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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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第二十四章 戻りたい人

旧清澄小学校の工事が始まってから、役場へ村外からの電話がかかってくるようになった。

 最初の一本は、撤去された校舎の床板についての問い合わせだった。

『あの板、捨ててしまうんですか』

 電話の主は、名古屋に住む六十二歳の男性だった。清澄小学校を卒業し、高校進学と同時に村を出たという。

「再利用できるものは選別しています。すべてを残せるわけではありませんが、家具や案内板への加工を検討しています」

 森下が答えると、男性は少し安心したようだった。

『私らが雑巾がけした床なんです。残せと言える立場やないのは分かっとるんですけど』

「ご希望があれば、工事の見学日をご案内します」

『見学に行ってもええんですか』

「安全上、入れる場所は限られます。事前の申し込みが必要です」

『申し込みます。妻も連れていきます』

 その翌日には、大阪に住む女性から、学校が宿泊施設になるのはいつかという電話があった。

 さらに翌日、東京の男性からメールが届いた。

『父が清澄村の出身です。祖父母の家が残っています。将来的に村へ移り住むことは可能でしょうか』

 四日間で、問い合わせは十二件になった。

 工事の進捗を知らせる村の広報資料が、元住民の集まりや親族の間で回っているらしい。役場の公式サイトに掲載した写真も、個人の交流サイトで共有されていた。

 写真には、足場の組まれた校舎と、取り外された床板を一枚ずつ確認する大工の姿が写っている。

 派手な完成予想図は載せなかった。

 雨漏りの跡、腐食した柱、工期の遅れ、追加費用。体育館の床下から避難所記録が見つかったことも、分かっている範囲だけを記した。

 それでも、問い合わせは増えた。

「懐かしい、見に行きたいという話なら分かるんです」

 森下は受話器を置き、机の上のメモを見た。

「でも、戻って住みたいという人が、こんなにおるとは思いませんでした」

 美月は十二件の内容を分類した表を開いた。

 見学希望が五件。

 宿泊希望が二件。

 移住または帰郷についての相談が三件。

 仕事についての問い合わせが二件。

「今の段階では、希望を受け取っただけです」

「分かってます」

「宿泊施設の開業日も、募集する職種も決まっていません。住居を紹介できる状態でもありません」

「それも電話で説明しました」

 森下は疲れた顔で笑った。

「そしたら、決まったら教えてくださいと言われました」

「連絡先を一覧に入れてください。ただし、優先的に案内するという意味ではありません」

「田中さん、こういう時、本当に細かいですね」

「後になって、先に電話したから採用されると思っていたと言われても困ります」

「その心配は、たぶん正しいです」

 森下の机には、工事関係の書類のほかに、水道料金の変更届、福祉送迎車の運行表、猟友会から届いた有害鳥獣の報告書まで積まれていた。

 移住相談を受け付ける専任職員はいない。

 問い合わせが増えれば、森下の仕事が増えるだけだった。

「窓口を決めましょう」

 美月は言った。

「相談内容を統一した様式で記録します。家族構成、希望時期、住居、収入、通院、通学、車の有無。村に親族や土地がある場合は、所有関係も確認します」

「面接みたいですね」

「移住を認めるための審査ではありません。何が必要なのか把握するためです」

「電話でそこまで聞いたら、嫌がられませんか」

「聞かずに、空き家があります、自然が豊かですと案内する方が無責任です」

 森下は表の項目を上から読み、車の有無という欄で指を止めた。

「車がないと言われたら?」

「日常生活で何が難しいか説明します」

「それで諦めたら?」

「諦めるために必要な情報だったということです」

 美月が答えると、森下は黙った。

 窓の外から、工事車両の音が聞こえてくる。役場前の道を、資材を積んだ小型トラックがゆっくり通り過ぎた。

「戻ってきてほしくないわけやないんです」

 森下は表へ視線を落としたまま言った。

「一人でも増えたら、村としてはありがたいです。子どもがおる家族なら、なおさら」

「だからこそ、数だけを見ない方がいいと思います」

「住み始めてから困る人を増やしたら意味がない、ということですか」

