第六章 村の心臓
旧清澄小学校の中を見たいと申し出てから、許可が下りるまでに十二日かかった。
村有施設なのだから、役場が鍵を開ければ済む話だと、美月は最初、簡単に考えていた。
しかし、藤井から渡された確認事項は七つあった。
建物内部の安全が確認されていないこと。二階東側の廊下には腐食があり、立ち入りを禁じること。写真を撮る場合は、同行者全員の同意を得ること。校内に残された物品を動かさないこと。近隣住民へ事前に知らせること。事故が起きた場合の連絡手段を確保すること。そして、鍵を管理している大西源造の承諾を得ること。
「最後の一つが、いちばん難しいです」
森下は役場の机でそう言った。
「大西さん、まだ返事をくれないんですか」
「駄目とも言ってません」
「では、保留ですか」
「返事をしない、という返事です」
美月には理解しにくい言い方だった。
いつまでに承諾を得られるのかと尋ねると、森下は困ったように笑った。
「期限を決めて答えてくれる人なら、私も苦労しません」
仕方なく、美月はほかの聞き取りを続けた。
山路館の稼働率、村営バスの運行費、診療所へ通う高齢者の人数、空き家の所有者、林道の補修状況。佐藤林業の作業にも二度同行した。
その間、大西の家へ三度足を運んだ。
一度目は留守だった。
二度目は庭先で薪を割っている姿が見えたが、声をかけると、「今、手が離せん」とだけ言われた。
三度目は玄関まで出てきた。
「学校を見て、何をする」
「使える状態かどうかを確認します」
「使えるなら、使うんか」
「それを決めるための材料を集めます」
「誰が決める」
「村の皆さんです」
「村の皆さんいうても、誰や」
答えは、すぐには形にならなかった。
村長なのか、議会なのか、学校の卒業生なのか、近隣住民なのか。それとも、現在の村民全員なのか。
大西は美月の返事を待たず、玄関を閉めた。
四度目に行くべきか迷っているところへ、颯太から電話があった。
『土曜日、朝九時。学校の前』
「許可が出たんですか」
『源造さんが鍵を持ってくる』
「大西さんが?」
『俺から話しました。ただし、条件があります』
「何でしょう」
『パソコンを持ち込まない。最初の一時間は写真も撮らない。見たものを、すぐ値段に換えない』
「値段には換えません」
『田中さん、使えそうなものを見つけると、すぐ数字を出すでしょう』
「仕事ですから」
『だから、一時間だけ我慢してください』
電話の向こうで、機械の動く音がした。
「はい」
『もう一つ。歩きやすい靴で来てください』
「今は防水靴を履いています」
『学校へ来た日のパンプス、あれは村で履く靴やないです』
「もう履いていません」
『なら、よかった』
颯太は笑ったようだった。
通話はすぐに切れた。
*
土曜日の朝、美月は山路館の玄関でスマートフォンの電源を切った。
完全に電源を落としたのは、清澄村へ来てから初めてだった。
普段は通知を消しても、鞄の中に入っていることを意識してしまう。電源の切れた画面は、ただの黒い板に見えた。
「置いていったらどうです?」
玄関を掃いていた澄江が言った。
「緊急連絡のために持っていきます」
「電源を切ったのに?」
「必要になったら入れます」
「なるほど。持っとるだけで安心するんですね」
澄江は箒を動かしながら笑った。
美月はスマートフォンをバッグの奥へしまった。
ノートパソコンは部屋に置いた。代わりに、薄い大学ノートと鉛筆、懐中電灯、マスク、軍手を入れている。
赤い橋を渡り、坂道を上った。
雨のない朝だった。
校庭の草には露が残り、日を受けるたびに細かな光が動いた。二週間前まで赤茶色だった金網には、森下が取り付けた新しい札が下がっていた。
『関係者以外立入禁止』
その前に、四人が集まっていた。
颯太、大西、森下。そして、白い日よけ帽子をかぶった北村春江だった。
春江は七十二歳で、旧清澄小学校の元教員だった。美月もすでに一度、聞き取りをしている。
「先生も来てくださったんですね」
「先生はやめてください。もう十五年も前に退職しました」
春江はそう言ったが、姿勢も声も、教壇に立つ人間のものだった。
「大西さん、本日はありがとうございます」
美月が頭を下げると、大西は腰の鍵束を持ち上げた。
「礼は中を見てからでええ」
鍵束には大小十本以上の鍵が付いていた。大西はその中から黒ずんだ一本を選び、金網の門を開けた。
「勝手に歩かんこと。颯太より前へ出んこと。床に赤い印があるところは踏まんこと」
「理解しました」
「分かったつもりがいちばん危ない」
「では、分からない時は、その都度聞きます」
大西は美月の顔を見た。
何も言わず、門を押し開いた。
草を踏んで校庭を横切る。
近くで見る校舎は、金網越しに見た時よりも傷んでいた。外壁の板は反り、雨樋は途中で外れている。基礎の一部には苔が厚く付着し、北側の軒下には土が盛り上がっていた。
颯太が足を止めた。
「ここ、シロアリが入っとるかもしれません」
屈んで、柱の根元を指で押す。
表面が崩れ、乾いた粉が落ちた。
「構造調査が必要ですね」
美月はノートへ書こうとした。
鉛筆の先を紙に当てたところで、颯太と目が合った。
「記録も駄目ですか」
「記録はええです。ただ、まだ入口ですよ」
美月は鉛筆を止めた。
大西が玄関の鍵を回した。
一度では開かなかった。扉を肩で押しながら、もう一度回す。錠が鈍い音を立て、引き戸が数センチ動いた。
颯太が横から手を添えた。
二人でゆっくり開けると、冷たい空気が流れ出した。
湿った木と埃の匂い。その奥に、かすかな油の匂いが混じっている。
「床、滑りますよ」
森下が言った。
玄関のたたきには枯れ葉が吹き込んでいた。壁際には児童用の下駄箱が並び、色褪せた紙が一枚ずつ貼られている。
六年、五年、四年。
一段の数は、学年が下がるほど少なくなっていた。
「最後の年は、全校で十一人でした」
春江が一番端の下駄箱へ手を触れた。
「一年生は一人。二年生はゼロ。三年生は二人」
「統合先までは、どのくらいかかるんですか」
「車で四十五分。スクールバスが回るから、朝の早い子は一時間以上乗ります」
「冬もですか」
「雪で遅れる日はあります。それでも学校があるだけええと言う親もおります」
美月は、並んだ下駄箱を見た。
木の表面には、油性ペンで書いた名前の跡が残っていた。消された文字もあれば、薄く読めるものもある。
そうた。
美月はその文字を見つけた。
「これ、佐藤さんですか」
颯太は一瞬だけ足を止めた。
「違います」
「同じ名前の方がいたんですか」
