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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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第十二章 三千万円の向こう

午前五時四十二分、美月は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

 カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。

 耳を澄ます。

 川の音は聞こえない。

 代わりに、空調設備の低い動作音と、遠くを走る車の音が聞こえた。

 清澄村から東京へ戻ったことを、目で見るより先に音で理解した。

 枕元のスマートフォンを取ろうとして、手が空を切る。

 昨夜、端末は颯太からもらった木箱へ入れ、食卓に置いたままだった。

 美月はベッドを出た。

 三か月前までなら、起きて最初にメールと社内チャットを確認していた。今も、確認しなくてよいとは思わない。午前十時から報告会があり、参加者の変更や追加資料の依頼が届いている可能性がある。

 寝室を出て、食卓へ向かう。

 白いテーブルの中央に、「みんなのいえ」と杉の木箱が並んでいる。

 木箱の蓋を滑らせた。

 画面には、黒田からのメッセージが一件届いていた。

『会議室を二十四階へ変更。開始時刻は予定どおり。事業審査室と財務企画部が参加する』

 参加者が増えている。

 初期調査の報告だけなら、事業審査室と財務企画部が出席する必要はない。本格的な出資の可能性を検討するためだろう。

 美月は、昨日まで着ていた移動用の服を脱ぎ、濃紺のスーツへ着替えた。

 鏡の前で髪を整える。

 顔は少し日に焼けていた。頬の線も、三か月前よりわずかに細く見える。山道を歩いたからか、食事の時間が規則的になったからかは分からない。

 黒いパンプスを履く。

 防水靴は、玄関の隅に置いたままだった。

 台所へ行き、冷蔵庫を開ける。

 中にある食べ物は、フミからもらったトマトと茄子だけだった。

 茄子を朝から焼く時間はない。

 美月はトマトを一つ取り出し、包丁で四つに切った。皿へ載せ、冷たいまま食べる。

 山路館で食べたものより少し味が薄いように感じた。

 同じトマトなのだから、変わるはずはない。

 コーヒーメーカーへ水を入れようとして、やめた。豆は三か月前に開封したままで、香りが落ちている。

 トマトだけを食べ、仕事用のバッグへ資料を入れる。

 藤井から受け取った議事録。

 懇談会で使った付箋。

 川音の湯の利用帳簿を書き写した手帳。

 清澄村の初期調査報告書。

 最後に、赴任を告げられた日、黒田から渡された青いファイルを入れた。

 表紙には、社内資料であることを示す赤い印と、『奈良県清澄村地域活性化共同プロジェクト』の文字が残っている。

 木箱は食卓へ置いたままにした。

 美月は一度振り返り、部屋を出た。

     *

 午前八時二十八分、創生都市開発本社の正面玄関を通った。

 入館証を読み取り機へ当てる。

 一瞬、認証されないのではないかと思ったが、いつもと同じ電子音が鳴り、ゲートが開いた。

 ロビーには、出勤する社員が次々と入ってくる。

 磨かれた石の床。高い天井。壁一面の大型画面には、創生都市開発が手がけた商業施設や集合住宅が映っている。

 三か月前まで毎日見ていた場所だった。

 美月はエレベーターへ乗った。

 鏡張りの壁に、スーツ姿の自分が映る。

 奈良へ出発した朝、マンションのエレベーターで見た自分は、住み慣れた場所から追い出される人間のようだった。

 今の自分は、長い出張から戻ってきた社員に見える。

 それだけだった。

 二十三階で扉が開く。

 開発事業本部のフロアへ入ると、いくつもの視線が美月へ向いた。

「田中さん、おかえりなさい」

 受付に近い席の若手社員が声をかける。

「ただいま戻りました」

 返事をすると、別の席からも「お疲れさまです」と声が飛んだ。

 奈緒が立ち上がり、美月の方へ歩いてくる。

「おかえり。昨日の夜に着いたんでしょう」