「今いる人の負担になる可能性もあります」

 森下が顔を上げた。

「移住者を支える人員も費用も必要です。近所の人が無償で面倒を見る前提にはできません」

「そうですね」

「戻る人だけでなく、迎える側にも生活があります」

 美月は、新しい表の表題を入力した。

『帰郷・移住相談記録』

 入力してから、帰郷と移住の間にある中黒を見つめた。

 村に生まれた人と、初めて来る人。

 二つを分ける必要はある。家や土地、親族、地域との関係が違う。

 しかし、村を出て二十年、三十年たった人が、現在の清澄村を知っているとは限らなかった。

     *

 最初に対面で相談へ来たのは、藤原麻子という三十五歳の女性だった。

 大阪市内のホテルで十五年間働いている。現在は宿泊部門の主任で、予約管理、客室調整、従業員の勤務表作成を担当していた。

 清澄村で生まれ、高校卒業まで暮らしていたという。

 麻子は七歳の娘、花を連れてきた。

 二人が役場へ入ってきた時、藤井は地域振興課の奥から立ち上がった。

「麻子ちゃんか」

「お久しぶりです」

「ほんまに麻子ちゃんか。お母さんから、帰ってくるかもしれんとは聞いとったけど」

「まだ決めてません」

 麻子はそう答え、隣に立つ娘の肩へ手を置いた。

「娘の花です」

 花は小さく頭を下げた。

「こんにちは」

「よう来たなあ。暑かったやろ」

 藤井は机の引き出しを開け、個包装の飴を二つ取り出した。

 花は母親の顔を見てから、一つだけ受け取った。

「ありがとうございます」

「しっかりした子やな」

「人の前では、おとなしいんです」

 麻子が笑う。

 藤井も笑った。

 それから美月に気づき、表情を改めた。

「田中さん、こちら、藤原麻子さん。旧姓は山下さんです。清澄小の卒業生で、お母さんは上谷に住んどる」

「昨日、相談の予約をいただきました」

 美月は立ち上がり、名刺を渡した。

「創生都市開発の田中です」

「学校の計画を担当している方ですよね」

「会社側の現地責任者です。ただ、今日は村への帰郷相談としてお話を伺います」

 麻子は名刺を両手で受け取った。

「工事の記事、読みました」

「ありがとうございます」

「学校で働く人を募集する予定があると聞いたんですけど」

 藤井が美月を見た。

 美月は会議室の扉を開け、麻子と花を中へ案内した。

 森下も資料を持って同席した。

「先にお伝えします」

 三人が席に着くと、美月は前を向いたまま言った。

「宿泊施設の採用人数、雇用条件、募集時期は、まだ最終決定していません。村の出身者であることが、採用上の優先条件になる予定もありません」

 麻子の表情から、わずかに笑みが消えた。

「それは、分かっています」

「現在の職場を辞める判断は、募集条件が出るまで待ってください」

「辞めるとは言ってません」

「はい。念のためです」

 麻子は膝の上に置いた鞄を引き寄せた。

 隣では、花が会議室の壁に貼られた秋祭りの写真を見ている。

「私、ホテルで働いています」

 麻子が言った。

「予約管理も接客もできます。外国のお客さんも担当してきました。英語は、仕事で必要な程度ですけど」

「勤務歴は拝見しました。開業時に必要となる経験です」

「だったら――」

「ただし、客室は三室です」

 美月は計画資料を開いた。

「最大宿泊人数は十人。開業当初は月八日程度の営業を想定しています。一般的なホテルと同じ勤務形態にはなりません」

「平日は何をするんですか」

「予約管理、清掃、施設点検、体験企画、広報、地域利用の調整などです。川音の湯との連携もあります。宿泊業務だけを担当する常勤職を何人も置くことはできません」

「給料は?」

「決定には至っていません」

「大阪より下がりますよね」

「下がる可能性が高いです」

 麻子は小さく息を吐いた。

「そこまで、はっきり言うんですね」

「生活を決める話ですから」

「普通は、もう少し、戻ってきてほしいという顔をしませんか」

「戻ってきてほしいという気持ちだけで、給与は払えません」

 会議室が静かになった。

 森下が、美月と麻子の顔を交互に見る。

 花が壁の写真から顔を戻した。

「お母さん、怒ってる?」

「怒ってないよ」

 麻子は娘へ答えた。

「大事な話してるだけ」

 花はうなずいたが、椅子の上で少し体を小さくした。

 美月は声の調子を落とした。

「藤原さんが戻ることに反対しているわけではありません。むしろ、現場経験のある方が応募してくださるのはありがたいです。ただ、学校の仕事が一つできることで、ご家族の生活がすべて成り立つとは言えません」

