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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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第二十九章 変わったもの、残ったもの

三月の終わり、清澄校舎の校庭から雪が消えた。

 最後まで残ったのは、北側の石垣沿いだった。

 日陰に固まった雪は、灰色に汚れながら少しずつ小さくなり、ある朝、雨に溶けてなくなった。

 代わりに、湿った土の間から細い草が伸び始めた。

 冬のあいだ閉じていた校庭の一部も、四月から一般利用へ戻す。職員が地面の状態を確認し、雪で折れた枝と、川から吹き上げられたごみを拾った。

「落とし物、一つ」

 沙織が、土の中から赤い手袋を引き抜いた。

「子ども用ですね」

 遼子が受け取る。

「十二月の雪の日に泊まった子のものかもしれません」

「山本葵さん?」

「確認します」

 沙織が宿泊記録を開く。

「もう三か月前ですよ」

「保管期間は六か月です」

「洗いますか」

「洗わず、泥を落として乾かします。素材が分からないものを勝手に洗わないでください」

「片方だけでも、送るんですか」

「本人のものなら、希望を聞きます」

 その日の午後、葵の母親から返事が届いた。

『本人のものです。片方をなくして落ち込んでいました。着払いで送ってください』

 沙織は手袋を紙で包み、小さな箱へ入れた。

「送料の方が、手袋より高いかもしれませんね」

「値段で返すかどうかを決めません」

 遼子が答えた。

「分かってます」

 沙織は宛名を書いた。

「でも、見つかってよかったです」

 赤い手袋は、翌朝の集荷で村を出た。

 三日後、葵が両手に手袋を着けた写真が届いた。

 後ろには、自宅近くの桜が写っている。

『今度は雪のない時に行きます』

 短い文章が添えられていた。

     *

 清澄校舎の開業から五か月が過ぎた。

 宿泊者は百六十八人。

 客室稼働率は、五か月平均で五一・三パーセントだった。

 二月は雪による取り消しが重なり、三九・六パーセントまで下がった。

 三月は企業研修と大学の実習が入り、六四・四パーセントまで上がった。

 宿泊、体験教室、体育館利用、視察、研修を合わせた事業収入は、一千百六十二万円。

 運営費は、一千四百十四万円。

 累積赤字は二百五十二万円だった。

 開業三か月時点では、二百七十八万円の赤字だった。

 その後の二か月で、二十六万円分だけ縮小した。

 三月単月では、改修後初めて十三万円の黒字になった。

 ただし、建物の減価償却費と会社の初期投資、村の整備負担は含んでいない。施設の日常運営だけを切り出した数字だった。

「黒字になったと発表してもいいでしょうか」

 村役場の会議室で、森下が尋ねた。

「三月単月の運営収支が黒字になった、と発表します」

 美月は答えた。

「施設全体が黒字化したとは書かないでください」

「広報紙の見出しが難しいですね」

「『三月の運営収支を公表します』でいいと思います」

「誰も読みたくならない見出しです」

「読むかどうかより、正確かどうかです」

 藤井が隣で笑った。

「田中さんに見出しを考えさせたらあかんな」

「では、課長が考えてください」

「『清澄校舎、初の月間黒字』」

「減価償却費を含まないことを、同じ大きさで書いてください」

「見出しが二行になる」

「一行で誤解させるよりいいです」

「やっぱり、田中さんには広報を任せられん」

 藤井は笑いながら、広報紙の原稿へ赤字で補足を書き込んだ。

 最終的な見出しは、『清澄校舎、三月の通常運営で初の黒字』になった。

 その下に、累積赤字二百五十二万円と、会社による運営支援費を充当していることも記した。

「これを読んだら、喜んでいいのか分かりませんね」

 森下が言った。

「それでいいと思います」

 美月はうなずいた。

 喜べる数字と、心配すべき数字が、同じ紙に載っている。

 どちらかを消せば、事業の姿が変わってしまう。

     *

 四月最初の火曜日、予約制の小型乗合車が試験運行を始めた。

 八人乗りの車両を、村外のバス事業者から借りる。

