第一章 辞令
午前九時十二分、会議室の壁一面に広がるスクリーンには、青と灰色で塗り分けられた棒グラフが並んでいた。
二十八歳の田中美月は、手元のリモコンを押し、最後のスライドを表示した。
「以上の理由から、旧東雲倉庫街再開発事業では、商業施設の比率を当初案より十二パーセント下げ、賃貸住宅と医療モールへ振り分けるべきだと考えます」
長い楕円形のテーブルを囲む役員たちは、誰も声を発しなかった。
壁に埋め込まれた空調の音だけが、乾いた風を吐き出している。
「商業面積を減らせば、初年度の売上予測も下がる」
沈黙を破ったのは、営業本部長の小田切だった。
白い眉の下から、美月を試すように見ている。
「はい。初年度だけを見れば、約四億六千万円下がります」
「それを承知で、減らせと?」
「三年目以降の空室率を考えれば、その方が損失を抑えられます。この地域には、すでに三つの大型商業施設があります。駅前人口は増えていますが、購買人口は予測ほど伸びていません。さらに来年度、隣駅に競合施設が開業します」
美月は次の資料を映した。
商圏人口、年齢構成、世帯収入、平日の滞在人口。赤い折れ線だけが、ほかの線とは逆方向へ落ちている。
「既存施設の休日来館者数は横ばいですが、平日はこの五年間で十九パーセント減少しています。高齢者世帯と共働き世帯が増えている以上、必要なのは四つ目のショッピングモールではありません。日常的に利用される医療と生活の拠点です」
「夢がないな」
誰かが小さく言った。
笑い声が二、三か所で起きた。
美月も口元だけで笑った。
「夢を実現するには、まず事業を継続できなければなりません」
今度は誰も笑わなかった。
数字は嘘をつかない。
少なくとも、人間ほど簡単には態度を変えない。
努力や熱意を口にする人間ほど、失敗した時には景気や時代や部下のせいにする。けれど、収支表の数字は逃げない。赤字は赤字として残り、空室は空室として数えられる。
美月は、自分の提案に感情を持ち込まないことを覚えていた。
期待しなければ、裏切られることもない。
「悪くない」
社長の磯村が資料を閉じた。
「田中君の案を軸に、計画を再検討しよう。営業本部はテナント構成を洗い直してくれ」
小田切は不満そうに椅子へもたれたが、反論はしなかった。
会議室の空気がわずかに緩む。
美月は一礼し、ノートパソコンを閉じた。
胸の奥に、小さな達成感が灯っていた。
それは喜びというより、今日も間違えなかったことへの安堵に近かった。
会議室を出たところで、同期の岡部亮介が追いついてきた。
「また役員を黙らせたな」
「データを説明しただけよ」
「それをあの場でできる人間が少ないんだよ。小田切本部長、完全に機嫌を悪くしてたぞ」
「機嫌を取るために会議をしているわけじゃないでしょう」
「そういうところだよ、田中は」
岡部は笑った。
彼は同期の中で最も早く課長代理になった男だった。人当たりがよく、飲み会では役員の隣に座り、部下の失敗を庇うこともできる。美月にはない柔らかさを持っていた。
「それより、昼、どうする?」
「次の打ち合わせがあるから、デスクで食べる」
「また栄養補助食品?」
「今日はサンドイッチもある」
「それを食事と呼べるならな」
岡部のスマートフォンが震えた。
画面を確認した彼の表情が、仕事中には見せないものへ変わった。
「娘?」
「保育園で描いたらしい。何だと思う?」
差し出された画面には、黄色と青の線が激しく交差した絵が映っていた。
「鳥?」
「残念。俺だって」
「ずいぶん羽ばたいているのね」
「ネクタイらしい」
岡部は苦笑しながらも、しばらく画面を見つめていた。
美月は時刻を確認した。
「あと三分で打ち合わせでしょう」
「ああ、そうだった」
岡部が画面を閉じる。
美月は先に歩き出した。
背後から聞こえた「かわいく描けてるよ」という小さな声が、誰に向けられたものなのかは考えなかった。