「母と一緒に住めば、家賃はかかりません」

「お母様の家について、改修の必要はありませんか」

「住めてますから」

「三人で暮らせる状態でしょうか」

 麻子はすぐには答えなかった。

「二階に、私が使っていた部屋があります」

「水回りは?」

「古いですけど、使えます」

「屋根の修理は?」

「母は何も言ってません」

 森下が手元の資料をめくった。

「山下さんの家、去年の空き家調査では対象外です。お母さんが住んでおられるので。ただ、上谷は合併処理浄化槽に替わっていない家が残ってます。屋根も、一昨年の大雨で西側から少し漏れたと聞いた気がします」

「初めて聞きました」

 麻子の眉が寄った。

「お母様は、心配をかけたくなかったのかもしれません」

 美月が言うと、麻子は首を振った。

「いつもそうなんです。帰ってこなくていい、こっちは何も困ってないって」

「戻る理由は、お母様のことですか」

「それだけではありません」

 麻子は鞄の持ち手から手を離した。

「ホテルは夜勤があります。土日も休めない。娘が熱を出したら、同じ部署の人に頭を下げて勤務を替わってもらいます。母に来てもらうにも遠いし、預けるところも毎回違う。去年、離婚してから、ずっとそんな感じです」

 花が下を向いた。

 麻子は娘の髪へ手を置いた。

「花が学校へ上がったら、もう少し生活を整えたいと思ってました。村なら母もいるし、家もある。それに、学校が宿になるなら、今までの仕事も無駄にならないかもしれない」

「花さんの学校は、村外になります」

「知っています。スクールバスがあるんですよね」

「朝夕に一本ずつです。放課後の活動に参加する場合は、帰りの交通を別に考える必要があります」

「母が車を出せます」

 森下が口を挟んだ。

「お母さん、もう夜は運転せんようにしてますよ」

「そうなんですか」

「去年、暗い道で鹿が出てから、怖いと言うてました」

 麻子は唇を結んだ。

「では、私が迎えに行きます」

「学校の勤務時間が決まっていません」

 美月が言う。

「宿泊客の到着時刻と重なる可能性があります。夜間対応が必要な日もあります」

「全部、無理だと言いたいんですか」

「無理かどうかを決めるために、条件を一つずつ確認しています」

「田中さん」

 森下が小声で呼んだ。

 美月は言葉を止めた。

 麻子は窓の外を見ていた。

 役場の駐車場に、午後の光が落ちている。遠くで草刈り機の音が続いていた。

「大阪にいると、村へ帰れば何とかなる気がしたんです」

 麻子は窓を見たまま言った。

「母がいて、昔から知ってる人がいて、家がある。仕事までできるなら、今より楽になるかもしれないって」

「楽になる部分はあると思います」

 美月は答えた。

「難しくなる部分もあります」

「分かっていたつもりなんですけどね」

「村を出られたのは、十七年前ですか」

「はい」

「十七年前と今では、なくなった店も、減ったバスもあります。お母様も十七歳年を取っています」

 麻子は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。

「そうですね」

 その時、花が小さく手を上げた。

「質問していいですか」

「どうぞ」

「学校、見られますか」

「工事中なので、中には入れません。安全な場所から外を見ることはできます」

「お母さんの学校だったんですよね」

 美月は麻子を見た。

「そうです」

 麻子が答えた。

「お母さん、足が速かったんやで」

「知ってる。おばあちゃんが言ってた」

「運動会で一番やった」

「二番って言ってたよ」

 花が言うと、森下が笑った。

 麻子も困ったように笑った。

「一回だけ二番やったの」

「おばあちゃん、毎年二番だったって」

「あとで確認しようか」

 麻子の顔から、先ほどまでの硬さが少し消えた。

     *

 相談のあと、美月と森下は母娘を旧清澄小学校へ案内した。

 工事区域の外に設けた見学場所から、校舎の南側が見える。

 足場には養生幕が張られ、窓の一部が外されていた。校庭には木材と資材が積まれ、作業員が一輪車で廃材を運んでいる。

「こんなに小さかったかな」

 麻子が言った。

 役場では、資料の写真を見ながら校舎は大きかったと話していた。実際に見た感想は、その反対だった。

