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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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第二十五章 働く覚悟

旧清澄小学校で働く人の募集要項は、三度作り直された。

 一度目は、村役場が用意した案だった。

『清澄村を愛し、地域のために働く意欲のある方』

 美月は、その一文に赤い線を引いた。

「これでは選考基準になりません」

 会議室の向かいで、藤井が腕を組んだ。

「村を好きな人に来てもらいたいという意味です」

「好きかどうかを、面接でどう判断するんですか」

「話を聞けば、ある程度は分かるでしょう」

「村を愛していますと言う人と、言わない人なら、前者を採用しますか」

「そういう単純な話やないです」

「書いてある以上、応募者はそう受け取ります」

 藤井は募集要項を引き寄せた。

 運営責任者一人。宿泊・交流担当一人。清掃・調理補助若干名。

 必要な人数だけを見れば、それほど大きな募集ではない。しかし、村にとっては、新しい常勤の仕事が二つ生まれる。

「地域のために働く気持ちは必要やと思います」

 藤井は言った。

「宿泊客だけを見ておればええ仕事やない。体育館を使う住民もおるし、体験教室をする人もおる。村の行事とも重なる」

「必要なのは、村への愛情ではなく、利用者を調整する能力です」

「冷たい言い方やな」

「雇用条件は、冷静に書くべきです」

 美月は赤線の横へ、別の文章を入力した。

『宿泊、地域利用、体験事業、防災機能が併存する施設において、異なる立場の利用者と調整しながら運営できる方』

「長いですね」

 森下が言った。

「でも、何をする仕事かは分かります」

「村を愛することは、採用されたあとでもできます」

 美月が答えると、藤井は小さく息を吐いた。

「最初から愛してない人でもええんですか」

「仕事をきちんとする人なら」

「田中さんらしいな」

「褒めていませんよね」

「半分は褒めてます」

 藤井は赤線を引かれた文章を削除した。

 二度目の案は、創生都市開発の人事部が作成した。

『新たな地方創生モデルの創出に挑戦し、地域の未来を切り拓く人材を募集します』

 美月は、その一文にも赤い線を引いた。

 黒田から、すぐに電話がかかってきた。

『全部消したのか』

「仕事の説明になっていません」

『採用広報には、ある程度の訴求力が必要だ』

「未来を切り拓くことより、午前六時半に朝食を出せるか、夜間の緊急連絡へ対応できるかの方が重要です」

『応募者が来なくなるぞ』

「条件を読んで来ない人は、採用しても続きません」

『夢がないな』

「三室の宿泊施設に、できない夢まで背負わせないでください」

 受話器の向こうで、黒田が笑った。

『分かった。だが、田中』

「はい」

『厳しいことだけを書けば誠実だと思うな。働く人が、何を得られるのかも書け』

 通話が切れたあと、美月は画面を見つめた。

 給与、勤務時間、休日、業務内容、契約期間、社会保険。

 得られるものは、そこに書いてあると考えていた。

 しかし、それだけでは伝わらないものもある。

 第三案には、現場の一日を加えた。

 宿泊営業日は、早番が午前六時半から午後三時半。遅番が午後一時から午後十時。夜間は運営責任者が交代で連絡を受ける。

 休館日は、予約管理、清掃、設備確認、体験教室の準備、地域利用の受付を行う。

 体育館は住民利用と宿泊者向け企画を両立させる。

 災害時には村の避難所として開設され、宿泊施設の通常業務より避難者対応を優先する。

 そして、最後に短い文章を入れた。

『完成した仕組みに加わる仕事ではありません。利用者、住民、働く人の声を受けながら、開業後の運営方法を整えていく仕事です』

 黒田は、その一文を残した。

     *

 雇用条件を決める会議には、役場、創生都市開発、施設運営の専門家、社会保険労務士が参加した。

 運営責任者は、一年ごとに更新する常勤契約。月額二十四万円。社会保険加入。週休二日を基本とするが、土日祝日と早朝・夜間勤務がある。

 宿泊・交流担当も常勤で、月額二十万五千円。

 清掃・調理補助は時給千百五十円。早朝と午後八時以降は割増賃金を支払う。

「運営責任者、二十四万円では低くないですか」

 美月は尋ねた。

 会社側の運営担当者が、収支表を示した。

「これ以上にすると、初年度の人件費率が想定売上の六割を超えます」

「宿泊を月八日で計算しているからです」

「開業直後から営業日を増やすのは危険だと、田中さんも同意しましたよね」

「同意しています。だからといって、責任者へ安い給与を押しつける理由にはなりません」

「村内の賃金水準と比べれば、低くありません」

「村内の水準だけで決めると、経験者が応募できません」

 藤井が収支表を見た。

「二十四万円に住居の補助を付けることはできんのですか」

「村外からの採用者に限ると、不公平だと言われます」

 森下が言った。

「村内の人でも、親元を出て暮らしたい人はいますから」

「全員を対象にすればええ」

「予算が増えます」

 話し合いは二時間続いた。

 最終的に、運営責任者と常勤職員には月額二万円を上限とする住宅手当を設けた。村内外を問わず、本人が住居費を負担する場合に支給する。

 夜間連絡を受ける日は待機手当を支払い、実際に対応した場合は時間外労働として計算する。

 清掃・調理補助についても、「繁忙時は時間外対応をお願いする場合があります」という曖昧な文章を削除した。予約数に応じて事前に勤務表を作り、急な呼び出しを常態化させないことを明記した。

