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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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第二十三章 工事の下から

着工の日、式典は行われなかった。

 紅白の幕も、来賓の挨拶も、鍬を持って土を掘る儀式もない。

 午前八時、旧清澄小学校の正門前に、工事車両が三台並んだ。

 現場監督が作業員の名前を確認し、安全上の注意を読み上げる。役場から藤井と森下、会社から美月と三浦、設計監理を担当する本庄が立ち会った。

 住民は金網の外側から見ていた。

 源造、文江、春江、敏夫、結菜。議会で反対した住民の姿もある。

 誰も拍手をしなかった。

 美月はそのことに、少し安堵した。

 工事が始まるからといって、村の意見が一つになったわけではない。音楽を流し、笑顔の写真を撮れば、反対している人まで祝福しているように見えてしまう。

 現場監督の柴田が、正門前へ工事概要を貼った。

『旧清澄小学校・体育館改修工事』

『工事期間 九月二日から翌年五月三十一日まで』

『作業時間 午前八時から午後五時三十分』

『日曜・祝日休工』

『緊急連絡先』

 その横には、美月が追加した紙がある。

『工事の進捗、追加費用、保存物の扱いは、毎月公表します』

 源造が紙を読んだ。

「工事中に、金増えたら書くんか」

「はい」

「いくらから?」

「一件十万円以上の変更は一覧にします。それ以下も、合計額は出します」

「十万円以下に分けたら、書かんでええことになるな」

「同じ目的の工事を分割して隠すことは禁止します」

「先に言うとくと、あとが大変やぞ」

「言わなくても、あとで分かればもっと大変です」

 源造は工事看板を見上げた。

「学校、ほんまに開けるんやな」

「まだ、開業が決まったわけではありません」

「工事始まったのに?」

「工事が終わり、検査を通り、運営者がそろって、初めて開業できます」

「今日くらい、始まった言うたらええのに」

「工事は始まりました」

「そういうとこや」

 源造は呆れたように笑った。

 午前八時十分、正門が開かれた。

 最初に入ったのは、解体用の重機ではなかった。

 防護服を着た専門業者だった。

 事前調査で確認された古い建材を安全に撤去するため、一般の解体作業より先に処理を行う。

 校舎の窓が白いシートで覆われ、作業区域が密閉された。

「中、全然見えへんな」

 春江が言った。

「見えないようにしないと、粉じんが外へ出ます」

 三浦が答える。

「危ないもん、学校に入っとったんか」

「当時は一般的に使われていた建材です。今の基準では、撤去時に特別な管理が必要です」

「子どもら、ずっとそこで勉強しとったで」

「建材に含まれていることと、日常利用で直ちに健康被害が出ることは同じではありません。壊す時に飛散させないことが重要です」

「もう壊すんか」

「建物全体を壊すわけではありません。対象の建材だけ撤去します」

 春江は白いシートを見つめた。

「見えへんと、余計怖いな」

「作業終了後、測定結果を公表します」

「数字見ても分からん」

「では、結果の意味も説明します」

 工事が始まる前から、美月は毎週水曜日の午後四時に、現場説明の時間を設けていた。

 住民は金網の外から進捗を見られる。

 危険区域へは入れない。

 工事写真は役場と公民館で閲覧できる。

 質問には、会社ではなく施工者と設計者も答える。

 それでも、白いシートの向こうで何が起きているかを完全に知ることはできない。

 信頼してほしいという言葉だけでは足りない。

 見せられない理由と、見せられる範囲を、毎回説明しなければならなかった。

     *

 最初の一週間は、予定どおりに進んだ。

 対象建材の撤去が完了し、作業区域内と敷地境界で行った測定にも異常はなかった。

 結果は役場前へ掲示され、住民説明会でも報告された。

 翌週から、校舎内部の解体が始まった。

 後から付けられた壁。

 傷んだ天井板。

 古い便器。

 使えない給水管。

 危険な電気配線。

 残すと決めた建具には青い札が付き、修理するものには黄色、撤去するものには赤が付けられた。

 工事前に百八十七点あった保存候補は、最終確認で百六十三点になっていた。

 残り二十四点は、腐朽や虫害、保管場所の不足を理由に撤去が決まった。

 美月は一つずつ写真を撮り、理由を記録した。

 古い傘立て。

 割れた理科室の棚。

