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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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第三章 森の男

翌朝、美月は鳥の声で目を覚ました。

 枕元に置いたスマートフォンを見ると、午前五時四十七分だった。

 アラームは六時半に設定してある。まだ眠れる時間だったが、窓の外から聞こえる声は一種類ではなかった。

 短く鋭い鳴き声。高い音を繰り返す声。少し離れた山から返ってくる、低くかすれた声。

 どの鳥が鳴いているのか、美月には分からない。

 布団の中で動画アプリを開きかけ、やめた。

 電波は一本だけ立っている。無線通信へ接続しても、動画を読み込むまでには時間がかかるだろう。

 美月は起き上がり、窓を開けた。

 冷たい空気とともに、川の音が入ってくる。

 山の斜面には薄い霧がかかっていた。木々の間を白い帯がゆっくり移動し、少し下に見える川面にも同じ形が映っている。

 澄江が言っていた、二つの山だった。

 美月はスマートフォンを手に取った。

 撮影画面を開き、窓の外へ向ける。

 画面の中では、霧が白くぼやけているだけだった。

 写真を撮らずに、スマートフォンを下ろした。

 広縁のテーブルには、段ボールと割り箸で作られた家が置いてある。

 朝の光が曲がった屋根に当たり、窓の一つから細い筋になって畳へ落ちていた。

 美月は母へ送るために、その光景だけを撮った。

『昨日、見つけました』

 写真に短い言葉を添える。

 送信してから、顔を洗い、身支度を始めた。

 昨日泥で汚したパンプスは、新聞紙を詰めて部屋の隅に置いてある。

 今日はスーツではなく、黒いパンツと淡い色のシャツ、その上に薄手のジャケットを着た。足元には、東京で買った防水靴を履く。

 鏡の前に立つと、靴だけが妙に大きく見えた。

     *

 朝食の広間には、美月のほかに宿泊客はいなかった。

 焼き魚、だし巻き卵、味噌汁、山菜の小鉢。白いご飯から湯気が立っている。

「おはようございます。眠れましたか」

 澄江が急須を持ってきた。

「川の音が気になりました」

「最初は、みなさんそう言います」

「慣れるものですか」

「東京へ帰る頃には、音がないと眠れんようになりますよ」

 澄江は笑い、美月の湯飲みに茶を注いだ。

「霧を見ました」

「見えましたか」

「はい。写真に撮ろうとしましたが、うまく映りませんでした」

「写真は、何でも小さくしてしまいますから」

 美月は味噌汁の椀を手にした。

「今日は佐藤林業へ行く予定です」

「颯太さんのところですね」

「昨日、学校の近くで会いました」

「聞きました」

「やはり、もう伝わっているんですね」

「村は人が少ない分、一人のことをよう見てますから」

「それは、暮らしにくくありませんか」

 澄江は少し考えた。

「見てほしくない時まで見られるのは、しんどいですよ。でも、誰にも見てもらえんよりはええと思う日もあります」

「そういうものですか」

「人によります」

 澄江は空になった小鉢を盆へ載せた。

「颯太さんは、言葉が足りんところがあります。悪い人やないんですけど」

「女将さんも、先に庇うんですね」

「庇ってませんよ。言葉が足りんと言うてるんです」

 澄江は楽しそうに笑った。

     *

 約束の時間より十五分早く、森下が旅館へ迎えに来た。

 昨日と同じ白い軽自動車だった。

 美月が助手席へ乗ると、森下は後部座席に置いてあった黄色いヘルメットを指した。

「佐藤林業から借りてきました。今日は山へ入るかもしれないので」

「山へ入ることは、事前に聞いていません」

「昨日の夜、颯太さんから連絡がありました。林業のことを聞くなら、作業場だけ見ても分からないからって」

「本人から?」

「はい。田中さんが、杉の見分け方を教えてほしいと言ったそうですね」

「藤井課長との打ち合わせで言いました。佐藤さんには言っていません」

「もう藤井課長から伝わったんだと思います」

 森下がエンジンをかける。

「この村では、私が話したことも、その日のうちに全員へ伝わるんでしょうか」

「全員ではありません」

「どのくらいですか」

「内容によります」

 答えになっていない。

 車は川沿いの道を上流へ向かった。

「あの、これを渡してもらえますか」

 美月は財布から百円玉を取り出した。

「何です?」

「昨日、途中の商店でトマトを受け取りました。小銭がなかったので、森下さんへ預けておくようにと言われました」

「フミさんですね」