 運転は、事業者の職員が担当する。清澄校舎や役場の職員が自家用車で送迎することはない。

 運行日は週二日。

 午前便は、上谷集落から診療所、役場、清澄校舎、川音の湯を経由し、村外のスーパーマーケットまで走る。

 午後便は、逆の順番で戻る。

 宿泊者は空席がある場合に利用できるが、予約受付は村民が一日早い。

 運賃は、村内一区間三百円。村外のスーパーマーケットまで八百円。

 県が試験費用の二分の一、村が四分の一、清澄校舎と交通事業者が残りを負担する。

 初日の予約は六人だった。

 上谷の高齢者が三人。

 役場前から診療所へ向かう夫婦が二人。

 清澄校舎へ宿泊していた女性が一人。

 美月と森下は、役場前の停留場所で車を待っていた。

「初日だからって、二人で立っている必要ありますか」

 森下が尋ねた。

「乗降方法と遅れを確認します」

「車へは乗らないんですよね」

「空席を利用者へ残します」

「なら、ここで見送るだけ?」

「はい」

「田中さん、最近、見送る仕事が増えましたね」

「何ですか、それは」

「校舎でも、お客さんを見送ってるでしょう」

「業務です」

「送迎を断って、見送るだけ」

「送らないから、見送るんです」

 森下は笑った。

 午前九時十二分、車が到着した。

 予定より二分遅い。

 前の停留場所で、乗車に時間がかかったという。

 運転手が降り、乗降用の踏み台を出した。

 上谷から乗ってきた千恵が、窓越しに美月たちへ手を振った。

 隣には、買い物籠を持った女性が二人座っている。

 清澄校舎から乗る予定の宿泊者は、玄関前で遼子に見送られ、歩いて停留場所へ来た。

 三十代の女性で、一人旅だった。

「スーパーへ行くんですか」

 森下が尋ねる。

「はい。夜のお菓子を買おうと思って」

「校舎でも少し売ってますよ」

「知っています。でも、村の外へ出る車に乗ってみたくて」

「観光用ではないですよ」

 美月が言う。

「分かっています。買い物へ行く人と一緒に乗ります」

 女性は運賃を確認し、車へ乗った。

 千恵が声をかける。

「どこから来たん?」

「神戸です」

「一人で?」

「はい」

「結婚は?」

「お母さん」

 後ろから麻子の声がした。

 その日は非常勤勤務の日で、乗合車の利用確認へ来ていた。

「会うたばかりの人に、そんなこと聞かないの」

「話すことないから」

「天気の話でもしたらいいでしょう」

「今日は晴れとる」

「それで十分」

 宿泊者の女性は笑った。

「大丈夫です。独身です」

「ほんなら、村の若い人を紹介――」

「しません」

 麻子が遮った。

「乗合車は、お見合いの場所やないから」

 千恵は不満そうに窓の外を向いた。

 運転手が出発時刻を確認する。

「診療所のお二人が、まだ来ておられません」

 森下が診療所へ電話をかけた。

 二人は待合室にいた。

 車が建物の正面へ来ると思っていたらしい。

 停留場所は、診療所から百メートルほど離れている。

「歩くのが難しい方なら、前まで迎えに行けませんか」

 美月が運転手へ尋ねた。

「予約時に申し出があれば、経路上で乗降場所を変更できます。ただ、今日は伺っていません」

「今から変更すると?」

「五分ほど遅れます」

「お願いします」

 車は診療所の前へ移動した。

 夫婦が乗り、九時二十分に出発する。

 予定より十分遅れた。

「初日から遅れましたね」

 森下が言う。

「時刻表どおりに動かすには、乗降場所の確認が必要です」

 美月は記録へ書き込んだ。

「でも、診療所まで迎えに行けました」

「はい」

「路線バスなら、停留所まで来てくださいで終わりですよね」

「すべての家へ迎えに行くことはできません。予約時に歩行状況を確認し、経路から大きく外れない範囲で調整します」

「また、条件が増えますね」

「必要な条件です」

「分かっています」

 森下は、車が曲がり角へ消えるまで見送った。

「一台で、何でもできるわけじゃないですけど」

「はい」

「前よりは、少し出やすくなりますね」

「そうなるかは、六か月後に検証します」

「今くらい、期待してもいいでしょう」

 美月は答えなかった。

 しかし、否定もしなかった。

     *

