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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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第二十八章 数字の冬

清澄校舎が開業してから二か月、宿泊者は五十六人になった。

 十一月の営業日は八日。

 販売した客室は、全二十四室のうち九室。客室稼働率は三七・五パーセントだった。

 十二月は、年末の二日を加えて十日営業した。全三十室のうち十七室が埋まり、稼働率は五六・七パーセントまで上がった。

 数字だけを見れば、計画を上回っている。

 宿泊予約の半分は、旧清澄小学校の卒業生や、その家族だった。

 残りは、学校へ泊まることに興味を持った親子、建築を学ぶ学生、温泉を目的に訪れた夫婦、県内の企業研修である。

     *

 十一月十日に泊まった京都の家族は、夕食後、交流室に置かれた杉の木箱を囲んだ。箱の横には、『置くものと、向き合うものを、自分で決めてください』と書かれた小さな札がある。

 母親は仕事用のスマートフォンを入れ、父親も私用の端末を重ねた。小学生の娘だけが、タブレットを胸へ抱えたままだった。

「せっかく来たんだから、あなたも置いたら?」

 母親が言うと、娘は首を振った。友人と五分後に連絡する約束があるという。父親が何か言おうとした時、遼子が説明した。

「全員が同じ物を、同じ時間だけ置く必要はありません。置かないことも、ご家族で決めていただけます」

 娘は五分待ち、届いたメッセージへ短く返信した。それから木箱には入れず、画面を下にして棚へ置いた。

 三人は翌朝に歩く道を、紙の地図へ描いた。娘は途中でタブレットを取り、完成した地図を一枚だけ撮影したあと、再び棚へ戻した。二十七分の間に、家族の問題が解決したわけではない。

