第二十四章 戻りたい人
旧清澄小学校の工事が始まってから、役場へ村外からの電話がかかってくるようになった。
最初の一本は、撤去された校舎の床板についての問い合わせだった。
『あの板、捨ててしまうんですか』
電話の主は、名古屋に住む六十二歳の男性だった。清澄小学校を卒業し、高校進学と同時に村を出たという。
「再利用できるものは選別しています。すべてを残せるわけではありませんが、家具や案内板への加工を検討しています」
森下が答えると、男性は少し安心したようだった。
『私らが雑巾がけした床なんです。残せと言える立場やないのは分かっとるんですけど』
「ご希望があれば、工事の見学日をご案内します」
『見学に行ってもええんですか』
「安全上、入れる場所は限られます。事前の申し込みが必要です」
『申し込みます。妻も連れていきます』
その翌日には、大阪に住む女性から、学校が宿泊施設になるのはいつかという電話があった。
さらに翌日、東京の男性からメールが届いた。
『父が清澄村の出身です。祖父母の家が残っています。将来的に村へ移り住むことは可能でしょうか』
四日間で、問い合わせは十二件になった。
工事の進捗を知らせる村の広報資料が、元住民の集まりや親族の間で回っているらしい。役場の公式サイトに掲載した写真も、個人の交流サイトで共有されていた。
写真には、足場の組まれた校舎と、取り外された床板を一枚ずつ確認する大工の姿が写っている。
派手な完成予想図は載せなかった。
雨漏りの跡、腐食した柱、工期の遅れ、追加費用。体育館の床下から避難所記録が見つかったことも、分かっている範囲だけを記した。
それでも、問い合わせは増えた。
「懐かしい、見に行きたいという話なら分かるんです」
森下は受話器を置き、机の上のメモを見た。
「でも、戻って住みたいという人が、こんなにおるとは思いませんでした」
美月は十二件の内容を分類した表を開いた。
見学希望が五件。
宿泊希望が二件。
移住または帰郷についての相談が三件。
仕事についての問い合わせが二件。
「今の段階では、希望を受け取っただけです」
「分かってます」
「宿泊施設の開業日も、募集する職種も決まっていません。住居を紹介できる状態でもありません」
「それも電話で説明しました」
森下は疲れた顔で笑った。
「そしたら、決まったら教えてくださいと言われました」
「連絡先を一覧に入れてください。ただし、優先的に案内するという意味ではありません」
「田中さん、こういう時、本当に細かいですね」
「後になって、先に電話したから採用されると思っていたと言われても困ります」
「その心配は、たぶん正しいです」
森下の机には、工事関係の書類のほかに、水道料金の変更届、福祉送迎車の運行表、猟友会から届いた有害鳥獣の報告書まで積まれていた。
移住相談を受け付ける専任職員はいない。
問い合わせが増えれば、森下の仕事が増えるだけだった。
「窓口を決めましょう」
美月は言った。
「相談内容を統一した様式で記録します。家族構成、希望時期、住居、収入、通院、通学、車の有無。村に親族や土地がある場合は、所有関係も確認します」
「面接みたいですね」
「移住を認めるための審査ではありません。何が必要なのか把握するためです」
「電話でそこまで聞いたら、嫌がられませんか」
「聞かずに、空き家があります、自然が豊かですと案内する方が無責任です」
森下は表の項目を上から読み、車の有無という欄で指を止めた。
「車がないと言われたら?」
「日常生活で何が難しいか説明します」
「それで諦めたら?」
「諦めるために必要な情報だったということです」
美月が答えると、森下は黙った。
窓の外から、工事車両の音が聞こえてくる。役場前の道を、資材を積んだ小型トラックがゆっくり通り過ぎた。
「戻ってきてほしくないわけやないんです」
森下は表へ視線を落としたまま言った。
「一人でも増えたら、村としてはありがたいです。子どもがおる家族なら、なおさら」
「だからこそ、数だけを見ない方がいいと思います」
「住み始めてから困る人を増やしたら意味がない、ということですか」
「今いる人の負担になる可能性もあります」
森下が顔を上げた。
