第三章 森の男
翌朝、美月は鳥の声で目を覚ました。
枕元に置いたスマートフォンを見ると、午前五時四十七分だった。
アラームは六時半に設定してある。まだ眠れる時間だったが、窓の外から聞こえる声は一種類ではなかった。
短く鋭い鳴き声。高い音を繰り返す声。少し離れた山から返ってくる、低くかすれた声。
どの鳥が鳴いているのか、美月には分からない。
布団の中で動画アプリを開きかけ、やめた。
電波は一本だけ立っている。無線通信へ接続しても、動画を読み込むまでには時間がかかるだろう。
美月は起き上がり、窓を開けた。
冷たい空気とともに、川の音が入ってくる。
山の斜面には薄い霧がかかっていた。木々の間を白い帯がゆっくり移動し、少し下に見える川面にも同じ形が映っている。
澄江が言っていた、二つの山だった。
美月はスマートフォンを手に取った。
撮影画面を開き、窓の外へ向ける。
画面の中では、霧が白くぼやけているだけだった。
写真を撮らずに、スマートフォンを下ろした。
広縁のテーブルには、段ボールと割り箸で作られた家が置いてある。
朝の光が曲がった屋根に当たり、窓の一つから細い筋になって畳へ落ちていた。
美月は母へ送るために、その光景だけを撮った。
『昨日、見つけました』
写真に短い言葉を添える。
送信してから、顔を洗い、身支度を始めた。
昨日泥で汚したパンプスは、新聞紙を詰めて部屋の隅に置いてある。
今日はスーツではなく、黒いパンツと淡い色のシャツ、その上に薄手のジャケットを着た。足元には、東京で買った防水靴を履く。
鏡の前に立つと、靴だけが妙に大きく見えた。
*
朝食の広間には、美月のほかに宿泊客はいなかった。
焼き魚、だし巻き卵、味噌汁、山菜の小鉢。白いご飯から湯気が立っている。
「おはようございます。眠れましたか」
澄江が急須を持ってきた。
「川の音が気になりました」
「最初は、みなさんそう言います」
「慣れるものですか」
「東京へ帰る頃には、音がないと眠れんようになりますよ」
澄江は笑い、美月の湯飲みに茶を注いだ。
「霧を見ました」
「見えましたか」
「はい。写真に撮ろうとしましたが、うまく映りませんでした」
「写真は、何でも小さくしてしまいますから」
美月は味噌汁の椀を手にした。
「今日は佐藤林業へ行く予定です」
「颯太さんのところですね」
「昨日、学校の近くで会いました」
「聞きました」
「やはり、もう伝わっているんですね」
「村は人が少ない分、一人のことをよう見てますから」
「それは、暮らしにくくありませんか」
澄江は少し考えた。
「見てほしくない時まで見られるのは、しんどいですよ。でも、誰にも見てもらえんよりはええと思う日もあります」
「そういうものですか」
「人によります」
澄江は空になった小鉢を盆へ載せた。
「颯太さんは、言葉が足りんところがあります。悪い人やないんですけど」
「女将さんも、先に庇うんですね」
「庇ってませんよ。言葉が足りんと言うてるんです」
澄江は楽しそうに笑った。
*
約束の時間より十五分早く、森下が旅館へ迎えに来た。
昨日と同じ白い軽自動車だった。
美月が助手席へ乗ると、森下は後部座席に置いてあった黄色いヘルメットを指した。
「佐藤林業から借りてきました。今日は山へ入るかもしれないので」
「山へ入ることは、事前に聞いていません」
「昨日の夜、颯太さんから連絡がありました。林業のことを聞くなら、作業場だけ見ても分からないからって」
「本人から?」
「はい。田中さんが、杉の見分け方を教えてほしいと言ったそうですね」
「藤井課長との打ち合わせで言いました。佐藤さんには言っていません」
「もう藤井課長から伝わったんだと思います」
森下がエンジンをかける。
「この村では、私が話したことも、その日のうちに全員へ伝わるんでしょうか」
「全員ではありません」
「どのくらいですか」
「内容によります」
答えになっていない。
車は川沿いの道を上流へ向かった。
「あの、これを渡してもらえますか」
美月は財布から百円玉を取り出した。
「何です?」
