第二章 最初の印象
出発の日、東京は朝から雨だった。
田中美月は午前六時二十分にタワーマンションを出た。右手にキャリーケース、左肩に仕事用のバッグ、背中には小さなリュックを背負っている。
三か月分の荷物を一つにまとめるのは難しかった。黒や紺のスーツ、パンプス、ノートパソコン、タブレット端末、充電器、折り畳み傘。村で必要になると言われて買った防水靴は、箱から出しただけで一度も履いていない。
エレベーターの鏡に映った自分は、出張へ行く会社員というより、住み慣れた場所から追い出される人間に見えた。
美月はその考えを振り払うように、スマートフォンで配車アプリを開いた。
画面には「到着まで七分」と表示されている。
待っている間に、仕事用のメールを確認する。
岡部から、東雲倉庫街再開発事業のテナント構成案が届いていた。美月が引き継ぎ資料に記した方針を踏まえながら、岡部なりの修正が加えられている。
医療モールの比率をわずかに下げ、保育施設と短時間利用型の仕事場を増やした案だった。
合理的だと思った。
同時に、自分がいなくても計画が進んでいることを、はっきりと突きつけられた気がした。
『確認しました。方向性に問題はないと思います』
そこまで入力し、いったん手を止める。
正式な担当者はもう岡部だ。美月が許可を出すような書き方は適切ではない。
『資料を共有してくれてありがとう。保育施設の需要予測について、三ページ目の世帯構成データも参考になると思います』
書き直して送信した。
すぐに岡部から返信が届いた。
『ありがとう。奈良、気をつけて。最初から答えを出そうとするなよ』
余計なお世話だと思いながら、画面を閉じた。
エントランスの自動ドアが開き、湿った風が入り込んできた。軒下にまで細かな雨が吹き込んでいる。
道路の向こうから、予約した車が近づいてきた。
美月はキャリーケースの持ち手を握り直した。
*
東京駅のホームは、平日の早朝にもかかわらず人であふれていた。
出張へ向かう会社員、修学旅行らしい学生、旅行鞄を引く外国人。発車案内の電子音と構内放送が絶え間なく重なっている。
美月は指定席に腰を下ろすと、ノートパソコンを開いた。
清澄村の資料は、三週間でほぼすべて読み終えていた。
人口推移、空き家調査、村有施設の一覧、林業生産額、観光客数、路線バスの利用者数、一般会計の概要。公開されている資料だけでなく、役場から提供された古い議事録にも目を通した。
分からないことは、読むほどに増えていった。
村の人口は長期的に減少している。高齢化率も高い。それでも、住民アンケートでは「村に住み続けたい」と答えた人が多かった。一方で、「子どもや孫には村外で暮らしてほしい」という回答も目立つ。
自分は残りたい。
若い世代には残れと言えない。
二つの回答が、同じ人の中に並んでいる。
美月には理解しにくかった。
住み続けたい場所なら、次の世代にも残したいと思うのではないか。残ってほしいと言えないのなら、生活を続けられる場所だとは考えていないのではないか。
資料の数字だけでは、回答した人間の顔が見えなかった。
美月は新しいページを開き、現地で確認する項目を整理した。
一、村の主要産業における雇用可能人数。
二、既存宿泊施設の稼働率。
三、廃校を含む村有施設の維持費。
四、観光客の滞在時間と消費額。
五、住民が過去の開発計画に反対した理由。
入力中、私用のスマートフォンが震えた。
母からだった。
『奈良は東京より朝晩が冷えるかもしれません。風邪をひかないように』
続けて、笑っている犬の絵が送られてきた。
母は文章の最後に、必ず一つか二つの絵を付ける。美月には意味の分からない絵も多かった。
『着いたら連絡します』
短く返して、仕事用の画面へ戻る。
車内販売で買ったコーヒーが、テーブルの端で冷めていた。
新幹線が東京を離れるにつれ、窓の外から高層ビルが減っていく。住宅地の向こうに畑が現れ、やがて山の輪郭が見え始めた。
美月はブラインドを少し下げた。
画面に光が反射して、資料が読みにくかった。
*
京都で近鉄線に乗り換え、さらに南へ向かった。
東京駅から持ち越した人の波は、一つ駅を通過するたびに薄くなっていった。
車窓から見える建物の高さも、少しずつ低くなる。
途中の駅でスーツ姿の乗客がほとんど降りると、車内には買い物袋を足元に置いた女性と、制服姿の高校生、美月だけが残った。