 翌朝の聞き取りで、母親は言った。

「置くことを成功にされなかったから、自分たちで置けた気がします」

 遼子はその言葉を宣伝文へ使わなかった。代わりに運営記録へ、端末を預けるかどうか、何分離れるか、途中で手に取るかを、施設側が評価しないと追記した。

 木箱は各客室に置く。ただし、使わなくてもよい。清澄校舎が提供するのは、通信を断つ規則ではなく、何から離れ、何と向き合うかを選べる時間だった。

 体験教室には、延べ七十二人が参加した。

 文江の藁細工教室が四回。

 源造の木工教室が三回。

 颯太と佐藤林業による森林見学が二回。

 体育館の住民利用は、二か月で四百人を超えた。

 川音の湯の利用者も、前年の同じ時期より二割近く増えた。

 役場へ提出する報告書の最初のページには、上向きの数字が並んでいる。

 しかし、収支表の一番下は赤かった。

 十一月と十二月を合わせた事業収入は、三百二十八万円。

 人件費、食材費、光熱費、清掃費、予約システム利用料、保険料、体験講師料、消耗品費を合わせた運営費は、五百六十七万円。

 二か月間の差額は、二百三十九万円の赤字だった。

「開業初年度の計画内ではあります」

 美月は、東京本社とのオンライン会議で説明した。

「初期研修費と開業準備費を含んでいます。来年一月以降は、月間の赤字幅が縮小する見込みです」

 画面の向こうで、小田切が収支表を見ている。

 黒田と財務部の担当者、広報部、運営事業部も参加していた。

「客室稼働率は、計画を上回っているんだな」

 小田切が確認した。

「はい。初年度目標は三五パーセントです」

「それでも、赤字は二百三十九万円」

「客室が三室しかありません。満室でも、一日に販売できる室数は三室です」

「営業日を増やせばいい」

 財務部の担当者が言った。

「現在、月八日から十日の営業です。月十二日へ増やした場合の試算は?」

「作成しています」

 美月は別の資料を画面へ表示した。

「月十二日へ増やせば、宿泊売上は平均で月五十六万円増える見込みです。一方、追加の勤務時間、食材、清掃、夜間待機を含めると、費用は月四十三万円増えます」

「十三万円は改善する」

「予約が同じ割合で入れば、です」

「今の稼働率なら入るだろう」

「十一月と十二月は、開業直後の取材効果と、卒業生の予約が集中しています。同じ状態が続くとは限りません」

 広報担当者が口を挟んだ。

「来月、全国誌に掲載される予定です。予約は増えると思います」

「掲載後の問い合わせは増えるでしょう。ただし、冬季の来訪条件を説明する必要があります」

「雪景色を魅力として打ち出せませんか」

「積雪量が増えれば、路線バスが運休し、県道が通行止めになる可能性があります」

「その自然環境も含めて、体験価値では?」

 美月は、すぐには答えなかった。

「道路が通れなくなることを、体験価値とは呼びません」

 広報担当者の表情が硬くなる。

「雪そのものを否定しているわけではありません。安全に来られる日と、来られない日があります」

「では、雪の日はすべて閉めるんですか」

「積雪予報、道路状況、除雪体制を確認し、前日正午までに営業可否を判断します」

「判断が早すぎると、晴れた場合に機会損失になります」

「判断を遅らせると、お客様が村へ向かってから引き返すことになります」

 財務担当者が資料をめくった。

「田中さんは、事業を大きくしたいのか、止めたいのか、どちらですか」

「続けたいと考えています」

「なら、売上を増やす方法を考えるべきでしょう」

「売上だけ増やして、職員の勤務が続かなければ、事業は止まります」

「人を増やしたばかりですよね」

「開業後二か月で、遅番職員の時間外勤務が月平均十一時間発生しています。研修期間を終えた直後としては、多いです」

「十一時間なら、法定範囲内です」

「範囲内なら、増やしてよいという意味ではありません」

 会議が静かになった。

 黒田が、手元の資料を閉じた。

「田中、現場としては、いつなら営業日を増やせる」

「冬季運営を一度経験し、三月末に判断します」

「それまでは、月十日を上限か」

「はい。ただし、団体研修や視察は宿泊営業日と分けて受け入れます。日帰り利用であれば、夜間勤務は発生しません」

「売上見込みは?」

「月二十万円から三十万円です」

「受けられる件数は?」

「月二件までです」

「三件では?」

「二件です」

 美月は言い切った。

 黒田は画面越しに、美月の顔を見た。

「長谷部さんとは合意しているのか」

「はい」

「職員の意見は?」

「全員へ確認しました。営業日を増やすより、今の勤務を安定させたいという意見が多数です」

「分かった。三月まで、月十日を上限にする」

 小田切が決めた。

「ただし、月次の収支と勤務時間を報告してくれ。冬季営業で問題が起きた場合は、隠さず出すこと」

「承知しました」

「それと、田中さん」

「はい」

「赤字を計画内という言葉だけで処理しないでほしい。会社が負担している金も、村が負担している金も、いずれ誰かが稼いだものだ」

「その点は理解しています」

「現場を守ることと、収支を見ることは、対立しないはずだ」

「はい」

