第二十六章 泊まって分かること
工事は当初、五月三十一日に完了する予定だった。
しかし、床下で見つかった腐朽部分の補強、避難記録の保存処置、再利用する床板の乾燥に、想定以上の時間がかかった。梅雨の長雨で屋根と外壁の作業も止まり、五月末の時点で、工程は四か月近く延びる見込みになった。
村と会社は、工期と補助事業の変更承認を国と県へ申請した。期限に合わせて保存範囲を削る案も出たが、住民説明会では、安全確認を急ぐくらいなら開業を遅らせるべきだという意見が多かった。
変更後の完成予定日は九月三十日。増額分は予備費の範囲に収め、開業日も十月から十一月へ改めた。
旧清澄小学校の工事が完了したのは、十月最初の月曜日だった。
朝から、建築会社、設計事務所、村役場、消防署、保健所の担当者が次々と校舎へ入った。
足場と工事用の柵は撤去されている。
白く塗り直された外壁には、以前の木目が薄く残っていた。すべてを新しく見せる塗り方にはしていない。傷みの激しかった板は交換したが、使える板は補修し、色の違いもそのままにした。
玄関の上では、古い時計が三時十八分を指している。
その下へ、新しい看板を取り付ける金具だけが用意されていた。
施設の正式名称は、まだ決まっていなかった。
「名前がないまま、完成検査ですか」
設計担当の本庄が、金具を見上げながら言った。
「建物は、名前が決まらなくても検査できます」
美月は答えた。
「予約サイトは?」
「公開前です」
「案内板は?」
「仮表示にします」
「田中さん、こういうところは意外とのんびりしてますね」
「意見が割れているだけです」
村役場が提案した名称は、『清澄村地域交流・滞在促進拠点施設』だった。
会社の広報部からは、『KIYOSUMI FOREST RETREAT』という案が届いた。
住民説明会で二つを示したところ、どちらも支持されなかった。
『前の名前は長すぎて覚えられん』
『後ろの名前は読めん』
『森林の中にはあるけど、山の宿やない』
『リトリートって何をするところや』
ほかにも、『清流の里』『杉香る学び舎』『ふるさと清澄館』『旧清澄小の宿』など、四十七の候補が集まっている。
名前を決める会議は、翌週に予定されていた。
「先に、中を確認しましょう」
美月が言うと、本庄は玄関の扉を開けた。
新しい木と塗料の匂いが流れ出す。
靴箱は、かつて児童が使っていたものを補修した。小さな棚をそのまま使うのではなく、二つ分を一つにまとめ、大人の靴も入る幅にしてある。
壁には、古い校内案内図が残されていた。
一年生教室、職員室、保健室、理科室。
現在の用途を書いた新しい案内板は、その隣にある。
交流室、事務室、客室一、客室二、客室三。
二つの案内図を見比べれば、どの部屋がどのように変わったのか分かる。
「玄関の幅、問題ありません」
建築検査員が扉と通路の寸法を測った。
「自動ドアではないんですね」
森下が尋ねた。
「予算と停電時の利用を考えて、引き戸にしました」
本庄が答える。
「車椅子でも開けられる重さです。閉まる速度も調整しています」
森下が試しに扉を動かした。
「思ってたより軽い」
「子どもが勢いよく閉めても、指を挟みにくい構造です」
消防署の担当者は、誘導灯、火災報知機、消火器、非常口を順番に確認していった。
保健所の担当者は、調理室の手洗い、食材保管庫、冷蔵庫の温度計、調理器具の区分を調べた。
一号室では、ベッドと壁の間隔が測られた。
旧保健室を改修した部屋で、二名まで宿泊できる。玄関から客室、洗面、トイレまで、大きな段差はない。
二号室には、四人分の寝具を用意できる畳の小上がりがある。
三号室は、古い教室の床と窓を最も多く残した。専用の浴室はなく、共用の家族風呂か川音の湯を利用する。
「図面どおりです」
検査員が言った。
その言葉を聞いても、美月は安心できなかった。
図面どおりにつくられていることと、泊まりやすいことは同じではない。
「来週の試験宿泊は、予定どおり行います」
美月は遼子へ言った。
「そのために、今日から準備します」
遼子は客室の窓を開けた。
冷たい風と川の音が入り込んでくる。
「完成検査より、そちらの方が怖いですね」
「なぜですか」
「建物は、図面どおりなら合格します。宿は、人によって正解が違いますから」
*
試験宿泊には、三組を招いた。
一組目は、大西源造と文江。
二人とも旧清澄小学校の卒業生で、源造は最近、長い距離を歩く時には杖を使っている。一号室へ泊まり、段差や手すり、夜間の移動を確認してもらう。
二組目は、藤原麻子と娘の花。
麻子は非常勤職員として研修へ参加する一方、この日は客として二号室を利用する。子ども連れの動き、寝具、洗面、食事、館内案内を確認する役割だった。
三組目は、県の紹介で参加する松井智恵と夫の修一。
智恵は五十八歳で、下半身に障害があり、日常的に車椅子を利用している。県内の公共施設や宿泊施設で、利用環境について助言する活動をしていた。
