第五章 エピファニー
住民説明会から四日後、美月は東京本社の二十八階にある会議室へ戻っていた。
窓の向こうには、曇った空と高層ビルが広がっている。
村の山々に囲まれている時には、東京へ帰れば視界が開けると思っていた。実際には、ガラスとコンクリートの壁が何重にも並び、遠くまで見えているのに、どこにも抜け道がないように感じられた。
長い会議テーブルの上には、清澄リトリート・プロジェクトの資料が置かれている。
表紙の右上には、美月が追加した「再検討」の文字があった。
「市場分析としては、間違っていない」
小田切営業本部長が、資料を指先でめくった。
「客室数を絞り、単価を上げる。交通条件を考えれば、現実的な方向だ。数字だけを見ればな」
「はい」
「それで、住民の反応は?」
「賛同は得られませんでした」
「全員が反対したのか」
「明確な賛否は取りませんでした。資金負担、雇用の実現性、既存旅館への影響、木材調達、学校の扱いについて、多くの問題が指摘されました」
「それは計画を具体化する段階で調整できる話だろう」
「住民の方は、具体化したあとで意見を聞かれること自体に不信感を持っています」
「今は具体化する前だ」
「完成予想図と五年間の収支計画を見せた時点で、村の方には、すでに決められた計画に見えました」
小田切は椅子の背にもたれた。
「自分で作った資料を、自分で否定するのか」
「資料の見せ方と、提案する時期を間違えました」
「田中君らしくないな」
会議室の端で、誰かがペンを置く音がした。
美月は小田切から目をそらさなかった。
「申し訳ありません」
「謝罪を求めているわけじゃない。次はどうする」
「住民への聞き取りをやり直します」
「四十七人に聞いたんだろう」
「質問に答えてもらっただけでした」
「聞き取りとは、そういうものじゃないのか」
美月は答えようとして、言葉を止めた。
画面の中に並んでいた四十七人分の回答を思い出す。
赤、青、緑、黄色、灰色。
分類されたセルには、人の顔も、声も残っていない。
「私が知りたい項目だけを質問していました」
美月は言った。
「住民の方が話したいことを聞いたわけではありません」
「違いが分からんな」
小田切は黒田へ視線を向けた。
「黒田君、現地責任者のまま任せて大丈夫なのか」
「田中が自分の失敗を説明できているうちは、問題ありません」
黒田は資料を閉じた。
「計画案はいったん白紙に戻す。次回の経営会議には、事業案ではなく、調査方針の見直しを報告する」
「期限は?」
小田切が尋ねる。
「二か月」
「それで案が出なければ?」
「事業継続を再判断します」
美月は黒田を見た。
「二か月後に、事業化の可否を示せばいいですか」
「事業化できないなら、その理由を示せ。無理に案を作る必要はない」
「承知しました」
「ただし」
黒田は美月の前にある資料を指した。
「前回の計画が、なぜ清澄村でなければならなかったのか、俺には分からなかった」
大西源造と同じ指摘だった。
「森林、清流、星空、地域食材。どれも価値はある。だが、似た条件の土地はほかにもある」
「はい」
「清澄村である理由を探せという意味じゃない。理由がないなら、それを認めろ」
「何もないと結論づけてもいい、ということですか」
「会社にとって事業化できるものがない可能性はある」
黒田は窓の外へ目を向けた。
「だが、田中が見つけられていないだけかもしれない。そこは分けて考えろ」
*
会議を終えて自分の席へ戻ると、机の上には別の社員の資料が積まれていた。
美月が清澄村へ行っている間、席は共用の作業スペースとして使われている。引き出しの中に残していた私物は、箱にまとめられ、足元へ置かれていた。
岡部が紙コップを二つ持って近づいてきた。
「お疲れ」
片方を美月の前へ置く。
「ありがとう」
「コーヒーじゃなくて、紅茶。最近、胃が痛いって言ってただろ」
「言った覚えはない」
「昼を食べずにコーヒーばかり飲んでたら、見れば分かる」
岡部は隣の椅子へ腰を下ろした。
「報告会、どうだった?」
「計画は白紙」
「そうか」
「驚かないのね」
「田中が資料の名前に『再検討』なんて付けてる時点で、うまくいってないのは分かる」
美月は紙コップのふたを開けた。
紅茶から、甘い果物の香りがした。
「東雲の方は?」
「順調。来週、テナント候補と二回目の協議」
「医療モールの面積は?」