 会議は予定を二十分超えて終わった。

     *

 清澄校舎の利用者から寄せられた感想は、百四十一件になっていた。

『夜の川の音が大きく、眠れなかった』

『川の音が心地よく、久しぶりに熟睡できた』

『地域の人ともっと話したかった』

『地域交流を求められず、自分たちの時間を過ごせた』

『学校らしさが残っていて懐かしかった』

『もう少し古い設備を残してほしかった』

『新しい水回りで安心した』

『体育館から音が聞こえた』

『村の日常が感じられてよかった』

 同じものが、ある人には魅力となり、別の人には不満になる。

「全部に応えたら、何も決められませんね」

 沙織がアンケートを分類しながら言った。

「繰り返し出る意見と、安全に関わる意見を優先します」

 遼子が答えた。

「川の音は、どうしますか」

「予約サイトに書いてあります。耳栓も客室に置きました。それ以上は変えられません」

「窓を二重にするとか」

「費用がかかります。それに、川の音が好きだという人もいます」

「なら、直さない?」

「はい」

 沙織は、『夜の川の音が大きい』と書かれた用紙へ、対応済みを示す印を付けた。

「直さないのに、対応済みですか」

「できないことを説明し、選べるようにするのも対応です」

「田中さんみたいですね」

「どこが?」

「できないことを、はっきり言うところ」

 遼子は少し笑った。

「最近は、田中さんより私の方が言っています」

 美月は事務室の奥で、その会話を聞いていた。

「聞こえています」

「聞こえるように言いました」

 沙織が答えた。

 以前なら、職員から冗談を言われることはなかった。

 美月自身も、冗談なのか批判なのか分からず、考え込んでいたかもしれない。

「川の音については、客室ごとの差も記載してください」

 美月は言った。

「一号室が最も大きく、二号室、三号室の順に小さくなります」

「ほら、すぐ仕事を増やす」

 遼子が言う。

「必要な情報です」

「分かっています。沙織さん、予約サイトへ追加してください」

「はい」

「勤務時間内に」

「はい」

     *

 十二月の二週目、文江の藁細工教室で、初めて参加者が一人になった。

 予約者は三人いた。

 一人は子どもの発熱で前日に取り消し、一人は路線バスへ乗り遅れて村まで来られなかった。

 参加したのは、滋賀県から一人で来た四十代の女性だった。

 文江は、六人分の藁と道具を用意していた。

「一人なら、今日やめますか」

 由が尋ねると、文江は首を振った。

「来てくれとるのに、やめられん」

「講師料は、参加人数にかかわらず決めた額を支払います」

 美月が言う。

「一人分の参加料では、赤字やろ」

「少人数開催の条件を満たしています」

「その条件、私が決めたんやったか」

「最初の契約で確認しました」

 文江は、机の上の藁を見た。

「なら、やります」

 教室は、予定どおり二時間行われた。

 参加した女性は、不器用だから人が多いと恥ずかしいと話し、一対一で教えてもらえることを喜んだ。

 完成したのは、小さなしめ飾りだった。

「家の玄関へ置きます」

 女性が言う。

「うまくできてますか」

「初めてなら十分や」

「初めてじゃなかったら?」

「もう少し締めた方がええ」

 文江は飾りの結び目を指で直した。

 参加者が帰ったあと、未使用の藁を片づけながら言った。

「一人でも、教える時間は同じやな」

「はい」

「六人おったら、手が回らんと思って心配する。一人やったら、売上が足りんと思って心配する」

「人数を三人から四人に保てるのが理想です」

「そんな都合よく来るかいな」

「来ませんね」

 美月が答えると、文江が笑った。

「田中さんも、分かってきたな」

「何がですか」

「人は、表の人数どおりには来んということや」

 美月は、未使用の材料費を記録した。

 文江へ支払う講師料は、予定どおり八千円。

 参加料は三千五百円。

 材料費と施設利用料を含めれば、その日の教室は赤字だった。

 それでも、参加者は一人分の飾りを持ち帰った。

 文江は二時間分の報酬を受け取った。

 ゼロではない。

 同時に、黒字でもない。

     *

 年末が近づくと、村へ雪の予報が出るようになった。

 十二月二十六日、気象台は、翌日の夕方から山地で大雪になる可能性があると発表した。

 清澄校舎は、二十七日から二泊の営業を予定している。

 三室すべてに予約が入っていた。

 一号室は、京都から来る七十代の姉妹。

 二号室は、大阪の夫婦と九歳の娘。

 三号室は、建築を学ぶ大学院生二人。

 宿泊者は合計七人。

「前日正午の予報では、村の積雪は十センチです」

 遼子が運営会議で言った。

「県道の除雪対象には入っています。現時点では、営業可能と判断します」

「予報が外れたら?」

 森下が尋ねる。

「午後五時と、明朝六時に再確認します。積雪が二十センチを超える見込みなら、宿泊者へ延期を提案します」

「延期した場合、キャンセル料は?」

「取りません」

「施設側から取り消すなら、当然でしょう」

 美月が言う。

「宿泊者が、自分の判断で来ない場合は?」

 沙織が尋ねた。

