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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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13/31

第十三章 会社が求める形

三室案の収支表と十室案の収支表を並べたまま、美月は朝を迎えた。

 窓の外が白み始めた頃、ノートパソコンの画面には三つの事業案が表示されていた。

 三室案。

 六室案。

 十室案。

 宿泊料金、年間営業日数、想定稼働率、食事の原価、人件費、清掃費、送迎費、予約管理費、広告費、施設修繕積立金。条件を一つ変えるたび、数字は簡単に赤と黒の間を行き来した。

 三室案は、単独の宿泊事業として見れば赤字だった。

 六室案は、稼働率が五割を超えれば収支が均衡する。しかし、平日の利用者を確保できなければ、わずかな赤字が積み重なる。

 十室案は、三つの中で最も利益が出た。

 正社員三人、短時間勤務者六人。調理と清掃の一部を外部委託し、駅からの送迎を予約制にする。温泉利用と食事を組み合わせ、一人当たりの単価を上げれば、投資回収の見通しも立つ。

 美月は十室案の年間営業利益を見つめた。

 数字は間違っていない。

 観光施設として考えるなら、十室の方が合理的だった。広告費も予約管理費も、三室だから三分の一になるわけではない。支配人や調理責任者を置くなら、一定数の客室がなければ人件費を吸収できない。

 会社が十室を選ぶ理由は分かる。

 自分が会社にいた頃なら、迷わず同じ判断をしたかもしれない。

 美月は椅子の背へ体を預け、目を閉じた。

 十室の客室が埋まった旧清澄小学校を想像する。

 校庭には送迎車が並び、玄関には宿泊客の荷物が積まれている。食堂には都会から来た家族が集まり、廊下には子どもの声が響く。働く人が増え、村を出た若者が戻ってくるかもしれない。

 それは、決して悪い光景ではなかった。

 だが、一日に二十人、三十人という客が訪れれば、温泉の使い方は変わる。食事を用意する人の負担も増える。体験を担当する住民には、安定した回数と質が求められる。

 予約が入れば、体調が悪くても断れない。

 山へ行きたくない日にも、案内しなければならない。

 これまで生活の一部だったものが、客に提供する商品へ変わる。

 美月は画面を切り替えた。

 三室案の収支表には、赤い数字が残っている。

 三室で始めることが正しいと証明したいわけではない。

 小さいから安全だとも限らない。利益が出なければ、結局は誰かの善意や無償労働に頼ることになる。村を守るために規模を小さくして、その結果、村の人間へ負担を押しつけるのなら意味がない。

 午前六時十四分。

 美月は新しい文書を開いた。

 表紙に題名を入力する。

『奈良県清澄村地域活性化共同プロジェクト 現地滞在期間延長に関する意見書』

 次の行に、自分の所属と名前を入れた。

 意見書という言葉には、報告書よりも強い響きがあった。

 事実をまとめるだけではない。

 自分が何をすべきだと考えているのかを、会社へ示す文書だった。

     *

 午前九時、美月は小会議室で岡部と奈緒に資料を見せた。

 机の上には、前日の会議で求められた追加資料と、書き始めたばかりの意見書が並んでいる。

 岡部は三つの収支表を順番に確認し、十室案のページで指を止めた。

「利益だけなら、やっぱりこれだな」

「ええ」

「三室案を残す理由は?」

「最初から十室を稼働させる人員がいないからです」

「募集すればいい」

「宿泊施設の経験者を十人集めるという意味ではありません。村の資源を知っていて、住民との間を調整できる人が必要です。外から雇う人だけで運営すれば、学校を使った普通の宿泊施設になります」

「普通の宿泊施設でも、客が来て利益が出れば事業にはなる」

「なります」

 美月が答えると、岡部は顔を上げた。

「否定しないんだな」

「十室案にも成立する可能性があります。だから、比較案から外しません」

 奈緒が意見書を手に取った。

「滞在を三年延ばしたいって、本当に出すの?」

「そのために書いているの」

「東京から必要な時だけ通う形じゃ駄目?」

「村の会議は予定どおりに始まりません。予定どおりに終わることも少ないです。決定事項より、会議が終わったあとの会話で本音が出ることもあります」

「それ、効率が悪すぎない?」

「悪いと思う」

 美月は自分の言葉に、少し笑った。

「でも、効率を上げるために切り捨てたものが、あとから反対意見として戻ってくる。清澄村では、その方が時間がかかる」

 岡部が意見書のページをめくった。

「三年間、何をするつもりだ?」

「最初の四か月で、学校と温泉の調査、住民協議、県と国の補助制度の整理。次の四か月で、事業計画と運営体制を決める。その後、改修が始まれば工事と住民生活の調整をする。最後の四か月で、運営準備と追加の体験受け入れを行う」

