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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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第八章 最初の家族

試行事業の参加者募集には、三十二組から応募があった。

 創生都市開発のウェブサイトへ掲載したのは、文章だけの案内だった。清流の写真も、星空の映像も、古い校舎の画像も使わなかった。

『一日のうち一時間、置くものと、向き合うものを、自分で決める。奈良県清澄村で行う、一泊二日の滞在試行に参加するご家族を募集します』

 応募条件は、中学生以上の子どもを含む二人から四人の家族であること。体験後の聞き取りに協力できること。村内で撮影した写真を、住民の許可なく公開しないこと。デジタル機器を一律に預ける企画ではないことも明記した。

 応募者には、家族で滞在へ参加したい理由を書いてもらった。

『子どもがスマートフォンばかり見ているから』

『夫婦の会話が減ったから』

『都会の生活に疲れたから』

『何もない場所で自分を取り戻したいから』

『子どもに自然の大切さを教えたいから』

 美月は応募理由を読みながら、何度も手を止めた。

 子どものスマートフォン使用を問題にする文章は多かった。しかし、保護者自身の使い方に触れている家庭は少ない。

 自然の大切さを教えたいと書いた親が、子ども本人の希望を書いていない場合もあった。

 選考にあたって、美月は五つの条件を設けた。

 家族全員が参加に同意していること。

 村を問題解決の道具として扱っていないこと。

 滞在中に意見の相違が起きる可能性を認めていること。

 参加前から明確な成果を求めていないこと。

 困った時に、自分たちで話し合う意思があること。

「最後の条件、確認できますかね」

 森下が応募一覧をのぞき込んだ。

「文章だけでは分かりません。候補を五組に絞り、オンラインで面談します」

「一組を選ぶのに、ずいぶん時間を使うんですね」

「最初の一組ですから」

「二組目からは?」

「同じようにはできません。選考にかかる時間も、今回の費用として記録します」

 森下が壁の時計を見た。

「田中さん、今日この作業に何時間使いました?」

「四時間二十分です」

「私も、二時間十分」

 美月は運営時間の表へ入力した。

 募集文作成、応募者対応、個人情報管理、面談準備。

 実施日が近づくほど、表の行は増えていった。

 村で一泊するだけの体験を作るために、何十時間もの準備が必要になっている。

 既存の仕事へ追加される形でこれを続ければ、森下が最初に疲弊する。

 美月は作業表の一番上に、住民会議で決めた言葉を入れた。

『無理を当たり前にしない』

     *

 五組との面談を終え、美月は最終候補を一組に絞った。

 父親の正志、母親の由紀、中学二年生の彩。

 三人暮らしの家族だった。

 応募理由を書いたのは由紀だった。

『娘の進路について話す必要がありますが、三人で話すと、いつも途中で誰かがスマートフォンを見ます。娘だけの問題ではありません。夫は仕事の連絡、私は家事や学校の情報、娘は友人との連絡に使っています。それぞれに必要な理由があるため、使うなと言い合うだけでは解決しません。結論を出すためではなく、最後まで話を聞く練習ができればと思っています』

 オンライン面談では、三人とも同じテーブルに座った。

 正志はジャケット姿で、面談中にも二度、仕事用のスマートフォンを確認した。由紀は家族の間へ置いた資料を何度も並べ直した。彩は椅子の背にもたれ、画面の外を見ている時間が長かった。

「彩さんも参加を希望していますか」

 美月が尋ねると、由紀が先に答えた。

『本人も、一度行ってみたいと――』

「彩さんに伺っています」

 美月は言葉を続けた。

 由紀が口を閉じる。

 彩は画面へ視線を戻した。

『絶対に行きたいわけではないです』

「では、行きたくありませんか」

『どっちでもいいです』

「どちらでもいい場合、参加しないという選択もできます」

 正志が横から口を挟んだ。

『せっかく無料で参加できるんだから、行ってみたらいいだろう』

『そうやって、もう決めてるじゃん』

『嫌なら嫌と言えばいい』

『嫌って言ったら、何で嫌なのか説明しろって言うでしょ』

『理由もなく嫌と言われたら、聞くのは当然だろう』

 面談の画面越しにも、三人の会話が同じ場所を回っていることが分かった。

「参加した場合、彩さんが嫌だと思った活動には、途中でも参加しないと言えます」

 美月は説明した。

「ただし、山へ入ってから一人だけ引き返すことは、安全上できません。事前に選べることと、その場では選べないことがあります」

『スマホを預けないといけませんか』

「預けるかどうかも、自分で決めます。一時間だけ、何を置くかを選んでもらいます」

『スマホじゃなくてもいいんですか』

「はい」

『じゃあ、進路の話を置いてもいい?』

 彩が言うと、由紀の顔が曇った。

『その話をするために行くのよ』

『だから嫌なんだよ』

「一時間の使い方を、進路の話に限定する必要はありません」

 美月が答えた。

「話すかどうかも含めて、三人で決めてください」

『それでは、何のために行くのか分からない』

 正志が言った。

「参加すれば必ず家族の問題が解決する、という企画ではありません」

『解決しないかもしれないことに、一泊するんですか』

「はい」

『正直ですね』

「結果を約束できないからです」

 正志は腕を組んだ。

 彩が小さく笑った。

『私は行ってもいい』

「理由を聞いてもいいですか」

『解決しなくてもいいって言ったから』

 由紀は娘を見た。

『本当に、それでいいの?』

『また確認する』

『大事なことだからでしょう』

『今、行ってもいいって言ったのに』

 二人の声が重なる。

 正志のスマートフォンが震えた。

 彼は画面へ視線を落とし、すぐに裏返した。

 美月は三人の姿を見つめた。

 以前、東京のカフェで見かけた家族だった。

 父親の横顔、母親が広げていた学校案内、娘が細い紙包みを折っていた指。

 偶然に気づいたのは、面談が始まってすぐだった。

 三人は美月を覚えていない。

 美月も、あの日に会話を交わしたわけではない。ただ隣の席から見ていただけだ。

 選考理由に、その偶然を含めるべきではない。

「最後に確認します」

 美月は三人を順番に見た。

「お父様、お母様、彩さん。それぞれが、参加するかどうかを答えてください」

『参加します』

 正志が答えた。

『私も参加します』

 由紀が続く。

 彩は一度、両親の顔を見た。

『参加します。ただし、行きたくない場所には行かないって言ってもいいなら』

「事前に相談してください。当日でも、安全上問題がなければ変更できます」

『分かりました』

 三人の返事を確認してから、美月は面談を終えた。

     *

 参加決定を村へ伝えると、最初に澄江から電話がかかってきた。

『家族構成、聞いてもええですか』

「父親、母親、中学二年生の娘さんです」

『食べられんものは?』

「事前の申告では、娘さんが蕎麦に軽いアレルギー反応を起こしたことがあるそうです。蕎麦は完全に避けます」

『軽いいうても、アレルギーは軽う考えたらあかんよ』

「分かっています。調味料や加工品も確認します」

『厨房で蕎麦は打ってへんけど、同じ保存棚に蕎麦粉を置いとります。別の場所へ移した方がええですね』

「保管場所の清掃費も計上します」

『そんなもんまで、お金を取るんですか』

「作業が増えますから」

『いつも掃除しとる場所ですよ』

「通常の掃除とは違います。使う器具、布巾、食器も分けて確認してください」

 電話の向こうで、澄江が黙った。

『田中さん』

「はい」

『蕎麦を出さんかったら、それでええと思ってました』

「私も、申告書を見た時はそう考えました」

『分からんことは、怖いですね』

「はい。ご家族へ症状の詳細と、緊急時の対応を確認します。受け入れが難しい場合は、参加者を変更します」

『断るんですか』

「安全を確保できなければ」

『最初の一組やのに?』

「最初だからです」

 翌日、由紀との確認で、彩が過去に蕎麦を食べたあと、唇の腫れと咳が出たことが分かった。医療機関では摂取を避けるよう指示され、本人は処方された緊急用の薬を持っている。