「道路状況に不安がある場合も、今回は無料で変更を受けます」

「規定では、前日は五十パーセントですよね」

「冬季の最初の営業です。こちらも情報提供の方法を確認する必要があります」

 遼子は予約者へ電話をかけた。

 三組とも、予定どおり来ると答えた。

 一号室の姉妹は、雪道の運転経験がある息子に送ってもらう。

 二号室の家族は、冬用タイヤを装着している。

 三号室の大学院生は、路線バスを使う予定だった。

「最終便が運休した場合、村へ入れません」

 沙織が説明すると、大学院生は午前中の便へ変更した。

 翌朝、積雪は三センチだった。

 空は曇っていたが、雪は止んでいる。

 午前九時、営業決行を決めた。

     *

 宿泊者は、三組とも午後三時までに到着した。

 二号室へ泊まる家族の娘は、山本葵という名前だった。

 車を降りると、校庭の隅に残った雪へ走っていった。

「滑るから、走らないで」

 母親が呼び止める。

「三センチしかない」

「三センチでも滑るの」

 葵は雪を両手ですくった。

「雪だるま、作れますか」

「今の量では、小さいものなら」

 沙織が答える。

「明日はもっと降る?」

「降るかもしれません」

「楽しみ」

 父親は空を見上げた。

「帰れなくなるほどは、困るけどな」

 受付では、遼子が翌日の道路状況について説明した。

「大雪になった場合は、チェックアウト時刻を延長します。県道が通行止めになった場合、解除まで施設内でお待ちいただきます」

「追加料金は?」

 父親が尋ねた。

「道路閉鎖による待機時間について、客室利用の追加料金はいただきません。昼食が必要な場合は、実費をいただきます」

「翌日も帰れなかったら?」

「宿泊延長が可能なら、一泊分の料金をいただきます。難しい場合は、避難所として体育館を開放します」

「避難所?」

 母親の表情が変わった。

「その可能性は高いんですか」

「現在の予報では、低いです。ただ、可能性がないとは言えません」

「予約の時、そこまでは聞いていません」

「昨日のお電話で、道路状況による待機の可能性をお伝えしました」

「待つくらいだと思っていました。避難所へ移ることもあるんですか」

「客室が使えない状況になった場合です」

「それなら、来なかったかもしれない」

 母親の声が硬くなる。

 葵が雪を持ったまま、玄関の外から両親を見ている。

 遼子は一度頭を下げた。

「説明が不足していました。申し訳ありません」

「今日、帰ることもできますか」

「午後四時までなら、雪が強くなる前に村外へ出られる見込みです。キャンセル料はいただきません」

 父親が妻を見る。

「どうする?」

「せっかく来たけど……」

 母親は窓の外を見た。

 葵は、小さな雪の塊を作っている。

「今夜の予報を、もう一度見せてもらえますか」

 遼子は気象情報と県の道路情報を開いた。

 大雪注意報は出ているが、警報ではない。

 降雪のピークは、夜から翌朝。

 除雪車は午前四時から動く予定だった。

「絶対、大丈夫とは言えないんですよね」

「言えません」

「宿の人としては、泊まってほしいですか」

 遼子は少し考えた。

「売上だけを考えれば、泊まっていただきたいです」

 母親が驚いた顔をした。

「でも、明日の予定を変えられないのであれば、今日は戻ることをおすすめします」

「明日は、仕事は休みです」

「なら、午前中に帰れない可能性まで含めて、ご家族で決めてください」

 夫婦は玄関の端で話し合った。

 やがて、母親が葵を呼んだ。

「明日、帰るのが遅くなるかもしれないけど、それでも泊まりたい?」

「泊まりたい」

「体育館で寝ることになるかもしれないよ」

「学校だから、体育館でもいい」

「お母さんは、よくないの」

 葵は少し考えた。

「じゃあ、雪がいっぱい降らないようにする」

「それはできないでしょう」

「できないけど、泊まりたい」

 母親は息を吐いた。

「分かりました。泊まります」

「決定は、午後四時まで変更できます」

 遼子が言う。

「また不安になったら、言ってください」

     *

 午後六時から、雪が強くなった。

 校庭の白い部分が広がり、午後八時には積雪が十五センチを超えた。

 川音の湯へ行く予定だった宿泊者には、家族風呂と客室浴室を案内した。

 大学院生二人は、歩いて温泉へ行きたいと希望した。

「今夜は、外出を控えてください」

 遼子が言う。

「歩ける距離ですよね」

「積雪と暗さで、路肩が分かりにくくなっています」

「雪国では、これくらい普通では?」

「この村に住んでおられる方は、夜の道を知っています。お客様は、初めてです」

「温泉を楽しみに来たんですけど」

「明朝の営業と道路状況を確認します。今日は、校舎の風呂をご利用ください」

「宿泊料金に、温泉は含まれていない?」

「含まれていません。川音の湯は別料金です」

「なら、宿側が止めるのはおかしくないですか」

 遼子は相手の顔を見た。

「施設管理者として、安全上の理由から外出を控えるようお願いします。強制はできません。ただし、外出された場合、職員が同行することも、雪道で送迎することもできません」

