第七章 新たな盟約
旧清澄小学校の緊急点検は、翌週の水曜日に行われた。
吉野で古民家の改修を手がける建築士と、木造建築を専門にする調査会社の職員が二人、朝から校舎へ入った。美月たちは門の外で待ち、許可された時だけ内部へ同行した。
床下、屋根裏、外壁、基礎、電気設備、給排水管。
調査は夕方まで続いた。
二階東側の廊下は立入禁止。家庭科室は給排水管の交換が必要。体育館は屋根の一部に腐食が見られるが、主要な柱には目視上の大きな傾きはない。校舎北側の柱にはシロアリ被害の可能性があり、追加調査が必要だった。
さらに、天井板や古い断熱材については、石綿が含まれている可能性を否定できないという。
「結果が出るまで、天井や壁には触らないでください」
調査会社の職員は、森下へ念を押した。
「清掃のつもりでも、板を外したり、割れた部分を削ったりしてはいけません。採取もこちらで行います」
「村の人が自分たちで直せるところはありませんか」
大西が尋ねた。
「草刈りや、建物の外にある物の整理までです。内部は調査結果が出るまで待ってください」
「待っとる間にも雨は降る」
「応急処置も、専門業者が防護措置を取って行います」
「何をするにも金がかかるな」
大西は校舎を見上げた。
建築士が手元の図面を畳んだ。
「古い建物を残すには、残すためのお金が必要です。壊す場合も、解体と廃棄にお金がかかります。どちらを選んでも、無料ではありません」
「ざっと、いくらや」
「今日の段階では出せません」
「千万円か。五千万円か。一億か。それくらいは分かるやろ」
「使う範囲によって変わります。全館を現在の基準に合わせて改修するのか、一階の一部だけを使うのか、体育館だけ残すのか。それを決めないと、金額を出しても意味がありません」
大西は納得していない顔をしていた。
美月には、建築士の言葉がよく分かった。
これまでの自分なら、先に三つの案を作り、それぞれの収益予測を付けて比較していた。
全面改修案。
一部改修案。
解体・新築案。
けれど、まだ村の人間が何を残したいのかすら決まっていない。
美月は校舎の写真を撮らず、調査項目だけをノートに書いた。
*
正式な報告書が届くまで、二週間かかることになった。
その間に、美月は最初の話し合いを開くことにした。
会場は、役場の隣にある村民会館だった。
旧清澄小学校は立入禁止になり、山路館の食堂では人数が限られる。村民会館には四十人ほどが入れる和室があり、暖房も給湯室も使えた。
森下が回覧板へ案内を載せた。
『旧清澄小学校について話す会』
題名はそれだけだった。
説明文には、美月が考えた四つの質問を入れた。
学校で何をしたいか。
何をしたくないか。
そのために何なら引き受けられるか。
うまくいかなかった時、誰と話し合うか。
「こんな案内で、人が来ますかね」
印刷された紙を見ながら、美月は尋ねた。
「案内を詳しくしすぎると、田中さんの考えを聞く会になるでしょう」
森下は回覧板の袋へ紙を入れた。
「来る人は来ます。来ない人は、どれだけ書いても来ません」
「来ない人の意見は、どうやって聞くんですか」
「あとで私たちが回ります」
「全戸を?」
「村の話を聞くと言ったのは、田中さんですよ」
「言いました」
「なら、やりましょう」
森下は輪ゴムで袋の口を留めた。
美月は、参加申込用の表へ目を落とした。
締め切りまで三日しかない。
会場の座席配置、配布資料、議事録の様式、進行時間。用意すべきものはいくらでもあった。
「資料は、何部印刷しますか」
「二十五部で足りると思います」
「四十人入る会場なのに?」
「四十人は来ません」
森下の予想は、外れた。
*
話し合いの日、村民会館には三十七人が集まった。
村の人口から見れば一部にすぎない。それでも、和室に並べた座布団はほとんど埋まった。
七十代、八十代の住民が多かったが、子どもを連れた親が三組、村外から通勤している若い夫婦、制服姿の中学生も来ていた。颯太が連絡した中村直樹は、オンラインで参加することになっている。
入口の机には、名簿と名札を置いた。
美月は全員に名前を書いてもらうつもりだったが、名札を拒む人が五人いた。
「村の中で、今さら名札なんか要らん」
「誰が何を言ったか、東京へ持って帰るんやろ」
「名前を出さんと意見を言うたらあかんのか」
美月は、無記名でも参加できることにした。
名札を用意する前に、名前を書きたくない人がいる可能性を考えていなかった。
開始時刻の午後七時が近づく。
大西は和室の一番後ろに座った。
春江は中央、澄江とフミは壁際に並んでいる。颯太は入口近くで、遅れて来る人のために座布団を動かしていた。
井上亮平は、油の染みが付いた作業着のまま参加した。村で唯一のガソリンスタンドと自動車修理工場を営んでいる。
「仕事、間に合ったんですね」
森下が声をかける。
「客の軽トラ、まだ分解したままです。八時半には戻ります」
「一時間半ですね」
「それ以上は無理です」
美月は参加者名簿の余白へ書いた。
『井上亮平、午後八時半まで』
それを見た井上が笑う。
「時間まで記録するんですか」
「何を引き受けられるかだけでなく、何分なら引き受けられるかも必要なので」
「細かい人やな」
「よく言われます」
「褒めてませんよ」
「忘れてはいません」
午後七時、森下が襖を閉めた。
前方には長机を一本だけ置いてある。スクリーンもプロジェクターも用意しなかった。
美月が持ってきたのは、四つの質問を書いた模造紙と黒いペンだけだった。
「では、始めます」
森下が立ち上がる。
「今日は旧清澄小学校について、村の皆さんで話します。創生都市開発の田中さんにも入ってもらいますが、会社からの計画を説明する会ではありません」
「計画がないのに、何を話すんや」
前列の男性が言った。
片山正夫、六十八歳。元役場職員で、現在は村議会議員を務めている。
「計画を作る前に話します」