 美月は診療所の医師、保険会社、澄江と協議した。

 山路館の厨房内から蕎麦粉を一時的に撤去し、調理器具と食器を分ける。調味料の原材料表示をすべて確認する。本人の薬は保護者が管理し、緊急時の搬送経路を事前に共有する。

 それでも、危険を完全になくすことはできない。

 美月は由紀へそのことを伝えた。

『分かっています。家でも外食でも、完全には避けられません』

「参加を取りやめる選択もできます」

『彩と話しました。本人は行きたいと言っています』

「お父様とも話しましたか」

『夫は、私が判断すればいいと』

「ご家族全員の判断が必要です」

 電話の向こうで、由紀が息をついた。

『こういうことは、いつも私が確認するんです。学校にも、病院にも、店にも』

「お父様にも説明します。三人で確認したうえで、同意書へ署名してください」

『そこまで必要ですか』

「必要です」

 由紀の返事には、疲れがにじんでいた。

 美月は、彼女へ追加の仕事を渡している。

 けれど、母親だからという理由で安全管理を任せるわけにはいかなかった。

 その日の夜、正志を含めた三人と再びオンラインで話し、緊急対応を確認した。

 正志は最初、由紀が把握しているから大丈夫だと言った。

「彩さんの薬が入っている場所をご存じですか」

 美月が尋ねると、正志は答えられなかった。

「由紀さんが入浴中や、別行動中に症状が出る可能性もあります」

『分かりました。僕も確認します』

 由紀が鞄から薬を取り出し、使い方を説明する。

 彩は、両親の間で無言のまま聞いていた。

 説明が終わると、正志は薬を自分の手に取った。

『これは、どちらが持つ?』

『普段は私』

 由紀が答える。

『山へ入る時は、僕が持つよ』

『使い方、分かった?』

『もう一度確認する』

 短い会話だった。

 美月は、確認表の父親の欄にも印を付けた。

     *

 実施日の朝、清澄村はよく晴れていた。

 山路館の玄関には、颯太が作った三つの木箱が並んでいる。

 杉の板を組んだ、蓋のない小箱だった。スマートフォン一台と、財布や時計が入る大きさになっている。

 正面には、小さな札が差し込める。

「思ったより立派ですね」

 美月は一つを持ち上げた。

 表面は滑らかに磨かれ、杉の香りが残っている。

「端材で作っただけです」

 颯太は箱の角を指でなぞった。

「釘を使わず、組んであります」

「一個いくらですか」

「また値段ですか」

「請求書をください」

「材料は端材ですよ」

「加工した時間があります」

「三つで一時間半です」

「時間単価は、林業体験と同じでいいですか」

「こんな箱に、そこまで出すんですか」

「必要な備品です」

「試行が終わったら、旅館で使ってください。それでええです」

 美月は箱をテーブルへ戻した。

「物で受け取ることと、無料にすることは違います」

「田中さん、無料の話になると急に頑固ですね」

「父の会社では、知り合いだからという理由で、支払いを待ってもらうことが何度もありました」

 口に出したあとで、美月は少し驚いた。

 颯太には、父の会社の話を詳しくしていない。

「それで?」

「待ってもらっているうちに、払えなくなりました」

「お父さんの会社が?」

「はい」

「相手も困ったでしょうね」

「何人も」

 颯太は木箱を見た。

「請求書、出します」

「お願いします」

「でも、必要以上には払いませんよ」

「必要な金額を出してください」

「田中さんのお父さんも、こんな感じやったんですか」

「何がですか」

「払うって言い張るところ」

「反対です。払いたくても払えない人でした」

 美月は木箱の札へ、三人の名前を書いた。

 正志。

 由紀。

 彩。

「だから、最初に払える形を作りたいんです」

 颯太はそれ以上尋ねなかった。

     *

 午前十一時四十分、井上のワゴン車が山路館の前へ到着した。

 予定より二十分遅れている。

 助手席から井上が降り、後部の扉を開けた。

「駅前で、別の客に声をかけられて時間がかかりました」

「別の客?」

「タクシーと間違えられたんです。村まで乗せてくれって」

「断りましたか」

「途中のバス停まで乗せました」

「試行の送迎中ですよ」

「困っとる人を置いていけんでしょう」

 美月は時計を見た。

 予定表は、到着から昼食まで二十分しか余裕を取っていない。

 森林散策の開始時刻にも影響する。

「次回から、送迎中だと分かる表示を車に付けます」

「俺が悪いんですか」

「責めているのではありません。二つの依頼を同時に受けない仕組みが必要です」

「都会の客を優先して、地元の人を断れというんですか」

「それも違います」

 美月は言葉に詰まった。

 試行の一組だけを予定どおり運ぶために、普段の村の助け合いを止める。そんな計画では、住民会議の条件に反する。

「予備時間を増やします」

「それがええと思います」

「到着が遅れる場合の連絡方法も決めます」

「運転中は電話に出ませんよ」

「同乗する人が連絡するか、自動通知を使います」

「人を増やしたら、人件費も増えます」

「記録しておきます」

「やっぱり細かいな」

 井上が笑ったところで、車内から少女の声がした。

「降りてもいいですか」

「すみません。どうぞ」

 彩が最初に降りた。

 灰色のパーカーに黒いパンツ、足元は新品らしいトレッキングシューズだった。肩から小さなバッグを下げ、右手にスマートフォンを持っている。

 続いて由紀が降りた。大きな旅行鞄と保冷用の袋を持っている。

 正志は車内で電話をしていた。

『ですから、月曜の朝に確認します。今、移動中なので』

 通話を切ると、美月へ頭を下げた。

「遅れてすみません」

「井上さんの送迎中に、別の対応がありました。ご家族の責任ではありません」

 美月は三人の顔を見た。

 カフェで見かけた時と、ほとんど同じ並びだった。

 正志は仕事用のスマートフォンを手にし、由紀は三人分の荷物を確認し、彩は少し離れた場所から二人を見ている。

「田中美月です。オンラインではお会いしましたが、改めてよろしくお願いします」

 三人も順番に名乗った。

 彩の視線が玄関の木箱へ向く。

「あれにスマホを入れるんですか」

「入れるかどうかは、あとで決めます」

「今じゃないんだ」

「一時間を始める時に使います。それまでは自由です」

 正志が木箱を手に取った。

「鍵はないんですね」

「預かるための箱ではありません。自分の手元から少し離して置くためのものです」

「盗難は?」

「ご家族ごとの部屋で使ってください。貴重品を入れたまま離れないようにお願いします」

「それなら、箱でなくてもいいのでは?」

 正志の指摘は正しかった。

「はい。箱でなくても構いません」

「これは象徴みたいなものですか」

「使い方を決めるための道具です」

 颯太が横から言った。

「要らんかったら、薪にもできます」

「薪にするんですか」

 彩が驚く。

「木は、使い方を変えられますから」

「もったいない」

「なら、使ってください」

 彩は自分の名前が書かれた箱を持ち上げた。

 顔へ近づけ、匂いを嗅ぐ。

「森みたいな匂いがする」

「杉です」

 颯太が答えた。

「今日歩く山にも、同じ木があります」

     *

 昼食は、山路館で用意したおにぎりと鶏肉の煮物、野菜の味噌汁だった。

 蕎麦を含む食材は使っていない。

 澄江は原材料を記した紙を、一品ずつ添えた。

「ここまでしてもらって、すみません」

 由紀が何度も頭を下げた。

「謝らんでええんですよ」

 澄江は味噌汁を置いた。

「知らんかったら、普通のしょうゆにも蕎麦が入ることがあると思ってました。今回は入ってませんけど、勉強になりました」

「私も、いつも店の方へ確認するのが申し訳なくて」

「確認せん方が怖いです」

「でも、忙しい時に聞くと、嫌な顔をされることもあります」

「うちも忙しい時は、顔に出るかもしれません」

 澄江は笑った。

「それでも聞いてください。答えられんものは、出しません」

 彩が味噌汁を一口飲んだ。

「おいしい」

「ほんま?」

「うん」

「よかった。味が薄い言われたらどうしようかと思ってました」

「母は、いつも私に確認するんです」

 彩が言った。

「おいしい? 大丈夫? 何か変じゃない? って」

「心配やから聞くんでしょう」

「食べる前から聞く時もある」