「昨日、途中の商店でトマトを受け取りました。小銭がなかったので、森下さんへ預けておくようにと言われました」
「フミさんですね」
「名前は聞いていません」
「店先に野菜を置いているなら、松井フミさんです。帰りに寄りましょう」
「森下さんへ渡せば済むのでは?」
「田中さんが自分で渡した方が、フミさんは喜びます」
「百円を渡すだけです」
「だからですよ」
森下は前を見たまま答えた。
美月は百円玉を財布へ戻した。
*
佐藤林業の作業場は、村の中心部から車で十分ほど離れた場所にあった。
山の斜面を削った広い敷地に、太さの異なる丸太が積まれている。屋根の高い作業小屋の中には、古い製材機と小型の重機が並んでいた。
雨上がりの空気に、濃い木の香りが混じっている。
美月が車を降りると、機械の音が止まった。
作業小屋から颯太が出てくる。
昨日と同じ作業着姿だったが、今日は頭にヘルメットをかぶり、腰に工具を下げていた。
「おはようございます」
美月が挨拶すると、颯太は軽く頭を下げた。
「その靴なら、昨日よりはましですね」
最初の言葉がそれだった。
「昨日は、山へ入る予定ではありませんでしたから」
「この村にいる間は、どこへ行くにもそれでええと思います」
森下が二人の間へ入るように、黄色いヘルメットを差し出した。
「田中さんの分です」
「ありがとうございます」
美月はヘルメットを受け取り、頭に載せた。
あごひもの調節方法が分からず手間取っていると、颯太が指を差した。
「後ろのつまみを回してください」
美月が回すと、内側の帯が締まった。
「山の中では、私の前を歩かないでください。足元が悪い場所では、勝手に止まらない。写真を撮る時は声をかける。木や機械には触らない」
「はい」
「分かってない人ほど、最初はそう言います」
「では、守るかどうか見ていてください」
颯太の眉がわずかに動いた。
森下が咳払いをした。
「私は役場へ戻ります。十一時半ごろ、また迎えに来ます」
「聞き取りは一時間の予定です」
美月が言うと、颯太が腕時計を見た。
「山まで往復したら、一時間では無理です」
「事前に時間の変更を伝えていただければ、予定を調整しました」
「現場は予定表どおりに動かんこともあります」
「私にも、午後の予定があります」
「ほんなら、作業場だけ見て帰りますか」
颯太の声は平坦だった。
美月は言い返しかけ、森下を見た。
森下は何も言わず、二人の顔を交互に見ている。
「午後の予定は、変更できるものですか」
美月が尋ねると、森下はうなずいた。
「村長との挨拶は三時からです。それまでなら大丈夫です」
「分かりました。山までお願いします」
颯太は返事をせず、作業小屋へ向かった。
「言葉が足りないでしょう」
森下が小声で言った。
「余分な言葉は多いように思います」
美月も小声で返した。
*
作業小屋の中では、六十代ほどの男性が丸太の表面を確認していた。
颯太より少し背が低く、日に焼けた首に白いタオルを巻いている。右脚をかばうような歩き方をしていた。
「父の義一です」
颯太が紹介した。
「創生都市開発の田中です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
美月は名刺を差し出した。
佐藤義一は手袋を外し、名刺を受け取った。
「東京から、えらい遠いとこまで」
「林業の現状と、村の産業について教えていただきたいと思っています」
「現状なら、見たら分かるでしょう」
義一は作業小屋の外を指した。
敷地の端に、丸太が何段にも積まれている。
「売れずに残っているんですか」
「売れんわけやない。売ったら赤字になるだけです」
義一は丸太の端を手で叩いた。
「伐って、山から下ろして、ここまで運ぶ。その金を払うたら、残るもんがない。それでも、木は待ってくれん。伐る時期を逃したら、また一年置いとくことになる」
「木材価格が上がれば、改善しますか」
「上がっても、燃料も人件費も上がっとる」
「年間の伐採量と販売価格の推移を教えていただけますか」
「数字は颯太に聞いてください。わしは山のことしか分からん」
義一はそう言って、颯太へ視線を向けた。
