第二十七章 最初の一泊
十一月三日の午前五時四十分、清澄校舎の調理室には、すでに明かりがついていた。
由が大鍋で湯を沸かし、沙織が冷蔵庫の温度を記録している。遼子は事務室で、その日の予定表を確認していた。
美月が玄関を開けると、足元の照明が自動でついた。
試験宿泊で指摘された玄関マットは、薄く滑りにくいものへ交換されている。引き戸には停止金具が取り付けられ、車椅子で通過する間も閉まらない。
「おはようございます」
美月が声をかけると、遼子が事務室から顔を出した。
「おはようございます。六時半に来る予定では?」
「目が覚めました」
「何時にですか」
「四時五十分です」
「眠れましたか」
「三時間半くらいです」
「今日は夜間待機に入らないでください」
「そのつもりです」
遼子は美月の鞄と、手にした紙袋を見た。
「それは?」
「受付で使う予備の名札と、印刷し直した案内です」
「名札は足りています」
「破損した時の予備です」
「案内も、昨日確認しました」
「村民優先時間の文字を大きくしました」
「ありがとうございます。そこへ置いてください」
遼子が受付台の端を指した。
美月は紙袋を置いた。
「ほかに、することはありますか」
「ありません」
「本当に?」
「式典の出席者一覧は、森下さんが持っています。取材対応は会社の広報と村長。館内案内は私。食事は由さんと沙織さん。設備は本庄さんが待機します」
「何か起きた場合は?」
「その時にお願いします」
遼子は予定表を閉じた。
「開業日の責任者は私です」
「忘れてはいません」
「田中さんは、分かっていても手を出すでしょう」
「必要なら出します」
「必要かどうかは、こちらから言います」
調理室から由の声がした。
「長谷部さん、昆布、どこへ置きました?」
「乾物庫の上から二段目です」
「昨日は一段目やったのに」
「片栗粉と表示が重なって見えたので、変えました」
「先に言うてください」
「移動記録に書きました」
「朝から記録を読む人、おらんでしょう」
遼子は美月を見た。
「ほら、すでに仕事があります」
「手伝いましょうか」
「田中さんではなく、私の仕事です」
遼子は調理室へ向かった。
美月は受付前に一人残った。
午前五時四十八分。
開業式まで三時間以上ある。
最初の宿泊客が到着するのは、午後二時の予定だった。
清澄校舎の中には、慌ただしさより、まだ静けさの方が多く残っている。
美月は受付台の椅子へ座った。
仕事用のスマートフォンを開きかけ、やめた。
代わりに、玄関のガラス越しに外を見た。
空は少しずつ明るくなり、校庭の端に白い霧がたまっていた。
*
午前七時、森下が軽自動車で到着した。
後部座席には、式典で使う折り畳み椅子と、来賓用の名札が積まれている。
「田中さん、もう来てたんですか」
「少し前です」
「少し前って、何時です?」
「五時四十分です」
「旅館を出る時、女将さんに止められませんでした?」
「起こさないように出ました」
「たぶん、気づいてますよ」
森下は椅子を一脚持ち上げた。
「澄江さん、朝四時半には起きてますから」
美月も椅子へ手を伸ばした。
「長谷部さんから、手を出すなと言われています」
「田中さんが?」
「はい」
「珍しいですね」
「何がですか」
「言われたことを守ってるのが」
森下は笑い、椅子を体育館へ運んだ。
開業式は、午前九時から四十分だけ行う。
村長、県の担当者、創生都市開発の小田切、設計と施工の代表者が挨拶する。長い祝辞はなく、来賓紹介も名前を読み上げるだけにした。
当初は、体育館に二百人分の椅子を並べ、地元の太鼓演奏と昼食会を行う案が出ていた。
美月と遼子が反対した。
開業初日に職員が式典対応へ追われれば、宿泊客を迎える準備ができない。無料の昼食を二百人分用意する費用も、人手もない。
最終的に椅子は八十脚になった。
式典後は午前十一時まで館内を一般公開し、そのあとは宿泊区域を閉鎖する。
「椅子、前へ詰めすぎやないか」
体育館へ来た源造が言った。
「後ろが空いていると、寂しく見えるからです」
森下が答える。
「来ん人がおるみたいに見えるな」
「申し込みは七十三人です」
「七人分、空くやろ」
「予備です」
「後ろへ置いたらええ」
源造は勝手に最後列の椅子を動かそうとした。
「源造さん、手を出さないでください」
美月が言う。
「田中さんに言われとうないわ」
「私も同じことを言われました」
「誰に?」
「長谷部さんです」
源造は体育館の入口に立つ遼子を見た。
「この人が、今日の親分か」
「運営責任者です」
「なら、聞くけど、椅子は後ろへ置いた方がええやろ」
「今のままでお願いします」
遼子は即答した。
「何でや」
「避難通路を確保しています」
源造は床に貼られた目印を見た。
「ほんなら、しゃあない」
理由が分かると、素直に引き下がった。
文江が、藁で編んだ小さな飾りを持ってきた。
「玄関へ置いてもええですか」
「ありがとうございます。ただ、これは開業祝いとしていただくものですか。それとも、体験教室の見本としてお借りするものですか」
遼子が尋ねる。
「そんな難しいもんやない。置いてもらえたらええだけ」
「いただいたものとして、施設で管理してもいいですか」
「ええよ」
「では、受領記録へ書きます」
「藁の輪っか一つにも、記録が要るんか」
「食べ物ではありませんが、誰からいただいたか分からなくなると困りますから」
「面倒な宿やな」
文江はそう言いながら、うれしそうに飾りを遼子へ渡した。
*