「田中の案より少し減らした」
「保育施設を増やした分?」
「そう。地域の子育て世帯へ追加で聞き取りをしたら、病院よりも一時保育と短時間の仕事場を求める声が多かった」
「採算は?」
「当初案より落ちる。でも、住宅部分の入居率には効くと思う」
「数字は出した?」
「これから」
「先に変更したの?」
「まだ仮案だよ。住民に聞いてから、数字を作り直してる」
美月は紅茶へ口をつけた。
「私と逆ね」
「何が?」
「私は数字を作ってから、住民に納得してもらおうとした」
「いつもの田中だな」
岡部は冗談のように言った。
美月は笑えなかった。
「悪い。責めたわけじゃない」
「分かってる」
「村の人に、何を言われた?」
「絵に描けないものを、ないことにするなって」
岡部は少し考えた。
「難しいな」
「ええ」
「でも、計画を作る仕事って、最後は何かを絵にしないと進まないだろ」
「そうなのよ」
「なら、絵に描けないものを、どう残すかじゃないか」
「簡単に言わないで」
「ごめん」
岡部は紙コップを持って立ち上がった。
「今日、家へ帰る?」
「そのつもり」
「だったら、仕事しないで帰れよ。ここの仕事は、もう俺たちがやってるから」
慰められたのか、追い出されたのか分からなかった。
岡部が去ったあと、美月は足元の箱を開けた。
予備のパンプス、文房具、過去のプロジェクトで使った名札。底には、東雲倉庫街の完成模型を撮影した写真が入っていた。
美月は箱のふたを閉じた。
*
東京の部屋へ戻ったのは、午後七時前だった。
一か月ぶりの室内には、わずかに埃の匂いがした。
郵便受けにたまっていた封筒をテーブルへ置き、冷蔵庫を開ける。中に残っていたものは、出発前に処分したため、ミネラルウォーターしかない。
美月は配達アプリを開いた。
注文履歴には、同じ店のサラダとスープが並んでいる。画面を下へ動かし、別の店を探す。
決められないまま、十分が過ぎた。
スマートフォンが震えた。
母からだった。
『東京に戻っているの?』
出張日程を伝えていたことを思い出す。
『今日戻りました。月曜日に奈良へ帰ります』
返信すると、すぐに電話がかかってきた。
『日曜日、お墓参りに行かない?』
母の声は、断られることを前提にしているように聞こえた。
「日曜日?」
『忙しかったら、一人で行くけど』
美月はノートパソコンへ目を向けた。
清澄村の聞き取り記録を、東京へいる間に整理するつもりだった。過去の地域再生事例も調べ直したい。
「何時?」
『十時ごろ。駅で待ち合わせればいいでしょう』
「分かった」
『本当に?』
「日曜日は予定を入れてないから」
『じゃあ、お昼も一緒に食べましょう』
母の声が明るくなる。
「うん」
電話を切る。
美月は配達アプリへ戻ったが、画面に並ぶ料理の写真がどれも同じに見えた。
結局、一番上に表示されていた店へ注文した。
待っている間、私用のスマートフォンを充電器へつなぐ。仕事用の端末とタブレット端末も、順番にコンセントへ挿した。
三つの画面に、稲妻の形をした充電表示が現れる。
美月は照明を落とし、ソファへ座った。
清澄村の夜には川の音があった。
この部屋には、冷蔵庫と空調の低い音しかない。
テレビをつける。
ニュース番組の出演者が、誰かの発言について大きな声で議論していた。内容は頭に入ってこない。
スマートフォンで社内チャットを開く。
岡部たちが、東雲の新しい資料についてやり取りしている。
見る必要はなかった。
それでも、画面を閉じられなかった。
*
日曜日、美月は母と父の墓を訪れた。
雨は降っていなかったが、空は白く曇っていた。
母は駅前の花屋で白い菊と淡い紫色の花を買った。美月が持つと言っても、「これくらい大丈夫」と手放さなかった。
墓地へ続く坂道を上りながら、母は近所の話をした。
向かいの家に住んでいた夫婦が、息子の近くへ引っ越したこと。商店街の和菓子店が店を閉めたこと。昔の建設会社の事務員だった女性から、年賀状が届いたこと。
美月は相づちを打ちながら、仕事用のスマートフォンを確認した。
黒田からの連絡はない。
社内チャットには、海外の事例を紹介する記事が届いていた。地方の古い修道院を高級ホテルへ改修した事例だった。
記事を保存する。
「美月」
母に呼ばれ、顔を上げた。
「何?」
「さっきの話、聞いてた?」
「聞いてたよ。和菓子屋さんが閉店したんでしょう」
「そのあとの話」
