第三十一章 みんなのいえ
六月三日の朝、清澄村には細かな雨が降っていた。
三年前と同じ雨だった。
田中美月は山路館の玄関で防水靴を履き、傘を開いた。
「今日はパンプスやないんですね」
見送りに出てきた澄江が言った。
「三年で学びました」
「それは大きな成長やわ」
「ほかにもあると思います」
「自分で言うことやないですよ」
澄江は笑い、美月の肩についた糸くずを取った。
「忘れ物は?」
「ありません」
「資料は?」
「昨日、清澄校舎へ運びました」
「挨拶の紙は?」
「作っていません」
澄江の手が止まった。
「珍しい」
「今日の報告会は、私の発表会ではありませんから」
「三年で、そこまで変わりましたか」
澄江は目を細めた。
美月は傘を少し傾け、空を見上げた。
低い雲が山の中腹まで下りている。
川の上には霧が残り、水面に映る山の輪郭と重なっていた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
その言葉を背中で聞き、美月は川沿いの道へ出た。
フミの店先には、雨よけの透明な屋根が付いていた。野菜籠の隣には木工品と山菜の加工品が並び、価格と作った人の名前が記されている。
まだ開店前だったが、フミは引き戸の内側から顔を出した。
「田中さん、今日は頼むで」
「何をですか」
「難しい数字は、わしらにも分かるように言うてや」
「分からないところは、その場で聞いてください」
「質問は敏夫さんに任せる」
「自分でも聞いてください」
美月が答えると、フミは楽しそうに笑った。
役場前の停留所では、森下が高齢の住民を乗り合い車へ案内していた。
予約制の運行は週二日から始まったが、利用者が増え、六月から試験的に週三日へ拡大されている。
村外の病院へ行く人。買い物へ向かう人。清澄校舎の報告会へ参加する人。
同じ車に、異なる目的を持つ人が乗る。
「田中さん」
森下が手を上げた。
「先に行ってください。大西さんを迎えたら、私も向かいます」
「報告会の資料は?」
「藤井課長が持っています」
「予備は?」
「会場に二十部あります」
「映写機の動作確認は?」
「長谷部さんが七時半に確認しました」
「承知しました」
「全部、自分で確認しなくても大丈夫ですよ」
「今、確認しただけです」
「それを言うと思いました」
森下は乗り合い車の扉を閉めた。
車が発進し、細い道をゆっくりと曲がっていく。
美月はその後ろ姿を見送った。
三年前、役場の予定表へ到着時刻を間違えて書いた森下は、今では移住、交通、空き家、地域振興を同時に抱えている。仕事は減っていない。それでも、相談内容ごとに担当者を分ける仕組みが少しずつ整い、来月からは移住相談の補助職員が週二日勤務することになっていた。
人が一人増えただけで、すべてが解決するわけではない。
けれど、一人で抱えなくてよい仕事が生まれる。
それも、村の変化だった。
*
清澄校舎の体育館には、九十脚の椅子が並べられていた。
当初の出席予定は六十八人だったが、前日までに申し込みが増え、村外の関係者を含めて八十四人になった。
壇上には大きな看板も花もない。
『清澄村地域活性化共同プロジェクト 第一回年次報告会』
白い紙に黒い文字で、それだけが書かれている。
壁際には、事業費、収支、雇用、交通、移住相談、住民利用、苦情、今後必要となる修繕費をまとめた資料が掲示されていた。
成果だけではない。
キャンセルが多かった月。
雪で道路が閉ざされた日。
住民と宿泊客の利用時間をめぐって起きた衝突。
無断撮影や私有地への立ち入り。
職員の残業時間。
まだ解決していない課題も記されている。
「田中さん」
舞台袖から長谷部が呼んだ。
「テレビ局の方が、開会前に短く話を聞きたいそうです」
「どこの局ですか」
「県内の放送局です。地方紙の記事を見たと」
「取材内容は確認しましたか」
「村の再生と、女性社員の奮闘だそうです」
「その内容なら、開会前の取材は受けません」
長谷部は驚かなかった。
「そう言うと思いました」
「報告会を見てもらってから判断してください。運営については長谷部さん、移住相談は森下さん、林業は颯太さんと事業者の方へ聞いてもらいます」
「田中さん自身の取材は?」
「必要なら受けます。ただし、私一人を中心にした内容には協力しません」
長谷部はうなずき、取材担当者のもとへ向かった。
美月は壇上の時計を見た。
午前九時五十六分。