午前八時を過ぎると、県と会社の関係者が到着した。
黒田も東京から来ていた。
玄関前で美月を見つけると、最初に腕時計を確認した。
「何時からいる」
「五時四十分です」
「一人で?」
「職員は、先に来ていました」
「お前が先ではないんだな」
「当たり前です」
「少し安心した」
黒田は玄関の看板を見上げた。
「清澄校舎か。広報部の案より、ずっといい」
「広報部には言わないでください」
「本人たちも分かってる」
「では、最初から出さなければよかったのに」
「会社は、案を出したことが重要なんだ」
「役に立たない案でも?」
「それを俺に聞くな」
黒田は笑い、校舎の中へ入った。
小田切は、会社の広報担当者と一緒だった。
「田中さん、おめでとう」
「ありがとうございます」
「ここまで長かったな」
「まだ開業前です」
「あと一時間だろう」
「開業してからの方が長いです」
小田切は一瞬だけ言葉を止め、そのあとで笑った。
「そうだったな。今日は、会社からも三社の取材を呼んでいる」
「宿泊者の撮影は許可を取ってください」
「分かっている」
「客室への立ち入りは午前十一時までです。それ以降は、宿泊者の許可があっても、職員が同伴してください」
「広報から聞いているよ」
「式典終了後の囲み取材は、二十分以内でお願いします」
「田中さん」
「はい」
「私は祝われに来たんだが」
「宿泊客は、会社の式典を見に来るわけではありません」
小田切は美月の顔を見た。
「変わらないな」
「何がですか」
「会社へ言いにくいことを、言いやすく包まないところだ」
「包んだ方がよかったですか」
「いや。そのままでいい」
小田切は広報担当者を連れ、体育館へ向かった。
*
開業式は、予定どおり午前九時に始まった。
壇上には、紅白の幕を張らなかった。
旧清澄小学校の校章が残る緞帳と、保護板の中にある古い梁を、そのまま見せた。
司会は森下が務めた。
「本日、旧清澄小学校は、宿泊、交流、体験、防災の機能を持つ清澄校舎として、新たに開業します」
体育館には、村民、元住民、工事関係者、県職員、会社関係者、報道関係者が座っている。
後ろの壁際には、結菜が立っていた。
美月と目が合うと、小さく頭を下げた。
山根村長は、用意された原稿を見ずに話した。
「十年前に学校が閉まった時、この建物をどうするか、村は決められませんでした。壊せという人も、残せという人もおりました。どちらも間違いではなかったと思います」
会場は静かだった。
「今日、宿ができたからといって、村の問題がなくなるわけではありません。人口も、交通も、医療も、学校も、変わらず課題のままです」
会社の広報担当者が、手元の原稿から顔を上げた。
村長は続けた。
「この建物だけで村が救われるとは、私らも思っていません。それでも、閉めたままにせず、もう一度、人が入る場所にすることを選びました。その選択が正しかったかどうかは、今日ではなく、これから決まります」
美月は壇上の横で聞いていた。
成功という言葉は、一度も使われなかった。
県の高瀬理恵は、補助金が建物の完成だけでなく、地域交通や雇用との連携へ活用されることを期待すると話した。
小田切は、企業として運営に関わり続ける責任を述べた。
「当社にとっても、本日は完成ではありません。投資を行った以上、収支、雇用、地域への影響を検証し、結果を公表します」
美月が事前に求めた内容だった。
言葉だけにならないよう、報告項目と時期は協定書へ入れてある。
最後に、清澄小学校の卒業生を代表して源造が壇上へ上がった。
「代表と言われましたけど、わしを代表に選んだ覚えはない人もおると思います」
会場のあちこちから笑いが起きた。
山路館で澄江から聞いた言葉と同じだった。
「学校を残せと言うた人の中にも、宿にするのは違うと言う人がおります。壊せと言うた人の中にも、できたら使いたいと言う人がおります。人の考えは、そんなにきれいに二つには分かれません」
源造は、止まった時計のある方角を見た。
「わしも、何が正しいかは分かりません。ただ、昔の学校へ戻したいとは思ってません。子どもがおらんのに、学校へ戻しても仕方ないからです」
笑いは起きなかった。
「ここで金をもらって木工を教えます。村のためやから無料でやれと言われたら、断ります。泊まった人が何も買わず、何もせず帰っても、文句は言いません。来た人は、村を救うために来るんやないからです」
美月は、源造が自分で用意した言葉を聞いた。
「ただ、また来たいと思う人がおったら、その時は、もう一度来てもらえたらええ。今日、言えるのはそれだけです」
拍手が広がった。
予定では、源造の挨拶は三分だった。
実際には四分半かかった。
美月は止めなかった。
*
式典後の館内公開には、百人近くが参加した。
申し込みをしていなかった住民も来た。
玄関で人数を数え、二十人ずつに分けて案内した。
客室の入口には、靴を脱いで入るよう表示してある。
それでも、最初の組で、土足のまま二号室へ入ろうとした男性がいた。
「ここ、学校やった時は土足やったぞ」
「現在は客室ですので、靴を脱いでください」
沙織が答える。
「ちょっと見るだけや」
「見るだけでもお願いします」
「面倒やな」
男性は不満そうに靴を脱いだ。
別の女性は、客室の押し入れを開けた。
「布団、見てもええ?」
「今日はご遠慮ください」
麻子が答えた。
この日は非常勤職員として案内に入っている。
「麻子ちゃんやないの。帰ってきたん?」
「大阪の仕事を続けながら、月に何日か働きます」