美月が答えた。
「話してから、会社が計画を作るんか」
「村で決めた内容をもとに、事業として成立する方法を考えます」
「成立せんかったら?」
「できないことと、その理由を説明します」
「何でもできるような言い方をせんだけ、前の会社よりましか」
片山は腕を組んだ。
「ただ、今日は聞かせてもらうだけや。賛成したことにはならんからな」
「はい」
美月は模造紙の横に一行を書き加えた。
『この場への参加は、計画への賛成を意味しない』
それを壁へ貼る。
片山が目を細めた。
「そんなことまで書くんか」
「後で解釈が分かれないようにします」
「ほんまに細かいな」
今度は、和室の数か所から笑いが起きた。
美月は、少しだけ息を吐いた。
*
最初の質問は、「学校で何をしたいか」だった。
すぐに手を挙げる人はいなかった。
畳の上で、誰かが座り直す音がした。
美月は沈黙を埋めたくなった。
デジタル機器から離れる滞在型の体験。森林散策、川遊び、地元食材を使った共同調理、星空観察。
頭の中には、話すべき内容が並んでいた。
けれど、美月が先に話せば、そのあとに出る意見は、提案への賛否になる。
美月はペンを持ったまま待った。
「別に、何もせんでええんと違うか」
最初に口を開いたのは、壁際の男性だった。
無記名の名札を付けている。
「壊れそうなら壊したらええ。学校として使わんようになって十三年や。今まで困らんかった」
「困っとったよ」
春江が答える。
「先生は残したいやろうけど、毎年の草刈りも、雨漏りの確認も役場が金を出しとる。使わん建物へ金をかけるより、村道を直してほしい」
「私も、何が何でも残せとは言うてません」
「ほんなら壊したらええ」
「壊す前に、何に使えるかを話したいと言うてるんです」
「使うために金をかけるんやろ」
二人の声が強くなる。
美月は間へ入ろうとしたが、大西が先に口を開いた。
「壊したい理由も、ここで話したらええ」
和室が静かになった。
「田中さんの二つ目の質問は、何やった」
「学校で何をしたくないか、です」
「ほんなら、残したくないというのも答えや。止めるな」
美月は新しい模造紙を広げた。
上に、『したくないこと』と書く。
「使わない建物に、村の予算を出し続けたくない」
そう記した。
無記名の男性がうなずいた。
「名前は要りませんか」
「書かんでええ」
「分かりました」
それをきっかけに、声が出始めた。
「観光客が校庭へ車を停めて、畑の道を塞ぐのは困る」
「夜遅くまで騒がれたら眠れん」
「川へ勝手に入られて、事故が起きたら誰が責任を取る」
「写真を撮って、家や人の顔を勝手にインターネットへ載せられたくない」
「村の食べ物を無料やと思われるのは嫌や」
「都会の人のために、年寄りが毎週料理を作らされるのは無理や」
「学校をきれいに直して、入場料を取るだけの施設にはしてほしくない」
「ダムのことを、かわいそうな村の話として見せ物にするのはやめてくれ」
美月は一つずつ書いた。
模造紙が埋まると、二枚目を壁へ貼った。
次々に出るのは、したいことではなく、したくないことばかりだった。
黒い文字が、白い紙を埋めていく。
美月は、会の進め方を間違えたのではないかと思った。
否定的な意見が広がれば、何も始められなくなる。
けれど、大西は黙って聞いていた。
颯太も、入口の壁へ背を預けたまま、口を挟まない。
「ほかにありますか」
美月は尋ねた。
中学生の少女が、母親の袖を引いた。
「言うてええよ」
母親に促され、少女が手を挙げる。
「学校の中で、スマホを使うなって言われるのは嫌です」
美月の手が止まった。
「お名前を伺っても?」
「竹内結菜。十四歳です」
「理由も聞いていいですか」
「家で勉強するとき、動画の授業を見ます。英語も、村に教えてくれる人がおらんから、オンラインで習っています。スマホばっかり見るのは悪いことやって、大人は言うけど、私には必要です」
母親が申し訳なさそうに美月を見た。
「この子、村外の塾へ通うのが難しいんです。最終のバスが早いから」
「謝らなくて大丈夫です」
美月は模造紙へ書いた。
『必要な通信まで悪いものにしない』
「私も同じです」
森下が言った。
「役場の仕事でも、防災情報や住民への連絡にスマートフォンを使います。高齢者の見守りにも、今後は通信が必要です」
「でも、田中さんの計画は、携帯を使わん村にする話やろ」
片山が尋ねた。
「今の段階では、村全体をそうする考えはありません」
「今の段階では?」
「村で暮らす人の通信を制限するつもりはありません。観光客にも、必要な連絡手段は残します」
「ほんなら、何をするんや」
美月はペンを置いた。
「まだ、皆さんへ説明できる計画にはなっていません」
「東京へ戻った時、何もありませんでしたでは済まんやろ」
「済みません」
「会社は、何を求めとる」
「村で継続できる事業です」
「継続いうても、利益が出んかったら撤退するんやろ」
片山の指摘に、言葉を選ぶ時間が必要だった。
「当社が永続的に運営することは想定していません」
「つまり、最後は村へ押しつける」
「引き継ぐ人も、費用も決まらないまま始めることはしません」
「前の会社も似たことを言うた」
「同じ言葉を使ったからといって、信用していただけるとは思っていません」
「ほんなら、何を見たら信用できる」
「これから私たちがすることを見てください」
和室に沈黙が落ちた。
美月は自分でも、答えになっていないと思った。
信頼を証明する資料はない。数値も、実績も、契約書もない。
約束だけなら、以前の会社もした。
「一つ、提案してええですか」
颯太が壁から離れた。
「学校の話と、田中さんの会社の計画を、いったん分けた方がええと思います」
「分ける?」
片山が聞き返す。
「学校は、調査結果が出んと使えるか分からん。改修費も分からん。そこへ観光の話を全部載せたら、学校を残すために客を呼ぶのか、客を呼ぶために学校を残すのか、分からんようになる」