「二階の右から三番目が、六年の教室」

 麻子は花へ教えた。

「あそこ?」

「たぶん。窓が外れてるところ」

「お母さん、どの席?」

「窓側の一番後ろ」

「目が悪くならない?」

「黒板は見えてた」

 花は金網へ近づき、養生幕の隙間から校舎を見た。

 工事の音が止まり、資材置き場から颯太が出てきた。

 作業着の袖を肘まで上げ、図面を丸めて持っている。

「そこから中へ入らんようにしてください」

 言ってから、麻子の顔を見た。

「麻子?」

「颯太くん?」

 二人はしばらく互いの顔を確かめていた。

「久しぶり」

「いつ帰ってきたん」

「今日。まだ帰ってきたわけじゃないけど」

 麻子は花の背中へ手を置いた。

「娘の花」

「こんにちは」

 颯太が言うと、花も頭を下げた。

「お母さんの同級生ですか」

「一つ下」

「颯太くん、昔は私より小さかったんです」

「それは小学校の時の話やろ」

「泣き虫だったし」

「泣かされたんや」

「誰に?」

「麻子に」

「私、そんなことしてない」

「校庭の水たまりへ突き落とされた」

「勝手に転んだんでしょう」

「後ろから押した」

「覚えてない」

 花が母親を見上げた。

「お母さん、悪い子だったの?」

「違います」

「悪かったで」

 颯太が真顔で言ったあと、少しだけ笑った。

 美月は、彼が村の同年代と話す姿を初めて見た。

「工事、どう?」

 麻子が校舎を見ながら尋ねた。

「予定より遅れとる。開けてみたら、傷んどるところが多かった」

「時計、まだ止まったままなんやね」

「外さんことになった」

「三時十八分」

 麻子は文字盤を見上げた。

「学校に避難した時も、あの時刻だった」

「停電で止まっただけや」

「分かってる。でも、ずっとあの日の時間みたいに見えた」

 颯太は答えなかった。

 麻子も、それ以上は何も言わなかった。

 花だけが時計を見上げている。

「直さないんですか」

「中に新しい時計を付けます」

 美月が答えた。

「外の時計は、そのまま残します」

「動かないのに?」

「動かないまま残したいという人が多かったからです」

 花は首を傾げた。

「時間、分からないよ」

「そうですね」

 美月は校舎の時計を見上げた。

「だから、中には動く時計が必要です」

 花はしばらく考え、うなずいた。

 工事現場から、作業を再開する声が上がった。

「宿で働くん?」

 颯太が麻子へ尋ねた。

「まだ分からない。募集も始まってないって」

「大阪のホテルにおったんやろ」

「今もいる」

「なら、慣れとるな」

「三部屋だけらしいけど」

「三部屋でも、掃除は三部屋分ある」

「励ましてる?」

「事実を言うただけ」

 麻子は笑った。

「颯太くんも、変わってないね」

「麻子は変わった」

「どこが?」

「水たまりへ人を落としそうにない」

「今はね」

 麻子の返事に、颯太が一歩だけ後ろへ下がった。

 花が声を上げて笑った。

     *

 翌朝、美月は麻子の実家を訪ねた。

 上谷集落は、役場から車で二十分ほど山へ入った場所にある。

 県道から細い道へ曲がり、川を渡る。斜面に石垣が重なり、その上へ家が建っていた。

 麻子の母、山下千恵の家は、集落の中ほどにあった。

 築六十年以上の木造二階建てで、正面から見る限り傾きはない。庭には梅の木と小さな畑があり、軒下に玉ねぎがつるされている。

「古い家やけど、まだ住めますよ」

 千恵は美月たちを案内しながら言った。

「麻子は大げさに考えすぎるんです」

「私、何も聞いてなかったんだけど」

 麻子は屋根の西側を見上げた。

 瓦の一部に青い防水シートがかけられている。

「雨漏り、してるじゃない」

「強い雨の時だけや」

「いつから?」

「一昨年」

「二年も、このまま?」

「桶を置いたら済む程度やから」

「済んでないでしょう」

「帰ってきた途端に、うるさい子やな」

 千恵はそう言いながら、どこか嬉しそうだった。

 花は庭の端で、赤くなりかけたホオズキを見ている。

 村が依頼した建築士は、屋根裏と床下、水回りを順に確認した。

 雨漏りは瓦のずれだけでなく、下地の一部に腐食がある。二階の北側には結露による染みがあり、子ども部屋として使うなら断熱と電気設備の改修が必要だった。