「何や、帰ってきたんやないの」
「はい。今日は仕事中なので、押し入れは開けないでください」
「昔は、ここに跳び箱を入れとったんや」
「その話は、あとで聞かせてください」
麻子は笑顔を崩さず、押し入れを閉じた。
女性が部屋を出たあと、麻子は小さく息を吐いた。
「知ってる人ほど、断りにくいですね」
「施設の決まりとして伝えてください」
遼子が言う。
「分かってます。でも、名前を呼ばれると、麻子ちゃんに戻るんです」
「戻っても、仕事はできます」
「そうですかね」
「今、できていました」
麻子は閉じた押し入れを確認し、次の見学者を迎えた。
体育館では、避難所記録の一部を紹介する展示が行われていた。
原本は鍵のかかる保管庫に置き、複製した二ページだけを展示している。個人名や健康情報は見えないよう処理した。
報道関係者の一人が、森下へ尋ねた。
「原本を撮影できませんか」
「できません」
「箱から見つかった状態だけでも」
「個人情報が含まれています」
「歴史的価値がありますよね」
「だからこそ、扱いを決めるまで公開しません」
「住民の同意は取れないんですか」
「すでに亡くなった方や、連絡先の分からない方もいます」
「村の判断で公開することは?」
「しません」
森下は言い切った。
以前なら、美月の顔を見て判断を求めたかもしれない。
今は、自分で答えている。
取材者は質問を変えた。
「田中さんのお父様が、過去にこの村の開発へ関わっていたと伺いました」
美月は足を止めた。
「どなたから聞きましたか」
「関係者への取材で知りました。今回の事業は、お父様の計画を引き継いだものですか」
「違います」
「親子二代の地域再生として紹介できると思うのですが」
「そのような事実はありません」
「でも、お父様も村の未来を考えていた」
「過去の計画と、現在の事業は別です」
取材者は手帳へ何かを書いた。
「個人的な思いはありませんか」
「今日、開業したのは清澄校舎です。私個人や父の物語へ置き換えないでください」
美月の声が、予定より強くなった。
近くにいた黒田が、取材者と美月の間へ入った。
「その件は、会社広報を通してください。今日は施設の運営内容を中心にお願いします」
「田中さんご本人の言葉を聞きたかっただけです」
「今、答えました」
黒田は穏やかな声で言った。
「引き継いだものではない、というのが本人の回答です」
取材者は引き下がった。
美月は体育館の外へ出た。
廊下の窓から、校庭が見える。
一般公開へ来た人たちが、看板や校舎を撮影している。親子二代、父の果たせなかった夢、娘による再生。記事にしやすい言葉が、いくつも頭に浮かんだ。
どれも、今ここで働く人や暮らす人を、背景へ押しやってしまう。
「大丈夫か」
黒田が追ってきた。
「はい」
「質問が出る可能性は伝えておくべきだった」
「会社は知っていたんですか」
「取材申請の中に、家族の関係を聞きたいという項目があった。広報が施設との関係はないと回答した」
「私は聞いていません」
「悪かった」
黒田は言い訳をしなかった。
「今日の記事に、父のことを入れないよう依頼してください」
「報道内容へ会社から命令はできない」
「では、事実関係を文書で渡してください」
「分かった」
「私の父の計画と、現在の事業は継続関係にないこと。事業主体も資金も計画内容も違うこと。村が過去の計画を肯定したわけではないこと」
「すぐ作る」
「今日中にお願いします」
「分かったと言ってる」
黒田は少し声を強めた。
それから、表情を緩めた。
「お前が怒るのは当然だ。ただ、取材者も、物語が欲しい」
「事実を曲げてまで必要ですか」
「必要かどうかではなく、分かりやすいからだ」
「分かりやすくないものを、分かりやすくするために変えないでください」
「それも含めて、広報へ伝える」
黒田は体育館へ戻った。
美月は窓辺に残った。
校庭の隅では、颯太が見学者の一人に、外壁へ使った杉板について説明している。
その声は聞こえない。
けれど、相手の質問へ短く答え、板の継ぎ目を指で示している姿が見えた。
父ではなく、今ここにいる人の手で建物は直された。
美月は腕時計を見た。
午前十時四十分。
一般公開の終了まで、あと二十分だった。
*
午前十一時、宿泊区域の扉を閉じた。
見学者が全員退出したことを確認し、客室の点検と清掃を始める。
二号室の畳には、靴下へ付いていたらしい小さな泥が落ちていた。
三号室の机には、誰かが置いた菓子の包み紙が残っていた。
一号室の洗面台には、水滴が広がっている。
「見学だけでも、汚れるんですね」
沙織が言った。
「人が入れば汚れます」
由は畳を拭きながら答えた。
「学校の時も、朝掃除して、昼には砂だらけやった」
「今日の清掃時間、予定は一時間です」
遼子が時計を見た。
「三人で分担します。一号室は沙織さん、二号室は由さん。三号室は私。麻子さんは予約確認と夕食の名簿」
「私も清掃へ入れます」
麻子が言う。
「オンライン予約に、連絡未確認が二件あります」
「あとでやります」
「あとでは、夕食準備と受付が重なります」
遼子は首を振った。
「今日、全部を全員でやろうとしないでください」
麻子は一度うなずき、事務室へ向かった。
美月は清掃道具を持とうとしたが、遼子に止められた。
「田中さんは、取材対応の確認をしてください」
「清掃は足りていますか」
「足りています」
「本当に?」
「二度聞いても答えは同じです」
美月は手を引いた。