*
午後二時過ぎ、美月のもとへ黒田部長から内線が入った。
「少し時間をもらえるか」
それだけだった。
企画開発部長の黒田から個別に呼ばれることは珍しくない。新規案件の相談か、午前中の会議についての確認だろうと美月は考えた。
しかし、部長室の前まで来た時、中に人事部の境がいることに気づいた。
透明なガラス壁の向こうで、黒田と境が並んで座っている。
テーブルの上には、薄い青色のファイルが置かれていた。
嫌な予感がした。
美月はジャケットの裾を整え、扉をノックした。
「失礼します」
「座ってくれ」
黒田はいつもの席ではなく、応接用のソファに座っていた。
美月が向かいに腰を下ろすと、境が軽く頭を下げた。
「午前中の提案、社長も高く評価していた」
「ありがとうございます」
「君がこの五年間で積み上げた実績についても、会社は十分に把握している。入社七年目で三つの大型案件に関わり、そのうち二つでは収支改善に大きく貢献した。去年の駅前再開発では、住民説明会の仕切り直しも成功させた」
過去の実績を並べてから本題へ入る時、よい話だったためしがない。
美月は膝の上で指を組んだ。
「異動でしょうか」
黒田は一瞬だけ境を見た。
「奈良県の奥吉野に、清澄村という村がある」
聞いたことのない名前だった。
「人口は四百八十九人、高齢化率は五割を超えている。十年前には唯一の小学校が閉校した。林業と観光業も厳しい状態だ。村は現在、地域活性化に関する民間事業者との連携を模索している」
黒田が青いファイルを美月の前へ滑らせた。
表紙には、社内資料を示す赤い印とともに、次の文字が記されていた。
『奈良県清澄村地域活性化共同プロジェクト』
「創生都市開発は、自治体と共同でこの事業へ参加することになった。期間は三年半。現地調査を行い、村と協議しながら、持続可能な事業計画を作る」
「当社が、ですか」
思わず問い返した。
「採算が取れる事業なのでしょうか」
「現時点では分からない」
「会社としての投資上限は?」
「調査段階では三千万円。本格的な出資は、事業計画と住民の合意を確認してから判断する」
「会社が所有する施設を建てる予定ですか」
「それも決まっていない」
美月はファイルを開いた。
村の位置を示す地図、人口推移、産業構成、空き家の数、閉校した小学校の写真。どの資料にも、事業性を示す具体的な数字はほとんどなかった。
「目的が見えません」
「だから、見つけてほしい」
黒田の声は穏やかだった。
「この案件の現地責任者を、君に任せたい」
部屋の空調が急に強くなったように感じた。
「私を、ですか」
「ああ」
「現在担当している東雲倉庫街の案件はどうなりますか」
「岡部に引き継いでもらう」
「今日、私の案が採用されたばかりです」
「計画の骨格はできた。君でなければ進められない段階ではない」
その言葉が、思いがけない角度から胸に刺さった。
美月でなければ進められない仕事ではない。
だから外される。
「清澄村の案件には、私でなければならない理由があるのですか」
「ある」
黒田は即答した。
「君は数字を読む力がある。採算の合わない理想論を、現実的な事業へ落とし込める。それに、駅前再開発の住民説明会では、反対派の要求を一つずつ整理して合意まで持っていった」
「あの時は、代替案と補償条件がありました。今回は前提となる事業そのものがありません」
「それを見つけるところから始めるんだ」
境が資料を一枚取り出した。
「現地での勤務は、来月一日からです。最初の三か月は村内の旅館に滞在していただきます。その後は事業の状況を見て判断します。月に一度、東京本社で報告会を行います」
「拒否することはできますか」
境の手が止まった。
黒田はすぐには答えなかった。
「形式上は、希望を申し出ることができる」
「形式上、ということは、断れば今後の評価に影響するという意味ですか」
「田中」
「確認しているだけです」