向かいに座った高校生は、スマートフォンで動画を見ている。イヤホンからかすかに音が漏れていた。
美月も仕事用のスマートフォンを開いた。
社内チャットには、東雲のプロジェクトチームから次々と書き込みが届いている。
岡部が会議の進行を務め、奈緒が調査会社との日程を調整し、若手社員が資料を更新していた。
美月が半年かけて作った仕事が、すでに別の人間の手で動いている。
画面を上へ滑らせ、過去の投稿を読み返した。
自分の名前を探していることに気づき、指を止めた。
報告に質問を付けることもできた。気になる数値が一つあった。しかし、今の美月は担当者ではない。
スマートフォンを伏せる。
電車は山と山の間を縫うように走っていた。
曇り空の下で、田には水が張られ、細長い雲が逆さに映っている。家々の屋根は黒く濡れ、その間を細い道が延びている。
美月は窓の外へ目を向けたまま、しばらく何もしていないことに気づいた。
手持ち無沙汰になると、反射的にスマートフォンへ手が伸びる。
画面を開いても、見るべきものはなかった。
天気予報、ニュース、株価、社内チャット。順番に確認してから、もう一度天気予報へ戻る。
清澄村のある地域には、翌日から晴れの予報が出ていた。
*
電車を降りたあと、駅前から路線バスに乗った。
乗客は美月を含めて六人だった。
一番後ろの席にキャリーケースを置き、窓側へ座る。
バスは駅前の住宅地を抜け、川沿いの道へ入った。最初は両側に家が並んでいたが、やがて建物が途切れ、杉の山が迫ってきた。
同じような濃い緑が、幾重にも重なっている。
窓ガラスには雨粒が残っていた。バスが曲がるたびに、細い筋となって斜めへ流れていく。
道は想像していたより狭かった。
片側は山の斜面、もう片側は深い谷になっている。大型車とすれ違うたび、運転手はバスをぎりぎりまで端へ寄せた。
美月は道路幅を確認しようと、地図アプリを開いた。
現在地を示す青い丸が止まっている。
数秒後、画面の上部に「圏外」と表示された。
美月はスマートフォンを持ち上げ、窓へ近づけた。
表示は変わらない。
仕事用の端末も確認したが、同じだった。
前の座席に座っていた白髪の女性が、振り返って美月を見た。
「ここらは、つながらんとこ多いで」
「ずっとでしょうか」
「村へ入ったら、役場の近くはつながる。山へ入ったら、またあかんけど」
「そうですか」
「旅行?」
「仕事です」
美月が答えると、女性は小さくうなずいた。
「役場の人かいな」
「東京の会社から来ました」
それまで穏やかだった女性の顔から、笑みが薄れたように見えた。
「そう」
女性は前へ向き直った。
会話はそこで終わった。
美月はスマートフォンをバッグへしまった。
窓の外では、川の水が白いしぶきを上げている。
*
清澄村役場前と書かれた停留所で降りた時、雨は上がっていた。
バスが走り去る。
エンジン音が山の向こうへ消えると、辺りは驚くほど穏やかになった。
実際には音がないわけではなかった。
川の流れ。濡れた木の葉から落ちる雫。遠くで鳴く鳥。風が杉の梢を揺らす音。
都会では、車や機械の音に隠れてしまうものばかりだった。
美月は停留所の周囲を見回した。
二階建ての村役場、郵便局、屋根の低い診療所。少し離れたところに、古い商店が並んでいる。
そのうち二軒はシャッターが下りていた。一軒のガラス戸には、色褪せた紙で「長い間ありがとうございました」と貼られている。
迎えに来る予定の役場職員は、見当たらなかった。
美月は仕事用のスマートフォンを取り出した。
電波は一本だけ立っている。
担当者の森下佳奈へ電話をかけたが、つながる前に切れた。
もう一度かける。
今度は呼び出し音が鳴った。
『はい、森下です』
「あの、創生都市開発の田中です。今、役場前の停留所に着きました」
『田中さん?』
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
『到着は三時四十二分の便ではありませんでしたか』
「今の便でお伝えしたと思います。十四時十分着です」
『申し訳ありません。こちらの予定表では次の便になっています』
美月は腕時計を見た。
午後二時十二分。
事前に送った日程表には、確かに十四時十分と記載した。メールも残っている。
『すぐに迎えに行きます。十分ほどお待ちいただけますか』
「役場の前にいますので、中で待たせてもらいます」
『今日は支所の水道点検で、正面玄関を閉めているんです。裏口に回ってもらえれば――』
