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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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第二十二章 決まった金、割れる村

県庁の会議室には、五種類の資料が並べられていた。

 国の交付金内示書。

 県の補助事業採択案。

 清澄村の負担計画。

 創生都市開発の出資承認書。

 地域金融機関の融資条件書。

 どの紙にも、条件付き、予定、上限、見込みという言葉が付いている。

 それでも、これまで数字の空欄だった場所に、初めて金額が入っていた。

 総事業費は、三億七千二百万円。

 設計の見直しによって、前回見積もりから一千二百二十万円減額された。

 校舎と体育館の足場を別々に組まず、工事時期を合わせる。

 客室の洗面設備を特注品から規格品へ変更する。

 古い基礎のうち、調査で安全性を確認できた部分は残す。

 外構照明の設置範囲を絞る。

 川音の湯へ続く車路は全面舗装せず、車椅子対応に必要な区間と転回場所を優先する。

 削ったのは、使い方ではなく、施工方法と仕様だった。

 客室は三室のまま。

 体育館も残る。

 川音の湯の露天風呂も、村民優先時間も変わらない。

 国から一億五千八百万円。

 県から五千万円。

 清澄村から五千万円。

 創生都市開発から七千二百万円。

 地域金融機関から四千二百万円。

 合計、三億七千二百万円。

 美月は、五つの金額を一つずつ確認した。

 数字は合っている。

 しかし、合計が合うことと、事業が成立することは同じではない。

「国の交付金は、学校の公共利用部分と防災機能が対象です」

 高瀬が説明した。

「客室の内装、寝具、予約システム、宿泊者専用の備品には使えません。川音の湯についても、村民利用と段差解消、衛生設備が対象です。学校宿泊者のための送迎車には充てられません」

「対象経費の重複はありません」

 美月は費用区分表を示した。

「設備ごとに財源を分けています。共用設備についても、利用目的と管理主体を記載しました」

「国へ提出した資料と、会社の出資資料で金額が違う項目があります」

 県の財政担当者が指摘した。

「設計見直し後の金額へ、会社資料がまだ更新されていません」

「今日中に直します」

「変更履歴も残してください。あとから安くなった理由が分からないと、架空の自己負担を計上したと疑われる可能性があります」

「理解しました」

 山根村長が資料をめくった。

「国費と県費は、これで確定と考えていいですか」

 高瀬はすぐにはうなずかなかった。

「内示額としては、この金額です。ただし、実績報告で対象外経費が見つかれば減額されます。工事内容を変える場合も、事前承認が必要です」

「工事中に、追加の腐朽が見つかった場合は?」

 本庄が尋ねる。

「対象工事の範囲なら、変更申請を行います。ただし、予算上限が増えるとは限りません」

「追加分は、誰が負担するんですか」

「契約で決めてください」

 高瀬の答えは簡潔だった。

 行政の金が決まっても、すべての不確実性が消えるわけではない。

「予備費は二千万円あります」

 美月が言った。

「それを超える場合、会社と村の追加負担は自動的に行いません。工事内容を見直し、双方の再承認を得ます」

「国の完成期限に間に合わなければ、どうなります?」

 藤井が聞いた。

「交付金の一部を返還する可能性があります」

 会議室の空気が重くなった。

「学校は古い。工事を始めたら、想定外が出るでしょう」

 藤井は言った。

「期限を守るために、補修を急がせることはできません」

「そのため、着工前調査の期間を一か月延ばします」

 本庄が工程表を示した。

「床下、屋根裏、壁内を追加調査します。工事期間には余裕を持たせていますが、台風や大雪で遅れる可能性はあります」

「交付金が決まったから、期限に合わせて無理に開業することはしません」

 美月が言う。

「完成が遅れれば、開業も遅らせます」

 財政担当者が眉を寄せた。

「交付金の期限は待ってくれませんよ」

「分かっています。それでも、安全確認を省くことはできません」

「では、工事を二段階に分ける方法も考えてください。交付対象部分を先に完成させ、収益事業部分をあとへ回す」

「同じ建物の中で工期を分ければ、仮設費が増えます」

「増えた費用は対象にならない可能性があります」

 美月は息を吐きそうになり、こらえた。

 制度の期限。

 工事の安全。

 会社の予算。

 村の負担。

 どれか一つだけを優先すれば、ほかに無理が出る。

「二段階工事案を、今週中に比較します」

 美月は答えた。

 高瀬が会議資料の最後のページを開いた。

「もう一つ、確認があります」

「何でしょう」

「国費を使った公共部分は、少なくとも十年間、申請した用途で使う必要があります。会社が宿泊事業から撤退しても、体育館、防災機能、住民利用部分を勝手に閉鎖することはできません」