「名前は聞いていません」

「店先に野菜を置いているなら、松井フミさんです。帰りに寄りましょう」

「森下さんへ渡せば済むのでは?」

「田中さんが自分で渡した方が、フミさんは喜びます」

「百円を渡すだけです」

「だからですよ」

 森下は前を見たまま答えた。

 美月は百円玉を財布へ戻した。

     *

 佐藤林業の作業場は、村の中心部から車で十分ほど離れた場所にあった。

 山の斜面を削った広い敷地に、太さの異なる丸太が積まれている。屋根の高い作業小屋の中には、古い製材機と小型の重機が並んでいた。

 雨上がりの空気に、濃い木の香りが混じっている。

 美月が車を降りると、機械の音が止まった。

 作業小屋から颯太が出てくる。

 昨日と同じ作業着姿だったが、今日は頭にヘルメットをかぶり、腰に工具を下げていた。

「おはようございます」

 美月が挨拶すると、颯太は軽く頭を下げた。

「その靴なら、昨日よりはましですね」

 最初の言葉がそれだった。

「昨日は、山へ入る予定ではありませんでしたから」

「この村にいる間は、どこへ行くにもそれでええと思います」

 森下が二人の間へ入るように、黄色いヘルメットを差し出した。

「田中さんの分です」

「ありがとうございます」

 美月はヘルメットを受け取り、頭に載せた。

 あごひもの調節方法が分からず手間取っていると、颯太が指を差した。

「後ろのつまみを回してください」

 美月が回すと、内側の帯が締まった。

「山の中では、私の前を歩かないでください。足元が悪い場所では、勝手に止まらない。写真を撮る時は声をかける。木や機械には触らない」

「はい」

「分かってない人ほど、最初はそう言います」

「では、守るかどうか見ていてください」

 颯太の眉がわずかに動いた。

 森下が咳払いをした。

「私は役場へ戻ります。十一時半ごろ、また迎えに来ます」

「聞き取りは一時間の予定です」

 美月が言うと、颯太が腕時計を見た。

「山まで往復したら、一時間では無理です」

「事前に時間の変更を伝えていただければ、予定を調整しました」

「現場は予定表どおりに動かんこともあります」

「私にも、午後の予定があります」

「ほんなら、作業場だけ見て帰りますか」

 颯太の声は平坦だった。

 美月は言い返しかけ、森下を見た。

 森下は何も言わず、二人の顔を交互に見ている。

「午後の予定は、変更できるものですか」

 美月が尋ねると、森下はうなずいた。

「村長との挨拶は三時からです。それまでなら大丈夫です」

「分かりました。山までお願いします」

 颯太は返事をせず、作業小屋へ向かった。

「言葉が足りないでしょう」

 森下が小声で言った。

「余分な言葉は多いように思います」

 美月も小声で返した。

     *

 作業小屋の中では、六十代ほどの男性が丸太の表面を確認していた。

 颯太より少し背が低く、日に焼けた首に白いタオルを巻いている。右脚をかばうような歩き方をしていた。

「父の義一です」

 颯太が紹介した。

「創生都市開発の田中です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

 美月は名刺を差し出した。

 佐藤義一は手袋を外し、名刺を受け取った。

「東京から、えらい遠いとこまで」

「林業の現状と、村の産業について教えていただきたいと思っています」

「現状なら、見たら分かるでしょう」

 義一は作業小屋の外を指した。

 敷地の端に、丸太が何段にも積まれている。

「売れずに残っているんですか」

「売れんわけやない。売ったら赤字になるだけです」

 義一は丸太の端を手で叩いた。

「伐って、山から下ろして、ここまで運ぶ。その金を払うたら、残るもんがない。それでも、木は待ってくれん。伐る時期を逃したら、また一年置いとくことになる」

「木材価格が上がれば、改善しますか」

「上がっても、燃料も人件費も上がっとる」

「年間の伐採量と販売価格の推移を教えていただけますか」

「数字は颯太に聞いてください。わしは山のことしか分からん」

 義一はそう言って、颯太へ視線を向けた。

 颯太は小型のトラックへ道具を載せている。

「颯太は数字を見すぎる」

 義一が低い声で付け加えた。

「山を続けるには、数字も必要でしょう」

「東京の人みたいなこと言うなあ」

「田中さんに失礼やろ」

 颯太が振り返った。

「お前に言うとるんや」

 義一は丸太の山へ戻った。

 颯太の口元が固くなる。

 美月は二人の間にある空気を測るように黙っていた。

「行きますよ」

 颯太がトラックの助手席を開けた。

「荷台ではないんですね」

「乗りたいなら止めませんけど」

「助手席で結構です」

     *