 脚の一本が腐った図工用の机。

 鍵のない保管箱。

 裏側まで黴が広がった掲示板。

 写真の中では、まだ使えそうに見えるものもある。

 けれど、触れると木が崩れ、金具が抜けた。

「全部残す言うてたんと違うんか」

 春江が撤去予定の掲示板を見て言った。

「全部を直すとは言いました。全部の物を残すとは言っていません」

「学校の物やで」

「学校にあった物です。でも、安全に使えない物を、思い出だけで残すことはできません」

「壁に掛けるだけなら使えるやろ」

「黴があります。清掃と処理に十八万円かかります」

「一枚に?」

「はい」

「高すぎる」

「同じ大きさの新しい掲示板なら、四万円ほどです」

「ほな、新しいの買うんやな」

「この場所には、掲示板そのものを置きません。廊下の別の位置へ一枚だけ設置します」

 春江は納得していなかった。

「捨てる前に、欲しい人へ聞いてくれたらええやろ」

「黴のある物は譲れません。健康被害が出た場合、村と会社に責任があります」

「自己責任で持って帰る言うても?」

「認めません」

「何でも責任やな」

「責任を負えない物を、住民へ渡すわけにはいきません」

 春江は掲示板の端へ手を伸ばしかけ、止めた。

 表面には、画鋲の穴が無数に空いている。

「ここに、給食の献立貼ってあった」

「写真で記録します」

「写真ばっかり残って、物がなくなるな」

 美月は返事ができなかった。

 記録が、現物の代わりにならないことは分かっている。

 それでも、すべての物を残せば、学校は倉庫になる。

 保存のための費用が、施設を使うための費用を押し潰す。

 選ぶことを避けて、全部を残すとは言えなかった。

 そこへ源造が来た。

「春江。お前ん家、学校の物置やないやろ」

「一枚くらい置ける」

「置いて、何に使う」

「孫の写真でも貼る」

「孫、東京やろ」

「写真送ってくる」

「スマホで見るんやないか」

「たまには紙で送ってくる」

 言い合う二人の横で、作業員が撤去の準備を待っている。

 美月が口を挟もうとすると、源造が掲示板の裏を指した。

「見てみい」

 春江が顔を近づける。

 黒い黴が、板全体へ広がっていた。

「こんなん家へ持って帰ったら、家まで黴る」

「分かっとる」

「分かっとらん顔しとる」

「最後くらい、見たかっただけや」

 春江は掲示板から離れた。

「写真、ちゃんと正面から撮ってな」

「撮ります」

「給食の献立あった場所やって、書いといて」

「春江さんの記憶として記録します」

「私だけやない。みんな見とった」

「では、確認できる方にも聞きます」

「また会議するんか」

「会議にはしません。記録用紙へ書いてもらいます」

 春江は鼻を鳴らした。

「田中さん、何でも紙にするな」

 それでも、撤去には反対しなかった。

     *

 問題が見つかったのは、着工から十二日目だった。

 午前九時十四分、美月の仕事用スマートフォンが鳴った。

 現場監督の柴田からだった。

『西側廊下の床下で、想定以上の腐朽が見つかりました。作業を止めています』

「範囲は?」

『まだ分かりません。本庄さんにも来てもらっています』

「二十分で行きます」

 山路館を出た美月は、坂道を上った。

 現場へ着くと、西側廊下の床板が十メートルほど外されていた。

 床下には、黒く変色した土台が見える。

 本庄が作業灯の下へしゃがみ、木材へ細い器具を差し込んでいた。

 軽い力で、先端が深く入る。

「どの程度ですか」

 美月が尋ねる。

「図面で交換予定だったのは四・五メートルです。実際には、少なくとも十四メートル。柱の下部にも傷みがあります」

「原因は?」

「雨漏りだけではありません。外壁沿いの排水が床下へ回っています」

 柴田が古い排水管を指した。

 土に埋もれ、途中でつぶれている。

「この管、設計図にありません」

「増築時に追加したものだと思います」

 本庄が答えた。

「工事記録が残っていません。長年、山側から来る水がここへ流れ込んでいたのでしょう」

「校舎全体へ広がっていますか」

「現時点では分かりません。北側の床も一部開ける必要があります」

「費用は?」

「今日中に概算を出します。ただ、土台と柱脚の交換、排水経路の新設で一千万円を超える可能性があります」

 美月は黒い木材を見た。

 表面だけでは分からなかった。

 床が残っていた時は、廊下を歩いても大きな沈みは感じなかった。外観調査でも、ここまでの腐朽は確認できていない。

「工期への影響は?」

「少なくとも二週間です」

 国の交付金期限が頭に浮かぶ。

 予備費は二千万円。

