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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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第二十七章 最初の一泊

十一月三日の午前五時四十分、清澄校舎の調理室には、すでに明かりがついていた。

 由が大鍋で湯を沸かし、沙織が冷蔵庫の温度を記録している。遼子は事務室で、その日の予定表を確認していた。

 美月が玄関を開けると、足元の照明が自動でついた。

 試験宿泊で指摘された玄関マットは、薄く滑りにくいものへ交換されている。引き戸には停止金具が取り付けられ、車椅子で通過する間も閉まらない。

「おはようございます」

 美月が声をかけると、遼子が事務室から顔を出した。

「おはようございます。六時半に来る予定では?」

「目が覚めました」

「何時にですか」

「四時五十分です」

「眠れましたか」

「三時間半くらいです」

「今日は夜間待機に入らないでください」

「そのつもりです」

 遼子は美月の鞄と、手にした紙袋を見た。

「それは?」

「受付で使う予備の名札と、印刷し直した案内です」

「名札は足りています」

「破損した時の予備です」

「案内も、昨日確認しました」

「村民優先時間の文字を大きくしました」

「ありがとうございます。そこへ置いてください」

 遼子が受付台の端を指した。

 美月は紙袋を置いた。

「ほかに、することはありますか」

「ありません」

「本当に?」

「式典の出席者一覧は、森下さんが持っています。取材対応は会社の広報と村長。館内案内は私。食事は由さんと沙織さん。設備は本庄さんが待機します」

「何か起きた場合は?」

「その時にお願いします」

 遼子は予定表を閉じた。

「開業日の責任者は私です」

「忘れてはいません」

「田中さんは、分かっていても手を出すでしょう」

「必要なら出します」

「必要かどうかは、こちらから言います」

 調理室から由の声がした。

「長谷部さん、昆布、どこへ置きました?」

「乾物庫の上から二段目です」

「昨日は一段目やったのに」

「片栗粉と表示が重なって見えたので、変えました」

「先に言うてください」

「移動記録に書きました」

「朝から記録を読む人、おらんでしょう」

 遼子は美月を見た。

「ほら、すでに仕事があります」

「手伝いましょうか」

「田中さんではなく、私の仕事です」

 遼子は調理室へ向かった。

 美月は受付前に一人残った。

 午前五時四十八分。

 開業式まで三時間以上ある。

 最初の宿泊客が到着するのは、午後二時の予定だった。

 清澄校舎の中には、慌ただしさより、まだ静けさの方が多く残っている。

 美月は受付台の椅子へ座った。

 仕事用のスマートフォンを開きかけ、やめた。

 代わりに、玄関のガラス越しに外を見た。

 空は少しずつ明るくなり、校庭の端に白い霧がたまっていた。

     *

 午前七時、森下が軽自動車で到着した。

 後部座席には、式典で使う折り畳み椅子と、来賓用の名札が積まれている。

「田中さん、もう来てたんですか」

「少し前です」

「少し前って、何時です?」

「五時四十分です」

「旅館を出る時、女将さんに止められませんでした?」

「起こさないように出ました」

「たぶん、気づいてますよ」

 森下は椅子を一脚持ち上げた。

「澄江さん、朝四時半には起きてますから」

 美月も椅子へ手を伸ばした。

「長谷部さんから、手を出すなと言われています」

「田中さんが?」

「はい」

「珍しいですね」

「何がですか」

「言われたことを守ってるのが」

 森下は笑い、椅子を体育館へ運んだ。

 開業式は、午前九時から四十分だけ行う。

 村長、県の担当者、創生都市開発の小田切、設計と施工の代表者が挨拶する。長い祝辞はなく、来賓紹介も名前を読み上げるだけにした。

 当初は、体育館に二百人分の椅子を並べ、地元の太鼓演奏と昼食会を行う案が出ていた。

 美月と遼子が反対した。

 開業初日に職員が式典対応へ追われれば、宿泊客を迎える準備ができない。無料の昼食を二百人分用意する費用も、人手もない。

 最終的に椅子は八十脚になった。

 式典後は午前十一時まで館内を一般公開し、そのあとは宿泊区域を閉鎖する。

「椅子、前へ詰めすぎやないか」

 体育館へ来た源造が言った。

「後ろが空いていると、寂しく見えるからです」

 森下が答える。

「来ん人がおるみたいに見えるな」

「申し込みは七十三人です」

「七人分、空くやろ」

「予備です」

「後ろへ置いたらええ」

 源造は勝手に最後列の椅子を動かそうとした。

「源造さん、手を出さないでください」

 美月が言う。

「田中さんに言われとうないわ」

「私も同じことを言われました」

「誰に?」

「長谷部さんです」

 源造は体育館の入口に立つ遼子を見た。

「この人が、今日の親分か」

「運営責任者です」

「なら、聞くけど、椅子は後ろへ置いた方がええやろ」

「今のままでお願いします」

 遼子は即答した。

「何でや」

「避難通路を確保しています」

 源造は床に貼られた目印を見た。