 トラックは舗装された道を離れ、山へ続く細い林道へ入った。

 車体が大きく揺れるたび、美月の肩がドアに当たる。

 道の片側には切り立った斜面が迫り、反対側は木々の間から谷が見えた。ガードレールはない。

「この道を木材運搬車が通るんですか」

「小さい車だけです。大きい車は下で積み替えます」

「積み替えには費用がかかりますね」

「そうです」

「道路を拡張すれば、輸送効率は上がりませんか」

「山の所有者が一人なら、できるかもしれませんね」

「違うんですか」

「この辺りだけでも、細かく分かれています。相続した人が村外に住んでいて、連絡先が分からん山もある。道を広げるだけでも、全員の同意が要る」

「役場に所有者の記録は?」

「登記と現状が合ってないところもあります」

「境界はどうやって確認するんですか」

「昔は、この岩から向こうとか、曲がった杉までとか、持ち主同士で分かっていました。今は、知っとる人が減ってます」

 トラックが大きな穴を越え、美月の体が浮いた。

 反射的にダッシュボードへ手をつく。

「こんな道を毎日通るんですか」

「毎日ではありません。作業する山は、その時々で変わります」

 颯太はハンドルを切りながら答えた。

「林業は、山で木を伐る仕事だと思っていました」

「間違ってはいません」

「でも、実際には所有者の確認や、道の整備、運搬、販売まで必要になる」

「人が足りんから、一人で何でもやるだけです」

「従業員は何人ですか」

「常勤は父と私。繁忙期に二人、手伝いに来てもらいます」

「以前は?」

「祖父の頃は八人いました」

「減った理由は、売上ですか」

「それ以外に何があるんです?」

 問い返され、美月は視線をそらした。

 同じ太さの杉が、斜面に沿ってまっすぐ並んでいる。

 自然に生えた森ではないことは、美月にも分かった。

     *

 車を降りてから、二十分ほど山道を歩いた。

 地面には湿った枝葉が積もり、踏むたびに靴の底が沈む。

 颯太は一定の速さで進んでいく。

 美月は遅れまいと足を動かした。

「ここは、佐藤さんの山ですか」

「うちで管理を任されている山です。所有者は大阪に住んでいます」

「管理費を受け取っている?」

「ほとんど受け取ってません。伐採した時の売上から経費を引いて精算します」

「伐採できなければ?」

「こちらの持ち出しです」

「それで経営が成り立つんですか」

 颯太が立ち止まった。

「成り立っているように見えますか」

 木々の間から差す光で、颯太の顔の半分だけが明るく見えた。

「では、なぜ引き受けるんですか」

「放っておいたら、山が荒れるからです」

「採算の取れない仕事を続ければ、佐藤林業そのものがなくなります」

「分かってます」

「分かっていて、続けている?」

「田中さんは、赤字の仕事は全部やめたらええと思いますか」

「継続して赤字になるなら、事業として見直す必要があります」

「山は、店みたいに閉められません」

 颯太は近くの杉へ手を置いた。

「手入れをやめても、木は伸びます。枝も増える。光が地面へ入らんようになって、下草が消える。土が水を抱えられなくなれば、大雨の時に流れる」

「行政が管理するべきでは?」

「誰の山でも、ですか」

「災害防止に関わるなら、公的な支援が必要です」

「その申請をするにも、所有者を探して、境界を確認して、書類をそろえなあかん。補助金が出るまで仕事を止めるわけにもいかん」

 颯太は手を離し、再び歩き始めた。

 美月は後ろをついていく。

「この森は、樹齢何年くらいですか」

「若いところで五十年。奥には八十年を超える木もあります」

「伐採するまでに、それだけかかるんですか」

「全部を一度に伐るわけやないです。育ち方を見て、残す木を選びます」

「どの木を残すんです?」

「幹の通り方、枝の位置、周りの間隔。木だけやなく、斜面も見ます」

 颯太が一本の杉を指した。

「これは残します」

 隣の木を指す。

「こっちは、次に伐る」

 美月には違いが分からなかった。

 どちらも同じ太さ、同じ高さに見える。

「理由は?」

「こっちは上で少し曲がってます。それに、二本の間が狭い。両方残すと、どちらも太れん」

 美月はスマートフォンを取り出し、二本の杉を撮影しようとした。

「止まります」

 颯太に声をかけ、斜面側へ一歩寄る。

「そこ、動かんといてください」

 鋭い声が飛んだ。

 美月は足を止めた。

 すぐそばの地面に、細い金属製のワイヤが伸びていた。枯れ葉に隠れ、ほとんど見えない。

「何ですか、これ」

「木を引くためのワイヤです。今日は使ってませんけど、足を引っかけたら転びます」

「先に説明してください」

「山では、足元を見て歩いてくださいと言いました」