「無料で泊まれる代わりに、感想を聞かせてください、という依頼ではありませんよね」
智恵は事前の電話で確認した。
「謝礼をお支払いします」
美月は言葉を選んだ。
「宿泊費と食事代はいただきません。交通費と、一日あたりの助言料をお支払いします」
『分かりました。無料だから文句を言いにくい、という依頼は断っているんです』
「遠慮なく指摘してください」
『そう言われなくても、します』
智恵の声は明るかった。
試験宿泊当日の午後一時、最初に到着したのは松井夫妻だった。
遼子、由、西田沙織、森下、美月が玄関前で待っていた。
車が身障者用駐車区画へ入る。
助手席から修一が車椅子を下ろし、智恵が乗り移った。
「ここから始めます」
智恵は膝の上へ記録用紙を置いた。
「玄関に入るまで、自分で動きます。危なそうでも、すぐ手を出さないでください」
「理解しました」
遼子が答えた。
駐車区画から玄関までは、緩やかな坂になっている。舗装は完成していたが、端に小さな砂利が残っていた。
智恵の車椅子の前輪が、砂利の上で止まった。
一度後ろへ下がり、少し角度を変えて進む。
「掃除の問題ですか」
美月が尋ねた。
「それもあります。でも、雨が降れば、また土や砂利が流れてきます」
智恵は坂の上を見た。
「排水の溝が片側だけでしょう。強い雨のあと、こちらへ流れませんか」
本庄がしゃがみ、舗装の傾斜を確認した。
「設計上は、反対側へ流れる勾配です」
「設計上は、ですね」
智恵が言う。
「一度、水を流して確かめた方がいいです」
玄関の引き戸は、智恵一人でも開けられた。
しかし、扉を開けた状態で車椅子を動かすと、左手が扉から離れ、ゆっくり戻ってきた戸が車椅子の後部へ当たった。
「閉まるのが少し早いです」
「調整できます」
本庄が答える。
「軽くしすぎると、風で開く可能性がありますが」
「自動で止められる金具は?」
「取り付けられます」
靴箱の前では、別の問題が見つかった。
床に敷かれた泥落とし用のマットへ、車椅子の前輪が引っかかった。
「薄いものに替えます」
遼子が記録する。
「車椅子の人だけではありません。杖や歩行器にも、この縁は危ないです」
智恵はマットを指で持ち上げた。
「滑り止めが弱い。子どもが走っても動きます」
図面には書かれていない。
完成検査でも指摘されなかった。
千数百円で購入した一枚のマットが、玄関の最初の障害になっていた。
*
一号室へ入ると、智恵はベッドの高さを測った。
「五十六センチですね」
「高いですか」
「私には、少し高いです。車椅子の座面が四十四センチなので、移る時に上がらないといけない」
「ベッドの脚を替えられます」
「低ければいいわけでもありません。立ち上がる人には、高い方が楽です」
智恵は車椅子からベッドへ移った。
修一は手を出さず、必要な時だけ腰の近くへ腕を置いた。
「高さを変えられる脚か、薄いマットレスを用意してください。利用者へ事前に聞けるといいですね」
洗面台の下には、車椅子の膝が入る空間がある。
鏡は低い位置まで設置されていた。
しかし、洗面台の右に置かれたごみ箱が、車椅子の動きを妨げた。
「これは、動かせば済みますね」
由がすぐにごみ箱を壁側へ移した。
「でも、掃除する人が毎回同じ場所へ戻せるように、置き場所を決めた方がいいです」
智恵が言う。
「小さなことほど、決めないと元へ戻ります」
トイレでは、手すりの位置に問題はなかった。
緊急呼び出し用のひもも、床近くまで伸びている。
智恵は便器へ移り、扉を閉めた。
数秒後、中から声がした。
「この鍵、開けにくいです」
本庄が外側から非常解錠し、扉を開けた。
鍵は小さなつまみを回す形式だった。指先に力が入りにくい人には、つまみにくい。
「大きなレバー式へ替えます」
「それと、呼び出しボタンを押した時、どこで鳴りますか」
遼子が事務室の受信機を確認した。
「事務室と、職員用端末です」
「夜間に、事務室へ誰もいなかったら?」
「遅番職員の端末へ通知が届きます」
「その端末を持って、川音の湯へ行っていたら?」
「携帯回線が弱い場所があります」
「無線通信が切れたら?」
遼子は答えを止めた。
有線の警報盤は事務室で鳴る。職員用端末への通知は、施設内の無線通信を使う。
職員が全員事務室を離れれば、気づくまで時間がかかる可能性がある。
「館内に一人は残る運用にします」
遼子が言った。
「夜間に職員全員が川音の湯へ付き添うことはありません」
「その決まりを勤務手順へ入れてください」
智恵は記録用紙へ書き込んだ。
「設備があっても、受ける人がいなければ意味がないですから」
*
午後三時を過ぎると、源造と文江が到着した。
源造は杖をついていたが、玄関前で美月たちを見ると、杖を持ち上げた。
「そんなに見張らんでも、一人で歩ける」
「普段どおりに動いてください」