「七時過ぎに東京駅へ着いた」

「そのまま今日の報告会?」

「十時から」

「黒田部長らしいね」

 奈緒は美月の顔を見た。

「少し焼けた?」

「山を歩くことが多かったから」

「スーツより作業着の方が似合うようになってたりして」

「作業着は着ていない」

「冗談よ」

 奈緒は笑い、美月の机へ目を向けた。

 三か月前まで美月が使っていた席には、新しい資料が積まれている。パソコンの横には、岡部が作った進捗表が置かれていた。

 席を奪われたわけではない。美月の個人用品は引き出しへ整理され、必要な資料だけ岡部が使っている。

 それでも、自分の机へ他人の仕事が広がっている光景は、わずかに胸へ引っかかった。

「東雲の定例会議、うまくいった?」

 美月が尋ねる。

「昨日、基本設計の修正案が通った。医療モールの面積を少し減らして、保育施設を広げる案」

「資料は見た」

「岡部、朝から建築事務所へ行ってる。田中さんに会えなくて残念がってたよ」

「昼には戻る?」

「たぶん」

 奈緒は美月の仕事用バッグを見る。

「村の資料?」

「そう」

「重そう」

「紙でなければ残らないものもあるから」

「田中さんが、それを言うんだ」

 奈緒の声に驚きが混じっていた。

 三か月前の美月なら、資料はすべて電子化し、原本が必要なものだけ保管すればよいと答えていただろう。

「内容は電子化している。でも、付箋の位置や筆圧までは同じように残らない」

「何かあった?」

「住民懇談会で使った」

「見てもいい?」

「個人の発言が含まれているから、今は見せられない」

「分かった」

 奈緒は素直に引き下がった。

「コーヒー、いれる?」

「会議前だから、自分で取ってくる」

「前なら、もう机に二杯目があったのに」

「朝は飲んでいない」

「大丈夫?」

「豆が古くなっていたから」

「そういう意味じゃないんだけど」

 奈緒は笑った。

 美月も、少しだけ笑った。

     *

 午前九時五十分、美月は二十四階の大会議室へ入った。

 窓から東京の街が一望できる。

 遠くに建設中の高層ビルが並び、その間を幹線道路が通っている。清澄村なら一つの山が収まるほどの範囲に、無数の建物と人が集まっている。

 会議室には、すでに黒田と小田切がいた。

 黒田は美月の報告書を開き、ページの端に印を付けている。小田切は窓側の席に座り、タブレット端末を操作していた。

「おはようございます」

 美月は二人へ頭を下げた。

「おはよう。移動の翌日で悪いな」

 黒田が言った。

「問題ありません」

「そう答えると思った」

 小田切が顔を上げる。

「三か月、ご苦労だった」

「ありがとうございます」

「座ってくれ。事業審査室と財務企画部も、もうすぐ来る」

 数分後、事業審査室の室長と財務企画部の担当者が入ってきた。オンライン画面には法務部の社員も接続されている。

 初期調査報告としては、人数が多い。

 美月はノートパソコンを開き、スクリーンへ接続した。

 午前十時、黒田が会議を始めた。

「奈良県清澄村地域活性化共同プロジェクトの初期調査報告を行う。現地担当の田中から、三か月間の調査結果と今後の提案を説明してもらう」

 美月は席を立った。

「田中です。よろしくお願いいたします」

 最初の画面に、清澄村の全景を映す。

 山と川、役場、集落。遠くに旧清澄小学校の屋根が見える。

「調査期間は九十二日間。住民四十七人、村外へ転出した元住民六人、村内九事業所へ聞き取りを行いました。家族向けの体験利用は二組です」

 次の画面へ進める。

「現時点で確認できた課題は、人口減少、高齢化、林業収入の低下、宿泊者数の減少、公共交通の不足、村有施設の維持負担です。これらは事前資料に記載されていた内容と大きく変わりません」

 小田切が腕を組む。

「三か月調べて、分かっていたことを確認しただけか」

「数字上の課題は同じです。ただし、対策を考えるうえで前提が異なりました」

「前提?」

「村民は、単純な観光客の増加を望んでいません。過去の高級リゾート計画で、住民の意向が十分に反映されなかった経験があります。雇用や収入は必要ですが、生活環境を変える規模の開発には強い警戒があります」