通話が途切れた。
「森下さん?」
画面を見ると、再び圏外になっている。
美月は息を吐いた。
キャリーケースを引き、役場の建物へ向かう。
正面玄関には鍵がかかっていた。脇に「本日午後、設備点検のため御用の方は裏口へ」と書かれた紙が貼られている。
美月は建物の横へ回った。
舗装されていない細い通路に、雨水がたまっていた。
キャリーケースの車輪が泥に沈む。
一度強く引くと、泥水が跳ね、パンプスのつま先に茶色いしみが付いた。
美月は立ち止まった。
防水靴はキャリーケースの一番奥に入っている。
到着して十分もたたないうちに、東京から履いてきた靴が汚れた。
ハンカチで拭こうとしていると、背後から軽自動車のクラクションが鳴った。
白い車が停まり、運転席から女性が降りてきた。
「田中さんですよね。森下です。すみません、予定を間違えてしまって」
三十代半ばほどの女性だった。紺色の作業着の上に薄いジャケットを羽織り、肩までの髪を後ろで束ねている。
「メールには十四時十分と書きました」
「はい。確認しました。私が予定表へ転記する時に間違えました。本当に申し訳ありません」
森下は言い訳をせず、深く頭を下げた。
美月は用意していた抗議の言葉をのみ込んだ。
「今後、日程変更がある場合は、共有した表にも反映してください」
「分かりました。役場の中へご案内します。荷物は旅館へ運んでおきます」
森下がキャリーケースへ手を伸ばした。
「自分で持てます」
「裏口の階段、狭いんです。車に載せた方が早いので」
美月が断る前に、森下はケースを持ち上げた。細い体に似合わず、動きに迷いがない。
車の後部には、段ボール箱と水道管らしい部品が積まれていた。
「役場の車ですか」
「私の車です。公用車が全部出ていて」
「業務で自家用車を使っているんですか」
「そういう日もあります」
森下はそれだけ答え、キャリーケースを後部座席へ載せた。
*
村役場の会議室には、古い長机が四本、四角形に並べられていた。
天井の蛍光灯は、一本だけ点滅している。
壁際には、村の防災地図と、昨年の秋祭りの写真が貼られていた。
森下が紙コップに入ったお茶を運んできた。
「本当は村長もご挨拶する予定だったんですが、県庁へ行っていまして。明日の午後には戻ります」
「今日の打ち合わせには、どなたが参加されますか」
「地域振興課長と、私です」
「住民代表の方は?」
「今日は来ません」
「事前に、可能であれば同席していただきたいとお願いしました」
「お願いはしました」
森下は向かいの席へ座った。
「でも、断られました」
「理由は聞いていますか」
「東京の会社がどんな計画を持ってきたのか分からないうちに、顔を出したくないそうです」
「今回は、計画を作るための調査です。完成した計画を持ってきたわけではありません」
「そう説明しました」
森下の表情は変わらなかった。
「それでも、です」
扉が開き、五十代後半の男性が入ってきた。
「お待たせしました。地域振興課長の藤井です」
首にかけた手拭いで額の汗を拭きながら、藤井は美月の名刺を受け取った。
「遠いところ、ありがとうございます。まあ、座ってください」
三人が席に着く。
美月はノートパソコンを開いた。
「最初に、当社の役割と調査方針についてご説明します」
藤井と森下の前に資料を置き、スクリーンへ画面を映す。
昨夜まで修正していたスライドだった。
「本プロジェクトでは、清澄村が保有する地域資源を整理し、市場性と収益性の両面から持続可能な事業モデルを検討します。初期段階では、観光、林業、遊休不動産活用の三領域を中心に――」
「田中さん」
藤井が手を上げた。
「はい」
「その『地域資源』というのは、具体的に何ですか」
「現時点では、森林、清流、温泉、廃校、伝統的な林業技術などを想定しています」
「山も川も、誰かのもんです」
藤井の声から、先ほどまでの愛想のよさが消えていた。
「村が自由に使えるわけやない。廃校も村有ですけど、卒業生や近所の人にとっては、ただの空いた建物とは違います」
「所有権については、今後確認します」
「登記の話だけやないんです」
美月は言葉を止めた。
森下が紙コップへ視線を落としている。
「もちろん、住民の皆さんの意向も確認します。そのために、聞き取り調査へご協力いただきたいと考えています」
「どんなことを聞くんです?」