「ほんなら、しゃあない」

 理由が分かると、素直に引き下がった。

 文江が、藁で編んだ小さな飾りを持ってきた。

「玄関へ置いてもええですか」

「ありがとうございます。ただ、これは開業祝いとしていただくものですか。それとも、体験教室の見本としてお借りするものですか」

 遼子が尋ねる。

「そんな難しいもんやない。置いてもらえたらええだけ」

「いただいたものとして、施設で管理してもいいですか」

「ええよ」

「では、受領記録へ書きます」

「藁の輪っか一つにも、記録が要るんか」

「食べ物ではありませんが、誰からいただいたか分からなくなると困りますから」

「面倒な宿やな」

 文江はそう言いながら、うれしそうに飾りを遼子へ渡した。

     *

 午前八時を過ぎると、県と会社の関係者が到着した。

 黒田も東京から来ていた。

 玄関前で美月を見つけると、最初に腕時計を確認した。

「何時からいる」

「五時四十分です」

「一人で?」

「職員は、先に来ていました」

「お前が先ではないんだな」

「当たり前です」

「少し安心した」

 黒田は玄関の看板を見上げた。

「清澄校舎か。広報部の案より、ずっといい」

「広報部には言わないでください」

「本人たちも分かってる」

「では、最初から出さなければよかったのに」

「会社は、案を出したことが重要なんだ」

「役に立たない案でも?」

「それを俺に聞くな」

 黒田は笑い、校舎の中へ入った。

 小田切は、会社の広報担当者と一緒だった。

「田中さん、おめでとう」

「ありがとうございます」

「ここまで長かったな」

「まだ開業前です」

「あと一時間だろう」

「開業してからの方が長いです」

 小田切は一瞬だけ言葉を止め、そのあとで笑った。

「そうだったな。今日は、会社からも三社の取材を呼んでいる」

「宿泊者の撮影は許可を取ってください」

「分かっている」

「客室への立ち入りは午前十一時までです。それ以降は、宿泊者の許可があっても、職員が同伴してください」

「広報から聞いているよ」

「式典終了後の囲み取材は、二十分以内でお願いします」

「田中さん」

「はい」

「私は祝われに来たんだが」

「宿泊客は、会社の式典を見に来るわけではありません」

 小田切は美月の顔を見た。

「変わらないな」

「何がですか」

「会社へ言いにくいことを、言いやすく包まないところだ」

「包んだ方がよかったですか」

「いや。そのままでいい」

 小田切は広報担当者を連れ、体育館へ向かった。

     *

 開業式は、予定どおり午前九時に始まった。

 壇上には、紅白の幕を張らなかった。

 旧清澄小学校の校章が残る緞帳と、保護板の中にある古い梁を、そのまま見せた。

 司会は森下が務めた。

「本日、旧清澄小学校は、宿泊、交流、体験、防災の機能を持つ清澄校舎として、新たに開業します」

 体育館には、村民、元住民、工事関係者、県職員、会社関係者、報道関係者が座っている。

 後ろの壁際には、結菜が立っていた。

 美月と目が合うと、小さく頭を下げた。

 山根村長は、用意された原稿を見ずに話した。

「十年前に学校が閉まった時、この建物をどうするか、村は決められませんでした。壊せという人も、残せという人もおりました。どちらも間違いではなかったと思います」

 会場は静かだった。

「今日、宿ができたからといって、村の問題がなくなるわけではありません。人口も、交通も、医療も、学校も、変わらず課題のままです」

 会社の広報担当者が、手元の原稿から顔を上げた。

 村長は続けた。

「この建物だけで村が救われるとは、私らも思っていません。それでも、閉めたままにせず、もう一度、人が入る場所にすることを選びました。その選択が正しかったかどうかは、今日ではなく、これから決まります」

 美月は壇上の横で聞いていた。

 成功という言葉は、一度も使われなかった。

 県の高瀬理恵は、補助金が建物の完成だけでなく、地域交通や雇用との連携へ活用されることを期待すると話した。

 小田切は、企業として運営に関わり続ける責任を述べた。

「当社にとっても、本日は完成ではありません。投資を行った以上、収支、雇用、地域への影響を検証し、結果を公表します」

 美月が事前に求めた内容だった。

 言葉だけにならないよう、報告項目と時期は協定書へ入れてある。

 最後に、清澄小学校の卒業生を代表して源造が壇上へ上がった。

「代表と言われましたけど、わしを代表に選んだ覚えはない人もおると思います」

 会場のあちこちから笑いが起きた。

 山路館で澄江から聞いた言葉と同じだった。

「学校を残せと言うた人の中にも、宿にするのは違うと言う人がおります。壊せと言うた人の中にも、できたら使いたいと言う人がおります。人の考えは、そんなにきれいに二つには分かれません」

 源造は、止まった時計のある方角を見た。

「わしも、何が正しいかは分かりません。ただ、昔の学校へ戻したいとは思ってません。子どもがおらんのに、学校へ戻しても仕方ないからです」

 笑いは起きなかった。

「ここで金をもらって木工を教えます。村のためやから無料でやれと言われたら、断ります。泊まった人が何も買わず、何もせず帰っても、文句は言いません。来た人は、村を救うために来るんやないからです」