「工事の決定まで行く前提か」

「決定させる前提ではありません。実施できる条件をそろえます。条件がそろわなければ、中止の判断も含めて会社へ提案します」

 奈緒が意見書の一文を指さした。

「ここ、強いね」

 美月は文字を追った。

『現地担当者の役割は、計画への賛成を獲得することではなく、住民、行政、企業のいずれか一者へ負担が偏らない実施条件を形成することにある』

「強すぎるでしょうか」

「ううん。田中さんらしい。でも、前より少し違う」

「何が?」

「前なら、実施条件を形成する、で終わってたと思う。今は、中止の判断も仕事だって書いてある」

 美月は意見書へ視線を戻した。

 東雲倉庫街の再開発を担当していた頃、計画を止める可能性を自分の仕事として考えたことはなかった。

 任された事業は進めるものだった。

 遅れが出れば原因を取り除き、反対者がいれば合意できる条件を探す。中止は失敗であり、担当者の力不足だと思っていた。

 清澄村では、進めることだけが責任ではない。

 村の暮らしを壊すと分かった時に止めることも、計画に関わった者の責任だった。

「田中」

 岡部が三室案の収支表を指でたたいた。

「この赤字、どうする」

「宿泊事業だけで回収しません」

「会社が一番嫌う答えだ」

「分かっています」

 美月は別の資料を開いた。

「学校全体を一つの事業として扱うから、収益と負担の関係が見えにくくなります。宿泊区画、住民利用区画、防災機能、体験事業を分けます」

 画面に、旧清澄小学校の平面図を表示する。

「宿泊区画は会社と運営法人が収益責任を持つ。図書室や集会室、体育館の住民利用部分は公共機能として村が維持する。防災設備は国と県の補助対象を検討する。わら細工や木工教室は参加料を取り、講師へ報酬を支払う。温泉は地元利用と来訪者利用の時間を分けます」

「財布を分けるわけか」

「はい。どこが利益を生み、どこが地域サービスなのかを明確にします」

「それでも三室は赤字だろう」

「体験プログラムと企業研修を組み合わせます。宿泊単価だけでなく、一組当たりの滞在収入で見ます。ただし、体験の回数には上限を設けます」

「上限?」

「住民が教えられる回数です。予約が増えても、講師を増やせなければ受けません」

 岡部は腕を組んだ。

「売れるのに売らないのか」

「売った結果、翌年に誰も教えられなくなれば、事業そのものがなくなります」

 会議室の外を、人が早足で通り過ぎた。

 東京の本社では、朝から絶えず電話が鳴り、コピー機が動き、社員が会議室を出入りしている。

 美月は三か月前まで、この速さの中で働いていた。

 村では、一人の都合が変わるだけで会議の日程が一週間ずれる。台風が来れば、聞き取りも体験受け入れもすべて止まる。

 どちらが正しいのではない。

 時間の流れ方が違うのだ。

「段階的に増やす案は?」

 奈緒が尋ねた。

「最初は三室。稼働率、人件費、住民の負担、温泉の利用状況を一年間確認して、増室を判断する。六室へ増やせるように、配管と避難経路は最初の改修で整えておく」

「十室にはしない?」

「十室にしないと今決める必要もありません。ただし、十室へ増やす時には、もう一度住民の合意を取るべきです」

 岡部が息を吐いた。

「会社にとっては、面倒な計画だな」

「簡単な事業なら、これまでに誰かが成功させています」

 美月はそう答えた。

     *

 意見書は、その日の夜までに二十七ページになった。

 美月は三室案を推奨案としながら、六室案と十室案を隠さなかった。

 三室案には、初年度から利益が出ない可能性を明記した。

 十室案には、利益と雇用の増加だけでなく、必要な従業員数、温泉利用者の増加、食材調達量、送迎車両の往復回数、住民が体験を担当する回数を書き加えた。

 客室数が増えれば、売上だけが増えるのではない。

 村の中を動く人と車と金が増える。

 騒音も、ごみも、事故の可能性も増える。

 その一方で、働ける人も増える。

 村を出た元住民が戻る理由になるかもしれない。

 美月は十室案の「新規雇用十名」という記載を見つめた。

 三室案で必要になる新規雇用は、常勤換算で三・五人だった。短時間勤務を組み合わせれば、実際に関わる人数は六人から八人になる。

 十室なら、その倍以上の人間に仕事を用意できる。

 規模を抑えることは、働く機会を抑えることでもある。

 美月はその事実も意見書に書いた。

『小規模であること自体を善としない。大規模であること自体を悪としない。清澄村で継続可能な規模は、収益性だけでなく、担い手、住民生活、自然環境、公共機能への影響を含めて判断する必要がある』