「過去の開発計画への評価、将来の生活への不安、村に必要だと思う施設や雇用などです」
「必要なものなら、みんな分かってますよ」
「では、それを教えていただけますか」
「病院、働く場所、子ども、バス。どれも、欲しいと言うたからすぐ手に入るもんやない」
藤井は椅子の背にもたれた。
「外から来る人は、まず、ここに何がないかを数えます。店がない。若い者がおらん。交通が悪い。そのあとで、自分らが何かを作ってやると言う」
「私は、そのようなつもりで申し上げたのではありません」
「分かってます。田中さん個人を責めとるわけやないんです」
そう言いながらも、藤井の表情は硬い。
「前に来た会社も、最初は同じことを言いました。村の話を聞きたい、村と一緒に考えたいと」
「高級リゾート計画の会社ですか」
「ええ。半年後には、山の上へホテルを建てる図面ができてました。誰が頼んだわけでもないのに」
美月はスライドを閉じた。
準備してきた資料の続きには、市場調査の方法や事業化までの工程がまとめてある。しかし、それを映すほど藤井の警戒を強める気がした。
「その会社が、住民の意見を計画へ反映しなかったことは理解しました」
美月は二人の顔を交互に見た。
「同じことを繰り返さないために、最初の一か月は具体的な提案を行いません。住民の方への聞き取りと、現地の確認に集中します」
森下が顔を上げた。
藤井はしばらく黙っていた。
「一か月で、この村のことが分かりますか」
「すべて分かるとは思っていません。ただ、何も知らないまま提案するよりは――」
「一か月なら、まだ杉の山の見分けもつかんでしょうな」
「見分ける必要があるなら、教えてください」
美月が答えると、藤井は少し意外そうな顔をした。
「林業については、村内の事業者を紹介します。佐藤林業というところです」
森下が口を挟んだ。
「若い人が一人、中心になって働いています。佐藤颯太さん。三十歳です」
「面談の日程を調整してください」
「先に本人へ確認します」
森下はそう言って、手帳へ書き込んだ。
「旧清澄小学校も確認したいです」
美月は続けた。
「村の所有で間違いありませんか」
「所有は村です。ただ、今は立ち入りを制限しています」
「老朽化のためですか」
「雨漏りがあります。設備も古い。正確な調査は、何年もしていません」
「維持管理費の資料をいただけますか」
「出せるものは出します」
藤井は腕を組んだ。
「ただ、あそこを何かに使うつもりなら、早めに考え直した方がいい」
「なぜですか」
「学校のことになると、村の中でも意見が割れるからです。壊してしまえという人もおれば、絶対に残せという人もおる。建物に金を使うくらいなら、高齢者の送迎に回せという人もいます」
「実際に建物を見てから判断します」
「判断するのは、田中さんやないですよ」
藤井の言葉が、会議室に落ちた。
美月は反射的に言い返しそうになった。
しかし、藤井の指は、長机の端を強く押さえていた。怒っているというより、何度も同じことを言わされてきた人間の疲れが見えた。
「承知しています」
美月は答えた。
「私の役割は、判断に必要な材料をそろえることです」
藤井はすぐにはうなずかなかった。
点滅していた蛍光灯が、一度大きく明滅した。
「明日、村内を案内します」
森下が言った。
「午前中は集落と商店、午後は林業関係者を回ります。学校は、鍵を管理している方の許可が取れれば外から見られます」
「お願いします」
美月はノートパソコンを閉じた。
東京から持ってきた最初の説明資料は、半分も使わないまま終わった。
*
役場を出ると、午後四時を過ぎていた。
雨雲の切れ間から、西日が差し込んでいる。
濡れた山の斜面が光を受け、杉の葉が暗い緑から銀色へ変わって見えた。
「旅館まで送ります」
森下が軽自動車の鍵を取り出した。
「歩くと遠いですか」
「十五分くらいです。でも、荷物がありますから」
「村の様子を見たいので、歩きます」
「道は分かりますか」
「地図で確認します」
美月がスマートフォンを取り出すと、森下が少し笑った。
「この辺り、地図だと旅館の裏へ案内されることがあります。川沿いの道をまっすぐです。赤い橋を渡ったら、右へ曲がってください」
「承知しました」
「荷物だけ運んでおきます」
森下は後部座席から美月のキャリーケースを下ろさず、そのまま車へ乗り込んだ。
窓を開け、もう一度道順を説明する。
「途中に小さな商店があります。必要なものがあるなら、そこで買ってください。六時には閉まります」