 ここで半分以上を使えば、今後の想定外へ対応できなくなる。

「安全を確保する工事を優先してください」

 美月は言った。

「客室設備や備品の削減で調整します」

 三浦が口を開いた。

「まだ、どこを削るか決めないでください。先に範囲と原因を確定します」

「でも、費用は増えます」

「数字が出る前に客室を削ると、別の機能まで失います。調査を待ちましょう」

 本庄もうなずいた。

「今日から三日間、西側の作業を止めます。ほかの区画は進められます」

「現場全体の停止は必要ありませんか」

「今のところは。構造体へ急激な変形が出る状態ではありません」

 美月は本社へ第一報を送った。

『西側廊下床下に、設計想定を超える腐朽を確認。該当区画の工事を停止。安全性調査と追加費用算定中。現時点で事業範囲の変更判断は行わない』

 送信後、工事看板の変更欄にも記載するよう、柴田へ依頼した。

「今日のうちに出すんですか」

 柴田が聞いた。

「範囲が未確定であることも含めて出してください」

「不安をあおりませんか」

「あとで床を開けた写真だけ見られる方が、不安になります」

「工事中なら、こういうことは珍しくありません」

「住民にとっては初めてです」

 柴田は少し考えた。

「分かりました。専門用語を減らして書きます」

     *

 その日の午後、役場前には再び人が集まった。

『追加工事一千万円超か』

『また金が増えるのか』

『始める前に分からなかったのか』

 説明会の開始前から、声が飛んだ。

 本庄が床下の写真を映した。

「事前調査では、点検口と外周から確認しました。しかし、床板を全面的に外さなければ見えない位置に腐朽が広がっていました」

「調査に何千万も使って、分からんかったんか」

「すべての床を着工前に外せば、調査ではなく解体工事になります」

「言い訳やろ」

「結果として、想定より広かったことは事実です」

 本庄は責任を避けなかった。

「追加調査費を抑える判断をしたことも、要因の一つです。今後、同様の箇所を先に確認するため、北側と体育館接続部の床も開けます」

「また金かかるやないか」

「はい」

「誰が払う」

 美月が前へ出た。

「現在、予備費からの支出を検討しています。追加費用が確定するまで、村へ新たな負担は求めません」

「会社が全部払え」

「会社出資も上限が決まっています。追加出資には再審査が必要です」

「結局、村に来るんやろ」

「自動的には来ません」

「足りんかったら工事止めるんか」

「止める可能性はあります」

 会場がざわついた。

「床開けたまま、止めるんか」

「安全に閉鎖する費用は確保します」

「三億かけて、床開けて終わりか」

「そうならないよう、予備費を置いています」

「二千万しかないんやろ」

「はい」

「これからまだ出るぞ」

「可能性はあります」

 美月は、一つずつ認めた。

 否定して安心させる材料はなかった。

 説明会の後方で、議会に反対した男性が手を上げた。

「だから言うたやろ。古い建物は、いくらでも金かかる」

「おっしゃるとおり、想定外の費用が出ました」

「やめるなら、今や」

 会場が静かになる。

「床下が腐っとるなら、全部壊して更地にした方が安いんと違うか」

 本庄が答えた。

「現在確認している範囲では、建物全体を解体する必要はありません。補修可能です」

「補修できると、補修するべきは違うやろ」

「そのとおりです」

 美月が言った。

「費用が出たからという理由だけで続けません。追加費用、残る予備費、工期、安全性を見て、継続の判断をします」

「また会議か」

「会社、村、県の承認が必要です」

「それまで工事止めるんか」

「腐朽部分は止めます。ほかの安全な区画は進めます」

 男性は首を振った。

「始めたら、止められんようになるんや」

 その言葉は、美月の胸に残った。

 埋没費用。

 すでに使った金。

 外した床。

 組んだ足場。

 始めた工事を止めれば、それまでの支出が無駄になる。

 だから、追加費用を出して続けようとする。

 開発事業で何度も起きることだった。

「すでに使った費用を理由に、続ける判断はしません」

 美月は言い添えた。

「続ける価値と、これから必要な費用だけで判断します」

「本当に止められるんか」

「必要なら止めます」

「田中さん一人で?」

「一人では決めません」

「それで、誰も責任取らんようになるんやないか」

「決定者と理由を記録します」

 男性はそれ以上、質問しなかった。

 納得したのではなく、これ以上聞いても答えは変わらないと思ったのだろう。

     *