颯太は小型のトラックへ道具を載せている。
「颯太は数字を見すぎる」
義一が低い声で付け加えた。
「山を続けるには、数字も必要でしょう」
「東京の人みたいなこと言うなあ」
「田中さんに失礼やろ」
颯太が振り返った。
「お前に言うとるんや」
義一は丸太の山へ戻った。
颯太の口元が固くなる。
美月は二人の間にある空気を測るように黙っていた。
「行きますよ」
颯太がトラックの助手席を開けた。
「荷台ではないんですね」
「乗りたいなら止めませんけど」
「助手席で結構です」
*
トラックは舗装された道を離れ、山へ続く細い林道へ入った。
車体が大きく揺れるたび、美月の肩がドアに当たる。
道の片側には切り立った斜面が迫り、反対側は木々の間から谷が見えた。ガードレールはない。
「この道を木材運搬車が通るんですか」
「小さい車だけです。大きい車は下で積み替えます」
「積み替えには費用がかかりますね」
「そうです」
「道路を拡張すれば、輸送効率は上がりませんか」
「山の所有者が一人なら、できるかもしれませんね」
「違うんですか」
「この辺りだけでも、細かく分かれています。相続した人が村外に住んでいて、連絡先が分からん山もある。道を広げるだけでも、全員の同意が要る」
「役場に所有者の記録は?」
「登記と現状が合ってないところもあります」
「境界はどうやって確認するんですか」
「昔は、この岩から向こうとか、曲がった杉までとか、持ち主同士で分かっていました。今は、知っとる人が減ってます」
トラックが大きな穴を越え、美月の体が浮いた。
反射的にダッシュボードへ手をつく。
「こんな道を毎日通るんですか」
「毎日ではありません。作業する山は、その時々で変わります」
颯太はハンドルを切りながら答えた。
「林業は、山で木を伐る仕事だと思っていました」
「間違ってはいません」
「でも、実際には所有者の確認や、道の整備、運搬、販売まで必要になる」
「人が足りんから、一人で何でもやるだけです」
「従業員は何人ですか」
「常勤は父と私。繁忙期に二人、手伝いに来てもらいます」
「以前は?」
「祖父の頃は八人いました」
「減った理由は、売上ですか」
「それ以外に何があるんです?」
問い返され、美月は視線をそらした。
同じ太さの杉が、斜面に沿ってまっすぐ並んでいる。
自然に生えた森ではないことは、美月にも分かった。
*
車を降りてから、二十分ほど山道を歩いた。
地面には湿った枝葉が積もり、踏むたびに靴の底が沈む。
颯太は一定の速さで進んでいく。
美月は遅れまいと足を動かした。
「ここは、佐藤さんの山ですか」
「うちで管理を任されている山です。所有者は大阪に住んでいます」
「管理費を受け取っている?」
「ほとんど受け取ってません。伐採した時の売上から経費を引いて精算します」
「伐採できなければ?」
「こちらの持ち出しです」
「それで経営が成り立つんですか」
颯太が立ち止まった。
「成り立っているように見えますか」
木々の間から差す光で、颯太の顔の半分だけが明るく見えた。
「では、なぜ引き受けるんですか」
「放っておいたら、山が荒れるからです」
「採算の取れない仕事を続ければ、佐藤林業そのものがなくなります」
「分かってます」
「分かっていて、続けている?」
「田中さんは、赤字の仕事は全部やめたらええと思いますか」
「継続して赤字になるなら、事業として見直す必要があります」
「山は、店みたいに閉められません」
颯太は近くの杉へ手を置いた。
「手入れをやめても、木は伸びます。枝も増える。光が地面へ入らんようになって、下草が消える。土が水を抱えられなくなれば、大雨の時に流れる」
「行政が管理するべきでは?」
「誰の山でも、ですか」
「災害防止に関わるなら、公的な支援が必要です」
「その申請をするにも、所有者を探して、境界を確認して、書類をそろえなあかん。補助金が出るまで仕事を止めるわけにもいかん」
颯太は手を離し、再び歩き始めた。
美月は後ろをついていく。
「この森は、樹齢何年くらいですか」
「若いところで五十年。奥には八十年を超える木もあります」