 乗合車の試験運行が始まって二週間後、敏夫の妹、中井真理子が清澄校舎の清掃担当として働き始めた。

 真理子は五十五歳。

 義兄の介護をしながら、村外のスーパーマーケットで週二日働いていた。短期入所を利用できる日が増え、月六日から八日なら清澄校舎で勤務できるという。

 採用選考には、敏夫は立ち会わなかった。

 美月、遼子、外部の労務担当者が、ほかの応募者二人と同じ基準で面接と実技確認を行った。

 真理子は客室清掃の経験がなかった。

 しかし、決められた手順を読み、分からないことを確認する姿勢は、三人の中で最も評価が高かった。

 浴室清掃の課題では、排水口へ洗剤を直接流そうとして、途中で手を止めた。

「この洗剤、浄化槽へ流しても大丈夫ですか」

「表示を確認してください」

 遼子が答えた。

 真理子は容器の裏面を読み、使用可能であることを確かめた。

「毎回読むんですか」

 外部担当者が尋ねた。

「初めて使うものは読みます。前に家で洗剤を混ぜて、具合悪うなったことがあるから」

「同じ失敗はしない?」

「絶対とは言えません。でも、怖いことは覚えとります」

 採用後の研修初日、敏夫は校舎の駐車場まで真理子を送ってきた。

「兄さん、帰って」

 真理子が言う。

「終わる時間を聞いとこうと思って」

「勤務表を渡したでしょう」

「雪が降ったら?」

「もう春や」

「山は分からん」

 真理子は助手席から清掃用の鞄を取り出した。

「子どもやないんやから、一人で帰れる」

「迎えが要るなら電話せえよ」

「清澄校舎の仕事で、家族の送迎は前提にしません」

 美月が言うと、敏夫は顔をしかめた。

「あんたは、すぐ仕事の話にするな」

「勤務の話ですから」

「分かっとる。迎えは兄として言うただけや」

「それなら、私から断ります」

 真理子が言った。

「一人で帰れる。勤務が延びる時は、職場から連絡する」

「分かったよ」

 敏夫は運転席へ戻った。

 車を出す前に、美月へ声をかける。

「厳しく見てやってくれ」

「ほかの方と同じように研修します」

「少しくらい、気にかけてくれてもええやろ」

「兄さん、早う帰り」

 真理子に言われ、敏夫はようやく車を走らせた。

「すみません」

「謝る必要はありません」

 美月は答えた。

「採用されたのは、中井さんです」

「敏夫の妹やなくて?」

「はい」

 真理子は清澄校舎の看板を見上げた。

「それなら、働けそうです」

     *

 木村拓真は、県の林業就業支援講習を終え、四月から佐藤林業で三か月の有給研修に入った。

 神戸の衣料品店は退職していない。

 勤務日数を減らし、週のうち三日を清澄村で過ごす。

 住居は借りず、研修日は山路館へ泊まった。

「宿泊費を払い続けたら、研修手当がなくなります」

 美月は研修計画を確認しながら言った。

「澄江さんが、長期料金にしてくれました」

「それでも一泊四千五百円。月十二泊で五万四千円です」

「神戸の家賃もあります」

「計算していますか」

「しました」

 拓真は、手書きの表を美月へ見せた。

 神戸の家賃。

 交通費。

 山路館の宿泊費。

 食費。

 研修手当。

 衣料品店の給与。

 三か月間は、毎月二万円ほどの赤字になる。

「貯金から出します」

「研修後に採用される保証はありません」

「承知しています」

「村へ移ることも決めていない?」

「決めていません」

「前は、すぐ移住したいと言っていました」

「一日、道の泥をどけたら、少し考えるようになりました」

 拓真は笑った。

「それから講習で、けがをした人の話も聞きました。木を伐るだけじゃないことも、山の境界が分からなくなっていることも」

「それでも研修を受ける理由は?」

「やってみたいからです」

「都会を離れたいからではなく?」

「それもあります。でも、逃げるだけなら、三か月続かないと思います」

 颯太が作業場から出てきた。

「田中さん、面接は終わりました?」

「面接ではありません。生活条件の確認です」

「本人が計算したなら、ええでしょう」

「赤字です」

「知ってます」

「佐藤さんも確認したんですか」

「研修手当の額は、こっちも説明しました」

 颯太は拓真へ、作業用のヘルメットを渡した。

