第二十九章 変わったもの、残ったもの
三月の終わり、清澄校舎の校庭から雪が消えた。
最後まで残ったのは、北側の石垣沿いだった。
日陰に固まった雪は、灰色に汚れながら少しずつ小さくなり、ある朝、雨に溶けてなくなった。
代わりに、湿った土の間から細い草が伸び始めた。
冬のあいだ閉じていた校庭の一部も、四月から一般利用へ戻す。職員が地面の状態を確認し、雪で折れた枝と、川から吹き上げられたごみを拾った。
「落とし物、一つ」
沙織が、土の中から赤い手袋を引き抜いた。
「子ども用ですね」
遼子が受け取る。
「十二月の雪の日に泊まった子のものかもしれません」
「山本葵さん?」
「確認します」
沙織が宿泊記録を開く。
「もう三か月前ですよ」
「保管期間は六か月です」
「洗いますか」
「洗わず、泥を落として乾かします。素材が分からないものを勝手に洗わないでください」
「片方だけでも、送るんですか」
「本人のものなら、希望を聞きます」
その日の午後、葵の母親から返事が届いた。
『本人のものです。片方をなくして落ち込んでいました。着払いで送ってください』
沙織は手袋を紙で包み、小さな箱へ入れた。
「送料の方が、手袋より高いかもしれませんね」
「値段で返すかどうかを決めません」
遼子が答えた。
「分かってます」
沙織は宛名を書いた。
「でも、見つかってよかったです」
赤い手袋は、翌朝の集荷で村を出た。
三日後、葵が両手に手袋を着けた写真が届いた。
後ろには、自宅近くの桜が写っている。
『今度は雪のない時に行きます』
短い文章が添えられていた。
*
清澄校舎の開業から五か月が過ぎた。
宿泊者は百六十八人。
客室稼働率は、五か月平均で五一・三パーセントだった。
二月は雪による取り消しが重なり、三九・六パーセントまで下がった。
三月は企業研修と大学の実習が入り、六四・四パーセントまで上がった。
宿泊、体験教室、体育館利用、視察、研修を合わせた事業収入は、一千百六十二万円。
運営費は、一千四百十四万円。
累積赤字は二百五十二万円だった。
開業三か月時点では、二百七十八万円の赤字だった。
その後の二か月で、二十六万円分だけ縮小した。
三月単月では、改修後初めて十三万円の黒字になった。
ただし、建物の減価償却費と会社の初期投資、村の整備負担は含んでいない。施設の日常運営だけを切り出した数字だった。
「黒字になったと発表してもいいでしょうか」
村役場の会議室で、森下が尋ねた。
「三月単月の運営収支が黒字になった、と発表します」
美月は答えた。
「施設全体が黒字化したとは書かないでください」
「広報紙の見出しが難しいですね」
「『三月の運営収支を公表します』でいいと思います」
「誰も読みたくならない見出しです」
「読むかどうかより、正確かどうかです」
藤井が隣で笑った。
「田中さんに見出しを考えさせたらあかんな」
「では、課長が考えてください」
「『清澄校舎、初の月間黒字』」
「減価償却費を含まないことを、同じ大きさで書いてください」
「見出しが二行になる」
「一行で誤解させるよりいいです」
「やっぱり、田中さんには広報を任せられん」
藤井は笑いながら、広報紙の原稿へ赤字で補足を書き込んだ。
最終的な見出しは、『清澄校舎、三月の通常運営で初の黒字』になった。
その下に、累積赤字二百五十二万円と、会社による運営支援費を充当していることも記した。
「これを読んだら、喜んでいいのか分かりませんね」
森下が言った。
「それでいいと思います」
美月はうなずいた。
喜べる数字と、心配すべき数字が、同じ紙に載っている。
どちらかを消せば、事業の姿が変わってしまう。
*
四月最初の火曜日、予約制の小型乗合車が試験運行を始めた。
八人乗りの車両を、村外のバス事業者から借りる。
運転は、事業者の職員が担当する。清澄校舎や役場の職員が自家用車で送迎することはない。
運行日は週二日。
午前便は、上谷集落から診療所、役場、清澄校舎、川音の湯を経由し、村外のスーパーマーケットまで走る。
午後便は、逆の順番で戻る。
宿泊者は空席がある場合に利用できるが、予約受付は村民が一日早い。
運賃は、村内一区間三百円。村外のスーパーマーケットまで八百円。
県が試験費用の二分の一、村が四分の一、清澄校舎と交通事業者が残りを負担する。
初日の予約は六人だった。
上谷の高齢者が三人。
