第二十一章 出資する理由
見積書の右下に記された金額を、美月は三度読み直した。
三億八千四百二十万円。
旧清澄小学校の全面改修に二億七千八百万円。
川音の湯の基本改修に六千七百万円。
設計、測量、申請、工事監理に二千百二十万円。
開業準備、備品、予約管理設備、試行運営費に一千八百万円。
予備費に二千万円。
以前の概算より、さらに二千万円以上増えていた。
旧校舎で見つかった断熱材の処理、体育館の床下補強、川音の湯へ続く車路の改修。調べるほど、必要な工事が増えている。
美月は見積書の横に、最初の調査予算を記した資料を置いた。
三千万円。
三年半の調査と実証に対し、会社が最初に認めた金額だった。
今、目の前にある総事業費は、その十二倍を超えている。
旅館の窓の外では、雨が降っていた。
川の水量が増え、いつもより低い音を立てている。
美月は費目別の一覧表を開いた。
どの工事を削れば、いくら下がるか。
客室を三室から二室へ減らす。
体育館を改修対象から外す。
川音の湯との連携をやめる。
既存建具の再利用を減らす。
校舎の一部を閉鎖したままにする。
どれも、数字だけなら可能だった。
しかし、一つ削れば、別の費用が生まれる。
体育館を改修しなければ、防災施設としての価値が下がり、利用できる補助制度も変わる。
校舎の一部を閉鎖すれば、防火区画と避難経路を作り直す必要がある。
客室を二室へ減らせば、運営費を賄うための収入がさらに小さくなる。
川音の湯を外せば、宿泊者の滞在目的だけでなく、村民の生活施設を一緒に直すという事業の意味も弱くなる。
美月は、削減案の欄を一度閉じた。
削ることが目的になってはいけない。
必要なものを決めた上で、誰が何のために負担するかを分ける必要がある。
ノートパソコンの画面に、新しい表を作った。
公共利用部分。
収益事業部分。
共用部分。
公共利用部分には、防災機能、住民の体育館利用、段差解消、校舎の保存、川音の湯の村民利用を入れた。
収益事業部分には、三つの客室、予約システム、宿泊者用の家具、体験教室の販売設備、広報費を入れる。
共用部分には、屋根、構造補強、電気設備、給排水、消防設備、受付、廊下、駐車場を置いた。
問題は、共用部分だった。
屋根は宿泊客のためでもあり、住民利用のためでもある。
廊下は客室へ向かう人も、体育館へ向かう人も通る。
消防設備は、収益を生まないが、すべての利用に必要だった。
美月は計算式を作り、床面積、利用時間、想定利用者数の三つの方法で配分した。
結果は大きく違った。
床面積で分ければ、公共負担が増える。
利用時間で分ければ、住民利用の少ない冬季に収益事業の負担が大きくなる。
利用者数で分ければ、まだ存在しない宿泊客の数字を予測で置くことになる。
画面の数字を見つめていると、ノックの音がした。
「まだ起きてますか」
襖の向こうから、澄江の声がした。
「はい」
返事をすると、澄江が盆を持って入ってきた。
湯飲みと、小さな皿に載せた葛餅がある。
「厨房を片づけたら、余ったから」
「ありがとうございます」
「また晩ごはん、ほとんど残してましたよ」
「昼が遅かったので」
「昼も、森下さんからもろうたパン一個やったんでしょう」
「どうして知っているんですか」
「森下さんが心配してました」
「村では、昼食の内容まで共有されるんですか」
「仕事の予定より早く伝わる時ありますね」
澄江は笑い、湯飲みを机の端へ置いた。
「難しい顔して、何を見てるんです?」
「改修費です」
「高いんでしょうね」
「三億八千四百二十万円です」
澄江の笑みが消えた。
「そんなに」
「学校だけではありません。川音の湯と、設計費、開業準備まで含めた金額です」
「それでも、三億……」
澄江は広縁の椅子へ腰を下ろした。
「会社が出すんですか」
「すべては出せません」
「国や県から出るんでしょう」
「申請できる制度はあります。でも、申請すれば必ず出るわけではありません。対象にならない工事もあります」
「村も出すんですか」
「負担は必要です」
「村に、そんなお金あるんでしょうか」
「現在の行政サービスを削ってまで出す計画にはしません」
「それなら、どこから出るんです?」
その問いにだけは、答えを持っていなかった。
それを決めるために、今、表を作っている。
澄江は机の上の見積書を見た。
「三億もかけて、客室は三つだけなんですよね」
「はい」
「普通の会社なら、やめるんやないですか」
「普通でなくても、やめる可能性はあります」
「美月さんは、やめたくないんですか」
美月は画面へ目を戻した。
「私がやめたくないかどうかで、出資は決まりません」
「でも、美月さんが会社に説明するんでしょう」
「説明はします」
「なら、美月さんが何を残したいかも、関係あるんやないですか」
葛餅の表面に、きな粉が薄くかかっている。
美月は箸を手に取ったが、口には運ばなかった。
「全部を残したいわけではありません」
「学校を全部直す言うてたのに?」
「建物を直すことと、昔のまま残すことは違います。使えない設備は替えます。危険な部分は取り除きます。運営できない事業は始めません」
「では、何を残したいんです?」
美月は窓の外の川を見た。
「誰かが、ここに住み続けるかどうかを選べる余地です」
