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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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第四章 データが導く袋小路

清澄村に来て二十三日目、美月の表計算ファイルには、四十七人分の回答が並んでいた。

 年齢、性別、職業、家族構成、居住年数、村外で暮らした経験の有無。村の長所、生活上の不安、必要だと思う施設、観光客の受け入れに対する考え。

 美月は聞き取った内容を項目ごとに分類し、色を付けていた。

 赤は医療と交通への不安。

 青は雇用。

 緑は自然環境。

 黄色は廃校。

 灰色は、過去の開発に対する不信感。

 画面には、灰色のセルが予想以上に多かった。

 旧清澄小学校を宿泊施設や交流拠点として活用することについては、「賛成」が十五人、「条件付きで賛成」が十九人、「反対」が九人、「分からない」が四人。

 数字だけを見れば、活用を検討できる。

 しかし、「条件付きで賛成」の条件は、人によってまるで違っていた。

 村の負担が増えないなら。

 建物の外観を変えないなら。

 体育館だけは残すなら。

 観光客を増やしすぎないなら。

 若者の雇用につながるなら。

 自分たちも使える場所になるなら。

 条件をすべて満たそうとすれば、何もできなくなる。

 美月はファイルを閉じ、隣に置いたノートを開いた。

 パソコンのデータとは別に、聞き取り中に相手が口にした言葉を、できるだけそのまま書き残すようにしていた。

 始めたのは、佐藤林業を訪ねた翌日からだった。

     *

「学校は残してほしい。でも、残すためだけにお金を使うのは違うと思います」

 そう話したのは、旧清澄小学校で三十五年間教師をしていた北村春江だった。

 七十二歳。閉校時には教頭を務めていた。

 春江の家の応接間には、清澄小学校の写真が何枚も飾られていた。

 運動会、入学式、卒業式。校庭いっぱいに子どもが並んでいる写真もあれば、最後の卒業生三人だけが写っている写真もある。

「建物に思い入れがあるのでは?」

 美月が尋ねると、春江は湯飲みを両手で包んだ。

「ありますよ。あそこで夫と出会いました。娘も息子も通いました。地滑りの時には、体育館で何日も寝ました」

「それなら、保存を希望されるのが自然ではありませんか」

「私の思い出のために、若い人へ修理代を払わせるんですか」

「活用して収益を得られれば、維持費を賄える可能性があります」

「何に活用するんです?」

「それを調べています」

 春江は壁の写真へ目を向けた。

「前の会社も、ホテルにすると言いました」

「村が反対したと聞いています」

「ホテルだから反対したわけではありません」

「では、何が問題だったんですか」

「誰がそこで働くのかも、誰が泊まりに来るのかも、何一つ決まっていませんでした。学校を壊して、外から運んだ材料で建て直す。その完成予想図だけが、先にできていたんです」