役場前から診療所へ向かう夫婦が二人。
清澄校舎へ宿泊していた女性が一人。
美月と森下は、役場前の停留場所で車を待っていた。
「初日だからって、二人で立っている必要ありますか」
森下が尋ねた。
「乗降方法と遅れを確認します」
「車へは乗らないんですよね」
「空席を利用者へ残します」
「なら、ここで見送るだけ?」
「はい」
「田中さん、最近、見送る仕事が増えましたね」
「何ですか、それは」
「校舎でも、お客さんを見送ってるでしょう」
「業務です」
「送迎を断って、見送るだけ」
「送らないから、見送るんです」
森下は笑った。
午前九時十二分、車が到着した。
予定より二分遅い。
前の停留場所で、乗車に時間がかかったという。
運転手が降り、乗降用の踏み台を出した。
上谷から乗ってきた千恵が、窓越しに美月たちへ手を振った。
隣には、買い物籠を持った女性が二人座っている。
清澄校舎から乗る予定の宿泊者は、玄関前で遼子に見送られ、歩いて停留場所へ来た。
三十代の女性で、一人旅だった。
「スーパーへ行くんですか」
森下が尋ねる。
「はい。夜のお菓子を買おうと思って」
「校舎でも少し売ってますよ」
「知っています。でも、村の外へ出る車に乗ってみたくて」
「観光用ではないですよ」
美月が言う。
「分かっています。買い物へ行く人と一緒に乗ります」
女性は運賃を確認し、車へ乗った。
千恵が声をかける。
「どこから来たん?」
「神戸です」
「一人で?」
「はい」
「結婚は?」
「お母さん」
後ろから麻子の声がした。
その日は非常勤勤務の日で、乗合車の利用確認へ来ていた。
「会うたばかりの人に、そんなこと聞かないの」
「話すことないから」
「天気の話でもしたらいいでしょう」
「今日は晴れとる」
「それで十分」
宿泊者の女性は笑った。
「大丈夫です。独身です」
「ほんなら、村の若い人を紹介――」
「しません」
麻子が遮った。
「乗合車は、お見合いの場所やないから」
千恵は不満そうに窓の外を向いた。
運転手が出発時刻を確認する。
「診療所のお二人が、まだ来ておられません」
森下が診療所へ電話をかけた。
二人は待合室にいた。
車が建物の正面へ来ると思っていたらしい。
停留場所は、診療所から百メートルほど離れている。
「歩くのが難しい方なら、前まで迎えに行けませんか」
美月が運転手へ尋ねた。
「予約時に申し出があれば、経路上で乗降場所を変更できます。ただ、今日は伺っていません」
「今から変更すると?」
「五分ほど遅れます」
「お願いします」
車は診療所の前へ移動した。
夫婦が乗り、九時二十分に出発する。
予定より十分遅れた。
「初日から遅れましたね」
森下が言う。
「時刻表どおりに動かすには、乗降場所の確認が必要です」
美月は記録へ書き込んだ。
「でも、診療所まで迎えに行けました」
「はい」
「路線バスなら、停留所まで来てくださいで終わりですよね」
「すべての家へ迎えに行くことはできません。予約時に歩行状況を確認し、経路から大きく外れない範囲で調整します」
「また、条件が増えますね」
「必要な条件です」
「分かっています」
森下は、車が曲がり角へ消えるまで見送った。
「一台で、何でもできるわけじゃないですけど」
「はい」
「前よりは、少し出やすくなりますね」
「そうなるかは、六か月後に検証します」
「今くらい、期待してもいいでしょう」
美月は答えなかった。
しかし、否定もしなかった。
*
乗合車の試験運行が始まって二週間後、敏夫の妹、中井真理子が清澄校舎の清掃担当として働き始めた。
真理子は五十五歳。
義兄の介護をしながら、村外のスーパーマーケットで週二日働いていた。短期入所を利用できる日が増え、月六日から八日なら清澄校舎で勤務できるという。
採用選考には、敏夫は立ち会わなかった。
美月、遼子、外部の労務担当者が、ほかの応募者二人と同じ基準で面接と実技確認を行った。
真理子は客室清掃の経験がなかった。
しかし、決められた手順を読み、分からないことを確認する姿勢は、三人の中で最も評価が高かった。
浴室清掃の課題では、排水口へ洗剤を直接流そうとして、途中で手を止めた。
「この洗剤、浄化槽へ流しても大丈夫ですか」
「表示を確認してください」
遼子が答えた。
真理子は容器の裏面を読み、使用可能であることを確かめた。
「毎回読むんですか」
外部担当者が尋ねた。
