議は、事業計画を確認してからの方がよいと思います」

「そうですな」

 山根は再び座った。

 机の上には、美月が送った報告書が印刷されていた。付箋が何枚も貼られている。

「現地滞在を三年延ばす案、読みました」

「まだ当社内での提案段階です」

「村としても、無条件にお願いするわけにはいきません」

「承知しています」

「宿泊費、役場の担当者、調査への協力。田中さんが長くおるほど、村にも負担がかかります」

「はい」

「村議会への説明も必要です」

「その点は理解しています」

「それでも、三か月ごとに担当が変わるよりは、同じ人に続けてもらう方がええと、私は思っています」

 山根の言葉は穏やかだったが、藤井は表情を変えなかった。

「村長」

 藤井が口を挟む。

「まだ会社が認めるか分かりません。それに、田中さんの案を村が受け入れるかも決まってません」

「分かっとる」

「学校を宿泊施設にすることも、村議会には正式に出していません」

「それも分かっとる」

 山根は少し強い声で答えた。

 美月は二人の間にある違いを見た。

 山根は、事業を前へ進めたいと考えている。藤井は、進める前に止まれる場所を確かめている。

 どちらも必要だった。

「藤井課長のおっしゃるとおりです」

 美月は言った。

「私が戻ることと、私の計画を村が受け入れることは別です。滞在延長が認められても、住民協議と村議会の手続きを省くことはできません」

 藤井が美月を見る。

「会社へ、そこまで言うんですか」

「言います」

「村が反対したら、会社の調査費が無駄になるかもしれませんよ」

「調査の結果、実施しないと決めることも成果です」

「会社がそう考えますか」

「そう考えてもらえるように説明します」

 山根が報告書を閉じた。

「田中さんは、最初に来た時、村に何もないと思ったそうですね」

 澄江か、森下から聞いたのだろう。

「はい」

「今は?」

 美月は、すぐに答えなかった。

「何もないように見えるものの中に、人の暮らしがあると思っています」

「観光に使えるものが見つかったということですか」

「それだけではありません」

 美月は村長室の窓から、役場前の通りを見た。

 閉まった商店。郵便局。診療所。バス停。

「何もないと呼べば、新しいものを置くための空いた場所にできます。でも実際には、誰かが使っていた場所で、今も残したいと思っている人がいます。そこを確認せずに計画を進めれば、前のリゾート計画と同じになります」