「建物の記憶が失われると感じた?」

「記憶は、壁や床だけに残るものではありません。でも、全部きれいに取り替えて、名前だけ『清澄小学校』にするなら、ここに建てる意味はないでしょう」

 美月はノートに書き留めた。

『外観・記憶の継承が条件』

 春江がその手元を見ていた。

「私の話、今ので全部ですか」

「まだ途中です」

「そう」

 春江は少し寂しそうに笑った。

     *

 松井フミは、毎朝七時になると店先に野菜の籠を出した。

 美月が三度目の聞き取りに訪れた時も、曲がったキュウリや、形の不揃いなナスを新聞紙の上へ並べていた。

「村に一番必要なものは何だと思いますか」

 美月が尋ねると、フミは迷わず答えた。

「バス」

「運行本数を増やしてほしい?」

「増やしてほしいけど、乗る人がおらんから無理やろな」

「予約制の乗り合い交通なら、利用者数に合わせて運行できます」

「予約は電話でするん?」

「電話やインターネットで」

「耳が遠い人は?」

「家族や役場が補助する方法もあります」

「家族がおらん人は?」

 美月は答えに詰まった。

 フミはナスを一つ持ち上げ、傷のある部分を指で確かめた。

「娘が大阪におるんです。向こうへ来いって、毎月言われます」

「移る予定は?」

「ない」

「なぜですか」

「ここが家やから」

「ですが、交通や医療に不安がある」

「あるよ」

「それでも残りたいんですね」

「残りたいのと、困っとるのは別や」

 フミは傷のあるナスを、売り物の籠から外した。

「娘には、この村へ戻ってきてほしいですか」

「戻ってきてほしいなんて言えん」

「なぜ?」

「仕事もないし、病院も遠い。孫に不便な暮らしをさせたくない」

「フミさん自身は、不便でも暮らしている」

「私は、自分で決めて残っとるから」

 フミは美月を見た。

「孫には、孫が選べる場所で暮らしてほしい」

 美月はノートへ書いた。

『移住促進には消極的。交通支援を希望』

「東京の人は、何でも短う書くなあ」

 フミが言った。

「発言は別に記録しています」

「短うした方が、分かりやすいんやろ?」

「比較するためには必要です」

「私と誰を比べるん?」

 美月はペンを止めた。

「住民全体の傾向を把握します」

「私も、その全体に入るんやな」

「清澄村の住民ですから」

「そうやけど、何や不思議やな」

 フミは笑い、傷のあるナスを美月へ渡した。

「これは二十円ですか」

「今日は、ただでええ」

「売り物ではないから?」

「話を聞いてもろた代金」

「聞き取りは、私の仕事です」

「ほな、仕事をしてくれた代金」

 押し問答の末、美月はナスを受け取った。

     *

 井上亮平は、村で唯一のガソリンスタンドを経営していた。

 三十四歳。給油だけでなく、タイヤ交換、農機具の修理、高齢者の家への灯油配達も引き受けている。

 美月が訪れた時、亮平は古い軽トラックのボンネットを開け、エンジンの奥へ手を入れていた。

「地域活性化の聞き取りです」

 美月が説明すると、亮平は顔を上げずに答えた。

「忙しいんで、手を動かしながらでええですか」

「構いません」

「どこかへ書くなら、俺は反対派って書いといてください」

「まだ何も提案していません」

「そのうち、観光客を呼ぶって話になるんでしょう」

「観光は、検討分野の一つです」

「ほらな」

 亮平は工具を持ち替えた。

「観光客が来ること自体に反対ですか」

「来るだけなら、別に。ガソリンも売れるし」

「では、何に反対しているんです?」

「村が借金すること」

「現在、村へ借入れを求める計画はありません」

「前も最初はそうでした」

 亮平はエンジンから手を抜き、油の付いた布で指を拭いた。

「昔、山の向こうにリゾート施設を造る話があった。ゴルフ場とホテルと別荘地。父は、その工事で使う重機の整備を請け負ったんです」

「事業は中止になったと聞いています」

「途中で会社が撤退した。父は仕事が増えると思って設備を買い、人も雇った。支払いは一部しか来なかった」

「契約は?」

「契約書はありましたよ。相手の会社がなくなったら、紙だけ残っても仕方ないでしょう」

「その借入金を、このスタンドが負担したんですか」

「父が亡くなるまで返して、残りを俺が返しました。終わったのは三年前です」

「お父様は、いつ亡くなられたんですか」

「七年前」

 美月はノートへ視線を落とした。

「聞かなくてもいいことまで聞きました。すみません」

「聞き取りに来たんでしょう」

 亮平は笑わなかった。

「それでも、聞き方は選ぶべきでした」

「東京の人も謝るんですね」

「佐藤さんにも同じことを言われました」

「颯太に?」

「東京の人は謝らないと思っていたそうです」

「俺は、そこまで思ってません」

 亮平は軽トラックのエンジンをかけた。

 低い音が一度途切れ、二度目で安定した。

「雇用が増える計画なら、賛成する可能性はありますか」

「内容によります」

「村の人を優先的に雇い、地元の事業者へ仕事を発注する計画なら?」

「その『村の人』が、あと何人おるんです?」

「働く意欲のある方はいます」

「六十代、七十代が多いでしょう。旅館の清掃や料理を、毎日できる人が何人おるか数えました?」

「これから確認します」

「観光客が急病になったら? 夜は診療所が閉まってます。救急車が来るまで時間もかかる」

「緊急時の搬送計画は必要です」

「川が増水して、道が止まることもある」

「代替経路は?」