「佐藤さんは、どちらだと思いますか」
美月が尋ねる。
「俺は学校を残したい。でも、残すために村の人が無理をするなら、全部残さんでもええと思う」
颯太は集まった人たちを見回した。
「田中さんが考えとることは、学校を直さんでも試せるんやないですか」
「どんなことです?」
「スマホを置いて、人と話したり、山へ入ったりすることです。旅館と村民会館は使える。森林体験は今もできる。料理は山路館の厨房か、村民会館の調理室を使えばええ」
「学校なしで、先に試すということですね」
「試して、誰も来んかったら、学校を直しても同じでしょう」
颯太の言葉に、何人かがうなずいた。
「客が来すぎたら?」
澄江が尋ねる。
「最初から人数を絞る」
「何人に?」
「田中さん、得意でしょう」
颯太が美月を見る。
「何でも、私に人数を決めさせないでください」
「二十四人は多すぎます」
家庭科室で美月が口にした人数を、颯太は覚えていた。
「私も今は多いと思っています」
「何人ならええんです?」
澄江が尋ねた。
「最初は、一組でいいと思います」
美月が答えると、和室がざわついた。
「一組だけ?」
「それで事業になるんか」
「一組のために、こんな人数で話し合っとるんか」
「一組だからです」
美月は立ち上がった。
「一度に十組を受け入れれば、問題が起きても何が原因か分かりません。誰がどのくらい疲れるのか、食事にどれだけ手間がかかるのか、移動に何分かかるのか。まず一組で確認します」
「その一組は、どこから来る」
「募集方法もこれから決めます」
「費用は?」
「会社へ試行費用を申請します。宿泊代、食事代、体験を担当する方への謝礼、保険料、移動費を含めます」
「謝礼いうても、名ばかりやろ」
フミが言った。
「都会の人に料理を教えてくれと言われて、半日働いて二千円やったら、やらん方がましや」
「金額は、引き受ける方と事前に決めます」
「相場は誰が決める?」
「まず、皆さんが必要だと思う金額を出してください。そのうえで、事業として支払えるか検討します」
「高いと言われたら?」
「内容を減らします。無料ではお願いしません」
「田中さんの会社が出すんか」
「試行段階は、会社負担で申請します」
片山が身を乗り出した。
「村の予算は使わんのか」
「現時点では使いません」
「あとで補助金を使うつもりやろ」
「継続する場合は、可能性があります。その時は、必要額と使い道を公開して、村で判断してもらいます」
「失敗したら?」
「試行で分かった問題と、使った費用を報告します」
「成功したように数字を作らんか」
美月は、答えるまでに間を置いた。
「参加者の満足度だけで成功とはしません」
「ほかに何を見る」
「担当した方の労働時間、負担、収入。住民からの苦情。緊急時の対応。近隣への影響。もう一度実施したいと思うかどうか」
「客が喜んでも、村が嫌がったら?」
「続けません」
「会社が利益になると言うても?」
「続けません」
片山は美月を見たまま、腕を組み直した。
「今の、議事録へ残しとけ」
「残します」
森下が答えた。
*
オンラインで参加していた中村直樹が、画面の向こうから手を挙げた。
会場の隅に置いたノートパソコンには、四十代になった直樹の顔が映っている。背後には白い壁と、本の詰まった棚が見えた。
『少し、いいですか』
森下がパソコンの音量を上げる。
「聞こえています」
『颯太から、学校の話を聞きました。僕は今、橿原で高校の教員をしています』
「直樹君、先生になったんか」
春江が驚いた。
『北村先生には、卒業してから連絡もしなくて、すみません』
「謝ることやないですよ」
『清澄へ帰らなかったのは、村が嫌いやったからではありません』
画面の向こうで、直樹が息をついた。
『帰ると、出ていった家の子やと思われるのが嫌でした。ダムの補償をもらった家、先に逃げた家。実際に誰かから言われたわけやありません。でも、自分でそう思ってました』
大西が顔を上げた。
『学校を残してほしいかと聞かれたら、残してほしいです。ただ、今村に住んでいる人がお金を出してまで、僕の思い出を守ってくれとは言えません』
「学校で何かしたいことはありますか」
美月が尋ねた。
『生徒を連れていけるなら、連れていきたいです』
「高校生を?」
『はい。僕の学校にも、スマートフォンを手放せない生徒は多いです。でも、取り上げたら解決するとは思いません。使う必要がある時と、使わなくてもいい時を、自分で選べるようにしたい』
竹内結菜が画面を見た。
『それと、村を出ることを、裏切りや失敗として扱ってほしくありません』
直樹は続けた。
『清澄に残る子も、出る子もいる。出たあとに関われる方法があれば、戻って住まなくても、村とつながっていられます』
「どうやって関わります?」
片山が尋ねた。
『まず、僕は一度帰ります。学校の手紙も見たい。話し合いにも参加します。そのあと、生徒を連れてこられるか、学校と相談します』
「仕事として来るんですか」
美月は尋ねた。
『仕事にできるなら、その方が続きます。最初から無償でと言われたら、難しいです』
美月は模造紙へ書いた。
『村を出た人が、外から関わる仕組み』
その下に、直樹の名前を書いた。
「名前を出してもいいですか」
『はい。お願いします』
颯太がパソコンの前へ来た。
「直樹」
『何?』
「あの時、返事せんで悪かった」
和室の視線が二人へ集まった。
『遅いわ』
「分かっとる」
『手紙、残ってたんやろ』
「残っとった」
『僕は返事がないから、夏休みに帰った時、学校まで見に行った』
「俺、隠れた」
『知ってる』
「知っとったんか」
『図書室の窓から、颯太の頭が見えてた』
会場に笑いが起きた。
颯太は困ったように頭をかいた。
「髪、立っとったからな」
『今は減ったな』
「切っとるだけや」
『来月、見に行くよ』