「コンビニエンスストアは?」
「一番近い店まで、車で四十分くらいです」
「四十分……」
「だから、必要なものは今のうちに」
軽自動車が走り去る。
美月は仕事用のバッグを肩へ掛け直し、川沿いの道を歩き始めた。
商店街と呼ぶには短い通りだった。
理髪店、酒屋、郵便局、木工品を並べた店。開いているのか閉まっているのか、外からでは分からない家もある。
一軒の店先に、野菜が入った籠が置かれていた。
手書きの紙に「一袋百円」と書かれ、その横に菓子の空き缶がある。
人の姿はない。
美月は立ち止まり、籠を見た。
形の揃っていないトマトが、透明な袋に三つずつ入っている。東京のスーパーマーケットで売られているものより小さいが、赤い色は濃かった。
百円玉を持っていないことに気づき、財布を確認する。
五百円玉と一万円札しかない。
買うのを諦めて歩き出そうとすると、奥の家から声がした。
「持ってってええよ」
小柄な老女が、引き戸の向こうから顔を出していた。
「でも、小銭がありません」
「明日でええ」
「明日、ここへ来られるか分かりません」
「ほんなら、役場の森下さんに渡しといて」
「私が誰か、分かるんですか」
「さっき、車で通ったやろ。東京から来た人やろ?」
老女は美月の返事を待たず、トマトの袋を一つ差し出した。
「旅館のごはんもあると思いますので」
「朝、食べたらええ。都会の人は、朝ごはん食べへんのやろ」
「食べる日もあります」
「ほな、食べる日に」
老女が笑う。
美月は袋を受け取った。
「明日、必ず百円を持ってきます」
「忘れても、トマト一個で村は潰れへん」
冗談なのだろうが、美月はうまく笑えなかった。
財布の中に入っていた千円札を出そうとすると、老女はもう家の中へ戻っていた。
透明な袋から、青い茎と土の匂いがした。
*
赤い橋を渡ると、川の音が近くなった。
水は澄んでいて、底の白い石まで見える。雨のあとなのに濁りが少ない。
美月は写真を撮ろうと、スマートフォンを向けた。
画面の中に収めると、川は平坦な青と緑の帯にしか見えなかった。
実際には、流れの速い場所と緩やかな場所で色が違う。岩に当たった水が細かな泡になり、その上を傾いた光が走っている。
何度か撮り直したが、目の前の色にはならなかった。
諦めてスマートフォンを下ろす。
橋の先で、道が二つに分かれていた。
右へ曲がるよう言われたはずだが、右側には細い坂道しかない。正面の道の方が広く、旅館らしい屋根も見えた。
美月は地図アプリを開いた。
位置情報が読み込まれない。
森下へ電話をかけても、発信の表示から進まなかった。
仕方なく右の坂道を上る。
舗装は途中で途切れ、両側から草が伸びている。
五分ほど歩いたところで、錆びた金網の向こうに大きな建物が見えた。
木造二階建ての、旧清澄小学校だった。
資料の写真で見た建物より、実物はずっと大きく感じられた。
白かったはずの外壁は雨と埃でくすみ、ところどころ板が黒ずんでいる。玄関の上にある丸い時計は、写真と同じ三時十八分で止まっていた。
校庭には背の高い草が生えていた。サッカーゴールの網はなく、白い枠だけが残っている。
美月は金網越しに写真を撮った。
次に、建物の側面へ回る。
窓枠や屋根の状態も記録しておきたかった。
「そこ、入らん方がええですよ」
突然、背後から声がした。
振り向くと、作業着姿の男が立っていた。
肩に長い木材を担ぎ、泥の付いた手袋をしている。年齢は美月と同じくらいに見えた。日に焼けた顔に、愛想はない。
「中へ入るつもりはありません。外から建物を確認していただけです」
「その金網の向こう、学校の敷地です」
美月は自分の足元を見た。
確かに、壊れた金網の一部から内側へ半歩ほど入っていた。
「すみません」
道へ戻る。
男は美月のジャケットとパンプス、手にしたスマートフォンを順に見た。
「役場の人ではないですよね」
「創生都市開発の田中です。今日から村の地域活性化プロジェクトを担当します」
名刺入れを出そうとしたが、男は木材を肩へ担ぎ直した。
「もう何か決めたんですか」
「何をですか」
「学校をどう使うか」
「まだ何も決めていません。現地調査に来ただけです」
「調査に来た人は、みんなそう言います」
役場でも似た言葉を聞いた。
美月は男を見た。
「以前の計画に関わった方ですか」
「村に住んどったら、関わりたくなくても関わりますよ」