「移住者を支える人員も費用も必要です。近所の人が無償で面倒を見る前提にはできません」
「そうですね」
「戻る人だけでなく、迎える側にも生活があります」
美月は、新しい表の表題を入力した。
『帰郷・移住相談記録』
入力してから、帰郷と移住の間にある中黒を見つめた。
村に生まれた人と、初めて来る人。
二つを分ける必要はある。家や土地、親族、地域との関係が違う。
しかし、村を出て二十年、三十年たった人が、現在の清澄村を知っているとは限らなかった。
*
最初に対面で相談へ来たのは、藤原麻子という三十五歳の女性だった。
大阪市内のホテルで十五年間働いている。現在は宿泊部門の主任で、予約管理、客室調整、従業員の勤務表作成を担当していた。
清澄村で生まれ、高校卒業まで暮らしていたという。
麻子は七歳の娘、花を連れてきた。
二人が役場へ入ってきた時、藤井は地域振興課の奥から立ち上がった。
「麻子ちゃんか」
「お久しぶりです」
「ほんまに麻子ちゃんか。お母さんから、帰ってくるかもしれんとは聞いとったけど」
「まだ決めてません」
麻子はそう答え、隣に立つ娘の肩へ手を置いた。
「娘の花です」
花は小さく頭を下げた。
「こんにちは」
「よう来たなあ。暑かったやろ」
藤井は机の引き出しを開け、個包装の飴を二つ取り出した。
花は母親の顔を見てから、一つだけ受け取った。
「ありがとうございます」
「しっかりした子やな」
「人の前では、おとなしいんです」
麻子が笑う。
藤井も笑った。
それから美月に気づき、表情を改めた。
「田中さん、こちら、藤原麻子さん。旧姓は山下さんです。清澄小の卒業生で、お母さんは上谷に住んどる」
「昨日、相談の予約をいただきました」
美月は立ち上がり、名刺を渡した。
「創生都市開発の田中です」
「学校の計画を担当している方ですよね」
「会社側の現地責任者です。ただ、今日は村への帰郷相談としてお話を伺います」
麻子は名刺を両手で受け取った。
「工事の記事、読みました」
「ありがとうございます」
「学校で働く人を募集する予定があると聞いたんですけど」
藤井が美月を見た。
美月は会議室の扉を開け、麻子と花を中へ案内した。
森下も資料を持って同席した。
「先にお伝えします」
三人が席に着くと、美月は前を向いたまま言った。
「宿泊施設の採用人数、雇用条件、募集時期は、まだ最終決定していません。村の出身者であることが、採用上の優先条件になる予定もありません」
麻子の表情から、わずかに笑みが消えた。
「それは、分かっています」
「現在の職場を辞める判断は、募集条件が出るまで待ってください」
「辞めるとは言ってません」
「はい。念のためです」
麻子は膝の上に置いた鞄を引き寄せた。
隣では、花が会議室の壁に貼られた秋祭りの写真を見ている。
「私、ホテルで働いています」
麻子が言った。
「予約管理も接客もできます。外国のお客さんも担当してきました。英語は、仕事で必要な程度ですけど」
「勤務歴は拝見しました。開業時に必要となる経験です」
「だったら――」
「ただし、客室は三室です」
美月は計画資料を開いた。
「最大宿泊人数は十人。開業当初は月八日程度の営業を想定しています。一般的なホテルと同じ勤務形態にはなりません」
「平日は何をするんですか」
「予約管理、清掃、施設点検、体験企画、広報、地域利用の調整などです。川音の湯との連携もあります。宿泊業務だけを担当する常勤職を何人も置くことはできません」
「給料は?」
「決定には至っていません」
「大阪より下がりますよね」
「下がる可能性が高いです」
麻子は小さく息を吐いた。
「そこまで、はっきり言うんですね」
「生活を決める話ですから」
「普通は、もう少し、戻ってきてほしいという顔をしませんか」
「戻ってきてほしいという気持ちだけで、給与は払えません」
会議室が静かになった。
森下が、美月と麻子の顔を交互に見る。
花が壁の写真から顔を戻した。
「お母さん、怒ってる?」
「怒ってないよ」
麻子は娘へ答えた。
「大事な話してるだけ」
花はうなずいたが、椅子の上で少し体を小さくした。
美月は声の調子を落とした。