美月が言う。
「転ばないでくださいね」
「転べと言うたり、転ぶなと言うたり、どっちや」
「転べとは言っていません」
文江が横で笑った。
「この人、見られとったら、いつもより元気に歩くで」
「余計なこと言うな」
源造は玄関へ入り、靴を脱いだ。
上がり框の段差は小さく抑えてある。手すりも設置されている。
それでも源造は、手すりではなく靴箱へ手をついた。
「そちらは固定されていません」
美月が言うと、源造は手を離した。
「手すりが遠い」
本庄が位置を測った。
「設計では、中央から使う想定でした」
「人は設計した場所に立たん」
源造は靴を脱いだ位置を指した。
「杖を右で持っとるから、左に手をつきたいんや」
「反対側にも短い手すりを付けます」
「靴箱を固定した方が早いんやないか」
「それも必要です」
源造は満足そうにうなずいた。
「最初から、わしに聞いたらよかったんや」
「工事前にも聞きました」
「そうやったか」
「手すりは要らんと言いました」
「その時は、まだ元気やった」
「半年前です」
「半年あったら、人は変わる」
源造は杖をつき、廊下を進んだ。
その後ろ姿を見ながら、美月は本庄へ言った。
「手すりの追加をお願いします」
「分かりました」
源造と文江は、智恵夫妻と同じ一号室へ泊まることになっていた。
四人で泊まるのではない。設備確認のため、夕食後に智恵夫妻が三号室へ移る。実際には行わない客室変更も、職員の手順確認の一つだった。
「荷物を移すのも、職員がやるんですか」
由が尋ねた。
「お客様が希望すれば手伝います。ただし、貴重品と薬はご本人に持ってもらいます」
遼子が答える。
「全部任せてもらった方が早いですけど」
「なくなった時に困ります」
「何でも、早ければええわけやないんですね」
「そうです」
由は源造の鞄へ手を伸ばしかけ、本人へ尋ねた。
「持ちますか」
「自分で持つ」
「ほな、杖だけ持ちます?」
「杖を取ったら歩けん」
「そうやった」
「由ちゃん、大丈夫か」
源造が笑った。
「今、研修中です」
「客の方が心配になるな」
*
麻子と花が到着したのは、午後四時半だった。
麻子はこの日のために大阪から来た。午前中まで予約センターで働き、電車とバスを乗り継いでいる。
「お母さん、途中で三回寝てた」
花が言った。
「一回です」
「電車と、バスと、待ってる時」
「待ってる時は目を閉じてただけ」
麻子は二号室へ入ると、職員ではなく客として部屋を確認した。
花は畳の小上がりへ上がり、窓際に置かれた机を開けた。
「何もない」
「何があると思ったの?」
「学校だから、引き出しに落書きとか」
「新しい机だからないよ」
花は少し残念そうだった。
部屋には、かつて四年生が使っていた黒板の一部が残されている。すべてを見せるのではなく、壁の中央に横一メートルほどの範囲だけを保存した。
落書きを促さないよう、黒板には透明な保護板が付いている。
「書けないの?」
花が尋ねた。
「これは昔の黒板だから、書かないで残します」
沙織が答えた。
「書ける黒板は交流室にあります」
「ここにあるのに?」
「ここでは書けないの」
「何のためにあるの?」
沙織が返事に困り、美月を見た。
「前に学校だったことを残すためです」
美月が答えた。
「見たら、学校だったって分かる?」
「分かります」
「私、言われなかったら大きい黒い板だと思う」
花は保護板へ顔を近づけた。
黒板の端に、白い線が残っている。工事前からあった傷なのか、チョークの跡なのかは分からない。
「学校だった人には、分かるんじゃない?」
麻子が言った。
「泊まりに来る人は、学校だった人ばかりじゃないよ」
花の言葉に、部屋が穏やかになった。
美月は記録用紙へ書き込んだ。
『保存物について、短い説明が必要』
残すだけでは、意味は伝わらない。
説明しすぎれば、物を見る前に答えを与えることになる。
一枚の小さな表示へ、何を書くかを考える必要があった。
「布団、敷いていい?」
花が尋ねた。
「夕食のあとに職員が敷きます」
沙織が答える。
「自分で敷いたらだめ?」
「希望される方は、ご自分で敷いていただけます」
「学校で泊まるなら、自分で敷きたい」
花は押し入れを開けた。
上段に、四組の布団が積まれている。
一番上の掛け布団へ手を伸ばしたが、届かない。
「高い」
麻子が代わりに取ろうとすると、花は首を振った。
「自分でって言ったのに」
遼子が押し入れを確認した。
「子ども用の寝具は下段へ置きましょう」
「それと、四組全部を一緒に入れたら、必要なものが分かりにくいです」
麻子が職員の顔へ戻って言った。
「敷布団、掛け布団、枕、シーツに色の印を付けた方がいい。家族が自分で敷く場合、同じ組だと分かるように」
「客のままでいてください」
遼子が言う。
「すみません」
「でも、今の意見は採用します」
花が笑った。
「お母さん、仕事してる」
*