「俺ですけど、今の俺とは違います」
春江が笑った。
「颯太君は、雨の日でも傘を差さん子でした。水たまりへ入って、靴下を毎日濡らしてました」
「先生、それは言わんでええでしょう」
「事実です」
「今は人の靴にうるさいのに」
美月が言うと、颯太は下駄箱から目をそらした。
「濡れた靴の不便さを知っとるからです」
森下が声を立てずに笑った。
大西だけは振り返らず、廊下の先へ進んでいた。
*
一階の廊下には、朝の光が斜めに差し込んでいた。
窓ガラスの汚れを通った光の中で、埃がゆっくり動いている。
右側に教室が三つ、左側に職員室、保健室、家庭科室が並んでいた。
廊下の床には、赤い塗料で小さな印がいくつも付けられている。
「去年、颯太に見てもろうた時につけた」
大西が言った。
「ここから先は床板が弱っとる。壁際を歩け」
美月は颯太の足跡をなぞるように進んだ。
最初の教室の札には、「一年・二年」と書かれている。
大西が戸を開ける。
中には机が八つ残されていた。すべて黒板へ向けられているが、列は不揃いだった。教卓の上には、黄色く変色した時間割表が置かれている。
国語、算数、生活、音楽。
黒板の隅に、白いチョークの跡があった。
『またあした』
最後の授業で書かれたものか、それより前のものかは分からない。文字の下半分は湿気で消え、上だけが残っていた。
美月はスマートフォンを取り出しかけた。
颯太の条件を思い出し、手を下ろす。
「撮りたいですか」
春江が尋ねた。
「はい」
「どうして?」
「残しておいた方がいいと思ったからです」
「何のために?」
美月は黒板を見た。
「傷みが進めば、消えるかもしれません」
「消えたら困りますか」
「ここで過ごした人が、困るかもしれません」
「ほんなら、その人に聞かなあきませんね」
春江は教室へ入り、窓際の机へ手を置いた。
「この文字を書いたんは、私かもしれません。別の先生かもしれません。子どものいたずらかもしれません。何でも昔から残っとるように見えるけど、学校いうところは、毎日消して、毎日書き直す場所でした」
黒板消しが教卓の脇に置かれていた。
布地は灰色に固まり、木の持ち手には子どもの指で付けたような黒い汚れが残っている。
「残すことだけが大事やないんです」
春江は言った。
「また書けることも、大事なんです」
美月はノートへその言葉を書いた。
春江が横からのぞき込む。
「私の名前も書いといてください。あとで田中さんの言葉にされると困るから」
「北村春江さん、と」
「元教員、七十二歳」
「年齢も必要ですか」
「田中さん、聞き取りの時に書いてたでしょう」
「統計上、必要だったので」
「ほんなら今も書いといて。七十二の人間が言うんと、二十歳の人間が言うんでは、同じ言葉でも意味が違います」
美月は年齢を書き加えた。
その横へ、線を引く。
『残すだけでなく、また書けること』
書き終えると、春江は満足そうにうなずいた。
*
次の教室には、背の高い棚が並んでいた。
図書室として使われていたらしい。
本の半分はすでに別の施設へ移され、棚には隙間が目立った。残っているのは古い百科事典、郷土史、傷んだ絵本、寄贈印のある文学全集だった。
颯太が一番下の棚から、薄い本を抜いた。
『清澄のむかしばなし』
手作りの冊子だった。
表紙には、川と吊り橋の絵が描かれている。
「これ、まだあったんか」
「颯太君らが作ったんですよ」
春江が言った。
「総合学習で、お年寄りから昔話を聞いて、一人一話ずつまとめました」
颯太が冊子を開く。
子どもの字と色鉛筆の絵が、一ページずつ綴じられていた。
「佐藤さんはどれを書いたんですか」
「忘れました」
颯太はページをめくる速度を上げた。
春江が横から指を差す。
「これです。『夜に鳴く杉』」
「覚えとるやないですか」
「教え子の書いたものですから」
美月ものぞき込んだ。
太い鉛筆で書かれた題名の下に、黒い杉の木が立っていた。枝の間には黄色い目のような丸が二つ描かれている。
「どんな話ですか」
「風の強い晩、山から人の泣く声が聞こえる話です。昔、木を切りすぎた村人が、山の神様に叱られたんやと」
「怖い話ですね」
「颯太君は、途中で話を変えたんですよ」
春江が笑った。
「元の話では、山の神様に連れていかれるんです。それを、村人が杉を植え直して許してもらう話にした」
「子どもの頃から林業向きだったんですね」
美月が言うと、颯太は冊子を閉じた。
「子どもに、人が連れていかれる絵を描けという方が無理でしょう」
「その絵、上手でしたよ。泣きながら連れていかれる源造さんに、よう似てました」
春江の言葉に、大西が振り返った。
「わしか」
「颯太君、悪い村人の顔を源造さんにしたんです」
「覚えとらん」
颯太は冊子を棚へ戻そうとした。
その時、中から折り畳まれた紙が落ちた。
床へ落ちる前に、美月が受け止める。
青い便箋だった。
「すみません」
開かずに颯太へ渡す。
颯太は差出人を見た途端、動きを止めた。
「誰からですか」
春江が尋ねる。
「中村」
「直樹君?」
「たぶん」
颯太は紙を開かなかった。
「卒業してすぐ、引っ越した子ですか」
「ダムの補償で、家ごと橿原へ行った」
大西が答えた。
「仲がよかったんですか」
美月が尋ねると、颯太は青い紙を見たまま言った。
「毎日一緒におっただけです」
「それを仲がよかったと言うんです」
春江が訂正した。
颯太は苦笑し、便箋を広げた。
折り目の部分が弱くなり、紙が今にも裂けそうだった。
「読んでも?」
美月は尋ねた。
「大したことは書いてません」
颯太は便箋を美月へ渡した。
丸い字で、数行だけ書かれていた。
『颯太へ。新しい学校は人が多い。清澄の一年生から六年生までを合わせても、こっちの一クラスより少ない。サッカー部に入った。夏休みに帰る。返事ください。直樹』
余白には、サッカーボールの絵があった。
「返事は?」
春江が尋ねた。
「出してません」
「どうして」
「腹が立っとったから」
「直樹君に?」
「先に村を出たことにです」
颯太は便箋を受け取り、折り目に沿って丁寧に畳んだ。
「家が沈むから引っ越しただけやのに。あいつが選んだわけでもない。分かっとったけど、返事を書く気になれんかった」
「夏休みには戻ってきたんですか」
「一回だけ。俺が避けました」
颯太は冊子の間へ便箋を戻した。
「その次の年から、来なくなった」
春江は何も言わなかった。
大西は窓の外へ顔を向けている。
「今、連絡は取れないんですか」
「取ろうと思えば取れるでしょう。名前も勤務先も、同級生に聞けば分かる」