「それも、事前資料に書いてあったはずだ」

「反対の理由までは、十分に記録されていませんでした」

 美月は、旧清澄小学校の写真を映した。

「学校は村有施設ですが、卒業生の記憶、地滑りの際の避難所、ダム建設に伴う住民協議の場所でもあります。未利用不動産として扱えば、住民の合意は得られません」

 事業審査室長が資料をめくる。

「そこで、複合利用ですか」

「はい。初期段階では、三室の少人数宿泊施設、村民の交流室、資料室、学習場所、予約制の木工やわら細工体験、防災利用を提案します」

「三室だけ?」

 財務企画部の担当者が尋ねた。

「最大宿泊人数は十人程度です」

「少なすぎないか」

「現在の村内で対応できる食事、温泉、清掃、体験担当者、移動手段を考慮した上限です」

「宿泊事業の年間売上予測は?」

「初年度は月八日程度の営業を想定しています。料金設定と稼働率によりますが、宿泊、食事、体験を含めて年間一千二百万円から一千六百万円です」

「それで建物の改修費を回収できるのか」

「できません」

 美月が答えると、会議室が静かになった。

 小田切が椅子へ深く座り直す。

「できない事業を提案しているのか」

「宿泊事業の収入だけで、学校全体の改修費を回収する計画ではありません」

「それを、事業と呼べるのか」

「宿泊事業の運営費は、宿泊事業の収入で賄います。村民利用、防災、資料保存などの公共部分は分けて考えます」

「建物は一つだろう」

「はい。ただし、費用と責任を分けなければ、宿泊事業が黒字なのか、公共施設として税金を使っているのか分からなくなります」

 財務企画部の担当者が口を挟む。

「改修費の概算は出ているのか」

「正式な建物調査前です。既存資料と外観調査による暫定値では、部分改修で九千万円から一億三千万円、建物全体では一億八千万円から二億四千万円です。耐震補強と石綿除去の範囲によって増える可能性があります」

「温泉は?」

「滑り止め、手すり、脱衣所暖房、配管更新、緊急呼出設備を含め、三千万円から五千万円程度です」

 数字を読み上げるほど、会議室の空気が硬くなる。

 小田切が、机を指で一度たたいた。

「売上が年間一千数百万円の事業に、最大三億円近い改修をするのか」

「学校の全面改修と温泉整備を、すべて当社が負担する提案ではありません」

「国と県の補助を使う?」

「はい。村とも費用分担を協議します」

「補助金が取れなければ?」

「事業規模と改修内容を見直します」

「学校の部分改修もあり得るということか」

「現時点では、選択肢から外していません。ただし、屋根、基礎、給排水が建物全体でつながっているため、長期的には全面改修の方が合理的な可能性があります」

「可能性ばかりだな」

 小田切の声は低かった。

「正式な調査前ですので、断定できません」

「宿泊の需要調査は二組だけ。建物の費用も未定。住民合意もない。それで三年間の常駐延長を求めるのか」

「それらを確認するために、延長を求めています」

「順番が逆じゃないか」

 小田切の言葉に、美月はすぐ答えなかった。

「どういう意味でしょうか」

「事業の見通しがあるから、人と金を追加する。見通しがないから、さらに三年調べさせてほしいでは、期限がない」

「期限は三年です」

「三年後、やはり需要がありませんでした、住民合意が得られませんでした、補助金が取れませんでした。それで終わっても構わないと?」

「実施しない方がよいという結論になれば、その判断も必要です」

 事業審査室長が眼鏡を外した。

「会社の立場からすれば、実施しない判断のために、すでに三か月使っている。さらに三年を使う根拠が弱い」

 美月は、用意した言葉を口にしかけた。

 しかし、黒田が手を上げた。

「田中。初期調査費の使用状況を説明しろ」

「はい」

 支出一覧を画面へ映す。

「現地滞在費、交通費、外部専門家への相談、二度の体験利用、安全対策、資料作成を含め、現時点で八百七十二万円です。正式な建物調査を実施した場合、追加で四百万円から六百万円を見込んでいます」

「三千万円の枠には収まるな」

「はい。常駐延長後の人件費と追加試行を含めても、初期調査の範囲では収められます」

 小田切が美月を見る。

「三千万円を使い切れるという説明に聞こえる」

「使い切ることが目的ではありません」

「なら、いくらで何を確認するのか、期限を切って示すべきだ」

「報告書の七十三ページに記載しています」

 美月は該当箇所を表示した。

 建物調査。

 外部需要調査。

 追加の体験利用。

 住民協議。

 運営人員の確保。

 国と県の支援制度の確認。

 六か月ごとの中間判断。

「三年間を一度に承認するのではなく、六か月目に継続判断を行う案です」

「それでも、三室の宿では事業規模が小さすぎる」

 小田切は収支表へ視線を戻した。

「宿泊室を十室に増やした場合は試算したのか」

「補足資料として作成しています」

「今、出せるか」

 黒田からは、資料を増やすなと言われていた。

 それでも、質問された場合に備えて持ってきている。

「出せます」

 美月は補足資料を開いた。

 三室、六室、十室。

 三つの案が並ぶ。

「十室の場合、年間売上は四千万円を超える見込みです。ただし、食事、清掃、夜間管理、温泉利用、体験担当者の人数を現在の村内だけで確保することはできません。外部雇用と、新たな厨房または飲食事業者が必要になります」