「待っとる」
二十年分を埋めるには短い会話だった。
それでも、颯太は画面を見たまま笑っていた。
*
八時二十分を過ぎたところで、井上が時計を見た。
「俺、そろそろ戻らなあかん」
「その前に、何なら引き受けられるか聞いてもいいですか」
美月が尋ねる。
「先に、何をするか決めてもらわんと分かりません」
「仮に、一組の家族を一泊二日で受け入れるとしたら?」
「駅からの送迎ですかね。ただ、俺の車は修理の代車にも使うから、いつでも出せるわけやない」
「一日貸し切る場合の金額を、あとで教えてください」
「運転手込み?」
「はい」
「燃料代も?」
「含めて見積もってください」
「知り合い価格にせんでええんですか」
「通常の業務としてお願いします」
井上は少し意外そうな顔をした。
「なら、出します」
「車が故障した場合の代替手段はありますか」
「田中さん、最初の一組から故障を考えるんですか」
「考えます」
「役場の公用車は使えませんよ」
森下が言った。
「民間のタクシー会社は?」
「村外から呼ぶと、一時間以上かかります」
「では、予備の運転手と車を確保する必要がありますね」
「そんなに用意したら、送迎だけで赤字になりますよ」
「だから、一組で費用を確認します」
井上は笑った。
「ほんまに細かいな。見積もり、明後日までに出します」
「ありがとうございます」
「八時半を過ぎた分は、会議の残業代、出ます?」
冗談めかした声だったが、美月は笑わなかった。
「今日は出ません。案内にも無償の話し合いと書きました」
「正直やな」
「今後、運営会議を定期的に開く場合は、報酬を検討します」
井上は立ち上がり、名札を外した。
「そこまで言うたなら、覚えといてください」
「議事録に残します」
井上が出ていくと、入口から夜気が流れ込んだ。
*
話し合いは、予定を三十分延長した。
模造紙は全部で八枚になった。
学校でしてみたいこと。
子どもが遊べる場所。
災害の記録を残す場所。
村を出た人が帰ってこられる場所。
料理をする場所。
本を読む場所。
何もしなくてもよい場所。
したくないこと。
村の予算を際限なく使うこと。
無料の労働を当たり前にすること。
観光客を一度に大勢入れること。
住民の写真や生活を勝手に公開すること。
通信の不便を美化すること。
村を出た人を責めること。
災害の記憶を見せ物にすること。
引き受けられること。
月一回の草刈り。
一組分の食事。
一日二時間の昔話。
森林散策。
駅からの送迎。
子どもの遊び相手。
学校の記録整理。
設備点検。
何も引き受けられないが、意見は伝えたい。
美月は最後の一つも、そのまま書いた。
何もできない人間には、発言する資格がないとは思わなかった。
病気や年齢、仕事、家族の介護。引き受けられない理由は、人によって違う。
ただし、誰かが引き受けて当然だと思うこととは別だった。
「結局、何が決まったんや」
終了時刻が近づいたところで、片山が尋ねた。
「一組の家族を受け入れる試行を検討します」
美月は模造紙を見ながら答えた。
「まだ、やると決めたわけやないんやな」
「費用と担当者を確認し、次の会で実施するか決めます」
「今日は何も決めんかった、と言われるぞ」
「決まりました」
「何が?」
美月は、八枚の紙を一枚ずつ見た。
「してはいけないことが決まりました」
「禁止ばっかりの村になるんか」
誰かが言い、笑いが起きた。
美月も少し笑った。
「禁止事項ではなく、計画を作る時の条件です」
「条件が多すぎる」
「減らした方がいいですか」
「増やすのは得意でも、減らすのは苦手そうやな」
片山は立ち上がった。
「一つにまとめてみたらどうや」
「一つ?」
「観光客向けの売り文句やなく、村の人間が判断するための基準や。何かあった時、その一つに戻ればええ」
「例えば?」
「それを東京の会社が考えたら、また同じやろ」
片山は自分の座布団を重ね、出口へ向かった。
「次も来ていただけますか」
美月が尋ねると、振り返らずに答えた。
「一回目に来ただけで、次も来ると思うな」
「案内は送ります」
「勝手にせえ」
言葉とは違い、片山は名札を持ち帰らず、入口の箱へ丁寧に戻した。
*
参加者が帰ったあと、美月、森下、颯太、大西、春江、澄江の六人が会場に残った。
模造紙を壁から外し、内容ごとに分けていく。
「一つの基準、ですか」
森下が言った。
「八枚を一つにするのは無理やないですか」
「短い言葉にすれば、抜け落ちるものが出ます」
美月は答えた。
「でも、困った時に戻れる言葉は必要かもしれません」
「前の会社にもありましたよ」
颯太が言った。
「『村と未来をつなぐ』」
「抽象的ですね」
「その言葉の下で、村の山を削る図面ができました」
「なら、誰が何をするのか分かる言葉にしないといけません」
「『無理をしない』でええんと違う?」
澄江が模造紙を丸めながら言った。
「それやったら、何も始まらん」
大西が答える。
「無理をしてでもせなあかん時はありますよ。旅館でも、急にお客さんが倒れたら、夜中でも動きます」
「なら、『無理を当たり前にしない』」
春江が言った。
「長いですね」
「田中さんの四つの質問よりは短いです」
美月は何も言えなかった。
「お金のことも要るでしょう」
森下が言う。
「無償にせんこと。費用を隠さんこと」
「客が払えば、何をしてもええわけやない」
大西が答えた。
「村の人に聞く、では?」
颯太が言った。
「誰に聞くんや」
「関係する人に」
「その関係する人を、誰が決める」
話は再び止まった。
美月は、壁へ残った一枚の模造紙を見た。
『何をしたくないか』
その中に、特に太い文字で書いた言葉がある。
『人の暮らしを、勝手に使わない』
観光客に家や畑を撮られたくないと言った女性の意見と、災害の記憶を見せ物にしてほしくないという大西の言葉をまとめる時、美月が書いたものだった。
「これではどうでしょう」