 最後に、滞在延長を必要とする理由をまとめた。

 三か月の調査によって得られたものは、完成した答えではない。

 住民が意見を出し始めるまでに三か月かかったのだ。

 学校を残したいと言う者。

 壊して送迎サービスへ予算を回してほしいと言う者。

 客を呼びたい商店。

 静かな暮らしを守りたい高齢者。

 村へ戻りたいが、仕事がなければ戻れない元住民。

 誰か一人の希望を村全体の希望に置き換えることはできない。

 その意見の違いを消さず、事業として成立する場所を探すには、さらに時間が必要だった。

 美月は意見書の結論を入力した。

『以上の理由から、現地滞在期間を三年延長し、本プロジェクトの計画策定、行政協議、住民合意形成、実施準備までを一貫して担当することを希望する』

 希望する、と入力したあとで手が止まった。

 三か月前の辞令には、美月の希望など書かれていなかった。

 今度は、自分から戻ろうとしている。

 山路館の部屋が浮かんだ。

 窓の外を流れる川。朝になると廊下へ広がる味噌汁の匂い。電波が途切れる道。役場の点滅する蛍光灯。止まった学校の時計。

 そして、杉の木で作られた小さな箱。

 美月は机の端に置いた箱を見た。

 スマートフォンは中に入れていなかった。

 東京へ戻ってから、仕事中に使う必要があった。通知を切ることもなく、会議の合間にも画面を確認している。

 それでも、木の箱は持ってきていた。

 美月は意見書を保存し、黒田へ送信した。

 送信時刻は、午後十一時四十八分だった。

     *

 二日後、役員会議室で意見書の説明をすることになった。

 会議室は本社の二十一階にあった。

 窓の外には、東京の建物が地平まで続いている。清澄村の役場から見える景色とは違い、どこまで見ても人が作ったものが途切れなかった。

 出席者は九人だった。

 黒田、小田切、財務部長、法務部長、事業開発本部長。それに、普段は社内報でしか顔を見ない常務取締役と、経営企画室の社員が三人。

 美月の席には、青いファイルが置かれていた。

 表紙には、三か月前と同じ文字が印刷されている。

『奈良県清澄村地域活性化共同プロジェクト』

 ただし、今回は赤い社内資料の印の横に、「事業化検討会議」と付け加えられていた。

 黒田が時計を確認した。

「田中さん、始めてください」

「はい」

 美月は立ち上がり、スクリーンの前へ移動した。

「清澄村での三か月間の現地調査結果と、今後三年の滞在延長についてご説明します」

 最初に、二回の体験受け入れについて報告した。

 参加者の反応だけではなく、費用、労働時間、予定外に発生した作業、住民側の負担を説明する。

 次に、三室、六室、十室の比較を示した。

 常務が十室案の収支を見て尋ねた。

「三室から始める理由は、住民の反対ですか」

「それだけではありません。現在の清澄村には、十室を継続運営できる人員がいません」

「外部から支配人と従業員を入れればよいのでは?」

「宿泊業務だけなら可能です。ただ、本事業の価値は、宿泊施設そのものではなく、村の暮らしと接する体験にあります。外部人材だけで運営する場合、その調整を担う者が別に必要です」

「それが、あなたですか」

「立ち上げ段階では、私が担います。ただし、私がいなければ続かない仕組みにはしません」

「三年で引き継げると?」

「引き継げる状態を作るのが、延長期間の成果の一つです」

 経営企画室の社員が質問した。

「三室案は、三年目でも宿泊部門単体では黒字化しない予測ですね」

「はい」

「では、会社が投資する理由は何ですか」

 美月は一度、呼吸を整えた。

 この質問への答えは、何度も書き直した。

「宿泊収入だけを目的にするなら、当社が清澄村で事業を行う理由は弱いと思います」

 会議室の空気がわずかに動いた。

「しかし、旧清澄小学校、温泉、森林、住民による体験を組み合わせ、地域全体の滞在価値を作ることで、宿泊以外の収益を得られます。企業研修、親子向け体験、木工商品の販売、地域資源を活用した企画事業です」