「村が維持することになりますな」

 藤井が言った。

「はい。会社が撤退した場合の移管計画を、協定へ入れてください」

 山根村長は、資料の上で両手を組んだ。

「村は、会社が帰ったあとも施設を持ち続ける責任がある」

「そうです」

「それを、議会と住民にもう一度説明する必要がありますな」

 山根村長の声には、金が決まった喜びより、残る責任の重さがあった。

     *

 三者協議が終わった日の夕方、役場前の掲示板に一枚の紙が貼られていた。

『三億七千万円の学校より、診療所とバスを』

 白い紙に、太い黒字で書かれている。

 名前はない。

 その下には、別の紙が貼られていた。

『五千万円あれば、何人の高齢者を病院へ送れるのか』

 さらに、その横には、

『観光客の寝る部屋より、村民の暮らしを先に』

 と書かれていた。

 森下が掲示板の前に立っている。

「役場の許可を取っていない掲示物です」

「外しますか」

 美月が尋ねる。

「無断掲示なので、本来は外します。でも、今外したら、反対意見を隠したと言われます」

「掲示場所を正式に用意しましょう」

「意見掲示板ですか」

「はい。賛成も反対も、名前を出したくない方は匿名で書けるようにします。ただし、個人への中傷は掲示しない。事実と違う数字には、役場から注記を付ける」

「匿名だと、村外の人も書けます」

「村民用紙を役場で配りますか」

「それでは、書いた人が分かります」

「投函箱を置いて、役場が確認してから掲示する方法は?」

「検閲やと言われるかもしれません」

 森下は額へ手を当てた。

「何をしても、別の問題が出ますね」

「問題が出ない方法はありません」

「田中さん、最近そればっかり言います」

「実際、そうなので」

 森下は掲示板の紙を見た。

「五千万円あれば、送迎車を何台買えると思います?」

「車両価格だけなら、十台以上買える可能性があります」

「運転する人は?」

「別に必要です」

「維持費も、保険も」

「はい」

「それでも、学校へ出すより送迎へ使ってほしい人はいます」

「その点は理解しています」

「本当に?」

 森下の声が、いつもより強かった。

 美月は森下を見た。

「どういう意味ですか」

「田中さんは、計画の責任者です。学校を実現するために、反対意見をどう説明するか考えている。でも、反対している人は、説明されたら納得するために言ってるんやないと思います」