任せることは、何もしないことではない。
それでも、目の前で人が働いている時に、自分だけ別のことをするのは落ち着かなかった。
仕事を抱えることより、渡すことの方が難しい。
*
最初の宿泊客、松岡英一と妻の和子は、午後一時五十二分に到着した。
予定より八分早い。
二人は名古屋から車で来ていた。
英一は六十二歳。紺色の上着に、履き慣れた運動靴を合わせている。和子は六十歳で、折り畳み式の杖を持っていた。
車が駐車区画へ入ると、遼子と沙織が玄関前へ出た。
美月は事務室から様子を見ていた。
予約者の名前も、移動経路も、足の状態も確認済みだった。
だから、美月が出る必要はない。
「田中さん、行かないんですか」
森下が隣で尋ねた。
「長谷部さんたちが対応します」
「最初のお客さんですよ」
「特別扱いはしません」
「挨拶くらいは?」
「あとでします」
英一は車を降りると、校舎を見上げた。
しばらく動かなかった。
玄関の上の時計を見る。
「止まったままなんですね」
遼子へ最初に言った言葉が、それだった。
「はい。建物の中に、新しい時計があります」
「三時十八分」
「ご存じでしたか」
「写真で見ました。学校におった頃は、ちゃんと動いとったんですけどね」
和子が助手席から声をかけた。
「あなた、先に荷物を下ろして」
「ああ、そうやった」
英一は後部座席を開けた。
大きな旅行鞄を自分で持とうとしたが、持ち手を引いたところで腰を押さえた。
「お持ちします」
沙織が言う。
「これくらい大丈夫です」
「玄関まで運びます。貴重品は、ご自身でお願いします」
英一は少し迷い、旅行鞄を沙織へ渡した。
和子は杖を広げ、ゆっくり車から降りた。
「坂、大丈夫ですか」
遼子が尋ねる。
「これくらいなら。でも、帰りは下りでしょう」
「必要なら、車を玄関前まで移動します」
「雨が降ったら、お願いします」
「理解しました」
会話は、試験宿泊で決めた手順どおり進んでいる。
美月は事務室を出た。
「松岡様。本日はありがとうございます」
英一が振り向いた。
「田中さんですか」
「はい」
「電話で、床板のことを聞いた松岡です」
「覚えています」
「来ましたよ。本当に泊まれるようになったんですね」
「はい」
英一は玄関の中を見た。
「妻を連れてくるまで、長いことかかりました」
「私が渋ったみたいに言わないで」
和子が言った。
「そうやなくて、学校へ来るまでに四十年以上かかったという意味や」
「それなら、そう言って」
英一は困ったように笑った。
「昔から、言葉が足りんのです」
「存じています」
和子は美月へ笑いかけた。
「今日は、この人の思い出話に付き合いに来ました。長くなったら、止めてください」
「私が止めるんか」
「自分では止まらないでしょう」
遼子が二人を受付へ案内した。
最初の宿泊者名簿へ、英一が住所と緊急連絡先を書く。
和子は館内案内を読み、川音の湯の村民優先時間で指を止めた。
「六時半まで、入れないんですか」
「村民の方が優先です。一般の方がまったく入れないわけではありませんが、混雑時はお待ちいただきます」
沙織が答えた。
「夕食が七時ですよね」
「今日は、夕食を七時半へ変更することもできます」
「宿泊者は、先に入れると思っていました」
英一が言った。
「宿泊者専用の温泉ではありません」
遼子は穏やかに答えた。
「村の方が以前から利用している時間を残しています。午後六時半以降なら、比較的ゆっくり入れます」
「昔、村に住んどった人も村民扱いにはならんのですか」
英一の問いに、受付の空気がわずかに変わった。
「現在、村に住んでいる方が対象です」
遼子が答えた。
「そうですか」
英一は少し残念そうだった。
美月は口を挟まなかった。
村出身だから、特別な権利が戻るわけではない。
麻子の試験滞在で伝えたことと同じだった。
「家族風呂もあります」
沙織が案内図を示した。
「二人で入れるんですか」
和子が尋ねる。
「はい。五時半から一時間、空いています」
「私は、そちらがいいです」
「温泉へ行かんのか」
「暗い道を歩きたくないもの」
「せっかく来たんやで」
「あなた一人で行ってきたらいいでしょう」
英一は妻と案内図を見比べた。
「なら、今日は家族風呂にします」
その答えを聞き、和子の表情が柔らかくなった。
「川音の湯は、明日の朝に行けますか」
「午前七時から営業しています」
「朝なら、私も歩けます」
「では、明朝の天候を見てご案内します」
沙織が予約表へ書き込んだ。
宿泊者だから優先するのではなく、二人に合う方法を選ぶ。
最初の受付には、十七分かかった。
予定より七分長い。
遼子は急がせなかった。
*
一号室へ入ると、英一はすぐに窓へ向かった。
「ここ、保健室だったんですよね」
「はい」
「私は、あまり来たことがない」
「健康だったんですね」
沙織が言う。
「授業を抜けるほどの知恵がなかっただけです」
和子が答えた。
「この人、先生の言うことをよく聞く子だったらしいですから」
「悪いことみたいに言うな」
「悪いとは言ってません」
英一は窓の外を見た。
校庭の向こうに、杉の山がある。
「もっと広いと思ってました」
試験滞在の時、麻子も同じことを言った。
記憶の中で、校舎と校庭は大きくなるのかもしれない。
「昔は、サッカーゴールがあった」
英一が言う。
「鉄棒も、ブランコも。あの端に焼却炉があって、掃除のあと、紙を持っていった」
「今なら問題になりますね」
美月が答える。
「当時は普通でした」