「写真を撮る時は声をかけました」

「声をかけたら、どこへ動いてもええわけやない」

 美月はスマートフォンを下ろした。

「理解しました」

「分かってない顔ですね」

「同じことを何度も言われるのが好きではないだけです」

「けがしたら、好き嫌いでは済みません」

 颯太はワイヤを持ち上げ、美月が通れるようにした。

「どうぞ」

 美月は黙ってまたいだ。

 数歩進んだところで、背後から乾いた音がした。

 振り返ると、細い枝が地面へ落ちていた。

 さっきまで美月が立っていた場所だった。

「今のは?」

「枯れ枝です。雨のあとや風の強い日は落ちてきます。だからヘルメットをかぶる」

 颯太は枝を道の端へよけた。

 美月は黄色いヘルメットの縁に触れた。

 東京の工事現場でも安全管理には厳しい。だが、足場も区画線もない山の中では、危険がどこにあるのかさえ分からなかった。

     *

 斜面を上り切ったところで、森の様子が変わった。

 それまで整然と並んでいた杉の間隔が狭くなり、光がほとんど届かなくなった。地面には下草がなく、黒い土がむき出しになっている。

 昼前だというのに、夕方のように暗い。

「ここは、長いこと手が入ってません」

 颯太が言った。

「同じ杉林でも違うんですね」

「下から見たら、どこも緑の山に見えますけど」

 颯太は斜面にしゃがみ、土を手に取った。

 湿っているように見えたが、指の間で細かく崩れた。

「雨が続いたあとでも、表面しか湿ってません。下草があれば、根が土を押さえてくれます」

「この辺りも管理を依頼されているんですか」

「所有者と連絡が取れていません」

「勝手に作業することはできない?」

「他人の山ですから」

「危険が分かっていても?」

「それでもです」

 美月はスマートフォンの電波を確認した。

 圏外だった。

「所有者情報と現地の状態を一つの資料にまとめられませんか。危険度を分類し、優先順位を付ければ、行政の支援対象を決めやすくなると思います」

「誰が調べるんです?」

「役場と、林業事業者と、外部の専門家で」

「金は?」

「使える制度を調べます」

「また補助金ですか」

「使える資金があるなら、検討するべきでしょう」

「補助金が終わったら、また止まります」

「では、何もしない方がいいと?」

 颯太は土を払いながら立ち上がった。

「そうは言ってません」

「否定ばかりしているように聞こえます」

「田中さんが、ここへ来て半日で答えを出すからです」

「答えではなく、可能性を話しています」

「前に来た会社も、最初は可能性と言いました」

 颯太は暗い杉林を見上げた。

「山を見て、『この自然を観光に使える』と言うた。林道を歩くツアー、木を伐る体験、山の上の展望風呂。山で働く人間より、観光客の方が金になると」

「私は、その計画を支持していません」

「でも、地域資源という言葉は使う」

「資源という表現の何が問題なんですか」

「誰かが使うために、ここにあるように聞こえるんです」

 颯太の声は大きくなかった。

 周囲の杉が音を吸い込み、二人の間だけに残った。

「木材として販売している以上、佐藤さんも森を資源として扱っているのでは?」

「そうです」

 颯太はすぐに認めた。

「伐って、売って、生活してます。せやから、きれいなことだけ言うつもりはない。でも、売るために育てることと、何でも外の人に差し出すことは違う」

 美月は答えなかった。

 森の奥から、木を叩くような音が聞こえた。

 鳥なのか、枝がぶつかっているのか分からない。

「少し休みますか」

 颯太が尋ねた。

「必要ありません」

「息、上がってますけど」

「話せます」

「私は話せても、田中さんが倒れたら困ります」

 颯太は道の脇にある切り株へ腰を下ろした。

 美月も少し離れた倒木に座る。

 森の中は涼しいはずなのに、シャツの背中に汗がにじんでいた。

「水、持ってきました?」

「バッグに入っています」

「飲んでください」

「指示されなくても飲みます」

 美月は水筒を取り出した。

 一口飲むつもりだったが、喉が渇いていた。水筒の半分ほどを一気に飲んだ。

 颯太は何も言わず、前を向いている。

「佐藤さんは、ずっとこの村に?」

 呼吸が落ち着いてから、美月は尋ねた。

「生まれはここです」

「村を出たことはないんですか」

「あります。高校を出て、大阪の木材会社で働いていました」

「林業から離れたかった?」

「離れたかったです」

 颯太は足元の枝を拾い、指で折った。

「山の仕事はきついし、危ない。夏は暑い、冬は寒い。朝は早い。働いても金にならん。父と祖父は、口を開けば山を守れと言う。そんなもん、自分らの代で終わらせたらええと思ってました」