「藤原さんが戻ることに反対しているわけではありません。むしろ、現場経験のある方が応募してくださるのはありがたいです。ただ、学校の仕事が一つできることで、ご家族の生活がすべて成り立つとは言えません」
「母と一緒に住めば、家賃はかかりません」
「お母様の家について、改修の必要はありませんか」
「住めてますから」
「三人で暮らせる状態でしょうか」
麻子はすぐには答えなかった。
「二階に、私が使っていた部屋があります」
「水回りは?」
「古いですけど、使えます」
「屋根の修理は?」
「母は何も言ってません」
森下が手元の資料をめくった。
「山下さんの家、去年の空き家調査では対象外です。お母さんが住んでおられるので。ただ、上谷は合併処理浄化槽に替わっていない家が残ってます。屋根も、一昨年の大雨で西側から少し漏れたと聞いた気がします」
「初めて聞きました」
麻子の眉が寄った。
「お母様は、心配をかけたくなかったのかもしれません」
美月が言うと、麻子は首を振った。
「いつもそうなんです。帰ってこなくていい、こっちは何も困ってないって」
「戻る理由は、お母様のことですか」
「それだけではありません」
麻子は鞄の持ち手から手を離した。
「ホテルは夜勤があります。土日も休めない。娘が熱を出したら、同じ部署の人に頭を下げて勤務を替わってもらいます。母に来てもらうにも遠いし、預けるところも毎回違う。去年、離婚してから、ずっとそんな感じです」
花が下を向いた。
麻子は娘の髪へ手を置いた。
「花が学校へ上がったら、もう少し生活を整えたいと思ってました。村なら母もいるし、家もある。それに、学校が宿になるなら、今までの仕事も無駄にならないかもしれない」
「花さんの学校は、村外になります」
「知っています。スクールバスがあるんですよね」
「朝夕に一本ずつです。放課後の活動に参加する場合は、帰りの交通を別に考える必要があります」
「母が車を出せます」
森下が口を挟んだ。
「お母さん、もう夜は運転せんようにしてますよ」
「そうなんですか」
「去年、暗い道で鹿が出てから、怖いと言うてました」
麻子は唇を結んだ。
「では、私が迎えに行きます」
「学校の勤務時間が決まっていません」
美月が言う。
「宿泊客の到着時刻と重なる可能性があります。夜間対応が必要な日もあります」
「全部、無理だと言いたいんですか」
「無理かどうかを決めるために、条件を一つずつ確認しています」
「田中さん」
森下が小声で呼んだ。
美月は言葉を止めた。
麻子は窓の外を見ていた。
役場の駐車場に、午後の光が落ちている。遠くで草刈り機の音が続いていた。
「大阪にいると、村へ帰れば何とかなる気がしたんです」
麻子は窓を見たまま言った。
「母がいて、昔から知ってる人がいて、家がある。仕事までできるなら、今より楽になるかもしれないって」
「楽になる部分はあると思います」
美月は答えた。
「難しくなる部分もあります」
「分かっていたつもりなんですけどね」
「村を出られたのは、十七年前ですか」
「はい」
「十七年前と今では、なくなった店も、減ったバスもあります。お母様も十七歳年を取っています」
麻子は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「そうですね」
その時、花が小さく手を上げた。
「質問していいですか」
「どうぞ」
「学校、見られますか」
「工事中なので、中には入れません。安全な場所から外を見ることはできます」
「お母さんの学校だったんですよね」
美月は麻子を見た。
「そうです」
麻子が答えた。
「お母さん、足が速かったんやで」
「知ってる。おばあちゃんが言ってた」
「運動会で一番やった」
「二番って言ってたよ」
花が言うと、森下が笑った。
麻子も困ったように笑った。
「一回だけ二番やったの」
「おばあちゃん、毎年二番だったって」
「あとで確認しようか」
麻子の顔から、先ほどまでの硬さが少し消えた。
*
相談のあと、美月と森下は母娘を旧清澄小学校へ案内した。
工事区域の外に設けた見学場所から、校舎の南側が見える。
足場には養生幕が張られ、窓の一部が外されていた。校庭には木材と資材が積まれ、作業員が一輪車で廃材を運んでいる。