「遠回りの林道がありますけど、大雨ならそっちも危ない」

 美月は次々に書き留めた。

「ようけ書くことがあるでしょう」

 亮平が言った。

「はい」

「それでも、やるんですか」

「まだ、やるともやらないとも決めていません」

「決めるのは、田中さんですか」

 藤井にも言われた言葉だった。

「村と会社が協議して決めます」

「村って、誰のことです?」

 返す言葉が見つからなかった。

     *

 二十三日間で、美月は役場が用意した名簿のほとんどを回った。

 農家、旅館経営者、元教員、林業従事者、主婦、村外へ通勤する会社員。隣町の高校へ通う生徒二人にも、保護者同席で話を聞いた。

 聞き取るほど、意見はばらばらになった。

 観光客を増やしたい人がいる。

 今以上に増えてほしくない人もいる。

 廃校を残したい人がいる。

 壊して別の用途へ予算を回してほしい人もいる。

 若者に戻ってきてほしい人がいる。

 戻ってこいとは言えない人もいる。

 美月は意見を分類し、割合を出した。

 分類すれば、矛盾は小さくなった。

 棒グラフにすれば、多数派が見えた。

 回答数が増えるたび、画面の中の村は扱いやすくなっていった。

 その一方で、聞き取り先で出された食べ物が、旅館の部屋に増えていった。

 フミのナスとキュウリ。春江が持たせた梅干し。農家の夫婦から受け取った小さなジャガイモ。全部を食べ切れず、澄江に頼んで夕食へ使ってもらった。

「村の人は、なぜ毎回何かをくれるんでしょう」

 ある晩、美月が尋ねると、澄江はジャガイモの煮物を取り分けながら答えた。

「ほかに渡せるもんがないと思っとるからでしょう」

「話を聞かせてもらうだけで十分です」

「美月さんには、そうかもしれませんね」

「女将さんは違うんですか」

「私なら、知らん人に一時間も自分の話をしたら、帰ってから不安になります」

「何が不安なんです?」

「余計なことを言うたんやないか。相手はどう受け取ったんやろか。誰かに迷惑をかけんやろか」

 澄江は煮物の鉢を美月の前へ置いた。

「だから、食べ物を渡すんですか」

「渡した方も、もろた方も、それで話が終わったと思えるんかもしれません」

 美月は、照りのある小さなジャガイモを見た。

     *

 現地調査を始めて三週間が過ぎた夜、黒田からオンライン会議の連絡が入った。

 旅館の部屋では通信が安定しないため、美月は役場の会議室を借りた。

 午後八時。役場には、美月と宿直の職員しか残っていない。

 画面の中の黒田は、東京本社の部長室にいた。

『月末の経営会議で、中間報告を出すことになった』

「聞き取り調査は、まだ終わっていません」

『事業案を確定する必要はない。現時点で考えられる方向性を示してくれ』

「村には、一か月間は具体的な提案をしないと伝えています」

『村へ正式に提案しろとは言っていない。社内向けの仮説でいい』

「社内向けの資料が、村へ共有される可能性はあります」

『それを前提に書けばいい』

 黒田は机上の資料へ目を落とした。

『田中。君を急がせたいわけじゃない。だが、会社がこの調査へ費用を出し続けるには、何を検討しているか説明が要る』

「収益性の低い事業だと判断されれば、会社は撤退しますか」

『その可能性はある』

「まだ住民の意向もまとまっていません」

『まとまるのを待っていたら、何年かかる?』

「分かりません」

『だから、期限を区切って調査するんだ』

 美月は画面の横に置いた表計算ファイルを開いた。

 四十七人分の回答。観光客の受け入れに「賛成」と「条件付き賛成」を合わせると、七割を超える。

「高付加価値型の滞在事業なら、可能性があります」

 口にすると、黒田が顔を上げた。

『理由は?』

「村内の宿泊施設は小規模で、団体客を受け入れる余裕がありません。道路や人員を考えても、宿泊者数を大幅に増やす方法は現実的ではない。その一方で、森林、清流、星空、地域食材には強みがあります」

『少人数、富裕層向けか』

「一人当たりの消費額を高めれば、来訪者数を抑えながら収益を確保できます」

『過去の高級リゾート計画との違いは?』

「大規模開発は行いません。村有地や既存施設を活用し、客室数を限定します。運営会社と地域事業者の共同出資も検討します」

『学校は使うのか』

「学校は住民の意見が割れています。最初の事業対象から外します」

『田中は、その案がいいと思っているのか』

「現時点のデータからは、最も可能性が高いと思います」

 黒田はしばらく黙っていた。

『分かった。数字を入れて、たたき台を作ってくれ』

「月末までに提出します」

『村へ出す時は、必ず先に役場と関係者へ見せること』

「承知しています」

 会議が終わる。

 美月は暗くなった画面へ、自分の顔が映っているのを見た。

 会議室の壁には、村の地図が貼られている。

 赤い印が付いている場所は、土砂災害警戒区域だった。

     *

 美月は三日間、ほとんど旅館の部屋から出なかった。

 朝食を終えると役場へ行き、空いている机で資料を作る。夕食後もノートパソコンを開き、深夜まで収支を計算した。

 計画名は、「清澄リトリート・プロジェクト」。

 川沿いにある旧キャンプ場と、使われていない村有の研修施設を改修し、十二室の小規模宿泊施設を造る。客室には吉野杉を使い、地域食材を中心とした料理を提供する。

 滞在者には森林散策、木工体験、星空観察、川辺での食事を用意する。価格は一泊二食付きで一人四万円から六万円。年間稼働率は四十五パーセントから始め、三年後に六十パーセントを目指す。