美月は、その言葉を指した。
「人の暮らしを、勝手に使わない」
澄江が声に出して読む。
「人だけか?」
大西が尋ねた。
「山も川も、学校もある」
「最初に藤井課長から言われました。山も川も誰かのものだと」
「誰かのもんやけど、人だけのもんでもない」
颯太が言った。
「山は、人が使わんでも生きとる。川も同じです」
「では、『ここにあるものを、勝手に使わない』」
美月が書き直す。
「何でも許可を取らなあかん村みたいやな」
澄江が首をかしげた。
「実際、許可は必要です」
「観光客が道を歩くたびに、誰かへ聞くんですか」
「そういう意味ではありません」
「でも、そう読めます」
美月はペンを置いた。
簡潔な言葉ほど、意味が広がる。
広がった意味は、受け取る人によって変わる。
「そもそも、一つの言葉にする必要がありますか」
美月は尋ねた。
「片山さんが言うたから考えとるだけです」
大西が答えた。
「決めることも含めて、次の会で話したらええ」
「それでは、宿題にしましょう」
春江が言った。
「一人一つ、考えてくる」
「学校みたいですね」
「学校の話をしとるんやから、それでええでしょう」
春江は自分の鞄から小さな手帳を取り出した。
「私は、『自分で選ぶ』にします」
「何を選ぶんですか」
「残ることも、出ることも、スマートフォンを使うことも、置くことも。人に決められんようにする」
美月はその言葉をノートへ書いた。
「北村春江さん、七十二歳」
「もう年齢は覚えたでしょう」
「記録です」
「次の誕生日が来たら、全部直してくださいね」
*
山路館へ戻ったのは、午後十時を過ぎていた。
澄江は一階へ残り、美月だけが先に部屋へ上がった。
広縁のテーブルには、母から送られてきた小さな段ボールの家が置かれている。
窓の外は暗く、川の音が続いていた。
美月はノートパソコンを開き、話し合いの内容を整理した。
参加者三十七人。
発言者二十三人。
無記名五人。
意見総数七十四件。
数字を入力すると、安心した。
どれだけ話が散らばっても、数えれば形になる。
しかし、七十四件の意見を円グラフへまとめることはしなかった。
同じ「反対」でも理由が違う。
学校の改修費を道路整備へ回してほしい人。
観光客に生活を見られたくない人。
昔の記憶を開きたくない人。
事業が失敗した時、再び村だけが負担を負うことを恐れる人。
一つの色へ塗れば、どれも同じ反対に見えてしまう。
美月は表の右端に、新しい欄を作った。
『その意見が守ろうとしているもの』
道路を直してほしいという意見には、『日々の移動と安全』。
写真を撮られたくないという意見には、『生活の境界』。
災害を見せ物にしたくないという意見には、『記憶の尊厳』。
スマートフォンを禁止されたくないという結菜の意見には、『学ぶ機会』。
村を出た人も関われるようにしたいという直樹の意見には、『帰属する権利』。
一行ずつ入力した。
午前零時前、本社の黒田からメッセージが届いた。
『住民会議の結果を簡潔に報告してください。来週、営業本部長へ中間説明を行います』
美月は報告書を添付しようとした。
七十四件の意見を整理した表は、十二ページある。
簡潔にまとめるなら、三行で済む。
『廃校活用について住民会議を実施。試行事業への関心を確認。小規模なデジタルデトックス滞在プログラムを検討する』
それでは、反対した人も、条件を付けた人も、まだ判断していない人も、全員が賛成したように読める。
美月は返信した。
『三十七名が参加しました。ただし、計画への賛同を得た段階ではありません。学校の安全調査と切り離し、既存施設を使った一組限定の試行事業を検討しています。住民負担、報酬、通信環境、安全管理の条件を整理したうえで、実施の可否を再度住民側と判断します』
すぐに黒田から返信が届いた。
『営業本部長向けには弱い。事業の核を一文で示せないか』
美月は画面を見た。
まだ一文にはできない。
そう返せば、準備不足だと見なされる。
東京で仕事をしていた頃、美月は結論を先に作るのが得意だった。結論に合う情報を集め、矛盾する意見は課題として後ろへ回す。
今回は、その方法を使いたくなかった。
『一文にできるまで、もう少し時間をください。村へ提示していない言葉を、先に本社だけで決めることは避けたいです』
送信した。
既読は付いたが、返事は来なかった。
美月はスマートフォンを伏せた。
窓辺の工作へ目を向ける。
屋根を外すと、三人の紙人形が同じテーブルを囲んでいる。
父、母、美月。
十歳の自分が書いた名前は、もう薄くなっていた。
美月は紙人形を一体ずつ取り出した。
三人とも、同じ大きさの椅子に座っている。
父だけが大きな椅子ではない。母だけが台所に立っているわけでもない。
子どもの自分は、家族が同じ場所に座る家を作っていた。
美月は紙人形を元へ戻し、屋根を閉じた。
*
三日後、創生都市開発とのオンライン会議が開かれた。
役場の会議室には、美月、森下、藤井、山根村長が座った。
画面の向こうには、黒田、小田切営業本部長、事業企画部の社員、広報担当者が並んでいる。
美月は十五枚に絞った資料を映した。
住民会議の参加人数。
校舎の調査状況。
試行事業の概要。
一組限定、一泊二日。
宿泊は山路館。
調理は村民会館。
森林散策は佐藤林業。
送迎は井上が担当。
緊急時には山路館の固定電話と役場の防災無線を使用し、参加者の端末は完全には預からない。
デジタル機器から離れる時間は、家族ごとに一時間だけ設定する。
『一時間だけでは、訴求力が弱くないか』
小田切が言った。
「初回の検証としては、一時間が妥当だと考えています」
『競合のデジタルデトックスプランでは、滞在中の端末預かりを売りにしている。清澄村なら、圏外という環境も活用できる』
「圏外を価値として宣伝することには、住民側から反対意見が出ています」
『観光客向けのサービスと、住民生活は分けて考えればいい』