 追加調査で、腐朽は西側廊下の十四・八メートルに及んでいることが分かった。

 柱脚四か所。

 土台三本。

 床梁七本。

 外壁下部。

 古い排水管の撤去と、新しい暗渠排水の設置も必要だった。

 追加費用は、一千百八十万円。

 工期への影響は、十七日。

 予備費二千万円のうち、一千百八十万円を使えば、残りは八百二十万円になる。

「少なすぎます」

 本社とのオンライン会議で、財務担当者が言った。

『今後の追加工事に対応できない』

「そのため、既存工事から四百四十万円を減額します」

 美月は見直し案を表示した。

 開業時の広告撮影費を百二十万円削減。

 外構の案内看板を特注から規格品へ変更し、九十万円削減。

 読書室の家具を一部開業後へ回し、百万円削減。

 事務室の収納を既存品の再利用へ変え、五十万円削減。

 開業式典費八十万円を全額削除。

『開業式典は必要では?』

 広報担当者が尋ねた。

「必要ありません」

『国、県、村、会社が関わる事業だ。関係者への説明機会になる』

「説明会は別に開きます。飲食、装花、記念品に八十万円を使う必要はありません」

『対外発信の機会が減る』

「施設を使った試行日に取材を入れてください。式典のための演出はしません」

『読書室の家具を削ると、住民利用が不十分に見える』

「すべて削るのではありません。椅子と机は必要数を置きます。書架二台と照明の一部を開業後へ回します」

『客室を一室減らせば、もっと下がる』

「収益力が下がり、長期的な赤字が増えます」

『一号室の車椅子対応設備を簡略化する案は?』

「認めません」

『非常時だ。優先順位を付ける必要がある』

「安全と利用可能性を削る前に、広報と備品を削ります」

 黒田が口を開いた。

『予備費は、結果としていくら残る』

「減額分を戻し、千二百六十万円です」

『総事業費は変えない?』

「変えません」

『工期は十七日延長。交付金期限には?』

「現時点では間に合います。ただし、余裕は二十五日まで減ります」

『台風で二週間止まれば危ないな』

「はい」

『工事を急がせるな。工程を毎週報告しろ』

「分かりました」

『追加工事を承認する。ただし、北側と体育館の先行調査を終えるまで、新しい造作工事は発注しない』

「はい」

 会議が終わると、美月は工事変更一覧へ数字を入力した。

 追加、一千百八十万円。

 削減、四百四十万円。

 予備費残額、一千二百六十万円。

 開業式典、実施しない。

 数字の横に、判断理由を一行ずつ付けた。

     *

 床下から見つかったのは、腐った木材だけではなかった。

 西側廊下の調査を終えた翌日、体育館の舞台下収納を片づけていた作業員が、奥に木箱を見つけた。

 幅七十センチ、高さ四十センチほど。

 蓋の上に、黒い文字が残っている。

『避難所記録 取扱注意』

 箱は湿気を吸い、底の板が柔らかくなっていた。

 作業員はその場で持ち上げず、柴田を呼んだ。

 柴田から連絡を受け、美月と森下、藤井、源造が体育館へ集まった。

「開けますか」

 柴田が尋ねる。

 藤井が源造を見る。

「大西さん、心当たりありますか」

「あるような、ないような」

「どちらですか」

「地滑りのあと、記録を箱へ入れた覚えはある。舞台下に置いたかまでは覚えとらん」

「役場の公文書ですか」

「当時の書記が書いたもんと、住民が持ち寄った紙が一緒やった」

「個人情報が含まれている可能性がありますね」

 森下が言った。

「家族の名前、けが、薬、避難先。たぶん、いろいろ入っとる」

 源造の顔から、いつもの強さが消えていた。

「ここで開けん方がええ」

「役場へ運びますか」

「箱の底が抜けるかもしれません」

 本庄が状態を確認する。

「下へ板を差し、箱ごと保存容器へ入れましょう。中身は役場で、記録管理の担当者が確認する」

 美月はスマートフォンを出した。

「発見時の状態だけ撮影します」

「中は撮るなよ」

 源造が言った。

「確認前には撮りません」

「確認しても、勝手に客へ見せるな」

「展示には使いません」

「まだ何が入っとるかも分からんやろ」

「だからこそ、展示を前提に扱いません」

 木箱は、二人の作業員によって慎重に運び出された。

 底板の下へ合板を差し、透明な保存容器へ入れる。

 舞台下から外へ出た時、箱の側面から細かな木屑が落ちた。

 源造はその一粒まで見ているようだった。

     *

 木箱を開けたのは、翌日の午後だった。

 場所は役場の文書保管室。

 立ち会ったのは、藤井、森下、村の文書管理担当者、県立文書館から来た保存専門職員、美月、源造の六人だった。