 藤井は、しばらく黙っていた。

「初日に説明した資料、覚えてますか」

「地域資源を整理し、市場性と収益性を検討するという資料ですね」

「ええ」

「途中で止められました」

「あの時は、止めてよかったと思っています」

「私も、今はそう思います」

 藤井は机の端へ置いていた封筒を美月へ差し出した。

「昨日の懇談会の議事録です。森下さんが朝までにまとめました」

「確認して送っていただければ――」

「東京へ持って帰ってください」

 美月は封筒を受け取った。

「次に来る人へ渡すためではなく、田中さんが読むために作ったものです」

 その言葉に、返事が遅れた。

「ありがとうございます」

 美月は両手で封筒を持った。

     *

 役場を出ると、バスの到着まで二十五分あった。

 森下は荷物を車へ残したまま、美月と通りを歩いた。

「フミさんのところへ寄りますか」

「時間はありますか」

「十分なら」

 野菜の籠が置かれていた家の前には、今日もトマトと茄子が並んでいた。

 手書きの紙には『一袋百円』とある。

 美月は財布から百円玉を二枚出した。

 三か月前、トマトの代金は翌日に支払った。それから何度も野菜を買ううちに、財布には百円玉を切らさないようになっていた。

「フミさん」

 森下が引き戸の外から声をかける。

「おるで」

 家の奥から返事があり、フミが出てきた。

「今日、東京へ戻ります」

「聞いとる」

「昨日はトマトをありがとうございました」

「澄江さんとこで食べたか」

「一つは朝食にいただきました。二つは母へ持って帰ります」

「東京まで腐らせんようにな」

 美月は籠から茄子の袋を一つ取った。

「これは買えませんね」

「何でや」

「料理をしないまま傷ませる可能性があります」

「東京の人は、茄子も焼かんのか」

「帰った翌日から仕事があります」

「仕事終わってから焼いたらええ」

「遅くなります」

「夜中でも茄子は焼ける」

 フミは袋を美月の手へ押しつけた。

「百円です」

「トマトと合わせて二百円払います」

「昨日のトマトは、やる言うたやろ」

「それでは、茄子二袋分として払います」

「一袋しか渡してへん」

「もう一袋ください」

「そない食べられへんやろ」

 二人のやり取りを見て、森下が笑った。

 美月は百円玉を一枚、菓子の空き缶へ入れた。

「では、茄子の分だけです」

「最初からそうしたらええ」

 フミは美月が持つ仕事用のバッグを見た。

「わら細工の話、会社にするんか」

「はい。体育館を改修できた場合の利用案として伝えます」

「まだ、やるとは言うてへんで」

「そのように伝えます」

「子どもばっかり来ても困る」

「大人も参加できるようにします」

「教える日を、勝手に決められたらあかん」

「予約を受ける前に、フミさんの都合を確認します」

「わらは、こっちで用意するんか」

「材料費をお支払いします」

 フミは次々と条件を口にする。

 やるとは言っていない。

 それでも、始める時のことを考えている。

「会社があかん言うたら、なくなるんやろ」

 最後に、フミが尋ねた。

「その可能性はあります」

「県や国の金も、簡単には出んのやろ」

「はい」

「ほんなら、期待せんと待っとくわ」

 フミはそう言って、家の中へ戻ろうとした。

「フミさん」

「何や」

「期待していただいても、構いません」

 美月が言うと、フミは顔をしかめた。

「できんかった時、あんたが困るで」

「その時は、できなかった理由を説明します」

「説明で学校は直らん」

「はい」

「それでもええのか」

「説明せずにいなくなるよりは、いいと思います」

 フミは、しばらく美月を見ていた。

「東京の会社の人は、みんな説明が好きやな」

「そうかもしれません」

「次は、説明だけ持ってくるんやないで」

「分かりました」

 フミは引き戸を閉めた。

 隙間がなくなる直前、小さな声が聞こえた。

「気ぃつけて帰り」

     *

 役場前の停留所へ戻ると、バスの時刻まで十分を切っていた。

 森下が車からキャリーケースを下ろす。

 二人で持っても、階段の段差に車輪が引っかかった。

「重くなりましたね」

「資料が増えました」

「それだけですか」

「衣類と靴もあります」

「野菜も増えました」

 森下が、茄子の袋を指す。

「これは予定外です」

「村へ来た日も、トマトを持って歩いてましたね」

「そうでした」

 停留所のベンチには、澄江が座っていた。

「旅館にいたはずでは?」

「見送りくらい来ますよ」

「朝、もう挨拶しました」

「一日に二回したらあかんのですか」

 澄江の隣には、紙袋が置かれている。

「お昼です。電車の中で食べてください」

「朝食をいただいたばかりです」

「昼になったら、お腹が空きます」

 美月は紙袋を受け取った。

 まだ温かい。

「代金は?」

「長期滞在のお礼です」

「仕事に関わる移動ですので、支払います」

「それなら、個人的な餞別です」

「餞別を受け取る理由がありません」

「三か月、毎日顔を見た人が帰るんです。理由はそれで十分でしょう」

 美月は紙袋を持ったまま、言葉を探した。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 遠くから、エンジン音が聞こえてきた。

