第三十章 残るという選択
田中美月が清澄村へ来て、まもなく三年になる。
そのことに気づいたのは、役場から届いた一通のメールがきっかけだった。
『六月三日、清澄校舎にて地域活性化共同プロジェクトの年次報告会を開催します』
六月三日。
美月が初めて清澄村役場前の停留所に降りた日だった。
到着時刻を間違えられ、閉まっていた役場の裏口へ回り、泥水でパンプスを汚した。森下の軽自動車には、水道管と段ボール箱が積まれていた。
あれから三年がたった。
窓の外では、山の緑が朝の光を受けている。
雨上がりの杉の葉に残った雫が、風のたびに細かく揺れていた。
山路館の広縁には、今も「みんなのいえ」が置かれている。段ボールの屋根は少し反り、割り箸の柱は一本だけ傾いていた。
美月はノートパソコンの横に置いた手帳を開いた。
五月二十六日。
東京本社へ返事をする期限まで、あと三日だった。
本社へ戻り、新設される公共共創事業準備室の室長補佐になる。
それが会社から提示された道だった。
受け入れれば、八月から東京勤務へ戻る。清澄村の仕事は後任へ引き継ぎ、ほかの自治体へ展開できる事業手法をまとめる。
断れば、通常の人事異動の対象となる。清澄村に残れる保証はない。
美月は手帳の空白に、二つの言葉を書いた。
『東京へ戻る』
『清澄村に残る』
しばらく見比べてから、両方に線を引いた。
二つしか選択肢がないと、誰が決めたのだろう。
ノートパソコンを開き、新しい文書を作った。
『公共共創事業準備室における現地拠点型勤務の提案』
表題を入力したところで、廊下から足音が聞こえた。
「美月さん、朝ごはんできてますよ」
澄江の声だった。
「今、行きます」
「今と言うて、前も十分たってましたからね」
美月は画面を保存した。
以前なら、あと一段落だけ書こうとしただろう。今はノートパソコンを閉じ、広間へ下りる。
朝食には、焼いた鯵、だし巻き卵、豆腐、山菜の煮物が並んでいた。食卓の端には、半分に切られたトマトがある。
「今年も採れ始めたんですか」
「春江さんとこのです。まだ少し酸っぱいけど」
澄江が湯飲みへ茶を注いだ。
「最初の日にも、トマトをもろうてましたね」
「百円を払おうとしたら、村は潰れないと言われました」
「春江さんらしいわ」
「翌日、百円を持っていきました」
「知ってます」
「それも聞いていたんですか」
「村で三年も暮らして、まだ驚くんですか」
澄江は笑った。
三年前、美月が廃校へ立ち寄ったことは、その日の夕食前には山路館の客へ伝わっていた。今でも村の話が広がる速さは変わらない。
変わったのは、それを監視されていると感じなくなったことだった。
「年次報告会、女将さんも来ますか」
「行きますよ。聞きたいこともありますから」
「何でしょう」
「山路館の宿泊客が減った月と、清澄校舎が忙しかった月が重なっとるんです。偶然かどうか、数字を見せてもらいます」
美月は箸を止めた。
「清澄校舎に客を取られたと考えていますか」
「そう決めたわけやないです。向こうに泊まった人が、次はうちへ来てくれることもあります。けど、分けて見ないと分からんでしょう」
「確認します」
「そうしてください」
澄江は空になった小鉢を下げた。
「田中さんがここへ来た頃は、何でも自分で答えようとしてましたね」
「今も聞かれたことには答えます」
「答えがない時まで、答えようとしてたという意味です」
反論しようとして、美月はやめた。
澄江の言葉は正しかった。
「東京へ戻る話、決まりました?」
「まだです」
「村に残ってほしいと、私が言うと思いますか」
美月は澄江を見た。
「分かりません」
「残ってくれたら、私はうれしいです」
澄江は迷わず答えた。
「でも、美月さんがここにおる理由を、村のためだけにしたらあかんと思います」
「山根村長にも同じことを言われました」
「ほな、二人分、聞いといてください」
澄江は空いた皿を重ねた。
「ただ、帰ってしもうたら、寂しいとは言いますよ。それくらいは言わせてもらいます」
美月は返事の代わりに、少し酸味の残るトマトを口へ運んだ。
*
清澄校舎へ向かう坂道では、木々の間から鳥の声が聞こえていた。
三年前は錆びた金網が続き、両側から草が伸びていた道である。
今は道幅が確保され、金網も補修されている。ただし、すべてを新しくしたわけではない。使える支柱は残し、危険な部分だけを交換した。
坂の途中で、白い小型車が美月を追い越した。
運転しているのは長谷部遼子だった。助手席には西田沙織が乗り、後部座席には川根由と中井真理子がいる。
長谷部が窓を開けた。
「乗りますか」
「歩きます」
「九時から打ち合わせですよ」
「あと七分あります」
「では、先に行きます」
車は坂を上っていった。
美月は腕時計を確認した。
午前八時五十三分。
以前なら走ったかもしれない。しかし、約束の時間には十分間に合う。
坂を上り切ると、清澄校舎の木造校舎が見えた。
冬の終わり、玄関上の時計をめぐって、住民協議がもう一度開かれた。
三時十八分で固定した時計を見た宿泊客から、地滑りが起きた時刻なのかという質問が続いていた。説明板を読まず、『時が止まった学校』という言葉とともに写真を公開した人もいた。