「具体的に、何が問題だったのか教えていただけませんか」
「今ですか」
男が肩の木材を少し持ち上げた。
長さは三メートル以上ある。美月が話しかけたままにしてよい状態ではなかった。
「改めてお時間をいただきます」
「役場を通してください」
男はそれだけ言って、坂道を下り始めた。
「お名前を伺ってもいいですか」
足を止めずに答えが返ってきた。
「佐藤です」
佐藤林業。
森下から聞いた名前を思い出した。
「佐藤颯太さんですか」
男は一度だけ振り返った。
「そうです」
「明日、林業関係者の方にお話を伺う予定です」
「聞いてませんけど」
美月は言葉に詰まった。
森下は、先に本人へ確認すると言っていた。
「日程については、役場から連絡があると思います」
「決まってから教えてください」
颯太は坂道を下りていった。
濡れた作業着の背中には、細かな木屑が付いていた。
美月はその姿が見えなくなるまで立っていた。
自分の何が気に入らなかったのか、分からない。
会社名を出したことか。学校を撮影していたことか。東京から来たことそのものか。
金網の向こうで、風に押された草がざわめいた。
*
旅館へ着いた時には、午後五時半を過ぎていた。
正面には「山路館」と書かれた木の看板が下がっていた。磨かれた格子戸を開けると、土と線香を混ぜたような匂いがした。
「いらっしゃいませ」
着物の上に割烹着を着た女性が、廊下の奥から出てきた。
「田中美月様ですね。女将の西川澄江です。森下さんからお荷物をお預かりしています」
「これから三か月、お世話になります」
美月は名刺を差し出した。
澄江は両手で受け取り、ゆっくりと名前を読んだ。
「美しい月で、美月さん。ええお名前ですね」
「ありがとうございます」
「森下さん、だいぶ気にしてはりましたよ。お迎えの時間を間違えたって」
「もう済んだことです」
「役場も人が少ないから、一人で三つも四つも仕事を抱えとるんです。悪気はないんですよ」
「分かっています」
まだ何も言っていないのに、森下を責めないよう釘を刺された気がした。
「こちらへどうぞ」
澄江に案内された部屋は、二階の角にあった。
畳敷きの八畳間。窓際には広縁があり、小さなテーブルと籐の椅子が置かれている。
窓の外には川と山しか見えなかった。
「お風呂は一階です。夕食は七時に広間へお持ちします。洗濯機は従業員用のものを使ってもらいますから、遠慮なく言ってください」
「部屋で仕事をしたいのですが、通信環境はどうなっていますか」
「無線のインターネットはありますよ。ただ、部屋によっては弱い時があります。つながらなかったら、一階のロビーを使ってください」
澄江は、パスワードを書いた紙を渡した。
アルファベットと数字が手書きされている。文字の一部が崩れていて、八なのかBなのか分からなかった。
「夕食の時間を八時に変更できますか」
「お仕事ですか」
「本社へ到着報告を送りますので」
「構いませんけど、川魚は焼きたての方がおいしいですよ」
「できるだけ早く終わらせます」
澄江は小さく笑った。
「東京の人は、みんな同じことを言います」
「以前にも、東京の会社の方が泊まっていたんですか」
「何人も来ましたよ。役場の人、建設会社の人、大学の先生。最初の日は、みんな夜遅うまでパソコンを触ってます」
「二日目からは?」
「二日目も触ってます」
澄江は笑い、襖を閉めた。
一人になると、急に川の音が大きくなった。
美月は窓を閉めようとした。
しかし、すでに鍵がかかっている。
川は窓の外にあるだけなのに、部屋の床下を流れているように聞こえた。
*
仕事用のノートパソコンを開き、無線通信へ接続する。
パスワードを三回間違えた。
八に見えた文字をBへ変えると、ようやく接続できた。
本社への到着報告を送信する。
添付した資料の読み込みを示す円が、画面の中央で何度も回った。
一分たっても終わらない。
美月はスマートフォンのテザリングへ切り替えようとしたが、電波は一本しかない。
もう一度、旅館の回線へ戻す。
送信が完了するまでに、七分かかった。
社内チャットには、黒田から短いメッセージが届いていた。
『到着確認。最初の一週間は提案不要。現地で見聞きしたことを記録してください』
美月は返信欄に入力した。
『本日、役場担当者と初回打ち合わせを実施。旧清澄小学校周辺を確認。明日から住民および事業者への聞き取りを開始します』