体育館の後方では、西田と川根が出席者へ資料を配っている。中井真理子は、濡れた傘を入れる袋が足りないことに気づき、倉庫へ走っていた。
藤原麻子は大阪から来て、受付を手伝っている。娘の花は文江の隣に座り、籠編みに使う細い藁を触っていた。
木村拓真の姿もある。
三か月の研修を終えた木村は、七月から佐藤林業で六か月間の有期雇用契約を結ぶことになった。期間が終わったあと、無期雇用へ移れる保証はない。木村は神戸の仕事を完全には辞めず、週一日の在宅業務を続けながら村営住宅へ移る。
どちらか一つへすべてを賭けない。
村に来ることを、後戻りできない決断にしない。
それも、三年前にはなかった考え方だった。
「美月さん」
客席の後方から、母の声がした。
美月は振り返った。
母が濃紺の傘を畳みながら立っている。その隣には澄江がいた。
「来たの?」
「昨日、澄江さんに迎えに来てもらったの」
「聞いていない」
「驚かせようと思って」
「報告会の日に急に来ないでよ。宿は?」
「山路館に決まってるでしょう」
澄江が横で笑っている。
「秘密にしていて、すみません」
「女将さんまで」
「お母様の希望ですから」
母は美月の顔を見つめた。
「少し痩せた?」
「太ったと言われるよりいい」
「そういう意味じゃありません。顔つきが変わった」
「どんなふうに?」
「前より、周りを見ている顔になった」
美月は返事に困った。
「始まる前に座って」
「はいはい」
母は澄江に案内され、客席へ向かった。
途中で春江に声をかけられ、二人はすぐに話し始めた。何を聞いたのか、母がこちらを見て笑う。
美月は、今夜までに自分の知らない話がいくつ母へ伝わるのだろうと思った。
けれど、以前のような落ち着かなさはなかった。
村の人に知られることは、自分を奪われることではない。
知られたくないことは言わず、伝えたいことは自分で伝える。
その境界を、美月は少しずつ作れるようになっていた。
*
午前十時、山根村長が壇上へ立った。
「本日は、お集まりいただきありがとうございます」
体育館のざわめきが静まる。
「田中さんが清澄村へ来たのは、ちょうど三年前の今日でした」
客席から小さな拍手が起きた。
美月は舞台袖で、手にしていた資料を持ち直した。
「最初は三か月の予定でした。それが三年になり、今度は清澄村を拠点として、新しい仕事を始めることになりました」
会社の取締役会は前日、美月の現地拠点型勤務を正式に承認した。
八月から、美月は公共共創事業準備室の事業統括補佐となる。管理職として部下を常時監督する役割ではなく、自治体案件の設計、現地調査、事業評価を担当する。
役職より、責任と権限が一致する形を選んだ。
「この三年で、旧清澄小学校は清澄校舎として再び使われるようになりました。川音の湯も改修し、乗り合い交通も始まりました。働く人が増え、村を訪れる人も増えました」
村長は客席を見渡した。
「ただし、清澄村が救われたわけではありません」
取材用カメラの赤いランプが点灯している。
「人口は減っています。高齢化も進んでいます。清澄校舎は累積赤字を抱えています。移住相談が増えても、実際に住む人はわずかです。診療所や交通の問題も残っています」
客席の何人かがうなずいた。
「それでも、三年前と同じではありません。村の中で、できない理由だけでなく、続けるための条件を話す人が増えました。反対した人も、賛成した人も、働いた人も、距離を置いて見ていた人もいます。そのすべてが、この三年を作りました」
村長は美月の方へ顔を向けた。
「田中さんが一人で村を変えたとは言いません。村のことは、村に暮らす者が決めなければならない。しかし、田中さんが来なければ、私たちは動き出せなかったかもしれません」
美月の胸の奥に、静かな熱が広がった。
拍手が起きた。
大きな喝采ではない。
一度手を打ち、すぐにやめる人もいる。腕を組んだままの人もいる。
それでよかった。
全員が同じ気持ちになる必要はない。
村長の挨拶が終わると、長谷部が壇上へ上がった。
「清澄校舎の運営状況をご報告します」
スクリーンに数字が映る。
開業から七か月間の宿泊者数。
客室稼働率。
月別売上。
人件費。
光熱費。
食材費。
除雪費。
修繕引当金。
事業費三億七千二百万円の内訳も、もう一度示された。
「五月は単月で二十三万円の運営黒字となる見込みです。ただし、建物の減価償却、大規模修繕費、初期投資の回収は含まれていません」
長谷部が説明する。