「普通だったことが、ずっと正しいとは限りません」
「分かっています」
英一は少し寂しそうに笑った。
「思い出を話すたび、今ではできんことばかりです」
「できたこともあるでしょう」
和子が椅子へ腰を下ろした。
「運動会とか、遠足とか」
「運動会は、地区ごとの競争が激しくてな。大人まで本気で走った」
「それは今も話せるでしょう」
「でも、今は子どもがおらん」
「いない子どもの話をするんじゃなくて、自分が子どもだった話をすればいいの」
和子は窓際の椅子の背へ手を置いた。
「この椅子、少し低いですね」
沙織がすぐに近づいた。
「別の椅子をお持ちします」
「立つ時に膝が痛いので、高い方が助かります」
試験宿泊で、ベッドの高さは確認した。
椅子の高さまでは、利用者ごとに確認していなかった。
沙織が交流室から椅子を運んできた。
和子は座り直し、何度か立ち上がった。
「こちらの方が楽です」
「この椅子を、お部屋へ置いておきます」
「ありがとう」
英一の思い出だけを聞いていれば、和子の膝の痛みを見落としていた。
宿へ来たのは、卒業生だけではない。
その人と暮らしてきた妻も、一緒に泊まる客だった。
*
午後三時、清澄校舎の一般利用が始まった。
体育館では、住民の健康体操が行われる。
開業式に参加した人の多くは帰ったが、二十六人が着替えて戻ってきた。
「今日くらい、休みにしたらよかったんやないか」
藤井が言った。
「毎週月曜と木曜に使う約束です」
遼子が答える。
「開業日だけ特別でも」
「開業した日から、通常の利用を始めます」
体育館の扉が開き、体操用の音楽が流れた。
一号室まで、低い振動が伝わる。
試験宿泊では、椅子を動かす音を確認した。しかし、音楽を実際の音量で流したのは初めてだった。
英一が廊下へ出てきた。
「何の音ですか」
「住民の健康体操です」
美月が答えた。
「宿泊中も、体育館を使うんですね」
「はい。午後四時までです」
「学校らしいな」
英一は笑った。
「私らも見ていいですか」
「体育館の入口からなら構いません。ただし、参加者を撮影しないでください」
「分かりました」
和子も部屋から出てきた。
「あなた、参加したら?」
「急に入ってええんか」
「体操教室の方へ確認します」
沙織が体育館へ走ろうとした。
「走らないでください」
遼子が呼び止める。
「すみません」
沙織は歩き直した。
教室の講師に確認すると、英一と和子も参加できることになった。
和子は椅子に座ったまま、腕と肩を動かす。
英一は最後列に立ち、周囲の動きをまねた。
途中で、同級生らしい男性が英一に気づいた。
「松岡か?」
「川上?」
二人は体操の最中に声を上げた。
講師が振り返る。
「話すなら、終わってからにしてください」
「すみません」
英一が頭を下げた。
川上は笑いをこらえながら、前へ向き直った。
体操が終わると、二人は体育館の隅で顔を見合わせた。
「五十年ぶりか」
「そこまでは経ってない。四十五年くらいや」
「同じやろ」
「違う」
英一の声は弾んでいた。
和子は少し離れた椅子へ座り、その様子を見ている。
美月は彼女の隣へ行った。
「お疲れではありませんか」
「大丈夫です。いつも、あんな顔で昔の話をするんです」
「楽しそうですね」
「楽しそうでしょう」
和子は夫を見た。
「だから、来るのを嫌がっていたわけではないんです。ただ、私はこの村を知らないから、話に入れないことが多くて」
「はい」
「今日も、ずっと昔のことばかりなら、早く帰りたいと思っていたかもしれません」
「体操はどうでしたか」
「楽しかったです。あれなら、私にも今の話ができます」
和子は自分の膝をさすった。
「泊まる人と、村の人が同じことをする時間があるのはいいですね。でも、毎回参加しろと言われたら、嫌です」
「参加は自由です」
「そこを、ちゃんと書いた方がいいです。地域交流と聞くと、知らない人と話さないといけない宿みたいに思う人もいるから」
美月はスマートフォンのメモへ入力した。
『館内案内――地域利用への参加は任意と明記』
「また仕事を増やしました?」
和子が尋ねる。
「必要な修正です」
「真面目ですね」
「よく言われます」
「褒めてるんですよ」
美月は、少し遅れてうなずいた。
*
午後四時十五分、健康体操を終えた住民のうち五人が、交流室へ入った。
机には、松岡夫妻の夕食用の献立表と、翌朝の案内が準備されている。
「ここでお茶飲んでもええやろ」
一人が由へ尋ねた。
「今日は宿泊の準備中です」
「四時までは、村の人も使えるんやなかった?」
「交流室の一般利用は、午後四時までです」
「十五分くらい、ええやないか」
由は困った顔をした。
相手は、普段から惣菜を買いに来る知り合いだった。
「長谷部さん」
由が呼ぶ。
遼子は交流室へ入り、壁の時計を見た。
「申し訳ありません。今日は、ここまでです」
「開業した日に、村の者を追い出すんか」
「追い出すのではありません。宿泊者を迎える準備へ切り替える時間です」
「空いとるやろ」
「今は空いています。ただ、午後五時から食事の準備に使います」
「一時間も前やないか」
「机の消毒と食器の準備をします」
男性は納得しない顔をした。
「学校は村のもんやった」
「今も村の施設です」
「なら、村の者が使って何が悪い」
「決めた時間内なら使えます」
遼子は声を変えなかった。
「いつでも使える施設にすると、宿泊者が安心して過ごせません。村の方にも、宿泊者にも、使える時間を守っていただきます」
「東京の会社が決めたんか」