「では、なぜ――」
美月は途中で言葉を止めた。
自分にも、何年も連絡を取っていない人間がいる。連絡先を知らないわけではない。画面を数回触れれば、言葉を送れる。
送らない理由は、説明できないものの方が多かった。
「学校に残しておくんですか」
「俺が持って帰ったら、直樹の手紙やなくて、俺の思い出になる気がする」
颯太は冊子を元の位置へ差し込んだ。
棚の奥で、青い紙は見えなくなった。
*
一時間が過ぎたところで、大西が腕時計を見た。
「写真、撮るなら撮ってええ」
「ありがとうございます」
美月はスマートフォンの電源を入れた。
起動と同時に、通知が十件以上表示された。
社内メール、ニュース、天気予報、母からのメッセージ。反射的にメールを開きかけ、指を止める。
カメラだけを起動した。
最初に黒板を撮ろうとして、春江を見る。
「撮ってもいいですか」
「私は構いません。ただし、『昔の文字が残っていた』とは書かんといてください。誰がいつ書いたか分かりませんから」
「分かりました」
美月は黒板全体と、教室の床、窓枠、天井の染みを一枚ずつ撮った。
何を撮るかによって、建物の意味が変わって見えた。
黒板だけなら、懐かしい学校になる。
天井の染みを撮れば、改修の必要な老朽施設になる。
窓から見える山を入れれば、観光案内の写真にも見える。
机の傷へ近づけば、誰かの記憶になる。
「写真は便利やな」
大西が言った。
「切り取りたいもんだけ、切り取れる」
「だから、複数の角度から記録します」
「角度を増やしても、写らんもんは写らん」
「写らないものとは?」
「ここにおった人間や」
大西は廊下へ出た。
「次、体育館へ行くぞ」
体育館は校舎の西側にあった。
渡り廊下の屋根には穴が開き、ブルーシートがかけられている。風が吹くたび、シートが大きく膨らんだ。
颯太が先に進み、床を棒で確かめる。
「真ん中を歩いてください。端は雨が入ってます」
体育館の扉は、校舎の玄関よりも重かった。
颯太と森下が左右から引き、大西が下の隙間へ金属板を差し込む。何度か揺らすと、扉が音を立てて動いた。
内部は薄暗かった。
高い窓から入る光が、床の上に四角く落ちている。舞台の幕は片側だけ垂れ下がり、壁には木製の肋木が並んでいた。
バスケットボールのゴールは上へ畳まれている。
その下に、白い線が何重にも引かれていた。
「ここに何人避難したんですか」
美月は声を抑えて尋ねた。
「最初の晩は、百二十三人」
大西が答えた。
「そんなに?」
「上の集落からも来た。犬を連れてきた者もおった。布団を持ってきた者、何も持たずに来た者。雨がひどくて、着いた時にはみんな濡れとった」
「地滑りが起きたのは、その日の夜ですか」
「最初に崩れたんは、三日後や」
大西は体育館の中央へ進んだ。
「雨は一週間近く続いた。山の水が増えて、石垣から濁った水が出始めた。午後三時十八分、役場から最初の避難指示が出た」
美月は校舎正面の時計を思い出した。
「止まっている時計の時刻ですね」
「閉校の日に、わしが止めた」
「避難指示の時刻に合わせて?」
「そうや」
「なぜですか」
大西はすぐには答えなかった。
体育館の床には、深い引っかき傷が残っていた。長い机か、重い棚を引きずった跡のように見える。
「忘れんためや、と言うたら格好はつく」
大西は傷の上を靴でなぞった。
「ほんまは、忘れさせんためや」
「誰にですか」
「村の人間に」
春江が舞台の前に立っていた。
大西はそちらを見なかった。
「地滑りが起きる前、ダムの工事を進めるかどうかで村は割れとった。補償金を受け取って早う出たい者。土地を離れたくない者。危険やから移るべきやと言う者。山は大丈夫やと言う者。家族の中でも意見が違った」
「大西さんは反対していたんですよね」
以前の聞き取りでは、そう聞いていた。
「最初はな」
「最初は?」
「途中から、条件付きで賛成に回った」
美月は大西の横顔を見た。
「なぜですか」
「息子の借金があった」
大西の声は、体育館の天井へ吸い込まれていった。
「製材所を広げようとして、機械を買うた。仕事が減って、返せんようになった。補償金が入れば、土地も借金も片づく。わしは、反対しとった隣の家へ行って、もう決まったことや、条件のええうちに判を押した方が得やと言うた」
颯太が黙って大西を見ている。
「その家は、最後まで判を押さんかった。地滑りで裏山が崩れて、家が住めんようになった。けが人は出んかった。けど、家も畑も失うた」
「大西さんのせいではありません」
美月が言うと、大西は首を振った。
「そう言うてほしくて話したんやない」
低い声だった。
「わし一人が工事を決めたわけやない。わしが山を崩したわけでもない。けど、自分が困っとる時、人の事情まで考えられんかった。それは事実や」
舞台の端で、春江が古いパイプ椅子を起こした。
「避難してからも、毎晩ここで話し合いました」
春江は座面の埃を払った。
「誰がどこへ移るか。残った土地をどうするか。子どもをどこの学校へ通わせるか。大西さんは、前へ出て話をまとめました」
「まとめたんやない。声の大きい者から黙らせただけや」
「それでも、食料の配分も、年寄りの薬も、大西さんが回したでしょう」
「善いことを一つしたら、悪かったことが消えるんか」
「消えません」
春江ははっきり答えた。
「善かったことも、消えません」
二人の間に沈黙が落ちた。
外で風が吹き、屋根のどこかが鳴った。
美月はスマートフォンを下ろした。
録音はしていなかった。
大西の言葉を書き留めようとノートを開き、それもやめた。
「書かんのか」
大西が尋ねた。
「あとで、大西さんに確認してから書きます」
「忘れるぞ」
「忘れた部分を、勝手に補いたくありません」
大西は美月を見た。
「少しは、ましになったな」
「最初は、どのくらいひどかったんですか」
「話を聞いとる顔をしながら、次に聞くことを考えとった」
思い当たることがあり、美月は反論できなかった。
颯太が体育館の壁へ近づいた。
「ここ、見てください」
壁板の下部に、鉛筆や油性ペンで何本もの横線が引かれていた。
線の横には日付と名前がある。
『八月十二日 水ここまで』
『八月十四日 颯太 一二六センチ』
『直樹 一三〇センチ』
美月は屈んだ。
「水位の記録と、身長の記録が同じ壁にあるんですね」
「避難生活が長うなって、子どもが暇を持て余したんです」
春江が言った。
「大人は話し合いばかりしとったから、子どもらはここで遊んどった。水が引いたあと、泥を落とした壁に背をつけて、順番に身長を測ったんです」