「それでも、大きな利益ではない」

 財務部長が言った。

「はい。大きな利益にはなりません」

 美月は否定しなかった。

「少なくとも、短期間で投資を回収する事業ではありません。ただし、人口減少地域で、住民の生活を維持しながら小さな雇用と収益を作る仕組みを確立できれば、清澄村だけに限らない事業になります」

 小田切が資料をめくる。

「横展開できるということか」

「同じ施設を別の村へ作るという意味ではありません」

 美月は目を上げた。

「清澄村で使った建物や体験を、そのまま別の地域へ持っていくことはできません。ただ、住民合意の進め方、公共部分と収益部分の分け方、補助金と民間資金の組み合わせ、地域人材への報酬設計は、ほかの地域でも活用できます」

「再現性をどこに置くか、という話だな」

「はい。完成した施設ではなく、事業を作る過程に再現性を持たせます」

 常務が椅子へ深く座り直した。

「田中さん。これは社会貢献事業ですか。それとも収益事業ですか」

 美月はスクリーンに映る旧清澄小学校の写真を見た。

「両方です」

「便利な答えに聞こえます」

「どちらか一方だけでは続かないからです」

 美月は常務へ視線を戻した。

「社会貢献だけなら、予算がなくなった時に終わります。利益だけを求めれば、村の規模に合わない開発になります。小さくても収益を生み、その収益が村の人の仕事と施設の維持に戻る形を作る必要があります」

「利益率が社内基準を下回っても?」

「下回る部分を、何によって補うのかを明確にします。会社が負担するのか、公共事業として行政が負担するのか、利用者が払うのか。曖昧にしたまま住民の無償労働で埋めることはしません」

 法務部長が口を開いた。

「行政との責任分担が複雑になります。事故が起きた場合、学校の所有者、運営法人、体験講師の誰が責任を負うのか。契約も一つでは済みません」

「承知しています。県との協議には、法務部からも参加をお願いしたいと考えています」

「もう参加させるつもりでいるんですか」

「必要になります」

 数人が小さく笑った。

 美月は笑わなかった。

 冗談として言ったつもりはなかった。

「温泉の改修はどうする」

 事業開発本部長が尋ねた。

「源泉設備と露天風呂の景観は残します。優先するのは、老朽化した配管、脱衣所、床の滑り止め、手すり、換気設備です。来訪者向けに大きく作り替えるのではなく、地域の高齢者が安全に使い続けられる改修を前提にします」

「貸切風呂を作れば客単価が上がる」

「その可能性はあります。ただし、現在の湯量、清掃人員、地元利用時間を考えると、最初から設置する案には賛成できません」

「サウナは?」

「水風呂を含め、維持管理と水量の調査が先です。流行しているという理由だけでは入れません」

「客が求めるものを作らず、集客できるのか」

「清澄村にないものを付け足し続ければ、ほかの観光地と同じ比較の中に入ります」

「比較されるのは当然でしょう」

「はい。だからこそ、設備の数ではなく、清澄村に滞在する理由を作ります」

 美月は次の写真を映した。

 川音の湯の小さな露天風呂。

 湯気の向こうに川と山が見える。

「この温泉は、一度に三人ほどしか入れません。大きな浴場でもありません。けれど、朝に川霧が出る日があります。雨のあとには、川の音が変わります。毎日同じ景色にはなりません」

「それを商品にする?」

「景色を所有するのではありません。その時間に居合わせるための滞在を提供します」

 言葉にしたあと、美月は澄江の顔を思い出した。

 村へ来た最初の日、雨上がりの霧を見なかった美月に、澄江は「明日も見られるかもしれません」と言った。

 必ず見られるとは言わなかった。

 見られなければ価値がないとも言わなかった。

 会社の広告では、不確かなものを売りにくい。

 だが、清澄村の魅力は、その不確かさの中にあった。

 常務が手元の資料を閉じた。

「滞在延長について聞きます。あなたが三年間、現地へ戻る必要性は理解しました。ただし、会社員として派遣される以上、村のためだけに働くわけではありません」

「承知しています」

「三年後、会社に何を残しますか」

 美月は意見書の最終ページを開いた。

「五つあります」

 スクリーンへ項目を映す。

「一つ目は、行政、企業、住民の費用分担モデル。二つ目は、住民合意の記録と意思決定の手順。三つ目は、小規模宿泊事業の収益と負担の実績。四つ目は、地域人材の採用、育成、報酬制度。五つ目は、ほかの地域で事業性を判断するための評価基準です」

「評価基準とは?」

「人口や観光客数だけで判断しません。地域内に調整を担える人がいるか。無償労働へ依存していないか。公共部分と収益部分を分けられるか。撤退する場合に施設と雇用をどう扱うか。事業を始める条件だけでなく、始めない条件も整理します」