 浄化槽の交換、浴室の段差解消、給湯器の更新も含めると、最低限の工事でも六百万円を超える可能性がある。

「六百万?」

 麻子は聞き返した。

「屋根をどこまで直すかで変わります」

 建築士が答えた。

「外壁も同時に触るなら、もう少しかかります。正確な金額は調査後です」

「そんなお金、すぐには出せません」

「全部を一度に直す必要があるか、優先順位を付けます。雨漏りは先に止めた方がいいです」

 千恵は台所の椅子へ座った。

「私は、このままで困ってないんやけど」

「お母さん一人ならね」

 麻子が言った。

「花と私が住むなら、部屋も必要だし、お風呂も三人で使うでしょう」

「せやから、無理して帰ってこんでもええと言うとる」

「帰ってきてほしいんじゃなかったの?」

「帰ってきて、借金までしてほしいとは言うてない」

 二人の声が重くなった。

 花は庭から戻りかけて、玄関の前で立ち止まった。

 美月は声をかけようとしたが、森下が先に外へ出た。

「花ちゃん、畑の向こうに沢蟹がおるかもしれんよ」

「沢蟹?」

「赤いやつ。探しに行こか」

 花は母親を見た。

「道から離れないでね」

 麻子が言うと、花は森下と庭を出ていった。

 美月は改修費の概算表を閉じた。

「帰郷者向けの住宅改修補助があります」

「いくらですか」

「上限は百万円です。ただし、工事内容と居住期間などの条件があります。申請すれば必ず満額が出るわけではありません」

「残りは自分で、ですよね」

「はい」

 麻子は台所を見回した。

 壁には、麻子と弟らしい子どもの写真が何枚も飾られている。柱には鉛筆で身長を記した線があり、日付と名前が残っていた。

「家があるから、住むところは何とかなると思ってました」

「空き家ではないので、管理はされています。所有者もお母様お一人です。その点では、条件はよい方です」

「これで、よい方なんですか」

「所有者が亡くなり、相続人が十人以上いる家もあります。連絡先が分からない人や、売却にも賃貸にも反対する人が一人いるだけで、使えないことがあります」

 千恵がうなずいた。

「下の西村さんの家も、それや。息子さんは貸してもええと言うとるけど、東京におる妹さんが反対しとる」

「家が傷むだけなのに?」

 麻子が言う。

「子どもの頃の家やから、知らん人に入ってほしくないんやて」

「住まないのに」

「住まんから、残したいこともあるんやろ」

 麻子は何か言いかけ、口を閉じた。

 美月は柱の身長線を見た。

 その家に住んでいない人間にとって、家は生活の場所ではなく、過去を収める箱になっている。

 外から沢蟹を見つけた花の声がした。

「田中さん」

 麻子が言った。

「一か月くらい、ここで暮らしてみることはできますか」

「今の職場は?」

「有給休暇と、会社の休職制度を確認します。夏休みなら、花も一緒に来られる」

「宿の仕事を試す、という意味ではありませんよね」

「募集前なのは分かっています。村で暮らせるか試したいんです」

 千恵が娘を見る。

「一か月も?」

「お母さんが嫌じゃなければ」

「嫌とは言うてない」

「じゃあ、いいでしょう」

「大阪の仕事はどうするん」

「だから、これから調べる」

「辞めてから考えるんやないで」

「田中さんにも同じことを言われた」

 千恵は美月を見た。

「この人、厳しいやろ」

「はい」

 麻子は迷わず答えた。

「でも、帰っておいでしか言わない人より、信用できる気がします」

 美月は返事に困った。

 厳しくしたいわけではなかった。

 帰郷を成功例として数える会社の資料も、子どもの人数が一人増えることを喜ぶ役場の気持ちも分かる。けれど、その数字の中で暮らすのは麻子と花だった。

「一か月の滞在中に、確認していただきたいことがあります」

 美月は言った。

「通学、買い物、通院、仕事、通信環境。それから、お母様と同居する場合の生活分担です」

「生活分担?」

「家事だけではありません。送迎、家の修繕費、地域の共同作業、災害時の避難。お母様に頼るつもりで戻っても、お母様を支える側になる場面が増えると思います」

 麻子は千恵を見た。

 千恵は視線を逸らし、湯のみを持ち上げた。

「はい」

 麻子は答えた。

「一回、暮らしてから決めます」

     *

 麻子の相談から一週間後、神戸に住む二十六歳の男性が役場へ来た。

 名前は木村拓真。