 初期投資は約五億八千万円。

 運営会社と創生都市開発が中心となって出資し、村の負担は土地と施設の使用権に抑える。国や県の補助制度も利用する。

 雇用は常勤十二人、繁忙期のパート勤務を含めると十八人。

 食材、木材、送迎、清掃、体験プログラムを村内事業者へ委託する。

 数字を入力するたび、計画が現実に近づいていくように見えた。

 類似施設の宿泊単価。

 富裕層向け旅行市場の規模。

 都市部での自然体験需要。

 候補地から主要駅までの移動時間。

 競合施設の数。

 初年度の赤字は避けられないが、四年目には単年度黒字へ転換する。

 美月は五年分の収支予測を完成させた。

 住民の意向については、円グラフを入れた。

『観光客の受け入れに賛成・条件付き賛成――七十二パーセント』

 灰色の「条件付き」を、賛成と同じ色へ変えた。

 見た目が分かりやすくなった。

     *

 住民説明会は、月末の金曜日に開かれた。

 場所は、役場の隣にある村民ホールだった。

 折り畳み椅子が四十脚ほど並べられ、前方にはスクリーンと演台が置かれている。

 美月は開始一時間前に会場へ入り、プロジェクターと音響を確認した。

 森下が受付用の机を運んでくる。

「資料、二部足りません」

「予備を印刷します」

「それと、大西さんが来るそうです」

 美月の手が止まった。

「会っていただけないと聞いていました」

「説明会なら話は別だそうです。個別の聞き取りは断られましたけど」

「なぜですか」

「本人に聞いてください」

 森下は受付名簿を机へ置いた。

「この資料、昨日初めて見ました」

「役場へは三日前に共有しています」

「課長と村長は見ています。私は昨日まで見せてもらえませんでした」

「担当者なのに?」

「それが役場です」

 森下の言葉には、抑えた苛立ちがあった。

「内容について、意見がありますか」

「あります」

「なぜ、昨日のうちに言わなかったんです?」

「田中さんが、聞く時間を作らなかったからです」

 美月は反論できなかった。

 三日間、資料作成に集中するため、森下からの電話にも短い返事しかしていなかった。

「今から聞きます」

「もう説明会が始まります」

「要点だけでも」

 森下はスクリーンに映る完成予想図を見た。

 川沿いに木造の客室が並び、白い服を着た宿泊客がテラスで食事をしている。

「ここに描かれている人、村の人じゃないですね」

「宿泊客です」

「働いている人は?」

「裏側の運営計画に載せています」

「完成予想図には、一人もいない」

「イメージ図ですから」

「そうですか」

 森下は受付へ戻った。

     *

 午後六時半を過ぎると、住民が少しずつ集まり始めた。

 春江、フミ、亮平、澄江、颯太、義一。聞き取りに応じた人の顔が、折り畳み椅子の間に見える。

 最後に、白髪の老人が入ってきた。

 背は高くないが、杖を使わず、まっすぐ歩いている。紺色の上着を着て、胸のポケットに古い手帳を差していた。

 森下が美月のそばへ来た。

「あの方が、大西源造さんです」

 源造は最前列ではなく、後ろから二列目の端へ座った。

 美月が挨拶しようと近づくと、源造は顔を上げた。

「田中美月さんですな」

「はい。本日はありがとうございます」

「話はあとでええ。先に聞かせてもらいます」

 源造はそれだけ言い、前を向いた。

 午後七時、村長の山根が開会を告げた。

「本日は、創生都市開発の田中さんから、これまでの調査結果と、考えられる事業の方向性について説明していただきます。今日は決定の場ではありません。皆さんの意見を伺うための、たたき台です」