美月は口を閉ざした。
母は怒らず、小さく笑った。
「仕事なら、仕方ないわね」
「ごめん。急ぎじゃなかった」
美月はスマートフォンをバッグへしまった。
「何の話だった?」
「もういいの」
「よくないから、もう一度話して」
「お父さんの会社にいた山本さんが、美月のことを覚えていたって。立派になったでしょうねと言ってた」
「立派かどうかは分からないけど」
「お父さんが生きていたら、喜んだでしょうね」
母は前を向いたまま言った。
墓石の前へ着くと、二人で周囲の落ち葉を掃いた。
美月が水をくみ、母が花を供える。
線香の煙が、ほとんど風のない空気の中をまっすぐ上った。
手を合わせ、目を閉じる。
何を報告すればいいのか分からなかった。
奈良の村へ行っていること。
そこで、父と同じように、土地へ新しい建物を造ろうとしたこと。
数字では正しいはずの計画が、誰にも受け入れられなかったこと。
美月は目を開けた。
母はまだ手を合わせていた。
*
墓参りのあと、二人は駅の近くにある古い洋食店へ入った。
母はハンバーグ、美月はオムライスを注文した。
「美月がオムライスを選ぶの、珍しいわね」
「そう?」
「子どもの頃は、いつもそれだったけど。大人になってからは、カロリーを気にして頼まなかったでしょう」
「今日はいいの」
料理が届くまでの間、美月はテーブルの端にスマートフォンを置いた。
画面が点灯するたび、無意識に視線が向く。
母もそれに気づいているようだったが、何も言わなかった。
「工作、写真を送ってくれたでしょう」
「うん」
「覚えてた?」
「作ったことは、ほとんど覚えてない」
「あれは、夏休みの宿題だったのよ」
「お父さんが手伝った?」
「屋根だけ少しね。あとは美月が作った」
母は水のグラスを持ち上げた。
「学校へ持っていったあと、お父さんが返してもらいに行ったの」
「どうして?」
「気に入ってたから」
「あんなに曲がった家を?」
「立派な家を建てる人なのに、不思議でしょう」
母が笑う。
「お父さんは、玄関から全部の部屋が見えるところがいいって言ってた」
「全部の部屋?」
「美月が、壁を作らなかったのよ。屋根を外すと、一つの大きな部屋みたいになってるでしょう」
美月は広縁に置いた工作を思い浮かべた。
外側から見ただけで、屋根を外したことはなかった。
「『みんなのいえ』だから、家族がどこにいるか分かるようにしたって、美月が説明したの」
「覚えてない」
「お父さん、ずいぶん喜んでた」
料理が運ばれてきた。
黄色い卵の上に、赤いケチャップがかかっている。
母はナイフとフォークでハンバーグを切り分けた。
「お父さんは、家族が集まる家を造りたかったのよ」
「でも、自分の家は守れなかった」
口にしてから、美月は母の顔を見た。
母は手を止めたが、目をそらさなかった。
「そうね」
「ごめん」
「本当のことだから」
店内には、食器の音と穏やかな音楽が流れている。
「お母さんは、お父さんのことを恨んでた?」
美月は尋ねた。
「恨んだわよ」
母は迷わず答えた。
「会社が大変なことを、最後まで黙ってた。家を担保に入れたことも、知人の借金を保証したことも。私は家族なのに、全部決めたあとで聞かされた」
「お父さんは、心配させたくなかったんだと思う」
「そうでしょうね」
「夢を諦めたくなかった」
「それもあったでしょうね」
母はフォークを置いた。
「でも、夢を持ったことより、一人で決めたことの方が嫌だった」
美月はオムライスへスプーンを入れた。
薄い卵が割れ、白い湯気が上がる。
「もし、お父さんが最初から相談していたら、何か変わった?」
「会社は、どちらにしても駄目だったかもしれない」
「それなら同じじゃない」
「同じではないわ」
母の声は静かだった。
「一緒に決めて、一緒に失うなら、あとに残るものが違うでしょう」
美月は口に運びかけたスプーンを下ろした。
説明会で、源造が言った言葉が重なった。
絵に描けないものを、ないことにするな。
「お父さんが亡くなったあと、会社のことを調べたの」
美月は口を開いた。
「何に投資して、どこで資金が足りなくなったのか。帳簿も見た。あの開発を断っていれば、会社は残ったかもしれない」
「そうかもしれないわね」
「だから、私は間違えない仕事をしたかった」
「うん」
「数字を見れば、防げると思ってた」
「美月は、お父さんとは違うやり方を選んだのね」