夕食は、交流室で全員が同じものを食べた。
栗ごはん、鶏肉と根菜の煮物、きのこの汁物、川魚の甘露煮、ほうれん草の白和え。
宿泊営業では、毎回同じ形式にするとは限らない。客室で提供する日もあれば、交流室でほかの宿泊者と同席してもらう日もある。
「最初に確認します」
由が料理を運びながら言った。
「卵、乳、小麦、そば、落花生、えび、かにを使ったものがあります。個別の一覧は、献立表の裏にあります」
智恵が献立表を裏返した。
「文字が小さいですね」
由の動きが止まった。
「大きくします」
「老眼鏡を出せば読めますけど、照明も少し暗いです」
交流室は、学校の雰囲気を残すため、暖色の照明を採用していた。
落ち着いて見える一方、細かな文字は読みづらい。
「食事の時だけ、中央の照明を明るくできます」
沙織がスイッチを切り替えた。
部屋が一段明るくなる。
「最初から、こっちでええんやないか」
源造が言った。
「写真を撮るなら、前の方がきれいです」
森下が答える。
「飯は、写真より見えた方がええ」
源造は甘露煮を箸で持ち上げた。
「これは、骨まで食べられるんか」
「食べられます」
由が答える。
「ほんまか」
「私が炊いたんですよ」
「それを先に言うたら、心配になる」
「なら、残してください」
「食べると言うとる」
源造が魚を口へ入れる。
文江がその様子を見て笑った。
花は栗ごはんを半分食べたところで、箸を置いた。
「ジュースないの?」
「お茶と水があります」
「オレンジジュースは?」
「今日は用意していません」
花は麻子を見た。
「家から持ってきた?」
「持ってきてない」
「自動販売機は?」
「ありません」
遼子が記録用紙へ書き込んだ。
「子ども向けの飲み物を、一種類は有料で用意しましょう」
「近くに買う場所もありませんからね」
麻子が言う。
「でも、種類を増やしすぎると在庫が余ります」
「小さな紙パックを、予約数に合わせて仕入れます」
「甘い飲み物は、なくてもええんやないか」
源造が口を挟んだ。
「源造さんは、飲まないでしょう」
由が言う。
「飲まん」
「なら、花ちゃんが決めたらええ」
花は少し考えた。
「りんご」
「オレンジやないんか」
「りんごの方が好き」
「さっきオレンジと言うたやろ」
「なかったから、変えた」
源造は納得できない顔をしたが、ほかの者は笑った。
*
夕食後、職員は三号室への客室変更を行った。
智恵夫妻の荷物を運び、一号室を源造と文江のために整える。
そこで、事前の想定になかった問題が起きた。
三号室の入口は引き戸ではなく、内側へ開く扉だった。
車椅子で廊下から入ることはできる。しかし、室内で方向を変え、扉を閉めるための空間が足りない。
「一度、奥まで入ってもらえれば閉められます」
沙織が言った。
「奥に荷物がなければ、です」
智恵は床に置かれた鞄を見た。
「それと、この部屋は車椅子対応として案内しないんですよね」
「はい。一号室のみです」
「なら、通常は問題ありません。でも、今日のように部屋を替える必要が出たら、使いにくい」
遼子は腕時計を見た。
「一号室の設備に問題が起きた場合、車椅子の方が宿泊できる代わりの部屋がありません」
「三室しかない宿で、すべてを同じ仕様にはできません」
本庄が言った。
「その点は理解しています」
智恵は室内を見回した。
「だから、予約を受ける時に説明が必要です。一号室が使えなくなった場合、宿泊を延期してもらう可能性があると」
「宿側から延期をお願いするんですか」
沙織が尋ねる。
「使えない部屋へ無理に泊めるより、誠実です」
美月は三号室の入口を見た。
客室を三つに絞った時、一つの部屋が使えなくなる影響は理解していたつもりだった。
しかし、空室があるのに泊まれない人がいることまでは、十分に考えていなかった。
「予備の宿泊先を探します」
美月は言った。
「近隣で車椅子対応の部屋がある施設と、緊急時の紹介について協議します」
「山路館は?」
森下が尋ねた。
「階段しかありません」
澄江から、何度も聞いていた。
古い旅館だから仕方がない。
そう言って終わらせてきた問題が、同じ村にある。
「施設一つで対応を完結させない方がいいです」
遼子が言った。
「宿泊を断る時に、別の選択肢を示せるようにしましょう」
美月はうなずいた。
*
午後九時、全員が川音の湯へ移動した。
村民優先時間は終わっている。
宿泊施設から温泉までは、歩いて七分ほどだった。昼間なら、川沿いの道を迷うことはない。
しかし、夜になると街灯の間隔が広く、足元が暗い。
職員が手提げ灯を用意し、源造と文江、麻子と花を案内した。
智恵夫妻は車で移動した。
「雨の日も歩くんですか」
麻子が尋ねる。
「希望する方には傘と長靴を貸し出します」
沙織が答えた。
「強い雨の日は?」
「家族風呂をご案内します」
「家族風呂は、一組ずつですよね」
「はい」
「全員が希望したら?」