「今日から、自分で点検してください。ひび、あごひも、内側の留め具」

「はい」

「返事より、見て」

 拓真はヘルメットを裏返した。

 以前の見学日に着けていた新品とは違う。表面に細かな傷がある。

「中古ですか」

「研修用です。安全に問題はない。新品がええなら、自分で買うてもいい」

「これで大丈夫です」

「大丈夫かどうかを、今から確認するんや」

「はい」

 拓真は、もう一度留め具を指で確かめた。

 美月は研修計画書へ署名した。

 研修期間中の作業、賃金、保険、危険作業の範囲、指導者、評価方法。

 無料の体験ではない。

 移住を決める儀式でもない。

 三か月間、働く側と雇う側が、互いを確認する時間だった。

     *

 四月の宿泊営業では、初めて二週続けて全室が埋まった。

 全国誌の記事が出た影響もあった。

 記事の題名は、『廃校がつないだ、小さな村の新しい時間』だった。

 父と美月の関係には、一行も触れていない。

 雪景色の写真の下には、積雪時に道路が閉鎖される可能性があることも書かれていた。

 取材者は、施設だけでなく、川音の湯、佐藤林業、乗合車、山路館、診療所を取材していた。

 記事が出た日の午前中だけで、予約サイトへのアクセスは普段の八倍になった。

 問い合わせも増えた。

『学校の教室で授業を受ける体験はできますか』

『児童用の制服を貸し出していますか』

『運動会を再現できますか』

『村のお年寄りと必ず交流できますか』

『自給自足体験はできますか』

 遼子は、一件ずつ返事をした。

 授業体験は行っていない。

 制服の貸し出しはない。

 運動会の再現予定はない。

 住民との交流は保証しない。

 自給自足を体験する施設ではない。

「ほとんど、できませんという返事ですね」

 沙織が言った。

「ないものは、ないですから」

「記事を読んで、期待してくれた人ですよ」

「期待に合わせて、村の暮らしを演出することはできません」

 遼子は次の問い合わせを開いた。

『子どもが学校へ行けず悩んでいます。人の少ない場所で数日過ごさせたいのですが、滞在中に職員の方が話を聞いていただけますか』

 遼子の手が止まった。

「これは、どうしますか」

 沙織が尋ねる。

「宿泊は受けられます。ただし、職員は心理支援の専門家ではありません。お子様だけを預かることもできません」

「冷たく聞こえませんか」

「できない支援を、できるように見せる方が危険です」

 美月は静かに言った。

「保護者同伴での宿泊、静かに過ごせる場所の案内、近隣の相談機関の情報提供。それ以上は約束しません」

 遼子が返信を作った。

 翌日、保護者から返事が届いた。

『できることと、できないことを教えていただき、ありがとうございます。子どもと相談します』

 予約は入らなかった。

 それでも、美月は返信内容を変えなくてよかったと思った。

     *

 五月の中旬、内閣府と総務省、国土交通省の地方交通担当者が、清澄村を視察した。

 県の高瀬も同行した。

 国の職員六人、県職員三人、創生都市開発から小田切、黒田、公共事業担当者四人。

 村側は、山根村長、藤井、森下、美月、遼子が対応した。

 視察の目的は、廃校活用そのものではない。

 宿泊、地域利用、防災、交通、雇用を一つの事業として運営する方法を確認することだった。

 最初の説明会で、美月は五か月間の数字を示した。

 整備費、三億七千二百万円。

 会社投資、七千二百万円。

 国、県、村、金融機関の負担。

 事業収入。

 運営費。

 累積赤字。

 職員数。

 時間外勤務。

 宿泊者数。

 村民利用者数。

 体験講師へ支払った報酬。

 乗合車の利用者数。

「宿泊施設としては、まだ赤字なんですね」

 国の担当者が尋ねた。

「はい」

「それでも、事業を成功と評価していますか」

「現時点では、成功とも失敗とも判断していません」

「開業後五か月ですよね」

「判断するには短すぎます」

「では、何を成果と考えていますか」

 美月は画面を切り替えた。

「宿泊以外では、常勤二人、短時間勤務一人、登録職員六人の雇用が生まれました。体験講師へ五か月間で五十四万円を支払いました。川音の湯の利用者は前年同期比で一八パーセント増えています。乗合車の試験運行が始まりました」