「俺、直樹より小さかったんやな」
颯太が線へ指を当てた。
「ずっと俺の方が大きかったと思っとった」
「都合のええ記憶ですね」
春江が言った。
「先生、昔のことを全部覚えすぎです」
「忘れたことの方が多いですよ」
美月はスマートフォンを構えたが、撮影する前に尋ねた。
「この壁は、撮ってもいいですか」
颯太は大西を見た。
大西はしばらく線を眺めていた。
「撮ってええ。ただし、名前は外へ出すな」
「承知しました」
美月は引いた位置から、壁全体を撮った。
画像を確認すると、細い線はほとんど見えなかった。
近づいて撮れば読める。しかし、名前を隠す必要がある。
写真に残すことと、公開することは同じではない。
美月は画像へ「内部記録・公開不可」と印を付けた。
*
体育館を出る頃、空が暗くなり始めた。
天気予報では、夕方まで晴れだったはずだ。
窓の外で杉の梢が大きく揺れている。
「降るな」
颯太が言った。
「予報には出ていませんでした」
「この風のあと、山の向こうから雨が来ます」
大西が足を速めた。
「家庭科室だけ見て、今日は終わりや」
家庭科室には、調理台が四つ並んでいた。
水道の蛇口は錆び、ガス管には使用禁止の札が巻かれている。壁際には古い冷蔵庫と食器棚が残されていた。
春江が食器棚を開ける。
中には、大きさの違う皿や茶碗が重ねられていた。どれも新聞紙に包まれている。
「閉校の時に、処分しきれなかったんです」
「使えますか」
美月が尋ねると、森下が首を振った。
「衛生状態を確認しないと無理です。水道も、何年も止めたままです」
「配管は全部見直しになるでしょうね」
颯太が床下の点検口を見た。
「給湯設備もない。電気も容量が足りんと思います」
美月は調理台の数を数えた。
一台に六人立つとして、二十四人。壁際に作業台を置けば、もう少し増やせる。地元の食材を使った共同調理。旅館の厨房と連携した食事。子どもと高齢者が――
「もう考えとるでしょう」
颯太の声がした。
「何をですか」
「この部屋の使い方」
「可能性を考えることまで禁止されていません」
「顔に出てます」
「どんな顔ですか」
「人より先に、部屋の完成形を見とる顔」
美月は調理台から目を離した。
「思いついたことを、そのまま計画にするつもりはありません」
「でも、田中さんの頭の中では、もう人が並んどる」
言い返そうとして、美月は黙った。
確かに、頭の中では見えていた。
知らない家族が野菜を切り、村の高齢者が竈の使い方を教える。窓の外には山があり、テーブルには携帯電話がない。
まだ水道も使えず、床の安全も分からない部屋に、美月は人を配置し始めていた。
「見えています」
美月は認めた。
「何人くらい?」
「二十四人です」
颯太が呆れたように息を吐いた。
「ほら」
「でも、人数を決めるのは早い。水道、電気、避難経路、衛生管理、運営する人の負担を確認しないといけません」
「それだけですか」
「それだけとは?」
「ここで料理をしたい人がおるかどうか」
美月はノートを開いた。
白いページの上に、最初の質問を書く。
『この場所で、誰と、何をしたいか』
次の行にもう一つ加える。
『したくないことは何か』
「これならどうですか」
颯太がノートをのぞき込んだ。
「最初の質問だけやったら、また田中さんが期待する答えを集めるところでした」
「二つ目も最初から書くつもりでした」
「今、付け足したように見えましたけど」
「気のせいです」
「そういうことにしときます」
颯太の口元がわずかに緩んだ。
「田中さん」
春江が食器棚の奥から声をかけた。
「これを見てください」
棚の一番下に、薄い木箱が入っていた。
蓋には墨で『十年後の清澄へ』と書かれている。
「タイムカプセルですか」
「箱に入れただけですけどね。閉校の年、子どもたちと村の人に手紙を書いてもらいました」
「十年後ということは、もう開ける年を過ぎていますよね」
「三年前に過ぎました」
「なぜ開けなかったんですか」
春江は木箱から手を離した。
「開ける日を決めた時には、みんな集まるつもりでした。けど、十年たったら、村を出た子も多い。亡くなった人もいる。連絡がつかん人もいる。誰が開けてええのか分からんようになったんです」
「村有施設の中にあるなら、所有権は村に――」
言いかけて、美月は口を閉じた。
藤井の言葉が浮かんだ。
登記の話だけではない。
「手紙を書いた人に確認する必要がありますね」
「全員には無理です」
森下が言った。
「差出人の名簿が残っているか調べます。それでも、連絡先の分からない人はいると思います」
「ほんなら、開けん方がええ」
大西が言った。
「でも、このまま置いておけば、湿気で傷むかもしれません」
「傷むから開けるいうのも、勝手な理屈や」
「傷ませるのも、選択の一つです」
美月が言うと、大西が眉を上げた。
「残す、開ける、処分する。何もしないように見えても、置いたままにすると決めていることになります」
「理屈やな」
「はい。ですが、決めないまま失うより、決めてから失う方がいいと思います」
大西は木箱を見た。
春江が蓋の文字を指でなぞる。
「三年前、開けようと言い出せなかったのは私です」
春江が言った。
「どうしてですか」
「夫が書いた手紙が入っています。開ける年の半年前に亡くなりました」
室内が静かになった。
「読めると思ってたんです。十年後の自分へ何を書いたんやろうって、楽しみにしてました。でも、開ける日が近づいたら、怖くなった。私が読みたくないから、みんなにも開ける話をせんかった」
「北村さんだけの責任ではありません」
森下が言った。
「役場にも記録が残っていました。でも、担当者が替わるうちに、話が止まってしまって」
「私も止めた一人です」
春江は木箱を棚へ戻した。
「学校を残したいと言いながら、私は自分に都合のええ状態で止めておきたかったんかもしれません」
美月は、校舎正面の時計を思い出した。
三時十八分で止められた時計。
開ける日を三年過ぎた木箱。
返事を書かないまま残された手紙。
この学校には、時間が止まっている場所がいくつもあった。
けれど、止めた理由は同じではなかった。
忘れさせないため。受け入れられないため。答えを出せないため。誰かが帰ってくるのを待つため。
美月は木箱の写真を撮らなかった。
*
屋根を打つ音がした。
最初は数滴だった雨が、たちまち強くなる。
「来たな」
颯太が天井を見上げた。
家庭科室の窓へ、斜めに雨粒が当たっている。