 黒田が初めて口を挟んだ。

「田中さん自身の成果は、何で評価する」

「施設を作ったかどうかだけでは評価できません」

「では?」

「住民と行政と会社が、それぞれの責任を理解したうえで、実施するか中止するかを判断できる状態を作れたかです。実施する場合は、私が離れたあとも運営できる仕組みを残せたか。そこまでを成果にしていただきたいです」

「売上目標は置かないのか」

「置きます。宿泊、体験、研修、物販ごとに設定します。ただ、売上だけを達成して住民の負担が増えた場合は、成功とは評価しません」

 黒田は表情を変えなかった。

「承知しました」

 その一言のあと、会議室に沈黙が落ちた。

 美月は席へ戻った。

 質疑は一時間以上続いた。

 補助金が不採択になった場合。

 改修費が想定を超えた場合。

 住民の合意が得られない場合。

 運営責任者が見つからない場合。

 体験中に事故が起きた場合。

 村長が交代した場合。

 会社の業績が悪化した場合。

 美月は、答えられるものには答えた。答えられないものは、分からないと認めた。

 分からないという言葉を口にするたび、以前なら感じたはずの敗北感はなかった。

 分からないものを分かったことにして進める方が、よほど危険だった。

 すべての質問が終わると、常務が言った。

「田中さんは、一度退席してください」

「はい」

 美月は資料をそろえ、立ち上がった。

 青いファイルだけは、机の上に残すよう言われた。

 扉を閉める直前、表紙の文字が見えた。

『奈良県清澄村地域活性化共同プロジェクト』

 三か月前には、目的の分からなかった名前だった。

     *

 廊下の椅子で待っている間、美月はスマートフォンを確認した。

 森下からメッセージが届いていた。

『今日が発表の日ですよね。村長も藤井課長も気にしています。終わったら、結果だけ教えてください』

 続けて、学校の写真が送られてきた。

 校庭の草が刈られている。

 写真の端には、大西源造が草刈り機を持って立っていた。隣には颯太がいる。

『頼んだんですか』

 美月が返すと、すぐに返信が来た。

『頼んでいません。大西さんが、伸びすぎたままでは建物の調査ができんと言い出しました。颯太さんは、刃が石に当たるから一人でやるなと怒りながら手伝っています』

 美月は写真を拡大した。

 源造はカメラを見ていない。

 颯太も顔を背けている。

 二人とも、学校の改修に賛成したわけではない。会社の計画を信じたわけでもない。

 それでも、調査ができるように草を刈っている。

 会議室の扉の向こうから、低い話し声が聞こえた。

 美月はスマートフォンを閉じた。

     *

 会議室では、経営企画室が用意した別の資料が配られていた。

 美月には見せられていない資料だった。

 表題は『地方公共団体との共同事業に関する中長期戦略』となっている。

 常務が最初のページをめくった。

「清澄村単体では、大きな収益は期待できない」

 財務部長がうなずく。

「全面改修まで行えば、補助金を最大限活用しても当社負担は残ります。投資回収だけを基準にすれば、優先順位は低いです」

「一方で、国は過疎地域の公共施設再編と民間連携を進めている」

 経営企画室長が説明を続けた。

「廃校活用、高齢者の地域参加、移住雇用、森林資源、防災拠点。清澄村には複数の政策分野が重なっています。県との共同実績を作ることができれば、今後の自治体案件で有利になります」

 別のページには、全国の廃校数と、活用されていない公共施設の推計が記載されていた。

「中央省庁との協議でも、実績の有無は大きいです」

 経営企画室長は言った。

「都市部の再開発実績だけでは、地方自治体からは大規模開発会社と見られます。住民合意を含む小規模地域事業を一件でも形にできれば、提案できる範囲が広がります」

「清澄村を実績作りに使うのか」

 黒田の声は低かった。

「そう受け取られない進め方が必要です」

「受け取られない、ではない。本当に使わない進め方だ」

 黒田は机の上の意見書へ手を置いた。

「会社の将来に役立つのは当然だ。利益も信用も得られない仕事を、企業が続けることはできない。ただし、実績を作るために村へ不要なものを作れば、以前のリゾート計画と同じになる」

 常務が黒田を見る。

「だから、田中を戻す?」

「田中は、会社の論理と村の論理の両方に反発できます」

「扱いにくい人材だな」

「今の案件には必要です」

 小田切が十室案のページを開いた。

「私は六室から始めてもいいと思います。三室では事業規模が小さすぎる」

「田中が三室を選んだ理由は、感情だけではありません」

 黒田が言った。

「現地の人員が足りない。運営者も決まっていない。十室分の需要調査も不十分です。三室で検証し、増室条件を数値化する方が、別地域へ展開する際の資料としては価値がある」