「初めて使うものは読みます。前に家で洗剤を混ぜて、具合悪うなったことがあるから」
「同じ失敗はしない?」
「絶対とは言えません。でも、怖いことは覚えとります」
採用後の研修初日、敏夫は校舎の駐車場まで真理子を送ってきた。
「兄さん、帰って」
真理子が言う。
「終わる時間を聞いとこうと思って」
「勤務表を渡したでしょう」
「雪が降ったら?」
「もう春や」
「山は分からん」
真理子は助手席から清掃用の鞄を取り出した。
「子どもやないんやから、一人で帰れる」
「迎えが要るなら電話せえよ」
「清澄校舎の仕事で、家族の送迎は前提にしません」
美月が言うと、敏夫は顔をしかめた。
「あんたは、すぐ仕事の話にするな」
「勤務の話ですから」
「分かっとる。迎えは兄として言うただけや」
「それなら、私から断ります」
真理子が言った。
「一人で帰れる。勤務が延びる時は、職場から連絡する」
「分かったよ」
敏夫は運転席へ戻った。
車を出す前に、美月へ声をかける。
「厳しく見てやってくれ」
「ほかの方と同じように研修します」
「少しくらい、気にかけてくれてもええやろ」
「兄さん、早う帰り」
真理子に言われ、敏夫はようやく車を走らせた。
「すみません」
「謝る必要はありません」
美月は答えた。
「採用されたのは、中井さんです」
「敏夫の妹やなくて?」
「はい」
真理子は清澄校舎の看板を見上げた。
「それなら、働けそうです」
*
木村拓真は、県の林業就業支援講習を終え、四月から佐藤林業で三か月の有給研修に入った。
神戸の衣料品店は退職していない。
勤務日数を減らし、週のうち三日を清澄村で過ごす。
住居は借りず、研修日は山路館へ泊まった。
「宿泊費を払い続けたら、研修手当がなくなります」
美月は研修計画を確認しながら言った。
「澄江さんが、長期料金にしてくれました」
「それでも一泊四千五百円。月十二泊で五万四千円です」
「神戸の家賃もあります」
「計算していますか」
「しました」
拓真は、手書きの表を美月へ見せた。
神戸の家賃。
交通費。
山路館の宿泊費。
食費。
研修手当。
衣料品店の給与。
三か月間は、毎月二万円ほどの赤字になる。
「貯金から出します」
「研修後に採用される保証はありません」
「承知しています」
「村へ移ることも決めていない?」
「決めていません」
「前は、すぐ移住したいと言っていました」
「一日、道の泥をどけたら、少し考えるようになりました」
拓真は笑った。
「それから講習で、けがをした人の話も聞きました。木を伐るだけじゃないことも、山の境界が分からなくなっていることも」
「それでも研修を受ける理由は?」
「やってみたいからです」
「都会を離れたいからではなく?」
「それもあります。でも、逃げるだけなら、三か月続かないと思います」
颯太が作業場から出てきた。
「田中さん、面接は終わりました?」
「面接ではありません。生活条件の確認です」
「本人が計算したなら、ええでしょう」
「赤字です」
「知ってます」
「佐藤さんも確認したんですか」
「研修手当の額は、こっちも説明しました」
颯太は拓真へ、作業用のヘルメットを渡した。
「今日から、自分で点検してください。ひび、あごひも、内側の留め具」
「はい」
「返事より、見て」
拓真はヘルメットを裏返した。
以前の見学日に着けていた新品とは違う。表面に細かな傷がある。
「中古ですか」
「研修用です。安全に問題はない。新品がええなら、自分で買うてもいい」
「これで大丈夫です」
「大丈夫かどうかを、今から確認するんや」
「はい」
拓真は、もう一度留め具を指で確かめた。
美月は研修計画書へ署名した。
研修期間中の作業、賃金、保険、危険作業の範囲、指導者、評価方法。
無料の体験ではない。
移住を決める儀式でもない。
三か月間、働く側と雇う側が、互いを確認する時間だった。
*
四月の宿泊営業では、初めて二週続けて全室が埋まった。
全国誌の記事が出た影響もあった。
記事の題名は、『廃校がつないだ、小さな村の新しい時間』だった。
父と美月の関係には、一行も触れていない。
雪景色の写真の下には、積雪時に道路が閉鎖される可能性があることも書かれていた。
取材者は、施設だけでなく、川音の湯、佐藤林業、乗合車、山路館、診療所を取材していた。
記事が出た日の午前中だけで、予約サイトへのアクセスは普段の八倍になった。