 バスだと思ったが、白い車体ではない。

 颯太の軽トラックが、役場前の道へ入ってきた。

 停留所の近くへ停まり、颯太が運転席から降りる。

 作業着ではなく、紺色のシャツを着ていた。手には、細長い木の箱を持っている。

「間に合いました」

「山の仕事は?」

「今日は義一さんと二人が先に入ってます」

「わざわざ来ていただかなくても――」

「これを渡しに来ただけです」

 颯太が差し出した箱は、両手に載るほどの大きさだった。

 薄い杉の板で作られ、蓋が横へ滑るようになっている。表面は磨かれているが、塗装はされていない。

 美月は受け取った。

 木の匂いがした。

「何ですか」

「見たら分かるでしょう」

 蓋を開ける。

 中には、薄い布が敷かれている。

 家族体験で使用した、スマートフォンを入れるための木箱と同じ形だった。ただし、こちらは一台だけが入る大きさで、表面には文字も印もない。

「試作品ですか」

「余った材料で作りました」

「費用を支払います」

「要りません」

「事業に関係するものなら――」

「事業のものやないです」

 颯太は、美月の手元へ視線を落とした。

「個人的に作りました」

 森下と澄江が、何も言わずに二人を見ている。

 美月は木箱の蓋を閉じた。

「いただく理由がありません」

「使わんかったら、返してください」

「いつ返せばいいんですか」

「次に来た時でええです」

 美月は颯太を見る。

「戻ってこないかもしれません」

「その時は、持っといてください」

「返せないでしょう」

「ほな、戻ってきてください」

 颯太は、そう言ってから川の方へ顔を向けた。

 言葉を言い直す様子はなかった。

 山の向こうから、今度こそバスのエンジン音が近づいてくる。

「会社の報告会、明日ですよね」

 颯太が尋ねた。

「はい」

「三年の延長も話すんですか」

「報告書には書きました」

「口でも言うてください」

「そのつもりです」

「数字だけ見たら、断られるかもしれませんから」

「数字で説明します」

「そうでしょうね」

「でも、数字に入っていないことも説明します」

 颯太がうなずく。

「決まったら、教えてください」

 三度目の同じ言葉だった。

「はい」

 バスが停留所へ入ってきた。

 扉が開き、運転手が降りて荷物入れを開ける。

 森下がキャリーケースを運ぶ。澄江が紙袋を美月の仕事用バッグへ入れ直す。

 颯太は、その場から動かなかった。

 美月は木箱を両手で持っていた。

「三か月、ありがとうございました」

 三人へ頭を下げる。

「こちらこそ」

 森下が言った。

「気をつけて」

 澄江が続ける。

 颯太は、少し遅れて口を開いた。

「また」

 それだけだった。

 美月はバスへ乗った。

     *

 乗客は、美月を含めて四人だった。

 一番後ろの座席へ座り、窓側に仕事用のバッグを置く。

 バスが動き出す。

 停留所に立つ三人の姿が、少しずつ遠ざかる。

 森下が手を振っている。澄江も、その隣で小さく手を上げている。颯太は腕を下ろしたまま、美月が乗った窓を見ていた。

 道が曲がり、三人の姿が見えなくなる。

 美月は前へ向き直った。

 三か月前、同じ道を反対方向へ走った。

 その時は、道路の狭さ、携帯電話の電波、家の少なさばかりを見ていた。

 今は、窓の外に見える場所の名前が分かる。

 川沿いの古い倉庫は、井上が除雪道具を置いている場所。山の斜面にある茶色い屋根は、春江の家。小さな橋を渡った先には、冬になると通れなくなる林道がある。

 同じように見えていた杉の山にも、手入れされた場所と、枝が伸びたままの場所がある。

 美月は仕事用のスマートフォンを取り出した。

 アンテナは一本だけ立っている。

 社内チャットには、未読が二十四件あった。

 黒田から報告会の参加者一覧。岡部から東雲の会議資料。奈緒から帰京を歓迎する短いメッセージ。人事部から交通費精算の案内。