「でも、この前、村の人に同じことをした」
母が美月を見る。
「村?」
美月は清澄リトリートの計画について話した。
高い宿泊単価。少ない宿泊客。雇用。収支予測。住民説明会で出た質問。
母は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「美月は、その宿に泊まりたいの?」
話し終えると、母が尋ねた。
「私?」
「自分が泊まりたいと思う場所を造ったんでしょう?」
「市場の需要を調べて決めたの」
「美月が欲しいかどうかは、関係ないの?」
「私一人の好みで事業は作れない」
「そうね」
母はそれ以上言わなかった。
美月は冷めかけたオムライスを食べた。
自分が清澄リトリートに泊まる姿を想像する。
木造の客室。高級な料理。森林散策。星空観察。
きっと写真を撮る。
食事の前にも写真を撮る。森の中でも仕事用のスマートフォンを確認する。星空を撮影しようとして、画面の設定を変え続ける。
清澄村でなくても、同じように過ごす気がした。
*
月曜日、美月は午前十一時発の新幹線に乗る予定だった。
早めに東京駅へ着き、構内のカフェで時間をつぶすことにした。
店内は混み合っていた。
奥に一つだけ空いている席を見つけ、ノートパソコンを開く。コーヒーを一口飲み、清澄村の聞き取り記録を表示した。
『その人が失いたくないもの』
空欄のままの列が並んでいる。
美月はフミの行に、「自分で残ると決める自由」と入力した。
春江の行には、「学校に残る記憶を、誰かの都合で使われないこと」。
亮平の行には、「父親と同じ失敗を繰り返さないこと」。
颯太の行で手が止まった。
村の山。
佐藤林業。
家族。
自分で始めた直接販売。
どれも当てはまり、どれも十分ではなかった。
隣のテーブルに、三人家族が座った。
父親と母親、高校生くらいの娘。
注文を終えると、三人はそれぞれスマートフォンを取り出した。
父親はタブレット端末も開き、仕事のメールらしい画面を見ている。母親は写真が並ぶ投稿を指で流し、娘はイヤホンを耳へ入れた。
同じテーブルを囲んでいるのに、誰も互いを見ていない。
美月も視線をノートパソコンへ戻した。
聞き取り記録を一つずつ読み直す。
隣のテーブルから、母親の声が聞こえた。
「彩、進路希望の紙、明日まででしょう」
娘は顔を上げない。
「分かってる」
「お父さんにも相談したら?」
父親はタブレット端末を見たまま答えた。
「あとで聞くよ」
「昨日も、あとでって言った」
娘の声は小さかった。
「今、仕事の連絡を返してるんだ。大事なことだから、家でゆっくり話そう」
「もういい」
娘はイヤホンを耳の奥へ押し込んだ。
母親が父親を見る。
父親の視線は画面から動かない。
母親も何も言わず、自分のスマートフォンへ戻った。
美月の仕事用端末が震えた。
反射的に手を伸ばす。
岡部からだった。
『東雲の聞き取り結果、共有フォルダに入れた。時間がある時に見てくれ』
急ぎではない。
それでも、美月はファイルを開いた。
隣では三人分の飲み物が運ばれてきた。
誰も顔を上げない。
店員が一つずつテーブルに置き、伝票を端へ差し込む。
「ごゆっくりどうぞ」
三人から返事はなかった。
美月は開いたばかりのファイルを閉じた。
仕事用のスマートフォンを伏せる。
隣の家族を見ている自分も、同じようにノートパソコンと二台の端末に囲まれていた。
*
新幹線の座席で、美月は私用のスマートフォンに表示された通知を見つめていた。
『先週の画面使用時間をお知らせします』
平均、一日八時間四十二分。
仕事用端末とノートパソコンの時間は含まれていない。
内訳には、ニュース、動画、SNS、検索、地図、買い物が並んでいる。
母と過ごした時間より長い。
清澄村で住民の話を聞いた時間よりも長い。
美月はスマートフォンを閉じ、座席のポケットへ入れた。
五分もしないうちに、もう一度取り出した。
特に確認するものはなかった。
ホーム画面を開き、天気予報を見て、閉じる。
また座席のポケットへ戻す。
指先に落ち着かない感覚が残った。
東京駅のカフェで見た家族の姿を思い出す。
父親は仕事をしていた。
母親が見ていたものは分からない。
娘は動画か音楽を聞いていた。
三人とも、必要があって画面を見ていたのかもしれない。
それでも、同じテーブルにいながら、進路希望の話は終わった。