 美月は演台に立った。

 照明を落とすと、住民の顔が暗くなる。

「田中美月です。清澄村へ来て約一か月、四十七名の方にお話を伺いました。本日は、その結果と、現時点で考えられる事業案をご説明します」

 最初に、人口と産業のデータを示した。

 人口減少率、高齢化率、宿泊者数、観光消費額。

 続けて、住民アンケートの結果を映す。

「観光客の受け入れについて、賛成または条件付きで賛成と答えた方は、全体の七十二パーセントでした」

 前方で、春江が資料へ目を落とした。

「一方、大規模な開発への不安、村の財政負担、自然環境への影響を心配する意見も多くありました。そこで、大人数を呼び込む観光ではなく、少人数を対象とした高付加価値型の滞在施設を提案します」

 完成予想図を映す。

 会場の空気がわずかに動いた。

「清澄リトリート・プロジェクトです。旧キャンプ場と村有研修施設を活用し、全十二室の宿泊施設を整備します。客室数を限定することで、自然環境と生活への影響を抑えながら、一人当たりの消費額を高めます」

 宿泊単価、稼働率、雇用人数、収支予測。

 数字を一つずつ説明する。

 住民は静かに聞いていた。

 質問も、私語もない。

 美月はそれを、計画への関心と受け取った。

「食材、木材、送迎、清掃、体験プログラムについては、村内の事業者へ優先的に発注します。林業体験や木工体験を通じ、吉野杉の価値を直接伝えることもできます」

 後方に座る颯太は、資料ではなく美月を見ていた。

「初期投資は約五億八千万円を想定しています。創生都市開発と運営会社による出資を中心とし、補助制度を組み合わせることで、村の財政負担を抑えます」

 最後のスライドを表示する。

『自然を消費する観光から、自然と共存する滞在へ』

「以上が、現時点での提案です。ここから皆さんの意見をいただき、計画を修正したいと考えています」

 美月が一礼する。

 照明がついた。

 住民の表情が戻ってくる。

 最初に手を挙げたのは、井上亮平だった。

「五億八千万円のうち、補助金はいくらですか」

「現時点では、対象となる制度を精査しています。最大で事業費の三分の一程度を想定しています」

「それ以外は、会社が全部出すんですか」

「運営会社や金融機関からの借入れも含めます」

「村の保証は?」

「今の段階では求めません」

「今の段階では、ですか」

「事業の枠組みが決まっていませんので、将来の条件までは断言できません」

「なら、村に負担がないとは言えませんよね」

「負担を最小限にする方針です」

「最小限が、いくらか聞いているんです」

 問いだけが胸に残った。

「現時点では、金額を示せません」

 亮平は手を下ろした。

「前も、最初は同じでした」

 会場の何人かがうなずいた。

 次に、フミが手を挙げた。

「十八人雇うと書いてあるけど、誰を雇うん?」

「村内から募集します」

「若い人、そんなにおらんよ」

「村外から通勤する方や、移住希望者も対象になります」

「移住してきた人は、どこに住むん?」

「空き家の活用を検討します」

「持ち主が分からん家もあるし、住めるように直す金も要るよ」

「それも今後、調査します」

「調べてないのに、十八人って決めたん?」

 小さなざわめきが起きた。

「必要な人員として試算しています」

「必要なのと、来てくれるのは別やろ」

 フミの声は責める調子ではなかった。

 ただ、本当に分からないことを尋ねている。

「はい。その点は、採用可能性を含めて確認します」

 春江がゆっくり手を挙げた。

「学校は、どうなりますか」

「今回は、住民の意見が分かれているため、対象から外しました」

「外したというのは、何もしないということですか」

「事業の第一段階では使いません。収益が安定したあと、改めて活用を検討します」

「あと、というのは何年後です?」

「早くても三年目以降です」

「その間に、建物が傷みます」

「最低限の維持管理は必要です」

「その費用は村が払うんですね」

 美月は言葉を選んだ。

「現状と同じです」

「それなら、この計画で学校の問題は何も解決しません」

「すべてを一度に解決することはできません」

「承知しています」

 春江は資料を閉じた。

「でも、私は学校を残してほしいと言ったんではありません。残すなら、誰のために残すのか考えてほしいと言ったんです」

「記録しています」

「記録した結果が、三年後ですか」

 美月の胸に、小さな苛立ちが生まれた。

「学校を最初の事業へ入れれば、反対する方もいます。意見が割れている以上、優先順位を下げる判断は必要です」

「私たちの意見を聞いた結果、話しにくいことを後ろへ回したんですね」

 春江の言葉に、会場が静まった。