「こんなに小さかったかな」
麻子が言った。
役場では、資料の写真を見ながら校舎は大きかったと話していた。実際に見た感想は、その反対だった。
「二階の右から三番目が、六年の教室」
麻子は花へ教えた。
「あそこ?」
「たぶん。窓が外れてるところ」
「お母さん、どの席?」
「窓側の一番後ろ」
「目が悪くならない?」
「黒板は見えてた」
花は金網へ近づき、養生幕の隙間から校舎を見た。
工事の音が止まり、資材置き場から颯太が出てきた。
作業着の袖を肘まで上げ、図面を丸めて持っている。
「そこから中へ入らんようにしてください」
言ってから、麻子の顔を見た。
「麻子?」
「颯太くん?」
二人はしばらく互いの顔を確かめていた。
「久しぶり」
「いつ帰ってきたん」
「今日。まだ帰ってきたわけじゃないけど」
麻子は花の背中へ手を置いた。
「娘の花」
「こんにちは」
颯太が言うと、花も頭を下げた。
「お母さんの同級生ですか」
「一つ下」
「颯太くん、昔は私より小さかったんです」
「それは小学校の時の話やろ」
「泣き虫だったし」
「泣かされたんや」
「誰に?」
「麻子に」
「私、そんなことしてない」
「校庭の水たまりへ突き落とされた」
「勝手に転んだんでしょう」
「後ろから押した」
「覚えてない」
花が母親を見上げた。
「お母さん、悪い子だったの?」
「違います」
「悪かったで」
颯太が真顔で言ったあと、少しだけ笑った。
美月は、彼が村の同年代と話す姿を初めて見た。
「工事、どう?」
麻子が校舎を見ながら尋ねた。
「予定より遅れとる。開けてみたら、傷んどるところが多かった」
「時計、まだ止まったままなんやね」
「外さんことになった」
「三時十八分」
麻子は文字盤を見上げた。
「学校に避難した時も、あの時刻だった」
「停電で止まっただけや」
「分かってる。でも、ずっとあの日の時間みたいに見えた」
颯太は答えなかった。
麻子も、それ以上は何も言わなかった。
花だけが時計を見上げている。
「直さないんですか」
「中に新しい時計を付けます」
美月が答えた。
「外の時計は、そのまま残します」
「動かないのに?」
「動かないまま残したいという人が多かったからです」
花は首を傾げた。
「時間、分からないよ」
「そうですね」
美月は校舎の時計を見上げた。
「だから、中には動く時計が必要です」
花はしばらく考え、うなずいた。
工事現場から、作業を再開する声が上がった。
「宿で働くん?」
颯太が麻子へ尋ねた。
「まだ分からない。募集も始まってないって」
「大阪のホテルにおったんやろ」
「今もいる」
「なら、慣れとるな」
「三部屋だけらしいけど」
「三部屋でも、掃除は三部屋分ある」
「励ましてる?」
「事実を言うただけ」
麻子は笑った。
「颯太くんも、変わってないね」
「麻子は変わった」
「どこが?」
「水たまりへ人を落としそうにない」
「今はね」
麻子の返事に、颯太が一歩だけ後ろへ下がった。
花が声を上げて笑った。
*
翌朝、美月は麻子の実家を訪ねた。
上谷集落は、役場から車で二十分ほど山へ入った場所にある。
県道から細い道へ曲がり、川を渡る。斜面に石垣が重なり、その上へ家が建っていた。
麻子の母、山下千恵の家は、集落の中ほどにあった。
築六十年以上の木造二階建てで、正面から見る限り傾きはない。庭には梅の木と小さな畑があり、軒下に玉ねぎがつるされている。
「古い家やけど、まだ住めますよ」
千恵は美月たちを案内しながら言った。
「麻子は大げさに考えすぎるんです」
「私、何も聞いてなかったんだけど」
麻子は屋根の西側を見上げた。
瓦の一部に青い防水シートがかけられている。
「雨漏り、してるじゃない」
「強い雨の時だけや」
「いつから?」
「一昨年」
「二年も、このまま?」
「桶を置いたら済む程度やから」
「済んでないでしょう」
「帰ってきた途端に、うるさい子やな」
千恵はそう言いながら、どこか嬉しそうだった。
花は庭の端で、赤くなりかけたホオズキを見ている。
村が依頼した建築士は、屋根裏と床下、水回りを順に確認した。
雨漏りは瓦のずれだけでなく、下地の一部に腐食がある。二階の北側には結露による染みがあり、子ども部屋として使うなら断熱と電気設備の改修が必要だった。