「人口は?」

「帰郷による住民登録が一人増えました。清澄校舎との直接的な因果関係は確認できません」

「移住相談は?」

「三十八件です。そのうち、現地相談へ進んだのは十一件。試験滞在を行ったのは四組。住民登録へ至ったのは一人です」

「三十八件で一人?」

「はい」

「少なくありませんか」

「生活条件を確認したうえで、一人が実際に住み始めたと考えています」

「広報では、三十八件の関係人口創出と表現できますね」

 創生都市開発の公共事業担当者が言った。

「相談しただけの方を、関係人口へ数える基準はありません」

 美月が答える。

「問い合わせをした時点で、村との接点は生まれています」

「一度メールを送った方まで含めるんですか」

「それも接点では?」

「数字を大きく見せるための接点になります」

 会場の空気が少し硬くなった。

 小田切が担当者を見た。

「田中さんの基準で報告してください」

「しかし、他事業との比較では――」

「比較できないものを、同じ数字へそろえる必要はない」

 小田切はそう言い、美月へ続けるよう促した。

 視察者の一人が手を上げた。

「住民の反対は、どのように解消したんですか」

「解消していません」

 美月は資料から顔を上げた。

「現在も、村の資金を別の事業へ使うべきだったという意見があります。施設を評価している方の中にも、宿泊事業へ反対している方がいます」

「それでも協力を得られた理由は?」

「協力していない方もいます」

「では、合意形成は不十分だった?」

「すべての住民が賛成することを、合意の条件にはしていません。反対意見を議事録へ残し、費用と判断理由を公開し、村議会で決定しました」

「反対した人との関係は?」

「施設を利用するかどうか、仕事へ応募するかどうか、意見を変えるかどうかは、本人に任せています」

 担当者は資料へ書き込んだ。

「ほかの地域へ展開する場合、何が必要だと思いますか」

「同じ建物をつくらないことです」

「同じ建物をつくらない?」

「清澄村では、廃校、温泉、林業、避難所、既存旅館、路線バスがありました。別の地域には、別の条件があります。この計画を、そのまま移すことはできません」

「では、モデル化できない?」

「判断の手順は共有できます」

 美月は、次の資料を表示した。

 資源の所有者を確認する。

 公益と収益を分ける。

 住民の無償労働を前提にしない。

 できないサービスを事前に示す。

 雇用条件を公開する。

 赤字を事業別に分ける。

 災害時の役割を通常運営と分ける。

 利用者数だけで移住や関係人口を評価しない。

「建物ではなく、決め方を共有するということですか」

「はい」

「それなら、複数地域で検証する価値がありますね」

 国の担当者が言った。

 創生都市開発の公共事業担当者が、すぐに顔を上げた。

 小田切は何も言わなかった。

 しかし、手元の資料へ印を付けていた。

     *

 視察団は、体育館、客室、調理室、川音の湯、乗合車の停留場所を見た。

 午後には、源造の木工教室へ参加した。

 参加者は、木の小箱を作る。

「先生と呼ばんでください」

 源造は最初に言った。

「大西さんでええです。分からんかったら聞く。勝手に道具を触らん。時間内に終わらんかったら、職員へ預ける。持って帰って宿で続きをせんこと」

 国の職員が笑った。

「厳しいですね」

「のこぎりで指を切ったら、笑えんからな」

 源造は、参加者一人ずつの手元を見た。

 国の担当者が板を押さえる位置を間違えると、すぐに止めた。

「そこへ指を置いたらあかん」

「このくらいなら大丈夫です」

「大丈夫かどうかを決めるのは、道具を知っとる方や」

 担当者は素直に手を移した。

 一時間半後、六つの小箱が完成した。

 形は揃っていない。

 蓋が少し浮いているもの、角に隙間があるものもあった。

「商品にはなりませんね」

 一人が言う。

「売るために作ったんやない」

 源造が答えた。

「自分で使うんやったら、隙間があってもええ。気になるなら、次に来て直したらええ」

「また来る前提ですか」

「直したいなら来たらええ。直したくないなら、そのまま使うたらええ」

 源造は講師料の受領書へ署名した。

 視察費用の中から、参加者一人分の料金も清澄校舎へ支払われている。

「視察なら無料にしてもいいのでは?」

 国の職員が冗談めかして言った。

「無料にしたら、視察が増えるたび、わしの仕事だけ増える」

 源造は笑わなかった。

「国の人でも、村の人でも、払うもんは払うてください」

「おっしゃるとおりです」

 担当者は頭を下げた。

     *

 視察団が帰ったあと、小田切は美月を校舎の交流室へ呼んだ。

 黒田も同席している。

 遼子は、次の宿泊者を迎える準備へ戻った。

「今日の説明、よかったよ」

 小田切が言った。

「ありがとうございます」

「国の担当者は、別の地域でも同じ方法を試したいと考えている」