 箱の蓋を開けると、紙と湿った木の匂いが広がった。

 中には、大学ノートが十八冊。

 住宅地図。

 避難者名簿。

 薬の必要な人を記した一覧。

 毛布と食料の配布記録。

 会議の議事メモ。

 新聞の切り抜き。

 子どもが描いた絵。

 鉛筆と、短くなった赤い色鉛筆。

 紙の一部は湿気で波打ち、文字がにじんでいた。

 保存専門職員が手袋を着け、一冊ずつ状態を確認する。

「急いで乾燥させる必要があります。黴が出ている資料は分けます。凍結乾燥か、吸湿紙を使った処置を検討します」

「費用は?」

 藤井が尋ねる。

「点数と状態によりますが、三十万円から五十万円ほどです」

「工事費には入ってませんな」

「文化資料保存の小規模助成が使える可能性があります」

 高瀬へ確認する項目が、また一つ増えた。

 源造が一冊のノートを見ていた。

 表紙に『体育館記録 三日目』と書かれている。

「これは、見てもええか」

「名前や病状が書かれている可能性があります」

 文書管理担当者が答えた。

「まず内容を確認して、公開範囲を決めます」

「自分が書いたもんかもしれん」

「それでも、ほかの方の情報が入っていれば、自由には見せられません」

 源造は不満そうだったが、ノートへ手を伸ばさなかった。

 保存専門職員が、最も状態の良い一冊を開いた。

 ページの上に、時刻と出来事が並んでいる。

『十五時三分 山側道路通行止め』

『十五時十二分 停電発生』

 その下に、書き直した跡がある。

『十五時十八分 校舎・体育館電源消失を確認。正面時計停止』

 美月は息を止めた。

「三時十八分」

 森下が小さく言った。

 旧清澄小学校の時計が示している時刻。

 村へ来た最初の日から、美月の記憶に残っていた数字だった。

「地滑りが起きた時刻ではなかったんですね」

「前から、停電の時刻やと言うとったやろ」

 源造が答えた。

「記録が見つかりました」

「記録なくても、覚えとる人はおる」

「はい」

 源造は、開かれたページを見つめた。

「時計、直すんやったな」

「外の時計は三時十八分のまま残します。現在時刻を示す時計は、校舎内へ新しく設置します」

「この記録、時計の横へ出すんか」

「出しません」

 美月はうなずいた。

「なぜ止まったかという事実だけは、資料室で説明します。でも、このノートの複製や避難者名簿を観光客へ見せることはしません」

「地滑りの話、学校の大事な歴史やろ」

 藤井が言った。

「大事だからこそ、宿泊客の体験へは使いません」

「防災教育には使えるんと違うか」

「個人情報を除き、住民と専門家が内容を確認した上でなら可能です。まずは保存です」

 源造が美月を見た。

「客へ見せたら、泣ける話になるやろな」

「なるかもしれません」

「会社の人は、使いたがるんやないか」

「使わせません」

「田中さんが帰ったあとも?」

「利用規則へ入れます。原資料の管理は村が行い、商業利用には運営協議会と本人または遺族の同意を必要とします」

「死んだ人の遺族、どこにおるか分からんぞ」

「確認できなければ使いません」

 源造はうなずいた。

「それでええ」

 木箱の底から、折り畳まれた一枚の紙が出てきた。

 開くと、体育館の見取り図だった。

 床の上に、家族ごとの場所が鉛筆で区切られている。

 舞台側に高齢者。

 出入口近くに、動ける若い人。

 端に、体調の悪い人。

 炊き出し。

 物資。

 子ども。

 現在、美月たちが避難所切り替え訓練で作った配置と似ていた。

「昔も、同じように分けたんですね」

「その場で決めた」

 源造が言った。

「紙の上で考えてから避難したんやない。人が来て、寒い言うて、咳しとる人がおって、場所動かした」

「この配置を、改修後の避難所計画へ参考にできます」

「そのまま真似したらあかんぞ」

「分かっています。人数も設備も違います」

「昔こうやったから、今も正しいとは限らん」

 美月は源造の言葉を記録した。

 過去を残すことと、過去を正解にすることは違う。

     *

 木箱の発見は、役場の広報紙へ掲載された。

 写真は箱の外観だけ。

 中身については、避難所運営記録や地図が含まれていたこと、保存処置を行うこと、公開範囲は今後検討することだけを記した。

 それでも、村の外から問い合わせが来た。

 地元新聞。

 テレビ局。

 防災研究者。

 廃校を紹介する動画投稿者。

『地滑りを乗り越えた村の奇跡の記録として取材したい』

『時計が止まった瞬間のノートを撮影したい』

『宿泊施設開業の物語と合わせて紹介したい』

 美月は、すべて同じ内容で断った。