「なぜ戻ったんですか」

「父が山で転んで、脚を悪くしたからです」

「先ほど、少し歩きにくそうでした」

「今は作業場の仕事ならできます。でも、前みたいに山へは入れません」

「戻って何年になりますか」

「六年です」

「後悔していますか」

 颯太は折った枝を地面へ置いた。

「聞き取り調査で、そんなことまで聞くんですか」

「答えたくなければ、結構です」

「便利ですね、その言い方」

「無理に聞き出すつもりはありません」

「後悔する日はあります」

 颯太は正面を見たまま言った。

「大阪に残ってたら、今より給料は多かった。休みも決まっていた。誰がどの山を持っとるとか、近所同士が何十年前に何で揉めたとか、知らん顔で暮らせた」

「それでも戻った」

「ほかに戻る人間がおらんかったからです」

「兄弟は?」

「姉がいます。京都で結婚してます」

「お姉さんには頼めなかった?」

 颯太が美月を見た。

「姉には姉の生活があります」

「佐藤さんにも、あったのでは?」

「そういう話をしとるんやない」

 声が強くなった。

 美月は水筒のふたを閉めた。

「すみません」

 口にしたあと、自分でも驚いた。

 颯太も少し意外そうな顔をした。

「こちらこそ。別に、姉を責めとるわけやないんです」

 颯太は立ち上がった。

「そろそろ戻りましょう」

     *

 帰り道、颯太は一本の切り株の前で足を止めた。

 直径は、美月が両腕を広げても届かないほどあった。

「触ってもいいですか」

「切り株なら」

 美月はしゃがみ、断面へ手を置いた。

 中心部は淡い赤色で、外側へ向かうほど白くなっている。細い年輪が、幾重にも重なっていた。

「きれいですね」

「この細かい年輪が、吉野の木の特徴です」

 颯太も隣へしゃがんだ。

「苗を密に植えて、何度も間引きながら育てます。光を競わせて、ゆっくり太らせる。手間はかかるけど、年輪が詰まって、まっすぐな木になる」

「何年くらいですか」

「これは九十年近いです」

 美月は年輪を目で追った。

 十本ほど数えたところで分からなくなった。

「佐藤さんが生まれる前から、育てていた人がいるんですね」

「私の祖父が子どもの頃です」

「伐る時、抵抗はありませんか」

「ありますよ」

 颯太は切り株の表面についた木屑を払った。

「でも、伐らん方がええとも思いません。使うために植えた木です。伐って、使って、また植える。その繰り返しが止まったことの方が問題です」

「売れなければ、植えられない」

「植えても、次に金になるのは何十年も先です」

「投資としては、期間が長すぎますね」

「山を投資としてだけ見たら、誰もやりません」

 美月は立ち上がった。

 手のひらに木の香りが残っている。

     *

 作業場へ戻ると、義一の怒鳴り声が聞こえた。

「そんな値段で出せるか!」

 事務所の前で電話をしている。

 美月と颯太に気づいても、声を下げなかった。

「先月の話と違うやろ。こっちは人を頼んで、もう山から下ろしとるんやぞ」

 電話の相手が何か言っている。

 義一は奥歯をかみしめ、丸太の山を見た。

「分かった。もうええ」

 通話を切ると、スマートフォンを作業台へ置いた。

「木村製材ですか」

 颯太が尋ねた。

「向こうの在庫が余っとるから、二割下げろやと」

「出すしかないでしょう。置いといても乾燥割れが出る」

「あの値段では、運送代にもならん」

「せやから、先に契約書を取れと言ったやろ」

「三十年付き合いのある相手に、いちいち契約書なんか要るか」

「口約束で値段を下げられたの、これで三回目や」

「お前が始めた直売は、一本でも売れたんか」

 颯太の顔がこわばった。

 作業小屋の奥に、きれいに加工された板材が積まれている。丸太とは違い、一枚ずつ紙が挟まれ、透明なシートがかけられていた。

「今、設計事務所と話しとる」

「話だけなら、去年からしとる」

「安く買いたたかれるよりはええ」

「売れん木は、木やない。場所を取る荷物や」

 義一は美月の存在を思い出したように口を閉じた。

「すみませんな。みっともないところを」

「いえ」

 美月は板材の方を見た。

「こちらは、佐藤さんが販売を始めたものですか」

 颯太は答えなかった。

 代わりに義一が言った。

「颯太が借金して、乾燥機を入れたんです。東京の建築家に直接売る言うて」

「おやじ」

「隠すことやないやろ」

 義一は作業小屋へ戻っていった。

 颯太は板材にかけられたシートを引き直した。

「事業計画を見せていただけますか」

 美月が言うと、颯太は振り向いた。

「何でです?」

「販売先と価格設定を見れば、改善できる部分があるかもしれません」

「村の調査と関係ありますか」

「林業は村の主要産業です。経営の現状を知る必要があります」

「今のを見て、失敗した事業やと思ったでしょう」

「まだ判断できません」

「顔に出てます」

「私は、資料を見ずに判断しません」

「資料を見たら、やめろと言うんでしょう。採算が合わんから」

「採算の合わない理由が、販売方法にあるのか、価格にあるのか、設備投資にあるのかで違います」

「全部ですよ」

 颯太はシートの端を強く引いた。

「良い木を作っても、値段は向こうが決める。直接売ろうとしても、実績がないと言われる。実績を作るために安く出したら、次からもその値段にされる。乾燥機の返済は待ってくれん」