 順番に開こうとして、指を止めた。

 手元の木箱の蓋を滑らせる。

 スマートフォンを入れると、ちょうど収まった。

 蓋を閉める。

 通知音は聞こえなくなった。

 美月は木箱を膝の上へ置き、窓の外を見た。

 バスは杉の山の間を走っている。

 しばらくすると、電波の表示は圏外になった。

     *

 駅へ着く頃には、昼を過ぎていた。

 美月は電車へ乗り換え、窓側の席に座った。

 澄江から渡された紙袋を開く。

 俵形のおにぎりが二つ。だし巻き卵。煮物。小さな容器に入った漬物。

 包みの中に、折り畳まれた紙があった。

『魚は入れられませんでした。また今度』

 澄江の字だった。

 美月は、その紙を手帳へ挟んだ。

 おにぎりを一口食べる。

 炊きたてだった米は少し冷めていたが、中心には梅干しが入っている。

 向かいの席では、若い男性が動画を見ていた。隣の女性は、イヤホンをつけたまま仕事用の画面を操作している。

 美月の手元にも、ノートパソコンがある。

 明日の報告会までに、資料を確認する必要があった。

 食事を終え、パソコンを開く。

 最初に、清澄村の初期調査報告書を表示した。

 最後のページには、現地常駐期間を三年延長する提案が残っている。

 削除しようとは思わなかった。

 次に、東雲倉庫街再開発事業の資料を開く。

 岡部が更新した事業計画は、三か月前より進んでいた。テナントの候補、交通動線、周辺住民への説明会、建設費の見直し。

 美月が担当していた頃に未定だった箇所が、いくつも決まっている。

 自分がいなくても、仕事は進んでいた。

 寂しさがないわけではない。

 けれど、以前のように、自分が不要になったとは思わなかった。

 岡部が決めたことは、岡部の仕事だった。

 美月が清澄村で見つけたことは、美月が持ち帰る仕事だった。

 画面の端に、岡部からメッセージが届く。

『明日の報告会、小田切さんも出るんだろ。厳しく聞かれると思うけど、最初から答えを出すなよ』

 三か月前と同じ言葉だった。

 美月は返信した。

『答えはまだ出ていません。そのことを説明します』

 すぐに既読がついた。

『それが一番難しいやつだな』

 美月は画面を閉じた。

     *

 東京駅へ着いたのは、午後七時を過ぎてからだった。

 新幹線の扉が開くと、人の流れが一斉にホームへ吐き出された。

 美月はキャリーケースを引き、その流れに入る。

 構内放送、発車音、車輪の音、話し声。あらゆる音が重なり、自分の足音が聞こえない。

 三か月前まで、気にしたことのない騒がしさだった。

 前を歩く人の速度が遅いと、以前なら追い越す場所を探した。今は、キャリーケースの重さもあり、そのまま流れに合わせて歩いた。

 改札を抜ける。

 仕事帰りの人が、スマートフォンを見ながら行き交っている。大型画面には、新しい集合住宅と商業施設の広告が映っていた。

『必要なものが、すべて手に入る暮らし』

 白い文字の下に、広いリビングと笑顔の家族が写っている。

 美月は、広告の前で一瞬だけ足を止めた。

 すぐに後ろから来た人が避けて通る。

 邪魔になっていることに気づき、歩き出した。

 タクシー乗り場には長い列ができていた。

 美月は配車アプリを開こうとして、仕事用のバッグへ手を入れる。

 スマートフォンは、木箱の中だった。

 蓋を開け、端末を取り出す。

 画面には、数十件の通知が並んでいる。

 その中に、母からの返信があった。

『おかえりなさい。工作を飾ってくれてありがとう。霧の山もきれいですね』

 続けて、笑っている犬と月の絵が送られている。

 美月は、画面を見つめた。

 霧の山。

 工作を撮ったつもりだったが、母は窓の向こうの景色まで見ていた。

『今、東京駅です』

 返信すると、すぐに電話がかかってきた。

『着いたのね』

「うん」

『疲れたでしょう』

「少し」

『明日は休み?』

「朝から会社」

『帰ってきた次の日くらい、休めばいいのに』