問い合わせも増えた。
『学校の教室で授業を受ける体験はできますか』
『児童用の制服を貸し出していますか』
『運動会を再現できますか』
『村のお年寄りと必ず交流できますか』
『自給自足体験はできますか』
遼子は、一件ずつ返事をした。
授業体験は行っていない。
制服の貸し出しはない。
運動会の再現予定はない。
住民との交流は保証しない。
自給自足を体験する施設ではない。
「ほとんど、できませんという返事ですね」
沙織が言った。
「ないものは、ないですから」
「記事を読んで、期待してくれた人ですよ」
「期待に合わせて、村の暮らしを演出することはできません」
遼子は次の問い合わせを開いた。
『子どもが学校へ行けず悩んでいます。人の少ない場所で数日過ごさせたいのですが、滞在中に職員の方が話を聞いていただけますか』
遼子の手が止まった。
「これは、どうしますか」
沙織が尋ねる。
「宿泊は受けられます。ただし、職員は心理支援の専門家ではありません。お子様だけを預かることもできません」
「冷たく聞こえませんか」
「できない支援を、できるように見せる方が危険です」
美月は静かに言った。
「保護者同伴での宿泊、静かに過ごせる場所の案内、近隣の相談機関の情報提供。それ以上は約束しません」
遼子が返信を作った。
翌日、保護者から返事が届いた。
『できることと、できないことを教えていただき、ありがとうございます。子どもと相談します』
予約は入らなかった。
それでも、美月は返信内容を変えなくてよかったと思った。
*
五月の中旬、内閣府と総務省、国土交通省の地方交通担当者が、清澄村を視察した。
県の高瀬も同行した。
国の職員六人、県職員三人、創生都市開発から小田切、黒田、公共事業担当者四人。
村側は、山根村長、藤井、森下、美月、遼子が対応した。
視察の目的は、廃校活用そのものではない。
宿泊、地域利用、防災、交通、雇用を一つの事業として運営する方法を確認することだった。
最初の説明会で、美月は五か月間の数字を示した。
整備費、三億七千二百万円。
会社投資、七千二百万円。
国、県、村、金融機関の負担。
事業収入。
運営費。
累積赤字。
職員数。
時間外勤務。
宿泊者数。
村民利用者数。
体験講師へ支払った報酬。
乗合車の利用者数。
「宿泊施設としては、まだ赤字なんですね」
国の担当者が尋ねた。
「はい」
「それでも、事業を成功と評価していますか」
「現時点では、成功とも失敗とも判断していません」
「開業後五か月ですよね」
「判断するには短すぎます」
「では、何を成果と考えていますか」
美月は画面を切り替えた。
「宿泊以外では、常勤二人、短時間勤務一人、登録職員六人の雇用が生まれました。体験講師へ五か月間で五十四万円を支払いました。川音の湯の利用者は前年同期比で一八パーセント増えています。乗合車の試験運行が始まりました」
「人口は?」
「帰郷による住民登録が一人増えました。清澄校舎との直接的な因果関係は確認できません」
「移住相談は?」
「三十八件です。そのうち、現地相談へ進んだのは十一件。試験滞在を行ったのは四組。住民登録へ至ったのは一人です」
「三十八件で一人?」
「はい」
「少なくありませんか」
「生活条件を確認したうえで、一人が実際に住み始めたと考えています」
「広報では、三十八件の関係人口創出と表現できますね」
創生都市開発の公共事業担当者が言った。
「相談しただけの方を、関係人口へ数える基準はありません」
美月が答える。
「問い合わせをした時点で、村との接点は生まれています」
「一度メールを送った方まで含めるんですか」
「それも接点では?」
「数字を大きく見せるための接点になります」
会場の空気が少し硬くなった。
小田切が担当者を見た。
「田中さんの基準で報告してください」
「しかし、他事業との比較では――」
「比較できないものを、同じ数字へそろえる必要はない」
小田切はそう言い、美月へ続けるよう促した。
視察者の一人が手を上げた。
「住民の反対は、どのように解消したんですか」
「解消していません」
美月は資料から顔を上げた。
「現在も、村の資金を別の事業へ使うべきだったという意見があります。施設を評価している方の中にも、宿泊事業へ反対している方がいます」
「それでも協力を得られた理由は?」
「協力していない方もいます」