「それでも続けるんですか」

「続けんかったら、父の言うとおりになる」

「お父様に反対されたから?」

「それだけやない」

 颯太は美月から目をそらした。

「このまま同じところへ同じ値段で出し続けたら、先にうちが潰れます」

「なら、事業計画を見せてください」

「東京の会社に?」

「私にです」

「同じことでしょう」

「違います」

 美月は一歩だけ板材へ近づいた。

「会社がこの事業を買い取るわけではありません。少なくとも、今は。私は計画のどこに問題があるかを確認するだけです」

「確認して、報告書に書く」

「必要なら書きます」

「『地方の小規模事業者は、経営感覚が不足している』と?」

「そんな結論は、資料を見なければ出せません」

 颯太が笑った。

 楽しそうな笑いではなかった。

「やっぱり、数字なんですね」

「数字を見ないで、どうやって借入金を返すんですか」

 美月の声も強くなった。

「守りたいものがあるなら、続けられる方法を考えるべきです。思いだけで続けて、最後に全部失ったら意味がないでしょう」

 父の会社が倒産した日の光景が、一瞬だけ浮かんだ。

 荷物を運び出す知らない男たち。空になった事務所。母が押し入れの奥へ隠した通帳。

 美月は口を閉じた。

 颯太がこちらを見ている。

「田中さんの家も、何か商売をしてたんですか」

「なぜですか」

「今の言い方が、仕事の話だけには聞こえんかったから」

「聞き取りを受けているのは、佐藤さんです」

「便利ですね、その言い方も」

 同じ言葉を返された。

 美月はバッグを肩へ掛け直した。

「事業計画を見せるかどうかは、佐藤さんが決めてください。無理に提出を求めるつもりはありません」

「考えときます」

 颯太は板材から離れた。

     *

 森下の迎えが来るまで、あと二十分あった。

 美月は作業場の端に積まれた丸太を見て回った。

 一本ごとに白いチョークで数字が書かれている。長さ、直径、伐採日らしい。

 颯太は少し離れた場所で、義一と出荷について話していた。

 声は抑えているが、意見が合っていないことは分かった。

 義一は腕を大きく振り、最後に事務所へ入った。

 颯太は一人で丸太の前に残った。

「先ほどは、すみませんでした」

 美月が声をかけると、颯太が振り返った。

「何がです?」

「ご家族の前で、事業計画を見せてほしいと言ったことです」

「別に、隠してませんから」

「でも、今言う必要はありませんでした」

 颯太は手袋を外し、作業台へ置いた。

「東京の人は、謝らんと思ってました」

「ずいぶん大きなくくりですね」

「この村の人間も、東京の人を大きなくくりで見ます。東京の人も、この村を大きなくくりで見る。お互い様です」

「私は、村を一つのくくりで見ているつもりはありません」

「昨日来たばかりやから、まだ誰が誰か分からんだけでしょう」

「少なくとも、佐藤さんとお父様の考えが違うことは分かりました」

「親子でも違います」

「村人全員が同じ考えであるはずもありませんね」

 颯太は返事をしなかった。

 作業場の裏手から、風が木の香りを運んでくる。

「学校の時計が、三時十八分で止まっています」

 美月は尋ねた。

「何か理由があるんですか」

 颯太の表情が変わった。

「誰かから聞いたんですか」

「いいえ。写真でも、昨日見た時も、同じ時刻でした」