廊下へ出ると、天井の染みから水が落ち始めていた。床に置かれたバケツへ、一定の間隔で雫が落ちる。
大西が倉庫から別のバケツを取り出した。
「西側も漏れる。颯太、見てくれ」
二人が廊下の奥へ向かう。
森下は役場へ連絡を入れようとしたが、スマートフォンは圏外だった。
「玄関の外まで行かないと、つながらないかもしれません」
「緊急時に連絡できないのは問題ですね」
美月も端末を確認した。
圏外だった。
この場所に、通信から離れる時間を求めて人を呼ぶ。
その発想だけを見れば、都合がよかった。つながらないこと自体を価値にできる。
しかし、けが人が出ても救急車を呼べない場所では、体験以前の問題になる。
美月はノートへ書いた。
『携帯圏外。固定回線停止。緊急通報手段が必要』
続けて、避難経路、非常灯、消火設備、救急箱と書く。
「急に仕事の顔へ戻りましたね」
森下が言った。
「ここは戻らないといけないところです」
「通信が切れることを売りにするなら、つながらない方がええんやないですか」
森下の声には、試すような響きがあった。
「日常の通信と緊急時の通信は分けます。利用者が自分の意思で端末を預けることと、連絡手段が存在しないことも別です」
「そうですよね」
「森下さん、分かっていて聞きましたね」
「以前の会社は、この村を『圏外の楽園』と呼びました」
「高級リゾートの会社ですか」
「はい。村長は喜びました。新聞にも小さく載りました。でも、暮らしている私たちにとっては、電話がつながらんのは楽園でも何でもありません」
森下は窓の外の雨を見た。
「母が一人で住んでいます。転んだ時に電話がつながらなかったらと思うと、いつも不安です。観光客には不便を楽しんでもらい、住民は我慢を続ける。そんな計画なら、私は反対します」
「私も反対します」
「会社が求めても?」
美月はすぐには答えなかった。
会社は収益性を求める。分かりやすい特徴を求める。広告に使える言葉を求める。
『圏外の楽園』
短く、覚えやすい。
清澄村の不便を、外から来る人間の娯楽へ変える言葉だった。
「会社に説明します」
「通らなかったら?」
「計画を変えます」
「どちらを?」
「会社に出す計画をです」
森下は美月の顔を見た。
「田中さん、東京へ戻れなくなるかもしれませんよ」
「三か月後には戻ります」
「そういう意味やなくて」
美月にも分かっていた。
東雲の仕事はすでに岡部が進めている。清澄村で成果を出せなければ、戻ったところで自分の席があるとは限らない。
その不安は、毎朝目を覚ました時から胸のどこかにあった。
「危険なものを、価値があるように見せる計画を出しても、いずれ失敗します」
「前にも、そう思っていましたか」
美月は窓へ流れる雨を見た。
「前は、失敗しない数字を作ればいいと思っていました」
「今は?」
「誰が失敗の責任を引き受けるのか、先に考えるべきだと思っています」
森下はそれ以上尋ねなかった。
*
廊下の奥で大きな音がした。
木材の割れる音だった。
「颯太!」
森下が駆け出そうとする。
「走らんで!」
颯太の声が返ってきた。
美月たちは足元を確かめながら廊下を進んだ。
西側の物置の前で、天井板の一部が落ちていた。颯太と大西は無事だったが、床には濡れた木片と黒い埃が散らばっている。
「梁は?」
美月が尋ねた。
「見える範囲では大丈夫です。ただ、天井裏へ水が回っとる」
颯太は懐中電灯で穴の中を照らした。
「この状態で人を入れるのは無理です」
「今日、私たちは入っています」
「今日も、本当は入れるべきやなかったかもしれません」
颯太の声は硬かった。
「源造さん、前に見た時より傷みが進んどる。次からは調査業者が入るまで立入禁止にしましょう」
「鍵を閉めたまま待っとったら、直るんか」
「直りません。でも、人がけがするよりええ」
「業者を入れる金は、誰が出す」
大西が言った。
「役場は毎年、予算がない言うとる。調査だけして、危険やから壊せと言われるんが落ちや」
「調べんまま安全とは言えんでしょう」
「安全やと言うとらん」
「なら、入れたらあかん」
颯太の声が大きくなった。
大西も引かなかった。
「お前が中を見せろと言うたんやぞ」
「俺は、ここまで傷んどると思わんかった」
「それが見て分かったんやろうが」
「板が落ちてから分かって、田中さんに当たっとったらどうするんです」
「当たっていません」
美月が言っても、二人は聞いていなかった。
「何でも危ない言うて閉めとったら、最後は腐って終わりや」
「残したいから言うとるんです。源造さんは、残したいんか、昔のまま止めたいんか、どっちですか」
大西の顔色が変わった。
颯太も言い過ぎたことに気づいたようだったが、言葉は戻せない。
雨音が強まった。
天井の穴から雫が落ち、砕けた板を濡らしていく。
「まず、全員外へ出ましょう」
美月は言った。
「話は、安全な場所で続けられます」
大西が何か言おうとした。
「大西さん。判断するのは私ではありません。でも、今ここに残るかどうかは、私も判断できます。私は出ます」
美月は玄関の方へ向いた。
森下と春江が続く。
数秒遅れて、颯太も歩き出した。
大西は最後まで天井の穴を見ていたが、やがて懐中電灯を消した。
*
校庭へ出ると、雨は少し弱くなっていた。
四人は体育倉庫の軒下へ身を寄せた。
大西だけが離れた場所に立ち、濡れた校舎を見ている。
颯太は声をかけられずにいた。
美月はバッグからタオルを出し、春江へ渡した。
「ありがとうございます」
春江は帽子を脱ぎ、白い髪の水滴を拭った。
「大西さんも颯太君も、同じものを守ろうとしとるんですけどね」
「方法が違うんですね」
「見とる時間が違うんです」
春江は校舎の正面を見た。
「大西さんは、あの学校が人を守った時を見とる。颯太君は、人がおらんようになって傷んでいく時間を見とる」
「北村さんは、何を見ていますか」
「子どもがおった時です」
「学校を残したいですか」
春江は濡れたタオルを握った。
「前は、絶対に残したいと思っとりました」
「今は違うんですか」
「この建物へ使うお金があるなら、スクールバスを増やしてほしいという親もおります。診療所までの送迎に使ってほしいという人もおる。それを、思い出があるから残せとは言えません」
校舎の二階で、割れた窓ガラスが風に震えた。
「でも、壊して駐車場にするだけなら反対します」
「残すか、壊すかの二つではない?」
「全部残さんでもええんです。使えるところだけ使う。柱や黒板だけ別の場所へ移す。体育館を避難所として直す。いろんな残し方があるでしょう」