「そこまで細かく決めんでも、開業してから調整したらええんやないですか」

 藤井が言った。

「開業してから困るのは、働く人です」

 美月は答えた。

「村のためだから少しくらい我慢してほしい、という運営にはできません」

「誰も、ただで働けとは言うてません」

「言わなくても、そうなることがあります」

 体験教室の準備。

 祭り前の飾り付け。

 宿泊客へ渡す野菜。

 急に増えた清掃。

 送迎を頼まれた時の車。

 地域では、好意で行われることが多い。好意だからこそ、断りにくい。

「施設の仕事と、住民の善意を混ぜないようにします」

 美月は言った。

「教室の講師料、材料費、準備時間、片づけ時間。すべて事前に決めます」

「人と人との付き合いまで、契約にするんですか」

「仕事として頼む部分は、契約にします」

 藤井はしばらく黙り、収支表を閉じた。

「田中さんが東京へ戻ったあとも、続けられる形にしてください」

「そのつもりです」

「田中さんがおる間だけ、きれいな条件にするのはやめてください」

 美月は藤井を見た。

「はい」

 短く答えた。

     *

 募集開始から二週間で、運営責任者には十一人、宿泊・交流担当には九人の応募があった。

 清掃・調理補助には、村内から七人が応募した。

 履歴書には、さまざまな理由が書かれていた。

 自然の中で働きたい。

 地域活性化へ貢献したい。

 都会での生活に疲れた。

 故郷へ恩返しがしたい。

 新しい宿泊施設の立ち上げに関わりたい。

 美月は志望動機を読んだあと、職歴と生活条件を確認した。

 早朝勤務は可能か。

 自家用車はあるか。

 夜間対応ができるか。

 家族の理解はあるか。

 一年後も働く意思があるか。

 一次選考を通過した運営責任者の候補は三人になった。

 一人目は、大阪の大手ホテルで副支配人を務めている四十八歳の男性だった。

 二人目は、奈良県内の旅館と地域交流施設で勤務経験のある四十二歳の女性、長谷部遼子。

 三人目は、都市部からの移住支援事業を運営する会社に勤める三十八歳の男性だった。

 宿泊・交流担当の候補には、藤原麻子と川根由を含む四人が残った。

「藤原さんは、村出身だから選んだんですか」

 選考会議で、外部委員が尋ねた。

「いいえ。宿泊業務十五年、予約管理七年、主任経験三年を評価しました」

 美月は採点表を示した。

「村出身であることは、加点項目に入れていません」

「地域の人間関係を知っているのは強みでしょう」

「十七年前の人間関係です。現在の関係を知っているとは限りません」

 藤井が苦い顔をした。

「そこまで言わんでも」

「藤原さん本人も、同じ条件で選考してほしいと希望しています」

「なら、ええですけど」

 川根由は、村内で惣菜の製造と販売をしてきた。宿泊業の経験はないが、食品衛生責任者の資格を持ち、地域の行事では食事の手配を担っている。

 面接可能な勤務時間として、午前八時半から午後五時までと記されていた。高校生の息子と、介護が必要な義母がいるため、早朝と夜間の勤務は難しいという。

「募集条件に合いませんか」

 由は面接で尋ねた。

「早番と遅番に入れる方を優先します」

 美月は間を置かずに言った。

「ただし、すべての常勤職員がすべての時間帯へ入る必要があるかは、勤務表の組み方によります」

「できないと言っているのに、採用されたくて、できますとは言いたくないんです」

「言わないでください」

 由は少し驚いた顔をした。

「無理に入ってもらっても、続きません」

「ほんなら、私は落ちますね」

「まだ決まっていません」

「田中さんは、期待させることも言わないんですね」

「結果が決まる前に言えることはありません」

 由は膝の上で手を組んだ。

「私、村の人なら誰が何を食べられんか、だいたい分かります。源造さんは固いもんが苦手やし、文江さんは薬の関係で納豆を控えとる。祭りの時に何人分作れば足りるかも分かる」

「宿泊客については、事前の情報がないこともあります」

「聞けばええんでしょう」

「英語で問い合わせが届く場合もあります」

「英語はできません」

「予約システムの操作は?」

「使ったことがありません」

「覚えることはできますか」

 由はすぐには答えなかった。

「できるかどうかは、触ってみんと分かりません」

「では、実技選考で操作していただきます」

「面接だけやないんですか」

「実際の仕事に近い課題を用意します。初めて触る人には、最初に操作方法を説明します」

「間違えたら?」

「どこで間違えたかを確認します」

 由は美月を見た。

「できないことを見つける試験ですか」

「できないことを隠さず、どう対応するかを見る選考です」

「それなら、受けます」

 由はそう答えた。

     *

 実技選考は、工事中の校舎ではなく、村役場の会議室で行った。

 長机を受付に見立て、ノートパソコン、予約台帳、館内図、食物アレルギーの一覧、体育館の利用予定表を用意した。

 課題は、家族四人の宿泊予約を受け付けることだった。

 両親、小学生二人。そのうち一人に卵アレルギーがある。祖母が夕方に合流し、夕食だけ利用したい。到着日は、体育館で住民の健康体操が行われる。翌朝は大雨の予報が出ている。