「開業からの累積赤字は、まだ二百万円を超えています。夏の予約は増えていますが、冬には光熱費と除雪費が再び増えます。黒字化したと断定できる状態ではありません」
テレビ局の記者が、慌ててメモを取っている。
「一方で、常勤、短時間勤務、登録制を合わせ、七人の雇用が生まれました。全員を常勤七人のように数えることはしません」
長谷部は雇用形態と勤務時間を一人ずつ説明した。
誰が、何時間働き、どのような対価を受け取っているか。
村の善意による無償労働を前提にしていないか。
忙しい日に勤務が集中していないか。
運営開始後も、毎月見直している。
「清澄校舎は、建物が完成した日に完成したのではありません」
長谷部が言った。
「働く人と利用する人が、安全に続けられるよう調整する仕事が、今も続いています」
続いて、森下が移住と雇用相談について報告した。
問い合わせは五十三件。
現地相談は十九件。
試住利用は八件。
転入届を提出したのは二世帯四人。
村内で正式な雇用契約に至った人は、まだ一人。
数字は一つずつ分けて示された。
「相談が増えたことと、移住者が増えたことは同じではありません」
森下は緊張しながらも、はっきり話した。
「清澄村へ来れば仕事も家もあるという案内はしていません。医療、買い物、交通、子育て、収入について、できることとできないことをお伝えしています」
壇上の森下を見ながら、美月は三年前を思い出した。
住民へ協力を頼み、断られたことを淡々と伝えた女性。
美月の到着時刻を間違え、言い訳をせずに頭を下げた女性。
森下は、今も間違える。仕事を抱え込み、報告が遅れる日もある。
けれど、できないことまでできるとは言わない。
その誠実さが、相談者の信頼につながっていた。
*
質疑応答で、最初に手を上げたのは中井敏夫だった。
「清澄校舎の赤字は、今後、誰が負担するんですか」
体育館の空気が少し硬くなる。
敏夫の妹である真理子は、客席の端で膝の上に手を置いていた。
長谷部が答える。
「現在の運営赤字は、創生都市開発と村が締結した協定に基づき、一定額までは会社が負担します。それを超える場合は、営業日数、料金、事業内容の見直しを行い、村議会へ報告します」
「補助金を追加するんですか」
「現時点で、その予定はありません」
「赤字が続いたら、閉めることもありますか」
「あります」
長谷部は言葉を濁さなかった。
「ただし、宿泊部門が続けられなくなった場合でも、体育館の地域利用、災害時の避難機能、交流事業をどのように残すかは、別に検討します」
敏夫はもう一度手を上げた。
「学校を直したことを、今も反対しとる人がおる。それは分かってますか」
「承知しています」
「反対した人を、村の変化を邪魔した人のように言う記事もありました」
体育館の後方で、記者が顔を上げた。
長谷部は美月を見た。
美月は壇上へ上がった。
「その記事については、私も読みました」
マイクを持つ。
「事業へ反対した方がいたから、清澄校舎は当初案から大きく変わりました。宿泊室を増やしすぎないこと。住民の利用時間を守ること。川音の湯で村民の優先時間を設けること。無償の作業へ依存しないこと。収支を公開すること。いずれも、反対意見や懸念があったから決められたものです」
敏夫は黙って聞いている。
「反対した方を、古い考えに固執した人とは考えていません。過去に、外から来た会社の計画で傷ついた経験があったから、止めて確認した。その役割が必要でした」
「なら、今は成功したと思っていますか」
「思っていません」
美月は返した。
「失敗したとも思っていません。続ける価値があるかを、毎月確かめている途中です」
敏夫は腕を組んだ。
「わしは、今でも全部は賛成しとらん」
「はい」
「けど、妹がここで働くようになって、前よりよう笑うようになった」
真理子が驚いたように兄を見た。
「家におっても、親の介護と畑の話ばかりやった。今は、客が忘れ物をしたとか、どの洗剤なら床を傷めんとか、そんな話をする」
体育館に小さな笑いが起きた。
「村に仕事があるというのは、給料だけやないんやと分かった」
敏夫は壇上の美月を見た。
「田中さんが来んかったら、妹は今も家と畑を往復しとったかもしれん。学校も暗いままやった。それは認めます」
真理子が目元を押さえた。
「でも、田中さん一人のおかげやと言われたら、腹が立つ」
「私も腹が立ちます」
美月が答えると、今度は大きな笑いが起きた。
敏夫も口元を緩めた。
「ほな、これからも数字をごまかさんといてください」