『現在、資料の保存処置と個人情報確認中のため、原資料の公開および撮影には応じられません』

 広報担当者から電話があった。

『一社だけでも、信頼できる報道機関へ先行公開できないか』

「できません」

『事業への注目を集める機会だ』

「避難者名簿と病状記録が含まれています」

『そこは撮影しなければいい。三時十八分の記録だけなら』

「同じノートのほかのページに、個人名があります」

『該当ページだけ複製すれば?』

「保存処置も終わっていません。それに、時計の時刻を感動的な物語として使うことへ、住民の合意がありません」

『事実を伝えるだけだ』

「どの事実を選ぶかで、見え方は変わります」

『会社の投資理由も説明しやすくなる』

「会社の投資を正当化するために、避難した人の記録を使いません」

 電話の向こうで、沈黙があった。

『黒田部長にも確認する』

「してください」

 一時間後、黒田から連絡が来た。

『取材は保留でいい。原資料へ触らせるな』

「ありがとうございます」

『ただし、永遠に非公開と決めるのも田中の権限ではない』

「分かっています。村の資料として、公開基準を作ります」

『会社の広報に都合が悪いから隠したと思われないよう、非公開理由は公表しておけ』

「はい」

 美月は広報文へ、一行を加えた。

『資料の価値が低いから公開しないのではなく、個人の暮らしと健康に関わる情報を含むため、保存と確認を優先します』

     *

 工事の問題は、校舎の床下だけでは終わらなかった。

 九月下旬、強い雨が二日続いた。

 工事現場の山側へ降った水が、仮設の排水路を越え、隣接する畑へ流れ込んだ。

 畑には、泥と細かな木片が広がった。

 所有者は、学校事業に反対していた男性だった。

 朝六時半、役場へ連絡が入り、美月と柴田、藤井が現場へ向かった。

 畑の一部には、植えたばかりの大根の芽が出ていた。

 泥水が通った場所だけ、土が深くえぐれている。

「これ、どうするんや」

 男性が言った。

「工事の水やろ」

 柴田が仮設排水を確認した。

「現場から流れた可能性が高いです」

「可能性やない。上にほかの工事ないやろ」

「はい。施工者の責任で調査します」

「調査して、大根戻るんか」

「戻りません」

 美月が答えた。

 男性が美月を見る。

「補償します。土の復旧と、収穫できなくなった分を算定します」

「金払ったら終わりか」

「終わりにはしません。排水方法を直します」

「前から雨降る言うてたやろ」

「予報は確認していました。仮設排水の容量が足りませんでした」

 柴田が頭を下げた。

「私の確認不足です。申し訳ありません」

 男性は返事をせず、泥の付いた畑を見た。

「学校に反対しとるから、わざと後回しにされたんやないやろな」

「違います」

 美月は即座に答えた。

「賛否に関係なく、隣接地への被害です。施工者と会社が責任を負います」

「会社が金出すんか」

「工事保険と施工者負担で対応します。村費は使いません」

「どこまで元に戻す」

「所有者の方と農業担当者に確認して、同じ作付けができる状態まで戻します」

「今年の分は戻らん」

「今年の収穫損失は、別に補償します」

 男性は、泥の中から倒れた芽を一本つまんだ。

「こんな小さいもんでも、出るまで待ったんや」

「はい」

「学校も、始まるまで待った言うんやろ」

「そうです」

「ほな、待ったからって、何してもええことにはならんな」

「なりません」

 男性は大根の芽を土へ戻した。

「金額、役場通して出してくれ。あんたらと直接やったら、あとで村の人に何言われるか分からん」

「分かりました。役場、施工者、所有者の三者で記録を作ります」

 その日のうちに、工事は一部停止された。

 仮設排水路を広げ、沈砂設備を追加する。

 土のうを積み、濁水が直接畑へ入らないよう経路を変える。

 復旧費と補償費は、施工者の保険から支払われることになった。

 工事進捗表には、三日間の遅れが記された。

 美月は月次報告へ、事故として掲載した。

 会社の法務担当者からは、「事故」という表現ではなく「周辺地への雨水流入」とした方がよいと提案された。

 美月は変えなかった。

 被害が出た以上、単なる出来事ではない。

     *

 十月に入ると、体育館の床下調査が始まった。

 舞台に近い床板を外すと、太い梁の一本に、鉛筆の線が何本も残っていた。

 線の横には、名前と数字が書かれている。

『そうた 七さい』

『そうた 八さい』

『ゆうすけ 十さい』

『まなみ 九さい』

 子どもたちが身長を測った跡だった。

 学校の正式な記録ではない。