「伐採するまでに、それだけかかるんですか」
「全部を一度に伐るわけやないです。育ち方を見て、残す木を選びます」
「どの木を残すんです?」
「幹の通り方、枝の位置、周りの間隔。木だけやなく、斜面も見ます」
颯太が一本の杉を指した。
「これは残します」
隣の木を指す。
「こっちは、次に伐る」
美月には違いが分からなかった。
どちらも同じ太さ、同じ高さに見える。
「理由は?」
「こっちは上で少し曲がってます。それに、二本の間が狭い。両方残すと、どちらも太れん」
美月はスマートフォンを取り出し、二本の杉を撮影しようとした。
「止まります」
颯太に声をかけ、斜面側へ一歩寄る。
「そこ、動かんといてください」
鋭い声が飛んだ。
美月は足を止めた。
すぐそばの地面に、細い金属製のワイヤが伸びていた。枯れ葉に隠れ、ほとんど見えない。
「何ですか、これ」
「木を引くためのワイヤです。今日は使ってませんけど、足を引っかけたら転びます」
「先に説明してください」
「山では、足元を見て歩いてくださいと言いました」
「写真を撮る時は声をかけました」
「声をかけたら、どこへ動いてもええわけやない」
美月はスマートフォンを下ろした。
「理解しました」
「分かってない顔ですね」
「同じことを何度も言われるのが好きではないだけです」
「けがしたら、好き嫌いでは済みません」
颯太はワイヤを持ち上げ、美月が通れるようにした。
「どうぞ」
美月は黙ってまたいだ。
数歩進んだところで、背後から乾いた音がした。
振り返ると、細い枝が地面へ落ちていた。
さっきまで美月が立っていた場所だった。
「今のは?」
「枯れ枝です。雨のあとや風の強い日は落ちてきます。だからヘルメットをかぶる」
颯太は枝を道の端へよけた。
美月は黄色いヘルメットの縁に触れた。
東京の工事現場でも安全管理には厳しい。だが、足場も区画線もない山の中では、危険がどこにあるのかさえ分からなかった。
*
斜面を上り切ったところで、森の様子が変わった。
それまで整然と並んでいた杉の間隔が狭くなり、光がほとんど届かなくなった。地面には下草がなく、黒い土がむき出しになっている。
昼前だというのに、夕方のように暗い。
「ここは、長いこと手が入ってません」
颯太が言った。
「同じ杉林でも違うんですね」
「下から見たら、どこも緑の山に見えますけど」
颯太は斜面にしゃがみ、土を手に取った。
湿っているように見えたが、指の間で細かく崩れた。
「雨が続いたあとでも、表面しか湿ってません。下草があれば、根が土を押さえてくれます」
「この辺りも管理を依頼されているんですか」
「所有者と連絡が取れていません」
「勝手に作業することはできない?」
「他人の山ですから」
「危険が分かっていても?」
「それでもです」
美月はスマートフォンの電波を確認した。
圏外だった。
「所有者情報と現地の状態を一つの資料にまとめられませんか。危険度を分類し、優先順位を付ければ、行政の支援対象を決めやすくなると思います」
「誰が調べるんです?」
「役場と、林業事業者と、外部の専門家で」
「金は?」
「使える制度を調べます」
「また補助金ですか」
「使える資金があるなら、検討するべきでしょう」
「補助金が終わったら、また止まります」
「では、何もしない方がいいと?」
颯太は土を払いながら立ち上がった。
「そうは言ってません」
「否定ばかりしているように聞こえます」
「田中さんが、ここへ来て半日で答えを出すからです」
「答えではなく、可能性を話しています」
「前に来た会社も、最初は可能性と言いました」
颯太は暗い杉林を見上げた。
「山を見て、『この自然を観光に使える』と言うた。林道を歩くツアー、木を伐る体験、山の上の展望風呂。山で働く人間より、観光客の方が金になると」
「私は、その計画を支持していません」
「でも、地域資源という言葉は使う」
「資源という表現の何が問題なんですか」
「誰かが使うために、ここにあるように聞こえるんです」
颯太の声は大きくなかった。
周囲の杉が音を吸い込み、二人の間だけに残った。