 由紀が困ったように笑った。

「咳が出たことがあるから」

「分かってる。でも、何回も聞かれると、食べ物より、お母さんの顔ばっかり見るようになる」

 由紀の箸が止まった。

「ごめんね」

「今、謝ってほしいって言ったわけじゃない」

「じゃあ、何て言えばいいの?」

「また、それ」

 彩はスマートフォンを手に取り、画面を開いた。

 正志も仕事用の端末を確認している。

 三人の間へ沈黙が落ちた。

 美月は声をかけなかった。

 家族を会話させるために来たわけではあるが、食事のたびに話をまとめる役を引き受けるつもりはなかった。

 澄江も何も言わず、自分の湯呑みに茶を注いだ。

 やがて、正志がスマートフォンを伏せた。

「彩」

「何」

「薬は、今日、僕が持っている。山へ行く時も」

「知ってる」

「使い方も確認した」

「うん」

「それだけ」

 彩は父親を見た。

「お父さんが持つの、初めてだね」

「そうだな」

 由紀が何か言いかけ、やめた。

 三人は再び食事を始めた。

     *

 午後一時半、颯太の案内で山へ入った。

 参加者は三人の家族、美月、颯太の五人だった。森下は緊急連絡のため役場に残り、澄江は夕食の準備へ戻った。

 歩くのは、佐藤林業が管理する杉林の手前までの往復二時間の道だった。

 危険な斜面には入らず、林道から外れない。出発前に天候、服装、薬の携行、緊急連絡手段を確認した。

「圏外になる場所があります」

 颯太が説明する。

「緊急時は、俺の無線で麓の作業場へ連絡します。足を痛めた場合は、林業用の車両を呼びます」

「熊はいますか」

 正志が尋ねた。

「目撃はあります」

「出たら?」

「距離を取り、走らずに戻ります。今日は先に音を出しながら歩きます」

「危険なんですね」

「山ですから」

 颯太の答えは簡潔だった。

「パンフレットには、初心者向けとありました」

「初心者でも歩けます。危険がないとは書いてません」

「正志さん」

 由紀が小声で言った。

「確認しているだけだよ」

 正志はそう答えたが、表情は硬かった。

 林道へ入ると、空気が変わった。

 道の両側に杉が並び、まっすぐな幹が高いところまで続いている。枝葉に遮られ、昼間でも薄暗い。

 彩は最初、スマートフォンで何枚も写真を撮った。

 杉の幹、足元の苔、細い沢。

「その写真を公開する時は、人の家や顔が写っていないか確認してください」

 美月が声をかける。

「木しか写ってません」

「位置情報も、できれば外してください」

「どうして?」

「立ち入りが制限されている場所へ、写真を見た人が入る可能性があります」

「でも、ここは普通の道でしょ」

「私有林です」

 颯太が答えた。

「歩いとる道も、両側の山も、持ち主がいます。今日は許可を取って入ってます」

「山にも持ち主がいるんだ」

「東京の土地と同じです」

「木一本ずつも?」

「土地の持ち主が植えた木です。ただ、境界が分からん場所もある。持ち主が村を出て、連絡が取れん山もあります」

 彩はスマートフォンを下ろした。

「自然なのに、人が作ったんですか」

「この辺りの杉林は、ほとんど人が植えました」

「じゃあ、自然じゃないの?」

「どこからを自然と呼ぶかによります」

 颯太は一本の杉へ手を当てた。

「植えたのは人です。でも、木を伸ばすのは人やない。雨も、土も、虫も必要です。放っておけば元の山に戻るかというと、簡単でもない」

「誰も切らなかったら?」

「木が混みすぎて、地面まで光が届かん。草が生えず、土が流れやすくなる場所もあります」

「切ったら環境に悪いと思ってた」

「切り方によります」

 彩は父親を振り返った。

「学校で、森林伐採を減らしましょうって習った」

「熱帯林の話じゃないか」

 正志が答える。

「日本の山は別なの?」

「僕に聞かれても分からない」

「お父さんでも分からないこと、あるんだ」

「あるよ。何でも知っているわけじゃない」

 彩は少し意外そうな顔をした。

 正志も、自分で口にした言葉を確かめるように黙った。

 林道の途中で、三人は小さな沢の前に座った。

 颯太が十五分の休憩を告げる。

 彩は倒木へ腰を下ろし、沢の流れを撮影した。

 由紀は水筒を配り、正志は仕事用のスマートフォンを確認する。

「お父さん、ずっと仕事するの?」

 彩が尋ねた。

「連絡が来ていないか見ただけだ」

「来てた?」

「一件」

「返すの?」

「急ぎではないから、あとで」

 正志は画面を閉じた。

 彩が自分のスマートフォンを見た。

「友達から七件来てる」

「返す?」

 由紀が尋ねる。

「あとで」

 彩も画面を閉じた。

 美月は、二人の動作が似ていると思った。

 指で画面を消し、端末を膝の上へ伏せる。

 親子であることは、顔よりも、そうした癖に表れることがある。

     *

 帰り道で、予定外のことが起きた。

 彩が道端に落ちていた小さな木片を拾った。

「これ、持って帰ってもいいですか」

 長さ十センチほどの杉の枝だった。

「落ちとる枝ならええですよ」

 颯太が答える。

「何か作れますか」

「削れば、鉛筆立てくらいにはなるかもしれません」

「やってみたい」

 颯太は時計を見た。

 予定では、四時までに山路館へ戻り、休憩のあと村民会館へ移動することになっている。

「今日は道具を持ってきてません」

「佐藤さんの作業場にはあるんですか」

「あります」

「行ったら駄目?」

 彩が尋ねる。

 颯太は美月を見た。

「予定にありません」

 美月は答えた。

「作業場の安全確認もしていません」

「十分だけでも?」

「木を削るなら、十分では終わりません」

 彩の顔から期待が消えた。

「はい」

 その返事を聞いた颯太が、木片を受け取った。

「俺が預かります。夕食のあと、旅館へ持っていきます」

「佐藤さんが作るんですか」

「最初の切り方だけ整えます。続きは明日、時間があれば」

 美月は予定表を開いた。

「明日の朝は、大西さんの川沿い案内があります」

「朝食前ならできます」

「颯太さんの勤務時間は?」

「朝は七時から作業場にいます」

「追加の体験費が必要です」

「十分か二十分ですよ」

「道具の準備と片づけもあります」

「また始まった」

 颯太が笑った。

「今日は持ち帰って、次に来た時に作ればいい」

 正志が言った。

「次に来るかは決まってない」

 彩が答える。

「気に入ったなら、また来ればいいだろう」

「そういうの、簡単に言わないで」

「どうして?」

「お父さんは、来週になったら仕事が忙しいって言うから」

 正志の表情が変わった。

「今は来週の話をしていない」

「いつもそうじゃん。今度行こう、時間ができたらって」

「本当に時間ができない時もある」

「だから、約束しなければいいのに」

「彩」

 由紀がたしなめる。

「何」

「お父さんだって、来られるように仕事を調整したのよ」

「お母さんは、すぐお父さんの説明をする」

「説明じゃなくて――」

「一回、自分で話させたら?」

 彩の声が林道に響いた。

 颯太が足を止める。

「ここは道幅が狭いから、話すなら少し先の広い場所へ行きましょう」

 正志が顔を上げた。

「話すつもりはありません」

「なら、歩きましょう」

 颯太はそれ以上口を挟まなかった。

 五人は再び歩き始めた。

 由紀は正志と彩の間を歩こうとしたが、道幅が狭く、横には並べなかった。

     *

 村民会館の調理室へ着いたのは、予定より三十五分遅い午後五時五分だった。

 フミと春江は、すでに野菜の準備を終えていた。

「遅かったな」

 フミが壁の時計を見た。

「申し訳ありません。山での移動に時間がかかりました」

 美月が頭を下げる。

「謝るんは田中さんやなくて、案内した人やろ」

「俺です。すみません」

 颯太が答えた。

「途中の休憩が長かったんか」

「話をしながら歩いとったら、遅れました」

「山の中で話さんでも、ここで話したらええのに」

「それは、そうですね」

 颯太は反論しなかった。

 春江が調理台の上を指した。

「野菜は切ってませんよ。家族で作ってもらう話でしたから」

 夕食は、野菜を使ったカレーだった。

 ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、ナス、トマト。肉は使わず、蕎麦を含まないルーと香辛料を用意している。