「分けられない部分があります。緊急通報や、事業者間の連絡は必要です」
『では、宿泊者だけ端末を預かる』
「一律には預かりません」
小田切の表情が硬くなった。
『田中君。これは休養プログラムではなく、事業開発だ。顧客が日常では得られない体験を設計しないと、金は取れない』
「同意します」
『なら、ルールを明確にするべきだ。村へ入ったら端末を預ける。それくらいの強さが必要だ』
美月は画面の横に座る森下を見た。
森下の表情は変わらない。
「端末を必要とする事情は、利用者によって異なります。子どもや高齢の家族から連絡が入る方、仕事上の緊急連絡がある方、医療機器と連携している方もいます。一律の預かりは参加者を選別します」
『全員を対象にする必要はない』
「対象外になる人へ、不健康だからスマートフォンを手放せないのだという印象を与える恐れもあります」
『考えすぎだ』
小田切の声が低くなる。
『企画には切れ味が必要だ。例外を積み重ねれば、何も残らない』
「例外ではなく、生活です」
口にしたあと、美月は自分の声が予想以上に強かったことに気づいた。
画面の向こうが静かになった。
黒田が眼鏡を外し、資料へ目を落とす。
『田中』
「はい」
『君が提案するルールは、何だ』
「現在、村で検討中です」
『本社の中間説明は今日だ』
「承知しています」
『仮案でいい。今の君が、何を核にしようとしているのか説明してくれ』
美月は資料を閉じた。
用意したスライドには答えがなかった。
昨夜、春江の言葉を何度も読み返した。
自分で選ぶ。
スマートフォンを使うことも、置くことも。
村に残ることも、出ることも。
学校を残すことも、別の形へ変えることも。
「機器を手放すことを強制するのではなく、手放す時間を自分で選んでもらいます」
『それがルールか』
「ルールにするなら、『一日のうち一時間、自分で決めた場所に端末を置く』です」
小田切は腕を組んだ。
『一時間、スマートフォンを使わないだけで、客が奈良の山村まで来ると思うか』
「スマートフォンを使わないことだけを売るのではありません。その一時間に、誰と何をするかを村の人と作ります」
『森林散策や料理体験なら、ほかの地域にもある』
「あります」
『清澄村でなければならない理由は?』
美月は答えるまでに間を置いた。
山の美しさ。
川の透明さ。
旧校舎。
林業の技術。
どれも清澄村にある。けれど、ほかの村にもある。
「村にしかない体験だとは申し上げません」
山根村長が、美月を見た。
『それでは売れない』
「清澄村だけが特別だと証明するために、住民の暮らしや災害の記憶を商品へ変えることはしません」
『商品にするなと言っているんじゃない。適切に価値化しろと言っている』
「価値化する範囲を、村の人が決めます」
『それでは事業者が入る意味がない』
「村の人だけでは整理しにくい費用、契約、安全管理、販売方法を、当社が担います。価値の中身まで当社だけで決める必要はありません」
小田切は画面の向こうで黙った。
黒田が代わりに尋ねた。
『試行費用はいくらだ』
「概算で六十八万円です」
『一組に六十八万円?』
「初期設計、保険、送迎、運営担当者への報酬、緊急連絡環境の整備、記録と評価を含みます。二回目以降は減らせます」
『一組から得られる売上は?』
「予定価格では十二万円です。ただし、初回はモニターとして当社が負担し、参加者には無償で来てもらいます」
『五十六万円の赤字だ』
「初回は事業開発費です」
美月は費用表を開いた。
「村民の無償労働で赤字を小さくすることはしません」
小田切が息を吐く。
『ずいぶん守りの強い計画だな』
「守るものを決めてから始めます」
『何を守る』
「住民の生活と、参加者が自分で選ぶ権利です」
『利益は?』
「継続条件に含めます。ただし、最初の検証では、利益が出るかだけでなく、誰かの無理によって成立していないかを確認します」
沈黙が続いた。
やがて、黒田が口を開いた。
『試行は一回。上限七十万円。二回目を行う場合は、運営収支と住民側の評価を提出する。それでどうだ』
「ありがとうございます」
『礼は結果が出てからだ』
黒田は眼鏡をかけ直した。
『それと、営業本部長の指摘は正しい。外へ伝えるには、一文が必要だ。村と決めてこい』
「承知しました」
会議が終了し、画面が暗くなった。
*
役場の会議室に、古い空調の音だけが残った。
山根村長が腕を組み、美月を見た。
「田中さん」
「はい」
「清澄村だけの特別な体験ではない、と本社へ言われましたな」
「言いました」
「村長としては、あまり気分のええ言葉やない」
「申し訳ありません」
「謝ってほしいわけやない」
山根は一度、間を置いた。
「わしらは、村にしかないものを探してきた。清流、杉、星、廃校、郷土料理。どれも、ほかの村にもあると言われたら、そのたびに、もっと珍しいものを探した」
「はい」
「その結果が、山の上の高級ホテルやった」
藤井が紙コップを片づけながら言った。
「村長は、あの計画に賛成してましたからね」
「分かっとる」
「今も、反対ではなかったと思ってるでしょう」
「条件が合えば、雇用は生まれた」
「山を削って、従業員は村外から送迎する計画でした」
「全部が悪かったとは言うとらん」
二人の間に、以前から繰り返されてきたらしい緊張があった。
「村長は、今回の試行に反対ですか」
美月が尋ねた。
「反対はせん。ただ、一組を呼んで、仲良く山を歩いて終わりでは困る」
「結果は公開します」
「成功せんかった時も?」
「はい」
「会社に都合の悪い数字も?」
「はい」
山根は美月の顔を見た。
「なら、村にも都合の悪い結果を出してくれ」
「どういう意味でしょう」
「村の人間が動かんかった。約束を守らんかった。客に失礼なことを言うた。そういうことがあっても、東京の会社が悪いことにして終わらせるな」