澄江が黙った。
「今の村では、残りたいと思っても、仕事や交通や医療の事情で出ていく人がいます。逆に、帰りたいと思っても、働く場所がない。学校を直しただけで解決するとは思っていません。でも、何もしなければ、選択肢は減る一方です」
「三億で、選択肢を買うんですか」
「そう聞こえますね」
「高い買い物や」
「はい」
「会社は、そんな話でお金出しますか」
「出しません」
美月は即座に答えた。
「選択肢を残したいという気持ちだけでは、会社は出資できません。収益、リスク、契約、撤退条件、ほかの地域で使える知見。すべて示す必要があります」
「それでも足りんかったら?」
「計画を変えます」
「やめることも?」
「あります」
澄江はしばらく美月を見ていた。
「その時は、ちゃんと村の人に言うてくださいね」
「何をですか」
「お金が足りんからできませんって。村の理解が足りんかったとか、国が悪いとか、言わんといてください」
「言いません」
「前の会社は、最後にそう言うたから」
澄江は立ち上がった。
「葛餅、硬うなる前に食べてください」
襖が閉まる。
美月は一人になり、皿の上の葛餅を口へ運んだ。
冷たく、わずかに甘かった。
*
翌朝、美月は県庁の高瀬へ、費用区分表を送った。
返信は一時間後に届いた。
『共用部分を一括して按分する方法では、補助対象経費の説明が難しいです。設備ごとに目的と管理主体を分けてください』
続けて、午後にオンライン会議を行いたいと書かれている。
会議には、高瀬のほか、県の財政担当者と建築担当者が参加した。
『国の交付金を使う場合、収益事業へ直接充てることはできません』
財政担当者が言った。
「客室の内装、家具、寝具、予約設備は会社負担にします」
『客室へ至る廊下は?』
「住民も使う共用廊下です」
『本当に使いますか』
「二階の読書室と資料室を住民利用に開放します」
『利用実績がほとんどなければ、収益事業のための廊下と判断される可能性があります』
「開放すると書くだけでは足りないということですね」
『はい。開放日時、管理者、予約方法まで必要です』
高瀬が資料を画面へ映した。
『学校は、四つに分けた方がいいと思います。防災施設、住民利用施設、宿泊施設、共用基盤です』
「共用基盤は、どう配分しますか」
『一つの比率ですべて分けないでください。屋根は保全対象となる公共資産。宿泊用の給湯設備は収益事業。消防設備は、設置場所と利用区画で配分する。面倒ですが、設備ごとに見ます』
「申請書は、何件になりますか」
『少なくとも三件です。学校改修、川音の湯、雇用と体験事業。国の制度と県の制度を同じ費用へ重ねることはできません』
「申請時期は?」
『今年度に間に合うものと、来年度でなければ難しいものがあります。採択前に着工すると対象外になる工事もあります』
「工事を一括発注できなくなります」
『補助金の都合だけで工事を分ければ、かえって高くなる可能性があります。申請時期と工事工程を一緒に組んでください』
「不採択だった場合は?」
『村と会社で負担するか、工事を縮小するか、中止です』
中止。
高瀬は、その言葉を特別なものとして扱わなかった。
制度を使う側にとっては、当然の選択肢だった。
「国と県から、どの程度を見込めますか」
美月が尋ねる。
『現段階では、確約できません』
「試算に必要です」
『可能性として示すなら、学校の公共利用部分へ国から一億二千万円前後。県から四千万円から六千万円。川音の湯へ二千万円から三千万円。ただし、制度の採択上限、他地域との競争、村の財政状況で変わります』
「最大でも、全体の半分程度ですね」
『はい。残りは村、会社、融資、寄付などです』
「寄付を前提にしてよいでしょうか」
『前提にはしない方がいいです。集まれば追加整備へ使う形が安全です』
「村の負担を、今の行政サービス削減で作ることは避けたいです」
『そこは村議会が判断します。会社が条件を付けすぎると、行政への介入と受け取られます』
美月は言葉を止めた。
正しいと思う条件でも、会社が村へ押し付ければ、別の支配になる。
「会社としては、村の負担上限を提示してもらった上で事業規模を決めます」
『その形がいいと思います』
高瀬は画面の資料を閉じた。
『田中さん。補助金を取ることが目的にならないようにしてください』
「その点は理解しています」
『補助金があるから作る施設は、補助金がなくなったあとに残ります。何年使うのか、誰が修繕するのか、使わなくなった時にどうするのか。それを先に決めてください』
「十五年間の運営計画を作っています」
『十五年後は?』
「その時点で、村と会社が更新、別の運営者への移行、用途変更、閉鎖のいずれかを判断します」
『閉鎖費用も計算へ入れてください』
「はい」
会議が終わると、美月は見積書へ新しい行を加えた。
撤去・原状回復積立金。
始める費用だけではない。
終えるための費用も、事業には必要だった。
*
本社での投資審査会は、七月最初の月曜日に設定された。
美月は前日の夜に東京へ戻った。
新幹線を降りた途端、湿った熱気が体へまとわりついた。東京駅の構内には人があふれ、歩く速度を落とすと後ろから追い越される。
三か月前には、それが自分の日常だった。