「利益は出る」

「稼働率が四十パーセントを超えれば、運営段階では黒字化できます」

「なら、なぜ三室なんだ」

「十室分の利用者を受け入れることで、村民の生活へ影響が出るからです」

「具体的には?」

「川音の湯の露天風呂は三人程度しか入れません。平日は村の高齢者が二十人から三十人利用しています。宿泊者を優先すれば、地元利用者が時間を変える必要があります」

「温泉を拡張すればいい」

「源泉の湧出量と土地の範囲を確認する必要があります。それ以前に、地元利用者は大規模化を望んでいません」

「食事は?」

「山路館が対応できるのは、通常の宿泊者を含めて十五人程度です。二十人を超える提供を継続するなら、人員を増やす必要があります」

「雇用が生まれるじゃないか」

「働く人が見つかれば、です」

「移住者を募集すればいい」

「住居と交通手段も必要になります。募集すれば必ず定着するとは限りません」

 小田切はわずかに眉を上げた。

「できない理由を調べてきたのか」

「続けるために必要な条件を調べてきました」

 美月は答えた。

「利用者を増やすことはできます。しかし、村の受け入れ能力を先に増やさなければ、働く人へ負担が集中します。その状態を前提にした収支は、正しい利益ではありません」

「正しい利益?」

「無償の手伝いや、申告されていない時間外労働で費用を下げた利益です」

 会議室の奥で、財務企画部の担当者が資料へ書き込んだ。

「一度目の体験費用が七十一万円を超えていますね」

「初期準備費を含んでいます」

「それを除いた場合は?」

「次回以降も必要となる費用は、一組当たり七万八千円から九万四千円程度です。家族構成と体験内容によって変動します」

「販売価格は?」

「三人家族で八万八千円から十万八千円を想定しています」

「奈良の山間部で、一泊に十万円払う家族がどれだけいる?」

「分かりません」

「また、それか」

「二組の試行だけで需要があると言い切ることはできません。だから外部需要調査と追加試行が必要です」

「需要がなければ、終わりか」

「料金を下げるために人件費を削ることはしません。体験内容と運営方法を見直しても成立しなければ、宿泊事業は実施しません」

 小田切は、しばらく美月を見ていた。

「ずいぶん、村の側に立っているように聞こえる」

 その一言が、美月の胸に残った。

「当社の担当者として説明しています」

「会社へ利益を持ち帰る案には見えない」

「大規模開発とは異なる利益の出し方を検討しています」

「どんな利益だ」

「改修管理、運営支援、予約システム、地域事業の設計に対する報酬です。清澄村の土地や施設を所有しなくても、当社が持つ調整能力を事業にできます」

「それで、三億円を出資するのか」

「三億円の全額出資を求めているわけではありません」

「では、いくら求めている?」

 美月は言葉を止めた。

 正式な建物調査前に、本格出資額を決めることはできない。

「現時点では、金額を確定できません」

「出資を求めているのに、金額は分からない?」

「本格出資を検討する手続きへ進むことを求めています。建物調査と住民協議の結果を踏まえ、金額を提示します」

 小田切は、椅子の背へもたれた。

「田中。最初にこの仕事を命じられた時、何と言ったか覚えているか」

「目的が見えない、と申し上げました」

「今は見えたのか」

 美月はスクリーンに映る三つの収支表を見た。

 三室は、利益が小さい。

 六室は、人員を増やさなければ運営できない。

 十室は、会社にとって最も分かりやすい数字が出ている。

「完成した形は、まだ見えていません」

「それで、会社へ金を出せと?」

「はい」

 美月は仕事用のバッグから、青いファイルを取り出した。

 清澄村への赴任を命じられた日、黒田から渡されたものだった。

 表紙を開き、最初の打ち合わせ記録を机へ置く。

「この事業を命じられた際、会社としての投資上限を確認しました」

 赤い線を引いた箇所を指す。

「黒田部長から、調査段階では三千万円、本格的な出資は事業計画と住民の合意を確認してから判断すると説明を受けました」

 小田切の視線が、黒田へ向く。

 黒田は表情を変えなかった。

「その説明は事実だ」

「私は、三千万円ですべてを完成させるよう命じられたとは考えていません」

 美月は続けた。

「三千万円の範囲で、当社が本格出資を判断できる材料をそろえることが、初期調査の目的です」

「材料はそろっていないだろう」

「はい。だから、残りの調査を続ける必要があります」

「住民合意もない」

「全員一致を合意と定義するなら、今後も得られないと思います」

 事業審査室長が顔を上げた。

「全員一致でなくてもよいと?」

「反対意見を消して賛成だけを集めるつもりはありません。事業規模、村民利用、温泉の優先時間、雇用条件、中止手続きまで示したうえで、村議会と住民協議によって判断してもらいます」