「運営会議で決めました。村役場も参加しています」
男性は由を見た。
「由ちゃんも、それでええんか」
由は一度視線を落とした。
「今日は、片づけます」
「前なら、茶くらい出してくれたのに」
「前は、宿やなかったから」
由は答えた。
「明日の午後なら、三時まで使えます。お茶は、自分で持ってきてください」
「金取るんか」
「無料のお茶は出しません」
「けちになったな」
「仕事ですから」
男性はしばらく由を見たあと、仲間と交流室を出た。
廊下の向こうで、「使いにくい施設になった」と話す声が聞こえた。
由は机の上の献立表を持ち上げた。
「感じ悪かったですかね」
「必要な説明でした」
遼子が答えた。
「知ってる人に、けちと言われるのは嫌ですね」
「はい」
「でも、毎回お茶を出したら、片づけるのは私らでしょう」
「そうなります」
「なら、断るしかないですね」
由は布巾を取り、机を拭き始めた。
「明日、惣菜を買いに来んかもしれんけど」
「それは困りますか」
「困るけど、仕方ないです」
由は笑わなかった。
仕事の線を引くことは、関係の線を引くことでもある。
村の中では、その二つが簡単に分かれない。
*
夕食は、午後七時半から交流室で提供した。
家族風呂を使ったあと、松岡夫妻は少し早く席へ着いた。
英一は健康体操で再会した川上と連絡先を交換し、翌朝また会う約束をしていた。
「一日で、だいぶ予定が増えたね」
和子が言う。
「せっかく来たんやから」
「私との旅行でしょう」
「一緒に会えばええ」
「昔話に入れないって、さっき言ったでしょう」
「なら、朝は二人で温泉へ行って、そのあと一時間だけ会う」
「一時間で終わる?」
「終わる」
「四十五年分あるのに?」
英一は言葉に詰まった。
「昼までには出る」
「十一時がチェックアウトでしょう」
「そうやった」
和子は笑った。
夕食には、試験宿泊と同じ栗ごはんを出した。煮物、川魚、白和えのほか、季節の野菜を使った小鉢が二品並ぶ。
「懐かしい味ですか」
由が尋ねた。
「栗ごはんは、母が秋に作りました」
英一が答えた。
「でも、こんなにきれいには盛らんかった」
「それは余計です」
和子が言う。
「家で食べるものと、宿で出すものは違うでしょう」
「そうやな」
英一は栗を一つ口へ入れた。
「味も違う」
「おいしくないですか」
由が身構える。
「いや、おいしいです。母の味とは違うというだけで」
「違って当然です」
由が答えた。
「私、お母さんに習ってませんから」
英一は一瞬驚き、そのあとで笑った。
「そうですね。勝手に同じものを探してました」
「同じ味を出せと言われても、無理です」
「出さなくていいです」
英一は、もう一口食べた。
「今の味で、おいしいです」
由の表情が少し緩んだ。
和子は白和えを食べ、由へ作り方を尋ねた。
豆腐の水切り時間、胡麻の量、砂糖をほとんど使わないこと。
二人の会話に、英一の昔話は入ってこなかった。
それでも英一は、退屈そうには見えなかった。
妻が自分の知らない村の味を尋ねるのを、静かに聞いている。
*
午後九時、松岡夫妻は一号室へ戻った。
遼子と沙織が夕食の片づけを終え、由は勤務表どおりに帰宅した。
麻子は最終のバスに間に合うよう、午後八時で勤務を終えている。
美月は、事務室でその日の記録を確認した。
式典参加者七十六人。
館内公開九十八人。
健康体操二十八人。うち宿泊者二人。
宿泊者二人、一室。
売上三万三千円。
売店の木製しおり二点、千二百円。
体験教室と体育館利用の収入は、今日はない。
人件費、食材費、光熱費、式典費、取材対応費。
開業初日だけを切り取れば、赤字だった。
「今日の収支、今から出すんですか」
遼子が尋ねた。
「概算だけです」
「明日にしてください」
「数字は入れました」
「では、閉じてください」
「まだ、一般公開後の清掃時間が――」
「閉じてください」
遼子は美月の前へ、湯のみを置いた。
「宿泊者が寝てから、今度は田中さんが倒れたら困ります」
「倒れません」
「由さんのまかないが残っています。食べましたか」
「まだです」
「先に食べてください」
「空腹ではありません」
「朝も食べてないでしょう」
美月は答えなかった。
「澄江さんから聞きました」
「女将さんが?」
「朝五時半に電話がありました。田中さんが朝食を食べずに出たので、何か食べさせてくれと」
「そこまで連絡しなくても」
「心配されるような出方をしたからです」
遼子は事務室の奥から、弁当箱を持ってきた。
小さなおにぎりが二つと、煮物が入っている。
「食べ終わったら、山路館へ戻ってください」
「夜間対応は?」
「私と沙織さんで行います」
「開業初日です」
「だから?」
「最後まで確認します」
「最初から最後まで田中さんが確認しないと開けない施設なら、私は辞めます」
美月は遼子を見た。
遼子は冗談を言っている顔ではなかった。
「それは困ります」
「なら、任せてください」
「何かあったら連絡してください」
「必要なら連絡します」
「固定電話と携帯電話、両方へ」
「はい」
「停電したら――」
「試験宿泊で経験しました」
「承知しました」
美月はノートパソコンを閉じた。
弁当箱を開け、おにぎりを一つ食べる。
冷めていたが、塩の味がした。
*
山路館へ戻る途中、赤い橋の手前に颯太がいた。
軽トラックを道の端へ停め、川沿いの柵へ寄りかかっている。
「こんな時間に、何をしてるんですか」
美月が尋ねる。
「田中さんを待ってました」