今は、人の流れへ合わせるまでに数分かかった。
マンションへ戻ると、部屋の空気は閉じたまま温められていた。
エアコンを入れ、窓を開ける。
遠くで車の音がする。
川の音は聞こえない。
広縁も畳もない部屋の机へ、資料を並べた。
投資審査会へ提出する資料は、百二十四ページになっていた。
総事業費。
資金調達計画。
十五年間の収支。
最悪の場合の損失。
建物の所有権。
会社の運営権。
村との役割分担。
補助金が不採択だった場合の縮小案。
開業後三年で目標へ届かなかった場合の見直し。
撤退時の引き継ぎ。
災害、事故、感染症、源泉停止、道路寸断への対応。
資料の最後に、美月は一枚だけ、写真を入れた。
旧清澄小学校の玄関。
止まった時計。
川音の湯の湯口。
体育館で源造が木槌を持つ手。
文江が藁を捻る手。
客室予定地の床へ貼られた三色のテープ。
説明文は付けなかった。
数字の根拠にならない写真を、投資資料へ入れるべきか迷った。
しかし、数字だけでは、何へ出資するのかが見えなくなる。
美月は写真を残し、資料を閉じた。
*
翌朝九時、創生都市開発本社の大会議室には、十二人が集まった。
小田切、黒田、財務、法務、建築、宿泊運営、リスク管理、広報。それぞれの部門責任者が長机を囲んでいる。
美月の前には、時計が置かれていた。
説明時間は四十分。
質疑は時間を定めない。
「奈良県清澄村地域活性化共同プロジェクトについて、本格事業化に向けた出資判断をお願いします」
美月は最初の画面を映した。
総事業費、三億八千四百二十万円。
会議室の空気がわずかに変わった。
「資金調達は、国費一億二千万円、県費五千万円、村費五千二百万円、当社出資七千二百万円、金融機関からの融資四千万円を基本案とします」
財務責任者がすぐに手を上げた。
「合計が事業費を超えていないか」
「融資には開業後三年間の運転資金一千万円を含みます。建設費へ充てるのは三千万円です。予備費を使わなかった場合は、借入額を減らします」
「国費と県費は確定しているのか」
「確定していません。現段階では申請可能額です。採択額が八割を下回った場合、工事範囲と会社出資を再審査します」
「村費五千二百万円の根拠は?」
「村長部局が検討できると示した上限です。議会承認前なので、確定ではありません」
「確定していない金ばかりだな」
「はい。だから、当社だけ先に最終決定するのではなく、出資条件と上限を決めていただきたいと考えています」
美月は次の画面へ進んだ。
「当社出資七千二百万円の内訳です。客室三室の内装と設備に二千四百万円。宿泊・体験事業の共用設備に一千百万円。予約・顧客管理、広報、開業準備に九百万円。運営権取得に伴う初期負担と予備資金に二千八百万円です」
財務責任者が資料をめくる。
「三室へ二千四百万円。客室一室あたり八百万円か」
「浴室と給排水の費用を含みます。一号室は段差をなくし、車椅子対応のトイレとシャワーを設置します」
「高すぎないか」
「一般客室へ変更すれば、約四百万円下げられます」
「なぜ下げない」
「車椅子利用者だけでなく、高齢者や足をけがした方にも利用できます。公共施設としての改修ではなく、収益事業の客室として会社が負担すべき費用です」
「利用者は年間何人を想定している?」
「一号室全体では、初年度百二十人。うち、段差のない客室を必要とする方を二十人前後と見込んでいます」
「二十人のために四百万円か」
美月は質問者を見た。
「二十人だけのためではありません。必要な方が予約できる客室を一室も用意しない事業にするかどうかです」
「理念ではなく、投資判断を聞いている」
「投資判断としても、残します。三室しかない施設で、客室をすべて同じ仕様にすると、利用者の範囲が狭くなります。将来、利用者の年齢が上がることも考えています」
小田切が言った。
「続けてください」
美月は収支計画を表示した。
「初年度は、月八日営業。客室稼働率三十二パーセント。二年目は月十二日、四十一パーセント。三年目は月十六日、四十八パーセント。四年目以降は、スタッフ確保と需要を確認した上で月十八日まで拡大します」
「通年営業ではないのか」
「最初から通年営業にすると、人件費と清掃体制を確保できません。少ない営業日で手順を確立し、段階的に増やします」
「売上は?」
「初年度一千四百八十万円。三年目二千九百六十万円。五年目三千六百二十万円です。宿泊、体験教室、施設利用、物販を含みます。川音の湯の会計は含みません」
「営業利益は?」
「初年度は九百二十万円の赤字。三年目に百八十万円の黒字。五年目は四百三十万円の黒字を見込んでいます」
会議室が静まった。
「五年目で四百三十万円」
財務責任者が繰り返した。
「はい」
「会社出資七千二百万円を回収するのに、何年かかる」
「単純計算では、十五年を超えます。設備更新を含めれば、直接事業収益だけで全額回収するのは難しい可能性があります」
「それを、出資案件として出しているのか」
「はい」
「理由を聞かせてくれ」
美月は次の画面へ進まず、正面を見た。
「直接収益だけなら、出資すべきではありません」
何人かが顔を上げた。