美月はノートパソコンを開いた。
新しい文書に、一行だけ入力する。
『人は、なぜ自然のある場所へ行っても、画面を見続けるのか』
その下に書き加える。
『画面を見ない時間を、自分で選べるか』
検索画面を開き、「スマートフォン 離れる 旅行」と入力した。
デジタルデトックスという言葉が、検索結果に並んだ。
一定時間、スマートフォンやパソコンなどのデジタル機器から離れること。
美月は記事をいくつか開いた。
都市部のホテルが、客室からテレビをなくしている。宿泊時にスマートフォンを専用の箱へ入れる。通知を切り、森林散策や読書を勧める。海外では、電波の届かないことを特徴として紹介する宿もある。
清澄村の旅館で、通信が遅いことに苛立った夜を思い出した。
星空を写真へ収めようとして、何度も設定を変えた。
結局、撮影をやめたあとで、初めて長く空を見た。
佐藤林業の山では、電波が届かなかった。
所有者、価格、補助金、事業計画。考えることは多かったが、木に触れた手の感触は、画面を見ている時には思い出さなかった。
美月は文書へ入力した。
『清澄村の不便さを売る』
すぐに削除する。
颯太なら、村人が困っていることを商品にするのかと言うだろう。
もう一度書く。
『訪れる人が、自分の意思でつながらない時間を選ぶ』
その下に、疑問を並べた。
緊急連絡はどうする。
仕事上、完全に切れない人はどうする。
村人の通信環境改善と矛盾しないか。
端末を預かる場合、紛失や破損の責任は誰が負う。
子どもだけに使用を禁止し、親が仕事を続けたら意味がない。
撮影はどうする。
何をして時間を過ごす。
誰と過ごす。
最後の問いを入力したところで、美月は手を止めた。
誰と過ごす。
東京駅の家族は、三人でいた。
それでも、それぞれ一人だった。
*
清澄村へ戻った夜、山路館の無線通信が使えなくなった。
近くの電柱で設備の不具合が起きたらしく、復旧は翌朝になるという。
「本当に朝まで使えないんですか」
宿泊していた男性客が、ロビーで澄江へ尋ねていた。
三十代ほどの夫婦と、小学生の男の子の三人家族だった。
「申し訳ありません。携帯電話の電波は、玄関の外なら入ると思います」
「明日の仕事の資料を確認したかったんだけどな」
男性は仕事用のスマートフォンを持ち、玄関の外へ出た。
妻も自分の端末を見ている。
「動画が動かない」
男の子がソファに寝転びながら言った。
「今日はもう見なくていいでしょう」
「何すればいいの?」
「本でも読んだら?」
「持ってきてない」
妻は困った顔でロビーを見回した。
澄江が棚の下から、古い箱を取り出した。
「これならありますよ」
中には将棋、オセロ、トランプ、花札が入っていた。
「オセロできる?」
妻が尋ねる。
「知らない」
「やったことないの?」
「スマホならあるけど」
妻は箱から盤を取り出し、男の子の向かいへ座った。
「角を取ったら強いのよ」
「何で?」
「やってみたら分かる」
外で電話をしていた父親が戻ってくる。
「まだ復旧しないって」
「今、オセロしてる」
「懐かしいな」
「お父さん、強い?」
「子どもの頃は、おじいちゃんとよくやったよ」
三人が低いテーブルを囲む。
最初の数分は、父親がルールを説明していた。
やがて男の子が母親の石を一列ひっくり返し、大きな声を上げた。
「見て、全部白になった!」
「本当だ。うまいじゃない」
父親が笑った。
その声につられ、妻も笑う。
美月はロビーの隅で、仕事用のノートパソコンを開いていた。
通信が使えないため、同期されていない資料は開けない。
キーボードへ置いた手を止め、三人の様子を見た。
ゲームの途中、父親のスマートフォンが鳴った。
画面を確認した父親は、電話に出ず、端末を裏返してテーブルへ置いた。
「お父さん、次、黒ね」
「分かってる」
盤の上で、白と黒の石が小さな音を立てた。
*
翌朝、通信は復旧した。
ロビーの無線通信へ接続すると、美月の端末へ一斉に通知が届いた。
メール、社内チャット、ニュース、母からのメッセージ。
画面上部に、次々と表示が重なる。
美月はすぐには開かなかった。
朝食を終えた家族が、玄関で靴を履いている。
男の子は、澄江からオセロの小さな携帯版をもらっていた。
「車でもやろう」
「酔うから、道がまっすぐになってからね」
母親が答える。
父親は仕事用のスマートフォンを確認していたが、男の子に呼ばれると画面を閉じた。