「私を?」
「長谷部さんから、九時半頃に追い出す予定やと聞いたんで」
「追い出されたわけではありません」
「戻ってきたなら、同じでしょう」
颯太は紙袋を差し出した。
中には、缶入りの温かいお茶が入っていた。
「自動販売機、ないでしょう」
「役場の横にあります」
「遠回りになる」
美月は缶を受け取った。
「ありがとうございます」
「開業、どうでした」
「館内公開で、想定より汚れました。交流室の利用時間を守らない方がいました。取材対応にも問題がありました。客室の椅子の高さも――」
「聞き方を間違えました」
颯太が遮った。
「最初のお客さんは、泊まれそうですか」
「今のところ、問題ありません」
「なら、よかった」
「まだ朝まで分かりません」
「朝まで何も起きんかったら、次は次の客の心配をするんでしょう」
「当然です」
「いつまで心配したら終わるんですか」
「終わりません」
美月が答えると、颯太は川の方を見た。
夜の水面は見えない。白い流れが岩へ当たる音だけが聞こえる。
「今日、取材の人に聞かれました」
颯太が言った。
「田中さんは、この村を救った人ですかって」
「何と答えたんですか」
「そんな人はおらんと言いました」
美月は缶を両手で持った。
「正しいと思います」
「そしたら、村が一つになった象徴ではないですかって聞かれた」
「一つにはなっていません」
「そう言いました」
「記事には使われないでしょうね」
「たぶん」
颯太は笑った。
「分かりやすくないから」
黒田と同じことを言う。
記者が欲しい答えと、村で起きていることは違う。
「でも、一組泊まっとるんでしょう」
「はい」
「一組分の宿にはなったんや」
颯太は校舎のある坂道の方を見た。
「それ以上でも、それ以下でもない」
「売上は三万三千円です」
「今、金額を言うところですか」
「一組分を正確に言っただけです」
「そうですか」
「赤字ですけど」
「それも今、言わんでええでしょう」
美月は缶のお茶を開けた。
白い湯気が、冷たい空気へ消える。
「佐藤さん」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「看板を付けただけです」
「取材にも対応してくれました」
「仕事の邪魔にならん範囲で」
「開業式には出ませんでしたね」
「人が多かったから」
「校舎の外にいたでしょう」
「木の説明を頼まれたんです」
「体育館に入らなかった理由は?」
颯太は少し黙った。
「兄貴の跡があるから、というわけやないですよ」
「私は、何も言っていません」
「聞きそうな顔をしてました」
「どんな顔ですか」
「仕事の顔です」
美月は眉を寄せた。
「今も仕事の顔ですか」
「少し違います」
「どう違うんですか」
「疲れた顔です」
美月は返事をしなかった。
「今日は、寝た方がええです」
颯太が言った。
「皆さんに、同じことを言われます」
「なら、一回くらい聞いたらええ」
颯太は軽トラックへ戻った。
「旅館まで送ります」
「歩いて五分です」
「暗いんで」
「道は分かります」
「知ってます」
颯太は助手席の扉を開けた。
「でも、今日は送ります」
美月は少し迷い、軽トラックへ乗った。
座席には、木屑と土が付いている。
颯太が手で払おうとした。
「そのままで構いません」
「服、汚れますよ」
「今日は、作業着です」
美月は村へ来た初日に泥を付けたパンプスを思い出した。
今は、防水靴を履いている。
軽トラックは、川沿いの短い道をゆっくり走った。
*
翌朝、午前六時三十五分。
美月が清澄校舎へ着くと、一号室の扉が開いていた。
英一が廊下の窓際に立っている。
「おはようございます」
「おはようございます。早いですね」
「目が覚めました」
「川の音ですか」
「それもあります」
英一は廊下の床を見た。
「昨日、寝る前に歩いてみたんです。昔の教室がどこだったか、思い出そうと思って」
「見つかりましたか」
「六年の教室は、今の三号室らしいです。でも、中には入ってません。ほかのお客さんの部屋になる場所でしょう」
「今日は空室ですが、宿泊区域です」
「承知しています」
英一は窓枠へ手を置いた。
「来る前は、自分の学校やと思ってました」
「卒業された学校です」
「ええ。でも、もう自分の場所やない」
美月は何も言わなかった。
「最初は、少し寂しかったです。温泉も村民優先やし、客室にも勝手に入れん。昔の友達と遅くまで話すこともできん」
「申し訳ありません」
「謝ってほしいんやないです」
英一は首を振った。
「自分の場所やないから、泊まれるんやと思いました」
「どういう意味ですか」
「昔のまま残っていたら、私は、ここへ来て廊下を歩いただけで帰ったかもしれません。誰かに管理してもらわんでも、自分の学校やと言えたから」
英一は新しい誘導灯と、古い床板を見比べた。
「今は金を払って、決まりを守って泊まる。そうせんと、次の人が使えんのでしょう」
「はい」
「妻も、ここならまた来てもええと言いました」
「昨日は楽しんでいただけましたか」
「楽しんだと思います。私より、由さんと話しとった時間の方が長かったけど」
「それは、よかったです」
「田中さん」
「はい」
「私は、昔へ帰りたかったんやないと思います」
英一は校庭の向こうを見た。
朝霧が低く下り、山の下半分を隠している。
「なくなってないと、確かめたかっただけです」
美月も目を伏せた。
「建物は、かなり変わりました」
「それでええです。何も変わってなかったら、怖いでしょう」