「この事業には、収益以外の成果があります。公共施設と収益施設を一体で再生する契約設計。小規模宿泊施設の段階運営。行政、住民、民間企業の合意形成。高齢者の技術を無償の善意へ依存せず、仕事として組み込む方法。災害時に商業利用から公共利用へ切り替える運営手順。これらは、今後、人口減少地域で事業を行う際に再利用できます」
「再利用できるという根拠は?」
「契約書、費用区分、住民合意の手順、撤退条件、評価項目を標準化します。清澄村だけの事情と、ほかの地域でも使える部分を分けて記録します」
「その知見に、七千二百万円の価値があるのか」
「知見だけに七千二百万円を払うわけではありません。事業収益で一部を回収します。施設運営の実績を作り、地域事業部門の人材育成にも使います。会社として公表できる社会的成果も残ります」
広報責任者が口を開いた。
「社会貢献を前面へ出せる案件ではある。しかし、失敗した場合の評判リスクも大きい。過疎の村へ入って、補助金を使い、数年で撤退したとなれば、会社への批判は避けられない」
「そのため、撤退条件と引き継ぎ期間を最初から協定へ入れます」
「撤退を最初から書けば、住民が不安になる」
「書かずに、永遠に続けるように見せる方が問題です」
「広報としては、成功の物語が必要だ」
「開業前から成功の物語は作れません」
広報責任者の表情が硬くなった。
「では、何を発信する?」
「決まったことだけです。客室が三室であること。営業日が少ないこと。川音の湯は村民優先であること。体験教室が中止になる日もあること。村にはコンビニも総合病院もないこと。暮らしの不便を隠さず、それでも来たい方へ案内します」
「それで客が集まると思うのか」
「すべての人を集める計画ではありません」
「対象が狭すぎる」
「客室は三室です。対象を広げて大量に集客しても、受け入れられません」
黒田が手元のペンを置いた。
「田中。最悪の場合を説明しろ」
美月はリスク資料を開いた。
「国と県の補助金が想定の半分しか採択されず、工事費が一割上昇し、開業初年度の利用者が予測の六割だった場合です。この場合、総事業費は四億円を超えます。工事前なら、体育館の一部設備、備品、外構を次期工事へ回します。それでも資金不足が解消しなければ、着工しません」
「着工後なら?」
「予備費を使います。追加出資は、取締役会の再承認なしには行いません。村へ不足分を求めることもしません」
「開業後、赤字が続いた場合は?」
「三年目終了時点で、客室稼働率が三十パーセント未満、営業損失が年間一千万円を超え、改善見込みがない場合、運営方法を見直します。営業日の縮小、外部運営者との連携、用途変更を検討します」
「撤退は?」
「五年目までに収支改善がなく、村と会社の双方が継続困難と判断した場合です。ただし、突然閉鎖はしません。三年半の引き継ぎ期間を設けます。宿泊事業は終了しても、公共利用部分が維持できるよう、村へ設備と手順を移管します」
「会社が負担した内装は?」
「取り外せる備品は会社所有です。建物と一体化した設備は、契約に基づき村へ残します。残存価値の精算方法を事前に決めます」
法務責任者が言った。
「村所有の建物へ七千万円以上を投じるなら、十五年では短い。最低二十年の運営権が必要ではないか」
「村側は、二十年の固定を警戒しています」
「会社は、途中で運営権を失うリスクを負えない」
「十五年を基本期間とし、五年ごとの評価を行います。村都合で中途解除する場合は、未償却残高の一部を補償する。会社都合の場合は補償を求めない。ただし、村の重大な契約違反がある場合は別です」
「村が払えるのか」
「補償上限を設けます。払えない額を契約へ書いても意味がありません」
「上限を低くすれば、会社のリスクが増える」
「はい」
「なぜ、そこまで村側の事情を考える」
美月は一度、息を整えた。
「村が払えない違約金を設定すれば、契約は会社へ従わせるための道具になります。共同プロジェクトとは呼べません」
「会社は慈善団体ではない」
「忘れてはいません」
「なら、会社の利益を優先すべきだ」
「利益を守るために、実行できる契約が必要です」
法務責任者は、それ以上言わなかった。
小田切が資料を閉じた。
「田中さん」
「はい」
「あなたは、この事業を成功させられると思っているのか」
会議室にいる全員の視線が、美月へ集まった。
「分かりません」
美月は答えた。
財務責任者が眉をひそめる。
「投資を求める責任者の言葉とは思えないな」
「成功する保証はありません。人口は減り続けています。交通は不便です。三室しかなく、案内役は高齢です。温泉も大人数を受け入れられません。災害で村道が止まる可能性もあります」
「では、なぜやる」
「失敗の可能性を小さくする方法は示せます」
美月は画面へ、一枚の表を出した。
「最初から客室を増やさない。営業日を限定する。住民へ無償労働を求めない。補助金が減れば、着工前に止める。赤字が続けば、評価に基づいて縮小する。村民の生活と衝突すれば、観光利用を減らす。これらを守れば、一度の判断で村と会社の両方が大きな損失を負うことは避けられます」
「成功させる話ではなく、失敗を管理する話だな」
「はい」
「夢がない」
「三億円以上を使う判断に、夢だけを持ち込む方が危険です」
小田切は美月を見たまま、しばらく黙っていた。