沙織が遼子を見る。
「時間を分けます。それでも対応できなければ、客室の浴室を使ってもらいます」
「三号室にはないでしょう」
麻子の指摘に、遼子がうなずいた。
「三号室の予約時には、共用浴室であることを今より目立つように表示します」
花が手提げ灯を揺らしながら歩いていた。
「川、見えない」
「音は聞こえるやろ」
源造が言う。
「落ちたらどうするの?」
「柵がある」
「柵、低いよ」
道の一部では、川沿いの柵が花の腰ほどしかなかった。
源造には十分な高さでも、子どもが身を乗り出せば危ない。
「ここは施設の敷地ではありません」
森下が言う。
「県道の歩道です」
「なら、県へ改善要望を出してください」
美月が答えた。
「開業までに直りますか」
「すぐは難しいと思います」
「宿泊者への案内で、川側を歩かないよう伝えます。子ども用の灯りも用意します」
「注意書きだけでは、歩く人は見ませんよ」
麻子が言った。
「職員が毎回付き添うんですか」
「通常サービスにはしないと決めました」
遼子は暗い道の先を見た。
「でも、最初の数か月は、夜の状況を確認するために付き添った方がいい。どこで危ないと感じるか、記録します」
「勤務時間が増えます」
美月が言う。
「遅番職員の業務に入れます。その代わり、同行する日は別の夜間業務を減らします」
「何を減らしますか」
「日報は翌朝でも書けます」
遼子は即答した。
仕事を増やす時には、減らす仕事も決める。
採用会議で黒田から言われたことを、遼子はすでに実行していた。
*
午後十一時、宿泊者は各部屋へ戻った。
源造と文江が一号室。
麻子と花が二号室。
智恵と修一が三号室。
職員は、遼子と沙織が交代で事務室に残る。美月は交流室の長椅子で仮眠を取る予定だった。
「田中さんは職員ではありません」
遼子が言った。
「今日は運営確認です」
「なら、客室へ泊まってください」
「空いている部屋がありません」
「山路館へ戻ればいいでしょう」
「夜間対応を見ます」
「見られていると、職員が普段どおりに動けません」
「まだ普段がありません」
「だからこそ、自分たちで決めます」
遼子の言葉に、美月は返事を止めた。
運営責任者として採用したのは遼子だ。
それでも、美月は開業準備のすべてを自分で確認しなければ落ち着かなかった。
「では、山路館へ戻ります」
「連絡が必要な時は電話します」
「電波が切れたら?」
「施設の固定電話から、山路館へかけます」
「固定電話が使えなければ?」
遼子は美月を見た。
「そこまで心配なら、朝までここにいますか」
「そのつもりでした」
「田中さんが毎晩泊まらないと動かない宿にはしません」
美月は何も言えなかった。
遼子は事務室の鍵を机へ置いた。
「任せてください」
短い言葉だった。
美月は仕事用の鞄を持った。
「午前六時半に戻ります」
「朝食は七時半です」
「準備を見ます」
「七時で十分です」
「六時四十五分にします」
「承知しました」
玄関を出ると、外は冷えていた。
校舎の窓に、暖色の灯りがともっている。
閉校していた建物に、人が泊まっている。
美月は駐車場からしばらく校舎を見たあと、山路館へ向かった。
*
夜中の一時十三分、山路館の部屋に固定電話から着信があった。
美月は一度目の呼び出し音で目を覚ました。
「田中です」
『長谷部です。校舎が停電しました』
美月は布団から起き上がった。
「原因は?」
『施設だけではありません。川沿いの一帯です。役場へ確認しています』
「非常電源は?」
『誘導灯と警報設備は作動しています。事務室の非常照明もついています。宿泊者の安全は確認しました』
「すぐ行きます」
『来なくて大丈夫です』
「しかし――」
『今、戻る途中の道も暗いです。車でも危険です。役場の当直と連絡が取れています。復旧見込みを確認して、また報告します』
「宿泊者の状態は?」
『源造さんと文江さんは起きています。松井さん夫妻も問題ありません。花ちゃんは寝たままです』
「館内の無線通信は?」
『止まっています。職員用端末も使えません。固定電話は生きています』
「緊急呼び出しは?」
『警報盤で受けられます。沙織さんが事務室、私が客室側にいます』
遼子の声は落ち着いていた。
「分かりました。十五分後に、もう一度連絡してください」
『はい』
通話が切れた。
美月は服を着替えた。
行かなくていいと言われても、横になる気にはなれない。
窓を開けると、村の一部から灯りが消えていた。
山の輪郭も、川の位置も見えない。音だけが暗闇の中を流れている。
十五分後、再び電話が鳴った。
『復旧は午前二時頃の見込みです。倒木が送電線へ接触したそうです』
「暖房は?」
『室温は二十度。毛布を配りました』
「給湯は?」
『電気制御なので止まっています。飲料水は確保しています』
「三号室の松井さんは?」
『トイレまでの通路に、電池式の照明を追加しました。非常灯だけでは、足元が暗いです』