「カレーなら、家でも作ります」

 彩が言った。

「ここでも作ります」

 フミが包丁を三本並べた。

「田舎へ来たからいうて、毎回知らん料理を食べなあかんことはない」

「山菜とかじゃないんですか」

「春の山菜を夏に出せ言われても困る。採れる時に食べるもんや」

「スーパーには一年中あります」

「あれは誰かが保存したり、別の場所で採ったりしとるんやろ。ここにあるもんを、いつでも出せると思われたら困る」

 フミはニンジンを彩へ渡した。

「今日は、この畑で採れたもんを使う。嫌いな野菜があるなら、先に言うて」

「ナスが少し苦手」

「ほんなら、小さく切る?」

「入れないのは?」

「作る鍋を分けるほど、台所は広うない。食べる時によけてもええ」

 彩はナスを見た。

「小さく切ります」

 三人は調理台を囲んだ。

 正志はタマネギの皮をむき、由紀はジャガイモを洗い、彩はニンジンを切る。

 由紀が娘の手元を見た。

「指、気をつけて」

「分かってる」

「左手を丸めて」

「学校で習った」

「でも、その持ち方――」

「由紀さん」

 春江が声をかけた。

「トマトを切ってもらえますか」

「あ、はい」

 由紀は彩から離れた。

 彩の包丁が、まな板へ一定の音を立てる。

 形は揃っていない。大きなものも、小さなものもある。

 フミは直さなかった。

「煮えにくい大きさのだけ、もう一回切ろか」

 そう言い、彩の横で一つだけ見本を見せた。

「全部同じじゃなくていいんですか」

「同じ方が煮えやすいけど、家で食べる分まで定規で測らん」

「田中さんなら測りそう」

 彩が言った。

 調理室の端で記録表を書いていた美月は顔を上げた。

「必要なら測ります」

「やっぱり」

「でも、今日は測りません」

 彩が笑った。

 美月もペンを置いた。

     *

 カレーを煮込む間に、一時間の使い方を決めることになった。

 三つの木箱を、食堂の隅に置く。

 美月は三人へ小さなカードを渡した。

『置くもの』

『向き合うもの』

 二つの欄がある。

「書いた内容は、見せなくても構いません」

 美月は説明した。

「家族で共有するかどうかも、それぞれが決めてください。一時間の途中でやめても構いません。その場合は、やめた理由をあとで聞かせてください」

「スマートフォンを入れなくてもいいんですよね」

 正志が確認する。

「はい」

「仕事用と私用、二台ある場合は?」

「別のものとして考えてください」

「片方だけ置いてもいい?」

「構いません」

「それでは、意味が薄くなりませんか」

「何を置くかは、ご本人が決めます」

 正志はカードへ何かを書いた。

 由紀は書き始めては消し、何度も迷っている。

 彩はすぐに書き終えた。

 三人が木箱の前へ来る。

 正志は私用のスマートフォンを入れた。仕事用はポケットに残している。

 由紀はスマートフォンと腕時計を箱へ入れた。

 彩はスマートフォンを持ったまま、折り畳んだ紙を入れた。

「スマホじゃないんですね」

 正志が言った。

「何を置くかは自分で決めるんでしょ」

「何を入れたんだ?」

「見せなくていいって言われた」

「聞くことくらいはいいだろう」

「お父さんは、仕事のスマホを持ってるじゃん」

「緊急の連絡があるかもしれない」

「私にも友達から緊急の連絡があるかもしれない」

「中学生の連絡と仕事は違う」

「何が違うの?」

「責任がある」

「私には責任がないの?」

 正志の表情が硬くなる。

「開始前から言い合わないで」

 由紀が間へ入った。

「せっかくここまで来たんだから、一時間だけでも穏やかに――」

「一時間、穏やかに過ごすことが目的ではありません」

 美月が言った。

 三人が美月を見る。

「言いたいことがあるなら、言って構いません。ただし、相手に答えを強制しない。途中で離れる時は、一言伝える。それだけ守ってください」

「喧嘩してもいいんですか」

 彩が尋ねる。

「物を投げたり、誰かを傷つけたりしなければ」

「田中さん、思い切ったことを言いますね」

 由紀は困ったように笑った。

「話さないことを選んでも構いません」

 調理室の時計が、午後六時十分を指した。

 美月が開始を告げる。

 三人は向かい合って座った。

 何を話すかは決めていない。

 フミと春江は別室へ移り、颯太も外へ出た。美月は調理室の隅に残ったが、会話の記録は取らないことになっている。

 最初の五分、誰も話さなかった。

 鍋の中で、カレーが小さく煮立っている。

 由紀が立ち上がり、火加減を確認しようとした。

「調理は私が見ます」

 美月が言う。

「でも、吹きこぼれたら」

「その時は対応します」

「私、何をしたらいいんでしょう」

「何もしなくても構いません」

 由紀は椅子へ戻った。

 正志が腕を組み、窓の外を見る。

 彩はスマートフォンを持っているが、画面を開かない。

 十分が過ぎた。

「何か話す?」

 由紀が尋ねる。

「お母さんが話したいなら」

 彩が答える。

「私は、彩の進路のことを――」

「やっぱり、それなんだ」

「話さないと決められないでしょう」

「今日は決めなくていいって言われた」

「今日決めなくても、期限は来るの」

「分かってる」

「分かってるなら、資料くらい見て」

「見たよ」

「何も言わないじゃない」

「言ったら、お父さんが無理だって言うから」

 正志が窓から顔を戻した。

「まだ無理とは言っていない」

「京都の学校は遠いって言った」

「距離の話をしただけだ」

「学費も高いって」

「費用を確認するのは当然だろう」

「ほら、もう無理って顔してる」

「顔で決めつけるな」

「お父さんだって、私がスマホを見たら、話を聞く気がないって決めつけるじゃん」

「実際、見ているだろう」

「今は見てない」

 彩はスマートフォンをテーブルへ置いた。

「持ってるけど、見てない。お父さんは仕事のスマホを持ってるだけで、責任がある人になるの?」

「そんなことは言っていない」

「じゃあ、何で私の連絡より、お父さんの仕事の方が大事なの?」

「生活に関わるからだ」

「私の学校も、これからの生活に関わる」

 正志は答えなかった。

 由紀が娘の前にある木箱を見た。

「箱に入れたの、進路希望調査?」

 彩の表情が変わった。

「見せなくていいって言ったよね」

「紙の色が同じだったから」

「お母さん、すぐ見る」

「心配だから」

「何が心配なの?」

「期限に間に合わないこと。あとで後悔すること。選べる学校が減ること」

「私が後悔するんじゃなくて、お母さんが後悔したくないんでしょ」

「そんな言い方――」

 由紀の声が震えた。

「私は、あなたが困らないようにと思って、学校のことも、塾のことも、ずっと調べてきた。お父さんは忙しいし、先生は本人と家庭で話してくださいと言うし。誰かがやらないと進まないから」