 美月は、源造が自分で用意した言葉を聞いた。

「ただ、また来たいと思う人がおったら、その時は、もう一度来てもらえたらええ。今日、言えるのはそれだけです」

 拍手が広がった。

 予定では、源造の挨拶は三分だった。

 実際には四分半かかった。

 美月は止めなかった。

     *

 式典後の館内公開には、百人近くが参加した。

 申し込みをしていなかった住民も来た。

 玄関で人数を数え、二十人ずつに分けて案内した。

 客室の入口には、靴を脱いで入るよう表示してある。

 それでも、最初の組で、土足のまま二号室へ入ろうとした男性がいた。

「ここ、学校やった時は土足やったぞ」

「現在は客室ですので、靴を脱いでください」

 沙織が答える。

「ちょっと見るだけや」

「見るだけでもお願いします」

「面倒やな」

 男性は不満そうに靴を脱いだ。

 別の女性は、客室の押し入れを開けた。

「布団、見てもええ?」

「今日はご遠慮ください」

 麻子が答えた。

 この日は非常勤職員として案内に入っている。

「麻子ちゃんやないの。帰ってきたん?」

「大阪の仕事を続けながら、月に何日か働きます」

「何や、帰ってきたんやないの」

「はい。今日は仕事中なので、押し入れは開けないでください」

「昔は、ここに跳び箱を入れとったんや」

「その話は、あとで聞かせてください」

 麻子は笑顔を崩さず、押し入れを閉じた。

 女性が部屋を出たあと、麻子は小さく息を吐いた。

「知ってる人ほど、断りにくいですね」

「施設の決まりとして伝えてください」

 遼子が言う。

「分かってます。でも、名前を呼ばれると、麻子ちゃんに戻るんです」

「戻っても、仕事はできます」

「そうですかね」

「今、できていました」

 麻子は閉じた押し入れを確認し、次の見学者を迎えた。

 体育館では、避難所記録の一部を紹介する展示が行われていた。

 原本は鍵のかかる保管庫に置き、複製した二ページだけを展示している。個人名や健康情報は見えないよう処理した。

 報道関係者の一人が、森下へ尋ねた。

「原本を撮影できませんか」

「できません」

「箱から見つかった状態だけでも」

「個人情報が含まれています」

「歴史的価値がありますよね」

「だからこそ、扱いを決めるまで公開しません」

「住民の同意は取れないんですか」

「すでに亡くなった方や、連絡先の分からない方もいます」

「村の判断で公開することは?」

「しません」

 森下は言い切った。

 以前なら、美月の顔を見て判断を求めたかもしれない。

 今は、自分で答えている。

 取材者は質問を変えた。

「田中さんのお父様が、過去にこの村の開発へ関わっていたと伺いました」

 美月は足を止めた。

「どなたから聞きましたか」

「関係者への取材で知りました。今回の事業は、お父様の計画を引き継いだものですか」

「違います」

「親子二代の地域再生として紹介できると思うのですが」

「そのような事実はありません」

「でも、お父様も村の未来を考えていた」

「過去の計画と、現在の事業は別です」

 取材者は手帳へ何かを書いた。

「個人的な思いはありませんか」

「今日、開業したのは清澄校舎です。私個人や父の物語へ置き換えないでください」

 美月の声が、予定より強くなった。

 近くにいた黒田が、取材者と美月の間へ入った。

「その件は、会社広報を通してください。今日は施設の運営内容を中心にお願いします」

「田中さんご本人の言葉を聞きたかっただけです」

「今、答えました」

 黒田は穏やかな声で言った。

「引き継いだものではない、というのが本人の回答です」

 取材者は引き下がった。

 美月は体育館の外へ出た。

 廊下の窓から、校庭が見える。

 一般公開へ来た人たちが、看板や校舎を撮影している。親子二代、父の果たせなかった夢、娘による再生。記事にしやすい言葉が、いくつも頭に浮かんだ。

 どれも、今ここで働く人や暮らす人を、背景へ押しやってしまう。

「大丈夫か」

 黒田が追ってきた。

「はい」

「質問が出る可能性は伝えておくべきだった」

「会社は知っていたんですか」

「取材申請の中に、家族の関係を聞きたいという項目があった。広報が施設との関係はないと回答した」

「私は聞いていません」

「悪かった」

 黒田は言い訳をしなかった。

「今日の記事に、父のことを入れないよう依頼してください」

「報道内容へ会社から命令はできない」

「では、事実関係を文書で渡してください」

「分かった」

「私の父の計画と、現在の事業は継続関係にないこと。事業主体も資金も計画内容も違うこと。村が過去の計画を肯定したわけではないこと」

「すぐ作る」

「今日中にお願いします」

「分かったと言ってる」

 黒田は少し声を強めた。

 それから、表情を緩めた。

「お前が怒るのは当然だ。ただ、取材者も、物語が欲しい」

「事実を曲げてまで必要ですか」

「必要かどうかではなく、分かりやすいからだ」

「分かりやすくないものを、分かりやすくするために変えないでください」

「それも含めて、広報へ伝える」

 黒田は体育館へ戻った。

 美月は窓辺に残った。

 校庭の隅では、颯太が見学者の一人に、外壁へ使った杉板について説明している。

 その声は聞こえない。

 けれど、相手の質問へ短く答え、板の継ぎ目を指で示している姿が見えた。

 父ではなく、今ここにいる人の手で建物は直された。

 美月は腕時計を見た。

 午前十時四十分。

 一般公開の終了まで、あと二十分だった。

     *

 午前十一時、宿泊区域の扉を閉じた。

 見学者が全員退出したことを確認し、客室の点検と清掃を始める。

 二号室の畳には、靴下へ付いていたらしい小さな泥が落ちていた。

 三号室の机には、誰かが置いた菓子の包み紙が残っていた。

 一号室の洗面台には、水滴が広がっている。

「見学だけでも、汚れるんですね」

 沙織が言った。