「約束します」
敏夫は椅子へ座った。
次に、春江が手を上げた。
「清澄校舎へ来た人が、うちの野菜や木工品を買うてくれるようになりました。大きな売上やないです。でも、誰が何を作ったか、名前を付けて売れるようになった」
春江は後ろの取材陣を振り返った。
「村が急に元気になったと書かんといてください。しんどい日は、今もあります。閉まった店も戻らん。けど、前より明日の話をする人が増えた。それは書いてもろうてええです」
今度は拍手が起きた。
源造は手をたたかなかった。
代わりに、ゆっくりと手を上げた。
「学校の時計が動いとる。それだけで、わしには十分やと思う日もある」
源造の声が、体育館に響いた。
「けど、時計を動かしただけで、人は戻らん。建物を直しただけで、暮らしは続かん。ここで働く人が疲れたら休めるか。金が足りん時に誰が負担するか。村のもんが嫌やと言うた時に止まれるか。毎年、確かめんといかん」
源造は美月へ顔を向けた。
「三年前、田中さんは、判断に必要な材料をそろえるのが自分の仕事やと言うた」
美月は最初の会議で藤井へ答えた言葉を思い出した。
「はい」
「今も、そう思うか」
美月は少し考えた。
「今は、材料をそろえるだけでは足りないと思っています」
「何が要る」
「誰が判断するのかを確かめることです。それから、決めたあとも、間違っていないか一緒に見直すことです」
源造はしばらく美月を見た。
「三年で、少しは村の仕事が分かったようやな」
「杉の山の見分けは、まだ完璧ではありません」
「それは颯太に教えてもらえ」
客席の颯太が顔を伏せた。
文江が隣で笑っている。
体育館の空気が、ゆっくりとほどけていった。
*
年次報告会を最初に記事にしたのは、県内の地方紙だった。
見出しは、
『廃校再生、完成後も続く対話――清澄村が収支と課題を公開』
だった。
記事には、改修された校舎の写真よりも、体育館の壁へ掲示された収支表が大きく掲載された。
単月黒字と累積赤字。
増えた雇用と、少ない常勤雇用。
五十三件の問い合わせと、二世帯の転入。
成果と課題が並べて書かれている。
記事の最後には、敏夫の言葉が載っていた。
『今も全部には賛成していない。それでも、妹が前より笑うようになったことは認める』
地方紙の記事をきっかけに、県内のテレビ局が清澄村を取材した。
番組の担当者は、最初に「限界集落を救った女性会社員」という題を考えていたらしい。
美月はその企画では出演しないと伝えた。
代わりに、長谷部が運営収支を説明し、森下が移住相談の現実を話した。真理子は清掃の仕事を始めた理由を語り、春江は売上帳を見せた。颯太は、林業体験を観光用の演出にしないため、作業区域と見学区域を分けていることを説明した。
番組の題は、放送前日に変更された。
『建てて終わらない――小さな村の七か月』
放送された映像には、華やかな式典も、感動的な音楽もなかった。
朝、西田が予約を確認する姿。
中井真理子が廊下の床を拭く姿。
川根が体育館の利用時間を住民と調整する姿。
長谷部が赤字の月を説明する姿。
宿泊客が春江の店で野菜を買う姿。
乗り合い車で病院へ向かう高齢者の姿。
最後に、清澄校舎の時計が午後四時十二分を指していた。
放送後、役場と清澄校舎には百件を超える問い合わせが届いた。
宿泊予約。
移住相談。
自治体からの視察希望。
大学の研究調査。
建設会社からの営業。
講演依頼。
中には、「補助金を使えば同じ施設を作れるか」という問い合わせもあった。
美月は、すべてに同じ資料を送った。
『清澄校舎の建築計画だけを転用することはできません』
『住民協議、所有関係、運営主体、人件費、交通、医療、既存事業者への影響を先に確認してください』
『視察は月二回、一回十名まで。有料とし、対応職員へ勤務時間として賃金を支払います』
無料の見学は受け入れなかった。
住民を取材のために呼び出すこともしなかった。
話す人には、謝礼と交通費を支払う。
撮影場所と時間を事前に決める。
宿泊客や住民を無断で映さない。
視察のために、日常の運営を止めない。
注目されることが、村の新しい負担にならないよう、取材と視察の条件が作られた。
それでも、すべてが守られたわけではない。
全国放送の情報番組が、村の人口が増加へ転じたような表現を使った。実際には、死亡や転出を含めれば人口は前年より減っている。
美月と森下は放送局へ訂正を求めた。
数日後、番組のウェブサイトに短い訂正文が掲載された。