「不足したものは?」
『電池式照明が二台しかありません。職員用の携帯無線も必要です。通信が切れると、事務室と客室側で連絡できません』
美月はメモへ書き込んだ。
「ほかには?」
『停電時の館内放送が使えません。各室を回って説明しましたが、三室より増やせない理由がよく分かりました』
「宿泊者の反応は?」
『源造さんは、昔は停電くらい普通だったと言っています』
電話の向こうから、源造の声が聞こえた。
『こんなことで謝らんでええ。寝とったら朝になる』
続いて、文江の声がした。
『あんたはトイレへ起きるやろ。灯り持っていき』
『子どもやない』
『子どもより転ぶ』
遼子が少し笑った。
『今のところ、問題ありません』
「分かりました。復旧したら連絡してください」
『田中さんは休んでください』
「起きています」
『では、復旧まで待っていてください』
午前一時五十七分、校舎の電気は戻った。
美月は三度目の電話を受けてから、ようやく布団へ戻った。
目を閉じても、眠れなかった。
停電時の手順は作っていた。
誘導灯も非常照明も、基準を満たしていた。
それでも、実際に灯りが消えるまで、電池式照明が二台しかないことには気づかなかった。
*
翌朝、美月が校舎へ着くと、花は校庭で縄跳びをしていた。
「おはようございます」
花は一度跳ぶのを止めた。
「停電、知ってた?」
「知っています」
「私、知らなかった」
「寝ていたんでしょう」
「起こしてほしかった」
「停電で起こされたかったの?」
「学校で停電したこと、友達に言いたかった」
「停電したことは言えるでしょう」
「寝てたから、何も見てない」
花は残念そうに縄を回した。
校舎の中では、朝食の準備が進んでいた。
由が味噌汁を温め、沙織が焼き魚を皿へ並べている。遼子は夜間記録をまとめていた。
「眠れましたか」
美月が尋ねる。
「二時間ほど」
「交代要員が必要ですね」
「通常営業なら、夜間は宿直を置きません。停電や警報があった時だけ対応します」
「昨夜と同じことが起きたら?」
「固定電話で連絡を取り、各室を確認します」
「一人で?」
「一人では難しいです」
遼子は記録を美月へ渡した。
「宿泊営業日は、夜間連絡担当とは別に、村内で三十分以内に来られる応援担当を決めたいです。呼び出した場合は手当を払う」
「候補者は?」
「由さんと、清掃担当の二人が村内です。ただし、全員が対応できるわけではありません。家族と相談してもらいます」
「無理なら?」
「営業日を調整します。応援担当を確保できる日に予約を受ける」
遼子は一晩で、対応案を作っていた。
「昨夜、私が残っていた方がよかったですか」
美月は尋ねた。
「いいえ」
「本当に?」
「田中さんがいたら、全部の判断を田中さんに聞いていたかもしれません」
「聞いてもらって構いません」
「それでは、私を採用した意味がありません」
遼子は淡々と言った。
「困った時に責任者が自分で決められるか確かめるのも、試験宿泊でしょう」
美月は夜間記録を見た。
停電発生。一時十三分。
宿泊者確認。一時十五分。
役場当直へ連絡。一時十七分。
毛布配布。一時二十二分。
三号室通路へ照明追加。一時二十五分。
美月への連絡。一時二十七分。
判断と行動が、時刻とともに記録されている。
「対応に問題はありません」
美月は言葉を続けた。
「朝の振り返りで、全員と改善点を確認します」
「はい」
「それと、長谷部さん」
「何ですか」
「ありがとうございました」
遼子は少しだけ目を見開いた。
「仕事ですから」
「それでも、です」
「なら、受け取っておきます」
*
試験宿泊を終えた時、指摘事項は百十八件になっていた。
すぐに直すもの。
開業までに直すもの。
開業後の運用で確認するもの。
費用と時間をかけて検討するもの。
四つに分類した。
玄関マットの交換。
引き戸の停止金具。
靴箱の固定。
手すりの追加。
トイレの鍵。
電池式照明。
職員用携帯無線。
客室のごみ箱位置。
寝具の色分け。
館内案内の文字サイズ。
食事時の照明。
子ども向け飲料。
黒板や保存物の説明。
三号室の入浴案内。
夜間の川沿い経路。
停電時の連絡手順。
改修費の見積もりは、合計二百八十万円になった。
「予備費は、あといくら残っていますか」
藤井が尋ねた。
「工事費の予備としては、六百四十万円です」
森下が答える。
「なら、全部直せますね」
「すべて工事費で認められるとは限りません」
美月は一覧を見た。
「飲料や携帯無線は、開業準備費です。夜間経路の県道改修は、別の予算になります」
「県道は、開業までに間に合いません」
「当面は、宿泊者へ別経路を案内します」
「別経路は遠いでしょう」
「二分ほど増えますが、川沿いの柵が高い道です」
源造が、会議室の後ろから口を挟んだ。
「二分くらい歩かせたらええ。温泉へ行くんやから、急ぐこともない」