 大学院生は不満そうだった。

「自己責任なら、行ってもいいんですね」

「自己責任という言葉で、危険がなくなるわけではありません」

 美月が口を挟んだ。

 遼子が美月を見たが、止めなかった。

「県道の見通しは悪くなっています。先ほど、温泉から宿へ戻る予定だった住民にも、早く帰るよう案内が出ました」

「でも、歩いて七分でしょう」

「雪のない昼間で七分です」

「はい」

 一人が言った。

「今日はやめます」

 もう一人は納得していない顔だったが、同行者に促され、客室へ戻った。

 午後九時、積雪は二十二センチになった。

 気象台は、大雪注意報を警報へ切り替えた。

 県道の一部が、倒木のため通行止めになった。

「明日の路線バスは、始発から運休です」

 森下から電話が入った。

「除雪車は?」

『倒木を撤去してからです。佐藤林業へ村から緊急作業を依頼しました』

「佐藤さんたちは、今夜から動くんですか」

『暗い中では危ないので、明朝五時からです』

「宿泊者へは、今夜のうちに伝えます」

『体育館を避難所として開ける必要は?』

「電気、水道、暖房に問題はありません。現時点では必要ありません」

『分かりました。何かあれば、私に連絡してください』

「当直ではないでしょう」

『近くに住んでるので』

「呼び出した場合は、勤務扱いになりますか」

 電話の向こうで、森下が黙った。

『緊急なら、そんなこと言うてられません』

「緊急だからこそ、記録してください」

『田中さん、今それを――』

「森下さんへ来てほしい場合は、役場の緊急対応として藤井課長から依頼してもらいます。個人的に助けに来る形にはしません」

 森下はしばらく黙ったあと、答えた。

『分かりました。課長へ確認します』

 美月は通話を切った。

 遼子が事務室の入口に立っている。

「正しいと思います」

「冷たく聞こえたでしょうか」

「聞こえたと思います。でも、森下さんが何時間働いたか分からなくなるよりはいいです」

「今夜の勤務は?」

「私が夜間担当。沙織さんは午後十時で上がります。由さんは、予定どおり帰しました」

「人が必要になったら?」

「村の緊急対応が始まった場合は、役場と協議します。宿の通常業務で必要なら、待機登録者へ連絡します」

「理解しました」

「田中さんも、山路館へ戻れません」

 外は、すでに白く覆われている。

「今夜は交流室で待機します」

「勤務扱いにしますか」

「私は会社の管理職です」

「それでも勤務時間でしょう」

「時間外の記録を入れます」

「なら、お願いします」

     *

 宿泊者へ道路閉鎖を伝えると、反応は分かれた。

 一号室の姉妹は、翌日の予定を入れておらず、解除まで待つと答えた。

 大学院生の一人は、午後から大学の研究会があり、遅れると困ると言った。

 二号室の父親は、会社へ連絡する必要はないが、翌日の宿泊先まで予約していると話した。

「解除時刻は、明朝の作業開始後でなければ分かりません」

 遼子が説明した。

「午前十一時のチェックアウトは、延長します。客室は午後三時まで使っていただけます」

「三時を過ぎたら?」

「その時点で、改めて説明します」

「昼食は?」

「おにぎりと汁物を用意できます。一人千円です」

「道路が閉まったのは、こちらの責任ではありませんよね」

 二号室の母親が言った。

「はい」

「それでも、昼食代は払うんですか」

「宿泊料金に昼食は含まれていません」

「宿の判断で泊まれると言ったから、来たんです」

「営業可能と判断しました。ただ、道路閉鎖の可能性は説明しました」

「避難所の話は、到着してからでした」

「その点は、説明不足でした。申し訳ありません」

「だったら、昼食くらい無料でもいいでしょう」

 遼子はすぐには答えなかった。

 美月も口を挟まなかった。

「今回は、昼食を施設負担でご用意します」

 遼子は言った。

「ただし、道路閉鎖による待機時の食事について、次回以降は予約時の条件へ明記します」

「次回の話をしているんじゃありません」

「はい。今夜と明日のことは、できる限り対応します」

 母親はまだ不満そうだったが、うなずいた。

 部屋へ戻る途中、葵が美月へ近づいた。

「体育館で寝るの?」

「今夜は客室で寝られます」

「明日は?」

「道路が開けば、帰れます」

「開かなかったら?」

「その時に考えます」

「大人も、分からないの?」

「分からないことはあります」

「田中さんでも?」

「私でもです」

 葵は、少し安心したような顔をした。

「じゃあ、明日まで待つ」

     *

 午前五時、佐藤林業の作業車が県道へ入った。

 颯太を含む四人が、道路をふさいだ杉の撤去に向かう。

 作業は、村との緊急契約として行われる。人件費、機械使用料、危険作業手当を含む金額が、その日のうちに記録される。

 美月は清澄校舎の玄関から、作業車の回転灯を見送った。

 颯太から短い電話が入った。

『宿泊者、外へ出さんようにしてください』

「伝えています」

『校庭も、斜面側へ寄らん方がいいです。雪の重みで枝が落ちることがあります』

「立ち入り範囲を玄関前だけにします」

『玄関の屋根から落ちる雪にも気をつけて』

「分かりました」

『田中さん、寝ました?』

「二時間くらい」

『なら、作業が終わるまで、もう少し寝てください』

「こちらにも宿泊者がいます」

『道路の木は、こっちで何とかします。校舎の中は、長谷部さんが何とかするでしょう』

「私は?」

『田中さんは、全部を何とかしようとせんでええ』

「していません」

『してますよ』