「会社の条件は?」

 黒田が初めて質問した。

「出資額、回収期間、運営支援の範囲、撤退条件を明文化します」

「撤退条件まで、村に見せるのか」

「見せます。会社がいつまで何を負担するのか分からなければ、村も判断できません」

 オンライン画面の法務部社員が口を開いた。

「事業撤退時の施設所有と運営権は、早い段階で整理する必要があります。学校は村有のままとする前提ですか」

「はい」

「当社が改修費を出しても、所有権は取得しない?」

「村民の合意を得るには、その形が適切だと考えています」

「担保がない」

 財務企画部の担当者が言った。

「投資回収前に運営が止まった場合、当社の損失が大きい」

「そのため、国、県、村との費用分担が必要です」

「公的支援が得られる根拠は?」

「まだありません」

「県へ相談したのか」

「村役場が事前相談を始めています。私も、県の地域振興担当者と直接協議したいと考えています」

「考えている段階か」

「はい」

 美月は、膝の上で手を握った。

 未定。

 検討。

 可能性。

 清澄村で何度も口にした言葉を、東京でも繰り返している。

 以前の美月なら、確定していない話を提案の中心には置かなかった。複数の選択肢を作り、その中で最も実現性の高いものだけを示した。

 今は、決まっていないことを隠せば、誰かへ負担を押しつけることになると知っている。

「田中」

 黒田が呼んだ。

「はい」

「常駐延長は、なぜ三年なんだ」

「建物調査、住民協議、公的支援の申請、追加試行、運営人員の確保を同時に進めるためです。三か月や半年では、年度をまたぐ行政手続きに対応できません」

「三年半のプロジェクトのうち、最初の三か月を現地で過ごした。さらに三年常駐すれば、残りは三か月だ」

「最後の三か月は、開業後の検証と引き継ぎに充てます」

「開業できる前提だな」

「開業できなければ、中止判断と清算の期間にします」

 小田切が苦笑した。

「失敗した時の計画だけは、はっきりしている」

「失敗を隠す計画より必要です」

 黒田が手を上げ、二人のやり取りを止めた。

「分かった」

 会議室が静かになる。

「今日、この場で常駐延長や本格出資を決めることはできない」

 美月はうなずいた。

「はい」

「ただし、事業審査へ進める価値がないとも、まだ判断しない」

 黒田は報告書を閉じた。

「田中には、追加資料を一週間で出してもらう」

「内容は?」

「三点だ。一つ目は、三室、六室、十室の各案について、必要人員と村内への影響を含めた比較。二つ目は、当社が所有権を持たずに出資する場合の回収方法。三つ目は、国、県、村が負担できる範囲の確認」