「訂正は小さいですね」
森下が画面を見ながら言った。
「元の放送を見た人全員には届きません」
「それでも、求めないよりはいいです」
「はい」
森下は新しい移住相談の記録を開いた。
「今日も三件です。一件は、番組を見て、すぐ空き家を買いたいと」
「すぐには売らないでください」
「分かっています。冬に一週間暮らしてから考えるよう案内しました」
美月はうなずいた。
村が知られることは、良いことだけではない。
過大な期待を持って来る人が増える。静かな暮らしを求めながら、虫や雪、近所づきあいには耐えられない人もいる。
仕事があると思い込み、会社を辞めてから相談する人もいた。
清澄村は、誰にでも合う場所ではない。
来る人を増やすことより、来た人が何を失い、何を得るのかを事前に伝える方が大切だった。
*
夏が過ぎ、秋になる頃には、清澄村の取り組みは新聞、テレビ、経済誌、建築専門誌、自治体職員向けの広報誌で紹介されていた。
使われる言葉は、媒体ごとに違った。
『廃校再生の成功例』
『小さな村の観光戦略』
『住民参加型の官民連携』
『赤字を公開する地域事業』
『建てた後から始まる公共施設』
美月が最も気に入ったのは、自治体職員向け広報誌の見出しだった。
『答えを持ち込まない仕事』
取材した記者は、清澄村へ三度足を運んだ。
一度目は清澄校舎。
二度目は川音の湯と乗り合い交通。
三度目は、事業に反対していた住民の家を訪ねた。
記事には、美月の顔写真は小さくしか載らなかった。
代わりに、住民協議で使われた修正前と修正後の図面が並べられていた。
客室数を減らした経緯。
村民優先時間を設けた理由。
無料で頼む予定だった作業を有償雇用へ変更した過程。
宿泊事業と公共利用を分けて収支管理する方法。
計画が何度変わったかが記されていた。
『清澄村の特徴は、古い校舎を宿泊施設へ変えたことではない。完成後も異論を受け付け、数字を公開し、やめる条件まで話し合っていることにある』
その一文を読んだ時、美月は初めて、記事を最後まで保存した。
会社の広報部は、その記事を営業資料へ使いたいと申し出た。
美月は、清澄村の許可と、記事に登場した住民の同意を条件にした。
さらに、成功事例という表現を外すよう求めた。
「営業資料なのに、成功と言えないんですか」
広報担当者が電話の向こうで困った声を出した。
「継続事例としてください」
「弱く見えます」
「強く見せるために実態を変えれば、次の自治体で同じ失敗をします」
「分かりました。小田切取締役にも確認します」
数時間後、小田切からメッセージが届いた。
『田中案で進めてください。ただし、継続できている理由は明確に』
美月は返信した。
『完成後も運営条件を変更できる仕組み、役割分担、収支公開、住民協議の継続です』
すぐに返事が来た。
『それを会社の次の事業にしてください』
公共共創事業準備室には、十二の自治体から相談が寄せられていた。
美月はそのうち二件を担当した。
一つは海沿いの町にある閉鎖された保養所。
もう一つは都市近郊にある利用者の減った文化会館。
最初の打ち合わせで、美月は完成予想図を持っていかなかった。
市場分析の資料も、机には出さなかった。
「最初に、残したいものと、残せないものを教えてください」
自治体職員へそう尋ねた。
「施設の活用案ではなく?」
「活用しないという選択も含めて考えます」
職員は戸惑った。
美月は急がず、待った。
三年前の自分なら、沈黙を埋めるために話し続けていただろう。
今は、相手が考える時間を奪わない。
やがて、一人の職員が口を開いた。
「建物より、毎月ここで練習している合唱団の場所を残したいです」
そこから話が始まった。
何を作るかではなく、誰の暮らしが、どこへ続いているのか。
美月は聞きながら、手帳へ書き込んだ。
*
清澄村にも、小さな変化が続いていた。
春江の店の向かいにある、長く閉まっていた商店が、週二日だけ開くようになった。
大阪から試住に来た夫婦と、村の女性二人が共同で運営する小さな店だった。
洗剤、乾電池、衛生用品、調味料。村で不足しやすい日用品を中心に置き、店の奥には在宅勤務用の机が二つある。
毎日営業するほどの売上はない。
夫婦が正式に移住するかも決まっていない。
まず半年だけ試す契約だった。
開店初日、店先には花輪ではなく、営業時間と休業条件を書いた紙が貼られていた。
『火曜・金曜 午前十時から午後四時』