「では、合意形成は不十分だった?」
「すべての住民が賛成することを、合意の条件にはしていません。反対意見を議事録へ残し、費用と判断理由を公開し、村議会で決定しました」
「反対した人との関係は?」
「施設を利用するかどうか、仕事へ応募するかどうか、意見を変えるかどうかは、本人に任せています」
担当者は資料へ書き込んだ。
「ほかの地域へ展開する場合、何が必要だと思いますか」
「同じ建物をつくらないことです」
「同じ建物をつくらない?」
「清澄村では、廃校、温泉、林業、避難所、既存旅館、路線バスがありました。別の地域には、別の条件があります。この計画を、そのまま移すことはできません」
「では、モデル化できない?」
「判断の手順は共有できます」
美月は、次の資料を表示した。
資源の所有者を確認する。
公益と収益を分ける。
住民の無償労働を前提にしない。
できないサービスを事前に示す。
雇用条件を公開する。
赤字を事業別に分ける。
災害時の役割を通常運営と分ける。
利用者数だけで移住や関係人口を評価しない。
「建物ではなく、決め方を共有するということですか」
「はい」
「それなら、複数地域で検証する価値がありますね」
国の担当者が言った。
創生都市開発の公共事業担当者が、すぐに顔を上げた。
小田切は何も言わなかった。
しかし、手元の資料へ印を付けていた。
*
視察団は、体育館、客室、調理室、川音の湯、乗合車の停留場所を見た。
午後には、源造の木工教室へ参加した。
参加者は、木の小箱を作る。
「先生と呼ばんでください」
源造は最初に言った。
「大西さんでええです。分からんかったら聞く。勝手に道具を触らん。時間内に終わらんかったら、職員へ預ける。持って帰って宿で続きをせんこと」
国の職員が笑った。
「厳しいですね」
「のこぎりで指を切ったら、笑えんからな」
源造は、参加者一人ずつの手元を見た。
国の担当者が板を押さえる位置を間違えると、すぐに止めた。
「そこへ指を置いたらあかん」
「このくらいなら大丈夫です」
「大丈夫かどうかを決めるのは、道具を知っとる方や」
担当者は素直に手を移した。
一時間半後、六つの小箱が完成した。
形は揃っていない。
蓋が少し浮いているもの、角に隙間があるものもあった。
「商品にはなりませんね」
一人が言う。
「売るために作ったんやない」
源造が答えた。
「自分で使うんやったら、隙間があってもええ。気になるなら、次に来て直したらええ」
「また来る前提ですか」
「直したいなら来たらええ。直したくないなら、そのまま使うたらええ」
源造は講師料の受領書へ署名した。
視察費用の中から、参加者一人分の料金も清澄校舎へ支払われている。
「視察なら無料にしてもいいのでは?」
国の職員が冗談めかして言った。
「無料にしたら、視察が増えるたび、わしの仕事だけ増える」
源造は笑わなかった。
「国の人でも、村の人でも、払うもんは払うてください」
「おっしゃるとおりです」
担当者は頭を下げた。
*
視察団が帰ったあと、小田切は美月を校舎の交流室へ呼んだ。
黒田も同席している。
遼子は、次の宿泊者を迎える準備へ戻った。
「今日の説明、よかったよ」
小田切が言った。
「ありがとうございます」
「国の担当者は、別の地域でも同じ方法を試したいと考えている」
「清澄村の計画を、そのまま展開しないよう説明しました」
「聞いていた。だから、建物ではなく、手順を事業化する」
小田切は一枚の資料を机へ置いた。
表紙には、『公共共創事業準備室』とある。
「来年度、官民連携の地域事業を専門に扱う部署を立ち上げる。自治体の調査、住民協議、事業設計、民間投資、運営評価までを一つの契約で受ける」
美月は資料を開いた。
対象地域は、廃校、商店街、公共交通、観光施設、地域医療など。
清澄村で行った仕事が、項目ごとに整理されている。
「当社は、これまで建物をつくり、運営会社へ渡す事業が中心だった」
小田切は言った。
「清澄村では、運営へ入ったことで、建物をつくる前に見るべきものが分かった。公共事業の受注にも、民間投資の判断にも使える」
「会社にとっての価値が、見つかったということですか」
「最初から期待はしていた」
美月は顔を上げた。
「最初から?」
黒田が小田切を見た。