最初に、時計を動かすことを提案したのは源造だった。
「止めたままにすることだけが、覚えとることやない。あの日に止まったいう記録は、中へ残したらええ。外の時計は、今ここにおる者の時間を示したらええ」
反対する住民もいた。記憶まで塗り替えるようで嫌だという声に、源造は、止まった針と説明板を昇降口へ移し、誰でも読める形で残す案を出した。
二度の協議を経て、外の時計は修理して動かし、三時十八分を示していた古い針と災害の記録は館内へ保存することが決まった。開業前に設置した館内時計も、そのまま使い続ける。
外壁は古い板の色を残しながら補修され、玄関の上にある丸い時計は正しい時刻を示している。
八時五十五分。
修理の日、源造は正しい時刻を刻み始めた針を、長いあいだ見上げていた。
校庭には、県外ナンバーの車が二台停まっている。前夜から宿泊している客のものだった。
体育館の前では、藤原麻子が娘の花と一緒に鉢植えへ水をやっていた。麻子は今月、四日間の勤務予定で大阪から来ている。
「おはようございます」
美月が声をかけると、花が振り返った。
「美月さん、見て。芽が出た」
小さな鉢から、二枚の葉が伸びている。
「何を植えたの?」
「ひまわり」
「校庭に植え替えるんですか」
「お母さんが、勝手に決めたらあかんって」
麻子が苦笑した。
「花壇を使うなら、管理する人を決めてから。長谷部さんに教わりました」
「正しいと思います」
「花を植えるだけでも、仕事が増えますからね」
麻子はじょうろを花へ渡した。
「でも、夏休みには植えられそうです。近所の人が、水やり当番を有償でやってもいいと言うてくれて」
「条件は決まりましたか」
「これからです。花はもう、植える気でおりますけど」
花は話を聞かず、芽の出た鉢をのぞき込んでいた。
玄関へ入ると、旧職員室を改修した事務室から電話の音が聞こえた。
西田が受話器を取り、宿泊希望者へ空室状況を説明している。
「申し訳ありません。七月の土曜日は、すでに満室の日が多くなっています。平日でしたら――」
電話の横では、川根が予約一覧へ書き込みをしていた。
長谷部は印刷した資料を長机へ並べている。
「八時五十九分です」
長谷部が壁の時計を見た。
「間に合いました」
「分かっています」
美月は席へ座った。
清澄校舎の月例運営会議は、長谷部が進行する。
最初の頃は、美月が資料を作り、議題を決め、最後の判断まで行っていた。今は長谷部が運営収支を説明し、西田が予約状況、川根が地域利用、中井が清掃体制を報告する。
「五月の客室稼働率は、現時点で六十二・四パーセントです」
長谷部が資料をめくった。
「連休の影響が大きいため、六月は五十六パーセント前後まで下がる見込みです。週末は埋まっていますが、平日の空室は残っています」
「売上は?」
「五月は、宿泊、体験、体育館利用を合わせて三百二十八万円の見込み。運営費は三百五万円です」
「二十三万円の黒字」
西田が言った。
「ただし、建物の減価償却と大規模修繕引当金は含んでいません」
長谷部が続けた。
「表面上の黒字だけを広報へ使わないようにしてください」
「役場にも同じ形式で提出します」
美月は短く返した。
開業から五月までの累積赤字は、まだ残っている。冬季の光熱費、除雪費、予約の少なかった平日。春の利用増加だけで埋まる額ではない。
それでも、単月で運営費を賄える月が一度きりではなくなった。
三月に続き、五月も黒字になる見込みだった。
「次に、雇用と移住に関する問い合わせです」
西田が別の資料を配った。
「四月から昨日までに二十一件。林業が八件、宿泊・観光が五件、在宅勤務を前提とした移住が四件、起業相談が二件、その他が二件です」
「相談した人の居住地は?」
「大阪が七、京都が五、兵庫が四、奈良県内が三、東京が二です」
「実際に村へ来た人は?」
「九組です。二組が試住を希望しています。林業希望者のうち三人は、佐藤林業と県の研修窓口へつなぎました」
「採用が決まった人はいますか」
「まだです」
西田ははっきり答えた。
「木村さんも研修期間中です。問い合わせ数を移住者数や雇用者数のように扱わないよう、報告書を分けました」
美月は資料を確認した。
『問い合わせ件数』
『現地相談件数』
『試住件数』
『就業決定件数』
『転入届提出世帯数』
すべて別の欄になっている。
三年前なら、問い合わせが増えたことを関心人口の増加として一つの数字にまとめていたかもしれない。今は、関心を持つことと、暮らすことの間にある距離を知っている。
「試住を希望している二組について、住居は決まっていますか」
「一組は村営住宅の短期利用。もう一組は、山下さんの離れを候補にしています。ただ、水回りの点検が終わっていません」
「終わるまでは、使えると言わないでください」
「伝えています」
長谷部が美月を見た。
「田中さん、今の質問は運営側への確認ですか。それとも移住相談の責任者としてですか」
美月は一瞬、言葉を止めた。
清澄校舎の運営責任者は長谷部である。移住相談の窓口は役場の森下だ。美月には、どちらを決める権限もない。