 祖父が清澄村の出身で、子どもの頃に何度か夏休みを過ごしたことがあるという。

「林業をやりたいんです」

 拓真は、面談の最初にそう言った。

 髪を短く刈り、日焼けした腕に細い革の腕輪をしていた。現在は衣料品店で販売員をしている。

「佐藤林業で働けますか」

「採用については、佐藤林業が判断します」

 美月は資料から顔を上げた。

「役場や創生都市開発が仕事を約束することはできません」

「人手が足りないと聞きました」

「誰からですか」

「交流サイトで見ました。林業は高齢化していて、若い人が必要だって」

「一般的な課題としては、その通りです。ただ、人手不足と、すぐに一人を雇えることは同じではありません」

 拓真は用意してきた資料を机へ置いた。

 森林に囲まれた小さな家、薪ストーブ、木製家具の写真が印刷されている。

「こういう暮らしがしたいんです。自分で木を伐って、できれば家も直して」

「チェーンソーを使った経験はありますか」

「ありません。でも、研修を受けます」

「山で働いた経験は?」

「登山はします」

 同席していた颯太が、資料を一枚ずつ見た。

「山へ入るなら、朝は早いです。夏は蜂と虻がおる。冬は道が凍る。木を一本倒すにも、向きと風と重心を見誤ったら死にます」

「覚悟しています」

「何を?」

 拓真は言葉に詰まった。

「危険な仕事だということです」

「危険だけやない。毎日、木を伐るわけでもない。草刈り、道の補修、機械の整備、境界の確認。雨が続いたら山へ入れん。依頼がなければ仕事も減る」

「それでも、都会で服を売るより、自分が何を作っているか分かる仕事がしたいんです」

「木を伐る仕事は、木を作る仕事やないですよ」

 颯太は写真を机へ戻した。

「植えた人が何十年も育てた木を、最後に倒す仕事です。自分の木やない。山主の木です」

「はい」

「一本の値段より、運び出す費用の方が高い山もある。伐ったら売れるとは限らん」

「それも勉強します」

「勉強してから来いとは言わん。来んと分からんこともあるから」

 颯太は椅子に座り直した。

「ただ、きれいなところだけ見て仕事を辞めるな」

 拓真はしばらく黙っていた。

「見学させてもらえませんか」

「見学ならできます。作業現場へ入る前に、安全講習を受けてもらう。最初は一日、地上作業だけです」

「給料は出ますか」

「見学には出ません。作業をさせるなら、短期でも契約を結びます。無料で働いてもらうつもりはない」

 美月は颯太を見た。

 以前なら、「自分で聞いてください」と断っていたかもしれない。今は、できないことと、できることを分けて説明している。

「住む家はありますか」

 拓真が尋ねた。

 森下が空き家一覧を開いた。

「すぐ住める家は、今のところありません。賃貸の了承が取れている家が二軒ありますけど、一軒は屋根の修理が必要です。もう一軒は土砂災害警戒区域に入っています」

「古くても構いません」

「古いというだけではありません」

 美月は口を開いた。

「修繕費を誰が負担するか、災害時にどこへ避難するか、車をどこへ置くか。冬場は水道管が凍る地域もあります」

「車は買います」

「購入費と維持費を計算していますか」

「まだです」

「林業の収入が決まる前に、家と車を持つのは危険です」

 拓真は印刷した写真を重ねた。

「やっぱり、来てほしくないんですか」

「来るかどうかを、こちらが決めることではありません」

「でも、悪い話ばかりですよね」

「よい話だけで決めた人は、悪い話に出会った時、ここへ来たことを後悔します」

 拓真は机の上の資料を見つめた。

 薪ストーブの前に椅子があり、大きな窓の向こうに雪が積もっている。写真の中には、凍った水道管も、朝六時の暗い山道も、機械の修理代も写っていなかった。

「一日、見学させてください」

 拓真は顔を上げた。

「それから、もう一度考えます」

 颯太がうなずいた。

「来週の水曜なら、道の補修がある」

「木は伐らないんですか」

「最初に言うたやろ。毎日、木を伐るわけやない」

 拓真は少し笑った。

「分かりました。道の補修を見ます」

     *

 帰郷や移住への問い合わせが増えたことを、村の全員が歓迎したわけではなかった。

 月に一度の工事説明会で、藤井が相談件数を報告すると、会場の後ろから声が上がった。