 必要な情報を聞き取り、客室を割り当て、食事担当者と地域利用者へ連絡し、災害時の対応を確認する。

 面接官の一人が宿泊客役となり、途中で条件を変えた。

『祖母は足が悪いので、階段のない部屋をお願いします』

 藤原麻子は、すぐに一号室を提案した。

「一号室は段差を抑えた客室です。ただし二名定員ですので、お祖母様が宿泊される場合は、ご家族の部屋割りを変更する必要があります」

『泊まるかどうかは、当日決めます』

「客室準備が変わりますので、前日の午後五時までにお知らせください。当日変更は、空室と寝具の状況によってお受けできない場合があります」

『せっかく家族で行くのに、融通が利かないんですね』

「安全に宿泊していただくために必要です」

 麻子の声は穏やかだった。

「代わりに、お祖母様が夕食後に帰られる場合の送迎方法を、一緒に確認します」

 卵アレルギーについては、調味料と加工品まで確認し、調理器具の共用があることを説明した。

 体育館の健康体操は中止せず、宿泊者の利用時間をずらした。

 大雨については、前日と当日朝に道路状況を確認し、危険があれば宿泊延期を勧めると答えた。

 一方で、村の送迎車を使えるかという問いには、「役場へ相談します」と答えた。

 課題終了後、美月が尋ねた。

「村の送迎車は、宿泊客の移動に使えません」

「そうなんですね」

「高齢者と通院者のための車です」

「確認が足りませんでした」

「村出身だから、使えると思いましたか」

 麻子の表情が硬くなった。

「昔、学校行事にも使っていた車があったので」

「今の制度は違います」

「はい」

「分からない場合は、役場へ相談する前に、運用規定を確認してください。相談された職員が、断りにくくなることがあります」

「理解しました」

 麻子はうなずいた。

「村を知っているつもりで判断しました」

 その言葉を、採点表の余白へ自分で書き込んだ。

 川根由は、予約システムの操作で三度手を止めた。

 宿泊者の人数と食事数を別々に入力する画面で、夕食だけ利用する祖母を宿泊人数へ加えた。修正しようとして、予約全体を一度消してしまった。

「あかん。最初からやり直してええですか」

「制限時間は残り十二分です」

「なら、やり直します」

 由は操作説明の紙を最初から読み、今度は一つずつ入力した。

 残り三分で予約登録を終えた。

 アレルギー対応では、調味料の原材料表示を確認し、卵を使わない献立を提案した。

「同じ油で揚げ物はしません。天ぷらを出すなら、別の鍋を使います」

『そこまでしなくても大丈夫だと思います』

 宿泊客役が言う。

「大丈夫かどうかは、こちらで決めません。医師から、どの程度の除去を言われているか確認します」

 由は迷わず答えた。

 体育館の健康体操と宿泊客の利用が重なった時は、住民側へ時間変更を頼むのではなく、家族へ川沿いの散策と木工体験を提案した。

「健康体操は毎週同じ時間にしとるから、急に変えたら来られん人が出ます」

『宿泊者より、村の人を優先するんですか』

「先に予約した人を優先します。村の人やからやないです」

 由はきっぱりと言った。

 操作点は低かったが、調理と地域調整の評価は、候補者の中で最も高かった。

     *

 運営責任者の実技選考には、予算管理と苦情対応を加えた。

 客室の給湯設備が故障し、修理に三十万円かかる。同じ日に、地域利用者から体育館の冷房が弱いという苦情が届く。残っている修繕予算は四十万円。

 大阪のホテルで副支配人をしている男性は、給湯設備の修理を優先し、体育館利用を一時停止すると答えた。

「宿泊者から料金をいただいている以上、客室設備を優先します」

「体育館は避難所にも指定されています」

 美月が言う。

「災害発生時には、別途対応します」

「冷房が弱いままでも、避難所として使えると判断しますか」

「想定されている苦情の内容だけでは、故障か能力不足か分かりません」

「では、何を確認しますか」

 男性は設備点検、室温、利用人数を挙げた。

 判断は合理的だった。しかし、村での居住について尋ねると、週末だけ大阪から通う予定だと答えた。

「夜間連絡の日は、どこに滞在しますか」

「施設内の空室を使えると考えています」

「客室は商品です。職員の宿直室ではありません」

「それなら、役場が住居を用意すべきでしょう」

「一般の賃貸住宅をご案内します」

「家族が大阪にいるので、移住は難しいです」

「勤務条件には、夜間対応があると記載しています」

「電話で指示を出すことはできます」

「停電や断水の時も、大阪からですか」

 男性は答えなかった。

 二人目の長谷部遼子は、課題を受け取ると、最初に質問した。

「給湯設備の故障は、三室すべてですか」

「二号室と三号室です」

「一号室は使える?」

「使えます」

「川音の湯は営業していますか」

「しています。ただし、午後三時から六時半までは村民優先時間です」

「宿泊客の到着予定は?」

「午後四時です」

「体育館の冷房は、設定温度と実際の室温に差がありますか」

「室温は三十一度。利用者は高齢者二十人です」

 遼子は給湯設備の修理を決め、宿泊者へ事情を説明したうえで、村民優先時間後の川音の湯を案内した。入浴料は施設側が負担する。

 体育館は、その日の利用を空調の効く交流室へ移し、冷房については緊急点検を依頼する。四十万円のうち十万円を点検と応急措置へ残し、恒久修理は別途見積もりを取ると答えた。

「交流室へ二十人は入れません」

 外部委員が指摘した。

「椅子を使う体操へ内容を変えてもらいます」

「講師が断ったら?」

「施設側から中止を命じます。室温三十一度で高齢者の運動を続ける選択はしません。利用料は返金します」

「住民から、昔は冷房がなくても運動していたと言われたら?」

「昔より夏が暑いと答えます」

 遼子は即答した。

 面接の最後、美月は尋ねた。

「なぜ、この施設へ応募したんですか」

「三室しかないからです」

 遼子の答えに、藤井が眉を上げた。

「小さい方がええんですか」

「大きなホテルでは、客室を一室売ることと、地域の生活は分けられます。でも、ここでは分けられない。宿泊者が十人来れば、村の店や風呂や道へ影響が出る。小さいから、その影響まで見えると思いました」