黒田が眼鏡を外し、眉間を押さえた。
「君はこの辞令を左遷だと思っているのか」
「違うのですか」
「会社が何の期待もしていない人間を、自治体との共同事業の責任者にはしない」
「ですが、東雲の再開発からは外されます」
「大きな事業に参加することだけが、評価ではない」
黒田の言葉は正論だった。
正論は、数字のない場所で使われると、ひどく曖昧に聞こえる。
「この事業は、二年前にも別の会社が提案を出している」
黒田は、ファイルの後ろに挟まれていた数枚の資料を開いた。
「高級リゾートホテルとゴルフ場を組み合わせた計画だった。村は受け入れなかった。その前にも、自治体主導の物産館計画が頓挫している」
「なぜですか」
「村人の反対だ」
「採算性に問題があった?」
「それだけではない。過去の開発で村が傷ついている。ダム建設、地滑り、失敗したリゾート事業。補償金をめぐって住民同士が対立した時期もあったらしい」
「その状態で、東京のデベロッパーを受け入れるでしょうか」
「受け入れないかもしれない」
「それでは事業になりません」
「事業になるかどうかを決めるのは、まだ早い」
美月は黒田を見た。
黒田は机上の資料ではなく、美月の目をまっすぐに見返していた。
「最初に必要なのは、計画を見せることじゃない。村が何を失い、何を残したいと考えているのかを知ることだ」
「それは自治体がまとめるべきではありませんか」
「まとめられるなら、とっくにまとまっている」
黒田は眼鏡をかけ直した。
「君は人の感情を軽視するところがある」
思いがけない言葉だった。
「仕事に必要な範囲では配慮しています」
「それを軽視していると言うんだ」
美月の背筋が硬くなった。
午前中の会議で提案を採用されたばかりだ。その同じ日に、感情への配慮が足りないと言われ、利益の見込めない村へ送られる。
「今回の計画が失敗した場合、責任は私が負うのでしょうか」
「現地責任者としての責任はある。しかし、事業化できないという結論も認める。その場合は、理由と根拠を明確にしてくれ」
「成功の基準は何ですか」
「それも、村と話して決めてほしい」
利益額でも、宿泊者数でも、雇用人数でもない。
最初から最後まで、何一つ決まっていない仕事だった。
美月はファイルを閉じた。
「分かりました」
「引き受けてくれるか」
「辞令であれば、従います」
「田中」
「来月一日からですね。引き継ぎ計画を作成します」
美月は立ち上がった。
黒田の顔を見ると、余計なことを言いそうだった。
「失礼します」
部長室を出た瞬間、オフィスの音が一斉に押し寄せてきた。
キーボードを打つ音。電話の呼び出し音。コピー機が紙を吐き出す音。誰かの笑い声。
いつもと同じ午後だった。
それなのに、美月だけが突然、床のなくなった場所に立たされているようだった。
*
席に戻ると、受信トレイに新しいメールが届いていた。
件名は「東雲倉庫街再開発事業 引き継ぎについて」。
宛先には岡部の名前が入っている。
黒田と話をしてから、まだ五分もたっていなかった。
美月はメールを開かず、社内システムから清澄村の資料を検索した。
過去の調査報告書が二件見つかった。
一件目は、五年前に作成された観光資源調査だった。
『豊かな自然』『清流』『満天の星』『歴史ある林業』『温泉資源』
どれも、全国の山村に当てはまりそうな言葉だった。
二件目は、二年前に提出された高級リゾート計画の概要だった。
客室単価は一泊七万円。富裕層を対象とし、ヘリポートとゴルフ練習場を設置する。雇用予定人数は五十人。年間宿泊者数は三万人。
美月は思わず眉を寄せた。
村の人口、道路の幅、周辺空港からの移動時間。そのどれを見ても、計画が成立するようには思えない。
提案者は、最初から村を見ていなかったのだろう。
自分たちが得意とする成功例を置くための、空白の土地として扱っている。
美月は新しいファイルを開き、画面の上部に入力した。