「人が入れば汚れます」

 由は畳を拭きながら答えた。

「学校の時も、朝掃除して、昼には砂だらけやった」

「今日の清掃時間、予定は一時間です」

 遼子が時計を見た。

「三人で分担します。一号室は沙織さん、二号室は由さん。三号室は私。麻子さんは予約確認と夕食の名簿」

「私も清掃へ入れます」

 麻子が言う。

「オンライン予約に、連絡未確認が二件あります」

「あとでやります」

「あとでは、夕食準備と受付が重なります」

 遼子は首を振った。

「今日、全部を全員でやろうとしないでください」

 麻子は一度うなずき、事務室へ向かった。

 美月は清掃道具を持とうとしたが、遼子に止められた。

「田中さんは、取材対応の確認をしてください」

「清掃は足りていますか」

「足りています」

「本当に?」

「二度聞いても答えは同じです」

 美月は手を引いた。

 任せることは、何もしないことではない。

 それでも、目の前で人が働いている時に、自分だけ別のことをするのは落ち着かなかった。

 仕事を抱えることより、渡すことの方が難しい。

     *

 最初の宿泊客、松岡英一と妻の和子は、午後一時五十二分に到着した。

 予定より八分早い。

 二人は名古屋から車で来ていた。

 英一は六十二歳。紺色の上着に、履き慣れた運動靴を合わせている。和子は六十歳で、折り畳み式の杖を持っていた。

 車が駐車区画へ入ると、遼子と沙織が玄関前へ出た。

 美月は事務室から様子を見ていた。

 予約者の名前も、移動経路も、足の状態も確認済みだった。

 だから、美月が出る必要はない。

「田中さん、行かないんですか」

 森下が隣で尋ねた。

「長谷部さんたちが対応します」

「最初のお客さんですよ」

「特別扱いはしません」

「挨拶くらいは?」

「あとでします」

 英一は車を降りると、校舎を見上げた。

 しばらく動かなかった。

 玄関の上の時計を見る。

「止まったままなんですね」

 遼子へ最初に言った言葉が、それだった。

「はい。建物の中に、新しい時計があります」

「三時十八分」

「ご存じでしたか」

「写真で見ました。学校におった頃は、ちゃんと動いとったんですけどね」

 和子が助手席から声をかけた。

「あなた、先に荷物を下ろして」

「ああ、そうやった」

 英一は後部座席を開けた。

 大きな旅行鞄を自分で持とうとしたが、持ち手を引いたところで腰を押さえた。

「お持ちします」

 沙織が言う。

「これくらい大丈夫です」

「玄関まで運びます。貴重品は、ご自身でお願いします」

 英一は少し迷い、旅行鞄を沙織へ渡した。

 和子は杖を広げ、ゆっくり車から降りた。

「坂、大丈夫ですか」

 遼子が尋ねる。

「これくらいなら。でも、帰りは下りでしょう」

「必要なら、車を玄関前まで移動します」

「雨が降ったら、お願いします」

「理解しました」

 会話は、試験宿泊で決めた手順どおり進んでいる。

 美月は事務室を出た。

「松岡様。本日はありがとうございます」

 英一が振り向いた。

「田中さんですか」

「はい」

「電話で、床板のことを聞いた松岡です」

「覚えています」

「来ましたよ。本当に泊まれるようになったんですね」

「はい」

 英一は玄関の中を見た。

「妻を連れてくるまで、長いことかかりました」

「私が渋ったみたいに言わないで」

 和子が言った。

「そうやなくて、学校へ来るまでに四十年以上かかったという意味や」

「それなら、そう言って」

 英一は困ったように笑った。

「昔から、言葉が足りんのです」

「存じています」

 和子は美月へ笑いかけた。

「今日は、この人の思い出話に付き合いに来ました。長くなったら、止めてください」

「私が止めるんか」

「自分では止まらないでしょう」

 遼子が二人を受付へ案内した。

 最初の宿泊者名簿へ、英一が住所と緊急連絡先を書く。

 和子は館内案内を読み、川音の湯の村民優先時間で指を止めた。

「六時半まで、入れないんですか」

「村民の方が優先です。一般の方がまったく入れないわけではありませんが、混雑時はお待ちいただきます」

 沙織が答えた。

「夕食が七時ですよね」

「今日は、夕食を七時半へ変更することもできます」

「宿泊者は、先に入れると思っていました」

 英一が言った。

「宿泊者専用の温泉ではありません」

 遼子は穏やかに答えた。

「村の方が以前から利用している時間を残しています。午後六時半以降なら、比較的ゆっくり入れます」

「昔、村に住んどった人も村民扱いにはならんのですか」

 英一の問いに、受付の空気がわずかに変わった。

「現在、村に住んでいる方が対象です」

 遼子が答えた。

「そうですか」

 英一は少し残念そうだった。

 美月は口を挟まなかった。

 村出身だから、特別な権利が戻るわけではない。

 麻子の試験滞在で伝えたことと同じだった。

「家族風呂もあります」

 沙織が案内図を示した。

「二人で入れるんですか」

 和子が尋ねる。

「はい。五時半から一時間、空いています」

「私は、そちらがいいです」

「温泉へ行かんのか」

「暗い道を歩きたくないもの」

「せっかく来たんやで」

「あなた一人で行ってきたらいいでしょう」

 英一は妻と案内図を見比べた。

「なら、今日は家族風呂にします」

 その答えを聞き、和子の表情が柔らかくなった。

「川音の湯は、明日の朝に行けますか」

「午前七時から営業しています」

「朝なら、私も歩けます」

「では、明朝の天候を見てご案内します」

 沙織が予約表へ書き込んだ。

 宿泊者だから優先するのではなく、二人に合う方法を選ぶ。

 最初の受付には、十七分かかった。

 予定より七分長い。

 遼子は急がせなかった。

     *

 一号室へ入ると、英一はすぐに窓へ向かった。

「ここ、保健室だったんですよね」

「はい」

「私は、あまり来たことがない」

「健康だったんですね」