「では、何のためですか」

「止めたい人もいるんです」

 美月は返事をしなかった。

「計画を良くするための意見だけやない。学校より、別のことへ金を使ってほしい。そう思ってる人がいる」

「承知しています」

「承知している顔に見えへん時があります」

 森下は掲示板から目を離した。

「田中さんは、反対が出たら条件を追加して、数字を直して、解決できる形にしようとする。でも、どれだけ直しても、学校へ五千万円出すこと自体に反対の人は残ります」

「全員の賛成は得られないと思っています」

「思っていても、どこかで全員を納得させようとしてませんか」

 美月は、自分の手帳を開きかけてやめた。

 書き留めて解決する種類の話ではなかった。

「しているかもしれません」

 森下は少し驚いたように、美月を見た。

「全員が納得していない状態で進めることが、怖いんだと思います」

「田中さんが?」

「はい」

「怖そうには見えません」

「見せていないので」

 森下は掲示板へ向き直った。

「住民説明会、荒れると思います」

「でしょうね」

「一人で答えないでください」

「村費の説明は村長と藤井さん。公費は高瀬さん。会社出資と事業計画は私が説明します」

「反対を説得する役は?」

「置きません」

「説得しないんですか」

「賛成へ変えることを目的にしません。判断に必要な情報を出します」

 森下はしばらく考え、掲示板の紙を一枚ずつ写真に撮った。

「無断掲示としては外します。その代わり、内容は説明会の質問事項へ入れます」

「お願いします」

「書いた人、怒るでしょうね」

「説明会で、もう一度言ってもらいましょう」

「言える人ばっかりやないですよ」

 森下は紙を慎重にはがした。

「だから、私が読み上げます」

     *

 住民説明会は、日曜日の午後一時から開かれた。

 会場の公民館には、七十六脚の椅子が並べられた。

 開始時刻の十五分前には、ほとんど埋まっていた。廊下にも立っている人がいる。

 村議会議員全員が前列に座り、その後ろに住民が並ぶ。

 美月は壇上の横で、資料の接続を確認した。

 最初の画面には、総事業費と負担額だけを表示した。

 細かな説明から始めれば、都合の悪い数字を隠していると思われる。

 山根村長が壇上へ上がった。

「本日は、旧清澄小学校と川音の湯の改修事業について、現在の状況をご説明します」

 会場に話し声はない。

「総事業費は、三億七千二百万円です。そのうち、国から一億五千八百万円、奈良県から五千万円、清澄村から五千万円、創生都市開発から七千二百万円、地域金融機関から四千二百万円を予定しています」

 後方から、低い声が上がった。

「村の五千万、決まったんか」

「まだ議会の承認前です」

「金が決まったみたいに言うな」

「だから、今日説明してるんやろ」

「先に国と会社が決めて、村だけあとから断れるんか」

 山根村長が両手を上げた。

「順番に説明します。村が承認しなければ、事業は進みません」

「断ったら、国と県の金はどうなる」

「交付されません」

 会場がざわめいた。

「二億以上、捨てることになるんか」

「捨てるという言い方は違います」

 高瀬が壇上へ上がった。

「国費と県費は、この事業を行う場合に限って交付されます。学校改修をやめたからといって、同じ金額をバスや診療所へ移すことはできません」

「結局、今断ったら損みたいに聞こえるやないか」

 男性の声が飛ぶ。

「損得だけで判断しないでください」

「二億も来る言うて、損得で考えるなは無理やろ」

 別の住民が言った。

 高瀬は一度言葉を止めた。

「おっしゃるとおりです。外から大きなお金が入ることは、判断へ影響します。しかし、そのお金を得るために、村が不要な施設を持つべきではありません。必要かどうかを先に判断してください」

「県は、必要やと思っとるんか」

「県は、計画に公共性と実現可能性があると判断しています。ただし、村民全員が望んでいるとは判断していません」

「全員が望んでへんのに、金出すんか」

「全員一致が補助の条件ではありません」

 会場の空気が硬くなった。

 森下が、無断掲示に書かれていた三つの意見を読み上げた。

「三億七千万円の学校より、診療所とバスを。五千万円あれば、何人の高齢者を病院へ送れるのか。観光客の寝る部屋より、村民の暮らしを先に。これらの意見が役場へ寄せられています」