「出ていった人が、今になって戻ってくるんか」

 声の主は、中井敏夫だった。

「学校がきれいになって、仕事もできると分かったら帰ってくる。都合のええ話やな」

「まだ戻ると決まった人はおりません」

 森下が答えた。

「相談が来ている段階です」

「村が金を出して家まで直すんか」

「住宅改修補助は、以前からある制度です。村の出身者だけでなく、新しく移住する方も対象です」

「一軒に百万円出すなら、今住んどる家にも出してくれ」

「現在の住民向けにも、耐震改修や生活設備の補助制度があります」

「条件が細かすぎて使えんのや」

 敏夫の隣に座っていた女性もうなずいた。

「若い人が来るのはええことやけど、何でも新しく来る人が先になるのは困るわ」

「優先するとは言っていません」

 美月が答えると、女性は美月を見た。

「けど、学校で働く人も、外から連れてくるんでしょう」

「村内外を問わず募集します。職務に必要な条件を示し、選考します」

「村の人ではあかんの?」

「あかんとは言っていません」

「ホテルで働いたことなんか、村の人にはないやろ」

「経験が必要な仕事と、研修で身につけられる仕事を分けます。すべての職種で宿泊業の経験を求める予定はありません」

 別の男性が手を上げた。

「戻ってくる人は、村の人として扱うんか。それとも移住者か」

 藤井が困った顔をした。

「住民票を移せば、制度上は村民です」

「そんな話やない」

 男性は言った。

「昔ここに住んどっても、二十年も外におったら、村のことは分からんやろ。せやのに、帰ってきた途端、昔から知っとる顔をして意見を言われても困る」

 会場の中に、小さなざわめきが広がった。

 その反対側から、春江が声を上げた。

「外へ出たら、もう帰ってきたらあかんの?」

「誰も、そこまで言うてない」

「言うとるのと同じや。若い子には村へ残れとは言えん。出ていったら、今さら帰るなと言う。ほんなら、いつ戻ったらええの」

「戻るなとは言うてない。急に村の代表みたいな顔をするなと言うとる」

「まだ誰も、そんな顔しとらんやろ」

 言葉が重なり、藤井が机を軽く叩いた。

「一人ずつ話してください」

 声は大きくなかったが、会場は静かになった。

「戻ってきた人も、新しく来た人も、今住んどる人も、同じ村で暮らすことになります。どちらかだけを特別扱いするつもりはありません」

 藤井は出席者の顔を見回した。

「ただ、人数が増えたら全部うまくいく、とは役場も考えてません。家も仕事も交通も、足りんものがあります。受け入れられる数を超えて呼び込むこともしません」

「何人なら受け入れられるんや」

 敏夫が尋ねた。

「まだ分かりません」

「分からんのに話を進めとるんか」

「分からんから、相談の内容を調べています」

 藤井の答えに、敏夫は鼻を鳴らした。

 美月は会場の隅に座る結菜へ目を向けた。

 結菜はノートを開いていたが、何も書かずに話を聞いている。

「一つ、聞いてもいいですか」

 結菜が手を上げた。

「移住する人に子どもがいたら、村の子どもが増えたって数えるんですか」

「住民票が村にあれば、人口統計には入ります」

 森下が答えた。

「その子が村外の学校へ通っていても?」

「はい」

「学校へ行くバスは、今のままですか」

「現時点では、今のままです。利用者が増えれば、運行の見直しを検討します」

「増えてから検討するんですか」

 結菜の問いに、森下は答えを止めた。

 美月は、麻子と花の姿を思い出した。

 開業する宿泊施設に必要な人材と、村で暮らす親子に必要な交通は、別の事業として扱われている。しかし、麻子にとっては一つの生活だった。

「試験的な滞在を希望する家族については、滞在中の移動記録を取ります」

 美月が言った。

「通学、買い物、通院、仕事。その記録を交通検討会へ共有します」

「記録を取ったら、バスは増えるんですか」

「増やせるかどうか判断する材料になります」

「増えないかもしれない?」

「はい」

 結菜はうなずいた。

「だったら、その人にも先に言った方がいいです」

「伝えます」

 美月が答えると、結菜はようやくノートへ何かを書いた。

     *

 帰郷・移住相談の記録は、一か月で二十七件になった。

 そのうち、二年以内の移住を具体的に検討している人は六組だった。

 村出身者が三組。