「そういう意図ではありません」

 美月の声が硬くなった。

 颯太が手を挙げた。

「客室に吉野杉を使うと書いてあります。必要な量は計算していますか」

「概算で計上しています」

「どこの山から出すんです?」

「地元の事業者と相談して決めます」

「乾燥と加工は?」

「対応できる事業者へ委託します」

「村内では全部できません」

「広域での連携も検討します」

「地元の木を使うと言いながら、外へ運んで加工して、また戻すんですか」

「品質と納期を確保するために必要なら」

「それで、村の仕事になるんです?」

「伐採と供給は、村内で行えます」

「今の木材価格で?」

 颯太の声には、山で話した時とは違う冷静さがあった。

「宿泊施設向けの高品質材として、通常より高い価格で調達することを想定しています」

「誰が、その価格を決めたんですか」

「類似施設の建設費を参考にしています」

「うちの事業計画は、まだ見せてませんよね」

「佐藤林業だけを前提にした計画ではありません」

「清澄村の林業を使う計画やのに、村の林業事業者と価格も量も話してないんですか」

 美月は演台の端を握った。

「今日は、たたき台です。詳細は、これから関係者と協議します」

「完成予想図まであるのに?」

 誰かが後ろで言った。

 山路館の澄江が手を挙げた。

「宿泊客に料理を出すのは、運営会社ですか」

「はい。ただし、地元の方の雇用と、食材の調達を想定しています」

「うちの旅館とは、競合しますね」

「客層と価格帯が異なります」

「高い宿へ泊まれん人だけ、うちに来るということですか」

「そういう意味ではありません」

「美月さんは、来てからずっとうちに泊まっています。部屋も料理も見ました。それでも、新しい宿が必要やと思ったんですね」

 美月は澄江の顔を見た。

「山路館だけで受け入れられる人数には限界があります。新しい需要を獲得するには、異なる選択肢が必要です」

「新しい宿ができても、うちが残れる数字になっていますか」

 収支予測には、新施設の売上しか入れていなかった。

 既存旅館への影響は、定量化できず、参考項目にとどめている。

「影響は今後、分析します」

 澄江はうなずいた。

「分かりました」

 その顔には、納得も怒りも浮かんでいなかった。

     *

 質問が途切れたところで、大西源造が手を挙げた。

 会場にいた人たちが、一斉に後ろを振り返った。

「前へ出た方がよろしいですか」

 村長が声をかけた。

「ここでええ」

 源造は椅子に座ったまま、美月を見た。

「あんた、何人に話を聞いたと言いました?」

「四十七人です」

「名前は覚えとりますか」

「全員ではありませんが、記録しています」

「今、質問した人の名前は?」

「井上亮平さん、松井フミさん、北村春江さん、佐藤颯太さん、西川澄江さんです」

「よう覚えとる」

 源造は胸のポケットから手帳を出した。

「井上君の父親が、前の開発で何を失ったかも知っとりますな」

「借入金と事業を」

「フミさんが、娘さんに戻ってきてほしいと言わん理由は?」

「仕事と医療、交通への不安です」

「北村先生は、学校を残せと言いましたか」

「残すなら、誰のために残すのか考えてほしいと」

「佐藤林業は、何に困っとる?」

「木材価格、輸送費、人手不足、所有者不明山林、販売先です」

 源造は一つずつうなずいた。

「あんたは、よう聞いとる。数字も人の言葉も、よう覚えとる」

 褒められているようには感じなかった。

「ありがとうございます」

「それで、できたのが、これですか」

 源造が資料を持ち上げた。

「はい」

「この計画でなければならん理由が、分からん」

「村の自然環境と地域資源を――」

「その言葉は、もうええ」

 源造の声は大きくない。

 それでも、美月は話を止めた。

「山があって、川があって、星が見える村は、日本中にあります。この絵の建物は、どこの山へ置いても同じでしょう」

「吉野杉や地域食材を活用します」

「名前を入れ替えたら、よその村でも使えます」

「市場の需要から逆算して、成立する事業を考えました」

「誰のために成立させるんです?」

「村の雇用と収入のためです」

「村の人間が欲しいと言ったもんを造るんやなく、東京の客が欲しいもんを造って、村の人間に働けと言うんですな」

「そのような言い方はしていません」

「資料には、そう書いてあるように見えます」

 美月の声が強くなった。

「住民の皆さんからは、雇用が必要だという意見が多くありました。しかし、観光客を大量に呼ぶことには反対が多い。村の財政負担も抑えなければならない。それらの条件を満たすために、少人数で高い収益を得る案を作りました」