浄化槽の交換、浴室の段差解消、給湯器の更新も含めると、最低限の工事でも六百万円を超える可能性がある。
「六百万?」
麻子は聞き返した。
「屋根をどこまで直すかで変わります」
建築士が答えた。
「外壁も同時に触るなら、もう少しかかります。正確な金額は調査後です」
「そんなお金、すぐには出せません」
「全部を一度に直す必要があるか、優先順位を付けます。雨漏りは先に止めた方がいいです」
千恵は台所の椅子へ座った。
「私は、このままで困ってないんやけど」
「お母さん一人ならね」
麻子が言った。
「花と私が住むなら、部屋も必要だし、お風呂も三人で使うでしょう」
「せやから、無理して帰ってこんでもええと言うとる」
「帰ってきてほしいんじゃなかったの?」
「帰ってきて、借金までしてほしいとは言うてない」
二人の声が重くなった。
花は庭から戻りかけて、玄関の前で立ち止まった。
美月は声をかけようとしたが、森下が先に外へ出た。
「花ちゃん、畑の向こうに沢蟹がおるかもしれんよ」
「沢蟹?」
「赤いやつ。探しに行こか」
花は母親を見た。
「道から離れないでね」
麻子が言うと、花は森下と庭を出ていった。
美月は改修費の概算表を閉じた。
「帰郷者向けの住宅改修補助があります」
「いくらですか」
「上限は百万円です。ただし、工事内容と居住期間などの条件があります。申請すれば必ず満額が出るわけではありません」
「残りは自分で、ですよね」
「はい」
麻子は台所を見回した。
壁には、麻子と弟らしい子どもの写真が何枚も飾られている。柱には鉛筆で身長を記した線があり、日付と名前が残っていた。
「家があるから、住むところは何とかなると思ってました」
「空き家ではないので、管理はされています。所有者もお母様お一人です。その点では、条件はよい方です」
「これで、よい方なんですか」
「所有者が亡くなり、相続人が十人以上いる家もあります。連絡先が分からない人や、売却にも賃貸にも反対する人が一人いるだけで、使えないことがあります」
千恵がうなずいた。
「下の西村さんの家も、それや。息子さんは貸してもええと言うとるけど、東京におる妹さんが反対しとる」
「家が傷むだけなのに?」
麻子が言う。
「子どもの頃の家やから、知らん人に入ってほしくないんやて」
「住まないのに」
「住まんから、残したいこともあるんやろ」
麻子は何か言いかけ、口を閉じた。
美月は柱の身長線を見た。
その家に住んでいない人間にとって、家は生活の場所ではなく、過去を収める箱になっている。
外から沢蟹を見つけた花の声がした。
「田中さん」
麻子が言った。
「一か月くらい、ここで暮らしてみることはできますか」
「今の職場は?」
「有給休暇と、会社の休職制度を確認します。夏休みなら、花も一緒に来られる」
「宿の仕事を試す、という意味ではありませんよね」
「募集前なのは分かっています。村で暮らせるか試したいんです」
千恵が娘を見る。
「一か月も?」
「お母さんが嫌じゃなければ」
「嫌とは言うてない」
「じゃあ、いいでしょう」
「大阪の仕事はどうするん」
「だから、これから調べる」
「辞めてから考えるんやないで」
「田中さんにも同じことを言われた」
千恵は美月を見た。
「この人、厳しいやろ」
「はい」
麻子は迷わず答えた。
「でも、帰っておいでしか言わない人より、信用できる気がします」
美月は返事に困った。
厳しくしたいわけではなかった。
帰郷を成功例として数える会社の資料も、子どもの人数が一人増えることを喜ぶ役場の気持ちも分かる。けれど、その数字の中で暮らすのは麻子と花だった。
「一か月の滞在中に、確認していただきたいことがあります」
美月は言った。
「通学、買い物、通院、仕事、通信環境。それから、お母様と同居する場合の生活分担です」
「生活分担?」
「家事だけではありません。送迎、家の修繕費、地域の共同作業、災害時の避難。お母様に頼るつもりで戻っても、お母様を支える側になる場面が増えると思います」
麻子は千恵を見た。
千恵は視線を逸らし、湯のみを持ち上げた。
「はい」
麻子は答えた。
「一回、暮らしてから決めます」