『清澄村地域活性化プロジェクト・初期分析』
その下に、確認すべき項目を並べていく。
人口動態。
年齢構成。
観光客数。
宿泊施設数。
交通量。
空き家率。
林業従事者数。
自治体財政。
所有者不明土地。
住民の賛否。
指が止まった。
「住民の賛否」という項目だけ、数値の入っていない空欄として残った。
「田中さん」
背後から声をかけられた。
振り向くと、同じチームの中井奈緒が立っていた。美月より三歳年上で、二年前に育児休業から戻った女性だった。
「黒田部長から聞いた。奈良へ行くんだって?」
「もう広まっているのね」
「人事異動の話は早いから」
奈緒は周囲を気にしながら声を落とした。
「大丈夫?」
「何が?」
「東雲から外されること」
「会社の決定だから仕方ないわ」
「仕方ないと思っている顔じゃない」
美月はノートパソコンへ向き直った。
「引き継ぎ資料を作らないと」
「今日くらい、早く帰ったら?」
「今日だから作るの。記憶が新しいうちに残しておきたいから」
奈緒はため息をつき、美月のデスクの端に腰を預けた。
「私が休職に入る前も、同じような顔をしてたな」
「奈緒さんが?」
「仕事を外されたと思って、誰にも弱音を吐けなかった。戻ったら席がないんじゃないかって、産休に入る前日まで資料を作ってた」
「私は休むわけじゃない」
「分かってる。でも、自分がいなくても仕事が進むと知るのは、案外怖いものよ」
美月は返事をしなかった。
岡部への引き継ぎメールが、画面の隅で未読のままになっている。
「奈良のどこ?」
「奥吉野の清澄村」
「どんなところ?」
「人口が減り続けている山村。主な産業は林業。小学校は十年前に閉校。過去の開発計画は住民の反対で中止」
「数字以外には?」
「え?」
「今、数字しか聞かなかったから」
奈緒が笑った。
「何がきれいとか、何がおいしいとか、そういうこと」
「まだ行ったことがないもの」
「だから、行って見つけるんじゃない?」
「会社は観光旅行のために私を送るわけじゃない」
「そうね。でも、美月がそこにいる人を見ずに、数字だけで答えを出そうとしたら、たぶん失敗する」
黒田と同じことを言われた。
美月は苛立ちを隠さずに奈緒を見た。
「私が住民を無視してきたように聞こえる」
「無視はしてない。美月は相手が何を言ったか、正確に記録する。でも、どうしてそう言ったのかまでは聞かない」
「理由を聞いても、予算が増えるわけではないわ」
「増えないね」
奈緒は静かにうなずいた。
「でも、理由を知らずに正しいことを言っても、人は動かないよ」
そこまで言うと、奈緒は立ち上がった。
「ごめん。余計なこと言った」
「本当にね」
「うん。でも、言える時に言っておこうと思って」
奈緒は自分の席へ戻っていった。
美月は画面を見つめた。
確認項目の最後に一行を追加した。
『住民が守りたいもの』
入力してから、すぐに削除しようとした。
何をもって「守りたい」と判断するのか。どう測定するのか。比較可能な数値へ変換できるのか。
カーソルが、文字列の最後で点滅している。
美月はその一行を残したまま、ファイルを保存した。
*
午後九時四十八分。
オフィスに残っている社員は、十人ほどになっていた。
窓の向こうでは、無数のビルの明かりが夜空を押し返している。けれど、窓ガラスには東京の夜景よりも、照明に照らされた自分の顔の方がはっきり映っていた。
岡部への引き継ぎ資料は、すでに四十ページを超えていた。
「まだやってたのか」
コートを着た岡部が、美月のデスクの前で足を止めた。
「明日の朝までに、基本資料を共有する」
「急がなくていい。引き継ぎ期間は三週間あるだろ」
「私がいなくなってから不明点が出る方が困るでしょう」
「電話すればいい」
「現地の通信状況が分からない」
「そこまで山奥なのか」
「村の一部では携帯電話がつながりにくいみたい」