「成功が小さすぎて、社外へ説明できない可能性もある」

「過疎地域で、三人でも五人でも継続雇用を作ることは小さくありません」

 黒田は言った。

「都市の再開発とは、数字の意味が違います」

 常務はしばらく意見書を読んでいた。

「社会貢献だけで終わらせるつもりはない」

「はい」

「清澄村で得たものを、次の仕事へつなげる。行政との契約、補助金の組み立て、住民合意、運営人材の確保まで、会社の知見として残す」

「その条件なら、進める価値はあります」

「田中本人には、どこまで話す」

 経営企画室長が尋ねた。

 黒田はすぐには答えなかった。

「会社として成果を次へつなげることは伝えます。国や県との今後の案件を見込んでいることは、今は伝えなくていい」

「なぜです?」

「知れば、田中は村が利用されると考える。それを否定するために、余計な力を使う」

「いずれ分かりますよ」

「その時までに、利用ではなく共同事業だと示せる実績を作るしかない」

 常務が資料を閉じた。

「決めよう」

     *

 美月が会議室へ呼び戻されたのは、退席してから四十二分後だった。

 自分の席へ戻ると、青いファイルの向きが変わっていた。

 常務が正面から美月を見た。

「田中さん。会社として、本件を正式事業に移行します」

 美月は一瞬、言葉の意味をつかめなかった。

「正式事業、ですか」

「これまでの清澄村案件は、事業性を確認するための調査案件でした。本日付で、『奈良県清澄村地域活性化共同プロジェクト』を、地域共創事業として正式に進めます」

 常務は一枚の決裁書を美月の前へ置いた。

「ただし、学校および温泉への本格出資を、現時点で決定するものではありません。構造調査、行政協議、住民合意、運営計画を確認したうえで、段階ごとに判断します」

「はい」

「調査段階の三千万円については、残額の執行を認めます。学校の精密調査と、温泉設備の調査を優先してください。追加費用が必要な場合は、根拠を付けて再申請すること」

「はい」

「現地滞在の三年延長も承認します」

 美月の指が、膝の上でわずかに動いた。

「本当ですか」

 問い返してから、言葉が軽すぎたと思った。

「失礼しました。ありがとうございます」

「礼を言う段階ではありません」

 常務の表情は厳しかった。

「この事業は簡単ではない。人口が減り、高齢化が進み、交通も不便な村です。宿泊施設を作れば客が来るという保証はありません。改修費が膨らむ可能性も高い。住民の意見も一致していない」

「承知しています」

「会社として、社会貢献の一面があることも認めます」

 美月は顔を上げた。

 常務の口から、その言葉が出るとは思っていなかった。

「ただし、社会貢献という言葉を、赤字や判断の遅れを正当化するために使わないでください。会社の資金を使う以上、収益を生む責任があります」

「はい」

「同時に、短期利益だけで評価しません。清澄村で何を作ったかだけではなく、どう作ったかを残してもらいます」

 常務は決裁書の二枚目を指した。

「あなたを、現地事業責任者に任命します」

「責任者……」

「役場、県、国の関係機関との協議窓口を務めること。住民との協議記録を残すこと。補助金と民間出資の分担案を作ること。運営人材を育成すること。そして、この事業で得た成果を、当社の今後の地域事業へつなげられる形にすること」