「事業全体の報告を作るための確認です」
「はい」
長谷部は淡々とうなずいた。
以前なら、指摘されたことにわずかな苛立ちを覚えただろう。
今は、長谷部が境界を守ってくれることに安心する。
「最後に、一周年の地域報告会についてです」
長谷部が出席予定者の一覧を配った。
村長、役場職員、運営スタッフ、地域事業者、住民。出席予定は六十八人だった。
「多いですね」
「最初の説明会より多いです」
西田が答えた。
「反対意見を出していた方も来ます。中井敏夫さんからは、質問を三つ預かっています」
中井真理子が、少し気まずそうに顔を伏せた。
「兄は、今も全部賛成というわけではないので」
「賛成する必要はありません」
美月は言い添えた。
「確認したいことがあるなら、当日答えます」
「そう言うと思いました」
真理子は小さく笑った。
「兄も、同じことを言うてました。田中さんなら数字を隠さんやろうって」
美月は資料へ視線を戻した。
三年前、中井敏夫は住民説明会で、美月の計画を「東京の会社が補助金を使うための絵」と呼んだ。
その敏夫が、今は美月なら数字を隠さないと言っている。
賛成ではない。
けれど、疑う相手から、答えを求められる相手へ変わっている。
それは拍手よりも重い信頼に思えた。
*
会議のあと、美月は役場へ向かった。
坂を下りたところで、フミの店先に人が集まっているのが見えた。
野菜籠の前に、宿泊客らしい夫婦と、小さな子どもが立っている。フミがトマトの食べ方を説明していた。
「冷やしすぎたら味が分からんようになるで。川の水くらいでええ」
「川で冷やしてもいいんですか」
「場所による。勝手に入ったら危ないから、女将さんに聞き」
夫婦はトマトを二袋買った。
子どもが籠の横に置かれた木の小鳥を手に取る。
「これは?」
「佐藤林業の端材で作ったんや。三百円」
「かわいい」
フミは菓子の空き缶ではなく、小さな金庫から釣り銭を出した。
店先には、以前なかった価格表が掛かっている。
野菜、木工品、山菜の乾物。清澄校舎と山路館への道順も手書きされていた。
夫婦が去ったあと、美月は声をかけた。
「売れていますね」
「毎日やないよ」
フミは籠のトマトを並べ直した。
「人が来ても、何も買わん日もある。木の小鳥は、颯太が余った木で作らせたやつや。売れたら作った人に二百円、ここに五十円、材料と袋に五十円」
「計算されていますね」
「田中さんが、ただで置いたらあかん言うたんやろ」
「作業へ対価を払うようにとは言いました」
「前は、村のもんが作った物に金を取るのは気が引けたんや。知っとる人に売るような気がして」
春江は道の向こうへ目を向けた。
郵便局の前では、予約制の乗り合い車から二人の高齢者が降りていた。運転手が買い物袋を渡している。
「最近は、知らん人が歩いとることが増えた。最初は落ち着かんかったけどな」
「迷惑はありませんか」
「あるよ。畑に入る人もおったし、家の写真を勝手に撮る人もおった。けど、校舎の人が注意書きを作ってくれた。何かあったら電話する先もできた」
春江はトマトを一つ持ち上げ、傷のある部分を確かめた。
「何も起きん方が楽やったという人もおる。でも、何も起きんまま、店も家も一つずつ閉まっていくのを見とるのは、もっとしんどかった」
美月は春江の横顔を見た。
「村が変わったと思いますか」
「変わったというほどやない」
春江はすぐに答えた。
「若い人が急に増えたわけやないし、診療所の先生も毎日は来ん。バスも少ない。けど、前より、明日の話をする人が増えた」
「明日の話?」
「来月は何を置こうとか、夏に誰が来るとか、あの空き家は直せるかとか。前は、いつ閉めるか、いつ山を手放すか、そんな話の方が多かった」
春江は傷のあるトマトを袋から外し、自分の家の籠へ移した。
「田中さんが最初に来た時、朝ごはんを食べへん人やと思うた」
「食べる日もあると言いました」
「今は毎日食べとるんやろ」
「澄江さんが用意してくれますから」
「ほな、少しは変わったやないの」
春江は笑った。
美月も笑った。
初めて会った日に返せなかった笑みを、三年後になって返した気がした。
*
役場の地域振興課では、森下が電話を二本並べて対応していた。
「はい、試住住宅は移住を決めた方だけの施設ではありません。実際の生活を確認するために――少々お待ちください」
保留ボタンを押し、もう一本の受話器を取る。
「清澄村役場、森下です。林業研修については県の窓口と事業者の面談が必要になります。村が採用を保証する制度ではありません」
美月が机の前で待っていると、藤井が隣の席から椅子を出した。
「しばらくかかりますよ」
「相談が増えていますね」
「増えすぎです」
藤井は書類の束を持ち上げた。
「前は月に一件あるかないかでした。今は同じ人と何度もやり取りするから、件数だけでは仕事量が分かりません」
「専任を置けませんか」
「来年度の予算で検討します。今年度は、週二日だけ会計年度任用職員を一人増やす案です」
「経験者はいますか」
「県の移住相談窓口におった人が、隣町に戻ってきたそうです。まだ本人とは話してません」
「決まる前に公表しないでください」