 沙織が言う。

「授業を抜けるほどの知恵がなかっただけです」

 和子が答えた。

「この人、先生の言うことをよく聞く子だったらしいですから」

「悪いことみたいに言うな」

「悪いとは言ってません」

 英一は窓の外を見た。

 校庭の向こうに、杉の山がある。

「もっと広いと思ってました」

 試験滞在の時、麻子も同じことを言った。

 記憶の中で、校舎と校庭は大きくなるのかもしれない。

「昔は、サッカーゴールがあった」

 英一が言う。

「鉄棒も、ブランコも。あの端に焼却炉があって、掃除のあと、紙を持っていった」

「今なら問題になりますね」

 美月が答える。

「当時は普通でした」

「普通だったことが、ずっと正しいとは限りません」

「分かっています」

 英一は少し寂しそうに笑った。

「思い出を話すたび、今ではできんことばかりです」

「できたこともあるでしょう」

 和子が椅子へ腰を下ろした。

「運動会とか、遠足とか」

「運動会は、地区ごとの競争が激しくてな。大人まで本気で走った」

「それは今も話せるでしょう」

「でも、今は子どもがおらん」

「いない子どもの話をするんじゃなくて、自分が子どもだった話をすればいいの」

 和子は窓際の椅子の背へ手を置いた。

「この椅子、少し低いですね」

 沙織がすぐに近づいた。

「別の椅子をお持ちします」

「立つ時に膝が痛いので、高い方が助かります」

 試験宿泊で、ベッドの高さは確認した。

 椅子の高さまでは、利用者ごとに確認していなかった。

 沙織が交流室から椅子を運んできた。

 和子は座り直し、何度か立ち上がった。

「こちらの方が楽です」

「この椅子を、お部屋へ置いておきます」

「ありがとう」

 英一の思い出だけを聞いていれば、和子の膝の痛みを見落としていた。

 宿へ来たのは、卒業生だけではない。

 その人と暮らしてきた妻も、一緒に泊まる客だった。

     *

 午後三時、清澄校舎の一般利用が始まった。

 体育館では、住民の健康体操が行われる。

 開業式に参加した人の多くは帰ったが、二十六人が着替えて戻ってきた。

「今日くらい、休みにしたらよかったんやないか」

 藤井が言った。

「毎週月曜と木曜に使う約束です」

 遼子が答える。

「開業日だけ特別でも」

「開業した日から、通常の利用を始めます」

 体育館の扉が開き、体操用の音楽が流れた。

 一号室まで、低い振動が伝わる。

 試験宿泊では、椅子を動かす音を確認した。しかし、音楽を実際の音量で流したのは初めてだった。

 英一が廊下へ出てきた。

「何の音ですか」

「住民の健康体操です」

 美月が答えた。

「宿泊中も、体育館を使うんですね」

「はい。午後四時までです」

「学校らしいな」

 英一は笑った。

「私らも見ていいですか」

「体育館の入口からなら構いません。ただし、参加者を撮影しないでください」

「分かりました」

 和子も部屋から出てきた。

「あなた、参加したら?」

「急に入ってええんか」

「体操教室の方へ確認します」

 沙織が体育館へ走ろうとした。

「走らないでください」

 遼子が呼び止める。

「すみません」

 沙織は歩き直した。

 教室の講師に確認すると、英一と和子も参加できることになった。

 和子は椅子に座ったまま、腕と肩を動かす。

 英一は最後列に立ち、周囲の動きをまねた。

 途中で、同級生らしい男性が英一に気づいた。

「松岡か?」

「川上?」

 二人は体操の最中に声を上げた。

 講師が振り返る。

「話すなら、終わってからにしてください」

「すみません」

 英一が頭を下げた。

 川上は笑いをこらえながら、前へ向き直った。

 体操が終わると、二人は体育館の隅で顔を見合わせた。

「五十年ぶりか」

「そこまでは経ってない。四十五年くらいや」

「同じやろ」

「違う」

 英一の声は弾んでいた。

 和子は少し離れた椅子へ座り、その様子を見ている。

 美月は彼女の隣へ行った。

「お疲れではありませんか」

「大丈夫です。いつも、あんな顔で昔の話をするんです」

「楽しそうですね」

「楽しそうでしょう」

 和子は夫を見た。

「だから、来るのを嫌がっていたわけではないんです。ただ、私はこの村を知らないから、話に入れないことが多くて」

「はい」

「今日も、ずっと昔のことばかりなら、早く帰りたいと思っていたかもしれません」

「体操はどうでしたか」

「楽しかったです。あれなら、私にも今の話ができます」

 和子は自分の膝をさすった。

「泊まる人と、村の人が同じことをする時間があるのはいいですね。でも、毎回参加しろと言われたら、嫌です」

「参加は自由です」

「そこを、ちゃんと書いた方がいいです。地域交流と聞くと、知らない人と話さないといけない宿みたいに思う人もいるから」

 美月はスマートフォンのメモへ入力した。

『館内案内――地域利用への参加は任意と明記』

「また仕事を増やしました?」

 和子が尋ねる。

「必要な修正です」

「真面目ですね」

「よく言われます」

「褒めてるんですよ」

 美月は、少し遅れてうなずいた。

     *

 午後四時十五分、健康体操を終えた住民のうち五人が、交流室へ入った。

 机には、松岡夫妻の夕食用の献立表と、翌朝の案内が準備されている。

「ここでお茶飲んでもええやろ」

 一人が由へ尋ねた。

「今日は宿泊の準備中です」

「四時までは、村の人も使えるんやなかった?」

「交流室の一般利用は、午後四時までです」

「十五分くらい、ええやないか」

 由は困った顔をした。

 相手は、普段から惣菜を買いに来る知り合いだった。

「長谷部さん」

 由が呼ぶ。

 遼子は交流室へ入り、壁の時計を見た。

「申し訳ありません。今日は、ここまでです」

「開業した日に、村の者を追い出すんか」

「追い出すのではありません。宿泊者を迎える準備へ切り替える時間です」

「空いとるやろ」