「北村さんは、ここで何をしたいですか」
春江は考えた。
「子どもの声を聞きたいです」
「学校として?」
「学校でなくてもええ。遊びに来た子でも、村へ帰ってきた子でも。走ったらあかんところで走って、大人に叱られるくらいがええ」
「ほかには?」
「何もせん日があってもええですね」
「何もしない日?」
「使うと決めたら、毎日何かせなあかんようになるでしょう。催しを開いたり、客を呼んだり、売上を作ったり。そうすると、また誰かが疲れます」
美月はノートへ書いた。
『何もしない日を残す』
「それも、名前を書いてください」
「北村春江さん、七十二歳」
「はい」
春江は満足そうに笑った。
*
雨が上がるまで、四十分かかった。
雲の切れ間から光が差すと、校舎の濡れた屋根が白く光った。
大西が軒下へ戻ってきた。
「颯太」
「はい」
「さっきの板、どのくらい持つ」
「分かりません。次の大雨で、ほかも落ちるかもしれん」
「調査したら、いくらかかる」
「規模によります。まず、建築士に見てもらわんと」
「知っとる人はおるか」
「吉野の古民家を見とる人に聞いてみます。ただし、無料では頼めません」
「わしが出す」
「一人で出したらあきません」
森下がすぐに言った。
「村有施設です。役場へ持ち帰ります。緊急点検の予算が使えないか、藤井課長と確認します」
「また会議か」
「必要な会議です」
「いつ決まる」
「月曜日に話します。水曜日までに返事をします」
森下の答えは明確だった。
大西は少し考え、腰の鍵束を外した。
「それまで、鍵は役場で預かってくれ」
森下は驚いた。
「いいんですか」
「わしが持っとると、また一人で入るかもしれん」
大西は鍵束から学校の鍵を外し、森下へ渡した。
「閉める時は、わしも呼べ」
「はい」
「壊す話をする時も、呼べ」
「はい」
「残す話の時だけ呼ばんようなことは、するなよ」
「しません」
森下は鍵を両手で受け取った。
颯太が大西へ頭を下げた。
「さっきは、すみませんでした」
「何がや」
「止めたいだけなんかって言うたことです」
「間違っとらん」
大西は校舎を見たまま答えた。
「止めたいんやろうな。時計も、箱も、手紙も。その方が、間違えた時まで動かんように思える」
颯太は何も言えなかった。
「けど、建物の方は勝手に動いとる。古うなって、腐って、崩れとる」
大西はため息をついた。
「時間を止めても、物は止まらんな」
春江が帽子をかぶり直した。
「人も止まりませんよ」
「お前は昔から、言わんでええことを言う」
「元教員ですから」
大西の口元がわずかに動いた。
*
門を閉める前に、春江が立ち止まった。
「鐘を見ていきませんか」
「鐘?」
校舎の端に、小さな屋根の付いた鐘が吊られていた。
錆びた鉄の鐘から、太い綱が下がっている。草に隠れて、外からは見えなかった。
「始業と終業の時に鳴らしていました。閉校前は放送設備があったから、ほとんど使いませんでしたけど」
春江が綱を持った。
「鳴らしてもいいですか」
森下は大西を見る。
大西は校舎の鍵を確かめながら言った。
「好きにせえ」
春江が綱を引いた。
最初は、錆びた金具が擦れる音しか出なかった。
もう一度、強く引く。
ごん、と低い音が鳴った。
鐘の音は校庭を渡り、杉の山へ広がった。
小学校の鐘としては低すぎる、重い音だった。
余韻が消える前に、川向こうの道で誰かが足を止めた。
畑にいた女性が顔を上げる。商店の前から、松井フミが出てくる。軽トラックが一台、坂の下で速度を落とした。
春江がもう一度鳴らす。
今度は、さっきより澄んだ音がした。
「鳴るもんですね」
森下が言った。
「鳴らし方を忘れとっただけです」
春江は綱を離した。
遠くから、フミの声が飛んできた。
「何かあったんかあ!」
「何もありません!」
森下が大声で返した。
「何もないのに鳴らしたんか!」
「北村先生が鳴らしました!」
「ほんなら、しゃあないな!」
フミが手を振った。
道を通りかかった軽トラックからも、運転手が片手を上げた。
「一回鳴らしただけで、みんな出てくるんですね」
美月が言うと、大西が鼻を鳴らした。
「昔は、火事か、熊か、集まりの合図やった。音で分かるように、鳴らす回数が違う」
「今も覚えているんですか」
「体が覚えとる」
「学校を使うなら、この鐘も残したいですね」
言った直後、美月は口を閉じた。
また自分が先に決めようとした。
「すみません。今のは取り消します」
「なんでや」
大西が尋ねた。
「残すかどうかを決めるのは、私ではありません」
「残したいと思うたんやろ」
「はい」
「ほんなら、そう言うたらええ。決めるんと、意見を言うんは別や」
美月は鐘を見上げた。
表面は赤く錆び、下部には小さな亀裂が入っている。
「私は、この鐘を残したいです」
「理由は?」
「鳴らすと、人が顔を上げるからです」
大西は答えなかった。
颯太が鐘の金具を確かめる。
「先に修理が必要です。亀裂もあるし、綱も傷んどる」
「いくらかかりますか」
美月が尋ねると、颯太が笑った。
「一時間は、とっくに過ぎましたもんね」
「必要な数字です」
「見積もりは出します。ただし、鐘だけ直しても、学校全部が直るわけやないですよ」
「承知しています」
「直したあとの管理も要ります」
「それも考えます」
「誰が鳴らすかも」
「それは、北村さんが――」
「私は毎日来ませんよ」
春江が言った。
「では、鳴らしたい人が鳴らす」
「夜中に鳴らされたら困ります」
森下が言う。
「使用時間を決めましょう」
「また規則か」
大西が言った。
「必要です」
美月は返した。
「ただし、私一人では決めません」
颯太が鐘の綱から手を離した。
「なら、決める人を集めないといけませんね」
*
その日の午後、五人は山路館の食堂に集まった。
澄江が出した番茶と、フミから届いた草餅がテーブルに並んでいる。
「鐘が鳴ったから、何かあったんかと思うたら、見学してただけやったんやて?」
澄江が呆れたように言った。
「北村さんが鳴らしました」
森下が答える。
「北村先生なら仕方ないですね」
「みんな、私のせいにしますね」
春江は草餅を半分に割った。
大西は学校の中で見たことを、澄江へ説明した。天井板が落ちたこと、雨漏りが増えていたこと、鍵を役場へ預けたこと。
「調査して、危険やったらどうするんです?」
澄江が尋ねた。
「立入禁止を続けます」
森下が答えた。
「直せるかどうか、費用も見ます」