 山根村長が村費の資料を映した。

「村の五千万円は、公共施設整備基金から二千万円、地方債による借入れから三千万円を予定しています」

「借金するんか」

「はい」

「何年で返す」

「十五年です。利息を含め、年間の返済額は二百二十万円から二百五十万円を見込んでいます」

「十五年後、誰が村におる」

 誰かが言った。

「人口減っとるのに、返せるんか」

「現在の財政計画では返済可能です」

 藤井が答えた。

「可能いうだけで、ほかに使えん金が毎年二百万以上出るんやろ」

「そのとおりです」

 藤井は否定しなかった。

「診療所の医者が来んようになったら、どうする」

「医師確保の予算とは別です」

「村の金は同じ財布やろ」

「同じ一般会計ですが、すべてを一つの用途だけへ使うことはできません」

「五千万出さんかったら、送迎増やせるんか」

 山根村長が答えた。

「増やせます。すべてを送迎へ使うわけではありませんが、選択肢は増えます」

 美月は山根村長を見た。

 村長は、学校を推進する立場にいる。

 それでも、五千万円を出さなければ別のことができるという事実を隠さなかった。

「ほな、学校やめて送迎増やした方がええ」

 前方に座る女性が言った。

「私は月二回、町の病院へ行ってます。息子に仕事休んでもろて送ってもらう。学校で客を泊めるより、病院へ行く車を増やしてほしい」

「送迎車を増やしても、運転する人が不足しています」

 藤井が説明する。

「金があったら、人を雇えるやろ」

「大型車両を運転できる人が村内に少なく、町から雇えば通勤費がかかります」

「だからできへん言うんか」

「できないとは言っていません。増便には毎年費用がかかります。学校の五千万円を一度回せば終わる話ではありません」

「学校も毎年金かかるやろ」

「かかります」

 藤井は再び認めた。

「公共部分の維持管理費として、村は年間三百万円を上限に負担する案です。それを超える分は、事業収益と会社負担で賄います」

「客が来んかったら?」

「三百万円を超える追加負担は、議会の承認なしには行いません」

「閉めるんか」

「運営を縮小する可能性があります」

 会場のあちこちから声が上がった。

 学校を残したい人。

 残しても使わないと言う人。

 川音の湯だけ直せばよいという人。

 体育館を避難所として残すなら賛成という人。

 客室はいらないという人。

 客室がなければ収入がないと反論する人。

 それぞれの声が重なり、言葉が聞き取れなくなる。

 源造が立ち上がりかけた。

 美月は小さく首を振った。

 今、源造が計画を擁護すれば、反対派との対立が個人同士へ変わる。

 山根村長が何度か木槌を鳴らし、会場を静めた。

「一人ずつ発言してください」

 後方で手が上がった。

 制服姿の結菜だった。

 大人たちの視線が集まり、結菜は一度手を下ろしそうになった。

 それでも、森下からマイクを受け取った。

「私、村外の高校へ通ってます」

 声が少し震えている。

「朝は六時台のバスで、帰りは親に迎えに来てもらうことが多いです。部活したら、最後のバスに間に合わないから」

 会場が静かになった。

「学校が直ったら、若い人が帰ってくるって聞きました。でも、今住んでる高校生が村の外へ出るのも大変なのに、帰ってくる人のことを先に考えるんですか」

 誰もすぐには答えなかった。

「私は、学校を壊してほしいわけじゃないです。体育館も使えたらいいと思います。木工もやってみたい。でも、これが村の未来のためやって言われると、今いる私らは未来に入ってへんみたいに思います」

 結菜の母親らしい女性が、俯いている。

 結菜はマイクを握ったまま続けた。

「学校に五千万出すなら、バスにも出してほしいです。どっちかしか無理やったら、私はバスを選びます」

 結菜は席へ戻った。

 拍手は起きなかった。

 拍手をすれば、賛成か反対かのどちらかへ結菜を押し込めることになる。

 山根村長が口を開いた。

「結菜さん。言ってくれてありがとう。交通の問題は、この事業とは別に検討します」

「別にしたら、またあとになるんやないですか」

 結菜が席から言った。

 村長の言葉が止まる。

 美月は壇上へ上がった。

「その可能性はあります」

 会場の視線が、美月へ向いた。

「学校事業が動けば、人も時間も予算も使います。交通の検討が遅れる可能性はあります。別に検討すると言うだけでは、約束になりません」

「田中さん」

 藤井が止めるように呼んだ。

「会社が交通まで約束することはできません」

「なら、何で出てきた」

 住民の一人が言った。

「学校の計画で、村の未来という言葉を使ってきたからです」

 美月は結菜を見た。

「あなたの言うとおり、今いる若い人が通学できない問題を置いたまま、帰ってくる人だけを語るのは不公平です」

「バスを増やしてくれるんですか」

「今、増やすとは約束できません」

「またそれや」

「はい。でも、検討期限は決められます」

 美月は山根村長と藤井へ向き直った。

「学校事業とは別に、交通検討会を設けてください。高校生、通院利用者、運転者、役場、会社の運営担当を入れる。三か月以内に、増便、予約乗合、学校送迎車の空き時間利用、町との接続改善を比較する。学校の着工前に中間報告を出してください」