「地方創生に興味があるんですか」

 外部委員が尋ねた。

「その言葉には、あまり興味がありません」

「では、何に?」

「続かない宿を、これ以上増やしたくないんです」

 遼子は淡々と答えた。

「以前、県内の古民家宿で働いていました。補助金で立派に改修して、開業時には取材も来ました。けれど、二年目に運営会社が撤退した。残されたのは、予約の入らない建物と、無償で掃除を頼まれる近所の人たちでした」

 美月は顔を上げた。

「そこで、何を担当していたんですか」

「現場責任者です」

「撤退を止められなかった?」

「はい」

「今回、同じことが起きる可能性もあります」

「あります」

「それでも応募した理由は?」

「今回は、最初から売上の上限を隠していないからです。三室しかない。月八日の営業。住民利用を優先する時間もある。最初から儲かると言われるより、考えられます」

「何を考えるんですか」

「三室の宿だけで採算を取ろうとしないことです」

 遼子は計画書を開いた。

「宿泊、体育館利用、体験教室、研修受け入れ、視察対応。それぞれの収入と費用を分けて管理する。利益が出る事業で、必要な事業の赤字をどこまで支えられるかを見えるようにする。それでも足りなければ、営業日を増やすか、事業を減らす。住民の無償労働で埋めない」