「頼んでない」

「頼まれなくても、親だからするの」

「それで、私が何を言っても、調べた方が正しいってなる」

「正しいなんて言ってない」

「言ってるのと同じ」

 由紀が立ち上がった。

「少し外へ出ます」

「理解しました」

 美月が答えた。

 由紀は自分の木箱から何も取らず、調理室を出た。

 襖が閉まる。

 彩は俯き、正志は由紀が出ていった方を見た。

「追いかけないの?」

 彩が言った。

「今は、一人にした方がいい」

「いつもそう」

「何が?」

「お母さんが怒ったら、お父さんは黙る」

「僕が何を言っても、余計に怒るからだ」

「それを、お母さんに聞いたことある?」

 正志は答えなかった。

 ポケットの中で、仕事用のスマートフォンが震えた。

 正志は取り出し、着信画面を見る。

 指が応答の位置で止まる。

「出れば」

 彩が言った。

「いいのか」

「私が決めることじゃない」

 正志は立ち上がった。

「仕事の電話に出ます」

 美月へそう伝え、廊下へ出た。

 残された彩は、テーブルの木目を指でなぞった。

「一人になっちゃった」

「私もいます」

「田中さんは、家族じゃない」

「はい」

「これ、失敗ですか」

「何がですか」

「一時間。誰も向き合ってない」

「彩さんは、何に向き合うと書きましたか」

「見せなくていいんでしょ」

「はい」

「なら、聞かないで」

「分かりました」

 美月はそれ以上尋ねなかった。

 鍋から湯気が上がる。

 彩はしばらく黙っていた。

「木箱に入れたのは、進路希望調査です」

「はい」

「向き合うものには、お父さんとお母さんって書いた」

「そうですか」

「でも、二人とも出ていった」

「戻るかもしれません」

「田中さんは、戻ると思う?」

「分かりません」

「普通、大丈夫って言わない?」

「大丈夫かどうか、私には決められません」

 彩は小さく息を吐いた。

「田中さんって、安心させるの下手ですね」

「よく言われます」

「誰に?」

「今、彩さんに」

 彩は笑いかけて、やめた。

     *

 二十分後、由紀が戻ってきた。

 目元が赤くなっていた。

「ごめんなさい。外で、北村さんと話してました」

「謝らなくていいです」

 彩が答えた。

 由紀は娘の向かいへ座った。

「謝ってほしくないって言われたから、もう謝らない」

「無理に言わなくていい」

「うん」

 二人の間に、また沈黙が落ちた。

 正志はまだ戻ってこない。

「お母さん」

「何?」

「私、京都のデザイン科に行きたいって、決めたわけじゃない」

「そうなの?」

「見学に行きたいって言っただけ」

「でも、パンフレットに丸を付けてたから」

「見に行ってから考えたいの」

「そう言ってくれたら――」

「言ったよ」

 由紀が口を閉じた。

「お母さんが、通学時間と学費を調べて、現実的じゃないって言った」

「私は、寮へ入る可能性もあるから、先に確認しようと思って」

「だから、それを一緒に調べたかった」

「彩と?」

「私の学校でしょ」

 由紀はテーブルの上へ両手を置いた。

「分かった」

「すぐ決めないで」

「何を?」

「分かったって言ったら、またお母さんの中で結論になる」

「じゃあ、何て言えばいい?」

「聞いた、でいい」

 由紀は娘を見た。

「聞いた」

 彩もうなずいた。

「うん」

 正志が戻ってきたのは、開始から四十七分が過ぎた頃だった。

「遅くなって、すみません」

 木箱の前へ座る。

「工場の設備に不具合が出た。担当者だけで対応できることになったから、月曜に確認する」

 誰も責めなかった。

 正志はポケットから仕事用のスマートフォンを出し、電源を切った。

 私用の端末が入っている箱へ重ねる。

「今から置いても、十三分しかない」

 彩が言った。

「十三分はある」

 正志は椅子へ座った。

「彩。京都の学校の見学、行きたいんだな」

「お母さんから聞いたの?」

「今、初めて聞いた」

「前にも言った」

「僕は、通えるかどうかの話しか聞いていなかった」

「それは、お父さんがそこしか聞かなかったから」

 正志は反論しようとして、口を閉じた。

「そうかもしれない」

「すぐ認めるの、ずるい」

「なら、どう答えたらいい?」

「知らない」

「僕も、今は分からない」

 正志は両手を組んだ。

「見学へ行くことには反対しない。ただ、僕も一緒に行くと言ったら嫌か?」

「仕事は?」

「日程を先に決める」

「行けなくなったら?」

「その時は、行けないと早めに言う」

「いつも前の日に言う」

「今回は、一週間前までに判断する」

「一週間前なら、キャンセルできる?」

 由紀が尋ねた。

「学校見学にキャンセル料はないでしょう」

「交通と、前泊が必要ならホテルも」

 正志は考えた。

「そこを三人で調べよう」

 彩はすぐには返事をしなかった。

「分かった、じゃなくて?」

「聞いた」

 正志が言う。

 彩が母親を見た。

 由紀は少し笑った。

 調理室の時計が、午後七時十分を指した。

 一時間が終わった。

     *

 夕食のカレーは、予定より四十五分遅れて完成した。

 煮込みすぎたナスは形がなくなり、ジャガイモの一部はまだ少し硬かった。

「火を止めるのが遅かったな」

 フミが鍋をのぞき込んだ。

「私が話に気を取られました」

 美月が言う。

「由紀さんに任せといたらよかったんや」

「体験中の調理管理は運営側の仕事です」

「食べられるなら、ええけどな」

 フミは皿へカレーをよそった。

 全員で食卓を囲む。

 正志は最初の一口を食べ、しばらく黙っていた。

「どう?」

 由紀が尋ねかけ、口を閉じた。

 彩が父親を見る。

「おいしい?」

「ジャガイモが硬い」

 正志は正直に答えた。

「それだけ?」

「ナスは、どこに入っているか分からない」

「小さく切ったから」

「でも、味はおいしい」

「最初に言ってよ」

「聞かれたことから答えたんだ」

「順番が変」

 三人が笑った。

 美月もカレーを口に運んだ。

 確かにジャガイモは硬かった。

 商品として提供するなら、失敗と記録すべき状態だった。

 しかし、食べられないほどではない。

「田中さん」

 フミが言った。

「今、失敗いう顔をしたやろ」

「ジャガイモの加熱時間が足りませんでした」

「食べられる?」

「食べられます」

「ほんなら、今日はこれでええ。次は小さく切る」

「次もフミさんが担当できますか」

「月一回までやったらな。それ以上は畑がある」

「今日の準備時間は?」

「朝から二時間。ここへ来てから三時間」

「合計五時間ですね」

「後片づけもあるで」

「それも記録します」

「客の前で金の話をするんか」

「必要な費用ですから」

 正志が箸を置いた。