「足の悪い人には、その二分が長いです」
智恵が言った。
試験宿泊後の報告会にも参加していた。
「なら、車で行ったらええ」
「運転できない人もいます」
「家族がおるやろ」
「一人で泊まる人もいます」
源造は黙った。
智恵は責める様子もなく続けた。
「全員に同じ方法を押しつけなくていいんです。歩ける人は安全な遠回り。車を使える人は車。どちらも難しい人には家族風呂。選択肢を示してください」
「送迎はせんのか」
源造が尋ねた。
「通常サービスにはしません」
遼子が答えた。
「でも、天候や体調によっては、タクシーを手配します」
「この村に、すぐ来るタクシーなんかないぞ」
「前日までに予約します。費用は利用者負担です」
「金がかかるな」
「安全にも費用がかかります」
智恵は一覧表を閉じた。
「すべての人が同じように使える施設はありません。使えない人がいることを隠さず、代わりの方法を一緒に考える施設なら、私はまた来たいです」
藤井が尋ねた。
「本当に、また来てもらえますか」
「今度は料金を払います」
「まだ料金をもらえるほどではない気がします」
由が言う。
「そう思っているうちは、大丈夫です」
智恵が笑った。
「完成したと思った時が、一番危ないですから」
*
施設名を決める会議は、試験宿泊の三日後に開かれた。
四十七案を五案へ絞り、住民投票と利用者への聞き取り結果を示した。
最も票を集めたのは、『清澄校舎』だった。
「宿だと分からんのやないか」
藤井が言った。
「説明を付けます」
森下が案内板の見本を示した。
『泊まる・集う・学ぶ 清澄校舎』
「三つも付けたら、また長くなる」
源造が言う。
「名前そのものは、清澄校舎です」
「学校やのに、校舎という名前は変やないか」
「もう学校ではないからでしょう」
結菜が答えた。
高校の授業を終えてから会議へ来ていた。
「学校って名前にしたら、子どもが通ってるみたいになる。でも、建物は校舎だった。その部分は残る」
「宿という名前は要らんの?」
「泊まらない人も使うから」
結菜は候補一覧を見た。
「体育館へ運動しに来る人も、藁細工をしに来る人もいる。宿って名前にしたら、村の人が入りにくくなると思う」
文江がうなずいた。
「私は、清澄校舎でええと思う」
「昔から、学校、学校と呼んどったしな」
源造も言った。
「校舎なら、よそ行きすぎん」
美月は、看板の見本を見た。
清澄校舎。
新しい名前なのに、以前から呼ばれていたような響きがある。
「正式名称を、清澄校舎とします」
山根村長が決定を告げた。
「説明文は、案内媒体ごとに調整してください。看板は名前だけでええでしょう」
会議が終わったあと、結菜が美月の机へ来た。
「田中さんは、どの名前がよかったんですか」
「私ですか」
「投票してないでしょう」
「村外の人間ですから」
「でも、つくった人でしょう」
「私一人がつくったわけではありません」
「そういう答えじゃなくて」
美月は五つの候補を見た。
「清澄校舎でよかったと思います」
「最初から?」
「いいえ」
「最初は、どれ?」
美月は答えなかった。
子どもの頃につくった工作には、『みんなのいえ』と書いてある。
村へ来た夜から、山路館の窓辺に置いたままだった。
けれど、その名前を候補へ出すことはしなかった。
ここは、美月の家ではない。
誰にとっても同じ家になるとも限らない。
「秘密ですか」
結菜が尋ねた。
「候補に出していない名前です」
「なら、採用されませんね」
「はい」
「言わない名前なら、ないのと同じですよ」
結菜はそう言い、会議室を出ていった。
美月は五つの候補が印刷された紙を折り、鞄へしまった。
*
開業日は、十一月三日に決まった。
予約受付は、十月十五日の午前十時から開始する。
予約サイトには、三つの客室の設備だけでなく、できないことも掲載した。
最寄り駅から村までのバスは本数が少ない。
夜間に食料品を買える店はない。
三号室には専用浴室がない。
川音の湯まで徒歩七分。
携帯電話がつながりにくい場所がある。
自然災害や道路状況によって、宿泊を延期してもらう場合がある。
車椅子で利用できる客室は一号室のみ。
子ども用の遊具や、常設の娯楽設備はない。
「これを全部読んで、泊まりたいと思う人がいますか」
会社の広報担当者が、オンライン会議で尋ねた。
「隠して予約を取るよりはいいです」
美月は答えた。
「不便さばかりが目立ちます」
遼子が別の画面を共有した。
窓から見える川。
古い床板が残る廊下。
朝霧の下りた校庭。
文江が藁を編む手。
源造が木材を削る姿。
新しい体育館で縄跳びをする花。
温泉の湯気。
写真の下には、短い文章が添えられている。
『便利な宿ではありません。ここで暮らしてきた人の時間と、これから訪れる人の時間が重なる、小さな校舎です』
「こちらを最初に見せます」
遼子が言った。
「そのあとで、利用条件を読んでもらいます」