「分かってます」
藤井が苦笑した。
「田中さんに三年言われ続けましたから」
森下が二本の電話を終え、長く息を吐いた。
「お待たせしました」
「年次報告会の資料を確認しに来ました」
「こちらです」
森下が差し出した資料には、村内の変化が項目ごとに整理されていた。
清澄校舎の雇用者数。
林業研修者数。
川音の湯の利用者数。
乗り合い交通の運行回数。
空き家相談件数。
試住利用件数。
新規転入世帯数。
村内消費の推計。
雇用は増えたが、短時間勤務が多い。移住相談は増えたが、実際に転入したのは二世帯四人。林業の研修希望者はいるが、正式に就職した人はまだ一人もいない。
大きな数字ではない。
それでも、空欄だった欄に数字が入っている。
「転入した二世帯のうち、一世帯は清澄校舎と直接関係ありません」
森下が言った。
「妻の実家へ戻った家族です。もう一世帯も、夫は村外へ通勤しています。プロジェクトの成果として数えるのは違うと思います」
「ただ、相談窓口や試住住宅を利用したことは記録できます」
「はい。移住の理由と、村が提供した支援を分けて記載しました」
美月はページをめくった。
「村内消費の推計は、どう算出しましたか」
「宿泊者アンケートと、協力店舗六軒の売上差です。回答率が低いので、参考値にしています」
「山路館への影響は?」
「昨年同月比では、宿泊者が四・二パーセント増えています。ただ、清澄校舎との相互送客によるものか、県の観光施策によるものかは判断できません」
「そのまま書きましょう」
「澄江さんにも説明します」
藤井が腕を組んだ。
「三年前は、東京の会社に数字を渡したら、都合のええように使われると思っとりました」
「今は違いますか」
「都合の悪い数字まで自分から載せる会社員もおるんやと分かりました」
「会社全体がそうとは限りません」
「田中さんのことを言うたんです」
藤井は資料の端を指でそろえた。
「清澄校舎を始める前、私は成功せんと思ってました」
「聞いています」
「今も、大成功やとは思ってません。補助金がなければ建物は直せんかった。冬は赤字、働く人も足りん。これから屋根や設備に金がかかる」
「はい」
「けど、失敗したとも言えん」
藤井は窓の外を見た。
役場前の道を、清澄校舎の宿泊客らしい男女が歩いている。二人は郵便局の横にある案内板を見て、春江の店の方角へ向かった。
「役場へ来る人の顔が、前より少し明るいんです」
藤井が言った。
「前は、何かをやめる相談が多かった。山を手放したい、家を壊したい、村を出る前に何をしたらええか。今も、そういう相談はあります。なくなってません」
藤井は机の上に積まれた書類へ目を落とした。
「でも、その横に、ここで働けるか、空き家を借りられるか、子どもと暮らせるかという相談が並ぶようになった。答えられんことも多いけど、聞かれることが変わった」
「それは、清澄校舎だけの成果ではありません」
「分かってます」
藤井は美月を見た。
「けど、田中さんが来んかったら、学校は今も草の向こうで時計を止めとったでしょう。川音の湯は、修繕費が出せずに閉める話が進んどった。乗り合い交通も、宿泊客の空席利用と組み合わせる案は出んかった」
「決めたのは村です。働いたのも、村の人たちです」
「それも分かってます」
藤井の声が少し強くなった。
「一人で村を変えたと言うとるんやない。田中さんが来て、私らが動いた。反対した人も、止めるだけやなく、条件を出した。長谷部さんらが働いた。村長が責任を取った。会社が金を出した。県も国も出した。どれか一つ欠けても、こうはならんかった」
美月は何も言えなかった。
「外から来た人に村を救われたとは言いたくないんです」
藤井は続けた。
「そんな言い方をしたら、私らが何もせんかったみたいになる。けど、田中さんが来んでも同じやったとは、もう言えません」
机の上で、森下の電話が鳴った。
森下は受話器を取る前に、美月へ小さくうなずいた。
美月も、うなずき返した。
*
午後、大西源造が役場へ来た。
年次報告会で配る資料を確認したいと、自分から申し出たのだという。
源造は会議室の長机へ座り、老眼鏡をかけて数字を追った。
「この雇用者七人というのは、全員が毎日働いとるんか」
「違います」
美月は雇用形態の一覧を示した。
「常勤、短時間勤務、登録制を分けています。七人を常勤七人のようには扱いません」
「木村君は入っとらんのか」
「佐藤林業での研修中です。雇用ではありません」
「研修でも給料は出とるんやろ」
「研修手当は出ています。ただし、正式採用は未定です」
「細かいのう」
「違うものを一緒にすると、実態が分からなくなります」
源造は鼻から息を吐いた。
「最初から、その細かさで人の話も聞いとったら、もう少し早う信用されたかもしれんな」
「そうかもしれません」
美月が認めると、源造は老眼鏡の奥から顔を見た。
「言い返さんのか」
「言い返す理由がありません」
「東京へ帰る話があるそうやな」
村の話が広がる速さは、やはり変わっていない。
「まだ決めていません」
「わしが残れと言うと思うか」
「今日は、同じ質問を二度されました」
「澄江か」