「今回、僕たちは無料で参加していますが、本来なら、いくらくらいなんですか」

「予定価格は、一家族十二万円です」

「一泊で?」

 由紀が驚いた。

「はい。交通費は含みません」

「高いですね」

「現在の内容を、関わる方へ適正に支払って提供する場合の金額です」

「十二万円でも利益が出るんですか」

「初回と同じ準備を毎回行えば、出ません」

「では、続けられない?」

「内容、回数、人数を見直します。ただ、無料の手伝いを増やして価格を下げる方法は選びません」

 正志は食卓を囲む村の人たちを見た。

「このカレーにも、人件費が入っているんですね」

「入ります」

「家で由紀が作る夕食には、人件費を考えたことがなかった」

 由紀が夫を見た。

「今、その話をする?」

「思ったから言っただけだ」

「言われても、どう答えればいいか分からない」

「答えなくていい。僕も、何をしたらいいか考える」

「食器を洗ったらええ」

 フミが言った。

 正志が驚く。

「今ですか」

「今食べとるから、あとでや。何をしたらええか分からん時は、目の前の汚れた皿から片づけたらええ」

 正志は、少し遅れて笑った。

「承知しました」

「返事だけやったら、誰でもできるで」

 食事のあと、正志と彩が食器を洗った。

 由紀は手を出しかけたが、途中でやめた。

 水切り籠へ置かれた皿は、重なり方が不揃いだった。

 由紀はそれを直さなかった。

     *

 夜八時半、参加者と運営側は山路館の庭へ出た。

 星を見る予定だった。

 しかし、山の上には雲が広がっていた。

「何も見えませんね」

 正志が空を見上げた。

「天気は選べませんから」

 颯太が答える。

「星空観察も、料金に入っていますよね」

「星が見えることを保証する料金ではありません」

 美月が言うと、正志が笑った。

「田中さんらしい答えですね」

「説明文にも、天候によって中止または変更と記載しています」

「読んでいます。責めているわけではありません」

「なら、よかったです」

 予定していた星空観察は、川辺を歩く時間へ変更した。

 全員が懐中電灯を持ち、足元を照らす。

 川沿いでは、旅館の明かりもすぐに届かなくなった。

 雲の向こうに月があるらしく、空全体が薄く明るい。

「真っ暗じゃないんだ」

 彩が言った。

「目が慣れると、見えてきます」

 颯太が懐中電灯を消した。

 ほかの人も順番に消す。

 暗闇の中で、川の音だけが大きくなる。

「写真を撮っても、たぶん何も写らないよ」

 正志が彩へ言った。

「撮らない」

「スマホは?」

「部屋に置いてきた」

「自分で?」

「うん」

 由紀が尋ねる。

「どうして?」

「聞かないで」

「ごめん」

「謝らなくていい」

「じゃあ――」

「聞いた、でいい」

 由紀は少し黙った。

「聞いた」

 三人の姿は、暗闇の中では輪郭しか見えなかった。

 誰がどんな顔をしているのか、美月にも分からない。

 川上から、冷たい風が吹いてきた。

 彩が小さくくしゃみをする。

「上着、持ってきた?」

 由紀が尋ねる。

「持ってる」

「着た方がいいんじゃない?」

「自分で決める」

「風邪を引いたら――」

 由紀は言葉を止めた。

 少しして、彩がバッグから上着を出した。

「寒いから着る」

「うん」

 由紀はそれだけ答えた。

     *

 翌朝、彩は六時四十分に一階へ下りてきた。

 手には、颯太から預かった杉の木片がある。

 颯太は旅館の裏庭へ、小さな作業台と手工具を運んでいた。

「作業場へは行かないんですか」

 彩が尋ねる。

「安全確認ができていないから、今日はここです」

 颯太は刃物の使い方を説明した。

 木片を固定し、角を少しずつ削る。彩が一人で刃物を使う時は、必ず颯太が隣に付く。

「鉛筆立てにするには、穴を開ける機械が要ります。今日は外側を整えるところまでです」

「完成しないんですか」

「時間が足りません」

「持って帰っても、家に道具がない」

「なら、次に来た時に続きをします」

「次に来られなかったら?」

 颯太は少し考えた。

「俺が仕上げて送ります」

「それじゃ、私が作ったことにならない」

「完成せんまま持って帰るのも、一つです」

「途中なのに?」

「途中のものは、失敗ですか」

 彩は木片を見た。

「分からない」

「なら、今日は分からんまま持って帰ったらええ」

 颯太が木片を作業台へ固定する。

 彩は小さな鉋を両手で持ち、ゆっくり押した。

 薄い木屑が、くるりと丸まりながら落ちる。

「きれい」

「力を入れすぎんように」

「もう一回やっていい?」

「時間までなら」

 正志と由紀も庭へ出てきた。

 由紀は娘の手元へ近づこうとしたが、作業台から少し離れた場所で止まった。

 正志はスマートフォンを出し、写真を撮ろうとした。

「顔は撮らないで」

 彩が言う。

「手元だけなら?」

「それならいい」

 正志は、木片と娘の両手だけが入るように撮った。

 撮影後、画面を彩へ見せる。

「公開してもいい?」

「送るだけなら」

「家族の共有だけにする」

「うん」

 美月は少し離れた場所から、そのやり取りを記録した。

 写真は撮らなかった。

     *

 朝食後、大西が家族を川沿いへ案内した。

 古い道と新しい道を見せるだけだと言っていたが、途中で足を止め、ダム建設前の集落があった方向を指した。

「あの山の向こうに、家があった」

 正志が尋ねる。

「今は水の下ですか」

「家があった場所は水の下やない。地滑りで住めんようになって、別の場所へ移った」

「ダムで沈んだのでは?」

「全部が同じ話やない」

 大西の声が硬くなる。

「外から来る人は、何でもダムで沈んだ村いう話にまとめたがる。水に沈んだ土地もある。山が崩れた土地もある。補償を受けて先に移った家もある。最後まで残った家もある」

「すみません」

「謝る前に、分けて覚えてくれ」

「はい」

「分からんことは、分からんと言うたらええ」

 正志はうなずいた。

 大西は彩へ顔を向けた。

「お嬢ちゃんは、何か聞きたいことあるか」

「どうして村に残ったんですか」

 由紀が娘を見る。

「失礼じゃない?」

「聞いてええ」

 大西が答えた。

「移る場所がなかったから。土地を離れたくなかったから。出ていく決心をするのが怖かったから。全部や」

「村が好きだから、じゃないんですか」

「好きな日も、嫌いな日もある」

「嫌いでも住むんですか」

「家族かて、毎日好きやないやろ」

 彩が両親を見た。

 正志と由紀は、どちらも否定しなかった。

「嫌いになったら、出ていってもいい?」

「出ていったらええ」

 大西は即座に答えた。

「帰りたくなったら、帰ってきたらええ。帰ってこんでもええ。ただ、出た人間のことを、最初からおらんかったことにするんは違う」