送信したあと、颯太とのやり取りを報告へ入れるか迷った。
正式な面談ではない。記録するほどの内容でもない。
それでも、新しいメモを開いた。
『佐藤颯太。佐藤林業。旧清澄小学校付近で接触。外部事業者への警戒心が強い』
書いてから、「警戒心が強い」を削除した。
初対面の短い会話だけで、性格を決めるべきではない。
『過去の調査・計画に不信感を持っている可能性あり』
そこまで書き直し、保存した。
時計を見ると、七時二十分だった。
夕食を八時にしてもらったのに、予定していた作業はほとんど進んでいない。
仕事を続けようとしたが、空腹を感じた。
昼は乗り換えの途中で小さなパンを食べただけだった。
机の横に、商店でもらったトマトが置いてある。
袋を開け、一つ取り出した。
洗おうとして、部屋に水道がないことに気づく。浴衣とタオルを持ち、一階の洗面所へ下りた。
廊下の途中で、広間から話し声が聞こえた。
襖が少しだけ開いている。
三人の高齢男性が、低いテーブルを囲んでいた。地元の客らしく、浴衣ではなく普段着を着ている。
「また学校を見に行っとったそうや」
「森下さんが案内したんか」
「いや、一人で上がって、颯太に止められたらしい」
自分の話だと分かった。
到着して数時間しかたっていないのに、学校へ行ったことまで知られている。
美月は立ち止まった。
「颯太も言い方がきついからのう」
「けど、あの学校は、勝手に写真撮られてええ場所やない」
「東京の人には分からんよ」
襖の前を通り過ぎる。
洗面所でトマトを水に当てた。
赤い皮の上を雫が滑り落ちる。
一口かじると、予想していたより甘かった。
果汁が指へ流れ、慌てて口元を押さえる。
広間から笑い声が聞こえた。
戻る途中、男性の一人が大きな声で言った。
「山が動いた年のこと、忘れたらあかん」
笑い声が止まる。
「学校の体育館に、みんな集まった。誰の土地が残って、誰の家が沈むか、毎晩あそこで話したんや」
「もう二十年以上になる」
「年数は関係ない」
美月は足を止めず、階段を上がった。
*
夕食には、川魚の塩焼き、山菜の天ぷら、炊き合わせ、豆腐、赤だしが並んだ。
澄江の言ったとおり、魚は焼きたてだった。箸を入れると薄い皮がぱりっと割れ、白い身から湯気が上がった。
「お口に合いますか」
料理を運んできた澄江が尋ねた。
「はい。おいしいです」
「よかった」
「先ほど広間で、山が動いた年という話を聞きました」
澄江の手が止まった。
「地滑りのことですか」
「そうでしょうね」
「ダム建設と関係があるんですか」
「その話は、私から聞くより、当時そこに住んどった人から聞いた方がええと思います」
「どなたに伺えばいいでしょう」
「大西源造さん」
「住民の代表者ですか」
「代表かどうかは分かりません。あの人を代表に選んだ覚えはないと言う人もおりますから」
澄江は空いた器を盆へ載せた。
「でも、学校とダムのことを話すなら、避けては通れん人です」
「役場に紹介をお願いしてみます」
「すぐには会うてくれんかもしれませんよ」
「東京の会社だからですか」
「それもあります」
「ほかにも?」
澄江はしばらく美月の顔を見た。
「美月さんは、ここへ来て最初に何を見ました?」
「最初に?」
「バスを降りてからです」
美月は役場前の景色を思い出した。
「閉店している店が多いと思いました。公共交通も少ないですし、診療所の診療日も限られています」
「そうですか」
「何かおかしいでしょうか」
「いいえ。数字を扱う方なら、そう見えるんやろうと思っただけです」
「女将さんは、何を見てほしかったんですか」
澄江は窓の外を見た。
「今日は雨上がりやったから、山に霧が残ってたでしょう」
「はい」
「この季節の夕方にしか見られません。川の上に霧が下りて、山が二つあるように見えるんです」
美月も窓へ顔を向けた。
外はすでに暗く、川の姿は見えなかった。
「見ていませんでした」
「明日も見られるかもしれません」
澄江は責めるでもなく、そう言った。
*
夕食後、美月は母へ電話をかけた。
『着いた?』
「うん。さっき夕食を食べたところ」
『どんなところ?』
「山と川しかない」
『空気がきれいそうね』
「少し歩くだけで靴が泥だらけになるし、携帯電話もつながりにくい。コンビニも車で四十分だって」
『不便ねえ』
母はそう言ったが、声にはどこか楽しそうな響きがあった。
『お部屋は?』
「古い旅館。でも、掃除はきちんとされている」