 藤井が美月を見た。

 美月は採点表へ視線を落とした。

「村へ住めますか」

「採用されたら移ります。昨日、紹介された賃貸住宅を見ました」

「土砂災害警戒区域にある家です」

「地図も確認しました。もう一軒の屋根修理が終わるまで、山路館に滞在できると女将さんから聞いています」

「もう女将さんに会ったんですか」

「昨夜泊まりましたから」

「仕事が決まる前なのに?」

「働く場所を見ずに、応募は決めません」

 遼子の履歴書の余白には、山路館の朝食、役場前のバス時刻、診療所の診療日、商店の営業時間が細かな字で書き込まれていた。

     *

 木村拓真の林業見学は、朝七時から始まった。

 集合場所へ現れた拓真は、新しい作業着と安全靴を身につけていた。手袋も、まだ折り目が残っている。

 颯太は最初に、ヘルメットのあごひもを締め直した。

「緩い」

「これくらいでも落ちないと思います」

「思います、で山へ入るな」

 拓真は黙って締め直した。

 その日の作業は、山林へ続く作業道の補修だった。

 雨で流れた土砂を取り除き、側溝に詰まった枝と石を運ぶ。倒木の処理は颯太と作業員が行い、拓真には近づかせなかった。

 午前九時を過ぎる頃には、拓真の作業着の背中が汗で色を変えていた。

「少し休んでいいですか」

「自分の体調は、自分で言うてください」

 颯太は作業を止め、水筒を渡した。

「無理して倒れられる方が困る」

「もっと怒鳴られると思ってました」

「怒鳴ったら動けるんか」

「いえ」

「なら、水飲め」

 拓真は切り株へ座った。

 手袋を外すと、右手の親指の付け根が赤くなっている。

「一日で、こうなるんですね」

「道具の持ち方が悪い」

「慣れたら大丈夫ですか」

「皮は厚くなる。けど、慣れた頃に油断する」

 斜面の上から、小石が転がり落ちた。

 颯太がすぐに拓真の肩を引き、山側から離した。

 小石は二人の間を通り、側溝へ落ちた。

「今の、見えてませんでした」

「音を聞け」

「音?」

「山は、上を見続けられん。作業しながら聞く」

 拓真は斜面を見上げた。

 杉の梢が風に揺れている。鳥の声と、遠くの川の音、作業員が石を動かす音が重なっていた。

「きれいですね」

 拓真が言うと、颯太は側溝へ視線を戻した。

「見とるだけならな」

 午後三時に作業を終えた時、拓真は泥だらけになっていた。

 新しい安全靴には細かな傷が付き、作業着の膝に土が染み込んでいる。

「どうやった」

 颯太が尋ねた。

「思っていた仕事と違いました」

「辞めるか」

「まだ始めてもいません」

 拓真は赤くなった手を見た。

「木を伐って、家具を作るところばかり想像してました。今日やったのは、道の泥をどけただけです」

「その道がなかったら、木は運べん」

「はい」

「見学は今日で終わりです。次に来るなら、県の林業就業支援講習を受けてください。基礎講習を終えたら、三か月の研修について話します」

「雇ってもらえるんですか」

「約束はせん。研修中も評価する。拓真も、ここで続けるか見ればええ」

「研修に給料は?」

「県の支援制度が使えれば研修手当が出る。うちから作業を頼む日は賃金を払う。制度が通らんかったら、始める前に言う」

 拓真はうなずいた。

「講習を申し込みます」

「今の仕事は?」

「すぐには辞めません。休みを使って受けます」

「それがええ」

 颯太は道具を軽トラックへ載せた。

 拓真も側溝から引き上げた枝を運ぶ。

 足元がふらついていたが、もう大丈夫だとは言わなかった。

     *

 採用結果を決める会議は、夜まで続いた。

 運営責任者は、長谷部遼子が最高点だった。

 宿泊・交流担当は、宿泊実務で麻子、地域調整と食事対応で由の点が高い。

 しかし、常勤枠は一人だった。

「藤原さんを常勤にして、川根さんを非常勤で採用するのが現実的だと思います」

 会社側の担当者が言った。

「藤原さんは早番と遅番に対応できます。川根さんは時間が限られています」

「藤原さんも、娘さんの送迎があります」

 森下が言う。

「母親が協力すると書かれています」

「お母さんは夜の運転を控えています。藤原さんが遅番に入る日は、娘さんが学校から帰ったあと、誰が面倒を見るんですか」

「それは本人が考えることでは?」

 美月は勤務可能時間の書類を開いた。

 麻子は、週二回までの遅番、週一回までの早番なら対応可能と記していた。それ以上の場合は、村外の学童保育と送迎方法を確保する必要がある。

「本人に考えてもらう必要はあります。ただ、採用する側も、提示された条件で勤務表が組めるか確認しなければなりません」

 美月は一週間分の勤務表案を画面へ映した。

 運営責任者一人と常勤一人だけでは、早番、遅番、休日、夜間待機を回せない。清掃と調理補助を加えても、予約受付や緊急対応ができる人が不足する。

「二人の常勤だけで運営できるという人員計画そのものに、無理があります」

「売上に対して人件費を増やせません」

「では、営業日を減らす必要があります」

「月八日より減らすんですか」

「人がいない日に宿泊客を入れることはできません」

 藤井が額へ手を当てた。

「開業前から、営業日を減らす話ですか」

「開業前だから話しています」

 長谷部遼子の面接での言葉が、美月の頭に残っていた。

 続かない宿を、これ以上増やしたくない。

 安い賃金で人を集め、村への愛情と責任感で不足を埋めれば、最初の数か月は動くかもしれない。だが、疲れた人から辞めていく。

「宿泊・交流担当を、常勤一人と短時間勤務一人に分けます」

 美月は新しい案を示した。

「常勤は週四十時間。短時間勤務は週二十四時間。社会保険の適用条件を満たす契約にします。宿泊営業日は三人体制を基本とし、清掃・調理補助を別に配置します」

「人件費が年間二百三十万円増えます」

「開業準備費の未執行分を初年度へ回し、二年目以降は研修受け入れと視察対応の収入を充てます」

「視察が来なかったら?」

「営業日を増やす前に、人員計画を見直します。赤字を隠しません」

「会社の追加負担は?」

「上限を決めます」

「本社が認めますか」

「認めてもらいます」

 会社側の担当者が苦笑した。

「田中さんが言うと、もう決まったように聞こえますね」

「まだ提案です」

「反対したら?」

「二人だけで安全に運営できる勤務表を作ってください。それができるなら、撤回します」

 誰も答えなかった。

     *

 翌日、美月は黒田へ人員計画の変更を説明した。

『二百三十万円の増額か』

「初年度の上限です」

『投資額七千二百万円とは別だぞ』

「運営支援費として計上してください」

『簡単に言うな』

「二人で回せば、労働時間が上限を超えます。夜間待機を勤務に含めず、地域の方へ無償で補助を頼めば計算上は成立します」

『それをするつもりはないんだな』

「ありません」

『会社としては、現地で雇用を生んだという成果は欲しい。だが、赤字を増やしたくもない』

「続かない雇用を作っても、成果にはなりません」

 黒田は黙った。

 電話の向こうで、紙をめくる音がした。

『二年間だけだ』

「はい」

『会社の追加支援は、年間二百三十万円を上限に二年間。三年目以降は、事業収入か別の財源で賄う。半年ごとに収支と労働時間を報告する』

「分かりました」

『条件がある』

「何ですか」

『人を増やした結果、仕事まで増やすな。三人いるから営業日を増やせる、視察をもっと受けられる、と最初から詰め込むな』

 美月は返事を止めた。