岡部は驚いたあと、なぜか少し笑った。
「田中には、いいかもしれないな」
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ。たまには画面のない場所も」
「仕事で行くの」
「分かってる」
岡部は美月の机に置かれたままのサンドイッチを見た。
包装は朝のまま開かれていない。
「今日、何か食べたか?」
「食べる時間がなかっただけ」
「十分くらいあっただろ」
「岡部には関係ない」
「そうだな」
岡部はそれ以上何も言わなかった。
「引き継ぎの件、悪いと思ってる」
「なぜ謝るの?」
「午前中に田中が通した企画を、俺が引き継ぐことになるから」
「会社が決めたことよ。それに、私の企画ではないわ。会社の事業だから」
そう言うと、岡部は困ったように眉を下げた。
「本当に、そう思ってる?」
「当然でしょう」
「じゃあ、遠慮なく引き継がせてもらう」
「そうして」
「お疲れ」
「お疲れさま」
岡部が立ち去る。
しばらくして、エレベーターホールの方から、明るい声が聞こえた。
「今から帰るよ。起きてたら絵の話、聞かせて」
娘へ電話をしているのだろう。
美月はイヤホンを耳に入れた。
音楽は流さなかった。
ただ、誰かの声が入り込んでくるのを防ぎたかった。
*
会社を出たのは午後十時半だった。
夜の空気は湿り気を帯び、昼間に熱を吸い込んだ歩道から、生ぬるい風が立ち上っていた。
駅へ向かう人のほとんどが、手の中の画面を見ている。信号待ちの列が動き出しても、顔を上げない人がいる。美月も歩きながらメールを確認した。
未読は三十七件。
その中に、母からのメッセージが二件あった。
『日曜日、お父さんのお墓参りに行きませんか』
『忙しそうなら、お母さん一人で行くから気にしないでね』
送信時刻は、昼の十二時十四分だった。
美月は返信欄を開いた。
『ごめん。日曜日は仕事になるかもしれない』
そこまで打って、指を止める。
日曜日に仕事の予定はなかった。
しかし、奈良へ行く準備がある。村の資料も読み込まなければならない。引っ越しに近い荷造りも必要になる。
嘘ではないと思った。
送信ボタンを押す。
すぐに既読が付いた。
『分かりました。体に気をつけてね』
返事はそれだけだった。
父が亡くなって、今年で十二年になる。
埼玉で小さな建設会社を経営していた父は、仕事を愛していた。自分たちの建てた家で家族が暮らすことを、何よりも誇りにしていた。
美月も幼い頃は、父が建てた家を見るのが好きだった。
「この窓から、毎朝子どもが学校へ行くんだ」
「こっちの部屋には、家族が集まるんだぞ」
完成前の家を歩きながら、父はよくそんな話をした。
けれど、美月が高校二年の時、会社は倒産した。
父が知人の持ち込んだ大型開発へ無理な投資をしたことが原因だった。きっと成功する。町が変わる。みんなが喜ぶ。父は何度もそう言った。
残ったのは、売却された自宅と、返し切れない借金だった。
その三年後、父は病気で亡くなった。
父の葬儀で、かつての取引先は言った。
「夢のある人だった」
「人を信じすぎたんだ」
「腕はよかったのに、経営には向かなかった」
美月は棺の前で、一度も泣かなかった。
夢では給料を払えない。
善意では借金を返せない。
人を喜ばせたいという思いだけでは、家族さえ守れない。
だから美月は、父とは違うやり方で建物に関わる仕事を選んだ。
市場を調べ、将来を予測し、失敗する可能性を数字で潰していく。熱意だけで計画を進める人間を止める。誰かの思いつきによって、そこで暮らす人が傷つかないようにする。
それが、自分なりに父の仕事を継ぐ方法だと思っていた。
駅のホームに電車が滑り込んできた。
ドアが開くと同時に、美月は過去を閉じるようにスマートフォンの画面を消した。
*
タワーマンションの二十三階にある部屋へ戻った時、日付が変わろうとしていた。
照明をつけると、白と灰色で統一されたリビングが姿を現した。