「あなたの父親が関わった事業も、最初は地域のためという説明だったそうだね」
美月の手が止まった。
会議室の空調音が、急に大きく聞こえた。
「はい」
「最終的には、採算が崩れ、住民と行政へ負担を残した」
「承知しています」
「同じことになる可能性は?」
「あります」
美月は逃げずに答えた。
「だから、撤退条件を隠しません。収支を公開します。追加投資を自動的に行いません。村へ土地や建物を担保として求めません。担当者の判断だけで計画を拡大できない仕組みにします」
「父親の失敗を、取り返したいのか」
その質問には、すぐに答えられなかった。
美月は机の上の資料へ視線を落とした。
父が残したもの。
母が取っておいた工作。
十歳の自分が作った「みんなのいえ」。
清澄村へ来た理由の一つに、父がいることは否定できない。
「取り返せるとは思っていません」
美月は言った。
「過去に失ったものを、別の事業の成功で帳消しにはできません。父のために会社の金を使うつもりもありません」
「なら、個人的な事情は切り離せる?」
「完全には切り離せません」
会議室が静まり返った。
「だから、私一人に決定権を持たせないでください。投資、契約、工事、運営評価を、それぞれ別の責任者が確認する体制にしてください。私が残したいと思っているからこそ、私だけで決めてはいけません」
小田切の隣で、黒田が小さくうなずいた。
「続けろ」
美月は最後の画面を映した。
そこには、数字ではなく、五つの文章が並んでいた。
『利益が出ないことを、社会貢献という言葉で隠さない』
『社会的な価値を、利益が小さいという理由だけで捨てない』
『住民の善意を、会社の収益へ無償で使わない』
『補助金を、不要な施設を作る理由にしない』
『担当者が替わっても、判断の過程を残す』
「当社が出資する理由は、三つあります」
美月はゆっくりと言った。
「一つ目は、小さいながらも継続可能な事業収益を得ること。二つ目は、人口減少地域で公共機能と収益事業を組み合わせる手法を確立すること。三つ目は、企業として、生活基盤を失いつつある地域へ責任ある形で関わった実績を残すことです」
「三つ目は、社会貢献か」
「はい。ただし、寄付ではありません。結果を測り、失敗を公開し、改善できる形にするところまでが会社の責任です」
美月は一度、全員の顔を見た。
「清澄村を救うとは言いません。会社に、村を救うことはできません。できるのは、村が選ぶための材料と、事業を続ける仕組みを一緒に作ることです。その対価として、会社は収益と知見と信用を得ます」
四十分を示す時計の針が、ちょうど真上を通過した。
美月は画面を消した。
「以上です」
*
質疑は、一時間四十分続いた。
最後に、美月と黒田以外の担当者は会議室の外へ出された。
廊下の長椅子には、三浦と岡部が待っていた。
「どうだった」
岡部が尋ねる。
「質問は一通り出ました」
「一通りの顔じゃないな」
「出資を求める責任者が、成功するか分からないと言いました」
「田中らしいけど、投資審査では言わない方がよかったかもな」
「保証できないことを、できるとは言えません」
「そういうとこだよ」
岡部は自動販売機で水を買い、美月へ渡した。
「ありがとう」
「奈良へ行く前なら、それも断ってたな」
「水くらい受け取ります」
「前は、何でも自分で買えるって顔してた」
「今も買えます」
「買えるかどうかの話じゃない」
美月はペットボトルの蓋を開けた。
水は冷たかった。
「東雲はどうですか」
「順調。と言いたいけど、テナント一社が抜けた。代わりを探してる」
「保育施設ですか」
「短時間利用型の仕事場の方。賃料条件で折り合わなかった」
「資料を見せてもらえますか」
「今は俺の担当だ」
「分かっています」
「奈良の審査が終わってから、共有する。意見が欲しい時は頼む」
以前なら、自分が関わった事業から外されているように感じたはずだった。
今は、岡部が責任を引き受けていることが分かった。
「お願いします」
会議室の扉が開いた。
黒田が顔を出した。
「田中、入れ」
美月は水を三浦へ預け、会議室へ戻った。
席に着く前に、小田切が言った。
「条件付きで、出資上限七千二百万円を承認します」
美月は足を止めた。
「条件を確認してください」
財務責任者が一枚の紙を読み上げる。
一、国、県、村の負担額が確定するまで、工事契約を締結しない。
二、総事業費が三億八千四百二十万円を五パーセント以上超える場合、再審査する。
三、会社出資の対象を、収益事業と共用部分のうち会社利用分に限定する。
四、村との運営協定を十五年以上とし、中途解除と残存価値の扱いを定める。
五、開業後三年間、四半期ごとに収支と社会的成果を報告する。
六、住民の無償労働を収支計画へ組み込まない。
七、村民優先条件を、会社都合だけで変更しない。
八、補助金が想定額の八割を下回った場合、事業規模を再検討する。
九、会社から現地へ、建築、法務、運営、財務の担当者を派遣する。
十、田中美月を現地責任者とするが、単独で追加投資を決定する権限は与えない。
「異論はありますか」
「ありません」
美月は目を上げた。
小田切が言った。
「田中さん。これは、会社が村へ七千二百万円を寄付する話ではない」
「承知しています」