 舞台袖へ入り込んだ子どもが、柱へ背を付け、互いに線を引いたのだろう。

「颯太さん、呼びますか」

 森下が尋ねた。

「工事中の現場です。確認だけなら、安全を確保して入ってもらえます」

 颯太は午後に来た。

 ヘルメットを着け、作業員の案内で梁の前へ立つ。

「これ、覚えていますか」

 美月が聞いた。

 颯太は七歳と書かれた線へ指を近づけた。

「たぶん、兄が書いた」

「お兄さんがいるんですか」

「いました」

 美月は、過去形に気づいた。

 しかし、尋ねなかった。

「この梁、どうなるんです?」

 颯太が本庄へ聞いた。

「下部に腐朽があります。構造材としては残せません」

「線のところは?」

「上部は比較的健全です。ただ、梁全体を外します」

「切って残せますか」

「保存物としてなら可能です。構造材には再利用できません」

「何センチくらい」

「名前と線を残すなら、幅四十センチほどです」

 美月が言った。

「資料室へ置きますか」

 颯太はすぐには答えなかった。

「置いて、誰が見るんです?」

「同じ時期に通っていた方や、記録を見たい方です」

「客にも?」

「一般公開するなら、名前の本人へ確認が必要です。連絡できない方の名前は隠します」

「名前隠したら、ただの線でしょう」

「はい」

「ほな、資料室に置く意味あるかな」

 颯太は、自分の名前の横にある線を見た。

「俺は、写真でええです」

「ほかの方の確認も必要です」

「連絡つく人には聞いたらええ。でも、全員分残すために大きい梁を保管するのは、違うと思う」

「切り取らないんですか」

「七歳の俺が、ここに置いといてくれって頼んだわけやないですから」

 颯太はスマートフォンで写真を撮った。

 一枚目は梁全体。

 二枚目は自分の名前。

 三枚目は、ほかの子どもの線も入るように少し離れて。

「これでええ」

「お兄さんの線は、どれですか」

「ゆうすけ」

 颯太は十歳の線を指した。

「三年前に亡くなりました。村の外で」

「そうだったんですか」

「病気です。学校閉まったあとも、村には戻ってきませんでした」

 美月は、次の言葉をすぐには出せなかった。

 病気で、村の外で。三年前に。

 父が亡くなった時と同じ言葉が、静かに重なった。

 「うちの父も、同じです」

 気づけば、そう言っていた。

 「病気で。三年前に」

 颯太が顔を上げた。

 「聞き取りでは、そういう話は出てきませんでしたけど」

 「今、話したくなっただけです」

 颯太は何も聞き返さなかった。

 ただ、しばらく黙って、七歳の線の横に立っていた。

 「兄貴の分まで、ちゃんと生きろって言われたことないんです」

 颯太が言った。

 「誰も、そんなふうには言わへんかった。それが、逆にきつい時があります」

 「うちも、言われませんでした」

 「なら、分かるかもしれませんね」

 それだけの会話だった。

 けれど、体育館の埃っぽい光の中で、美月は自分の呼吸が少し楽になっているのに気づいた。

「写真、送る方はいますか」

「母に送ります」

 颯太は画面を閉じた。

「母は、残せ言うかもしれん」

「その場合は?」

「そしたら、考えます」

「颯太さんだけでは決めない?」

「俺の名前だけやないですから」

 美月はうなずいた。

「確認が終わるまで、該当部分は切り出して仮保管します」

「期限は決めてください」

「三か月でどうでしょう」

「それでええです」

 三か月以内に、名前の分かる本人か家族へ連絡する。

 保存希望が複数あれば、資料室で保管する。

 希望がなければ、写真記録を残して廃棄する。

 保存する場合も、展示ではなく、閲覧を希望する人が確認できる形にする。

 美月はその場で、取扱記録へ書き込んだ。

     *

 北側床下と体育館接続部の調査では、大きな腐朽は見つからなかった。

 予備費は、一千二百六十万円を残したまま、工事を再開できることになった。

 工程の遅れは、合計二十日。

 まだ交付金期限まで五日間の余裕があった。

「五日しかない、と言う方が正確です」

 工程会議で美月が言うと、柴田は苦笑した。

「雨が続けば、また厳しくなります」

「夜間工事は行いません」

「工種によっては、少し延ばした方が安全に間に合います」

「周辺住民との約束は午後五時半までです。変更するなら、事前説明が必要です」

「一日一時間延ばせば、取り戻せます」

「作業員の勤務時間は?」

「交代を組みます」

「追加人件費は?」

「二百万円ほどです」

「期限に遅れて交付金を返すより安いですね」

「はい」