「学校の送迎車を、村民が使うんか」

 会場から声が上がる。

「現段階では決めません。宿泊客用の車を公共交通として使うには、法令、保険、運転者、料金の整理が必要です。できない可能性もあります」

「できん案を出すな」

「できるか確認せずに外すこともしません」

 山根村長が考え込んでいる。

 藤井が小声で何かを伝えた。

 しばらくして、村長がマイクを取った。

「交通検討会を設置します。三か月以内に中間報告を出します。ただし、学校事業を通すための形だけの会にはしません」

「予算は?」

 議員の一人が聞いた。

「今年度の地域交通調査費から百五十万円を充てます。必要なら補正予算を出します」

「また金使うんか」

「調べずに増便すれば、もっと金がかかります」

 結菜は何も言わなかった。

 納得したのかどうか、美月には分からない。

 それでも、未来という言葉の中へ、今いる高校生の時間が一つ書き加えられた。

     *

 次に手を上げたのは、上流側の集落に住む男性だった。

「学校も川音の湯も、下の集落にある。上の方には、何が来るんや」

「学校は村全体の施設です」

 藤井が答えた。

「そう言うても、歩いて行けるのは下の人だけや。体育館を使うにも車が要る。仕事も、近い人が取る」

「送迎方法を検討します」

「また検討か」

「現時点で、決まっていないことを決まったとは言えません」

 男性は美月を指した。

「この人、佐藤林業とばっかり話しとる。木の仕事は颯太のとこへ行くんやろ」

 颯太が後方の席から立ち上がった。

「まだ決まってません」

「決まっとらん言いながら、木工教室の準備しとるやないか」

「試行の材料は、役場から依頼を受けて見積もりを出しました」

「学校の内装材も、お前のとこが納めるんやろ」

「競争見積もりです。俺のとこが高かったら、別の業者になる」

「東京の会社と仲良うしとったら、有利になるやろ」

 颯太の顔が硬くなった。

 美月が答えた。

「佐藤林業だけを指定する契約はしません。一定額以上の工事と材料調達は、複数社から見積もりを取ります。選定基準と結果を公表します」

「村の木を使う言うて、町の業者が入るんか」

「村内で供給できる量、品質、納期、価格を確認します。村内事業者だから無条件に選ぶことも、村外事業者だから排除することもしません」

「地域活性化やのに、村の業者を優先せんのか」

「村内事業者へ発注することは重要です。でも、公費を使う以上、価格と品質の説明が必要です」

 颯太がマイクを受け取った。

「俺は、この事業で仕事が増えたらありがたいです」

 会場が静まる。

「木材も納めたい。木工教室の準備も受けたい。でも、村のためやから安うしろ言われたら断ります。逆に、村の業者やから高くても使え言うのも違うと思う」

「お前は会社から金もらう側やから、賛成するんやろ」

「その面がないとは言いません」

 颯太は相手から目をそらさなかった。

「だから、木材調達の選定会議には入りません。自分の見積もりを出して、ほかと比べてもらいます。落ちたら、受けません」

「それで村の木が使われんでもええんか」

「よくはない。でも、村の木を使う理由まで説明できんかったら、次の仕事にはつながらんでしょう」

 颯太はマイクを森下へ返した。

 座る前に、美月と一瞬だけ目が合った。

 最初に学校の金網の前で会った時、颯太は外の会社を疑っていた。

 今は、自分が利益を受ける側として疑われている。

 立場が変われば、同じ計画も違って見える。

     *

 説明会は、予定を一時間以上超えた。

 最後に、森下が事前に集めた質問を読み上げた。

「反対しても、どうせ議会で決めるのではないか」

 会場が再び静かになった。

 山根村長が答えた。

「最終的には、予算案を議会が議決します。住民投票の予定はありません」

「ほな、今日の会は何や」

「議員が判断するための材料を出し、住民の意見を記録する会です」

「反対が多くても進めるんか」

「人数だけでは決めません」

「何人反対したら止める」

「基準はありません」

「都合ええな」

 厳しい声が飛ぶ。

 山根村長は顔を背けなかった。

「はい。そう見えると思います。しかし、手を挙げた人数だけで三億円の事業を決めることもできません。参加できなかった人もいます。内容を理解していても、人前で発言できない人もいます」