「数字の上では、正しいんでしょうな」

「数字だけで作ったわけではありません」

「ほんなら、あんたが聞いた四十七人の顔が、この絵のどこにおる?」

 スクリーンには、木造の客室と、テラスで食事をする宿泊客が映っている。

 森下の言葉を思い出した。

 ここに描かれている人は、村の人ではない。

「完成予想図に、すべてを描くことはできません」

「そうですな。描けんもんは、あとで考えたらええ」

 源造は資料を膝へ置いた。

「ダムの時も、完成した湖のきれいな絵を見せられました。道路ができる。仕事が増える。若い者が戻る。村が豊かになる。絵の中には、沈む家も、割れる土地も、補償金で口をきかんようになる隣同士も描いてなかった」

 会場の空気が重くなる。

「私は、ダム建設と同じ規模の開発を提案しているわけではありません」

「大きさの話をしとるんやない」

 源造は美月をまっすぐ見た。

「絵に描かれんもんを、ないことにするなと言うとるんです」

 美月は口を閉じた。

 源造は手帳を胸のポケットへ戻した。

「わしからは、それだけです」

     *

 説明会は、予定を四十分過ぎて終わった。

 計画への賛否は取られなかった。

 村長は「今日の意見を踏まえ、改めて検討する」と締めくくった。

 住民たちは椅子を片づけながら、互いに小声で話している。

 誰も美月のところへ来なかった。

 春江は資料を受付へ返した。

「お持ち帰りください」

 森下が言ったが、春江は首を振った。

「家に置いときたくないから」

 フミは美月を見つけると、気まずそうに小さく手を振った。それから亮平の軽トラックに乗り、帰っていった。

 澄江は先に旅館へ戻った。

 颯太は義一と一緒に椅子を運んでいる。

 美月はノートパソコンとケーブルを片づけた。

「今日は、ありがとうございました」

 森下へ言うと、森下は受付名簿を見たまま答えた。

「私は、何もしてません」

「会場の準備と住民への連絡をしてくれました」

「そういう意味じゃなくて」

 森下は名簿を閉じた。

「私も、この計画に意見を言えばよかった」

「昨日見たばかりでは、難しいでしょう」

「三日前に見ていた課長と村長は、何も言いませんでした」

「役場として、住民の反応を確認したかったのかもしれません」

「田中さんが矢面に立つと分かっていて?」

 美月は手を止めた。

「仕事ですから」

「そう言うと思いました」

 森下は名簿を抱え、会場を出ていった。

     *

 外はすっかり暗くなっていた。

 役場から旅館へ戻る道には、街灯が少ない。

 美月はスマートフォンの照明をつけ、赤い橋へ向かって歩いた。

 背後から足音が近づいてくる。

「一人で帰るんですか」

 颯太だった。

「歩ける距離です」

「夜は車が飛ばすことがあります。端を歩いてください」

「その点は理解しています」

 颯太は美月の少し後ろを歩いた。

「何か言いたいことがあるなら、言ってください」

 美月が立ち止まる。

「別に」

「説明会で質問したでしょう」

「聞きたいことを聞いただけです」

「佐藤さんは、最初から反対だったんですか」

「計画を見たのは今日が初めてです」

「資料は役場に渡しました」

「私は役場の人間やない」

「林業を計画へ入れるなら、事前に相談するべきだったと言いたいんですね」

「そうです」

「でも、佐藤さんは事業計画を見せることさえ考えると言ったまま、返事をしなかった」

「せやから、話をせずに勝手に計算したんですか」

「概算です。正式に依頼する段階ではありません」

「それなら、村の木を使うなんて書かんかったらよかった」

「地域の木材を使わない計画なら、もっと反対されたでしょう」

「反対されんために入れたんですか」

 美月は言葉を失った。

 颯太は視線をそらし、暗い川を見た。

「一か月は提案せずに話を聞くと言いましたよね」

「会社から中間報告を求められました」

「会社に出す資料を、何で住民説明会に出したんです?」

「役場が、早い段階で意見を聞いた方がいいと判断したからです」

「田中さんは、どう思ったんです?」

「私も必要だと思いました」

「聞き取りを続けるより?」

「期限があります」

「村には、その期限は関係ないでしょう」

「会社が撤退すれば、この事業自体がなくなります」

「まだ何も始まってません」

 颯太の言葉が胸に刺さった。

「だから、始めるために計画を作ったんです」

「始めることが先になってませんか」