「木材として販売している以上、佐藤さんも森を資源として扱っているのでは?」
「そうです」
颯太はすぐに認めた。
「伐って、売って、生活してます。せやから、きれいなことだけ言うつもりはない。でも、売るために育てることと、何でも外の人に差し出すことは違う」
美月は答えなかった。
森の奥から、木を叩くような音が聞こえた。
鳥なのか、枝がぶつかっているのか分からない。
「少し休みますか」
颯太が尋ねた。
「必要ありません」
「息、上がってますけど」
「話せます」
「私は話せても、田中さんが倒れたら困ります」
颯太は道の脇にある切り株へ腰を下ろした。
美月も少し離れた倒木に座る。
森の中は涼しいはずなのに、シャツの背中に汗がにじんでいた。
「水、持ってきました?」
「バッグに入っています」
「飲んでください」
「指示されなくても飲みます」
美月は水筒を取り出した。
一口飲むつもりだったが、喉が渇いていた。水筒の半分ほどを一気に飲んだ。
颯太は何も言わず、前を向いている。
「佐藤さんは、ずっとこの村に?」
呼吸が落ち着いてから、美月は尋ねた。
「生まれはここです」
「村を出たことはないんですか」
「あります。高校を出て、大阪の木材会社で働いていました」
「林業から離れたかった?」
「離れたかったです」
颯太は足元の枝を拾い、指で折った。
「山の仕事はきついし、危ない。夏は暑い、冬は寒い。朝は早い。働いても金にならん。父と祖父は、口を開けば山を守れと言う。そんなもん、自分らの代で終わらせたらええと思ってました」
「なぜ戻ったんですか」
「父が山で転んで、脚を悪くしたからです」
「先ほど、少し歩きにくそうでした」
「今は作業場の仕事ならできます。でも、前みたいに山へは入れません」
「戻って何年になりますか」
「六年です」
「後悔していますか」
颯太は折った枝を地面へ置いた。
「聞き取り調査で、そんなことまで聞くんですか」
「答えたくなければ、結構です」
「便利ですね、その言い方」
「無理に聞き出すつもりはありません」
「後悔する日はあります」
颯太は正面を見たまま言った。
「大阪に残ってたら、今より給料は多かった。休みも決まっていた。誰がどの山を持っとるとか、近所同士が何十年前に何で揉めたとか、知らん顔で暮らせた」
「それでも戻った」
「ほかに戻る人間がおらんかったからです」
「兄弟は?」
「姉がいます。京都で結婚してます」
「お姉さんには頼めなかった?」
颯太が美月を見た。
「姉には姉の生活があります」
「佐藤さんにも、あったのでは?」
「そういう話をしとるんやない」
声が強くなった。
美月は水筒のふたを閉めた。
「すみません」
口にしたあと、自分でも驚いた。
颯太も少し意外そうな顔をした。
「こちらこそ。別に、姉を責めとるわけやないんです」
颯太は立ち上がった。
「そろそろ戻りましょう」
*
帰り道、颯太は一本の切り株の前で足を止めた。
直径は、美月が両腕を広げても届かないほどあった。
「触ってもいいですか」
「切り株なら」
美月はしゃがみ、断面へ手を置いた。
中心部は淡い赤色で、外側へ向かうほど白くなっている。細い年輪が、幾重にも重なっていた。
「きれいですね」
「この細かい年輪が、吉野の木の特徴です」
颯太も隣へしゃがんだ。
「苗を密に植えて、何度も間引きながら育てます。光を競わせて、ゆっくり太らせる。手間はかかるけど、年輪が詰まって、まっすぐな木になる」
「何年くらいですか」
「これは九十年近いです」
美月は年輪を目で追った。
十本ほど数えたところで分からなくなった。
「佐藤さんが生まれる前から、育てていた人がいるんですね」
「私の祖父が子どもの頃です」
「伐る時、抵抗はありませんか」
「ありますよ」
颯太は切り株の表面についた木屑を払った。
「でも、伐らん方がええとも思いません。使うために植えた木です。伐って、使って、また植える。その繰り返しが止まったことの方が問題です」
「売れなければ、植えられない」
「植えても、次に金になるのは何十年も先です」
「投資としては、期間が長すぎますね」
「山を投資としてだけ見たら、誰もやりません」