*
麻子の相談から一週間後、神戸に住む二十六歳の男性が役場へ来た。
名前は木村拓真。
祖父が清澄村の出身で、子どもの頃に何度か夏休みを過ごしたことがあるという。
「林業をやりたいんです」
拓真は、面談の最初にそう言った。
髪を短く刈り、日焼けした腕に細い革の腕輪をしていた。現在は衣料品店で販売員をしている。
「佐藤林業で働けますか」
「採用については、佐藤林業が判断します」
美月は資料から顔を上げた。
「役場や創生都市開発が仕事を約束することはできません」
「人手が足りないと聞きました」
「誰からですか」
「交流サイトで見ました。林業は高齢化していて、若い人が必要だって」
「一般的な課題としては、その通りです。ただ、人手不足と、すぐに一人を雇えることは同じではありません」
拓真は用意してきた資料を机へ置いた。
森林に囲まれた小さな家、薪ストーブ、木製家具の写真が印刷されている。
「こういう暮らしがしたいんです。自分で木を伐って、できれば家も直して」
「チェーンソーを使った経験はありますか」
「ありません。でも、研修を受けます」
「山で働いた経験は?」
「登山はします」
同席していた颯太が、資料を一枚ずつ見た。
「山へ入るなら、朝は早いです。夏は蜂と虻がおる。冬は道が凍る。木を一本倒すにも、向きと風と重心を見誤ったら死にます」
「覚悟しています」
「何を?」
拓真は言葉に詰まった。
「危険な仕事だということです」
「危険だけやない。毎日、木を伐るわけでもない。草刈り、道の補修、機械の整備、境界の確認。雨が続いたら山へ入れん。依頼がなければ仕事も減る」
「それでも、都会で服を売るより、自分が何を作っているか分かる仕事がしたいんです」
「木を伐る仕事は、木を作る仕事やないですよ」
颯太は写真を机へ戻した。
「植えた人が何十年も育てた木を、最後に倒す仕事です。自分の木やない。山主の木です」
「はい」
「一本の値段より、運び出す費用の方が高い山もある。伐ったら売れるとは限らん」
「それも勉強します」
「勉強してから来いとは言わん。来んと分からんこともあるから」
颯太は椅子に座り直した。
「ただ、きれいなところだけ見て仕事を辞めるな」
拓真はしばらく黙っていた。
「見学させてもらえませんか」
「見学ならできます。作業現場へ入る前に、安全講習を受けてもらう。最初は一日、地上作業だけです」
「給料は出ますか」
「見学には出ません。作業をさせるなら、短期でも契約を結びます。無料で働いてもらうつもりはない」
美月は颯太を見た。
以前なら、「自分で聞いてください」と断っていたかもしれない。今は、できないことと、できることを分けて説明している。
「住む家はありますか」
拓真が尋ねた。
森下が空き家一覧を開いた。
「すぐ住める家は、今のところありません。賃貸の了承が取れている家が二軒ありますけど、一軒は屋根の修理が必要です。もう一軒は土砂災害警戒区域に入っています」
「古くても構いません」
「古いというだけではありません」
美月は口を開いた。
「修繕費を誰が負担するか、災害時にどこへ避難するか、車をどこへ置くか。冬場は水道管が凍る地域もあります」
「車は買います」
「購入費と維持費を計算していますか」
「まだです」
「林業の収入が決まる前に、家と車を持つのは危険です」
拓真は印刷した写真を重ねた。
「やっぱり、来てほしくないんですか」
「来るかどうかを、こちらが決めることではありません」
「でも、悪い話ばかりですよね」
「よい話だけで決めた人は、悪い話に出会った時、ここへ来たことを後悔します」
拓真は机の上の資料を見つめた。
薪ストーブの前に椅子があり、大きな窓の向こうに雪が積もっている。写真の中には、凍った水道管も、朝六時の暗い山道も、機械の修理代も写っていなかった。
「一日、見学させてください」
拓真は顔を上げた。
「それから、もう一度考えます」
颯太がうなずいた。
「来週の水曜なら、道の補修がある」
「木は伐らないんですか」
「最初に言うたやろ。毎日、木を伐るわけやない」
拓真は少し笑った。
「分かりました。道の補修を見ます」
*
帰郷や移住への問い合わせが増えたことを、村の全員が歓迎したわけではなかった。