 電話の向こうで、チェーンソーの始動音が聞こえた。

『切ります。あとで連絡します』

 通話が切れた。

 美月は玄関前へ、安全区域を示す赤い棒を立てた。

 雪は、まだ降り続いている。

     *

 午前七時半、宿泊者全員が交流室へ集まった。

 朝食は、焼き魚、卵焼き、煮物、味噌汁、ごはん。

 温かい湯気が、窓の曇りを広げる。

 葵は窓へ指で円を描き、外を見た。

「こんなに積もった」

「窓に字を書かないで」

 母親が言う。

「あとで拭く」

「自分でね」

「分かった」

 大学院生は、何度も道路情報を確認している。

「研究会、オンライン参加へ変更できました」

 一人が言った。

「無線通信は使えますか」

「今のところ、使えます。交流室は宿泊者用に開放します」

 沙織が答えた。

「個室は?」

「空いている体験準備室をご案内できます。ただし、音が漏れる可能性があります」

「それで構いません」

 雪のため、予定していた木工教室は中止になった。

 源造から、朝六時に電話があった。

『わしは行けるけど、客が帰れんのやったら、木工どころやないやろ』

 参加予定者には、全額を返金した。

 源造への講師料は支払わない契約になっている。開催前日までに施設都合で中止した場合は半額、災害や道路閉鎖の場合は双方負担なし。

「準備はしてたんやけどな」

 電話の最後、源造はそう言った。

 美月は、その言葉を記録した。

 契約上の支払い義務はなくても、材料の準備と時間は消えない。

 次回の契約見直しでは、災害時の準備費を検討する必要がある。

     *

 午前十時二十分、倒木の撤去が終わった。

 その後、除雪車が県道へ入る。

 通行止め解除の見込みは、正午と発表された。

 宿泊者へ伝えると、一号室の姉妹は安心したように笑った。

 二号室の家族は、次の宿泊先へ到着が遅れると連絡した。

 大学院生はオンラインで研究会へ参加している。

 午前十一時を過ぎた頃、葵が母親と校庭へ出た。

 許可された範囲で、小さな雪だるまを作る。

 父親も途中から加わった。

 三人の雪だるまは、膝ほどの高さだった。

「目にするもの、ない?」

 葵が尋ねた。

「木の実は、雪の下ですね」

 沙織が答える。

「調理室から、黒豆を持ってこようか」

 由が言った。

「食べ物は使わないでください」

 遼子が止めた。

「二粒くらい」

「鳥が食べます」

「鳥が食べるなら、ええでしょう」

「雪だるまが崩れたあと、地面へ残ります」

「田中さんみたいなこと言いますね」

 由が言うと、遼子は美月を見た。

「最近、よく言われます」

「似てきたんでしょう」

「困ります」

「聞こえています」

 美月が言うと、葵が笑った。

 結局、目には小さな杉の樹皮を使った。

 颯太が倒木から落ちた薄い皮を持ってきた。

「作業用の木から、少しだけです」

「道路の木を、勝手に使っていいんですか」

 美月が尋ねる。

「村へ確認しました」

「いつ?」

「田中さんが聞くと思ったんで、先に」

 颯太は樹皮を葵へ渡した。

「目、二つ分だけな」

「口も作りたい」

「なら、細い枝を探し」

「校庭の外へは出ないでください」

 美月が言う。

「分かってます」

 葵は雪の中から短い枝を見つけた。

 完成した雪だるまの横で、家族三人が写真を撮った。

 母親は、前夜より穏やかな表情をしている。

「帰れると分かったから、楽しめます」

 写真を撮り終えたあと、美月へ言った。

「昨日は、きつい言い方をしてすみませんでした」

「不安になるのは当然です。こちらの説明も不足していました」

「昼食、本当に無料でいいんですか」

「今回は、施設側で負担します」

「では、次に来た時、木工教室へ参加します」

「無料にした代わりに、何かしていただく必要はありません」

「そういう意味じゃなくて」

 母親は笑った。

「次は、雪のない時に来ます」

     *

 県道の通行止めは、午後零時十八分に解除された。

 除雪直後の道路は滑りやすいため、宿泊者には午後一時半まで待ってもらった。

 最初に一号室の姉妹が出発し、次に二号室の家族、最後に大学院生が村営車でバスの運行区間まで送られた。

 村営車の利用は、路線バス運休時の代替輸送として役場が正式に決定した。運転した森下の勤務時間も、地域交通の緊急対応として記録された。

 最後の宿泊者を見送ったあと、清澄校舎の駐車場には、雪だるまだけが残った。

 遼子は事務室で、二日間の対応を整理した。

 延長利用料、ゼロ円。

 昼食七人分、施設負担七千円。

 木工教室返金、一万四千円。

 未使用食材の一部、翌営業日へ転用。

 職員時間外勤務、合計十四時間。

 夜間待機手当、二人分。

 暖房費と除雪後の清掃費。

「雪の日、一回で、これだけ増えるんですね」

 沙織が集計表を見た。

「冬季料金を上げますか」

「すぐには決めません」

 遼子が答える。

「まず、冬季営業の条件を見直します」

 前日正午の営業判断。

 警報発令時は、宿泊者へ延期を強く勧める。

 路線バス利用者には、午前便での入村を依頼する。

 道路閉鎖時の待機、食事、延泊料金を事前に明記する。

 村営車による代替輸送は、役場が運行を決めた場合に限る。

 職員の自家用車は使わない。

 宿泊者の外出制限と、校庭の安全区域。

 家族風呂の予約方法。

 情報提供の時間。

「次からは、昼食を有料にしますか」

 由が尋ねた。

「実費をいただきます」

 遼子が答える。

「道が閉まったのに?」