美月は立ち上がった。
手のひらに木の香りが残っている。
*
作業場へ戻ると、義一の怒鳴り声が聞こえた。
「そんな値段で出せるか!」
事務所の前で電話をしている。
美月と颯太に気づいても、声を下げなかった。
「先月の話と違うやろ。こっちは人を頼んで、もう山から下ろしとるんやぞ」
電話の相手が何か言っている。
義一は奥歯をかみしめ、丸太の山を見た。
「分かった。もうええ」
通話を切ると、スマートフォンを作業台へ置いた。
「木村製材ですか」
颯太が尋ねた。
「向こうの在庫が余っとるから、二割下げろやと」
「出すしかないでしょう。置いといても乾燥割れが出る」
「あの値段では、運送代にもならん」
「せやから、先に契約書を取れと言ったやろ」
「三十年付き合いのある相手に、いちいち契約書なんか要るか」
「口約束で値段を下げられたの、これで三回目や」
「お前が始めた直売は、一本でも売れたんか」
颯太の顔がこわばった。
作業小屋の奥に、きれいに加工された板材が積まれている。丸太とは違い、一枚ずつ紙が挟まれ、透明なシートがかけられていた。
「今、設計事務所と話しとる」
「話だけなら、去年からしとる」
「安く買いたたかれるよりはええ」
「売れん木は、木やない。場所を取る荷物や」
義一は美月の存在を思い出したように口を閉じた。
「すみませんな。みっともないところを」
「いえ」
美月は板材の方を見た。
「こちらは、佐藤さんが販売を始めたものですか」
颯太は答えなかった。
代わりに義一が言った。
「颯太が借金して、乾燥機を入れたんです。東京の建築家に直接売る言うて」
「おやじ」
「隠すことやないやろ」
義一は作業小屋へ戻っていった。
颯太は板材にかけられたシートを引き直した。
「事業計画を見せていただけますか」
美月が言うと、颯太は振り向いた。
「何でです?」
「販売先と価格設定を見れば、改善できる部分があるかもしれません」
「村の調査と関係ありますか」
「林業は村の主要産業です。経営の現状を知る必要があります」
「今のを見て、失敗した事業やと思ったでしょう」
「まだ判断できません」
「顔に出てます」
「私は、資料を見ずに判断しません」
「資料を見たら、やめろと言うんでしょう。採算が合わんから」
「採算の合わない理由が、販売方法にあるのか、価格にあるのか、設備投資にあるのかで違います」
「全部ですよ」
颯太はシートの端を強く引いた。
「良い木を作っても、値段は向こうが決める。直接売ろうとしても、実績がないと言われる。実績を作るために安く出したら、次からもその値段にされる。乾燥機の返済は待ってくれん」
「それでも続けるんですか」
「続けんかったら、父の言うとおりになる」
「お父様に反対されたから?」
「それだけやない」
颯太は美月から目をそらした。
「このまま同じところへ同じ値段で出し続けたら、先にうちが潰れます」
「なら、事業計画を見せてください」
「東京の会社に?」
「私にです」
「同じことでしょう」
「違います」
美月は一歩だけ板材へ近づいた。
「会社がこの事業を買い取るわけではありません。少なくとも、今は。私は計画のどこに問題があるかを確認するだけです」
「確認して、報告書に書く」
「必要なら書きます」
「『地方の小規模事業者は、経営感覚が不足している』と?」
「そんな結論は、資料を見なければ出せません」
颯太が笑った。
楽しそうな笑いではなかった。
「やっぱり、数字なんですね」
「数字を見ないで、どうやって借入金を返すんですか」
美月の声も強くなった。
「守りたいものがあるなら、続けられる方法を考えるべきです。思いだけで続けて、最後に全部失ったら意味がないでしょう」
父の会社が倒産した日の光景が、一瞬だけ浮かんだ。
荷物を運び出す知らない男たち。空になった事務所。母が押し入れの奥へ隠した通帳。
美月は口を閉じた。
颯太がこちらを見ている。
「田中さんの家も、何か商売をしてたんですか」
「なぜですか」
「今の言い方が、仕事の話だけには聞こえんかったから」
「聞き取りを受けているのは、佐藤さんです」