「答えられません」
「答えとるのと同じや」
源造は資料を閉じた。
「学校を残すことに、わしは賛成した。宿にすることには最後まで迷うた。今でも、あそこで酒を飲んで騒ぐ客を見たら、閉めてしまえと思うかもしれん」
「その場合は、長谷部さんへ伝えてください」
「けど、この前、体育館で文江が籠を編んどったら、大阪から来た女の子が横へ座ったんや。二人で一時間も話しとった」
源造の声が少し緩んだ。
「何を話していたんですか」
「知らん。わしが近づいたら、二人とも黙った」
「嫌われたんじゃないですか」
「かもしれん」
源造は笑わなかったが、口元だけがわずかに動いた。
「村が明るうなったと、文江は言う。わしには、そこまでは分からん。夜になれば暗いし、人の減った家は戻らん」
「はい」
「けど、学校の窓に明かりがついとる日は増えた」
源造は会議室の窓から、山の方角を見た。
「前は、あの暗さを見るたび、終わった場所やと思うた。今は誰かがおる。働いとる人も、泊まっとる人もおる。たったそれだけやが、たったそれだけではない」
美月は源造の横顔を見つめた。
「田中さん」
「はい」
「残るなら、村のためやと言うな」
「言いません」
「帰るなら、仕事が終わったからと言うな」
美月はすぐには答えられなかった。
源造は老眼鏡を外し、胸ポケットへしまった。
「どっちを選んでも、きれいな理由だけにはならん。自分で選んだと言える方にしたらええ」
そう言って、源造は資料を持ち上げた。
「この紙、一部もろうて帰るぞ。文江にも見せる」
「まだ最終版ではありません」
「ほな、早う完成させえ」
源造は会議室を出ていった。
*
その夜、美月は母へ電話をかけた。
『珍しいわね。昨日も話したのに』
「昨日は話してない」
『そうだった?』
「四日前」
『同じようなものよ』
電話の向こうで、テレビの音が小さく流れている。
「お父さんのことで、聞きたいことがあるの」
美月が言うと、テレビの音が消えた。
『どうしたの』
「お父さんは、どうして『みんなのいえ』を取っておいたの?」
『前にも話さなかった? 美月が作ったものだからよ』
「それだけ?」
母はしばらく黙った。
『美月が十歳の時、お父さんは大きな商業施設の計画を担当していたの』
「聞いたことがある」
『古い商店街を壊して、駅前に新しい建物を作る計画だった。お父さんは、便利になるし、人も集まると信じていた』
「計画は中止になったんでしょう」
『住民の反対が強かったからね。お父さんは、理解してもらえなかったと怒っていた。でも、何年かたってから、商店街の人と偶然会ったの』
母の声がゆっくりになった。
『その人に、建物が古いことと、そこで続けてきた暮らしをなくしていいことは同じじゃないと言われたそうよ』
美月は、窓辺の工作へ目を向けた。
『その頃、美月が学校から持って帰ってきたのが、その家だった』
「私、何か言った?」
『みんなが違う家を作ったから、つなげて一つの町にしたかったって言ってた。先生には、一人一軒でいいと言われたけど、道だけは隣の子の家まで延ばしたのよね』
美月は工作を持ち上げた。
底の段ボールから、細い灰色の紙がはみ出している。
これまで剥がれかけた補強材だと思っていた。
指で開くと、それは家の外側へ延びる細い道だった。途中で切れている。
『お父さんは、その道を見ていた』
母が言った。
『自分は大きな建物を一つ作ることばかり考えていた。でも、本当は、そこからどこへ道が続くかを考えないといけなかったのかもしれないって』
「お父さんが、そう言ったの?」
『一度だけね。酔ってたけど』
母が少し笑った。
『だから取っておいたんだと思う。自分の失敗を美談にしたかったわけじゃない。忘れないためだったんじゃないかしら』
美月は、途中で切れた紙の道を指でなぞった。
「私、東京へ戻るように言われてる」
『そう』
「昇進の話もある」
『いい話なの?』
「会社員としては、たぶん」
『美月は、うれしい?』
答えようとして、言葉が出なかった。
室長補佐。新規事業。将来の事業企画課長。
三年前なら、迷わず受け入れていた。
「認められたとは思う」
『うれしいとは違うのね』
「清澄村に残りたい気持ちもある。でも、村の人に必要とされているから残るのは違うと思う」
『颯太さんがいるから?』
「どうして名前を知ってるの」
『前に話してたじゃない』
「一度も話してない」
『澄江さんが、お礼の電話をくれた時に』
美月は額へ手を当てた。
山路館と東京の母の間にまで、村の情報網が延びているとは思わなかった。
「颯太さんがいることだけで決めるつもりはない」
『だけ、ではないのね』
「そういう聞き方、やめて」
母が笑った。
『美月。どちらへ行けば正しいかを考えると、決められないわよ』
「源造さんにも似たことを言われた」
『その人も、颯太さん?』
「違う」
『じゃあ、村には美月に言いにくいことを言ってくれる人が、少なくとも二人いるのね』
美月は反論できなかった。
『東京には?』
「いる。黒田部長と、岡部と、奈緒」
『それなら、どちらを選んでも一人ではないでしょう』
母の言葉のあと、短い沈黙が流れた。