月に一度の工事説明会で、藤井が相談件数を報告すると、会場の後ろから声が上がった。
「出ていった人が、今になって戻ってくるんか」
声の主は、中井敏夫だった。
「学校がきれいになって、仕事もできると分かったら帰ってくる。都合のええ話やな」
「まだ戻ると決まった人はおりません」
森下が答えた。
「相談が来ている段階です」
「村が金を出して家まで直すんか」
「住宅改修補助は、以前からある制度です。村の出身者だけでなく、新しく移住する方も対象です」
「一軒に百万円出すなら、今住んどる家にも出してくれ」
「現在の住民向けにも、耐震改修や生活設備の補助制度があります」
「条件が細かすぎて使えんのや」
敏夫の隣に座っていた女性もうなずいた。
「若い人が来るのはええことやけど、何でも新しく来る人が先になるのは困るわ」
「優先するとは言っていません」
美月が答えると、女性は美月を見た。
「けど、学校で働く人も、外から連れてくるんでしょう」
「村内外を問わず募集します。職務に必要な条件を示し、選考します」
「村の人ではあかんの?」
「あかんとは言っていません」
「ホテルで働いたことなんか、村の人にはないやろ」
「経験が必要な仕事と、研修で身につけられる仕事を分けます。すべての職種で宿泊業の経験を求める予定はありません」
別の男性が手を上げた。
「戻ってくる人は、村の人として扱うんか。それとも移住者か」
藤井が困った顔をした。
「住民票を移せば、制度上は村民です」
「そんな話やない」
男性は言った。
「昔ここに住んどっても、二十年も外におったら、村のことは分からんやろ。せやのに、帰ってきた途端、昔から知っとる顔をして意見を言われても困る」
会場の中に、小さなざわめきが広がった。
その反対側から、春江が声を上げた。
「外へ出たら、もう帰ってきたらあかんの?」
「誰も、そこまで言うてない」
「言うとるのと同じや。若い子には村へ残れとは言えん。出ていったら、今さら帰るなと言う。ほんなら、いつ戻ったらええの」
「戻るなとは言うてない。急に村の代表みたいな顔をするなと言うとる」
「まだ誰も、そんな顔しとらんやろ」
言葉が重なり、藤井が机を軽く叩いた。
「一人ずつ話してください」
声は大きくなかったが、会場は静かになった。
「戻ってきた人も、新しく来た人も、今住んどる人も、同じ村で暮らすことになります。どちらかだけを特別扱いするつもりはありません」
藤井は出席者の顔を見回した。
「ただ、人数が増えたら全部うまくいく、とは役場も考えてません。家も仕事も交通も、足りんものがあります。受け入れられる数を超えて呼び込むこともしません」
「何人なら受け入れられるんや」
敏夫が尋ねた。
「まだ分かりません」
「分からんのに話を進めとるんか」
「分からんから、相談の内容を調べています」
藤井の答えに、敏夫は鼻を鳴らした。
美月は会場の隅に座る結菜へ目を向けた。
結菜はノートを開いていたが、何も書かずに話を聞いている。
「一つ、聞いてもいいですか」
結菜が手を上げた。
「移住する人に子どもがいたら、村の子どもが増えたって数えるんですか」
「住民票が村にあれば、人口統計には入ります」
森下が答えた。
「その子が村外の学校へ通っていても?」
「はい」
「学校へ行くバスは、今のままですか」
「現時点では、今のままです。利用者が増えれば、運行の見直しを検討します」
「増えてから検討するんですか」
結菜の問いに、森下は答えを止めた。
美月は、麻子と花の姿を思い出した。
開業する宿泊施設に必要な人材と、村で暮らす親子に必要な交通は、別の事業として扱われている。しかし、麻子にとっては一つの生活だった。
「試験的な滞在を希望する家族については、滞在中の移動記録を取ります」
美月が言った。
「通学、買い物、通院、仕事。その記録を交通検討会へ共有します」
「記録を取ったら、バスは増えるんですか」
「増やせるかどうか判断する材料になります」
「増えないかもしれない?」
「はい」
結菜はうなずいた。
「だったら、その人にも先に言った方がいいです」
「伝えます」
美月が答えると、結菜はようやくノートへ何かを書いた。