「今は空いています。ただ、午後五時から食事の準備に使います」

「一時間も前やないか」

「机の消毒と食器の準備をします」

 男性は納得しない顔をした。

「学校は村のもんやった」

「今も村の施設です」

「なら、村の者が使って何が悪い」

「決めた時間内なら使えます」

 遼子は声を変えなかった。

「いつでも使える施設にすると、宿泊者が安心して過ごせません。村の方にも、宿泊者にも、使える時間を守っていただきます」

「東京の会社が決めたんか」

「運営会議で決めました。村役場も参加しています」

 男性は由を見た。

「由ちゃんも、それでええんか」

 由は一度視線を落とした。

「今日は、片づけます」

「前なら、茶くらい出してくれたのに」

「前は、宿やなかったから」

 由は答えた。

「明日の午後なら、三時まで使えます。お茶は、自分で持ってきてください」

「金取るんか」

「無料のお茶は出しません」

「けちになったな」

「仕事ですから」

 男性はしばらく由を見たあと、仲間と交流室を出た。

 廊下の向こうで、「使いにくい施設になった」と話す声が聞こえた。

 由は机の上の献立表を持ち上げた。

「感じ悪かったですかね」

「必要な説明でした」

 遼子が答えた。

「知ってる人に、けちと言われるのは嫌ですね」

「はい」

「でも、毎回お茶を出したら、片づけるのは私らでしょう」

「そうなります」

「なら、断るしかないですね」

 由は布巾を取り、机を拭き始めた。

「明日、惣菜を買いに来んかもしれんけど」

「それは困りますか」

「困るけど、仕方ないです」

 由は笑わなかった。

 仕事の線を引くことは、関係の線を引くことでもある。

 村の中では、その二つが簡単に分かれない。

     *

 夕食は、午後七時半から交流室で提供した。

 家族風呂を使ったあと、松岡夫妻は少し早く席へ着いた。

 英一は健康体操で再会した川上と連絡先を交換し、翌朝また会う約束をしていた。

「一日で、だいぶ予定が増えたね」

 和子が言う。

「せっかく来たんやから」

「私との旅行でしょう」

「一緒に会えばええ」

「昔話に入れないって、さっき言ったでしょう」

「なら、朝は二人で温泉へ行って、そのあと一時間だけ会う」

「一時間で終わる?」

「終わる」

「四十五年分あるのに?」

 英一は言葉に詰まった。

「昼までには出る」

「十一時がチェックアウトでしょう」

「そうやった」

 和子は笑った。

 夕食には、試験宿泊と同じ栗ごはんを出した。煮物、川魚、白和えのほか、季節の野菜を使った小鉢が二品並ぶ。

「懐かしい味ですか」

 由が尋ねた。

「栗ごはんは、母が秋に作りました」

 英一が答えた。

「でも、こんなにきれいには盛らんかった」

「それは余計です」

 和子が言う。

「家で食べるものと、宿で出すものは違うでしょう」

「そうやな」

 英一は栗を一つ口へ入れた。

「味も違う」

「おいしくないですか」

 由が身構える。

「いや、おいしいです。母の味とは違うというだけで」

「違って当然です」

 由が答えた。

「私、お母さんに習ってませんから」

 英一は一瞬驚き、そのあとで笑った。

「そうですね。勝手に同じものを探してました」

「同じ味を出せと言われても、無理です」

「出さなくていいです」

 英一は、もう一口食べた。

「今の味で、おいしいです」

 由の表情が少し緩んだ。

 和子は白和えを食べ、由へ作り方を尋ねた。

 豆腐の水切り時間、胡麻の量、砂糖をほとんど使わないこと。

 二人の会話に、英一の昔話は入ってこなかった。

 それでも英一は、退屈そうには見えなかった。

 妻が自分の知らない村の味を尋ねるのを、静かに聞いている。

     *

 午後九時、松岡夫妻は一号室へ戻った。

 遼子と沙織が夕食の片づけを終え、由は勤務表どおりに帰宅した。

 麻子は最終のバスに間に合うよう、午後八時で勤務を終えている。

 美月は、事務室でその日の記録を確認した。

 式典参加者七十六人。

 館内公開九十八人。

 健康体操二十八人。うち宿泊者二人。

 宿泊者二人、一室。

 売上三万三千円。

 売店の木製しおり二点、千二百円。

 体験教室と体育館利用の収入は、今日はない。

 人件費、食材費、光熱費、式典費、取材対応費。

 開業初日だけを切り取れば、赤字だった。

「今日の収支、今から出すんですか」

 遼子が尋ねた。

「概算だけです」

「明日にしてください」

「数字は入れました」

「では、閉じてください」

「まだ、一般公開後の清掃時間が――」

「閉じてください」

 遼子は美月の前へ、湯のみを置いた。

「宿泊者が寝てから、今度は田中さんが倒れたら困ります」

「倒れません」

「由さんのまかないが残っています。食べましたか」

「まだです」

「先に食べてください」

「空腹ではありません」

「朝も食べてないでしょう」

 美月は答えなかった。

「澄江さんから聞きました」

「女将さんが?」

「朝五時半に電話がありました。田中さんが朝食を食べずに出たので、何か食べさせてくれと」

「そこまで連絡しなくても」

「心配されるような出方をしたからです」

 遼子は事務室の奥から、弁当箱を持ってきた。

 小さなおにぎりが二つと、煮物が入っている。

「食べ終わったら、山路館へ戻ってください」

「夜間対応は?」

「私と沙織さんで行います」

「開業初日です」

「だから?」

「最後まで確認します」

「最初から最後まで田中さんが確認しないと開けない施設なら、私は辞めます」

 美月は遼子を見た。

 遼子は冗談を言っている顔ではなかった。

「それは困ります」

「なら、任せてください」

「何かあったら連絡してください」

「必要なら連絡します」

「固定電話と携帯電話、両方へ」

「はい」

「停電したら――」

「試験宿泊で経験しました」

「承知しました」

 美月はノートパソコンを閉じた。