小田切は、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「清澄村へ田中さんを送った時、事業が成功すれば、国や自治体との次の仕事につながる可能性は考えていた」
「私は、聞いていません」
「現地調査の目的は、村の事業をつくることだった。それは変わらない」
「会社の実績にする目的もあった」
「企業が投資する以上、次の事業へつなげることは考える」
「なぜ、伝えなかったんですか」
「最初の段階で言えば、住民との対話より、会社へ見せる成果を優先する可能性があった」
「私が?」
「田中さんに限らない。誰でもだ」
美月は資料を閉じた。
「今日の視察も、最初から次の受注を考えて呼んだんですか」
「国からの希望だ。ただ、会社として機会を生かしたいとは思っている」
「村を利用したことにはなりませんか」
「投資と運営支援を行い、契約どおり結果を公開している。その経験を別の仕事へ使うことが、利用だとは思わない」
「村の情報や住民の発言を、営業資料へ使う場合は?」
「同意を取る。匿名化もする。使えないものは使わない」
「清澄村モデルという名前は?」
「田中さんが反対すると思って、まだ付けていない」
「反対します」
「分かっている」
小田切は、資料を美月の前へ戻した。
「この準備室の立ち上げ責任者を、田中さんに任せたい」
美月は動かなかった。
「私ですか」
「清澄村の任期が終わる八月から、東京本社へ戻ってもらう。役職は室長補佐。二年以内に正式な事業部へ昇格した場合は、事業企画課長を任せる予定だ」
「まだ、三十一歳です」
「年齢は、任せない理由にはならない」
「東雲の担当へ戻る話ではなかったんですか」
「東雲は岡部が順調に進めている。田中さんには、清澄村で得たものを次へ持っていってほしい」
岡部が担当を続けていることに、驚きはなかった。
それでも、胸の奥に小さな痛みが走った。
戻る場所として考えていた仕事に、自分の席はもうない。
代わりに、新しい席が用意されている。
「返事は、いつまでですか」
「五月末」
「二週間しかありません」
「正式な人事発表の都合がある」
「断ることはできますか」
「もちろんだ」
「断った場合は?」
「現在の任期終了後、通常の人事配置へ戻る。清澄村へ残る契約は、今のところない」
黒田が口を開いた。
「田中、今日決めなくていい」
「その点は理解しています」
「会社としては、大きな機会だ。お前にとっても」
「はい」
「ただ、清澄村へ残ることを考えているなら、それも含めて話せ」
「残るとは言っていません」
「言ってないから聞いてる」
美月は窓の外へ目を向けた。
校庭では、乗合車が午後便の乗客を降ろしていた。
千恵が買い物袋を持ち、運転手へ礼を言っている。
宿泊客の女性が、その後ろから降りた。
別々の理由で同じ車へ乗り、同じ場所へ戻ってきた。
「二週間、考えます」
美月は答えた。
小田切はうなずいた。
「分かった」
「準備室の資料は、持ち帰っても?」
「もちろん。疑問点は、何でも聞いてくれ」
「会社が清澄村を実績として使う範囲についても、文書で示してください」
「作成する」
「住民への説明は?」
「田中さんの人事が決まる前に、会社の新事業を説明する必要はないと思う」
「視察内容が別事業へ使われるなら、村長と議会へは伝えるべきです」
「そこは、協議しよう」
話し合いは、一時間近く続いた。
*
小田切と黒田が東京へ戻ったあと、美月は役場へ行った。
山根村長と藤井、森下へ、会社が公共共創事業を検討していることを説明した。
自分へ東京復帰の打診があったことは、言わなかった。
「会社が、この村の経験をほかへ売るんですか」
藤井が尋ねた。
「事業手法として提案する可能性があります」
「村の名前を使う?」
「同意なしには使わないよう求めています」
「使われたら困りますか」
山根村長が言った。
「内容によります。成功事例として問題を省いた形で紹介されれば、誤解が生じます」
「赤字も、反対意見も、雪で道が止まったことも言うてもらう?」
「はい」
「それで、仕事が取れるんですか」
藤井が苦笑した。
「簡単には取れないと思います」
「田中さんの会社、そんな正直な営業するんですか」
「そうするよう、話します」
「また社内で嫌がられますよ」
「すでに嫌がられています」
森下が笑った。
「でも、前より聞いてもらえてるんじゃないですか」
「少しは」