「会社は利益を求める。予定どおりにいかなければ、縮小も撤退も判断する」
「はい」
「同時に、この事業は当社の正式な地域事業だ。担当者個人の活動ではない。法務も財務も建築も、必要な責任を負う」
美月は言葉を失った。
これまで、清澄村の判断は、自分の机の上へ集まっていた。
聞き取り。
試算。
住民説明。
体験教室。
利用規則。
自分が止まれば、計画全体が止まると思っていた。
「何か言うことは?」
「ありがとうございます」
「礼を言う段階ではない」
小田切の声は厳しかった。
「会社の金を預ける。成果を次につなげてください。成功した数字だけではなく、失敗した判断も含めて残すこと。それが条件です」
「はい」
「それから、働き方を変えてください」
「働き方ですか」
「現地責任者が倒れたら、継続できない事業は仕組みとは呼べない。自分しか分からない資料を作らない。休日を取る。代理者へ権限を渡す」
黒田が横から言った。
「もう森下さんに、夜中まで働いてると報告されてる」
「森下さんが本社へ?」
「会社へ直接ではない。県の高瀬さんから、会議時間を考えてほしいと連絡が来た」
美月は黙った。
「村の情報網、東京まで来たな」
岡部が言っていた言葉を思い出す。
「改善します」
「改善では曖昧だ」
黒田は手帳を開いた。
「週一日は現地会議を入れない。午後十時以降、緊急以外のメールを送らない。設計判断は三浦、契約は法務担当、運営収支は長谷部へ分ける。田中は全部を確認しようとするな」
「最終責任者は私です」
「最終責任と、全作業を抱えることは違う」
小田切が会議を終えるように資料を閉じた。
「六日後に、県、村、会社の三者協議を行います。そこで各負担の基本合意を目指します」
「はい」
「今日は休んでから奈良へ戻ってください」
「午後の新幹線を予約しています」
「変更しなさい」
「明日の午前、住民会議があります」
「森下さんへ任せなさい」
「私が出資審査の結果を説明する予定です」
「オンラインでできます」
「正式な説明です」
美月が言うと、小田切はため息をついた。
「では、今日戻ることは認めます。ただし、明日の午後は休むこと」
「はい」
「返事だけにならないように」
「予定表へ入れます」
会議室を出ると、三浦が美月のペットボトルを差し出した。
「通った?」
「条件付きで」
「おめでとうと言っていいのかな」
「まだ公費も村費も確定していません」
「田中さんの場合、その段階になっても同じこと言いそう」
「工事が終わっても、運営が始まるだけです」
「ほら」
三浦は笑った。
「でも、今日は一つ決まったんでしょう」
美月は手にした承認書を見た。
出資上限、七千二百万円。
たった一枚の紙だった。
三億八千万円すべてが決まったわけではない。
工事を始められるわけでもない。
それでも、清澄村の計画は、美月が会社へ持ち帰った調査案件から、会社が資金と責任を負う事業へ変わった。
「はい。一つは決まりました」
*
その日の夕方、美月が会議室を出たあとも、小田切と黒田、財務担当役員、経営企画担当役員は残っていた。
机の上には、投資資料の最後に入れられた写真が開かれている。
「七千二百万円で収まると思うか」
財務担当役員が尋ねた。
「収まらない可能性はある」
黒田が答えた。
「だから上限を付けた」
「直接収益だけなら、見送る案件だ」
「それも分かっている」
経営企画担当役員は、体育館の写真へ目を落とした。
「国も県も、これから同じ問題を抱える。廃校、温浴施設、交通、雇用、高齢者の生活。個別の施設だけ直しても続かない」
「清澄村で実績を作れば、今後の自治体案件で評価される」
「成功すれば、だがな」
「失敗しても、原因と撤退手順まで残せれば価値はある」
財務担当役員が承認書を指で叩いた。
「田中には、その話をしたのか」
「していない」
小田切が答えた。
「行政との仕事を取りやすくするためだと知れば、彼女は村を実績作りに使っていると考えるだろう」
「実際、その面はある」
「だからこそ、先に言う必要はない。彼女には、清澄村の事業を成立させることへ集中してもらう」
黒田が資料を閉じた。
「知れば、反対しますよ」
「反対できる責任者でなければ困る」
小田切は椅子から立ち上がった。
「ただし、今はまだ、その段階ではない」
*
奈良へ戻る新幹線の中で、美月は村へ説明する資料を作った。
『会社出資決定』
最初にそう書き、すぐに削除した。
条件付き承認。
その方が正確だった。
出資額の上限は七千二百万円。
公費と村費が確定するまで着工しない。
会社の負担は寄付ではない。
収益事業の運営権を求める。
赤字が続けば見直す。
条件を満たさなければ、計画を縮小または中止する。
村民の無償労働を前提にしない。
村民優先の温泉利用を、会社の都合だけでは変えない。
美月は、承認されたことと、承認されていないことを二つの欄へ分けた。
会社がお金を出す。
その一文だけを伝えれば、村では計画が決まったと受け取られる。
期待が大きくなったあとで、補助金が取れなかったと説明すれば、また外から来た会社が約束を破ったことになる。
新幹線が京都へ近づいた頃、颯太からメッセージが届いた。
『審査、どうでした』
『条件付きで、会社出資上限七千二百万円が承認されました』