「道路が閉まった責任は、宿泊者にも施設にもありません。食事には食材と人件費がかかります」

「また、怒られませんか」

「怒る方はいると思います」

「それでも?」

「予約前に説明します。納得できない方には、冬季の宿泊をおすすめしません」

 由は集計表を見た。

「客を減らすことばかり考えとるみたいですね」

「事故が起きれば、すべての営業が止まります」

「分かってます」

「来てもらうことより、無事に帰ってもらうことが先です」

 由はしばらく黙ったあと、うなずいた。

「昼の味噌汁、一杯分余ってます。誰か飲みます?」

「廃棄する前なら、職員のまかないにできます」

 遼子が答える。

「ほんなら、温めます」

「勤務時間は?」

「あと十五分あります」

「お願いします」

 由は調理室へ向かった。

     *

 一月最初の営業会議で、美月は十二月の収支と降雪時対応を報告した。

 本社側から、雪の日の写真を広報へ使いたいという要望が出た。

 校庭の雪だるま。

 白くなった校舎。

 窓から明かりが漏れる夕方の写真。

「冬の清澄校舎として、魅力的です」

 広報担当者が言った。

「道路閉鎖についても記載してください」

 美月が答える。

「写真投稿に、そこまで書く必要がありますか」

「その日の写真です」

「予約サイトには冬季条件を載せます。広報投稿は、施設の魅力を伝えるものです」

「雪景色だけを見て予約する方がいます」

「投稿から予約サイトへ誘導します」

「本文に、『積雪時は交通情報をご確認ください』と入れてください」

「魅力が弱くなります」

「安全情報です」

 広報担当者は、以前と同じように不満そうだった。

 小田切が口を挟んだ。

「入れよう」

「しかし――」

「この事業は、分かりやすい成功だけを売るために始めたわけではない」

 小田切は、画面に表示された月次報告を見た。

「田中さん、雪の日の対応で、客室の評価は下がったか」

「二号室のご家族から、説明不足という指摘がありました。全体評価は五段階中三です」

「ほかの二組は?」

「一号室は四、三号室は三です」

「満点ではないな」

「はい」

「事故は?」

「ありません」

「職員の負傷は?」

「ありません」

「村の緊急対応との混乱は?」

「代替輸送の決定に時間がかかりました。次回の手順を決めました」

「売上は?」

「昼食負担と教室中止を含め、予定より二万八千円減りました」

 小田切はうなずいた。

「その数字も、投稿には載せなくていい。だが、社内報告からは消さないでくれ」

「もちろんです」

「雪景色は使う。道路閉鎖と交通確認も書く。それでいこう」

 会議は次の議題へ移った。

 広報担当者が画面共有を切り替える。

 美月は、小田切の言葉を思い返した。

 会社は、清澄校舎を成功事例にしたい。

 その気持ちは変わっていない。

 それでも、以前よりは、都合の悪い数字も事例の一部として扱おうとしている。

     *

 一月末、清澄校舎の開業三か月報告会が開かれた。

 村民の参加者は四十九人だった。

 美月は、宿泊者数、売上、費用、利用者の居住地、職員の勤務時間、体験教室の収支、体育館利用、川音の湯の利用者数を順番に説明した。

 最後に、三か月間の収支を示した。

 事業収入、五百三十六万円。

 運営費、八百十四万円。

 差額、二百七十八万円の赤字。

 会場から、小さなどよめきが起きた。

「宿泊客が来とるのに、そんなに赤字なんか」

 敏夫が言った。

「初期研修費と開業準備費を含みます。通常運営だけを切り出した赤字は、百八十六万円です」

「それでも赤字やろ」

「はい」

「このまま、村が払い続けるんか」

「初年度と二年目は、会社の運営支援費を充てます。村が追加負担する計画にはなっていません」

「二年後は?」

「黒字化できなければ、営業規模、事業内容、外部財源を見直します」

「宿泊料金を上げたらええ」

 別の男性が言った。

「一万六千五百円でも、高いと言う人がおるぞ」

 女性が反対する。

「安くして満室にしたら?」

「三室しかないから、安くしても売れる数は増えんやろ」

 会場の中で、意見が交わされる。

 以前なら、赤字という言葉だけで、計画そのものへの賛否がぶつかったかもしれない。

 今は、料金、営業日、客室数、体験教室、職員数へ話が分かれている。

「体育館は、宿泊の売上に入っとるんか」

 源造が尋ねた。

「利用料は、施設収入に入ります。ただし、村民の健康体操と防災訓練は無料です」

「無料の利用にも、掃除と電気代がかかるやろ」

「かかります」

「なら、その金を宿が払っとるんか」

「現在は、施設全体の運営費として計上しています」

「分けた方がええんやないか」

 源造の問いに、美月はうなずいた。

「次年度から、宿泊事業、地域利用、防災機能、体験事業を分けて報告します」

「宿が赤字やと言われて、村の体操までやめられたら困るからな」

「やめません。ただし、費用は明らかにします」

 文江が手を上げた。

「藁教室も、赤字の回があったんやろ」

「一人参加の回は赤字でした」

「次から、一人なら中止にするんか」

「文江さんと相談して、最低開催人数を決めます」

「私は、一人でもやってええと思っとる」

「その場合、講師料と材料費を、参加料だけでは賄えません」

「施設の金を使うんか」

「体験事業全体の予算から補います。ほかの回の黒字で賄える範囲なら開催できます」

「毎回、一人やったら?」

「続けられません」

 美月は目を上げた。

 文江は少し寂しそうな顔をしたが、うなずいた。

「それは、しゃあないな」

 藤井が会場を見回した。