「清澄村の計画を、そのまま展開しないよう説明しました」

「聞いていた。だから、建物ではなく、手順を事業化する」

 小田切は一枚の資料を机へ置いた。

 表紙には、『公共共創事業準備室』とある。

「来年度、官民連携の地域事業を専門に扱う部署を立ち上げる。自治体の調査、住民協議、事業設計、民間投資、運営評価までを一つの契約で受ける」

 美月は資料を開いた。

 対象地域は、廃校、商店街、公共交通、観光施設、地域医療など。

 清澄村で行った仕事が、項目ごとに整理されている。

「当社は、これまで建物をつくり、運営会社へ渡す事業が中心だった」

 小田切は言った。

「清澄村では、運営へ入ったことで、建物をつくる前に見るべきものが分かった。公共事業の受注にも、民間投資の判断にも使える」

「会社にとっての価値が、見つかったということですか」

「最初から期待はしていた」

 美月は顔を上げた。

「最初から?」

 黒田が小田切を見た。

 小田切は、言葉を選ぶように少し間を置いた。

「清澄村へ田中さんを送った時、事業が成功すれば、国や自治体との次の仕事につながる可能性は考えていた」

「私は、聞いていません」

「現地調査の目的は、村の事業をつくることだった。それは変わらない」

「会社の実績にする目的もあった」

「企業が投資する以上、次の事業へつなげることは考える」

「なぜ、伝えなかったんですか」

「最初の段階で言えば、住民との対話より、会社へ見せる成果を優先する可能性があった」

「私が?」

「田中さんに限らない。誰でもだ」

 美月は資料を閉じた。

「今日の視察も、最初から次の受注を考えて呼んだんですか」

「国からの希望だ。ただ、会社として機会を生かしたいとは思っている」

「村を利用したことにはなりませんか」

「投資と運営支援を行い、契約どおり結果を公開している。その経験を別の仕事へ使うことが、利用だとは思わない」

「村の情報や住民の発言を、営業資料へ使う場合は?」

「同意を取る。匿名化もする。使えないものは使わない」

「清澄村モデルという名前は?」

「田中さんが反対すると思って、まだ付けていない」

「反対します」

「分かっている」

 小田切は、資料を美月の前へ戻した。

「この準備室の立ち上げ責任者を、田中さんに任せたい」

 美月は動かなかった。

「私ですか」

「清澄村の任期が終わる八月から、東京本社へ戻ってもらう。役職は室長補佐。二年以内に正式な事業部へ昇格した場合は、事業企画課長を任せる予定だ」

「まだ、三十一歳です」

「年齢は、任せない理由にはならない」

「東雲の担当へ戻る話ではなかったんですか」

「東雲は岡部が順調に進めている。田中さんには、清澄村で得たものを次へ持っていってほしい」

 岡部が担当を続けていることに、驚きはなかった。

 それでも、胸の奥に小さな痛みが走った。

 戻る場所として考えていた仕事に、自分の席はもうない。

 代わりに、新しい席が用意されている。

「返事は、いつまでですか」

「五月末」

「二週間しかありません」

「正式な人事発表の都合がある」

「断ることはできますか」

「もちろんだ」

「断った場合は?」

「現在の任期終了後、通常の人事配置へ戻る。清澄村へ残る契約は、今のところない」

 黒田が口を開いた。

「田中、今日決めなくていい」

「その点は理解しています」

「会社としては、大きな機会だ。お前にとっても」

「はい」

「ただ、清澄村へ残ることを考えているなら、それも含めて話せ」

「残るとは言っていません」

「言ってないから聞いてる」

 美月は窓の外へ目を向けた。

 校庭では、乗合車が午後便の乗客を降ろしていた。

 千恵が買い物袋を持ち、運転手へ礼を言っている。

 宿泊客の女性が、その後ろから降りた。

 別々の理由で同じ車へ乗り、同じ場所へ戻ってきた。

「二週間、考えます」

 美月は答えた。

 小田切はうなずいた。

「分かった」

「準備室の資料は、持ち帰っても?」

「もちろん。疑問点は、何でも聞いてくれ」

「会社が清澄村を実績として使う範囲についても、文書で示してください」

「作成する」

「住民への説明は?」

「田中さんの人事が決まる前に、会社の新事業を説明する必要はないと思う」

「視察内容が別事業へ使われるなら、村長と議会へは伝えるべきです」

「そこは、協議しよう」

 話し合いは、一時間近く続いた。

     *

 小田切と黒田が東京へ戻ったあと、美月は役場へ行った。

 山根村長と藤井、森下へ、会社が公共共創事業を検討していることを説明した。

 自分へ東京復帰の打診があったことは、言わなかった。

「会社が、この村の経験をほかへ売るんですか」

 藤井が尋ねた。

「事業手法として提案する可能性があります」

「村の名前を使う?」

「同意なしには使わないよう求めています」

「使われたら困りますか」

 山根村長が言った。