数分後、返信が来た。
『それは決まったということですか』
美月は少し考えた。
『会社が負担する範囲と上限が決まりました。工事はまだ決まっていません』
『難しいな』
『簡単に言うと、会社は逃げないと決めました。ただし、何があっても続けるとは決めていません』
今度の返信は早かった。
『それなら分かります』
*
翌朝の住民会議には、四十人近くが集まった。
役場の会議室だけでは入りきらず、旧公民館の広間が使われた。
美月は前に立ち、会社の承認書を映した。
「創生都市開発は、本プロジェクトへの出資上限七千二百万円を、条件付きで承認しました」
拍手が起こりかけた。
美月は言葉を続けた。
「ただし、工事開始が決まったわけではありません」
上がりかけた手が止まる。
「国、県、村の負担額は、まだ確定していません。補助金が想定より少ない場合は、事業規模を見直します。資金が不足すれば、中止する可能性もあります」
「会社が七千万円出すなら、足りるんと違うんか」
後ろから声が上がった。
「総事業費は三億八千四百二十万円です」
会場がざわめいた。
村へ詳しい見積額を示すのは、初めてだった。
「そんなにかけるんか」
「三室だけやろ」
「村の負担はいくらや」
「現段階の案では、上限五千二百万円です」
「五千万も、どこから出す」
「村の一般会計、起債、既存の施設維持費との調整を含め、役場と議会で検討します。ただし、診療所、送迎、福祉、道路管理など、現在の生活サービスを削って作る計画にはしません」
「それ、会社が決めることやないやろ」
別の男性が言った。
「そのとおりです。最終的には村が決めます。私は、会社としてその条件なら事業を進められないとお伝えします」
「会社が金出す代わりに、学校を自由に使うんか」
「自由には使えません。村が所有権を持ち、会社は宿泊と体験事業の運営権を得ます。体育館、資料室、住民利用時間は協定で守ります」
「会社の名前、学校へ付けるんか」
「企業名を施設名へ付ける予定はありません」
「看板は?」
「正式な共同プロジェクト名と、運営者名は表示します。ただし、学校そのものを会社の施設のようには見せません」
「七千万円も出すのに、会社は何でもうけるんや」
核心に近い質問だった。
美月は、前日の審査会で使った資料を開いた。
「宿泊、体験教室、施設利用、物販から収益を得ます。三年目の黒字化を目指します。ただし、直接収益だけで七千二百万円を短期間に回収することはできません」
「ほな、何で出すんや」
「公共施設と収益事業を組み合わせる方法を、会社の事業として確立するためです。今後、ほかの地域でも使える運営と契約の仕組みを作ります。企業として、地域の生活機能を維持する事業へ関わることも目的です」
「清澄村は、会社の実験台か」
広間が静まった。
質問したのは、これまで会議でほとんど発言しなかった五十代の男性だった。
美月は相手の顔を見た。
「実証を行う場所ではあります」
住民の間に緊張が走る。
「ただし、会社だけが結果を持ち帰る実験にはしません。契約書、収支、判断基準、失敗した理由を、村にも残します。会社が得た仕組みをほかで使う場合も、清澄村の個人情報や、住民の発言を無断では使いません」
「会社は実績を得る。村は何を得る」
「改修された学校と川音の湯。新しい仕事。住民が使える体育館と資料室。宿泊と体験事業の収益の一部。建物を維持するための運営体制です」
「計画どおりいかんかったら?」
「宿泊事業を縮小する可能性があります。会社が撤退する可能性もあります」
「結局、逃げるんやないか」
「永遠に撤退しないとは約束できません」
「また同じや」
男の声が強くなった。
「前の会社も、最初はええことばっかり言うた。駄目になったら採算が合わん言うて帰った」
「同じことが起きる可能性はあります」
「ほな、何が違う」
「帰る条件を、始める前に決めます」
美月は撤退条件の画面を映した。
「赤字が続いた場合、どの時点で見直すか。撤退する場合、何か月前に伝えるか。設備をどう残すか。住民の仕事をいつまで保証するか。会社が負担する費用は何か。すべて協定へ書きます」
「書いたら、帰ってええことになるんか」
「帰ってよいという意味ではありません。帰る時にも責任を負うという意味です」
「責任いうても、金払って終わりやろ」
「お金で戻らないものがあることは、分かっています」
「東京の人に分かるか」
美月は答える前に、相手の顔を見た。
「すべては分かりません」
男性の表情がさらに険しくなる。
「でも、分かったふりをして進めることはしません。会社が得るものと、村が負うリスクを隠しません。それでも受け入れられないなら、工事は始めません」
会場の後ろで、椅子がきしんだ。
源造が立ち上がった。
「会社が何で金出すか、聞いたんやろ」
「そうや」
「田中さんは、もうけと、次の仕事に使う仕組みと、会社の評判や言うた。それ以外に何を言わせたい」
「村のためや言うてほしいんやない」
「言うたら、もっと怪しいやろ」
何人かが小さく笑った。
源造は続けた。
「会社は会社のために金出す。村は村のために受ける。それでええんや。どっちかが、相手のためだけや言い始めたら、あとで貸し借りになる」
質問した男性は黙った。