三人が外へ出ていく。
澄江が手を振り、見送った。
「昨日は大変でしたね」
美月が声をかける。
「通信が止まっただけで、宿の人間には何もできませんから」
「お客さんは、最後には楽しそうでした」
「だからええとは言えませんよ」
「忘れてはいません」
「仕事で必要な方もおられます。災害の連絡もあります。つながらんことを喜ぶのは、外から来た人くらいです」
澄江はロビーのテーブルを拭いた。
「外から来た人なら、つながらないことに価値を感じると思いますか」
「人によるでしょうね」
「自分で選んで、一定時間だけスマートフォンから離れる宿泊プログラムは?」
澄江の手が止まった。
「昨日のご家族みたいに?」
「はい」
「スマートフォンを使ったら、怒られるんですか」
「禁止するのではなく、希望する人が預ける形です」
「預かって、壊れたら?」
「管理方法が必要です」
「緊急の電話は?」
「宿の固定電話を連絡先にします」
「写真は撮れませんね」
「カメラを貸し出す方法があります」
「撮った写真は、どうやって持って帰るんです?」
「その場で保存媒体を渡すか、あとで送ります」
澄江は布巾をたたんだ。
「もう計画を作っとるんですか」
「まだです。思いついただけです」
「この前も、最初はそう言うてませんでした?」
美月は黙った。
澄江は責めるような顔をしていなかった。
「まず、自分でやってみたらどうです?」
「私が?」
「一日、スマートフォンなしで過ごしてみるんです。それで困ったことを、美月さんが一番よう分かっとるでしょう」
テーブルの上で、美月の仕事用端末が震えた。
黒田からのメッセージだった。
『昨日送った資料、確認できるか』
美月は画面を見た。
「今日は無理です」
澄江が言った。
「何がですか」
「顔に書いてあります」
*
午前十時、美月は役場へ向かった。
森下は自分の席で、村営バスの利用報告書を作っていた。
「少し時間をもらえますか」
「十五分なら」
「十分で構いません」
美月は椅子を借り、向かいへ座った。
「清澄村を訪れる人に、一定時間スマートフォンから離れてもらう宿泊体験について、どう思いますか」
森下の指が、キーボードの上で止まった。
「また宿ですか」
「宿泊施設を新設するかは決めていません。山路館や既存施設と連携する方法もあります」
「デジタルデトックス、というものですか」
「知っているんですか」
「前に雑誌で見ました」
「需要はあると思いますか」
「都会の人には、あるかもしれません」
「村の人には?」
「関係ないと思います」
「通信が不便な村だからこそ――」
「村は、不便なままでいたいわけじゃありません」
森下の声が硬くなった。
「分かっています。村全体の通信を悪くする話ではありません」
「昔、この役場から救急へ電話をかけるのに、外まで出たことがあります。大雨で固定電話も使えなかった。山へ入った人が戻らなくても、携帯電話がつながらないから連絡できない。私たちは、ずっとつながるようにしてほしいと要望してきました」
「その環境を、観光客へ売ることには抵抗がありますか」
「あります」
森下ははっきり答えた。
「ただ、田中さんが言っているのは、村の人に不便を我慢させることではないんですよね」
「訪れた人が、自分で一定時間だけ端末を預けます。緊急連絡の手段は、別に確保します」
「自分で選べるなら、話は違います」
森下は報告書の画面を閉じた。
「でも、端末を預けたあと、何をするんです?」
「それを考えています」
「星を見るだけで、一日はもちませんよ」
「食事を作る、森を歩く、手紙を書く、村の方から何かを教わる」
「その村の方へ、誰を想定していますか」
「まだ、誰とも話していません」
「先に話してください」
「はい」
森下は少し驚いたように美月を見た。
「今日は素直ですね」
「同じ失敗はしたくありません」
「佐藤さんには?」
「これから話します」
「今朝、学校の壊れた金網を直しに行っています」
「なぜ佐藤さんが?」
「大西さんに頼まれたそうです。役場の予算が付くまで待っていたら、誰かがまた中へ入るからって」
美月は立ち上がった。
「十五分、ありがとうございました」
「まだ八分です」
「十分で済みました」
*
旧清澄小学校へ続く坂道を上ると、金属を打つ音が聞こえた。
颯太は壊れた金網の支柱を立て直し、新しい針金で固定していた。