「ただし、毎日にはしません。天候で遅れた工種に限定し、午後六時半まで。二週間前に住民へ説明する。日曜は休工のままです」

「承知しました」

 工期を守るために、人を急がせるのではなく、人を増やす。

 その費用は、予備費から出す。

 残りは、一千六十万円。

 美月はまた、変更一覧へ数字を入れた。

     *

 工事が進むにつれ、学校の内部は元の姿を失っていった。

 壁が外され、柱が現れる。

 床板がなくなり、土が見える。

 天井の上には、電線と配管が走る。

 教室だった場所を、向こうまで見通せるようになった。

 昔の学校を知る住民ほど、解体途中の姿を見るのを嫌がった。

「骨だけになったみたいや」

 文江が金網の外から言った。

「これ、ほんまに元へ戻るんか」

「元へは戻りません」

 美月が答える。

「新しい使い方に合わせて直します」

「教室の壁、なくなったな」

「客室になる三室は、壁を作り直します。資料室と読書室は、前より広くします」

「黒板は?」

「保護して、別の場所で保管しています。工事が終わってから元の教室へ戻します」

「時計は?」

「外して修理工房へ送っています。針は三時十八分の位置で固定します」

「学校なくなったみたいやな」

「工事中ですから」

「分かっとるけど」

 文江は、柱だけになった校舎を見た。

「床の下から、いろいろ出てきたな」

「はい」

「腐った木と、昔の紙と、子どもの線」

「ほかにも、使われていない水道管や、古い釘が出ました」

「そっちは広報に載せへんの?」

「工事記録には載せます」

「地味やから、新聞は来んか」

「来ないと思います」

「ほんまは、そっちの方が学校やのにな」

「どういう意味ですか」

「大事なもんだけ埋まっとったんやない。いらんもんも、危ないもんも、忘れたもんも、全部下にあった」

 文江は金網へ手を掛けた。

「人が長いこと使うたら、そうなるんやろな」

 美月は、床下の写真を思い出した。

 黒く腐った土台。

 つぶれた排水管。

 避難所記録の木箱。

 名前の付いた身長線。

 どれも、建物の外からは見えなかった。

「新しく床を張ったら、また見えなくなります」

「見えんでええもんもある」

「記録は残します」

「全部?」

「見つけたものと、捨てた理由も」

「田中さんが帰ったあと、誰か見るんかな」

「見ないかもしれません」

「それでも残すんや」

「はい」

 文江は柱だけの校舎を見たまま、ゆっくりうなずいた。

     *

 その夜、美月は山路館の部屋で、工事月報を仕上げた。

 今月の進捗。

 対象建材撤去完了。

 西側廊下の腐朽発見。

 追加工事、一千百八十万円。

 既存工事削減、四百四十万円。

 夜間延長対応費、二百万円。

 予備費残高、一千六十万円。

 工期遅延、二十日。

 隣接農地への泥水流入。

 復旧と補償。

 避難所記録の発見。

 原資料、非公開。

 体育館の梁に身長線。

 三か月の仮保管。

 一つずつ入力した。

 最後に、今後のリスクを書く。

 台風。

 追加腐朽。

 資材納期。

 作業員不足。

 交付金期限。

 保存物の保管費。

 住民との対立。

 項目は減らない。

 工事が進むほど、新しいものが増えていく。

 美月は、月報の表紙へ写真を一枚置いた。

 床板を外した西側廊下。

 作業灯に照らされた古い土台。

 手前には新しい補強材が並び、奥には黒い腐朽が残っている。

 会社の広報に使えるような写真ではない。

 完成後の姿を想像させる美しさもない。

 けれど、今月の工事を最も正確に表していた。

 保存しようとしているのは、目に見える校舎だけではない。

 そこで起きたこと。

 間違えたこと。

 予測できなかったこと。

 誰が反対し、誰が責任を負い、何に金を使ったか。

 それらも、完成した建物の下へ隠れていく。

 床を張れば見えなくなるからこそ、張る前に残す必要があった。

 美月は月報を送信した。

 窓を開ける。

 夜の川の音が入ってきた。

 机の端には、試行教室で作った木の写真立てが置かれている。

 木栓の一本が沈みすぎたままだった。

 中には、まだ写真を入れていない。

 美月はスマートフォンを開き、工事現場で撮った写真を一枚選んだ。

 柱だけになった校舎。

 その奥に、夕方の山が見えている。

 印刷は明日にしようと思い、画面を閉じた。

 学校の床下から出てきたものは、村が忘れていたものばかりではなかった。

 これから隠してはいけないものも、そこにあった。


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