「何もしなければ、人口も産業も減り続けます。佐藤林業だって、今のままでは厳しいと言ったでしょう」

「せやから、納得してない計画でも受け入れろと?」

「そうは言っていません」

「なら、何で私らの名前を使ったんです」

「名前は使っていません」

「吉野杉、林業体験、地元事業者。うち以外に誰がおるんです?」

 美月はスマートフォンの照明を消した。

 暗さに目が慣れると、川面に星の光が揺れているのが見えた。

「佐藤さんは、私が何を提案しても反対するんじゃないですか」

 口にした瞬間、颯太の顔が硬くなった。

「そう見えますか」

「私の言葉を、いつも過去の会社と同じ意味に置き換える。可能性を話せば、前の会社も同じことを言った。資源と言えば、村を利用するつもりだと決めつける」

「田中さんは、自分が前の人と違うと思ってるんですね」

「少なくとも、四十七人に話を聞きました」

「聞いただけです」

「では、どうすればいいんですか」

 声が大きくなった。

 川の音が、二人の間を流れている。

「話を聞けと言われたから聞いた。数字だけで判断するなと言われたから、住民の言葉も記録した。大規模開発を避け、財政負担を抑え、観光客を増やしすぎず、雇用を作る計画を考えた。それでも違うと言うなら、何が正しいのか教えてください」

 颯太はすぐには答えなかった。

「正しい答えなんか、私は持ってません」

「それなら、間違いを指摘するだけですか」

「分からんまま進めるのが怖いだけです」

 颯太の声は低かった。

「父は、前の開発で木材を納める話を信じました。新しい製材機まで入れた。計画が止まって、借金だけ残った。井上さんのところだけやない。みんな、どこかで金を使い、誰かを信じた」

「失敗が怖いから、何もしない?」

「そうです」

 颯太は認めた。

「私は、変えるのが怖い。今のままでは続かんと分かっていても、新しい話が来たら、また同じことになると思う。せやから、田中さんの言うことに、最初から悪いところを探してる」

 美月は颯太を見た。

「それを分かっていて、止められないんですか」

「田中さんも、数字にできることしか信じられんのを、分かっていて止められんでしょう」

 美月は返事をしなかった。

 颯太は旅館とは反対側の道を指した。

「私はこっちです」

「送ってくれるんじゃなかったんですか」

「赤い橋まで来たら、旅館は見えます」

 橋の向こうに、山路館の明かりが小さく灯っている。

「おやすみなさい」

 颯太は背を向けた。

「佐藤さん」

 美月が呼び止める。

 颯太は立ち止まったが、振り返らなかった。

「次に林業を計画へ入れる時は、先に話します」

「次があるなら」

 颯太は暗い道を歩いていった。

     *

 山路館へ戻ると、夕食は部屋に用意されていた。

 料理にはふたがされ、脇に澄江の字で短い紙が置かれている。

『お疲れさまでした。温め直しますので、声をかけてください』

 美月は澄江を呼ばなかった。

 冷めた煮物を一口食べ、箸を置いた。

 ノートパソコンを開く。

 住民説明会の資料が表示される。

『観光客の受け入れに賛成・条件付き賛成――七十二パーセント』

 美月は元の回答データを開いた。

「条件付き賛成」だけを抽出する。

 十九人。

 その条件を、一人ずつ読み直した。

『村が借金をしないなら』

『今ある旅館や店が困らないなら』

『働く人を外から連れてくるだけでないなら』

『学校を置き去りにしないなら』

『山を勝手に使わないなら』

『災害時の安全を考えるなら』

『外の会社が途中で逃げないなら』

 どの条件も、提案には十分に反映されていなかった。

 美月は円グラフを削除した。

 完成予想図も削除する。

 宿泊単価、稼働率、収支予測は残った。

 数字だけになった資料は、どこの土地にも置ける計画に見えた。

 ファイル名の末尾に「再検討」と付けて保存する。

 次に、四十七人分の聞き取り記録を開いた。

 美月は最初の列に、新しい項目を追加した。

『氏名』

 その隣に、もう一列加える。

『その人が失いたくないもの』

 四十七行の空欄が並んだ。

 フミの行にカーソルを置く。

 家。

 娘との関係。

 自分で残ると決める自由。

 どれを入れるべきか分からなかった。

 美月は何も入力せず、画面を閉じた。

 窓の外から、川の音が聞こえている。

 広縁に置いた段ボールの家は、暗がりの中で窓だけをこちらへ向けていた。


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