『悪天候、仕入れ、運営者の都合により休業する場合があります』
春江はその紙を見て言った。
「最初から休む話を書く店も珍しいな」
「無理に開け続けて閉店するよりいいです」
美月が答えると、春江はうなずいた。
「それもそうや」
乗り合い交通は週三日の試験運行を終え、利用状況をもとに翌年度も継続されることになった。
清澄校舎の宿泊客が空席を使う仕組みは残されたが、住民の通院と買い物が優先される。
川音の湯では、村民優先時間を知らずに来た観光客が不満を訴えることが今もある。
受付には、理由を説明する紙が置かれた。
『川音の湯は、観光施設である前に、村の住民が日常的に利用してきた温泉です』
その文章を読んで帰る人もいる。
理解して、時間をずらす人もいる。
誰にでも喜ばれる施設にはならない。
それでも、誰を優先するかを曖昧にしないことが、長く続けるためには必要だった。
木村拓真は佐藤林業で働き始めた。
初めて一人で任された作業で、伐採方向の確認を誤り、颯太に厳しく叱られた。
「研修で教わったとおりにやりました」
木村が言うと、颯太は答えた。
「山は、教科書の写真と同じ形をしとらん」
その日の夕方、颯太は木村と一緒に現場へ戻り、どこを見落としたのかを一つずつ確認した。
叱って終わりにはしなかった。
木村も翌日、神戸へ帰るとは言わなかった。
失敗できること。
失敗したあとに戻れること。
それも、村で働き続けるための条件だった。
清澄校舎の最初の運営年度は、八十七万円の赤字で終わった。
減価償却と初期投資を含めれば、さらに大きな不足になる。
しかし、冬の時点で見込まれていた赤字より百万円以上少なかった。
客室稼働率は五十九・二パーセント。
夏と紅葉の時期は予約が集中し、冬と梅雨の平日は空室が目立った。
長谷部は翌年度の営業日を増やさず、平日の団体受け入れと長期滞在を試す案を出した。
「予約が増えたから、部屋を増やすという話はしないんですか」
村議会で質問されると、長谷部は答えた。
「今の職員が無理なく働けるかを先に確認します」
増やせる時に増やさない判断も、成長の一つだった。
*
冬の初め、美月は山路館を出た。
三年半近く暮らした八畳間には、仕事の資料、衣類、本、村でもらった物が増えていた。
最初に来た時は、一つのキャリーケースに三か月分の荷物を詰めていた。
今は、段ボール箱が八つある。
「ほんまに出ていくんですね」
澄江が廊下に立っていた。
「村を出るわけではありません」
「分かってます。けど、この部屋が空くと思うと寂しいわ」
「宿として使ってください」
「そうします。美月さんが長いこと使った部屋やと、料金を上げようかしら」
「下がると思います」
「東京の会社の人が、夜中までパソコンを触った部屋ですからね」
「最近は夜中まで仕事をしていません」
「少しは、ね」
美月が借りる家は、山路館から川沿いに十分ほど歩いたところにある。
長く空き家だった平屋で、所有者は隣町に住んでいる。雨漏り、水道、電気、床下を専門業者が点検し、必要な修繕は所有者と村の空き家支援制度で行った。
家賃は月三万二千円。
敷金と火災保険料も、美月が支払った。
無料で貸すという話もあったが、断った。
住民になりたいのなら、好意だけに依存せず、責任の範囲を明確にしたかった。
「これは、どうします?」
澄江が広縁のテーブルを指した。
そこには「みんなのいえ」が置かれている。
「新しい家へ持っていきます」
「学校に置くんやと思ってました」
「これは、私のものですから」
美月は両手で工作を持ち上げた。
「ただ、来週の工作教室には持っていきます」
「お母様も来るんでしたね」
「はい」
「颯太さんも?」
「木の材料を用意してくれます」
「仕事として?」
「正式な発注です」
「そこを聞いたんやないですけど」
美月は答えず、工作を箱へ入れた。
澄江は笑いながら、緩衝材を渡した。
*
清澄校舎で開かれた冬の工作教室には、村内外から十二人の子どもが参加した。
題は「住みたい家を作ろう」だった。
佐藤林業から出た端材。
段ボール。
色紙。
布。
藁。
小石。
材料は机の中央に並べられ、子どもたちは好きなものを選ぶ。
講師は、文江と颯太と、村外から来た木工職人だった。
美月の母は、見学者として体育館の端に座っている。
美月は古い「みんなのいえ」をテーブルへ置いた。
「これ、美月さんが作ったの?」
花が工作をのぞき込んだ。
「十歳の時にね」
「下手やな」
「花」