「予約数の目標は?」
「初月の客室稼働率、三十五パーセントです」
美月が答えた。
「低くありませんか」
「三室、月八日営業で、延べ二十四室。そのうち八室から九室です。開業直後としては妥当です」
「取材関係者を入れれば、もっと埋まります」
「取材者用の無償宿泊は、稼働率へ含めません」
「招待客は?」
「含めません」
「数字が見栄えしませんね」
「実際の利用者数を報告します」
広報担当者は不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
予約開始前日、清澄校舎の玄関へ看板が取り付けられた。
佐藤林業が用意した杉板に、源造が文字の輪郭を彫り、村内の塗装業者が墨色を入れた。
午後、最後の固定金具が締められる。
美月、颯太、森下、遼子が少し離れた場所から見ていた。
「傾いてないですか」
森下が首を傾げた。
「建物の方が少し傾いとる」
颯太が言う。
「建物は検査済みです」
「見た目の話です」
「看板に合わせて建物は直せません」
美月が言うと、颯太が笑った。
「田中さんなら、直せと言いそうですけど」
「言いません」
「前なら言ってましたよ」
「言っていません」
「学校へ勝手に入った人が?」
「その話は、もういいでしょう」
森下が笑いをこらえている。
看板の上では、止まった時計が三時十八分を指している。
遼子が腕時計を見た。
「今は、三時十二分です」
六分後、現在の時刻と古い時計の針が重なった。
誰も何も言わなかった。
三時十八分を過ぎても、校舎の中では職員が研修を続け、工事業者が最後の道具を片づけている。
時間は止まらなかった。
*
十月十五日午前九時五十分。
清澄校舎の事務室には、美月、遼子、沙織、由、森下が集まっていた。
予約サイトの公開は、午前十時。
画面には、まだ『受付開始前』と表示されている。
「こんなに全員で見ても、予約は増えませんよ」
遼子が言った。
「不具合が出た時の確認です」
美月は即答した。
「誰も来なかった時の確認では?」
由が尋ねる。
「それも結果です」
「田中さん、緊張してます?」
「していません」
「朝から同じ画面を何回も更新してますよ」
「表示確認です」
午前九時五十九分。
秒針が進む。
十時になった。
画面の表示が、『予約を受け付けています』へ変わった。
全員が黙って画面を見た。
一分。
二分。
三分。
何も起きない。
「電話予約もありますよね」
由が固定電話を見た。
「あります」
電話は鳴らない。
五分が過ぎた。
「本当に公開されてます?」
森下が自分のスマートフォンで検索した。
「出てます。写真も見られます」
「なら、待ちましょう」
遼子は立ち上がった。
「午前の研修を始めます」
「もう少し待っても――」
美月が言いかけた時、ノートパソコンから短い通知音が鳴った。
全員の視線が画面へ集まる。
『新しい予約が入りました』
予約日は、十一月三日。
一号室、大人二名、一泊。
予約者名は、松岡英一。
最初に床板について電話をかけてきた、名古屋の卒業生だった。
備考欄には、一文だけ書かれている。
『妻と一緒に、昔の学校を見に行きます。階段は使えますが、二人とも足が弱くなっています』
由が声を上げた。
「最初のお客さんですね」
「まだ確認が必要です」
遼子は予約内容を開いた。
「寝具、食事、移動方法、川音の湯の利用。聞くことがあります」
「分かってますけど、最初のお客さんでしょう」
「そうですね」
遼子も少し笑った。
二件目の通知は、その七分後に届いた。
十一月十日、二号室。大人二名、小学生一名。
住所は京都府。
清澄村との関係を尋ねる欄には、『なし』と記されていた。
備考欄には、こうある。
『娘が学校に泊まってみたいと言っています。川と星を楽しみにしています』
「村に関係のない人です」
森下が言った。
「それでも、予約してくれたんですね」
「はい」
美月は答えた。
一人目は、かつて校舎で過ごした時間を確かめるために来る。
二人目は、まだ見たことのない時間を過ごすために来る。
清澄校舎は、そのどちらかだけの場所ではなかった。
画面の中で、二つの予約が並んでいる。
美月は予約一覧を印刷せず、そのまま遼子へ引き継いだ。
「確認連絡をお願いします」
「はい」
遼子が最初の予約者へ電話をかける。
由と沙織は、朝食の提供手順を確認するため、調理室へ向かった。
森下は役場へ戻り、予約開始の報告をすると言った。
美月だけが、しばらく画面を見ていた。
泊まって初めて分かることがある。
働いて初めて分かることもある。
開いてみなければ分からないことは、これからさらに増えていく。
午前十時二十一分、三件目の予約通知が届いた。
美月は内容を開かず、事務室を出た。
廊下には、新しい木と、残された床板の匂いが混じっている。
玄関の向こうで、杉板の看板が秋の光を受けていた。