「なら、何で決める」

「必要性、財政負担、将来の維持、住民意見、外部資金、事業の実現性を見て、議会が決めます」

「間違えたら?」

「私と議会が責任を負います」

「任期終わったら、終わりやろ」

「任期が終わっても、記録は残ります」

 村長の声がわずかに揺れた。

「それで十分やとは思いません。それでも、決めないまま施設が壊れるのを待つことも、判断です」

 説明会が終わった時、拍手はなかった。

 住民は、賛成と反対に分かれて退場したわけではない。

 同じ人が、学校を残したいと言いながら、村費には反対した。

 温泉を直したいと言いながら、観光客が増えることを嫌がった。

 仕事が増えてほしいと言いながら、会社へ村を使われることを恐れた。

 それぞれの中に、賛成と反対が並んでいた。

     *

 説明会の翌日から、役場には電話が続いた。

「若い子に言わせるために、結菜を会へ呼んだのか」

「佐藤林業への発注は、もう決まっているのではないか」

「反対者の名前を会社へ渡しているのか」

「国の金が余っているなら、全部もらえばいい」

「五千万円くらい、会社が追加で出せないのか」

「村長は学校を自分の実績にしたいだけではないか」

 森下と藤井が、一本ずつ応対した。

 美月への直接の電話も増えた。

 中には、何も言わずに切れるものもあった。

 山路館の玄関には、折り畳まれた紙が置かれていた。

『東京へ帰れ』

 黒いペンで、それだけ書かれている。

 澄江が先に見つけ、捨てようとしたところを美月が止めた。

「写真を撮ります」

「こんなもん、残さんでええ」

「業務に関係する意見として記録します」

「意見やない。嫌がらせや」

「そうかもしれません」

「東京へ帰るんですか」

「今は帰りません」

「なら、捨てましょう」

 澄江は紙を二つに破いた。

「記録は写真で十分。部屋へ持って上がったらあかん」

「証拠として保管した方が――」

「ここは旅館です。嫌な紙まで泊めません」

 澄江は破いた紙をさらに小さくし、厨房のごみ箱へ捨てた。

「警察へ相談するほどのことがあったら、私にも言うてください。けど、名前もない紙一枚を、夜まで眺めんでええ」

 美月はスマートフォンの写真を見た。

 東京へ帰れ。

 短い言葉だった。

 村の総意ではない。

 誰が書いたのかも分からない。

 それでも、胸の奥に残った。

「今日の夕食、七時でええですね」

 澄江が聞いた。

「はい」

「仕事で遅らせたら、魚は焼き直しませんよ」

「七時に行きます」

「なら、よろしい」

 澄江は厨房へ戻った。

 美月は玄関に一人残り、写真を業務記録のフォルダへ保存した。

 そのあと、画面からは閉じた。

     *

 村議会の採決は、十日後に行われた。

 傍聴席は満員だった。

 廊下の小さなモニターでも中継され、役場前には入りきれない住民が集まっている。

 議案は、旧清澄小学校及び川音の湯改修事業に関する補正予算。

 村負担、五千万円。

 公共施設整備基金から二千万円。

 地方債、三千万円。

 年間維持費の上限、三百万円。

 地域交通調査費、百五十万円。

 会社との運営協定締結に向けた権限付与。

 議員は一人ずつ質問した。

「宿泊事業が撤退した場合、村は年間いくら負担するのか」

「最大で九百万円前後です。ただし、客室部分を閉鎖し、公共利用だけへ縮小すれば五百万円程度まで下げられます」

「その金額を、十年間払えるのか」

「現在の財政計画では可能です。しかし、人口減少が予測以上に進めば見直しが必要です」

「公共施設整備基金を二千万円使ったあと、災害が起きた場合の残高は?」

「一億一千万円余りです」

「十分と言えるのか」

「大規模災害へ基金だけで対応することはできません。国県の支援を含めます」

「交通調査は、学校事業を通すための交換条件ではないのか」

「違います。以前からあった課題を、今回の意見を受けて期限付きで検討するものです」

「なぜ今までしなかった」

 藤井が答えるまでに、少し間があった。

「日々の運行を維持することで手いっぱいになり、抜本的な見直しを先送りしてきました」

「役場の怠慢では?」

「その指摘は受けます」

 議場が静まった。

 藤井は言い訳をしなかった。

 採決の前、反対討論に一人の議員が立った。

「私は、学校を壊せと言っているのではありません。川音の湯を閉めろとも言っていません。しかし、村の人口と財政規模に対し、三億七千万円の事業は大きすぎます」

 議員は手元の紙を見た。

「国と県と会社の金がある今しかできない。そう言われれば、断ることは難しい。しかし、外から来る金には期限と条件があります。残る建物は村のものです。十五年後、会社が撤退し、客が来ず、人口がさらに減った時、誰が体育館の屋根を直すのでしょう」

 傍聴席から、咳払いが聞こえた。

「五千万円あれば、交通、診療、除雪、空き家対策へ使えます。どれか一つを完全に解決できる額ではなくても、今暮らしている人の負担を減らせます。私は、学校再生の意義を認めた上で、今この規模で行うことには反対します」

 続いて、賛成討論に別の議員が立った。

「先送りすれば、学校はさらに傷みます。川音の湯も、数年以内に大規模修繕が必要です。何もしなくても、維持費と解体費は発生します」

 議員は会場を見回した。

「この計画が成功する保証はありません。しかし、客室を三室に絞り、住民利用を残し、会社出資と公費を組み合わせ、失敗した場合の縮小条件まで定めた計画は、以前の開発計画とは違います」