「止まったんやなくて、止めたんです」

「誰が?」

「大西源造さんです」

 澄江から聞いた名前だった。

「なぜ止めたんですか」

 颯太は作業場の向こうに見える山へ目を向けた。

「あの学校は、地滑りの時に避難所になりました。体育館に、家へ帰れん人が集まった。三時十八分は、最初の避難指示が出た時間です」

「大西さんは、その時に?」

「時計を止めたのは、学校が閉校した日です。避難指示が出た時刻に合わせた」

「どうして、そんなことを」

「本人に聞いてください」

「佐藤さんは知らないんですか」

「知ってます。でも、私が話すことやない」

「大西さんは、地滑りで家を失った?」

 颯太は少し黙った。

「大西さんだけやないです」

 低い声だった。

「私の祖父も、家と山を失いました」

「ダムの建設で?」

「最初の家は、ダムの水が入る場所にありました。補償を受けて、少し上の造成地へ移った。やっと落ち着いたと思ったあとで、試験的に水をためた時、地面が動いた」

 颯太は自分の靴の先を見た。

「家の壁に、最初は髪の毛みたいなひびが入った。それが一週間で、指が入るくらいになった。庭の石垣もずれた。夜中に柱が鳴って、祖父が家族を起こした」

「佐藤さんは、何歳でしたか」

「九歳です」

「覚えているんですね」

「忘れられると思いますか」

 美月は答えられなかった。

「そのあと、また移転したんですか」

「村外へ出た家も多かったです。うちは、祖父がここを離れんと言うたから、村内の別の場所へ移りました」

「補償は?」

「金の話なら、役場で聞いてください」

 颯太の声が冷たくなった。

「そのつもりで聞いたのではありません」

「東京から来る人は、最後はそこを聞きます。いくらもらったのか。その金で新しい家を建てたんやろと」

「私は、そうは言っていません」

「でも、報告書には金額が要るんでしょう」

 美月は何も言わなかった。

 颯太は手袋を取り、腰のポケットへ押し込んだ。

「せやから、村の人間は開発という言葉を嫌います。新しいものが全部悪いわけやない。便利になったこともある。けど、一度壊れたもんは、金を払ったら元に戻るわけやない」

 作業場の前に、森下の白い軽自動車が入ってきた。

 颯太はそちらへ歩き出した。

「明日、大西さんへ会えるよう頼んでみます」

 美月が背中へ声をかける。

 颯太は立ち止まった。

「会って、何を聞くんです?」

「学校と、ダムと、過去の開発について」

「質問を並べて、答えを書き取るんですか」

「まずは、そうするつもりです」

「多分、何も話してくれませんよ」

「では、どうすればいいんですか」

 颯太は振り返った。

「聞く前に、自分が何をしに来たのか話した方がええと思います」

「地域活性化事業の調査です」

「それは会社の仕事でしょう。田中さんが、何でここに来たかです」

「辞令が出たからです」

「それを言えばええんやないですか」

 美月は眉を寄せた。

「そんな答えで、信頼されると思いますか」

「立派な嘘を言うよりは、ましでしょう」

 颯太は森下の車へ向かった。

     *

 帰り道、美月はほとんど話さなかった。

 森下も、無理に会話を続けようとはしなかった。

 村の中心部へ戻る途中、森下が道沿いの小さな商店の前で車を止めた。

「百円、返していくんでしょう」

 昨日の老女が、店先で野菜を並べていた。

 美月が車を降りると、老女はすぐに笑った。