 自分が考えていたことを見透かされた気がした。

『聞いているか』

「はい」

『雇用を守るために、人を疲れさせたら同じことだ』

「承知しました」

『本当に分かってるか』

「分かっています」

『なら、申請書を出せ』

 黒田はそれだけ言い、電話を切った。

 美月は、机の上の勤務表を見た。

 三人に増えた空欄へ、研修受け入れ、視察、広報、商品開発と書き込みかけていた。

 その文字をすべて削除した。

     *

 長谷部遼子には、運営責任者として採用通知を出した。

 藤原麻子には常勤の宿泊・交流担当、川根由には週二十四時間の短時間勤務を提示した。

 由は通知書を読み、最初に尋ねた。

「短時間勤務は、常勤より下という意味ですか」

「役職上の上下ではありません。勤務時間と担当範囲が違います」

「給料は違いますね」

「はい。時給換算では同じ水準です。社会保険にも加入します」

「調理だけするんですか」

「調理、食材発注、体験教室の調整、地域利用の受付をお願いします。予約システムも覚えていただきます」

「やっぱり、あれを使うんですか」

「使います」

 由は採用通知を裏返し、もう一度表へ戻した。

「一回消したら、全部消えました」

「本番では、取り消す前に確認画面が出ます。研修で練習します」

「研修中も給料は出ますか」

「出ます」

「何日くらい?」

「開業前に十日間。その後も必要に応じて行います」

「家で覚えてきてと言われると思ってました」

「業務に必要な研修ですから、勤務時間です」

 由は通知書を両手で持ったまま、美月を見た。

「受けます」

「ご家族とは相談しましたか」

「しました。義母の通院日は休ませてもらいます。急に具合が悪くなった時は、連絡します」

「承知しました」

「迷惑をかけるかもしれません」

「誰でも、予定どおり働けない日はあります」

「田中さんでも?」

「あります」

 由は少し笑った。

「なさそうに見えます」

「あります」

「なら、信じます」

 由は署名欄へ名前を書いた。

 麻子への採用通知は、上谷の実家へ直接持っていった。

 三週間の試験滞在は、残り五日になっていた。

 玄関には、花の運動靴と千恵の長靴、麻子が大阪から持ってきたパンプスが並んでいる。その横に、新しい防水靴が一足置かれていた。

「採用ですか」

 封筒を受け取った麻子が尋ねた。

「常勤の宿泊・交流担当として採用します。ただし、確認していただきたい条件があります」

 二人は台所のテーブルへ向かい合って座った。

 勤務は週四十時間。早番と遅番を含む交代制。遅番は原則として週二回まで。夜間待機は運営責任者と分担するが、家庭の事情に応じて月ごとに調整する。

 月額二十万五千円。

 大阪のホテルで受け取っている給与より、七万円近く下がる。

 契約期間は一年。三か月の試用期間がある。

「七万円か」

 麻子は給与額を見つめた。

「家賃はかかりませんが、家の修繕費があります」

「はい」

「車も必要です」

「はい」

「花の習い事も、今のところは続けられません。大阪まで通えないから」

「それは、ご家族で判断してください」

「承知しています」

 麻子は通知書を置いた。

「大阪のホテルから、異動の話をもらいました。夜勤の少ない予約センターです」

「条件は?」

「給料は今とほとんど変わりません。土日のどちらかは休めます」

「よい条件だと思います」

「そうですね」

「清澄村を選ぶ必要はありません」

「採用しておいて、それを言いますか」

「選ぶのは藤原さんです」

 窓の外で、花と千恵が畑の草を抜いている。

 花は一週間目に、虫が多い、夜が暗い、動画が止まると不満を言った。

 二週間目には、近所の子どもと川で遊ぶようになった。

 しかし、村外の小学校までの通学路を一度体験すると、朝六時に起きなければならないことに驚いていた。帰りのバスを逃した日は、麻子が片道三十五分かけて迎えに行った。

 千恵の通院日と重なり、車を使えない日もあった。

 村で暮らす三週間は、麻子が想像していたより忙しかった。

「楽になるために戻ろうと思っていました」

 麻子が言った。

「でも、楽にはならないですね」

「大阪とは違う負担があります」

「母がいるから安心だと思ってた。でも、母にも病院があるし、畑もある。花の面倒を見るために暮らしてるわけじゃない」

 美月は黙って聞いた。

「それでも、ここにいた三週間、花が熱を出した日、母がそばにいてくれました。私一人で会社へ電話して、預ける場所を探さなくてよかった」

 麻子は窓の外へ顔を向けた。

「学校まで遠いし、給料も下がる。母の家は直さないといけない。村の人は、私を昔の麻子ちゃんとして見る。でも、私はもう十八歳じゃない」

「はい」

「大阪のホテルなら、今までどおり働けます。仕事も分かってる。昇進する可能性もある」

「その条件も含めて考えてください」

「田中さんなら、どちらを選びますか」

 美月は答えようとして、やめた。

 東京へ戻れば、東雲のような大規模事業に関われる。給与も地位も、清澄村に残るより確かなものになる。

 村へ来たのは、自分で選んだことではなかった。

 その後、一年延長することを選んだ。それでも、期限の先を決めたわけではない。

「私の条件と、藤原さんの条件は違います」

「ずるい答えですね」

「そうですね」

 麻子は笑わなかった。

 通知書の契約開始日を指でなぞる。

「返事は、いつまでですか」

「十日後です」

「大阪へ戻ってから決めてもいい?」

「もちろんです」

「辞退しても?」

「はい」

「村の人に、帰ってくると言ってしまいました」

「仕事を選ぶのは、村の人ではありません」

「母にも、花にも、期待させました」

「期待に応えるためだけに、仕事を選ばないでください」

 麻子は顔を上げた。

「それを言うのは、簡単ですよ」

「簡単だとは思っていません」

「田中さんは、誰かに期待されて、仕事を選んだことがありますか」

 美月は、父の書斎にあった設計図を思い出した。

 都市をつくる仕事を選んだ時、父のようになりたいと思った。父が完成させられなかったものを、自分なら完成させられる気もしていた。

 けれど、それを麻子へ説明する言葉は見つからなかった。

「あります」

 美月は答えた。

「その結果、今も続けています」

「後悔してますか」

「まだ分かりません」

 麻子はしばらく美月を見たあと、採用通知を封筒へ戻した。

「十日、考えます」

「はい」

     *

 麻子が大阪へ戻った三日後、辞退したいというメールが届いた。

 美月は短い文章を二度読んだ。

『迷いましたが、娘の生活と収入を考え、現在のホテルで予約センターへの異動を受けることにしました。採用していただいたのに申し訳ありません』

 森下へ伝えると、肩を落とした。

「帰ってこないんですね」

「今は、です」

「花ちゃんが来たら、村の子どもが一人増えたのに」

「花さんは、人口を増やすために暮らすわけではありません」

「分かってます」

 森下は机の書類をそろえた。

「分かってるけど、残念なものは残念です」

「はい」

 美月も、それ以上は言わなかった。

 常勤の宿泊・交流担当は、次点の候補者へ連絡する必要がある。

 採点表を開いた時、麻子から二通目のメールが届いた。

『もう一つ相談があります。大阪の仕事を続けながら、月に四日から六日、清澄村で働くことはできませんか。ホテルの副業制度を確認したところ、月四十時間以内なら申請できます。開業準備の研修にも、有給休暇を使って参加できます』