美月は、すぐには答えなかった。
「はい」
「外から来た人だけが間違うわけやない。村の人間も間違う。そこを隠したら、また同じことになる」
山根は立ち上がった。
「一文を決める会には、わしも呼んでくれ」
「次も来ていただけますか」
「村長を呼ばんつもりやったんか」
「一回目にいらっしゃらなかったので」
「県の会議があったんや」
藤井が小さく笑った。
「案内は届いてましたよ」
「お前は黙っとれ」
山根は会議室を出ていった。
*
二回目の話し合いは、一週間後に開かれた。
参加者は二十八人に減った。
その代わり、前回は来なかった人が九人いた。
片山も参加した。
「次も来るとは言うてない」
入口で美月に言った。
「案内は送りました」
「勝手に送ってきたから、仕方なく来た」
「ありがとうございます」
「礼を言われることでもない」
片山は前回と同じ場所へ座った。
今回の議題は三つだった。
一組限定の試行を実施するか。
実施する場合、誰が何を引き受けるか。
計画の判断基準となる一文を決めるか。
美月は本社から承認された費用を、一円単位まで模造紙に書いた。
山路館宿泊・食事費。
森林体験費。
送迎費。
傷害保険と賠償責任保険。
運営準備費。
緊急用通信機器のレンタル。
記録・アンケート作成費。
予備費。
「田中さんの人件費は?」
片山が尋ねた。
「当社負担です。この表には入れていません」
「森下さんの人件費は?」
「役場の通常業務として扱います」
「通常業務が増えるだけやないか」
森下が答えようとすると、美月が先に口を開いた。
「その点は課題です。試行準備に使った時間をすべて記録します。継続する場合は、役場職員の負担も運営費へ含めます」
「村長の人件費は?」
「わしは要らん」
山根が言った。
「要るか要らんかではなく、何時間使ったかは出してください」
美月が答えると、会場に笑いが起きた。
「わしに時間を書けと言うんか」
「はい」
「村長の仕事やぞ」
「今回の事業に使った時間と、通常業務を分けて把握したいです」
「田中さん、村長にも細かいな」
澄江が言った。
「相手によって変えません」
「そこは褒めてませんよ」
前回と同じ言葉に、また笑いが広がった。
試行の実施については、十九人が賛成、三人が反対、六人が保留だった。
美月は多数決で決めようとしなかった。
「反対の方に、理由を伺ってもいいですか」
無記名の男性が手を挙げた。
「一組でうまくいったら、次は十組、百組と増える。最初が小さいから安全とは限らん」
「増やす場合は、もう一度判断します」
「会社は増やしたがるやろ」
「はい」
美月は正直に答えた。
「利益を出すには、一定の人数が必要です」
「ほらな」
「ただし、人数を増やす以外に、滞在価格を上げる、実施回数を限定する、別の収入を組み合わせる方法があります」
「高い金を取って、金持ちだけ呼ぶんか」
「その問題もあります」
「何も解決してないやないか」
「まだ検証していないからです」
男性は不満そうだった。
それでも、美月の言葉を遮らずに聞いた。
「今回の一組を受け入れたあと、二回目を実施しないという選択もできます。反対意見は、試行終了後の判断条件として記録します」
「俺は最後まで反対や」
「理解しました」
美月は模造紙へ書いた。
『規模拡大によって、暮らしへの影響が増える危険』
男性は何も言わなかった。
反対票を取り消すこともなかった。
*
担当者は、必要な作業ごとに決めた。
山路館での宿泊と食事は澄江。
森林散策は颯太。
送迎は井上。
村民会館の調理室では、フミと春江が一回だけ料理を教える。
森下は緊急連絡と施設予約。
大西は災害の話をすることを断った。
「今回は話さん」
「理由を聞いてもいいですか」
美月が尋ねる。
「一組目の客が、どんな人間か分からん。話してええ相手か、会ってから決める」
「分かりました」
「代わりに、川沿いを案内する。昔の道と、新しい道を見せるだけや」
「それには報酬をお支払いします」
「散歩に金は要らん」
「案内としてお願いするなら、必要です」
「わしが要らんと言うとる」
「無料にすると、大西さんの次に案内する人も無料を求められます」
大西は黙った。
「ほんなら、金は学校の草刈りに使え」
「報酬を受け取ったあと、大西さんが寄付するかどうかは自由です」
「面倒なことを言うな」
「続けるためです」
「分かった。受け取る」
美月は担当表へ、大西の名前と金額を書いた。
その横に、実施時間二時間までと記した。
「一時間でええ」
「川まで往復すると、一時間を超えます」
「客の足が遅かったらな」
「だから二時間です」
「一時間半」
「承知しました」
交渉がまとまると、森下が担当表へ丸を付けた。
*
最後に、一つの言葉を決める時間になった。
宿題として持ち寄られた案は、二十六個あった。
『無理を当たり前にしない』
『自分で選ぶ』
『人の暮らしを勝手に使わない』
『来る人も、住む人も、同じ人間』
『できる人が、できる時に、できるだけ』
『残すことより、続けること』
『何もしない時間を残す』
『見てから決める』
『急がない。でも、止めない』
美月は一つずつ読み上げた。
どの言葉にも、提案した人の事情があった。
その中に、竹内結菜が書いた短い案があった。
『置くかどうかは、自分で決める』
「スマートフォンのことですか」
美月が尋ねる。
「それもあるけど、村を出ることもです」
「出ることを置くと言うんですか」
「村に残るか、いったん置いて外へ行くか。戻りたくなったら、また拾えばいいと思ったから」
「村を置いていく言われたら、寂しいな」
年配の女性が言った。
「でも、残れと言われる方が嫌です」
結菜は母親の隣で、まっすぐ前を見ていた。
「高校へ行くなら、村外へ出なあかん。大学へ行きたいなら、もっと遠くへ行く。出ていく前から裏切るみたいに言われたくない」
「誰も裏切りとは言うてない」