「内容によります。成功事例として問題を省いた形で紹介されれば、誤解が生じます」

「赤字も、反対意見も、雪で道が止まったことも言うてもらう?」

「はい」

「それで、仕事が取れるんですか」

 藤井が苦笑した。

「簡単には取れないと思います」

「田中さんの会社、そんな正直な営業するんですか」

「そうするよう、話します」

「また社内で嫌がられますよ」

「すでに嫌がられています」

 森下が笑った。

「でも、前より聞いてもらえてるんじゃないですか」

「少しは」

 村長は、天井を見上げた。

「使うてもろうたらええと、私は思います」

「村長」

 藤井が顔を向ける。

「清澄村だけで終わるより、ほかの村で役に立つなら、それでええ。ただし、うちの真似をしたら成功するとは言わんでほしい」

「同じ建物をつくらないよう、説明しました」

「なら、同じ失敗も隠さんことや」

 山根村長は美月を見た。

「失敗も含めて使うなら、村の名前を出してもええ。ただ、議会と住民へ先に説明してください」

「承知しました」

「田中さんは、その仕事をするんですか」

 村長の問いに、美月は返事を止めた。

「まだ、決まっていません」

「頼まれたんですね」

 藤井が言う。

 森下も、美月の顔を見た。

「任期終了後、東京本社へ戻り、新部署へ入る話があります」

「いつから?」

「八月です」

「あと三か月やないですか」

 森下の声が、少し大きくなった。

「元の予定どおりです」

「そうですけど」

「まだ返事はしていません」

「残る話もあるんですか」

「現時点ではありません」

 会議室が静かになった。

 村長はゆっくりうなずいた。

「考えたらええ」

「はい」

「村のために残れとは言いません」

「村長」

 藤井が何か言おうとした。

「言うたらあかん」

 村長は低い声で続けた。

「田中さんは会社から来た人です。契約の期限がある。残ってほしいと思う人はおるやろうけど、その気持ちで縛ったら、帰る人が悪いみたいになる」

 美月は机の上の資料を見た。

「清澄校舎は、長谷部さんたちが運営できます」

「できます」

 藤井が答えた。

「田中さんがおらんかったら困ることは、まだあります。でも、おらんかったら何も動かん状態ではない」

「それでいいんです」

 美月は言った。

 自分がいなくても動く仕組みをつくる。

 最初から、それが目標だった。

 実際にその状態へ近づくと、胸の中に空白が生まれる。

 東雲の仕事を引き継いだ時と同じだった。

 自分がいなくても、仕事は進む。

 それは失敗ではない。

 それでも、寂しくないわけではなかった。

     *

 役場を出ると、雨が上がっていた。

 午後五時を過ぎている。

 山の斜面には霧が残り、川の上へ白く下りている。

 美月は山路館へ向かって歩いた。

 途中、商店の前で足を止めた。

 初日にトマトを渡してくれた松井フミが、籠へ山菜を並べている。

「今日は、こごみやで」

「一袋、いただきます」

「百五十円」

 美月は財布から二百円を出した。

 フミは脇の小さな金庫から、五十円を返した。

「釣り銭を置くようになったんですね」

「泊まりの客が来るようになったからな。いつまでも菓子の缶だけいうわけにいかん」

「初日の百円も、翌日に森下さんへ渡しました」

「覚えとったん?」

「もちろんです」

「私は忘れとった」

 フミは笑った。

「東京へ帰るんやて?」

 美月は山菜の袋を持ったまま、顔を上げた。

「もう聞いたんですか」

「役場の前で、佳奈ちゃんが藤井さんと話しとった」

「現時点では未定です」

「帰りたいん?」

「分かりません」

「なら、決めたらええ」

「そのために考えています」

「考えすぎたら、分からんようになるで」

「考えずには決められません」

「そうやろな。美月さんは」

 老女は空になった籠を一つ重ねた。

「帰ってもええし、残ってもええ。どっちでも、トマトは勝手にできる」

「そうですね」

「こごみも、来年また出る」

「はい」

「美月さんがおらんでも」

 言葉は厳しく聞こえたが、老女の表情は穏やかだった。

「でも、おったら食べられる」

 美月は山菜の袋を見た。

「調理方法を知りません」

「茹でて、胡麻和え。難しく考えんでええ」

「茹で時間は?」

「色が変わる前」

「何分ですか」

「見たら分かる」

「分かりません」

 老女は声を上げて笑った。

「澄江さんに聞き」

 美月は袋を鞄へ入れた。

     *

 赤い橋まで来た時、川の上の霧が濃くなった。

 風はない。

 水面が、山の影を映している。

 上には、霧のかかった山。

 下には、流れの中に揺れる山。

 二つの山が、向かい合って見えた。

 清澄村へ来た初日の夜、澄江が話していた景色だった。

『川の上に霧が下りて、山が二つあるように見えるんです』