「俺は、会社を信用しとるわけやない」
源造は美月を見た。
「田中さんのことも、まだ全部信用しとらん」
「承知しています」
「でも、金出す理由を隠さんかったことは、前よりましや」
源造は席へ戻った。
会議の最後に、美月は一枚の紙を配った。
会社が得るもの。
村が得るもの。
会社が負うリスク。
村が負うリスク。
双方がやめられる条件。
住民が個別に引き受ける必要のない責任。
紙の一番下には、意見を書く欄を設けた。
賛成か反対かを丸で囲む欄は作らなかった。
まだ、二つに分ける段階ではない。
*
会議が終わったあと、颯太が広間の椅子を片づけていた。
美月も机を畳もうとすると、颯太が端を持った。
「午後、休むんやなかったんですか」
「この片づけが終わったら休みます」
「それ、休まん人の言い方です」
「本社から聞いたんですか」
「森下さんから」
「やはり、何でも伝わりますね」
二人で机を壁際へ運ぶ。
「七千二百万円って、大きいんですか」
颯太が尋ねた。
「個人には大きいです。会社の投資案件としては、特別に大きいわけではありません」
「東雲の再開発よりは?」
「比較になりません。東雲は何百億円単位です」
「何百億」
「土地と建物の規模が違います」
「会社からしたら、清澄村は小さい事業なんですね」
「金額では、小さいです」
「それでも、審査にあれだけ人が集まるんや」
「小さい事業ほど、利益が小さく、担当者へ依存しやすいからです。金額だけで簡単には決められません」
最後の机を運び終える。
広間の床に、椅子の脚が付けた細い跡が残っていた。
「田中さんは、会社が金出す理由、全部聞いたんですか」
「審査会で説明された範囲は」
「ほかにもあると思います?」
「会社ですから、私へ伝えられていない経営上の判断はあると思います」
「気にならんのですか」
「気になります。でも、出資条件に反映されていない意図まで推測しても、今は確認できません」
「会社を信用しとる?」
美月は少し考えた。
「信用する部分と、契約で縛る部分を分けています」
「冷たいな」
「颯太さんも、木材を口約束だけでは売らないでしょう」
「村の人相手なら、あとで払う言われて渡すことありますよ」
「請求書は出しますよね」
「出します」
「同じです」
颯太は畳んだ椅子の列を見た。
「俺、最初に田中さんへ会った時、学校を売りに来た人やと思ってました」
「売りには来ていません」
「分かってます。でも、会社の金が入ったら、今度は会社の物みたいになるんやないかと思う」
「その可能性をなくすため、協定を作ります」
「紙があったら大丈夫ですか」
「紙だけでは足りません。誰が確認するかも決めます」
「住民も?」
「運営協議会へ住民代表を入れます。ただし、無償で何度も会議へ出てもらう形にはしません。出席謝金を設定します」
「また金払うんですね」
「仕事ですから」
「何でも金にするなって、反対出ると思いますよ」
「出るでしょうね」
「それでも?」
「無償にしたい方が、自分の分を断るのは自由です。でも、ほかの人まで無償にすることはできません」
颯太は美月を見た。
「田中さん、前より頑固になりましたね」
「柔軟になったと言われることもあります」
「誰に?」
「今のところ、思い当たりません」
颯太が笑った。
玄関の外へ出ると、昼の光が強かった。
学校の屋根が、山の緑の手前に見える。
「午後、ほんまに休むんですか」
「休みます」
「何するんです?」
「まだ決めていません」
「仕事せん時間に、何するか決めてないんですか」
「休むための計画まで必要ですか」
「田中さんには必要かもしれん」
颯太は軽トラックの鍵を取り出した。
「川の上の道、歩いたことあります?」
「どの道ですか」
「川音の湯の向こう。三十分くらいで、小さい滝があります」
「調査対象ですか」
「違います」
「観光利用の可能性は?」
「ないです。道狭いし、途中で終わるから」
「それなら、何をしに行くんですか」
「何もせんためでしょう」
美月は学校の屋根へ目を向けた。
会社の出資が決まった日。
本来なら、次の申請資料を作り、村費の内訳を確認し、運営協定の草案へ手を入れるべきだった。
やるべきことはいくらでもある。
けれど、会社が正式に責任を引き受けたということは、美月一人で抱えなくてもよいということでもあった。
「三十分で戻れますか」
「片道三十分です」
「往復一時間ですね」
「普通はそうです」
「一時間半以内なら」
「休む時間にも上限あるんですか」
「午後五時までには旅館へ戻ります」
「夕食まで仕事する気でしょう」
「今日はしません」
「ほんまに?」
「予定表へ休暇と入れました」
「それなら、信じます」
二人は川へ続く道を歩き始めた。
美月の仕事用スマートフォンが、バッグの中で一度震えた。
画面は見なかった。
会社が七千二百万円を出す理由は、村を救うためだけではない。
利益を得るため。
知見を得るため。
企業としての責任を形にするため。
そこに、美月自身の過去や思いが混ざっている。
どれか一つだけを、きれいな理由として選ぶことはできない。
川沿いの道には、杉の葉の間から細い光が落ちていた。
水の音を聞きながら歩いていると、バッグの中の振動は止まった。
美月は振り返らなかった。