「県との協議には、村役場の同行が必要です」

「オンラインでも構わない。まず担当部署へ連絡しろ」

「承知しました」

「常駐延長については、その資料を見てから判断する」

 小田切が口を挟む。

「黒田。需要調査が二組だけでは、話にならない」

「それも追加する」

 黒田は美月を見る。

「村外の家族を対象に、料金を示した需要調査を行え。行きたいかではなく、その金額を払うかを聞け」

「はい」

「三室にこだわる理由も、感情ではなく数字で示せ」

 美月は一瞬、返事を遅らせた。

「承知しました」

 午前十一時四十七分、報告会は終了した。

 本格出資は承認されなかった。

 常駐延長も、認められなかった。

 計画そのものも、否定されなかった。

 会議室のスクリーンには、三室、六室、十室の比較表が残っている。

 十室の案だけが、最も濃い黒字を示していた。

     *

 出席者が会議室を出たあと、黒田だけが席に残った。

 美月はパソコンを閉じ、資料をバッグへ戻した。

「田中」

「はい」

「少し座れ」

 美月は再び椅子へ座った。

 黒田は、手元の資料へ目を落とした。

「清澄村はどうだった」

「今、報告したとおりです」

「報告書ではなく、おまえ自身の話だ」

 美月は答えを探した。

「不便でした」

「それだけか」

「電波がつながらない場所が多く、移動には車が必要です。買い物にも時間がかかります。仕事の連絡や資料送信にも支障がありました」

「よく三か月もったな」

「無線通信はあります」

「そういうことを聞いてるんじゃない」

 黒田は椅子の背へもたれた。

「戻りたいのか」

「事業を継続するには、同じ担当者が現地にいた方が効率的です」

「効率の話でもない」

 美月は、颯太からも同じようなことを言われたのを思い出した。

「私は、もう三年必要だと思っています」

「事業に?」

「はい」

「自分に?」

 美月は黒田を見る。

 黒田の表情から、質問の意図は読み取れなかった。

「分かりません」

「おまえが分からないと言うとはな」

「清澄村で、何度も言いました」

「そうか」

 黒田は小さく息を吐いた。

「小田切本部長の言うことも間違っていない。三室では会社の投資案件として小さすぎる。大きな資金を入れるなら、回収できる規模にするのが普通だ」

「はい」

「村の側に立ちすぎれば、会社へ戻れなくなる」

「村の代弁者になったつもりはありません」

「なら、十室案を最初から否定するな」

「否定はしていません」

「顔に出ていた」

 美月は反論できなかった。

「三室が適切だと考えています」

「適切かどうかを決めるのは、今のおまえじゃない。数字と、村と、会社だ」

「忘れてはいません」

「三室を守るための資料を作るな。三室、六室、十室を本当に比較しろ。その結果、六室の方が村にも会社にもいいなら、受け入れろ」

「はい」

「十室でも同じだ」

 美月は、すぐには返事をしなかった。

「何だ」

「村が受け入れられるなら、検討します」

「それでいい」

 黒田は立ち上がった。

「もう一つ」

「はい」

「三年の延長を認めてもらいたいなら、おまえでなければならない理由を示せ」

「三か月間の信頼関係と、聞き取り内容の継続性があります」

「それだけなら、引き継ぎで対応できる」

 東雲の計画を岡部へ引き継いだように。

 美月は言葉を失った。

「明日から一週間、東京で資料を作れ。奈良へ戻るかどうかは、そのあとだ」

「承知しました」

「今日は早く帰れ」

「追加資料の期限が一週間です」

「一日は二十四時間ある」

「はい」

「そのうち何時間使うかは、自分で決めろ」

 黒田は会議室を出ていった。

     *

 昼休み、岡部が外出先から戻ってきた。

 美月の顔を見るなり、片手を上げる。

「おかえり」

「ただいま」

「報告会、どうだった」

「継続審査になった」

「通ったとも、落ちたとも言えないやつか」

「一週間で追加資料を出す」

「やっぱり、最初から答えは出なかったな」

「分かっていて言ったでしょう」

「まあな」

 岡部は美月の机に積んでいた資料を、自分の席へ移した。

「悪かった。ここ、使ってた」

「構わない。東雲は、もう岡部の担当だから」

「その言い方、少し怖いな」

「どうして?」

「返せと言われると思ってた」

「返してもらっても、今の私には担当できない」

 岡部は、美月の顔をしばらく見た。

「奈良へ戻るつもりなんだな」

「会社が認めれば」

「自分は?」

「戻りたいと思っている」

 口にしてから、美月は少し驚いた。

 黒田へは、はっきり答えられなかった。

 岡部は笑わなかった。

「じゃあ、戻れる資料を作らないとな」

「三室を守るための資料は作るなと言われた」

「黒田さんに?」

「そう」

「正しいと思う」

「岡部まで」

「田中が最初から三室と決めたら、村が決める余地がなくなるだろ」

「十室では負担が大きい」

「本当に?」

「試算では――」

「村に十室分の仕事が生まれるのを喜ぶ人もいるかもしれない。温泉を広げたい人もいるかもしれない。田中が心配してる人が、全員同じ意見とは限らない」