 親や祖父母が村出身の人が二組。

 清澄村に親族のいない人が一組。

 六組すべてへ、同じ資料を送った。

 利用できる住宅の現状。

 想定される修繕費。

 公共交通の時刻表。

 診療所の診療日。

 最寄りの総合病院までの所要時間。

 学校と保育施設。

 買い物ができる場所。

 仕事の募集状況。

 災害危険区域と避難所。

 冬季の道路状況。

 資料の最後には、赤い文字で一文を入れた。

『学校および温泉施設の整備は、住居、雇用、交通、医療を保証するものではありません』

 藤井は、その一文を見て顔をしかめた。

「ここまで書いたら、来る人がおらんようになりませんか」

「六組へ送ったあと、三組から現地相談の予約が入りました」

「残りの三組は?」

「一組は見送り。一組は家族で再検討。一組は返事がありません」

「一組、減ったんですね」

「はい」

 美月は答えた。

「でも、来てから知るよりはいいです」

 その日の午後、麻子からメールが届いた。

『勤務先と相談し、八月に三週間の休暇を取れることになりました。娘と母の家で暮らします。学校の仕事とは切り離して、村で生活できるか確かめたいです』

 続けて、確認したい事項が並んでいた。

 大阪の住居は解約しない。

 現在の仕事も辞めない。

 自家用車は購入せず、滞在中は母の車を日中のみ使う。

 花の通学経路を確認する。

 村内での買い物と通院にかかる時間を記録する。

 家の修繕は、屋根の応急処置だけを先に行う。

 地域の共同作業には、参加条件を確認してから加わる。

 最後に、もう一つ書かれていた。

『宿泊施設の採用条件が決まりましたら、正式に応募します。村の出身者としてではなく、宿泊業務の経験者として選考してください』

 美月はメールを二度読んだ。

 返事を書こうとした時、森下が新しい相談票を持ってきた。

「東京の方です。お父さんが村の出身で、祖父母の家へ戻りたいと」

「所有者は確認できましたか」

「祖父名義のままです。お父さんは亡くなっていて、相続人が少なくとも七人」

「全員の同意が必要ですね」

「説明しました。それでも、まず親族へ連絡してみるそうです」

 森下は相談票を机へ置いた。

「簡単には諦めない人もいるんですね」

「簡単だと思っていなかった人が残っているんだと思います」

 美月は短く返した。

 相談記録の様式を開く。

 最初に作った表には、『帰る時期』という欄があった。

 六月、年内、二年以内、未定。

 電話の向こうで「秋には帰りたい」と話した人もいた。先祖の家があるから、すぐ住めると思っていた。村で働きたいと言った人もいた。学校が開けば、いくつも仕事が生まれると考えていた。

 帰りたいという気持ちは、日付にはならない。

 日付になっても、生活にはならない。

 美月は『帰る時期』の文字を削除した。

 代わりに、新しい項目を入力する。

『試して暮らす期間』

 その下に、『現在の住居と仕事を残すか』という欄を加えた。

 森下が画面をのぞき込む。

「帰るのに、試すんですか」

「帰ってみなければ、今の村で暮らせるか分かりません」

「昔、自分が住んでいた村でも?」

「昔の村には帰れません」

 窓の外で、工事を終えた作業員たちが資材へ青いシートをかけていた。

 校舎の時計は、今日も三時十八分で止まっている。

 その下では、新しい床を支える梁が組まれ、壁の中へ配線が通されていた。

 残っているものと、変わっていくものが、同じ建物の中にある。

 美月は麻子への返信を入力した。

『八月の試験滞在を受け付けました。生活記録の様式をお送りします。宿泊施設の募集要項は、決定後、他の応募希望者と同じ日にご案内します』

 そこまで書き、最後に一文を加えた。

『お戻りをお待ちしています』

 入力した文字を見つめる。

 戻るという言葉が、どこを指すのかは分からなかった。

 母の家か。

 子どもの頃に通った学校か。

 村を出る前の自分か。

 それとも、まだ一度も暮らしたことのない、新しい生活か。

 美月は文章を消さなかった。

 送信ボタンを押す。

 数秒後、画面に送信完了の表示が出た。

 麻子と花が来る八月まで、あと四十三日だった。


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