『帰る場所は、一つでなくてもいいんじゃない?』
「会社は、そう簡単じゃない」
『だったら交渉したらいいでしょう。美月は、そのために働いてきたんじゃないの』
「交渉して、認められなかったら?」
『その時、初めて二つから選べばいいのよ』
美月は窓辺に置いたノートパソコンを開いた。
朝に作った提案書が、途中のまま残っている。
「分かった」
『何が?』
「まず、道をつないでみる」
『道?』
「こっちの話」
通話を終えたあと、美月は提案書へ向かった。
清澄村に滞在し続けることを認めてほしい。
それだけでは、会社にとっての利点がない。
美月は、公共共創事業準備室の目的を読み直した。
全国の自治体が抱える遊休施設、人口減少、地域交通、雇用の問題。清澄村で得た知見を、別の地域へ展開する。
それを東京の会議室だけで行えば、かつての自分と同じことを繰り返すかもしれない。
現地で聞き、数字を確かめ、異なる立場の人間と計画を修正する。その過程こそ、会社が得るべきものだった。
美月は提案内容を整理した。
一、公共共創事業準備室の室長補佐を受諾する。
二、清澄村を三年間の現地検証拠点とする。
三、東京本社への出社は月五日程度とし、経営会議、顧客面談、社内調整へ参加する。
四、清澄校舎の日常運営からは完全に離れ、長谷部を最終責任者とする。
五、清澄村以外の自治体案件を二件まで担当し、現地調査手法と事業評価の共通基準を作る。
六、移動費、通信費、勤務時間、情報管理の条件を明文化する。
七、半年ごとに成果と課題を検証し、継続の可否を判断する。
最後に、予想される費用と、東京勤務だけにした場合との比較を加えた。
完成したのは、午前一時を過ぎた頃だった。
以前なら、そのまま送信しただろう。
美月は一度保存し、ノートパソコンを閉じた。
翌朝に読み直してから送る。
その程度の余白を持てるようになるまで、三年かかった。
*
二日後、美月は東京本社の会議室にいた。
窓の外には、ガラス張りのビルが並んでいる。
村を出たのは前日の午後だった。新幹線を降りた途端、駅の人波と構内放送に体を押された。
三年前まで毎日見ていた景色なのに、歩く速度を合わせるまで時間がかかった。
会議室には、小田切、黒田、人事部長の長岡が座っている。
美月の提案書は、三人の前に置かれていた。
「つまり、室長補佐は引き受けるが、東京には戻らないということですか」
長岡が尋ねた。
「勤務拠点を清澄村に置き、必要な日に東京へ出社します」
「管理職候補を地方に置く前例はありません」
「前例がないことは承知しています」
「部下の管理はどうしますか」
「準備室の人員は、当初四人と聞いています。日々の業務管理は室長が行い、私は案件設計と現地調査を担当します。室長補佐という肩書と、実際の役割が合わないのであれば、役職名の変更も受け入れます」
長岡が眉を上げた。
「昇進にこだわらないと?」
「役職ではなく、責任と権限が一致していることにこだわっています」
小田切が提案書をめくった。
「清澄村を拠点にする必要はありますか。奈良市内や大阪なら、交通の便もいい」
「清澄村でなければならない理由は二つあります。一つは、事業が開業後の検証段階に入ったことです。施設を作るまでではなく、その後に起きる雇用、交通、移住相談、既存事業者への影響を継続して観測できます」
「もう一つは?」
「不便だからです」
長岡が顔を上げた。
「通信、交通、人材確保、医療、住宅。都市部から仕事を持ち込む時に問題となる条件が、清澄村にはそろっています。そこで成立しない働き方を、ほかの地域へ提案すべきではありません」
「会社が不便を抱えることに、利益はあるんですか」
「失敗を先に発見できます」
美月は答えた。
「東京で作った仕組みを自治体へ持ち込み、運用段階で使えないと分かるより、費用は小さくなります」
黒田は腕を組んだまま黙っている。
小田切が質問した。
「清澄校舎へ関わり続けたいから、この提案をしたのではありませんか」
「関わりたい気持ちはあります」
美月は否定しなかった。
「ただし、日常運営には関わりません。運営責任者は長谷部です。私が残ることで指揮系統が曖昧になるなら、清澄校舎の事務室には席を置きません」
「どこで働くんです?」
「村内の空き店舗を会社が借りる案を、役場と相談できます。家賃と改修費は会社負担として明確にします。役場や清澄校舎の場所を無償で使うつもりはありません」
長岡は費用表へ視線を落とした。
「東京との往復費用が年間百万円を超えます」
「東京で勤務し、全国の自治体へ出張しても移動費は発生します。清澄村を含む近畿圏の案件を中心に担当することで、差額は四十万円以内に抑えられます」
「数字はよくできています」
小田切が言った。
「ですが、田中さん自身が村に残りたいという感情を、会社の利益へ置き換えているだけではありませんか」
会議室が静かになった。
美月は、すぐに答えなかった。
「その面はあります」
やがて言った。
「私は、清澄村で暮らし続けたいと思っています」
黒田が初めて顔を上げた。
「理由は?」