「便利ですね、その言い方も」
同じ言葉を返された。
美月はバッグを肩へ掛け直した。
「事業計画を見せるかどうかは、佐藤さんが決めてください。無理に提出を求めるつもりはありません」
「考えときます」
颯太は板材から離れた。
*
森下の迎えが来るまで、あと二十分あった。
美月は作業場の端に積まれた丸太を見て回った。
一本ごとに白いチョークで数字が書かれている。長さ、直径、伐採日らしい。
颯太は少し離れた場所で、義一と出荷について話していた。
声は抑えているが、意見が合っていないことは分かった。
義一は腕を大きく振り、最後に事務所へ入った。
颯太は一人で丸太の前に残った。
「先ほどは、すみませんでした」
美月が声をかけると、颯太が振り返った。
「何がです?」
「ご家族の前で、事業計画を見せてほしいと言ったことです」
「別に、隠してませんから」
「でも、今言う必要はありませんでした」
颯太は手袋を外し、作業台へ置いた。
「東京の人は、謝らんと思ってました」
「ずいぶん大きなくくりですね」
「この村の人間も、東京の人を大きなくくりで見ます。東京の人も、この村を大きなくくりで見る。お互い様です」
「私は、村を一つのくくりで見ているつもりはありません」
「昨日来たばかりやから、まだ誰が誰か分からんだけでしょう」
「少なくとも、佐藤さんとお父様の考えが違うことは分かりました」
「親子でも違います」
「村人全員が同じ考えであるはずもありませんね」
颯太は返事をしなかった。
作業場の裏手から、風が木の香りを運んでくる。
「学校の時計が、三時十八分で止まっています」
美月は尋ねた。
「何か理由があるんですか」
颯太の表情が変わった。
「誰かから聞いたんですか」
「いいえ。写真でも、昨日見た時も、同じ時刻でした」
「止まったんやなくて、止めたんです」
「誰が?」
「大西源造さんです」
澄江から聞いた名前だった。
「なぜ止めたんですか」
颯太は作業場の向こうに見える山へ目を向けた。
「あの学校は、地滑りの時に避難所になりました。体育館に、家へ帰れん人が集まった。三時十八分は、最初の避難指示が出た時間です」
「大西さんは、その時に?」
「時計を止めたのは、学校が閉校した日です。避難指示が出た時刻に合わせた」
「どうして、そんなことを」
「本人に聞いてください」
「佐藤さんは知らないんですか」
「知ってます。でも、私が話すことやない」
「大西さんは、地滑りで家を失った?」
颯太は少し黙った。
「大西さんだけやないです」
低い声だった。
「私の祖父も、家と山を失いました」
「ダムの建設で?」
「最初の家は、ダムの水が入る場所にありました。補償を受けて、少し上の造成地へ移った。やっと落ち着いたと思ったあとで、試験的に水をためた時、地面が動いた」
颯太は自分の靴の先を見た。
「家の壁に、最初は髪の毛みたいなひびが入った。それが一週間で、指が入るくらいになった。庭の石垣もずれた。夜中に柱が鳴って、祖父が家族を起こした」
「佐藤さんは、何歳でしたか」
「九歳です」
「覚えているんですね」
「忘れられると思いますか」
美月は答えられなかった。
「そのあと、また移転したんですか」
「村外へ出た家も多かったです。うちは、祖父がここを離れんと言うたから、村内の別の場所へ移りました」
「補償は?」
「金の話なら、役場で聞いてください」
颯太の声が冷たくなった。
「そのつもりで聞いたのではありません」
「東京から来る人は、最後はそこを聞きます。いくらもらったのか。その金で新しい家を建てたんやろと」
「私は、そうは言っていません」
「でも、報告書には金額が要るんでしょう」
美月は何も言わなかった。
颯太は手袋を取り、腰のポケットへ押し込んだ。
「せやから、村の人間は開発という言葉を嫌います。新しいものが全部悪いわけやない。便利になったこともある。けど、一度壊れたもんは、金を払ったら元に戻るわけやない」
作業場の前に、森下の白い軽自動車が入ってきた。
颯太はそちらへ歩き出した。
「明日、大西さんへ会えるよう頼んでみます」
美月が背中へ声をかける。