 その下に、希望する業務が記されていた。

 予約管理の仕組みづくり。

 接客手順の作成。

 外国語での案内文。

 繁忙日の宿泊対応。

 新人研修。

『常勤として戻る覚悟は、今の私にはありません。ただ、できる範囲だけ村へ関わる方法を考えたいです。中途半端なら、断ってください』

 藤井はメールを読み、首を傾げた。

「月四日では、村へ帰ってくるとは言えんな」

「帰ってくることを採用条件にしていません」

「でも、常勤が一人足りんでしょう」

「次点候補者へ常勤採用を打診します。藤原さんには、業務委託ではなく、勤務日を限定した非常勤契約を提案できます」

「人件費がまた増えませんか」

「常勤枠とは別に、研修と繁忙日対応へ計上していた費用があります。月四十時間以内なら、その範囲で調整できます」

「月に数日だけ来る人を、村の人はどう見るやろ」

「働いた時間に応じて給与を支払います。それ以上でも、それ以下でもありません」

 藤井は腕を組んだ。

「昔は、帰るか帰らんか、二つしかないと思ってました」

「今も、そう考える人は多いと思います」

「麻子ちゃんは、帰らずに戻るんか」

「本人にしか分かりません」

 美月は返信を書いた。

『月四十時間以内の非常勤勤務として、具体的な勤務日と業務内容を協議します。常勤職員とは役割を分け、研修時間を含めて賃金を支払います』

 送信してから、次点候補者の履歴書を開いた。

     *

 常勤の宿泊・交流担当には、県内の道の駅で接客と商品管理をしていた三十二歳の女性が採用された。

 村外から通勤するため、片道五十分かかる。冬季は道路状況によって勤務できない可能性があり、開業前に代替勤務の手順を作ることになった。

 清掃・調理補助には、応募した七人のうち五人を採用した。

 二人は不採用となった。

 一人は、早朝も夜間も勤務できず、月に二日だけを希望していた。もう一人は、面接で「村の施設なのだから、空いている時に家族を無料で泊めたい」と求めた。

 結果を伝えた翌日、役場へ中井敏夫が来た。

「妹が落ちたそうやな」

 地域振興課へ入るなり、美月の机の前へ立った。

「応募者本人へは、結果と理由を文書でお伝えしました」

「村の者より、外の人を採るんか」

「村外だから採用し、村内だから不採用にしたわけではありません」

「妹は、昔から学校の掃除をしとった。PTAでも、避難所でも働いた。外から来た人より、学校のことを知っとる」

「今回の勤務条件と、希望された日数が合いませんでした」

「月二日でも、人がおらん時に呼べばええやろ」

「急な呼び出しを前提にした雇用はしません」

「本人は構わんと言うとる」

「勤務日と収入が決まらなければ、仕事として続きません」

「村のために手伝いたいと言うとるんや」

「手伝いではなく、雇用です」

 敏夫の声が大きくなった。

「何でも東京のやり方にせんと気が済まんのか」

 役場の中が静かになった。

 藤井が席を立とうとしたが、美月は首を振った。

「村の方を、都合のいい日に呼び出し、都合が悪くなれば仕事をなくす形にはしたくありません」

「本人がええと言うとる」

「採用する側にも責任があります」

「責任、責任って、あんたはそればっかりや」

「仕事ですから」

「ここで働く人は、あんたの数字どおりには動かんぞ」

「動かそうとは思っていません」

「なら、妹を採れ」

「採用できません」

 美月は敏夫の顔を見て答えた。

「勤務条件を変えれば、選考そのものが不公平になります」

 敏夫は両手を握りしめた。

「よそ者の女に、村の人間が選ばれるんか」

 その言葉が役場の壁へ響いた。

 森下が息をのみ、藤井が机から離れた。

 返事を急がず、問いの意味を考えた。

 自分が選んでいるのではない。採点表があり、外部委員がいる。採用基準は公開している。

 そう説明することはできた。

 しかし、最終的な書類へ署名するのは美月だった。

「はい」

 美月は続けた。

「今の私は、施設運営を任された責任者です。村内の方も、村外の方も、同じ条件で選びます」

「三か月前まで、学校のことも知らんかったくせに」

「知りませんでした」

「今は知っとるつもりか」

「知っていることは増えました。知らないことも増えました」

「そんな人間に、不採用と言われる側の気持ちが分かるんか」

「分かるとは言いません」

 敏夫は美月をにらんだ。

 やがて、何も言わずに踵を返した。

 自動ドアが開き、強い日差しが床へ差し込む。

 扉が閉まってからも、役場の中には重い沈黙が残った。

「追いかけますか」

 森下が尋ねた。

「今は、やめた方がいい」

 藤井が答えた。

 美月は、不採用者へ送った通知書を開いた。

 選考結果と、勤務条件が合わなかったことだけが記されている。

「説明が足りなかったでしょうか」

「どれだけ説明しても、納得できん時はあります」

 藤井は自分の席へ戻った。

「でも、田中さん」

「はい」

「採らなかった人も、開業したら施設を使う村民です。結果を出して終わりにはせんでください」

「はい」

 美月は通知書の下に、希望者へ個別説明の機会を設けると追記した。

     *

 採用者が初めてそろった日は、校舎の足場が半分だけ外されていた。

 白く塗り直された壁と、残された古い木枠が並んで見える。

 玄関前には工事用の柵があり、内部へ入れる区域は一階の一部に限られていた。

 長谷部遼子、川根由、新たに常勤採用された西田沙織、清掃・調理補助の五人。月に数日勤務する麻子は、オンラインで参加した。

 藤井と森下、創生都市開発の担当者も立ち会った。

「最初に、雇用契約の内容を確認します」

 美月が言うと、由が笑った。

「この建物で最初にするのが、契約の話なんですね」

「大切なことです」

「分かってます」

 勤務時間、休憩、休日、賃金、時間外勤務、夜間待機、災害時対応、契約更新。