麻子が慌てて止める。
「いいの。実際、柱が曲がってるから」
「この道、途中で終わってる」
花が底から伸びた灰色の紙を指した。
「隣の子の家まで続く予定だったの」
「隣の家、ないで」
「だから、途中で終わったのかもしれない」
花は自分が作っていた家を持ってきた。
青い屋根に、大きな丸い窓が付いている。
「ここにつなげたら?」
花は色紙を細く切り、美月の家から自分の家へ道を延ばした。
「勝手につないでいいの?」
「嫌やった?」
「いいえ」
美月は答えた。
「つないでください」
それを見ていた別の子どもが、自分の家も持ってきた。
「僕の家にも道を作る」
「うちは橋にする」
「川も要る」
「山がないと清澄村やないで」
子どもたちは、最初に一人ずつ作っていた家を、机の中央へ集め始めた。
大きさも色も形も違う。
屋根のない家。
車輪の付いた家。
木の上にある家。
犬だけが住む家。
玄関が三つある家。
道は真っすぐではなく、何度も曲がり、途中で重なった。
「先生、一つにまとめてもいい?」
花が尋ねた。
文江は笑った。
「自分らで決めたらええ」
美月の母が、隣へ来た。
「覚えてる?」
「少しだけ」
「昔も同じことをしたのよ。自分の家だけじゃ足りなくなって、隣の子の家まで道を作った」
「お父さんは、その道を見ていたのね」
「そうだと思う」
母は古い工作の屋根へ触れた。
「持ってきてよかったでしょう」
「うん」
美月は素直に答えた。
「ありがとう」
母の目に涙が浮かんだ。
美月は母の手を握った。
以前なら、人前でそんなことはしなかった。
けれど、今は母が泣いている理由を説明させる必要も、自分の気持ちを隠す必要もないと思えた。
「お父さんにも見せたかったわね」
「見てるとは言わないの?」
「美月、そういう言い方は嫌いでしょう」
「今は、少しくらいならいい」
母は涙を拭きながら笑った。
少し離れたところで、颯太がこちらを見ていた。
目が合うと、彼は何も言わず、子どもの木材を切る作業へ戻った。
その距離が、美月には心地よかった。
*
工作教室が終わったあと、体育館の机には十数軒の家が残った。
子どもたちは翌週も続きを作ると言い、作品を置いて帰った。
古い「みんなのいえ」だけは、美月が箱へ戻した。
母は澄江と一緒に山路館へ帰っている。
麻子と花も、清澄校舎の部屋へ戻った。
颯太は道具を片づけ、床に落ちた木屑を箒で集めていた。
「手伝います」
美月が言うと、颯太はもう一本の箒を渡した。
「仕事の時間は終わりましたよ」
「これは片づけです」
「料金を請求しますか」
「しません。自分が参加した教室ですから」
「無償労働に厳しい田中さんが?」
「自分で決めて、自分の使った場所を片づけることまで労働契約にはしません」
「線引きが細かいですね」
「必要です」
二人は並んで床を掃いた。
窓の外では、細かな雪が降り始めている。
「三年半前、ここは草だらけでしたね」
美月が言った。
「田中さんが勝手に入ってきました」
「半歩だけです」
「写真も撮ってました」
「今でも覚えているんですか」
「覚えてますよ。白いパンプスで、泥の中に立ってましたから」
「白ではありません。薄いベージュです」
「どっちでもいいです」
「よくありません」
颯太は笑った。
「最初は、三か月で帰ると思ってました」
「私も思っていました」
「次は三年で帰ると思った」
「それは言われていません」
「言いませんでした。帰ってほしいのか、残ってほしいのか、自分でも分からなかったから」
颯太は箒を止めた。
「今は分かりますか」
美月が尋ねる。
「分かります」
体育館には、雪が窓へ当たる音だけが聞こえた。
「美月さん」
颯太が初めて、名字ではなく名前で呼んだ。
美月は顔を上げた。
「はい」
「ここに残ってくれて、うれしいです」
「それは前にも聞きました」
「まだ続きがあります」
颯太は箒を壁へ立てかけた。
「村に残ったことだけやなくて、俺と会うことを続けてくれたのが、うれしいです」
隣町で夕食を食べたあとも、二人は何度か会った。
仕事が終わってから川沿いを歩いた。
颯太が作った夕食を、美月が借りた家で食べた。
美月が東京へ出張した時には、颯太が駅まで迎えに来た。
大きな約束はしていない。
会えない週もあった。
仕事で意見がぶつかり、三日間連絡を取らなかったこともある。
それでも、どちらかが一方の生活へ入り込むのではなく、二人の間に少しずつ時間を作ってきた。