*
帰郷・移住相談の記録は、一か月で二十七件になった。
そのうち、二年以内の移住を具体的に検討している人は六組だった。
村出身者が三組。
親や祖父母が村出身の人が二組。
清澄村に親族のいない人が一組。
六組すべてへ、同じ資料を送った。
利用できる住宅の現状。
想定される修繕費。
公共交通の時刻表。
診療所の診療日。
最寄りの総合病院までの所要時間。
学校と保育施設。
買い物ができる場所。
仕事の募集状況。
災害危険区域と避難所。
冬季の道路状況。
資料の最後には、赤い文字で一文を入れた。
『学校および温泉施設の整備は、住居、雇用、交通、医療を保証するものではありません』
藤井は、その一文を見て顔をしかめた。
「ここまで書いたら、来る人がおらんようになりませんか」
「六組へ送ったあと、三組から現地相談の予約が入りました」
「残りの三組は?」
「一組は見送り。一組は家族で再検討。一組は返事がありません」
「一組、減ったんですね」
「はい」
美月は答えた。
「でも、来てから知るよりはいいです」
その日の午後、麻子からメールが届いた。
『勤務先と相談し、八月に三週間の休暇を取れることになりました。娘と母の家で暮らします。学校の仕事とは切り離して、村で生活できるか確かめたいです』
続けて、確認したい事項が並んでいた。
大阪の住居は解約しない。
現在の仕事も辞めない。
自家用車は購入せず、滞在中は母の車を日中のみ使う。
花の通学経路を確認する。
村内での買い物と通院にかかる時間を記録する。
家の修繕は、屋根の応急処置だけを先に行う。
地域の共同作業には、参加条件を確認してから加わる。
最後に、もう一つ書かれていた。
『宿泊施設の採用条件が決まりましたら、正式に応募します。村の出身者としてではなく、宿泊業務の経験者として選考してください』
美月はメールを二度読んだ。
返事を書こうとした時、森下が新しい相談票を持ってきた。
「東京の方です。お父さんが村の出身で、祖父母の家へ戻りたいと」
「所有者は確認できましたか」
「祖父名義のままです。お父さんは亡くなっていて、相続人が少なくとも七人」
「全員の同意が必要ですね」
「説明しました。それでも、まず親族へ連絡してみるそうです」
森下は相談票を机へ置いた。
「簡単には諦めない人もいるんですね」
「簡単だと思っていなかった人が残っているんだと思います」
美月は短く返した。
相談記録の様式を開く。
最初に作った表には、『帰る時期』という欄があった。
六月、年内、二年以内、未定。
電話の向こうで「秋には帰りたい」と話した人もいた。先祖の家があるから、すぐ住めると思っていた。村で働きたいと言った人もいた。学校が開けば、いくつも仕事が生まれると考えていた。
帰りたいという気持ちは、日付にはならない。
日付になっても、生活にはならない。
美月は『帰る時期』の文字を削除した。
代わりに、新しい項目を入力する。
『試して暮らす期間』
その下に、『現在の住居と仕事を残すか』という欄を加えた。
森下が画面をのぞき込む。
「帰るのに、試すんですか」
「帰ってみなければ、今の村で暮らせるか分かりません」
「昔、自分が住んでいた村でも?」
「昔の村には帰れません」
窓の外で、工事を終えた作業員たちが資材へ青いシートをかけていた。
校舎の時計は、今日も三時十八分で止まっている。
その下では、新しい床を支える梁が組まれ、壁の中へ配線が通されていた。
残っているものと、変わっていくものが、同じ建物の中にある。
美月は麻子への返信を入力した。
『八月の試験滞在を受け付けました。生活記録の様式をお送りします。宿泊施設の募集要項は、決定後、他の応募希望者と同じ日にご案内します』
そこまで書き、最後に一文を加えた。
『お戻りをお待ちしています』
入力した文字を見つめる。
戻るという言葉が、どこを指すのかは分からなかった。
母の家か。
子どもの頃に通った学校か。
村を出る前の自分か。
それとも、まだ一度も暮らしたことのない、新しい生活か。
美月は文章を消さなかった。
送信ボタンを押す。
数秒後、画面に送信完了の表示が出た。
麻子と花が来る八月まで、あと四十三日だった。