 弁当箱を開け、おにぎりを一つ食べる。

 冷めていたが、塩の味がした。

     *

 山路館へ戻る途中、赤い橋の手前に颯太がいた。

 軽トラックを道の端へ停め、川沿いの柵へ寄りかかっている。

「こんな時間に、何をしてるんですか」

 美月が尋ねる。

「田中さんを待ってました」

「私を?」

「長谷部さんから、九時半頃に追い出す予定やと聞いたんで」

「追い出されたわけではありません」

「戻ってきたなら、同じでしょう」

 颯太は紙袋を差し出した。

 中には、缶入りの温かいお茶が入っていた。

「自動販売機、ないでしょう」

「役場の横にあります」

「遠回りになる」

 美月は缶を受け取った。

「ありがとうございます」

「開業、どうでした」

「館内公開で、想定より汚れました。交流室の利用時間を守らない方がいました。取材対応にも問題がありました。客室の椅子の高さも――」

「聞き方を間違えました」

 颯太が遮った。

「最初のお客さんは、泊まれそうですか」

「今のところ、問題ありません」

「なら、よかった」

「まだ朝まで分かりません」

「朝まで何も起きんかったら、次は次の客の心配をするんでしょう」

「当然です」

「いつまで心配したら終わるんですか」

「終わりません」

 美月が答えると、颯太は川の方を見た。

 夜の水面は見えない。白い流れが岩へ当たる音だけが聞こえる。

「今日、取材の人に聞かれました」

 颯太が言った。

「田中さんは、この村を救った人ですかって」

「何と答えたんですか」

「そんな人はおらんと言いました」

 美月は缶を両手で持った。

「正しいと思います」

「そしたら、村が一つになった象徴ではないですかって聞かれた」

「一つにはなっていません」

「そう言いました」

「記事には使われないでしょうね」

「たぶん」

 颯太は笑った。

「分かりやすくないから」

 黒田と同じことを言う。

 記者が欲しい答えと、村で起きていることは違う。

「でも、一組泊まっとるんでしょう」

「はい」

「一組分の宿にはなったんや」

 颯太は校舎のある坂道の方を見た。

「それ以上でも、それ以下でもない」

「売上は三万三千円です」

「今、金額を言うところですか」

「一組分を正確に言っただけです」

「そうですか」

「赤字ですけど」

「それも今、言わんでええでしょう」

 美月は缶のお茶を開けた。

 白い湯気が、冷たい空気へ消える。

「佐藤さん」

「はい」

「今日は、ありがとうございました」

「看板を付けただけです」

「取材にも対応してくれました」

「仕事の邪魔にならん範囲で」

「開業式には出ませんでしたね」

「人が多かったから」

「校舎の外にいたでしょう」

「木の説明を頼まれたんです」

「体育館に入らなかった理由は?」

 颯太は少し黙った。

「兄貴の跡があるから、というわけやないですよ」

「私は、何も言っていません」

「聞きそうな顔をしてました」

「どんな顔ですか」

「仕事の顔です」

 美月は眉を寄せた。

「今も仕事の顔ですか」

「少し違います」

「どう違うんですか」

「疲れた顔です」

 美月は返事をしなかった。

「今日は、寝た方がええです」

 颯太が言った。

「皆さんに、同じことを言われます」

「なら、一回くらい聞いたらええ」

 颯太は軽トラックへ戻った。

「旅館まで送ります」

「歩いて五分です」

「暗いんで」

「道は分かります」

「知ってます」

 颯太は助手席の扉を開けた。

「でも、今日は送ります」

 美月は少し迷い、軽トラックへ乗った。

 座席には、木屑と土が付いている。

 颯太が手で払おうとした。

「そのままで構いません」

「服、汚れますよ」

「今日は、作業着です」

 美月は村へ来た初日に泥を付けたパンプスを思い出した。

 今は、防水靴を履いている。

 軽トラックは、川沿いの短い道をゆっくり走った。

     *

 翌朝、午前六時三十五分。

 美月が清澄校舎へ着くと、一号室の扉が開いていた。

 英一が廊下の窓際に立っている。

「おはようございます」

「おはようございます。早いですね」

「目が覚めました」

「川の音ですか」

「それもあります」

 英一は廊下の床を見た。

「昨日、寝る前に歩いてみたんです。昔の教室がどこだったか、思い出そうと思って」

「見つかりましたか」

「六年の教室は、今の三号室らしいです。でも、中には入ってません。ほかのお客さんの部屋になる場所でしょう」

「今日は空室ですが、宿泊区域です」

「承知しています」

 英一は窓枠へ手を置いた。

「来る前は、自分の学校やと思ってました」

「卒業された学校です」

「ええ。でも、もう自分の場所やない」

 美月は何も言わなかった。

「最初は、少し寂しかったです。温泉も村民優先やし、客室にも勝手に入れん。昔の友達と遅くまで話すこともできん」

「申し訳ありません」

「謝ってほしいんやないです」

 英一は首を振った。

「自分の場所やないから、泊まれるんやと思いました」

「どういう意味ですか」

「昔のまま残っていたら、私は、ここへ来て廊下を歩いただけで帰ったかもしれません。誰かに管理してもらわんでも、自分の学校やと言えたから」

 英一は新しい誘導灯と、古い床板を見比べた。

「今は金を払って、決まりを守って泊まる。そうせんと、次の人が使えんのでしょう」

「はい」

「妻も、ここならまた来てもええと言いました」

「昨日は楽しんでいただけましたか」

「楽しんだと思います。私より、由さんと話しとった時間の方が長かったけど」

「それは、よかったです」

「田中さん」

「はい」

「私は、昔へ帰りたかったんやないと思います」

 英一は校庭の向こうを見た。

 朝霧が低く下り、山の下半分を隠している。

「なくなってないと、確かめたかっただけです」

 美月も目を伏せた。

「建物は、かなり変わりました」