「何千万円もかかる言われたら?」
「村だけでは出せません。補助制度、民間資金、利用計画を合わせて考えることになります」
「その利用計画を、田中さんが作るんですね」
澄江が美月を見た。
「私だけでは作りません」
美月は大学ノートを開いた。
「学校について話す場を作りたいと思います」
「説明会ですか」
「いいえ。説明する案は、まだありません。学校で何をしたいか、何をしたくないか、どこまでなら負担できるかを話す場です」
「住民会議やな」
大西が言った。
「会議と呼ぶと、来ない人が増えます」
森下が苦笑した。
「『旧清澄小学校活用検討会』では?」
「もっと来ません」
颯太が言った。
「では、『学校のこれからを考える会』」
「固いです」
「『学校で何する会』」
「何かせなあかん感じがします」
春江が言った。
名前一つ決まらない。
美月は、いつものように候補を整理し、評価項目を作りたくなった。分かりやすさ、参加しやすさ、目的との整合性。それぞれに点数を付ければ、一つは選べる。
しかし、目の前の四人は、点数ではなく言葉の響きを確かめていた。
「名前はあとでいいんじゃないですか」
美月はノートを閉じた。
「まず、一度集まってみる。来た人で、何と呼ぶか決める」
「それがええ」
澄江が言った。
「名前を決める会、でええやないですか」
「結局、名前が付きましたね」
森下が笑った。
「誰に声をかけます?」
美月は新しいページを開いた。
以前なら、「住民代表」「事業者」「高齢者」「子育て世帯」と分類していた。
今回は、名前を書いた。
北村春江。
大西源造。
佐藤颯太。
西川澄江。
松井フミ。
森下佳奈。
「井上さんにも来てもらいましょう。設備や車のことが分かるから」
森下が言った。
美月は井上亮平と書き加えた。
「子どものいる家は?」
「村内なら九世帯です。全員へ声をかけます」
「村を出た人にも聞くべきや」
大西が言った。
「学校を使ったのは、今村に住んどる者だけやない」
颯太が少し考えてから口を開いた。
「直樹にも、連絡してみます」
春江が顔を上げた。
「手紙を見つけたから?」
「返事を二十年遅れで出しても、ええでしょう」
「何と書くんですか」
美月が尋ねた。
「学校が壊れそうや。どう思う、って」
「最初の連絡としては重すぎませんか」
「ほんなら、何て書けばええです?」
「久しぶり。元気ですか。学校で手紙を見つけました」
「それ、田中さんの文章でしょう」
「一般的な書き出しです」
「二十年ぶりに一般的な文章が来たら、営業かと思われます」
澄江が笑い出した。
森下も笑い、春江は口元を押さえた。
大西は草餅を食べながら、颯太を見た。
「書きたいように書け。返事が来んかったら、また待てばええ」
「二十年待ったんですけど」
「あと一年くらい、変わらん」
颯太は苦笑した。
「源造さんに相談した俺が間違いやった」
食堂の窓から、雨上がりの山が見えた。
薄い霧が川の上へ下り、向かいの斜面を半分隠している。
美月は、その景色を写真に撮らなかった。
*
夕方、部屋へ戻ると、仕事用のスマートフォンに岡部からメッセージが届いていた。
『東雲、基本設計の承認が出た。来週からテナント候補との協議に入る』
添付された写真には、会議室で笑うプロジェクトチームが写っていた。
岡部、奈緒、設計担当者、営業部長。
以前なら、美月が中央に立っていた場所だった。
『おめでとう。順調そうで安心しました』
そう入力したが、送信せずに消した。
安心しているわけではなかった。
悔しさもあった。自分がいなくても進むことへの寂しさも、自分なら別の結論を出したという思いも残っている。
『承認おめでとう。保育施設の調整、大変だったと思います。岡部さんとチームの成果ですね』
書き直して送った。
しばらくして、岡部から返信が来た。
『ありがとう。田中が土台を作ったからだよ。そっちはどう? 答えは見つかった?』
美月は窓辺の「みんなのいえ」を見た。
段ボールの屋根の下に、三人の紙人形が座っている。
『答えより、答える人を集めています』
送信すると、既読が付いた。
『それ、田中が一番苦手だったことじゃないか』
美月は画面を見つめた。
反論の文章をいくつか思いついたが、どれも送らなかった。
『そうかもしれません』
それだけ返した。
ノートパソコンを開く。
新しい企画書の表紙には、まだ題名がない。
美月は白い画面の中央に、一行だけ入力した。
『清澄村における旧小学校活用事業』
しばらく見てから、すべて削除した。
代わりに、今日ノートへ書いた名前を一人ずつ入力する。
北村春江。
大西源造。
佐藤颯太。
西川澄江。
松井フミ。
森下佳奈。
井上亮平。
村にいる三世帯の親と子ども。
村を出た卒業生。
学校を壊したい人。
残したい人。
関心のない人。
その下に、三つの質問を置いた。
『旧清澄小学校で、何をしたいですか』
『旧清澄小学校で、何をしたくありませんか』
『そのために、何なら引き受けられますか』
美月は三つ目の質問を見つめた。
したいことを言うだけでは、計画にならない。
誰が掃除をするのか。誰が客を迎えるのか。誰が鍵を管理し、事故の責任を負い、帳簿を付けるのか。費用が不足した時、誰が頭を下げるのか。
父の作った住宅模型を囲み、家族で笑っていた夜を思い出した。
父は、完成した家の話をするのが好きだった。
誰が借金を返すのか、誰が取引先へ謝るのか、計画が失敗した時に誰が暮らしを支えるのか。その話を、美月は一度も聞かなかった。
聞かなかったのではない。
父が話さなかった。
母にも、美月にも。
美月は四つ目の質問を書いた。
『うまくいかなかった時、誰と話し合いますか』
保存しようとして、ファイル名の入力欄で手が止まった。
いつものように「企画案」「事業計画」「活用方針」と付ける気になれなかった。
『学校についての質問』
そう名付けて保存した。
*
翌朝、美月は再び学校の前へ行った。
門は閉まり、新しい南京錠が掛けられている。
校庭には昨夜の雨が残り、草の間に小さな水たまりができていた。
校舎正面の時計は、三時十八分を指している。
美月は門の外から時計を見上げた。
大西が止めた時間を、勝手に動かすことはできない。
動かすべきかどうかも、まだ分からない。
けれど、時計の下にある校舎は、止まった針とは関係なく傷み続けている。
坂道の下から、軽トラックの音が聞こえた。
颯太だった。
学校の前で車を停め、窓を開ける。
「中には入れませんよ。鍵は役場です」
「分かっています。外から見に来ただけです」