美月に気づいても、作業を止めなかった。
「役場で聞きました」
「何をです?」
「大西さんに頼まれて、修理していると」
「子どもが入ったら危ないからです」
「手伝えることはありますか」
「ありません」
颯太は針金をペンチでねじった。
前回、赤い橋で別れて以来、二人が話すのは初めてだった。
「この前は、言いすぎました」
美月が言うと、颯太の手が止まった。
「どの部分です?」
「私が何を提案しても反対する、と言ったことです」
「間違ってないかもしれません」
「佐藤さん自身が言っていましたね。新しい話に、最初から悪いところを探していると」
「はい」
「私も、正しい数字があれば人は納得すると思っていました」
「それで?」
「どちらも、すぐには変えられないと思います」
颯太は再び作業を始めた。
「謝りに来たんですか」
「それと、意見を聞きに来ました」
「また計画を作ったんです?」
「作っていません」
「今度は本当ですか」
「思いついたことはあります」
颯太がため息をついた。
「同じやないですか」
「違います。まだ数字も完成予想図もありません」
「聞きます」
颯太はペンチを工具箱へ置き、手袋を外した。
美月は、スマートフォンを一定時間預かる宿泊体験について説明した。
東京駅のカフェで見た家族。
山路館で通信が止まった夜。
自分の画面使用時間。
写真を撮ることをやめてから見た星空。
颯太は口を挟まずに聞いていた。
「それで、この村の圏外を売るんですか」
「そういう言い方はしないでください」
「田中さんが最初に考えたんでしょう」
「考えて、削除しました」
「何で?」
「村の方にとって、通信の不便さは解決すべき問題だからです。外から来た人だけが、それを美化してはいけないと思いました」
颯太は少し考えた。
「村全体でやるんやなくて、来た人が自分で預ける?」
「はい。緊急の連絡先は施設の電話にします。家族全員が参加する。仕事で必要な人には、決めた時間だけ確認してもらう方法もあります」
「仕事の電話が来たら、結局ずっと気にするんやないですか」
「その可能性はあります」
「子どもは預けて、大人だけ使う家族もおるでしょう」
「全員が同じ条件で参加する必要があります」
「写真は?」
「カメラを貸し出す」
「カメラにも画面はありますよ」
「撮影だけなら、スマートフォンより誘惑は少ないと思います」
「誘惑」
颯太がその言葉を繰り返した。
「佐藤さんは、一日にどのくらいスマートフォンを使いますか」
「仕事の連絡と天気予報、木材価格、地図。あとは動画を少し」
「動画を見るんですね」
「見ますよ。山の人間が、夜も木を削っとると思ってました?」
「そこまでは思っていません」
「田中さんは?」
「先週の平均は、八時間四十二分でした」
颯太が目を見開いた。
「一日の三分の一ですよ」
「仕事用端末は別です」
「寝とる時間より長いやないですか」
「自分でも驚きました」
颯太は笑った。
美月が村へ来てから、颯太が声を出して笑うのを初めて聞いた。
「笑うところですか」
「すみません。あまりにも多かったから」
「佐藤さんも調べてみてください」
「嫌です」
「なぜ?」
「八時間を超えとったら、田中さんに笑われるからです」
颯太は工具箱を持ち上げた。
「悪くないと思います」
「何がですか」
「スマートフォンを預ける話です。ただ、それだけでは弱い」
「森下さんにも言われました。預けたあと、何をするのか」
「何をしてもらうか、ではないと思います」
「どういうことですか」
「村へ来た人に、予定を詰め込むんですか。朝から木工、昼は川、夜は星。東京の仕事と同じやないですか」
美月はノートを開きかけ、やめた。
「では、何もしない時間を作る?」
「何もしない時間に金を払う人がおるかは知りません」
「市場調査が必要です」
「また数字ですか」
「需要があるかは確認します。でも、数字だけで計画を決めません」
「前にも聞いた気がします」
「今度は、先に佐藤さんへ話しました」
颯太は金網の内側にある校舎を見た。
「場所は、ここを考えとるんでしょう」
「まだ決めていません」
「顔に出てます」
「ここなら、家族が一緒に何かをする記憶と結びつけられると思いました」
「学校は、観光の道具やない」
「分かっています」
「本当に?」
「だから、中へ入って見たいんです。建物の状態だけではなく、ここで何があったのかを知りたい」