「ほかに、ご意見はありますか」

 後ろの席で、結菜が手を上げた。

「宿泊者が増えて、バスの利用者は増えましたか」

「三か月で、村外からの宿泊者のうち二十一人が路線バスを使いました」

 森下が答えた。

「バスの本数は?」

「まだ増えていません」

「検討会は?」

「月に一度、続けています。宿泊営業日に合わせた予約制の小型車を、来年度から試験運行する案が出ています」

「村の人も使えますか」

「宿泊者専用にはしません。空席があれば、通院や買い物にも使える仕組みを検討しています」

「空席があれば、ですか」

「村民の予約を先に受ける時間帯を設ける案もあります」

 結菜は、しばらく考えた。

「宿ができたからバスが増える、じゃなくて、宿の人と村の人が同じ車を使うんですね」

「その方向で考えています」

「なら、前よりはいいと思います」

 結菜は手を下ろした。

 賛成とは言わなかった。

 それでも、以前のように、未来という言葉だけを疑っている顔ではなかった。

     *

 報告会のあと、敏夫が美月のところへ来た。

「妹のこと、覚えとるか」

「清掃・調理補助へ応募された方ですね」

「まだ、仕事を探しとる」

「勤務条件は変わりましたか」

「月二日と言うたのは、義兄の介護があるからや。最近、短期入所を使えるようになった。月六日なら働ける」

「早朝勤務は?」

「月に二回なら入れるそうや」

「本人から、改めて応募していただけますか」

「空きがあるんか」

「清掃担当の一人が、家庭の事情で二月末に退職します。新しい募集を出す予定です」

「前に落ちたことは、不利にならんか」

「なりません。現在の条件で選考します」

 敏夫は、美月の顔を確かめるように見た。

「前は、言いすぎた」

「私も、説明が十分ではありませんでした」

「謝っとるわけやないぞ」

「忘れてはいません」

「ただ、今度も落ちたら、また文句は言うかもしれん」

「結果に納得できなければ、説明します」

「採れとは言わんのやな」

「言われても、選考は変えません」

 敏夫は鼻を鳴らした。

「やっぱり、頑固やな」

「よく言われます」

「颯太にも言われとるやろ」

「なぜ、佐藤さんが出てくるんですか」

「別に」

 敏夫は笑い、会場を出ていった。

     *

 その夜、美月は山路館の部屋で、三か月報告書を修正した。

 宿泊、地域利用、防災、体験事業。

 数字を四つに分ける。

 宿泊事業だけを見れば赤字。

 地域利用には、無料の活動が多い。

 防災機能は、通常時に収入を生まない。

 体験事業は、参加人数によって収支が大きく変わる。

 一つの数字へまとめれば、何が利益を生み、何が費用を必要としているか見えなくなる。

 分けすぎれば、四つが同じ建物で支え合っていることが消える。

 美月は表を作り直した。

 その途中で、私用のスマートフォンが鳴った。

 母からだった。

『ニュースで雪の校舎を見ました。美月のいるところでしょう?』

「そう」

『きれいね』

「道路が通行止めになった日よ」

『大変だったの?』

「宿泊客が帰れなくなって、昼まで待ってもらった」

『けがした人はいなかった?』

「いない」

『なら、よかった』

 母は少し黙った。

『あの工作、まだ持ってる?』

 美月は広縁を見た。

 籐の椅子の横に、段ボールと割り箸でできた小さな家がある。

 村へ来た最初の夜から、同じ場所に置いていた。

「あるよ」

『邪魔じゃない?』

「邪魔なら、もう箱へ戻してる」

『そうね』

「今度、写真を送る」

『明るい時に?』

 美月は、初日に写真を撮ろうとしてやめたことを思い出した。

「覚えてたの?」

『何を?』

「何でもない」

 通話を終えたあと、美月は工作を窓辺へ移した。

 外には雪が残り、月の光を受けて白く見える。

 工作の玄関には、幼い字で『みんなのいえ』と書かれている。

 美月はスマートフォンを構えた。

 窓の外の雪と山が入るよう、少し角度を変える。

 一枚撮る。

 画面には、傾いた段ボールの屋根と、不揃いな窓が映っていた。

 清澄校舎のように整ってはいない。

 けれど、工作の中へ入る人は、最初から決められていなかった。

 美月は写真を母へ送った。

 すぐに返信が届いた。

『お父さんも、きっと喜ぶと思います』

 美月は、その言葉へ返事をしなかった。

 父のために清澄校舎をつくったわけではない。

 父の計画を完成させたわけでもない。

 それでも、工作を残した父が、何を思っていたのかは知りたかった。

 机の上では、収支表の数字が赤いまま並んでいる。

 外には、雪の白さが残っている。

 美月は工作を広縁へ戻し、報告書の最後へ一文を加えた。

『事業継続の判断にあたっては、宿泊収支だけでなく、地域利用、防災機能、雇用、交通への効果を分けて検証する。ただし、公益性を理由に赤字を無条件で容認しない』

 保存してから、ノートパソコンを閉じた。

 赤字は、失敗を意味する数字ではない。

 だが、見ないでよい数字でもない。

 雪景色が美しいことと、道路が閉じること。

 客が来たことと、利益が残ること。

 働く場所ができたことと、働く人が疲れること。

 どれも、同じ場所で同時に起きている。

 美月は窓を少し開けた。

 冷たい空気が入り、川の音が近くなる。

 明日の朝、路面は凍る。

 清澄校舎の営業日は、三日後だった。

 美月は天気予報を一度だけ確認し、スマートフォンを伏せた。


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