「報告会があるから」

『清澄村は、どうだった?』

 三か月前にも、同じことを聞かれた。

 その時、美月は「山と川しかない」と答えた。

「まだ、よく分からない」

『三か月もいたのに?』

「三か月いたから、分からないことが増えた」

 母が電話の向こうで笑った。

『また行くの?』

「会社に、三年の延長を申し出る」

『そう』

 驚くと思っていたが、母の声は穏やかだった。

「まだ認められたわけじゃない」

『分かってますよ』

「反対しないの?」

『どうして私が反対するの』

「東京に戻ってくると思っていたでしょう」

『今日、戻ってきたじゃない』

「そういう意味ではなくて」

『美月が自分で行きたいと思ったなら、一度くらい、その気持ちを大事にしたらいいでしょう』

 美月は、電話を耳へ当てたまま黙った。

『お父さんとは違うわよ』

 母が言った。

「何が?」

『やりたいことがあるのと、周りを見ずに突っ走るのは違うでしょう』

「まだ、やりたいかどうかも分からない」

『じゃあ、分かるまで考えなさい』

 配車アプリの画面に、車の到着まで六分と表示される。

「また連絡する」

『今日は早く寝なさい』

「できるだけ」

『できるだけじゃなくて』

「おやすみなさい」

『おやすみ』

 通話を切る。

 美月は木箱へスマートフォンを戻さなかった。

 明日の資料を確認する必要がある。

 それでも、すぐには画面を開かず、東京駅の外を見た。

 高層ビルの窓が、夜空へ幾重にも並んでいる。

 星は見えなかった。

     *

 タワーマンションの部屋へ入ると、空気がわずかにこもっていた。

 三か月前に清掃を頼んでいたため、床に埃はない。冷蔵庫も空で、洗面所のタオルも新しいものへ交換されている。

 すべてが出発した日のまま、整っていた。

 美月はキャリーケースを玄関へ置き、照明をつけた。

 川の音は聞こえない。

 空調設備の低い動作音と、遠くを走る車の音だけがある。

 仕事用のバッグから、村の防災地図と懇談会の付箋、藤井から受け取った議事録を出す。食卓の上へ、一つずつ並べた。

 その隣に、颯太からもらった木箱を置く。

 最後に、キャリーケースを開き、「みんなのいえ」を取り出した。

 広い食卓の中央へ置くと、旅館の広縁にあった時より小さく見えた。

 木箱と工作が、白いテーブルの上に並ぶ。

 美月は冷蔵庫を開いた。

 中には、出発前に買った未開封の水が一本だけ残っている。トマトと茄子を野菜室へ入れた。

 冷蔵庫の扉を閉める。

 壁の時計は、午後九時二十六分を指していた。

 明日の報告会まで、十二時間三十四分。

 資料を開くには十分な時間がある。

 美月はノートパソコンを食卓へ置き、電源を入れた。

 画面が明るくなる。

 初期調査報告書を開き、最初のページから読み始める。

 人口推移。

 産業構成。

 空き家。

 観光客数。

 学校。

 温泉。

 林業。

 すべて清澄村に来る前にも読んだ数字だった。

 今は数字の後ろに、顔が浮かぶ。

 高齢化率の中には、わらを押し入れから出したフミがいる。

 林業生産額の中には、乾燥設備の返済を続ける颯太がいる。

 温泉利用者数の中には、入浴時間を決められたくない女性たちがいる。

 村有施設維持費の中には、三時十八分で止まった時計と、避難所としての体育館がある。

 美月は最後のページまで読み終えた。

 修正したい箇所はいくつもあった。

 しかし、黒田の指示どおり、新しい資料は作らなかった。

 ノートパソコンを閉じる。

 木箱の蓋を開け、仕事用のスマートフォンを入れた。

 今度は、自分の意思で蓋を閉めた。

 寝室へ向かう前に、もう一度「みんなのいえ」を見る。

 東京へ戻ってきた。

 けれど、自分が帰ってきたのかどうか、美月にはまだ分からなかった。


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