「トマト、食べた?」

「はい。甘くておいしかったです。これを」

 美月は百円玉を差し出した。

 老女は受け取らず、美月の手を見た。

「どうしたん、その手」

「手?」

 見ると、指先と手のひらに黒い汚れが付いていた。切り株に触れた時の樹脂と木屑だった。

「佐藤さんの山へ行っていました」

「颯太に怒られたやろ」

「なぜ分かるんですか」

「あの子は、山へ入った人には、だいたい怒る」

「仕事を見せる気があるんでしょうか」

「見せる気があるから、怒るんよ」

 老女は美月の手から百円玉を取り、野菜の籠の横にある空き缶へ入れた。

「見せたくない人は、山へ連れていかん」

「そういうものですか」

「人による」

 澄江と同じ答えだった。

 老女は籠から小さなキュウリを二本取り出した。

「これ、持ってき」

「今度は代金を先に払います」

「曲がっとるから、売りもんやない」

「食べられますよね」

「食べられる」

「それなら、売り物と同じでは?」

 老女は目を丸くしたあと、大きな声で笑った。

「東京の人は、面白いこと言うなあ」

「普通のことを言っただけです」

「ほな、二十円」

 美月は財布から十円玉を二枚出した。

 老女は受け取り、キュウリを新聞紙で包んだ。

「私は松井フミ。あんたは?」

「田中美月です」

「美月さんな。覚えた」

 フミは新聞紙の包みを差し出した。

 美月も両手で受け取った。

     *

 午後三時、村長との挨拶を終えたあと、美月は役場の空いている机を借りた。

 本社へ送る初回報告書を作成する。

 最初に、佐藤林業の概要を入力した。

 従業員数。

 管理面積。

 主な販売先。

 丸太価格の低迷。

 輸送費。

 設備借入金。

 所有者不明の山林。

 境界確認の困難さ。

 いつもなら、問題を項目ごとに分類し、その横に考えられる対策を記入する。

 だが、今日は指が止まった。

 所有者情報の整理。

 補助制度の利用。

 木材の直接販売。

 観光との連携。

 どれも、書くだけなら簡単だった。

 実行する人間と、続ける人間が必要になる。

 美月は対策欄を空白にした。

 代わりに、颯太から聞いた言葉を記録した。

『山は、店のようには閉められない』

『良い木を作っても、値段は買う側が決める』

『新しいものがすべて悪いわけではない。一度壊れたものは、金だけでは元に戻らない』

 報告書にはふさわしくない書き方に見えた。

 それでも削除はしなかった。

 黒田から、社内チャットが届いた。

『二日目の状況はどうだ。事業化できそうな資源は見つかったか』

 美月は視線を外した。

 役場の向こうに杉の山がある。

 昨日まで、同じ濃い緑の塊にしか見えなかった。今は、手入れされた明るい森と、光が入らない暗い森があることを知っている。

 何十年もかけて育てた木が、売れば赤字になることも知った。

 美月は返信した。

『現時点では、事業化を判断できる段階ではありません。林業関係者への聞き取りを継続します』

 しばらくして、黒田から返事が届いた。

『了解。急がなくていい』

 短い言葉だった。

 美月は初回報告書を保存した。

 手のひらには、何度洗っても落ちきらない樹脂の匂いが残っていた。



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