 美月は黙った。

 懇談会でも、住民の意見は一つではなかった。

 客を増やしすぎるなという人。

 改修するなら宿泊室を増やした方がよいという人。

 学校を宿にすること自体へ反対する人。

「比較します」

「そうした方がいい」

 奈緒が紙袋を持って二人のところへ来た。

「二人とも、お昼まだでしょう。下で買ってきた」

「頼んでないけど」

 岡部が言う。

「田中さん、朝から何も食べてないと思って」

「トマトを食べた」

「それは朝食って言わない」

 奈緒は、美月の前へサンドイッチとスープを置いた。

「食べながら話せばいいでしょう」

「代金は払う」

「三か月ぶりのお土産代わり」

「お土産を渡すのは、帰ってきた方では?」

「じゃあ、奈良のお土産は?」

 美月は仕事用のバッグを見る。

 中には議事録と付箋しかない。

「買っていない」

「でしょうね」

 奈緒は笑い、自分の席から椅子を持ってきた。

「村で何を食べてたの?」

「川魚、山菜、豆腐、野菜」

「健康的」

「食事の時間が決まっていた」

「旅館なら当然でしょう」

「仕事が終わっていなくても七時だった」

「それも当然」

 奈緒と岡部が、同じようにうなずく。

 美月はサンドイッチの包みを開けた。

「東京の方がおかしいのかもしれない」

 呟くと、二人が同時に美月を見た。

「田中が、それを言う?」

 岡部が尋ねる。

「何が?」

「東京の働き方がおかしいって」

「働き方とは言っていない。食事の時間の話」

「似たようなもんだろ」

 美月は反論しようとして、やめた。

 スープはまだ温かかった。

     *

 午後、美月は三つの収支表を一から作り直した。

 三室案。

 六室案。

 十室案。

 部屋数を増やすほど、客室一室当たりの固定費は下がる。受付、予約管理、夜間対応は、三室でも十室でも必要になる。

 十室なら、管理者一人の人件費を多くの宿泊者で分担できる。清掃担当者を増やしても、一定の稼働率があれば利益は残る。

 数字だけを見れば、十室が合理的だった。

 美月は、宿泊者数に応じて変わる負担を入力する。

 食事。

 温泉。

 清掃。

 送迎。

 体験。

 ごみ処理。

 水道使用量。

 寝具。

 問い合わせ対応。

 駐車場。

 三室では、村内の人員で対応できる可能性がある。

 六室では、少なくとも二人の追加雇用が必要になる。

 十室では、常勤の運営責任者、複数の清掃担当者、夜間勤務者、食事提供体制が必要だった。

 それは負担であると同時に、雇用でもある。

 雇用がないことを問題として挙げながら、人が足りないから事業を小さくするのは矛盾しているようにも見える。

 しかし、働く人が実際にいるかを確認せず、雇用人数だけを成果へ入れることもできない。

 午後四時過ぎ、森下からメッセージが届いた。

『無事に着きましたか。村長から、会社の報告結果が分かり次第連絡してほしいと言われています』

 美月は返信した。

『到着しました。継続審査となり、常駐延長はまだ決まっていません。一週間以内に追加資料を提出します』

 少しして、森下から返事が来る。

『分かりました。必要な資料があれば連絡してください』

 続けて、写真が一枚届いた。

 旧清澄小学校の平面図だった。

 昨日の懇談会で使ったものとは別の写しに、新しい黄色の付箋が貼られている。

『わらを置く棚』

 フミの字だった。

 美月は写真を拡大した。

 付箋の隣に、森下の字で小さく『まだ未定』と書かれている。

 美月は保存ボタンを押した。

 次に、奈良県庁の担当部署へ電話をかけた。

 代表番号から地域振興部門へつないでもらい、清澄村との共同事業について説明する。

『村役場から事前相談は受けています。ただ、現段階では具体的な施設計画がありませんので』

「旧小学校の複合利用と温泉改修を検討しています。観光だけでなく、防災、木造公共施設の再生、高齢者の技術継承を含みます」

『複数の担当課にまたがる内容ですね』

「一度、関係部署を含めて相談することは可能でしょうか」

『資料を確認してからになります。村を通して送ってください』

「分かりました。村役場と調整します」

『補助制度の対象になるかは、現時点ではお答えできません』

「承知しています」

 電話を切る。

 また、未定の項目が一つ増えた。

 美月は手帳へ書く。

『県庁協議――村役場経由で資料提出。関係部署の整理が必要』

 その下に、黒田から求められた項目を書く。

『会社が所有権を持たずに出資する場合の回収方法』

 簡単な答えはなかった。

 施設を所有しないなら、土地や建物の価値上昇による利益は得られない。宿泊事業の売上も小さい。

 計画設計、改修管理、予約システム、運営支援。それぞれに適正な報酬を設定しても、大規模開発の利益には遠く及ばない。

 それでも、全国には清澄村と同じ課題を抱える自治体がある。

 人口が減り、学校が閉じ、公共施設だけが残る。大規模なホテルを建てられる場所ばかりではない。