「違う言うだけや」

 傍聴席から声が上がり、議長が注意した。

「私は、この計画が村を救うとは思っていません。ただ、村が自分たちで使い方を決められる建物を残し、小さくても仕事を作る機会になると考えます。何もしないことによって失うものも、判断に含めるべきです」

 二人の討論が終わった。

 議長が採決を告げる。

 賛成、四。

 反対、三。

 補正予算案は、可決された。

 拍手は禁止されていた。

 それでも、誰かが一度だけ手を叩いた。

 すぐに止まった。

 反対側の席では、一人の女性が顔を伏せている。

 賛成した議員も、笑ってはいなかった。

 山根村長は頭を下げた。

「可決されたからといって、反対意見がなくなったわけではありません。事業を進める中で、負担と結果を報告します」

 傍聴席から住民が立ち上がる。

「報告して、失敗しましたで済ますなよ」

「はい」

 村長は短く答えた。

     *

 議会のあと、美月は一人でバス停へ向かった。

 午後四時を過ぎていた。

 屋根の下に、結菜が座っている。

「学校帰りですか」

「今日は早かったから」

「次のバスまで?」

「四十分あります」

 結菜の隣には、教科書と弁当箱が入った鞄が置かれていた。

 美月は少し離れて立った。

「交通検討会の案内、届きましたか」

「はい」

「参加しますか」

「分かりません」

「無理に参加する必要はありません」

「参加せんかったら、高校生の意見ないことになるんですか」

「なりません。アンケートや個別の聞き取りも行います」

「でも、会議におる人の意見の方が強いでしょう」

 美月は答えに迷った。

「強くなることはあります」

「やっぱり」

「だから、会議に出られない人の意見を、同じ資料へ載せます」

「名前も?」

「希望しなければ載せません」

 結菜は道路の先を見た。

「学校のお金、決まりましたね」

「村費は可決されました。これから、会社との協定と工事契約があります」

「みんな、賛成したみたいに書かれますか」

「どこにですか」

「ニュースとか、会社のページとか。村と住民が一つになって学校を再生するって」

「書きません」

「本当に?」

「賛成四、反対三だったことまで会社の広報へ載せるかは検討します。でも、住民の意見が分かれていることは明記します」

「会社、嫌がりませんか」

「嫌がると思います」

「田中さん、また怒られますね」

「怒られるとは限りません」

「前に、広報の人とけんかしたって、森下さんが言ってました」

「けんかではありません。意見が違っただけです」

「同じやと思います」

 結菜が少し笑った。

 すぐに表情を戻す。

「私、学校に反対したかったわけじゃないです」

「忘れてはいません」

「でも、反対した人みたいに見られてます。昨日、知らん人から、お前のせいで計画止まったらどうするって言われました」

「誰にですか」

「言いません」

「役場へ報告してください」

「大ごとにしたくない」

「すでに大ごとです」

 結菜の肩が硬くなった。

 美月は声を少し抑えた。

「あなたが説明会で意見を言ったことを理由に、責められるのは認められません。名前を言いたくなければ、言わなくてもいい。でも、何があったかは森下さんへ伝えてください」