颯太は答えなかった。
止まった時計が、二人の上で三時十八分を指している。
「大西さんに頼んでみます」
しばらくして、颯太が言った。
「佐藤さんが?」
「私が案内するとは言ってません。鍵を開けてもらえるか聞くだけです」
「十分です」
「ただし、写真は勝手に撮らないでください」
「承知しました」
「質問を並べた紙も持ってこないでください」
「何を持っていけばいいんですか」
「自分で考えてください」
颯太は工具箱をトラックの荷台へ載せた。
「佐藤さん」
「まだ何か?」
「画面使用時間、調べたら教えてください」
「絶対に嫌です」
颯太は運転席へ乗り込んだ。
エンジンをかける直前、窓を開けた。
「田中さん」
「はい」
「一日預けるなら、自分で先にやってみた方がええですよ」
「女将さんにも言われました」
「みんな、考えることは同じですね」
トラックが坂道を下っていく。
*
美月は一人で学校の前に残った。
金網の修理された部分は、ほかより銀色が新しい。
隙間から校庭を見る。
伸びた草。傾いたサッカーゴール。雨の跡が残る木造校舎。
もし、ここでスマートフォンを預かったとして、家族は何をするのか。
カレーを作る。
森を歩く。
星を見る。
手紙を書く。
その予定を一分刻みで組めば、また誰かの時間を外側から決めることになる。
美月は仕事用と私用、二台のスマートフォンを取り出した。
どちらも電源を切る。
黒い画面に、自分の顔が映った。
腕時計を見る。
午後一時十二分。
一時間だけ、端末を使わずに歩いてみることにした。
仕事用のバッグへ二台を入れ、ファスナーを閉じる。
校庭の外周に沿って歩く。
最初の五分は、何度もバッグへ意識が向いた。
黒田から連絡が来ているかもしれない。母から返信があるかもしれない。雨が降るかもしれない。今いる場所を地図で確認したい。
それでも、バッグを開けなかった。
坂道を下り、川沿いへ出る。
水面に光が反射している。
岩の上に白い鳥が一羽立っていた。
名前は分からない。
写真も撮れない。
美月は鳥が飛び立つまで、その場に立っていた。
橋を渡ると、フミが店先で野菜を並べている。
「今日は手ぶら?」
美月の手にスマートフォンがないことへ、すぐに気づいた。
「バッグに入れています」
「壊れたん?」
「一時間、使わないことにしました」
「罰でも受けとるん?」
「実験です」
「東京の人は、変わったことするなあ」
フミは笑い、籠から小さなトマトを一つ取った。
「食べる?」
「お金を持っていません」
「スマホと一緒に財布も預けたん?」
「バッグを開けないと決めたので」
「ほな、あとでええ」
初日に聞いた言葉だった。
美月はトマトを受け取った。
店先の椅子へ座り、フミと半分ずつ食べた。
山の天気、今年の野菜、村営バスの運転手が風邪を引いたこと。事業に関係のない話ばかりだった。
一時間は、思っていたより早く過ぎた。
旅館へ戻り、バッグから端末を取り出す。
仕事用のスマートフォンには、三件の通知があった。どれも急ぎではなかった。
私用の端末には、母から返信が届いていた。
『工作の屋根を外してみましたか』
美月は広縁へ行き、段ボールの家を手に取った。
傷めないように屋根を持ち上げる。
中には壁がなかった。
一つの広い空間に、割り箸で作った小さな机が置かれている。机の周りには、紙を折って作った三人の人形が座っていた。
子どもの美月と、父と、母。
色は褪せ、顔は鉛筆の線だけになっている。
美月は三人の人形を見つめた。
机の上には、紙を丸く切った皿が三枚並んでいた。
*
美月はノートパソコンを開いた。
新しい企画書は作らなかった。
代わりに、確認すべきことを一つずつ書き出した。
『端末を預けるのは、希望者だけか。家族全員か』
『緊急連絡と仕事の確認時間をどうするか』
『端末の保管責任を誰が負うか』
『村の通信環境改善と、宿泊体験を分けて考える』
『既存旅館と廃校、どちらを使うか。両方か』
『村人へ新しい負担を押しつけない運営方法』
『何を体験させるかではなく、家族が何を一緒に選ぶか』
最後に、一行だけ加えた。
『何もない村ではなく、画面を閉じた時に残るものがある村』
美月はその文章を企画名にはしなかった。
保存先は、清澄村の共有フォルダではなく、自分の作業用フォルダを選んだ。
ファイル名には、「質問」とだけ付けた。