村長は、天井を見上げた。
「使うてもろうたらええと、私は思います」
「村長」
藤井が顔を向ける。
「清澄村だけで終わるより、ほかの村で役に立つなら、それでええ。ただし、うちの真似をしたら成功するとは言わんでほしい」
「同じ建物をつくらないよう、説明しました」
「なら、同じ失敗も隠さんことや」
山根村長は美月を見た。
「失敗も含めて使うなら、村の名前を出してもええ。ただ、議会と住民へ先に説明してください」
「承知しました」
「田中さんは、その仕事をするんですか」
村長の問いに、美月は返事を止めた。
「まだ、決まっていません」
「頼まれたんですね」
藤井が言う。
森下も、美月の顔を見た。
「任期終了後、東京本社へ戻り、新部署へ入る話があります」
「いつから?」
「八月です」
「あと三か月やないですか」
森下の声が、少し大きくなった。
「元の予定どおりです」
「そうですけど」
「まだ返事はしていません」
「残る話もあるんですか」
「現時点ではありません」
会議室が静かになった。
村長はゆっくりうなずいた。
「考えたらええ」
「はい」
「村のために残れとは言いません」
「村長」
藤井が何か言おうとした。
「言うたらあかん」
村長は低い声で続けた。
「田中さんは会社から来た人です。契約の期限がある。残ってほしいと思う人はおるやろうけど、その気持ちで縛ったら、帰る人が悪いみたいになる」
美月は机の上の資料を見た。
「清澄校舎は、長谷部さんたちが運営できます」
「できます」
藤井が答えた。
「田中さんがおらんかったら困ることは、まだあります。でも、おらんかったら何も動かん状態ではない」
「それでいいんです」
美月は言った。
自分がいなくても動く仕組みをつくる。
最初から、それが目標だった。
実際にその状態へ近づくと、胸の中に空白が生まれる。
東雲の仕事を引き継いだ時と同じだった。
自分がいなくても、仕事は進む。
それは失敗ではない。
それでも、寂しくないわけではなかった。
*
役場を出ると、雨が上がっていた。
午後五時を過ぎている。
山の斜面には霧が残り、川の上へ白く下りている。
美月は山路館へ向かって歩いた。
途中、商店の前で足を止めた。
初日にトマトを渡してくれた松井フミが、籠へ山菜を並べている。
「今日は、こごみやで」
「一袋、いただきます」
「百五十円」
美月は財布から二百円を出した。
フミは脇の小さな金庫から、五十円を返した。
「釣り銭を置くようになったんですね」
「泊まりの客が来るようになったからな。いつまでも菓子の缶だけいうわけにいかん」
「初日の百円も、翌日に森下さんへ渡しました」
「覚えとったん?」
「もちろんです」
「私は忘れとった」
フミは笑った。
「東京へ帰るんやて?」
美月は山菜の袋を持ったまま、顔を上げた。
「もう聞いたんですか」
「役場の前で、佳奈ちゃんが藤井さんと話しとった」
「現時点では未定です」
「帰りたいん?」
「分かりません」
「なら、決めたらええ」
「そのために考えています」
「考えすぎたら、分からんようになるで」
「考えずには決められません」
「そうやろな。美月さんは」
老女は空になった籠を一つ重ねた。
「帰ってもええし、残ってもええ。どっちでも、トマトは勝手にできる」
「そうですね」
「こごみも、来年また出る」
「はい」
「美月さんがおらんでも」
言葉は厳しく聞こえたが、老女の表情は穏やかだった。
「でも、おったら食べられる」
美月は山菜の袋を見た。
「調理方法を知りません」
「茹でて、胡麻和え。難しく考えんでええ」
「茹で時間は?」
「色が変わる前」
「何分ですか」
「見たら分かる」
「分かりません」
老女は声を上げて笑った。
「澄江さんに聞き」
美月は袋を鞄へ入れた。
*
赤い橋まで来た時、川の上の霧が濃くなった。
風はない。
水面が、山の影を映している。
上には、霧のかかった山。
下には、流れの中に揺れる山。
二つの山が、向かい合って見えた。
清澄村へ来た初日の夜、澄江が話していた景色だった。
『川の上に霧が下りて、山が二つあるように見えるんです』
あの日、美月は閉まった店と、少ないバスと、つながらない通信を見ていた。
霧のことは知らなかった。
翌日からは、聞き取り、会議、調査、工事、採用、開業、収支、雪。
何度も同じ橋を渡った。
それでも、この景色を見たのは初めてだった。