「田中さんが言うんですか」

「あなたが望むなら」

「少し考えます」

 バスが来る方向から、まだエンジン音は聞こえない。

「美月さん」

 結菜が初めて、名字ではなく名前で呼んだ。

「はい」

「未来って、いつからですか」

「どういう意味ですか」

「学校ができるの、早くても来年でしょう。仕事が増えるのは、そのあと。戻ってくる人がおるとしても、もっとあと。私は二年したら高校卒業します」

「はい」

「その時、村に仕事なかったら、私は出ます。学校ができる前に出るかもしれません。それでも、私のための計画って言えますか」

 美月は、すぐには答えられなかった。

「言えません」

 結菜が美月を見る。

「この計画が、結菜さんの進路に間に合うとは約束できません。村へ残れる仕事を用意できるとも言えません」

「正直すぎる」

「でも、出たあとに戻りたいと思った時、仕事の候補が一つでも増えている可能性はあります」

「戻りたいと思わんかもしれません」

「その場合は、戻らなくていいと思います」

「村を再生する人が、それ言うんですか」

「村へ残ることを、若い人の義務にはできません」

 結菜は、しばらく何も言わなかった。

「出ていっても、裏切ったことにはならん?」

「なりません」

「源造さんは、怒りそう」

「怒るかもしれません。でも、それと裏切りは別です」

 遠くでバスの音がした。

「交通検討会、最初だけ出ます」

 結菜が鞄を持ち上げた。

「続けるかは、そのあと決めます」

「それで構いません。出席には謝金を払います」

「高校生にも?」

「時間を使ってもらうので」

「お金目当てやと思われませんか」

「思う人はいるかもしれません」

「それでも払うんですね」

「はい」

 バスが停まり、扉が開いた。

 結菜が乗り込む。

 乗客は三人だけだった。

 バスが走り去ると、停留所には美月一人が残った。

     *

 その夜、役場から正式な可決通知が届いた。

 美月は本社、県、設計担当へ共有した。

『清澄村議会において、村費五千万円を含む補正予算が賛成四、反対三で可決されました』

 そこまで書き、続けた。

『住民意見は分かれており、反対理由として、交通、診療、将来の維持負担、地区間格差、事業者選定への懸念が示されています。可決を住民合意の完了とは扱いません』

 送信すると、広報責任者からすぐに返信が届いた。

『対外発表では、議決結果と資金調達の前進を中心にまとめたい。住民対立を強調する必要はないのではないか』

 美月は返事を書いた。

『対立を強調する必要はありません。ただし、「住民一丸」「村全体が待ち望んだ」などの表現は事実と異なるため使用しません』

 しばらくして、黒田から別のメッセージが届いた。

『その方針で進めてよい。広報文は事前に現地側でも確認すること』

 美月は画面を閉じた。

 机の上には、五つの財源を色分けした表がある。

 国。

 県。

 村。

 会社。

 金融機関。

 数字は、きれいに合計されている。

 しかし、村の意見は合計できない。

 賛成四、反対三。

 その数字の中にも、迷いがある。

 賛成した人が、すべてに賛成しているわけではない。

 反対した人が、学校を失いたいわけでもない。

 決まったから、一つになったのではなかった。

 決めたことで、違いがはっきり見えるようになった。

 窓の外では、雨が降り始めていた。

 川の音が少しずつ大きくなる。

 美月は議会資料の表紙へ、付箋を一枚貼った。

『可決は、合意の終点ではない』

 その下へ、もう一行書く。

『反対した人も、完成後の利用者になり得る』

 意見を変えろという意味ではない。

 利用するために、賛成へ変わる必要もない。

 反対したまま、体育館を歩いてもいい。

 村費の支出に納得しないまま、川音の湯へ入ってもいい。

 学校を直すことへ反対した人の子どもが、客室で働くこともあるかもしれない。

 決定は、村を二つに切り分けるためのものではない。

 美月は付箋の端を指で押さえた。

 外れないことを確認してから、ファイルを閉じた。

 金は決まった。

 村は割れたままだった。

 それでも、工事へ進む日付だけが、初めて工程表へ書き込まれた。

     *

 その週末、美月は何も予定を入れなかった。

 目が覚めたのは、いつもより二時間遅かった。

 布団の中で、しばらく天井の木目を見ていた。

 起き上がる理由がないというのは、この村へ来てから初めての感覚だった。

 階下へ下りると、澄江が朝食の片づけをしていた。

 「今日は資料、作らへんのですか」

 「作りません」

 「珍しい」

 「たまにはと思いまして」

 澄江は驚いた顔をしたあと、何も言わずにお茶を出した。

 美月は縁側へ座り、湯呑みを両手で包んだ。

 川の音が、いつもより大きく聞こえた。

 風が出ているのかもしれない。

 対岸の斜面で、杉の梢が揺れている。

 美月はスマートフォンを取り出しかけ、やめた。

 かわりに、湯呑みの中の茶の色を見た。

 薄い緑から、少しずつ茶色がかっていく。

 数字にできないことを、数字にしないまま眺めていた。

 昼過ぎ、フミの店先を通りかかった。

 「休みですか」

 フミが聞いた。

 「はい」

 「珍しいこともあるもんやな」

 「休むのも、仕事のうちだと最近聞きました」

 「誰にです」

 「颯太さんです」

 「あの子が、そんなええこと言うんか」

 フミは笑い、傷のあるトマトを一つ差し出した。

 美月は今度は代金を払わなかった。

 ただ、礼を言って受け取った。

 川沿いの道を、当てもなく歩いた。

 急ぐ理由がない歩き方を、美月はまだよく知らなかった。

 それでも、半日だけ、覚えてみることにした。


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