「仕事があります。知りたいことがあります。ここで築いた人間関係もあります。それから、東京へ戻ることだけが前へ進むことだとは思わなくなりました」
「それは個人の希望です」
「はい。だから、会社に無条件で認めてほしいとは言いません。会社に利点がないと判断されれば、提案は却下されるものだと理解しています」
美月は三人の顔を見た。
「ただ、会社が公共共創事業を本気で進めるなら、現地で生活する人間を一人も置かず、自治体へ地域との共創を提案することには矛盾があります」
長岡が何か言いかけたが、小田切が手で制した。
「三年間の試行とありますね」
「はい。成果が出なければ、東京勤務へ戻します」
「成果は、何で測りますか」
「受注額だけでは測りません。自治体との契約数、事業化後の継続率、住民協議への参加状況、計画変更の履歴、現地雇用、公共負担、民間収益を分けて評価します」
「会社としては、受注額も必要です」
「当然です。初年度の受注目標も記載しています」
小田切は最後のページまで読み、提案書を閉じた。
「黒田さんは、どう思いますか」
黒田はしばらく美月を見た。
「田中が東京に戻れば、準備室の立ち上げは早いでしょう。社内調整も、顧客への説明もできる。正直、手元に置いた方が使いやすい」
「そうでしょうね」
「だが、清澄村へ行く前の田中なら、公共共創事業には向かなかったと思います」
美月は黒田を見返した。
「数字から先に答えを作る。会議で決めた工程を守ることに固執する。反対する人間を、理解不足だと判断する」
「そこまで思っていたんですか」
「だから清澄村へ送った」
黒田は椅子の背へもたれた。
「戻ってきて、また同じ働き方に戻るなら、三年かけた意味がない」
美月は何も言えなかった。
「ただし、村にいれば成長し続けられるとも限らない。慣れた人間関係に甘えて、清澄村だけを特別扱いする可能性もある」
「それを防ぐため、ほかの自治体案件を担当します」
「なら、結果で示してください」
黒田は小田切へ顔を向けた。
「私は、三年間の試行に賛成です」
小田切は長岡へ確認した。
「制度上、可能ですか」
「在宅勤務規程だけでは難しいです。現地拠点勤務の試行制度を作る必要があります。労務管理、情報管理、出張の扱いも整理しないといけません」
「いつまでにできます?」
「八月開始なら、六月中に制度案、七月に労使協議です」
「では、進めてください」
長岡はまだ納得していない表情だったが、提案書へ書き込みを始めた。
小田切が美月を見た。
「田中さん。条件があります」
「はい」
「清澄村で失敗や問題が起きても、隠さないこと。ほかの自治体へ清澄村の仕組みをそのまま売らないこと。現地勤務を美談として広報に使わせないこと」
「最後の条件は、私からもお願いします」
「それから、東京へ戻る選択肢を失ったと思わないこと」
美月は少し意外に思った。
「三年後、清澄村を離れる判断をしても、失敗ではありません。逆に、残り続けること自体を成果にもしないでください」
「承知しました」
「正式決定は取締役会と人事の手続き後です。ただ、準備を始めて構いません」
小田切は手を差し出した。
「公共共創事業準備室へようこそ、と言うのは、まだ早いですか」
「条件が書面になるまでは保留します」
小田切が笑った。
「田中さんらしい」
美月は差し出された手を握った。
*
東京のマンションへ戻ったのは、午後七時を過ぎていた。
玄関の照明をつける。
白い壁、磨かれた床、整然と並んだ靴。室内には、冷蔵庫の低い音しかない。
三年前まで、この静けさを快適だと思っていた。
窓の外には、無数の明かりが広がっている。
一つ一つの窓の向こうに人がいるはずなのに、誰の声も聞こえない。
美月はクローゼットを開いた。
黒や紺のスーツが並んでいる。その隣に、泥の跡が落ちきらなくなった防水靴があった。東京へ来る時にも、無意識に持ってきていた。
スマートフォンが震えた。
岡部からだった。
『聞いた。奈良に残りながら新部署だって?』
『まだ正式決定ではありません』
『そこを訂正するところも変わってないな』
続けて、奈緒からも届いた。
『東京に戻ってくると思ってた。少し残念。でも、美月が決めたなら応援する』
美月は返信欄へ指を置いた。
『ありがとう。東京にも月に何度か来ます』
送ったあと、もう一文加えた。
『二人に相談したいことも増えると思います。その時はお願いします』
以前の美月なら、「協力を依頼します」と書いただろう。
画面を閉じ、部屋を見回した。
三か月で戻るつもりだったから、家具も家電もそのままにしていた。延長が決まってからも、いつ東京へ戻されるか分からず、契約を続けてきた。
今度は、自分で決める。
正式な社内決定が出たら、この部屋を解約する。
清澄村で、旅館ではない家を借りる。
美月は不動産管理会社の連絡先を確認し、解約条件を手帳へ書いた。
その夜は動画も音楽も流さずに眠った。
川の音はなかった。
けれど、静けさを埋める必要も感じなかった。
*
翌日の夕方、美月は清澄村へ戻った。
役場前の停留所でバスを降りる。
最初の日と同じ場所だった。
空には薄い雲が広がり、川沿いの風が少し湿っている。
停留所の前には森下が立っていた。
「お帰りなさい」