「言われてなくても、そういう顔をされます」
女性は黙った。
直樹がオンライン画面の向こうでうなずいている。
「自分で決める、でええんと違うか」
片山が言った。
「何をするにも本人が決める。スマートフォンを置くのも、村を出るのも、仕事を引き受けるのも」
「それだけでは、勝手に何をしてもいいように読めませんか」
美月が尋ねる。
「自分で決めたことの責任は、自分で持つ」
片山が続ける。
「十四の子に、全部責任を持てとは言えません」
結菜の母親が言った。
「責任は周りも持つんや」
春江が答えた。
「本人に決めさせたと言うて、あとは知らん顔するんでは意味がない」
「なら、自分で決めて、みんなで支える」
森下が模造紙へ書いた。
言葉にすると、学校の標語のように見えた。
「少しきれいすぎますね」
颯太が言う。
「お前は文句ばっかりやな」
大西が言った。
「源造さんの案は何です?」
「急がん。でも止めん」
「それも格好つけすぎです」
「お前にだけは言われたない」
会場に笑いが起きた。
美月は、並んだ言葉を見た。
一つを選べば、ほかの二十五を捨てることになる。
すべてを組み合わせれば、覚えられない長さになる。
「試行に参加する家族へお願いするルールと、村が計画を判断する基準は、分けませんか」
美月は言った。
「一つに決める話ではなかったんか」
片山が尋ねる。
「一つにすると、誰のための言葉か曖昧になります」
「また増やすんか」
「二つだけです」
「一つを決める会で、二つになるんやな」
「必要なので」
片山は呆れた顔をしたが、反対はしなかった。
「参加者へお願いするルールは、竹内さんの案をもとにします」
美月は新しい紙に書いた。
『一日のうち一時間、置くものと、向き合うものを、自分で決める』
結菜が首をかしげた。
「何を置くかも、自分で決めるんですか」
「スマートフォンでなくてもいいと思います。仕事、時計、予定表。家族で話して決めます」
「ゲーム機でも?」
「はい」
「親だけが決めるのは?」
「家族全員が、自分の分を決めます」
「お母さんが、私だけスマホを置けって言うのはなし?」
「なしです」
「親も置く?」
「親も、自分で決めます」
結菜は少し考え、うなずいた。
「それならいいです」
「向き合うものは何でもええんか」
大西が尋ねた。
「人でなくても構いません。山、川、料理、本、何もしない時間でも」
「何もしないことに向き合うんか」
「北村さんの希望です」
「私は賛成です」
春江が手を挙げた。
参加者へのルールは、反対二人、保留三人を残したまま、試行で使うことになった。
村側の判断基準には、澄江の案が選ばれた。
『無理を当たり前にしない』
短く、地味な言葉だった。
観光広告には使いにくい。
しかし、無償労働、過剰な集客、村の予算、住民の時間、参加者への強制。そのすべてを確かめる時に使える。
「この言葉で、本社は納得しますかね」
森下が尋ねた。
「させます」
美月は言葉を選んだ。
「強くなりましたね」
「言葉を決めたのは、私ではありませんから」
「だから強く言える?」
「はい」
美月は二枚の模造紙を並べた。
『一日のうち一時間、置くものと、向き合うものを、自分で決める』
『無理を当たり前にしない』
二つの文の下へ、参加者が順番に署名した。
賛成した人だけではない。
反対した人は、反対と書いて名前を残した。
保留の人も、保留と書いた。
大西は署名の横へ、小さく『まず一回』と付け加えた。
片山は『費用公開が条件』と書いた。
結菜は『子どもにも決めさせる』と書いた。
颯太は長い間ペンを持ったまま考え、最後に『増やす時は、もう一度話す』と記した。
美月も署名を求められた。
「私は村民ではありません」
「計画を出す人間やろ」
片山が言った。
「村の条件だけ守らせて、自分は外に立つんか」
美月はペンを受け取った。
『田中美月――できないことを、できると言わない』
書き終えると、片山が読んだ。
「当たり前のことやな」
「はい」
「当たり前のことが、一番守られん」
片山は模造紙を見上げた。
「これで、やっと始められるんと違うか」
誰も拍手はしなかった。
万歳も、記念撮影もなかった。
森下が紙を破らないように丸め、筒へ入れた。
澄江は使った湯呑みを重ね、颯太と大西が座布団を片づけた。結菜は母親に呼ばれるまで、壁に残った自分の言葉を見ていた。
美月は最後の参加者が帰るまで、入口に立った。
外には、細い月が出ていた。
街灯の届かない場所では、人の顔も道の端も見えにくい。
美月はスマートフォンを出し、懐中電灯を点けた。
「使うんですね」
隣にいた結菜が言った。
「今は必要だから」
「いつ置くんですか」
美月は画面に表示された時刻を見た。
午後九時十二分。
「旅館へ戻ったら、一時間置きます」
「何に向き合うんですか」
美月は、すぐには答えられなかった。
仕事も、家族も、村の計画も、考えるべきことは多い。
けれど、それらをすべて一時間へ詰め込めば、何も置いたことにならない気がした。
「今日は、川の音にします」
「聞くだけ?」
「聞くだけです」
「退屈そう」
「たぶん、退屈です」
結菜が笑った。
「私なら、英語の宿題を置きます」
「それは、しなければならないものでは?」
「一時間たったら、ちゃんと拾います」
「忘れないでください」
「田中さんも」
結菜は母親と一緒に、暗い道を歩いていった。
美月は足元を照らしながら、赤い橋へ向かった。
旅館へ着くまで、スマートフォンの明かりは消せない。
必要なものを使うことと、手放せないことは違う。
橋の上まで来ると、山路館の明かりが川面に揺れていた。
美月は立ち止まり、画面を消した。
暗さに目が慣れるまで、何も見えなかった。
やがて、橋の欄干、川の白い流れ、向かいの山の輪郭が、少しずつ浮かび上がった。
美月はもう一度スマートフォンを点けることなく、残りの道を歩いた。