颯太は立ち止まった。
「会って、何を聞くんです?」
「学校と、ダムと、過去の開発について」
「質問を並べて、答えを書き取るんですか」
「まずは、そうするつもりです」
「多分、何も話してくれませんよ」
「では、どうすればいいんですか」
颯太は振り返った。
「聞く前に、自分が何をしに来たのか話した方がええと思います」
「地域活性化事業の調査です」
「それは会社の仕事でしょう。田中さんが、何でここに来たかです」
「辞令が出たからです」
「それを言えばええんやないですか」
美月は眉を寄せた。
「そんな答えで、信頼されると思いますか」
「立派な嘘を言うよりは、ましでしょう」
颯太は森下の車へ向かった。
*
帰り道、美月はほとんど話さなかった。
森下も、無理に会話を続けようとはしなかった。
村の中心部へ戻る途中、森下が道沿いの小さな商店の前で車を止めた。
「百円、返していくんでしょう」
昨日の老女が、店先で野菜を並べていた。
美月が車を降りると、老女はすぐに笑った。
「トマト、食べた?」
「はい。甘くておいしかったです。これを」
美月は百円玉を差し出した。
老女は受け取らず、美月の手を見た。
「どうしたん、その手」
「手?」
見ると、指先と手のひらに黒い汚れが付いていた。切り株に触れた時の樹脂と木屑だった。
「佐藤さんの山へ行っていました」
「颯太に怒られたやろ」
「なぜ分かるんですか」
「あの子は、山へ入った人には、だいたい怒る」
「仕事を見せる気があるんでしょうか」
「見せる気があるから、怒るんよ」
老女は美月の手から百円玉を取り、野菜の籠の横にある空き缶へ入れた。
「見せたくない人は、山へ連れていかん」
「そういうものですか」
「人による」
澄江と同じ答えだった。
老女は籠から小さなキュウリを二本取り出した。
「これ、持ってき」
「今度は代金を先に払います」
「曲がっとるから、売りもんやない」
「食べられますよね」
「食べられる」
「それなら、売り物と同じでは?」
老女は目を丸くしたあと、大きな声で笑った。
「東京の人は、面白いこと言うなあ」
「普通のことを言っただけです」
「ほな、二十円」
美月は財布から十円玉を二枚出した。
老女は受け取り、キュウリを新聞紙で包んだ。
「私は松井フミ。あんたは?」
「田中美月です」
「美月さんな。覚えた」
フミは新聞紙の包みを差し出した。
美月も両手で受け取った。
*
午後三時、村長との挨拶を終えたあと、美月は役場の空いている机を借りた。
本社へ送る初回報告書を作成する。
最初に、佐藤林業の概要を入力した。
従業員数。
管理面積。
主な販売先。
丸太価格の低迷。
輸送費。
設備借入金。
所有者不明の山林。
境界確認の困難さ。
いつもなら、問題を項目ごとに分類し、その横に考えられる対策を記入する。
だが、今日は指が止まった。
所有者情報の整理。
補助制度の利用。
木材の直接販売。
観光との連携。
どれも、書くだけなら簡単だった。
実行する人間と、続ける人間が必要になる。
美月は対策欄を空白にした。
代わりに、颯太から聞いた言葉を記録した。
『山は、店のようには閉められない』
『良い木を作っても、値段は買う側が決める』
『新しいものがすべて悪いわけではない。一度壊れたものは、金だけでは元に戻らない』
報告書にはふさわしくない書き方に見えた。
それでも削除はしなかった。
黒田から、社内チャットが届いた。
『二日目の状況はどうだ。事業化できそうな資源は見つかったか』
美月は視線を外した。
役場の向こうに杉の山がある。
昨日まで、同じ濃い緑の塊にしか見えなかった。今は、手入れされた明るい森と、光が入らない暗い森があることを知っている。
何十年もかけて育てた木が、売れば赤字になることも知った。
美月は返信した。
『現時点では、事業化を判断できる段階ではありません。林業関係者への聞き取りを継続します』
しばらくして、黒田から返事が届いた。
『了解。急がなくていい』
短い言葉だった。
美月は初回報告書を保存した。
手のひらには、何度洗っても落ちきらない樹脂の匂いが残っていた。