 一つの村から得た方法を、そのまま別の村へ持ち込むことはできない。

 しかし、住民との合意形成、公共部分と事業部分の分離、小規模な宿泊運営、既存事業者との連携には、他の地域でも使える知識があるかもしれない。

 美月は、新しいページへ入力した。

『当社が得るもの――地域小規模事業の設計および運営支援モデル』

 その言葉を見つめる。

 モデル。

 清澄村を、また外部の会社が作る型へ押し込めることにならないか。

 美月は「モデル」の文字を削除した。

 代わりに打ち直す。

『当社が得るもの――地域ごとの条件に応じて事業規模を決定するための調整能力』

 まだ抽象的だった。

 小田切は納得しないだろう。

     *

 午後九時を過ぎても、開発事業本部の照明は半分以上ついていた。

 岡部は東雲の打ち合わせへ戻り、奈緒も別の資料を作っている。美月の周囲では、キーボードを打つ音と電話の声が続いていた。

 三か月前までの日常だった。

 美月は十室案の収支を見直す。

 宿泊者一人当たりの単価を少し下げても、稼働率が四十五パーセントを超えれば利益が出る。三室案より、会社が出資する理由を説明しやすい。

 数字の色を確認する。

 三室案は、初年度赤字。

 六室案は、ほぼ収支均衡。

 十室案は、黒字。

 美月は、十室案へ追加条件を入力する。

『常勤雇用四人』

『清掃担当三人』

『食事提供二十人分』

『温泉利用時間の調整』

『駐車場十五台』

『年間宿泊者千二百人以上』

 常勤雇用四人。

 清澄村にとっては、小さくない数字だった。

 村を出た若い人が戻る理由になるかもしれない。外から移住する人を受け入れられるかもしれない。

 同時に、年間千二百人が、あの短い商店街と小さな温泉を通る。

 一日当たりに直せば、多くない。

 しかし、特定の季節や週末へ集中すれば、村の景色は変わる。

「まだ帰らないの?」

 奈緒が声をかけてきた。

「十時には帰る」

「明日もあるんでしょう」

「一週間しかない」

「一週間もある、と黒田部長なら言いそう」

 美月は画面の時計を見た。

 午後九時十八分。

「あと三十分だけ」

「食事は?」

「帰ってから」

「茄子を焼くの?」

 朝の話を覚えていたらしい。

「どうして知ってるの」

「トマトと茄子しかないって言ってたでしょう」

「言っていない」

「トマトを食べたとは言った」

「茄子は見ていないはず」

 奈緒が笑う。

「田中さんのバッグから、少し見えてた」

「冷蔵庫へ入れた」

「じゃあ、帰って焼いて食べて。村の人に怒られるよ」

「怒られない」

「顔が浮かんだでしょう」

 美月は返事をしなかった。

 フミなら、夜中でも茄子は焼けると言うだろう。

「帰る」

 美月は資料を保存した。

 奈緒が目を見開く。

「本当に?」

「三十分早いだけでしょう」

「三か月って、すごいね」

「何が?」

「あと三十分と言った田中さんが、三分で帰る」

「必要な計算は終わったから」

 美月はノートパソコンを閉じた。

     *

 自宅へ戻ったのは、午後十時十二分だった。

 スーツのジャケットを脱ぎ、茄子を一本取り出す。

 縦に切り、フライパンへ油を引いた。調味料は三か月前のまま残っている。賞味期限を確認し、醤油を少しだけかけた。

 焼き上がった茄子を皿へ載せる。

 一口食べる。

 特別な味はしなかった。

 それでも、傷ませずに食べられたことへ、少しだけ安心した。

 食事を終え、食卓にノートパソコンを開く。

 隣には「みんなのいえ」と木箱がある。

 仕事用のスマートフォンを木箱へ入れようとして、手を止めた。

 森下や役場から連絡が来る可能性がある。

 東京へ戻った以上、社内の連絡も増える。

 端末を入れず、木箱の隣へ置いた。

 三室、六室、十室の収支表を開く。

 黒田から言われたとおり、三室を守るためではなく、それぞれを同じ条件で比較する。

 人件費。

 改修費。

 売上。

 村内発注。

 温泉利用。

 住民の負担。

 雇用。

 撤退時の損失。

 項目を増やすほど、どの案にも利点と欠点が現れる。

 三室なら村への影響は小さい。しかし、一人当たりの費用が高く、会社の利益はほとんど残らない。

 十室なら利益と雇用が生まれる。しかし、食事、温泉、交通、清掃を別の形へ変えなければならない。

 六室は、その中間だった。だが、中間だから正しいとは限らない。

 計算式を確認する。

 三室の欄は赤い。

 六室の欄は、わずかに赤い。

 十室の欄だけが黒い。

 美月は、十室の数字へカーソルを合わせた。

 削除キーには触れなかった。

 赤い数字を理由に、人の時間を安くすることはできない。

 黒い数字を理由に、村の暮らしを変えてよいとも言い切れない。

 それでも、会社へ出資を求めるなら、黒い数字から目をそらすことはできなかった。

 美月は十室案のファイルを閉じず、そのまま次の計算を始めた。


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