「それでええです。何も変わってなかったら、怖いでしょう」

 英一は笑った。

「人間だけ年を取って、学校だけ昔のままやったら」

 和子が一号室から顔を出した。

「あなた、温泉へ行くんでしょう」

「今、田中さんと話しとる」

「朝食に遅れるよ」

「まだ六時半や」

「歩くのに時間がかかるでしょう」

 和子は美月を見た。

「この人、朝から長話してませんでした?」

「少しだけです」

「止めてくださいって、昨日お願いしましたよね」

「今、終わりました」

 英一は不満そうだったが、部屋へ戻った。

 和子も扉を閉める。

 廊下に、再び静けさが戻った。

     *

 松岡夫妻は、午前十時四十分にチェックアウトした。

 宿泊料金三万三千円と、木製しおり二点の代金を支払った。

 英一は現金ではなく、カードを使った。

 決済端末が一度、通信エラーを起こした。

 沙織は慌てず、事務室の有線端末へ切り替えた。

 二度目で決済が完了する。

「これも記録ですね」

 英一が言った。

「はい。改善します」

 遼子が答える。

「改善できないこともありますよ」

「通信回線そのものは難しいですが、代わりの方法は増やせます」

「なら、次に来た時は、最初から有線で払います」

「また来ていただけますか」

「今度は、川上と一緒に木工をやります。妻が来るかは分かりませんけど」

「私は、白和えを習う日なら来ます」

 和子が言った。

「料理教室は、まだ予定にないです」

 由が答える。

「やる時は、料金を取ってくださいね」

「分かってます」

 由は笑った。

「無料では教えません」

 玄関前で、沙織が二人の写真を撮った。

 校舎と看板を背景にする。

 英一は時計を見上げ、和子は夫ではなくカメラを見た。

「もう一枚、二人ともこちらを見てください」

 沙織が言う。

「私は見てます」

 和子が答えた。

「あなたが時計ばかり見てるの」

「分かった」

 二枚目は、二人ともカメラを見た。

 車が駐車場から出る。

 英一が運転席の窓を開け、手を振った。

 和子も助手席から頭を下げた。

 車が坂道を下り、見えなくなる。

 遼子は腕時計を確認した。

「客室点検を始めます」

 沙織と由が一号室へ向かった。

 感傷に浸る時間はなかった。

 次の営業日へ向けて、寝具、設備、忘れ物を確認しなければならない。

 美月は受付へ戻った。

 机の上には、宿泊者アンケートが二枚置かれている。

 英一の用紙には、『満足』へ丸が付いていた。

 自由記入欄には、こうある。

『学校の記憶を残しながら、今の人が使う場所になっていました。次は木工教室へ参加したいです』

 和子の用紙には、『やや満足』へ丸が付いている。

『椅子をすぐ替えていただき助かりました。村のことを知らない人でも過ごせる案内が、もう少しあるとよいです。夕食はおいしかったです。地域交流は自由参加だと、予約前に分かるようにしてください』

 二人の評価は、同じではなかった。

 美月は、それでよいと思った。

     *

 午前十一時過ぎ、本社から社内チャットが届いた。

 開業式の写真とともに、広報部が作成した文章が掲載されている。

『廃校再生による清澄村活性化の新たなモデルが始動。官民連携により、地域の未来を支える交流拠点が誕生しました』

 社員から、次々と祝福の絵が送られている。

『田中さん、おめでとうございます』

『大成功ですね』

『次の展開も楽しみにしています』

 その中に、岡部からのメッセージがあった。

『開業おめでとう。ただ、田中ならもう初日の修正点を数えてるだろ』

 美月は、机の上の記録を見た。

 開業初日の改善点、三十六件。

 カード決済の通信。

 一般公開後の清掃時間。

 地域利用の終了時刻。

 客室椅子の高さ。

 温泉案内。

 地域交流への参加が任意であること。

 取材者への事実説明。

 夜間待機。

 宿泊者一組。

 売上三万四千二百円。

 美月は社内チャットへ返信した。

『ありがとうございます。初日の有料宿泊は一組二名。売上三万四千二百円。運営上の改善点は三十六件でした。次回営業日までに、優先度を付けて対応します』

 送信すると、祝福の絵が一度止まった。

 数秒後、岡部から返事が来た。

『了解。ちゃんと始まったな』

 大成功でも、完成でもない。

 一組が泊まり、二人が料金を払い、朝に帰った。

 不便だったことを伝え、また来るかもしれないと言った。

 それが、清澄校舎の最初の一泊だった。

 受付の端には、昨日まで空だった宿泊台帳がある。

 最初の行に、松岡英一、松岡和子と記されている。

 美月は台帳を閉じ、改善点の一覧を遼子へ渡した。

「次の家族は、十一月十日です」

 遼子が言った。

「小学生のお子さんが一人。りんごジュースは発注済みです」

「地域交流への参加が自由であることは?」

「予約確認で伝えました」

「温泉の道は?」

「昼間に案内します。夜は家族風呂を予約されています」

「カード決済は?」

「有線端末を受付へ移します」

「黒板の説明は?」

「今日中に表示を付けます」

 遼子は改善点の紙を折った。

「田中さん」

「はい」

「次のお客様が来るまで、七日あります」

「はい」

「三十六件全部を、七日で直そうとしないでください」

「優先度を付けます」

「本当に?」

「安全、料金、予約情報に関わるものから対応します」

「残りは?」

「次回以降です」

 遼子はうなずいた。

「なら、始めましょう」

 調理室から、食器を洗う音が聞こえてくる。

 体育館では、午後の利用に備えて、床を清掃する機械が動き始めた。

 玄関の外では、清澄校舎の看板が昼の光を受けている。

 その上の時計は、三時十八分で止まったままだった。

 建物の中では、新しい一日が、すでに次の予定へ進んでいた。


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