 あの日、美月は閉まった店と、少ないバスと、つながらない通信を見ていた。

 霧のことは知らなかった。

 翌日からは、聞き取り、会議、調査、工事、採用、開業、収支、雪。

 何度も同じ橋を渡った。

 それでも、この景色を見たのは初めてだった。

 美月はスマートフォンを取り出した。

 撮影画面に、山と霧と川を入れる。

 画面の中では、水面の山が暗くつぶれている。実際の景色より、境目がはっきりしない。

 一枚だけ撮り、スマートフォンを下ろした。

 橋の向こうから、颯太が歩いてきた。

 作業着の肩へ、細かな木屑が付いている。

「何を撮ってたんですか」

「山です」

「珍しいですか」

「二つに見えたので」

 颯太は川を見た。

「ああ。雨上がりに、ときどき見えます」

「知っていたんですか」

「ここに住んでるんで」

「誰も、教えてくれませんでした」

「澄江さんが言うてたでしょう」

 美月は颯太を見た。

「なぜ、知っているんですか」

「初日の夜、田中さんが山と川しかないと言うたって、村中に広まってましたから」

「そこまで広まっていたんですか」

「今さらですか」

 颯太が笑った。

 美月は、もう一度川へ目を向けた。

 水面の山は、流れに揺れて形を変えている。

「東京へ戻る話があるそうですね」

 颯太が言った。

 美月は驚かなかった。

「村では、話が早いですね」

「森下さんから聞いたわけではありません。役場の前で、敏夫さんが話してました」

「さらに広がっていますね」

「本当ですか」

「八月から、本社の新しい部署へ入る話があります」

「受けるんですか」

「まだ決めていません」

「いつまでに?」

「二週間後です」

「そうですか」

 颯太は、それ以上尋ねなかった。

「佐藤さんは、何も言わないんですか」

「何を?」

「東京へ戻った方がいいとか、村へ残った方がいいとか」

「私が決めることやないでしょう」

「皆さん、同じことを言います」

「なら、そうなんでしょう」

「何か言ってくれてもいいと思います」

 美月が言うと、颯太は少し困った顔をした。

「言うたら、決めるんですか」

「それは分かりません」

「なら、言いません」

「ずるいですね」

「田中さんに言われとうないです」

 二人は橋の上に立ったまま、川を見た。

 霧が少しずつ薄くなっていく。

 水面に映っていた山の輪郭も、流れの中へ崩れ始めた。

「一つだけ言います」

 颯太が言った。

「何ですか」

「田中さんがおらんでも、清澄校舎は動くと思います」

「忘れてはいません」

「でも、おってもらって困るとも思ってません」

 美月は颯太を見た。

「それだけですか」

「それ以上言うたら、決める邪魔になる」

「もう十分、邪魔になっています」

「すみません」

 颯太は謝ったが、表情は少し笑っていた。

 霧が晴れ、水面の山が消えていく。

 残ったのは、目の前にある一つの山だった。

 美月は鞄の中のこごみを思い出した。

「山路館へ戻ります」

「送りますか」

「今日は歩きます」

「道、分かります?」

「もう三年近く住んでいます」

「最初は、ここで間違えましたよね」

「その話も、もういいでしょう」

 美月は橋を渡り始めた。

 颯太も隣を歩く。

「東京へ帰っても、道を間違えんようにしてください」

「まだ帰るとは言っていません」

「残るとも言ってません」

「だから考えているんです」

「考えすぎんように」

「さっきも言われました」

「誰に?」

「こごみを買った方です」

「フミさんか」

「はい。初日にトマトをいただいた時から、言われることが変わりません」

 美月は足を止めた。

「変わってないようで、あの店には釣り銭が置かれるようになったでしょう」

「そういえば、最初は菓子の缶だけでした」

「三年近く通って、今気づいたんですか」

「見ていたつもりでした」

 颯太は呆れた顔をした。

「まだ、気づいてない変化がありますね」

「あります」

「なら、残る理由が一つ増えた」

「釣り銭の変化を確かめるために残るんですか」

「帰る前に聞けば、すぐ済みますけど」

「どちらなんですか」

「決めるのは、田中さんです」

 颯太は先に歩き出した。

 美月も、そのあとを追った。

 山路館の屋根が、夕暮れの向こうに見えている。

 広縁には、『みんなのいえ』と書かれた小さな工作が待っている。

 東京の新しい部署には、美月のための席が用意されようとしている。

 清澄校舎には、もう美月がいなくても動く人と仕組みがある。

 どちらも、美月を必要としていないわけではない。

 どちらも、美月だけを待っているわけでもなかった。

 二週間後までに、返事をしなければならない。

 美月は、隣を歩く颯太へ何も言わなかった。

 川の音と、二人分の足音が、暗くなり始めた道に続いていた。


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