 説明には一時間かかった。

 次に、遼子が一枚の紙を配った。

『やらないことの一覧』

 最初の項目には、こう書かれていた。

『職員の自家用車による宿泊客の送迎を、通常サービスにしない』

 二つ目。

『住民から提供された食材を、確認せず宿泊客へ出さない』

 三つ目。

『勤務時間外の問い合わせへ、個人の電話で対応しない』

 四つ目。

『体験教室の準備と片づけを、講師の無償作業にしない』

 五つ目。

『満室であっても、安全に対応できない追加予約を受けない』

「できることではなく、やらないことから決めるんですか」

 西田沙織が尋ねた。

「できることは、開業したら増やせます」

 遼子が答えた。

「やらないことは、最初に決めないと増え続けます」

「宿泊客から頼まれても?」

「断ります。断り方は一緒に考えます」

「村の知ってる人に頼まれたら?」

 由が聞く。

「同じです」

「難しいですね」

「だから、個人ではなく、施設の決まりとして断ります」

 遼子は全員の顔を見た。

「親切にすることと、何でも引き受けることは違います。ここで働く人が続かなければ、施設も続きません」

 オンライン画面の中で、麻子がうなずいた。

「大阪のホテルでも、最初は善意で始めたサービスが、いつの間にか当然になってます」

「戻すのは難しい?」

 遼子が尋ねる。

「難しいです。前はしてくれたと言われるから」

「なら、最初に決めましょう」

 説明を終えたあと、全員で建物の中を歩いた。

 一号室には、まだ畳が入っていない。二号室の壁には下塗りが施され、三号室には新しい洗面台が運び込まれていた。

 廊下の一部には、古い床板が再び張られている。

「ここ、傷が残ってますね」

 沙織が足元を見た。

「使える板は、削りすぎずに戻しました」

 美月は返した。

「新しい板との違いが、分かるようになっています」

 由は廊下を歩き、教室の前で立ち止まった。

「ここ、昔は一年生の教室やった」

「客室にはしなかった場所ですね」

「交流室になるんでしょう」

「はい」

「息子が一年生の時、入学したのは四人だけやった」

 由は壁に手を触れようとして、まだ塗装が乾いていないという札に気づき、手を引いた。

「学校が閉まる時、もう使うことはないと思ってました」

 遼子が尋ねた。

「宿になって、うれしいですか」

「まだ分かりません」

 由は正直に答えた。

「働き始めて、嫌になるかもしれんし」

「それでいいと思います」

「責任者が、そんなこと言うんですか」

「嫌になる日がない仕事はありません」

 遼子は、開いた窓から校庭を見た。

「嫌になった時、何が嫌なのか言える職場にします。直せることなら直す。直せないなら、辞めることも含めて考える」

「辞めてもええんですか」

「契約で働くんですから、辞める権利もあります」

 由は驚いたように遼子を見た。

 美月も、その言葉を聞いていた。

 採用する時、続けられる人を選ぼうとした。

 だが、続けることを強制するための契約ではない。

 働く側が職場を選び直す権利もある。

 体育館へ入ると、新しい床の木の匂いがした。

 舞台の梁には、颯太と兄の身長を刻んだ跡が保護板の内側に残されている。

 美月は、その場所を全員へ説明した。

「災害時には、ここが避難所になります。宿泊客がいる場合も、避難者の受け入れを優先します」

「その時、私らは帰れるんですか」

 清掃担当の女性が尋ねた。

「ご家族の安否確認と帰宅を優先する場合もあります。全員が施設へ残る前提にはしません」

「誰が残るかは?」

「災害対応計画で決めます。ただし、実際の状況によって変わります」

「村のために、ここで働くんですよね」

 女性が言った。

 美月は答える前に、遼子を見た。

 遼子が一歩前へ出た。

「村のためだけではありません」

 体育館の中に、声が響いた。

「給与を受け取り、自分と家族の生活を支えるために働きます。宿泊者の安全を守り、住民が施設を使えるようにする。それが仕事です」

 女性は黙って聞いている。

「災害時に責任を果たす必要はあります。でも、自分の家族を捨ててまで残れとは言いません。誰かの犠牲で続く施設にはしません」

 外では、午後の風が杉の梢を揺らしていた。

 止まった時計の針は、三時十八分を指している。

 体育館の新しい時計は、午後二時四十七分を示していた。

「明日から、開業前研修を始めます」

 遼子が言った。

「掃除からですか」

 由が尋ねる。

「最初は避難経路の確認です。そのあと、予約システム。それから客室清掃」

「覚えること、多いですね」

「全部、一日では覚えられません」

「間違えてもええですか」

「研修中は、間違えるためにやります」

 由は息を吐いた。

「なら、少し安心しました」

 体育館を出る時、美月は最後まで残り、照明を消した。

 新しい床の上から光が消え、窓から入る日差しだけが細長く残った。

 働く覚悟とは、どれだけ我慢できるかではない。

 できることと、できないことを伝えること。

 引き受けた仕事の責任を知ること。

 条件が合わなければ、断ること。

 続けられない時には、立ち止まること。

 そして、雇う側も、その言葉を受け止めること。

 美月は体育館の扉を閉めた。

 廊下の向こうでは、これから働く人たちが、明日の集合時刻を確かめ合っている。

 誰かが、午前八時半と言った。

 別の誰かが、遅れたら電話をすると答えた。

 由の笑い声が響き、遼子が「最初の日から遅れる話をしないで」と言った。

 建物の中に、人の声が残っている。

 まだ宿泊客は一人もいない。

 客室には布団も入っていない。

 それでも、閉校してから十年止まっていた場所に、働く人の時間が動き始めていた。


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