「具体的には、報告書でしょうか」

「報告書だけでは足りません」

 黒田が答えた。

「契約書のひな型、合意形成の手順、事業評価の指標、リスク管理、撤退条件。次に別の社員が別の地域へ行った時、ゼロから始めなくて済むものを残せ」

「清澄村と同じ方法を使うということですか」

「同じ方法が使えないことも含めて残すんだ」

 黒田の声は静かだった。

「何を共通化できて、何を地域ごとに変えなければならないのか。それを判断できる材料を作れ」

 美月は決裁書を読み進めた。

 現地滞在期間は三年。

 その後の三か月は、東京本社と清澄村を往復し、事業評価と引き継ぎを行う。

 最初に示された三年半の共同プロジェクト期間と一致している。

「三室案が承認されたという理解でよろしいでしょうか」

 美月が尋ねると、小田切が首を横に振った。

「違います」

 予想していた答えだった。

「三室案を第一案として行政と住民へ提示することは認めます。ただし、六室案と十室案も示してください」

「住民を不安にさせる可能性があります」

「会社に都合の悪い案を隠すなと、あなた自身が意見書に書いている」

 小田切は十室案のページを開いた。

「十室なら雇用が増え、収益も出る。村にとって利点がない案ではありません。住民が小規模案を選ぶとしても、何を手放すのか理解したうえで選ぶべきです」

 美月は反論できなかった。

 十室案を隠して三室案だけを示せば、結論を先に決めて住民を誘導することになる。

 過去のリゾート会社が、大規模計画だけを持ち込んだことと、向きが違うだけで構造は同じだった。

「分かりました。三案すべて提示します」

「もう一つ」

 常務が言った。

「村の要望をすべて会社へ持ち帰るだけの責任者にはならないでください」

「はい」

「会社の要望を村へ押しつけるだけでも困ります。双方から嫌われる場面があると思います」

「覚悟しています」

「今は、そう言えるでしょう」

 常務は決裁書から手を離した。

「現地へ戻れば、会社が冷たいと感じる日もある。東京へ来れば、村が非合理的に見える日もある。その間で判断するのが、あなたの仕事です」

 美月は決裁書の最後にある自分の名前を見た。

 現地事業責任者、田中美月。

 辞令を受けた時とは違う重さがあった。

 三か月前、美月は命じられて清澄村へ行った。

 今度は自分の意見書によって戻る。

 しかし、戻れることが自由を意味するわけではない。会社の責任を背負い、村へ行くのだ。

「承ります」

 美月は答えた。

     *

 会議が終わると、黒田が美月を呼び止めた。

「田中」

「はい」

「出発はいつにする」

「役場と調整します。できれば来週中に戻りたいです」

「住居は?」

「山路館に相談します」

「三年間、旅館暮らしを続けるつもりか」

「最初はその方が動きやすいと思います。その後、空き家も検討します」

「会社の規定を確認しろ。長期滞在なら賃貸契約の方が安い可能性がある」

「理解しました」

 黒田は自分の資料を閉じた。

「正式事業になったから、前より楽になるとは思うなよ」

「思っていません」

「社内からも人を付ける。財務、法務、施設、広報。それぞれ違う意見を言う」

「必要です」

「村の人間も、会社が正式に進めると知れば反応が変わる。期待する者もいれば、警戒する者もいる」

「はい」

「お前自身への見方も変わる」

 美月は黙って聞いた。

「これまでは、三か月で帰る調査員だった。今度は、会社の金を持って戻る責任者になる」

 会社の金を持って戻る。

 その言葉が胸に残った。

 美月個人が信頼されたことと、会社が信頼されたことは違う。

 住民が美月へ話してくれたからといって、会社の事業に賛成したわけではない。

「それから」

 黒田は少し間を置いた。

「村を守ることと、村を変えないことを混同するな」

 美月は黒田を見た。

「十室案のことですか」

「それだけじゃない。仕事が増えれば、人が戻る。人が戻れば、今までのやり方では回らないことも出てくる。変化を嫌う者もいるだろう」

「だからといって、会社が変化の方向を決めるべきではありません」

「そのとおりだ。ただ、決めないことにも結果がある」

 黒田は椅子から立ち上がった。

「三室で始めれば守れるものがある。失う雇用もある。十室で始めれば得られる雇用がある。失う静けさもある。どちらも資料に書け」

「はい」

「お前の結論を守るな。判断の条件を守れ」

 黒田はそれだけ言い、会議室を出ていった。

     *

 美月は自席へ戻る前に、非常階段の前にある小さな休憩場所へ入った。

 窓の向こうには、高速道路とビルの屋上が見える。

 森下へ電話をかけた。

 三回目の呼び出し音でつながった。

『田中さん?』

「今、会議が終わりました」

『どうでした』

「会社として、正式にプロジェクトを進めることが決まりました」

 電話の向こうが穏やかになった。

『それは、学校を直すということですか』

「まだそこまでは決まっていません。精密調査と行政協議へ進みます。本格出資は、その結果を見てからです」

『そうですよね』

 森下の声には、安堵と落胆の両方が混じっていた。

「それから、私の滞在延長も承認されました」