『ごはんはおいしかった?』
「川魚と山菜」
『いいじゃない』
「仕事で来てるのよ」
『分かっていますよ』
電話の向こうで、食器の触れ合う音がした。
母も夕食を終えたところなのだろう。
『送った工作、持っていった?』
「工作?」
『美月が作った工作。荷物の箱に入れておいたでしょう』
「開けてない箱があるから、そこかもしれない」
『迷惑だった?』
「三か月も旅館に滞在するのに、工作を持ってきても飾る場所がないでしょう」
言ってから、母が黙った。
「ごめん。そういう意味じゃなくて」
『いいのよ。邪魔なら、そのまま持って帰ってきて』
「捨てろとは言わないの?」
『それは言わない』
母の声は穏やかだった。
『お父さんが、あの家をずっと取っておいたから』
美月は返事ができなかった。
『疲れてるでしょう。今日は早く寝なさい』
「うん」
『おやすみ』
「おやすみなさい」
通話が切れた。
美月はキャリーケースを開け、衣類の下に入っていた小さな段ボール箱を取り出した。
新聞紙を外すと、写真で見た工作が現れた。
割り箸の柱。段ボールの屋根。大きさの違う窓。玄関の上に書かれた「みんなのいえ」。
屋根の片側に、細い鉛筆の字が残っていた。
『みづき 十さい』
工作を広縁のテーブルへ置く。
都会の部屋では写真でしか見なかった家が、山と川に囲まれた旅館の窓辺に立っている。
美月はスマートフォンを手に取り、母へ写真を送ろうとした。
撮影画面を開いたところで、やめた。
明るくなってから撮った方がいい。
そう思い、スマートフォンを伏せた。
*
仕事へ戻ろうとしたが、画面の文字が頭に入らなかった。
美月は椅子から立ち上がり、窓を開けた。
冷たい空気が流れ込んでくる。
川の音が、さらに大きくなった。
見上げると、雲の切れた夜空に星が出ていた。
東京で見える星は、数えようと思えば数えられる。けれど、ここでは、暗い場所を探す方が難しかった。
小さな光が幾重にも重なり、山の稜線のすぐ上まで続いている。
美月は写真を撮った。
画面には、黒い空に白い点が三つしか映らなかった。
露出を変え、もう一度撮る。
今度は手ぶれで、星が細い線になった。
何度試しても、目の前の空にはならない。
美月は撮影をやめた。
窓辺にスマートフォンを置き、籐の椅子へ腰を下ろす。
川の音と、名前の分からない虫の声が聞こえる。
通知音は鳴らなかった。
社内チャットも、ニュースも、株価も見なかった。
ただ星を見上げているだけの時間が、落ち着かなかった。
何かを忘れている気がする。
返信していないメールがあるのではないか。明日の準備が足りないのではないか。本社で誰かが判断を待っているのではないか。
仕事用のスマートフォンを確認する。
未読はなかった。
画面を閉じる。
それでも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
美月は部屋へ戻り、ノートパソコンを開いた。
初期分析の資料に、新しいページを作る。
『現地確認一日目』
役場との打ち合わせ。
廃校の外観。
佐藤颯太との接触。
住民の反応。
地滑りに関する聞き取りの必要性。
そこまで入力し、最後に一行を加えた。
『村の第一印象――美しいが、何もない』
画面を見つめる。
昼間にも、自分は同じ言葉を口にした。
何もない。
けれど、役場前には閉まった店があり、その店にも営業していた時間があった。廃校には止まった時計があり、体育館には避難した人たちの記憶が残っている。商店の老女は名前も知らない美月にトマトを渡し、女将は一日のうちわずかな時間しか現れない霧の話をした。
美月は「何もない」の部分を削除した。
しばらく考え、打ち直す。
『村の第一印象――見えているものだけでは判断できない』
保存してから、ノートパソコンを閉じた。
窓は開けたままにしておいた。
布団へ入っても、川の音は消えなかった。
東京の部屋では、静かすぎる夜を紛らわせるために動画や音楽を流していた。ここには絶えず音があるのに、人の気配だけが遠かった。
目を閉じると、金網の向こうに立つ廃校が浮かんだ。
止まった時計は、三時十八分を指している。
なぜその時刻で止まったのか。
美月は布団の中でスマートフォンへ手を伸ばした。
検索しようとして、電波がないことを思い出す。
暗い画面に、自分の顔が映った。
美月はスマートフォンを枕元へ戻した。
川の流れを聞きながら目を閉じた。