「迎えは頼んでいません」
「今日は時間を間違えてませんよ」
「そういう意味ではなくて」
森下が笑った。
「正式には、まだなんですよね」
「どこから聞きましたか」
「藤井課長が村長から聞きました」
「会社より早いですね」
「清澄村ですから」
森下は美月のバッグへ手を伸ばした。
「自分で持てます」
「知ってます。言ってみただけです」
二人は川沿いの道を歩いた。
フミの店先では、野菜籠を片づけているところだった。
「田中さん、残るんやって?」
「まだ正式決定ではありません」
「その言い方なら、残るんやな」
フミは籠の底からトマトを一袋取り出した。
「これ、持ってき」
「代金を払います」
「百円」
美月は財布から百円玉を出した。
フミは受け取り、小さな金庫へ入れた。
「最初の日より、赤うなったやろ」
透明な袋の中で、不揃いなトマトが夕日に光っている。
「はい」
「食べる日もある、やなくて、明日の朝に食べ」
「理解しました」
赤い橋の手前で、森下と別れた。
旅館へ戻る前に、美月は清澄校舎へ向かった。
坂の途中で、作業着姿の男が下りてくる。
颯太だった。
肩に木材は担いでいない。手には作業用のヘルメットを持っている。
「戻ったんですね」
「さっき着きました」
「東京の話は?」
「断ってはいません」
颯太の表情がわずかに曇った。
「東京へ戻るんですか」
「公共共創事業準備室の仕事は引き受けます。ただ、清澄村を拠点にする案を会社へ出しました」
「通ったんですか」
「正式決定はまだです。三年間の試行になる予定です」
颯太はしばらく何も言わなかった。
坂の上から、清澄校舎の窓に明かりがともるのが見えた。
「つまり、残るんですね」
「会社の条件が整えば」
「また、その言い方ですか」
「大切なことです」
「分かってます」
颯太はヘルメットを持ち直した。
「どうして残ることにしたんですか」
美月はすぐに答えなかった。
仕事がある。
村の変化を見届けたい。
ここで学んだことを、ほかの地域へつなぎたい。
山路館の朝食も、春江のトマトも、源造の言葉も、森下とのやり取りも、自分の生活の一部になっている。
そして、颯太がここにいる。
「一つではありません」
美月は間を置かずに言った。
「仕事も、人も、ここで知りたいこともあります。東京へ戻ることだけが前へ進むことではないと思いました」
「村のためですか」
「村のためだけではありません」
「俺のためですか」
美月は颯太を見た。
颯太は冗談を言っている顔ではなかった。
「あなたのためだけでもありません」
「だけ、ではないんですね」
母と同じ聞き方だった。
「その確認は必要ですか」
「必要です」
颯太は答えた。
美月は川の方角へ顔を向けた。
杉の間を抜けた風が、坂道の草を揺らしている。
「颯太さんがいることも、理由の一つです」
口にすると、思っていたより静かな言葉だった。
颯太は何も言わなかった。
美月が顔を戻すと、彼は校舎の方を見ていた。
「何か言ってください」
「今、変なことを言わんように考えてます」
「いつも考えてから話してください」
「それは難しいです」
颯太はようやく笑った。
「田中さん」
「はい」
「今度、仕事ではなく会えませんか」
「何をするんですか」
「そこから決めるんですか」
「予定と目的が分からないと、返事ができません」
「夕食を食べる。それだけでどうです?」
「どこで?」
「隣町の店。村の人に一時間で知られたくないので」
「もう遅いと思います」
坂の下を見ると、フミが店先からこちらを見上げていた。
目が合うと、何も見ていなかったように家の中へ入った。
「三十分以内ですね」
美月が言うと、颯太はため息をついた。
「それでも、行きますか」
「はい」
美月は答えた。
「仕事ではなく」
「分かりました」
二人は並んで坂を下り始めた。
赤い橋の手前で、川の上に薄い霧が出ていた。
水面に山の緑が映り、上下に二つの山が並んでいる。
美月は足を止めた。
初めて清澄村へ来た日に、澄江が見てほしかった景色。
三年をかけて、ようやく見ることができた景色だった。
美月はスマートフォンを取り出さなかった。
颯太も何も言わず、隣に立っていた。
遠くから、清澄校舎の玄関を閉める音が聞こえた。
村は、急に豊かになったわけではない。
閉じた店は今もある。診療所の診療日は限られ、働く場所もバスも足りない。清澄校舎の累積赤字は残り、移住相談の多くは相談のまま終わるかもしれない。
それでも、止まっていた時計は動き、暗かった窓に明かりがついた。
仕事を探す人が村を訪れ、戻ることを考える人が家を見に来る。フミの店先には釣り銭が用意され、役場では、村を出る相談と並んで、ここで暮らすための相談が受け付けられている。
何も解決していないのではない。
解決していないことを、以前より多くの人が一緒に考え始めている。
「田中さん」
颯太が呼んだ。
「はい」
「帰りましょう。暗くなります」
帰る。
その言葉が、どちらの場所を指すのか、美月にはもう分からなかった。
分からないままでいいと思った。
二人は赤い橋を渡った。
水面に映る山が、足元で静かに揺れていた。