英一は笑った。
「人間だけ年を取って、学校だけ昔のままやったら」
和子が一号室から顔を出した。
「あなた、温泉へ行くんでしょう」
「今、田中さんと話しとる」
「朝食に遅れるよ」
「まだ六時半や」
「歩くのに時間がかかるでしょう」
和子は美月を見た。
「この人、朝から長話してませんでした?」
「少しだけです」
「止めてくださいって、昨日お願いしましたよね」
「今、終わりました」
英一は不満そうだったが、部屋へ戻った。
和子も扉を閉める。
廊下に、再び静けさが戻った。
*
松岡夫妻は、午前十時四十分にチェックアウトした。
宿泊料金三万三千円と、木製しおり二点の代金を支払った。
英一は現金ではなく、カードを使った。
決済端末が一度、通信エラーを起こした。
沙織は慌てず、事務室の有線端末へ切り替えた。
二度目で決済が完了する。
「これも記録ですね」
英一が言った。
「はい。改善します」
遼子が答える。
「改善できないこともありますよ」
「通信回線そのものは難しいですが、代わりの方法は増やせます」
「なら、次に来た時は、最初から有線で払います」
「また来ていただけますか」
「今度は、川上と一緒に木工をやります。妻が来るかは分かりませんけど」
「私は、白和えを習う日なら来ます」
和子が言った。
「料理教室は、まだ予定にないです」
由が答える。
「やる時は、料金を取ってくださいね」
「分かってます」
由は笑った。
「無料では教えません」
玄関前で、沙織が二人の写真を撮った。
校舎と看板を背景にする。
英一は時計を見上げ、和子は夫ではなくカメラを見た。
「もう一枚、二人ともこちらを見てください」
沙織が言う。
「私は見てます」
和子が答えた。
「あなたが時計ばかり見てるの」
「分かった」
二枚目は、二人ともカメラを見た。
車が駐車場から出る。
英一が運転席の窓を開け、手を振った。
和子も助手席から頭を下げた。
車が坂道を下り、見えなくなる。
遼子は腕時計を確認した。
「客室点検を始めます」
沙織と由が一号室へ向かった。
感傷に浸る時間はなかった。
次の営業日へ向けて、寝具、設備、忘れ物を確認しなければならない。
美月は受付へ戻った。
机の上には、宿泊者アンケートが二枚置かれている。
英一の用紙には、『満足』へ丸が付いていた。
自由記入欄には、こうある。
『学校の記憶を残しながら、今の人が使う場所になっていました。次は木工教室へ参加したいです』
和子の用紙には、『やや満足』へ丸が付いている。
『椅子をすぐ替えていただき助かりました。村のことを知らない人でも過ごせる案内が、もう少しあるとよいです。夕食はおいしかったです。地域交流は自由参加だと、予約前に分かるようにしてください』
二人の評価は、同じではなかった。
美月は、それでよいと思った。
*
午前十一時過ぎ、本社から社内チャットが届いた。
開業式の写真とともに、広報部が作成した文章が掲載されている。
『廃校再生による清澄村活性化の新たなモデルが始動。官民連携により、地域の未来を支える交流拠点が誕生しました』
社員から、次々と祝福の絵が送られている。
『田中さん、おめでとうございます』
『大成功ですね』
『次の展開も楽しみにしています』
その中に、岡部からのメッセージがあった。
『開業おめでとう。ただ、田中ならもう初日の修正点を数えてるだろ』
美月は、机の上の記録を見た。
開業初日の改善点、三十六件。
カード決済の通信。
一般公開後の清掃時間。
地域利用の終了時刻。
客室椅子の高さ。
温泉案内。
地域交流への参加が任意であること。
取材者への事実説明。
夜間待機。
宿泊者一組。
売上三万四千二百円。
美月は社内チャットへ返信した。
『ありがとうございます。初日の有料宿泊は一組二名。売上三万四千二百円。運営上の改善点は三十六件でした。次回営業日までに、優先度を付けて対応します』
送信すると、祝福の絵が一度止まった。
数秒後、岡部から返事が来た。
『了解。ちゃんと始まったな』
大成功でも、完成でもない。
一組が泊まり、二人が料金を払い、朝に帰った。
不便だったことを伝え、また来るかもしれないと言った。
それが、清澄校舎の最初の一泊だった。
受付の端には、昨日まで空だった宿泊台帳がある。
最初の行に、松岡英一、松岡和子と記されている。
美月は台帳を閉じ、改善点の一覧を遼子へ渡した。
「次の家族は、十一月十日です」
遼子が言った。
「小学生のお子さんが一人。りんごジュースは発注済みです」
「地域交流への参加が自由であることは?」
「予約確認で伝えました」
「温泉の道は?」
「昼間に案内します。夜は家族風呂を予約されています」
「カード決済は?」
「有線端末を受付へ移します」
「黒板の説明は?」
「今日中に表示を付けます」
遼子は改善点の紙を折った。
「田中さん」
「はい」
「次のお客様が来るまで、七日あります」
「はい」
「三十六件全部を、七日で直そうとしないでください」
「優先度を付けます」
「本当に?」
「安全、料金、予約情報に関わるものから対応します」
「残りは?」
「次回以降です」
遼子はうなずいた。
「なら、始めましょう」
調理室から、食器を洗う音が聞こえてくる。
体育館では、午後の利用に備えて、床を清掃する機械が動き始めた。
玄関の外では、清澄校舎の看板が昼の光を受けている。
その上の時計は、三時十八分で止まったままだった。
建物の中では、新しい一日が、すでに次の予定へ進んでいた。