『どれくらいですか』

「三年です」

『三年?』

 森下の声が大きくなった。

 遠くで誰かが「どうした」と尋ねる声が聞こえた。

『すみません。今、役場にいるので』

「藤井課長も近くに?」

『います。村長もいます』

「正式な書類は改めて送ります。会社側の条件もあります。三室、六室、十室の三案を、住民の皆さんへ説明する必要があります」

『十室もですか』

「はい。利益と雇用だけを見れば、十室案が最も有利です」

『また、リゾートみたいになるんでしょうか』

「そうならない条件を示します。でも、私が三室案だけを出すことはできません」

 森下はしばらく黙った。

『田中さんは、三室がいいと思っているんですよね』

「今の清澄村で始められるのは三室だと考えています。ただ、十室なら戻れる人が増える可能性もあります」

『戻れる人……』

「規模を小さくすることで、失うものもあります。それも含めて話し合いたいです」

『分かりました』

 森下はそう答えたあと、声を少し低くした。

『田中さん』

「はい」

『戻ってくるんですね』

 美月は窓の外を見た。

 高速道路を、何台もの車が同じ方向へ走っている。

「戻ります」

 今度は、迷わず答えた。

     *

 電話を切ると、すぐに颯太からメッセージが届いた。

『三年おるって、ほんまですか』

 森下から聞いたのだろう。

『正式にはこれから村と調整しますが、会社の承認は出ました』

 送信してから、もう一文を加えた。

『学校は三室、六室、十室の案を出します』

 数分たっても返信はなかった。

 美月が自席へ戻ろうとした時、スマートフォンが震えた。

『十室にしたいんですか』

 美月は足を止めた。

『会社としては、十室案が最も収益性があります。私は三室から始める案を推します』

 すぐに返信が来た。

『会社と田中さん、意見違うんですか』

『違う部分があります』

『それでも戻ってくるんですね』

『それが仕事です』

 送ったあと、少し冷たすぎたと思った。

 言葉を足そうとしていると、颯太から先に届いた。

『ほな、村にも全部見せてください』

『全部とは?』

『三室で守れるもんと、十室で増えるもん。田中さんが先に選んで、村には片方だけ見せんといてください』

 美月は画面を見つめた。

 黒田と同じことを言われた。

『そのつもりです』

『前の会社は、ホテルの絵だけ持ってきました』

『知っています』

『今度は、小さい方だけ正しいみたいに持ってきたら、向きが反対なだけで同じです』

 美月は指を止めた。

 颯太の言葉は、逃げ道を残さなかった。

『分かりました。三案とも説明します』

『分からんことも、分からんって言うてください』

『それも、そのつもりです』

 少しして、最後の返信が届いた。

『旅館の部屋、澄江さんがもう空けてます』

 美月は思わず笑った。

『まだ日程を伝えていません』

『森下さんから聞いたらしいです』

 村では、正式な書類より先に話が進む。

 三か月前なら、それを情報管理上の問題だと考えただろう。

 今も問題ではある。

 けれど、それだけではなかった。

     *

 その日の夕方、美月の社内予定表に新しい会議が追加された。

『清澄村プロジェクト始動会議』

 参加者は十五人だった。

 財務、法務、建築、宿泊運営、広報、行政連携。これまで名前も知らなかった社員が、清澄村の資料を閲覧し始めている。

 共有フォルダには、正式なプロジェクト番号が付けられた。

 美月は最初のページに、事業の目的を入力した。

『清澄村の生活と共存する継続可能な地域事業を形成する』

 その下に、会社から命じられた成果を記載する。

『本事業で得た知見を整理し、今後の地域共創事業へ活用できる形で蓄積する』

 二つの文章を並べると、わずかな緊張が生まれた。

 村のための事業。

 会社の今後につなげる事業。

 同じ方向を向くこともあれば、別の方向へ引かれることもある。

 美月はどちらかを削除しなかった。

 机の脇に置いた青いファイルを開く。

 三室案、六室案、十室案。

 その後ろに、三年間の行動計画を綴じた。

 最初の予定は、奈良県庁との協議だった。

 学校の全面改修、体育館の防災機能、温泉の安全改修。村の予算だけで実施することはできない。国の制度を使うにも、県との調整が必要になる。

 会社が正式に動くと決めても、金が自動的に集まるわけではない。

 むしろ、これから誰がどこまで負担するのかを決めなければならない。

 美月は新幹線の予約画面を開いた。

 出発日は、翌週の月曜日。

 片道を選ぶ。

 座席指定を終えたところで、帰りの日付を入力する欄がないことに気づいた。

 今度は往復ではない。

 予約を確定すると、画面に出発時刻が表示された。

 午前七時三十分、東京発。

 三か月前より、少し遅い列車だった。

 美月は杉の箱を開け、仕事用ではないスマートフォンを中へ入れた。

 通知音が、木の蓋の向こうで一度だけ鳴った。

 画面を確認せず、蓋を閉じる。

 清澄村へ戻るまで、あと六日だった。


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