美月はスマートフォンを取り出した。
撮影画面に、山と霧と川を入れる。
画面の中では、水面の山が暗くつぶれている。実際の景色より、境目がはっきりしない。
一枚だけ撮り、スマートフォンを下ろした。
橋の向こうから、颯太が歩いてきた。
作業着の肩へ、細かな木屑が付いている。
「何を撮ってたんですか」
「山です」
「珍しいですか」
「二つに見えたので」
颯太は川を見た。
「ああ。雨上がりに、ときどき見えます」
「知っていたんですか」
「ここに住んでるんで」
「誰も、教えてくれませんでした」
「澄江さんが言うてたでしょう」
美月は颯太を見た。
「なぜ、知っているんですか」
「初日の夜、田中さんが山と川しかないと言うたって、村中に広まってましたから」
「そこまで広まっていたんですか」
「今さらですか」
颯太が笑った。
美月は、もう一度川へ目を向けた。
水面の山は、流れに揺れて形を変えている。
「東京へ戻る話があるそうですね」
颯太が言った。
美月は驚かなかった。
「村では、話が早いですね」
「森下さんから聞いたわけではありません。役場の前で、敏夫さんが話してました」
「さらに広がっていますね」
「本当ですか」
「八月から、本社の新しい部署へ入る話があります」
「受けるんですか」
「まだ決めていません」
「いつまでに?」
「二週間後です」
「そうですか」
颯太は、それ以上尋ねなかった。
「佐藤さんは、何も言わないんですか」
「何を?」
「東京へ戻った方がいいとか、村へ残った方がいいとか」
「私が決めることやないでしょう」
「皆さん、同じことを言います」
「なら、そうなんでしょう」
「何か言ってくれてもいいと思います」
美月が言うと、颯太は少し困った顔をした。
「言うたら、決めるんですか」
「それは分かりません」
「なら、言いません」
「ずるいですね」
「田中さんに言われとうないです」
二人は橋の上に立ったまま、川を見た。
霧が少しずつ薄くなっていく。
水面に映っていた山の輪郭も、流れの中へ崩れ始めた。
「一つだけ言います」
颯太が言った。
「何ですか」
「田中さんがおらんでも、清澄校舎は動くと思います」
「忘れてはいません」
「でも、おってもらって困るとも思ってません」
美月は颯太を見た。
「それだけですか」
「それ以上言うたら、決める邪魔になる」
「もう十分、邪魔になっています」
「すみません」
颯太は謝ったが、表情は少し笑っていた。
霧が晴れ、水面の山が消えていく。
残ったのは、目の前にある一つの山だった。
美月は鞄の中のこごみを思い出した。
「山路館へ戻ります」
「送りますか」
「今日は歩きます」
「道、分かります?」
「もう三年近く住んでいます」
「最初は、ここで間違えましたよね」
「その話も、もういいでしょう」
美月は橋を渡り始めた。
颯太も隣を歩く。
「東京へ帰っても、道を間違えんようにしてください」
「まだ帰るとは言っていません」
「残るとも言ってません」
「だから考えているんです」
「考えすぎんように」
「さっきも言われました」
「誰に?」
「こごみを買った方です」
「フミさんか」
「はい。初日にトマトをいただいた時から、言われることが変わりません」
美月は足を止めた。
「変わってないようで、あの店には釣り銭が置かれるようになったでしょう」
「そういえば、最初は菓子の缶だけでした」
「三年近く通って、今気づいたんですか」
「見ていたつもりでした」
颯太は呆れた顔をした。
「まだ、気づいてない変化がありますね」
「あります」
「なら、残る理由が一つ増えた」
「釣り銭の変化を確かめるために残るんですか」
「帰る前に聞けば、すぐ済みますけど」
「どちらなんですか」
「決めるのは、田中さんです」
颯太は先に歩き出した。
美月も、そのあとを追った。
山路館の屋根が、夕暮れの向こうに見えている。
広縁には、『みんなのいえ』と書かれた小さな工作が待っている。
東京の新しい部署には、美月のための席が用意されようとしている。
清澄校舎には、もう美月がいなくても動く人と仕組みがある。
どちらも、美月を必要としていないわけではない。
どちらも、美月だけを待っているわけでもなかった。
二週間後までに、返事をしなければならない。
美月は、隣を歩く颯太へ何も言わなかった。
川の音と、二人分の足音が、暗くなり始めた道に続いていた。