「村の人は、そう思ってるんですか」

「全員が同じことを思う村なんかない」

 大西は杖の先で、川辺の石を動かした。

「わしが言えるんは、わしのことだけや」

     *

 正午前、最初の滞在は終了した。

 山路館の食堂で、参加者と運営側が振り返りを行った。

 美月は満足度を五段階で尋ねるアンケートだけでなく、途中でやめたかった活動、負担に感じたこと、説明が足りなかったことも質問した。

 正志は、森林散策を「満足」と評価した。

 一方で、スケジュールの遅れと、費用に対する体験内容の少なさを指摘した。

「十二万円を払うなら、もう少し明確な成果が欲しいと思います」

「成果とは?」

「家族関係が改善したとか、スマートフォンの使用時間が減ったとか」

「今回、改善したと思いますか」

「一泊では分かりません」

「では、改善したと宣伝することには同意できませんか」

「できません」

「ありがとうございます」

 美月はそのまま記録した。

 由紀は、何もしなくてよい時間が少なかったと答えた。

「体験が詰まっていて、遅れたら次の方へ申し訳なくなりました。旅行でも、いつも私が時間を気にするので、村へ来ても同じでした」

「どの活動を減らした方がいいですか」

「分かりません。どれも、やってみたらよかったです。でも、全部でなくてもよかった」

「一つ選ぶなら?」

 由紀は考えた。

「調理です」

 フミが顔を上げる。

「料理が嫌やった?」

「いいえ。反対です。あの時間だけで十分だったかもしれません。知らない料理を習うのではなく、家でも作るカレーを一緒に作ったから、普段のことが見えました」

「失敗したカレーやけどな」

 フミが言う。

「ジャガイモが硬かったですね」

 由紀が笑った。

「次は小さく切る」

「また来てもいいですか」

「月一回までやったら」

 フミは同じ条件を繰り返した。

 彩は、満足度を三とした。

「普通ですね」

 美月が言う。

「五にすると、すごくよかったみたいだし、一にすると、全部悪かったみたいだから」

「よかったことは?」

「木を削ったこと。川を歩いたこと。カレー」

「嫌だったことは?」

「お母さんとお父さんに、話すために来たんだから話せって思われたこと」

 正志と由紀が娘を見る。

「でも、一時間の途中で、自分で話したんですよね」

「話したかったから」

「スマートフォンは、最後には自分で置きましたか」

「はい」

「なぜですか」

「手に持っていると、見てなくても、見てるって言われそうだったから」

 正志の顔が曇る。

「それは、自分で選んだことになりますか」

 美月が尋ねる。

 彩は考えた。

「半分くらい」

「残りの半分は?」

「お父さんとお母さんに、話を聞いてないって思われたくなかったから」

「では、今回のルールに問題があったと思いますか」

「自分で決めるって言われても、家族が見てたら、完全には自分だけで決められない」

 美月は、その言葉を一字ずつ記録した。

 自分で選ぶ。

 それをルールにした時点で、選ぶことを求めている。

 何も置かないと決めた人が、周囲からどう見られるか。そこまで考えられていなかった。

「次に来る人へ、何を伝えたいですか」

 彩は杉の木片を両手で持った。

「スマホを置けなくても、悪い人じゃないって、最初に言った方がいい」

「はい」

「あと、家族で同じものを置かなくてもいいって」

「はい」

「途中で取り出しても、失敗じゃないって」

 正志が娘を見た。

「僕は途中で仕事の電話に出た」

「うん」

「嫌だった?」

「嫌だった。でも、電話に出たことより、戻ってこないと思った」

「戻ったよ」

「戻ったから、今回はよかった」

「次も戻れるとは限らない」

「だったら、何分で戻るか言って」

 正志はうなずいた。

「分かった」

 彩が眉を上げる。

「聞いた」

 正志が言い直す。

 彩は少し笑った。

     *

 参加者を乗せたワゴン車が山路館を出たあと、運営側だけの振り返りを行った。

 井上は送迎の遅れを報告した。

 次回は、途中の対応が発生する可能性を含め、到着時刻に三十分の幅を持たせる。

 颯太は、森林散策が予定を二十五分超えたことを認めた。

「話が出た時に、止めにくかったです」

「時間を守ることと、話を止めないことを両立させる方法が必要ですね」

 美月が言う。

「散策後の予定を減らすか、山の中で時間を知らせる人を別に置くか」

「人を増やしたら費用が増える」

「はい」

「次は、距離を短くします。沢まで行かず、手前で戻る」

「参加者によって歩く速さも違います」

「なら、時間で折り返します」

「その方がいいと思います」

 澄江は、アレルギー対応の準備に通常より五時間かかった。

「毎回これをするのは無理です」

「食物アレルギーのある方を、今後は受け入れない方がいいですか」

 美月が尋ねる。

 澄江はすぐには答えなかった。

「断るのは簡単です。でも、それやったら、彩ちゃんみたいな子は、ずっと家族で出かけにくいままです」

「安全を守れなければ受け入れられません」

「今回は、守れたんでしょうか」

「問題は起きませんでした。ただし、問題が起きなかったことと、安全だったことは同じではありません」

「田中さんは、どうしたいんです?」

「対応可能な品目と方法を決めます。すべてのアレルギーへ対応できるとは言いません。受け入れ前の確認に必要な費用も価格へ含めます」

「高くなりますね」

「はい」

「客が来なくなるかもしれん」

「その可能性もあります」

 澄江は空になった湯呑みを見た。

「安くするために、できる言うたらあかんのですね」

「はい」

「理解しました」

 フミは、調理準備と後片づけを合わせて六時間十五分働いた。

「月一回でも、六時間は長い」

「次回は、野菜を事前に運ぶ作業を別の方へ頼めますか」

「頼むなら金を払わなあかん」

「払います」

「どんどん人が増えるな」

「活動を減らす方法もあります」

「カレーをやめる?」

「由紀さんは、調理だけでも十分だったと話していました」

「ほんなら山歩きをやめたらええ」

 颯太が顔を上げた。

「何で山をやめるんです」

「時間が延びたんは山やろ」

「調理に六時間かかったのも事実でしょう」

「喧嘩せんといてください」

 春江が二人を止める。

「毎回、同じことをせんでもええんと違いますか。山へ行く家族、料理をする家族、本を読む家族。来る人が選んだらええ」

「選択肢を増やすと、準備も増えます」

 美月が言う。

「最初から全部そろえんでもええ。できるものを一つずつ増やすんです」

 春江は自分の作業時間を書いた紙を差し出した。

「私は三時間四十分。彩ちゃんのお母さんと外で話した時間も入れました」

「予定外の対応ですね」