「昨日、あれだけ見たのに?」
「昨日と今日では、違うかもしれません」
颯太はエンジンを切り、車から降りた。
「何か変わりましたか」
「水たまりが増えました」
「それは雨が降ったからです」
「軒下の土も崩れています」
「昨日からありました」
「そうですか」
美月はノートへ書こうとしてやめた。
「佐藤さんは、どうして来たんですか」
「鐘の寸法を測るのを忘れました」
「中へ入れないのに?」
「外から見えるところだけでもと思って」
「同じですね」
「何がです?」
「私も、何か見落としている気がして来ました」
二人は門の前に並んだ。
朝の光が差し込み、止まった時計のガラスが反射した。
「昨日の話し合い、ほんまにやるんですか」
颯太が尋ねた。
「やります」
「人が集まらなかったら?」
「集まった人で始めます」
「文句だけ言う人が来たら?」
「聞きます」
「何も引き受けんのに、要求だけする人もいますよ」
「何を引き受けられるか、尋ねます」
「何もできんと言われたら?」
「それも答えです」
「東京の会社が金を出せと言われたら?」
「会社が出せる条件を説明します。出せない場合も説明します」
「学校を壊せと言われたら?」
美月は校舎を見た。
黒板の文字、青い便箋、身長を刻んだ線、開けられない木箱、落ちた天井板。どれも、一つの結論にはまとまらなかった。
「理由を聞きます」
「残せと言われたら?」
「同じです」
颯太は金網へ手を置いた。
「便利な答えですね」
「答えではありません」
「なら、田中さんは何をするんですか」
「決めるために必要なことを、見えるようにします」
「数字で?」
「数字も使います」
「数字で見えんものは?」
「名前を付けます」
「名前も付けられんものは?」
美月は少し考えた。
「消さずに残します」
颯太が美月を見た。
「企画書に?」
「企画書に入らなければ、別の紙に」
「紙に入らなかったら?」
「覚えておきます」
「忘れたら?」
「誰かに教えてもらいます」
颯太は笑った。
「ずいぶん頼りない担当者になりましたね」
「以前よりは、ましだと思います」
「源造さんと同じことを言いますね」
「大西さんは、『少しは』と付けました」
「なら、少しだけです」
山から風が下りてきた。
校庭の草が一斉に傾き、鐘の綱が揺れた。
鐘は鳴らなかった。
颯太が金網から手を離す。
「直樹に連絡しました」
「返事は?」
「来ました」
「何と?」
「『今ごろか』って」
「怒っていましたか」
「そのあとに、笑ってる顔の絵が付いてました」
「では、怒っていないのでは?」
「二十年ぶりに送ってくる絵の意味なんか、分かりません」
颯太はポケットからスマートフォンを出した。
「来月、村へ帰るそうです。学校を見たいって」
「中へ入れるかは、調査結果を待たないといけません」
「分かってます」
颯太は画面を閉じた。
「でも、外からでもええそうです」
「話し合いにも参加してもらえますか」
「それは本人に聞いてください」
「連絡先を教えてもらえますか」
「先に本人へ確認します」
清澄村へ来たばかりの頃、森下から聞いた言葉と同じだった。
その時の美月は、紹介がすぐに進まないことを非効率だと思った。
今は、颯太が確認すると言った理由が分かる。
「お願いします」
美月はそれだけ答えた。
坂の下で、郵便配達の車が停まった。
運転手が窓から顔を出す。
「昨日、鐘が鳴ったけど、学校また始めるんか?」
颯太が美月を見た。
答えるよう促している。
「まだ、何も決まっていません」
美月は続けた。
「これから、村の皆さんに聞きます」
「何を?」
「ここで何をしたいか。何をしたくないか。それから、何なら引き受けられるかです」
運転手は腕を窓へ置き、しばらく考えた。
「俺は、草刈りくらいやったらできるで」
「お名前を伺ってもいいですか」
「役場に聞いたら分かる」
「ご本人から聞きたいんです」
運転手は笑った。
「川本修司。五十六。郵便局の非常勤。草刈りは月一回まで。それ以上は腰がもたん」
美月は大学ノートを開いた。
『川本修司、五十六歳。草刈り、月一回まで』
「勝手に毎週来ることにせんといてや」
「しません」
「日曜の朝もあかん。釣りに行くから」
「それも書いておきます」
「そこまで書かんでええ」
川本は笑い、車を走らせた。
白い車体が坂を下り、木々の間へ消えていく。
美月はノートを閉じた。
「一人目ですね」
颯太が言った。
「北村さんたちがいるので、八人目です」
「数えるんですね」
「必要ですから」
「何人集まったら、計画を始めます?」
「人数では決めません」
「田中さんが?」
「集まった人たちで決めます」
颯太は校舎を見上げた。
「面倒ですよ」
「はい」
「時間もかかります」
「その点は理解しています」
「会社の期限には間に合わんかもしれません」
美月は止まった時計を見た。
「会社の期限は、会社と交渉します」
「村の時間に合わせるんですか」
「村の時間にも、締め切りは必要です。建物は待ってくれませんから」
「じゃあ、どうするんです?」
「待つことと、進めることを分けます」
美月は門に掛けられた南京錠へ目を向けた。
「安全調査は進める。活用案は急がない。緊急連絡の方法は調べる。誰が何をするかは、本人が決める。できることから始めます」
「きれいに進みますかね」
「進まないと思います」
「最初から弱気ですね」
「きれいに進む計画ほど、どこかに無理があります」
颯太は少し驚いたように美月を見た。
やがて、錆びた鐘へ顔を向ける。
「鐘の見積もり、今週中に出します」
「お願いします」
「無料やないですよ」
「正式に発注します」
「相見積もりも取ってください」
「佐藤さんが言うんですか」
「村の仕事ですから。知り合いやからって俺に決めたら、あとで誰かが困る」
美月は笑った。
「理解しました」
風が再び校庭を渡った。
今度は綱が大きく揺れ、鐘の内側へ金具が触れた。
小さな音だった。
昨日のように、山へ響くほどではない。
それでも、二人は同時に顔を上げた。
校舎の時計は、三時十八分のままだった。
美月は腕時計を見る。
午前八時四十七分。
大学ノートの新しいページに、時刻を書いた。
その下に、川本の名前と、月一回の草刈り。
颯太が連絡した直樹の名前。
緊急点検の期限。
鐘の見積もり。
そして、話し合いの日程を決めること。
書き終えて顔を上げると、朝日が校舎の窓に差し込んでいた。
教室の中は見えない。
ただ、一枚ずつ違う角度で光を返す窓が、長い壁に並んでいた。