低いガラステーブル。黒い革張りのソファ。壁際には必要最低限の食器だけが収められた棚。モデルルームのように整っているが、そこに誰かが暮らしている気配は薄かった。
美月はジャケットを椅子へ掛け、冷蔵庫を開けた。
ミネラルウォーター、炭酸水、ヨーグルト。奥に、賞味期限の切れた卵が二つ。
夕食を作る気にはなれなかった。
朝買ったサンドイッチを鞄から取り出し、一口食べる。パンは乾き、レタスの端が黒くなっていた。
食べながら、ノートパソコンを開く。
検索欄に「奈良県 清澄村」と入力した。
村役場の簡素なウェブサイトが表示された。
人口のお知らせ、通行止め情報、熊の目撃情報、高齢者向け健診。観光案内のページには、川と杉林と温泉旅館の写真が載っている。
美月は地図を拡大した。
最寄り駅から路線バスで一時間半。バスは一日に四本。コンビニエンスストアはない。診療所は週に三日。小学校の統合先は峠を越えた隣町にある。
「何もないじゃない」
声に出すと、部屋の静けさがその言葉を押し返してきた。
何もない場所に、人は来ない。
人が来なければ、金は動かない。
金が動かなければ、仕事は生まれない。
そう結論づけようとして、美月は閉校した小学校の写真を見つけた。
山を背にした、木造二階建ての校舎だった。
正面玄関の上に時計があり、針は三時十八分を指したまま止まっている。校庭の端には、錆びた鉄棒と傾いたサッカーゴールが残されていた。
写真の説明欄には、短い文章が添えられていた。
『清澄村立清澄小学校。百二十年にわたり、村の子どもたちを見守ってきました』
それだけだった。
活用計画も、売却予定も書かれていない。
美月は画像を保存し、初期分析の資料に貼り付けた。
その下に、『遊休資産候補』と入力する。
入力した直後、奈緒の言葉を思い出した。
――何がきれいとか、何がおいしいとか、そういうこと。
美月は写真をもう一度見た。
夕方に撮影されたのだろう。二階の窓に、沈みかけた太陽が反射している。
窓の一つだけが、内側から光っているように見えた。
その時、スマートフォンが震えた。
母からだった。
『美月が小学生の頃に作った工作、押し入れから出てきました。今度持っていきます』
続けて、一枚の写真が送られてきた。
段ボールと割り箸で作られた、小さな家だった。屋根は曲がり、窓の大きさも揃っていない。玄関の上には、子どもの字で「みんなのいえ」と書かれている。
美月はしばらく写真を見つめた。
そんなものを作った記憶はなかった。
『いらないから、捨てていいよ』
そう打ちかけて、文字を消した。
『今度、見せて』
送信すると、すぐに母から笑顔の絵文字が届いた。
美月はスマートフォンを伏せた。
清澄小学校の写真へ目を戻す。
止まった時計。傾いたゴール。誰もいない校庭。
数字に置き換えれば、すべてが衰退を示していた。
人口減少率。
高齢化率。
廃校からの経過年数。
改修費用。
将来負担。
それでも、あの校舎に通った人間の記憶まで、ゼロになったわけではない。
美月は『遊休資産候補』という文字を選択した。
しばらく迷ってから、削除する。
代わりに入力した。
『旧清澄小学校――現地確認が必要』
保存ボタンを押した時、画面右上の時計は午前一時を過ぎていた。
窓の外には、無数の光が浮かんでいる。
けれど、高層ビルの明かりに押し流され、空には一つも星が見えなかった。
美月はカーテンを閉めた。
テーブルの上では、仕事用のスマートフォンが新着メールを知らせている。私用のスマートフォンには、母から送られた家の写真が残っている。ノートパソコンには、夕陽に照らされた廃校が映っている。
三つの画面から放たれる青白い光が、誰もいない部屋を照らしていた。
美月は乾いたサンドイッチの残りを口へ運びながら、清澄村で最初に調べるべき項目を追加していった。
まだ、数字で答えが見つかると信じていた。