「美月さんが村に残る理由の一つに、俺がいると言ってくれたでしょう」
「はい」
「俺がこの村におる理由の中にも、美月さんがいます」
美月は、颯太の言葉を待った。
以前の自分なら、結論を急かしただろう。
今は、彼が自分の言葉を選ぶ時間を待てる。
「好きです」
颯太が言った。
「これからも、仕事とは関係なく会いたい。うれしいことも、困ったことも、一番に話したいと思っています」
美月の胸が、ゆっくりと熱くなった。
「それは、交際を申し込んでいるんですか」
「ほかに、どう聞こえました?」
「確認です」
「はい。交際を申し込んでます」
「一緒に暮らすとか、結婚するとか、そこまで含みますか」
颯太は少し困った顔をした。
「今すぐ決める話ではないと思っています。でも、いつか考えたいです」
「いつか、では曖昧です」
「そこは曖昧でええでしょう」
美月は思わず笑った。
「そうですね」
「美月さんは?」
美月は箒を壁へ立てかけ、颯太の前に立った。
「私も、颯太さんが好きです」
言葉にすると、不思議なほど迷いがなかった。
「村に残ることと、あなたと一緒にいることは、別々に決めました。でも、これから先は、重なる部分が増えてもいいと思っています」
「それは、返事として受け取っていいんですか」
「はい」
颯太は手を伸ばしかけ、一度止めた。
「手、つないでもいいですか」
「そこは確認するんですね」
「確認せんかったら怒るでしょう」
「怒りません」
「なら」
颯太の手が、美月の手に触れた。
木を扱う指は硬く、冷たかった。
美月はその手を握り返した。
体育館の中央には、子どもたちが作った家が並んでいる。
家と家の間を、紙の道がつないでいた。
真っすぐな道ばかりではない。途中で途切れ、誰かが継ぎ足した場所もある。
大きさも形も違う家が、同じ場所に立っている。
*
二人が体育館を出ると、雪はやんでいた。
雲の切れ間から、淡い月が見える。
清澄校舎の玄関を施錠し、坂道を下る。
校舎の時計は、午後五時四十七分を指していた。
役場前の通りには、週二日だけ開く店の明かりが残っている。春江の家からは、夕食の匂いが漂ってきた。
遠くで、乗り合い車のエンジン音が聞こえる。
人が増えたわけではない。
閉まったままの家もある。
来年、店が続いている保証もない。
清澄校舎が黒字になる保証も、木村が林業を続ける保証も、試住に来た夫婦が村へ残る保証もない。
けれど、保証がないことと、何も始まっていないことは違う。
村では今、以前より多くの人が働き、話し、迷っている。
誰かに与えられた答えではなく、自分たちで続けられる形を探している。
美月自身も同じだった。
東京で用意された席へ戻ることだけが成長ではない。
清澄村へ残り続けることだけが正解でもない。
場所が変わっても、人と人の間にある道を確かめ、必要なら引き直す。
自分の考えを持ちながら、ほかの人の声で変わることを恐れない。
それが、この村で美月が学んだ仕事だった。
赤い橋まで来ると、颯太が足を止めた。
川の水面に、月と山が映っている。
「写真、撮らないんですか」
颯太が尋ねた。
「撮りません」
「前は、何でも撮ってましたよね」
「写真に残らないものもあると分かりました」
「珍しく、きれいなことを言いますね」
「撤回しましょうか」
「そのままでいいです」
二人は橋の上に並んだ。
颯太の手が、もう一度美月の手へ触れる。
今度は確認しなかった。
美月も何も言わず、その手を握った。
川の上には、本物の山と、水面に映る山があった。
どちらか一つが正しいのではない。
見る場所が変われば、同じ山も違う形に見える。
「帰りましょうか」
颯太が言った。
「はい」
「どちらへ?」
橋の先で、道は二つに分かれている。
一つは颯太の家へ続き、もう一つは美月が借りた家へ続いていた。
美月は少し考えた。
「今日は、私の家で夕食にしませんか」
「何があります?」
「母が持ってきた野菜と、澄江さんにもらった豆腐」
「調理は?」
「お願いします」
「美月さんも手伝ってください」
「何をすればいいですか」
「それを一緒に考えるんです」
颯太が笑った。
二人は、美月の家へ続く道を歩き始めた。
背後では、清澄校舎の時計が時を刻んでいる。
道は途中で曲がり、川沿いの小さな家へ続いていた。
その先がどこへつながるのかは、まだ決まっていない。
決まっていないからこそ、二人で選ぶことができる。
夜の川音を聞きながら、美月と颯太は並んで歩いた。