「相談を受ける仕事にするつもりはありませんよ」

「では、次回から参加者と二人きりで話す必要はありません」

「そうきれいには分けられません。泣いとる人を置いていけんでしょう」

「北村さんが引き受ける必要もありません」

「必要やなくても、することはあります」

 美月は手を止めた。

 無理を当たり前にしない。

 けれど、予定外の親切まで禁じれば、この村で行う意味が薄れてしまう。

「したくてしたことと、しなければならなかったことを分けて記録しましょう」

 美月は新しい欄を作った。

『自分で選んで行った時間』

『断れずに行った時間』

「同じ三十分でも、負担は違います」

 春江がうなずいた。

「昨日のは、自分で選びました」

「次もできますか」

「毎回は無理です」

「では、今回はできた。次回は分からない、と記録します」

「それでええです」

     *

 最初の試行にかかった費用は、七十一万三千四百八十円になった。

 承認された上限を、一万三千四百八十円超えている。

 木箱の製作費、アレルギー対応の備品、予定外に延びた作業時間が主な原因だった。

 本社への報告会で、小田切は費用表を見たまま言った。

『上限管理ができていない』

「はい。私の見積もりが不十分でした」

『一組のモニターで七十一万円。予定価格は十二万円。事業とは呼べない』

「初回の設計費を除いた場合でも、現状では十二万円を下回りません」

『参加者の評価は?』

「父親が四、母親が四、娘が三です」

『平均三・七。七十一万円をかけて、その数字か』

「満足度だけを上げることが目的ではありません」

『客が満足しない事業は続かない』

「住民が疲弊する事業も続きません」

『住民評価は?』

「もう一度なら担当できると答えた方が二人。内容を減らせば可能が三人。現状のままでは継続できないが四人です」

『成功とは言えないな』

「はい」

 美月は即答した。

 黒田が資料をめくる。

『では、失敗か』

「一組を受け入れれば自動的に家族の会話が生まれ、村の人も満足するという仮説は、誤りでした」

『それを確認するのに七十一万円使った』

「はい」

『次は、どうする』

「体験を一泊二日の定型商品として固定せず、家族ごとに一つの時間を選ぶ形式へ変えます。選択肢は、森林散策、共同調理、川沿いの散歩の三つに絞ります。一回につき一つだけです」

『提供内容が減れば、十二万円は取れない』

「価格も見直します」

『安くすれば、住民への支払いを減らすことになる』

「支払いは減らしません。運営に必要な人員と時間を減らします」

『利益は?』

「二回目で、継続可能な価格を検証します」

『また会社負担か』

「二回目は、参加者にも一部負担を求めます。支払意思も確認します」

 小田切が椅子の背にもたれた。

『田中君。君は、何を成功させようとしている』

 美月は一度、資料から目を離した。

「誰かが無理をした結果を、成功と呼ばない事業です」

『きれいごとに聞こえる』

「今回は、村の人の予定外の労働で、一見すると体験が成立しました。そこを無償の善意として計算から外せば、収支は改善して見えます」

『現場では、多少の融通は必要だ』

「必要です。ただし、その融通を毎回期待すれば、義務になります」

『客は予定どおりに動かない。現場で起きたことを、すべて費用にできると思うな』

「すべて請求するという意味ではありません。見えないことにしないという意味です」

 小田切は答えなかった。

 黒田が費用表を閉じた。

『一回目は失敗として処理する。二回目の予算は、修正案を見てから判断する』

「承知しました」

『ただし』

 黒田は美月を見た。

『失敗したと書ける報告書を出したことは評価する』

 会議が終了した。

 画面が暗くなっても、美月はしばらく席を立てなかった。

     *

 その夜、彩から一通のメッセージが届いた。

 参加者用の連絡先へ送られたものだった。

『木、途中のまま机に置いています』

 その下に写真が添えられている。

 杉の木片は、鉛筆立てにも、置物にもなっていなかった。片側だけが削られ、表面に鉋の跡が残っている。

『お父さんとお母さんと、京都の学校を見に行く日を調べました。まだ決めていません』

 美月は返信した。

『ご連絡ありがとうございます。木片の写真を、佐藤さんへ見せてもいいですか』

 すぐに返事が来た。

『いいです。でも、SNSには載せないでください』

『分かりました』

 さらに、もう一通届いた。

『一時間で家族は変わりませんでした』

 美月は画面を見つめた。

 慰める言葉も、成果を探す言葉も送らなかった。

『はい。私もそう思います』

 そう返した。

 数分後、彩から短い文章が届いた。

『でも、十三分でも話せました』

 美月は、その言葉を事業報告書へ写さなかった。

 参加者の感想として外へ使ってよいか、確認していない。

 代わりに、自分の大学ノートへ書いた。

『一時間を守れなかった人が、十三分だけ戻ってきた』

 その下へ、二回目の試行で守ることを記す。

 置かない選択を否定しない。

 途中で取り出しても失敗と呼ばない。

 家族全員に、同じ行動を求めない。

 話し合いを成果として強制しない。

 予定外の親切を、無料の労働に変えない。

 活動を詰め込みすぎない。

 最後に、住民会議で決めた言葉をもう一度書いた。

『無理を当たり前にしない』

 ノートを閉じ、スマートフォンを窓辺へ置いた。

 木箱は一階にある。

 箱がなくても、端末は置ける。

 美月は腕時計を外し、隣へ並べた。

 川の音を聞くためではなかった。

 今夜は、何に向き合うか決めていない。

 決めないまま、畳の上へ座った。

 五分ほどすると、仕事用のスマートフォンが震えた。

 画面を見れば、誰からの連絡か分かる。

 美月は手を伸ばしかけ、止めた。

 出ないことを選ぶのか。

 必要な連絡を無視しているだけなのか。

 判断するために、画面を見るべきなのか。

 美月は端末を手に取った。

 母からの着信だった。

 そのまま電話へ出る。

「もしもし」

『美月? 今、大丈夫?』

「うん。大丈夫」

『仕事中だった?』

「今は、置く時間にしようとしてた」

『置く?』

「スマートフォンを」

『じゃあ、切った方がいい?』

「切らなくていい」

 美月は広縁へ移動し、籐の椅子に座った。

「今日は、お母さんと話す時間にする」

 電話の向こうで、母が黙った。

『何かあったの?』

「何もない」

『何もないのに電話するの?』

「お母さんからかけてきたんでしょう」

『そうでした』

 母が笑う。

 美月も笑った。

 窓の外では、川の水が途切れることなく流れていた。


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