第二十章 川音の湯の条件
川音の湯へ続く石段には、朝露が残っていた。
美月は手すりをつかみ、一段ずつ足元を確かめながら下りた。
石段は全部で二十七段ある。幅は不揃いで、中央がすり減っている。昨夜は雨が降っていないのに、山側から染み出した水で表面が濡れていた。
「冬は凍りますか」
「日が当たらんところは凍る」
先を歩いていた源造が答えた。
「昔、敏夫がここで滑って、下まで尻で下りたことがある」
「昔やない。三年前や」
後ろから敏夫の声がした。
「三年前なら最近ですね」
美月が振り向く。
「骨は折れんかった」
「骨が折れなければ安全ということにはなりません」
「ほら、田中さんに言われた」
源造が笑う。
石段の下には、木造平屋の建物があった。
板張りの外壁は黒く変色し、軒先の一部がわずかに下がっている。入口の上には「川音の湯」と書かれた木の看板が掛けられていた。
看板の文字は、長い年月で角が丸くなっている。
建物の裏手を川が流れていた。
湯の名のとおり、玄関の前に立っていても、水が岩へ当たる音が聞こえる。
藤井が入口の鍵を開けた。
「今日は定休日です。設備調査のあと、午後から住民の方に使い勝手を確認してもらいます」
美月の後ろには、三浦と本庄、それに温浴設備会社から派遣された柿崎という技術者が立っていた。
柿崎は五十代前半の男性で、肩から測定器の入ったケースを下げている。
「最初に源泉と配管を見ます」
柿崎が言った。
「そのあと、浴槽、排水、換気、脱衣室の順で確認します。写真を撮りますが、利用者の私物が写る場所は役場の方に確認していただきます」
「お願いします」
藤井が答えた。
玄関には、小さな券売機が置かれていた。
大人三百円。
小学生百五十円。
村外利用者五百円。
千円札は使えるが、五千円札と一万円札には対応していない。返却口の横には、手書きで「つり銭切れの時は管理人へ」と貼られていた。
「管理人は常駐ですか」
美月が尋ねた。
「午後三時から七時までは、交代で一人います。それ以外の時間は開けていません」
「交代というのは?」
「村の臨時職員と、近所の方です」
「近所の方には賃金を払っていますか」
「一回四時間で四千二百円です」
森下が資料を確認した。
「清掃は別に、一回二千五百円。朝の清掃と、営業終了後の確認をお願いしています」
「利用者数は?」
「昨年度は、村民が延べ四千二百六十人。村外が八百十三人です。月によって差があります。紅葉の時期と年末は増えますが、梅雨と二月は少ないです」
「延べ人数なので、村民は同じ方が繰り返し利用しているんですね」
「ええ。登録者で見ると、村民は二百三十四人です」
村の人口から考えれば、少なくない。
川音の湯は観光施設である前に、七十九人の日常の中にある。
美月は券売機の横に置かれた籠を見た。
中には、石鹸や小さなシャンプーの容器が入っている。
「忘れ物ですか」
「持って帰るのが面倒な人が置いとる」
春江が答えた。
午後の確認会へ参加するため、文江と一緒に来ていた。
「名前は書いてありますか」
「大体、蓋に書いとる」
美月が一本を持ち上げると、白い容器の底に油性ペンで「フミ」と書かれていた。
「改修後も置いておくんですか」
「置いたらあかんの?」
「宿泊客や村外利用者が増えれば、衛生管理と紛失の問題が出ます」
「今までなくなったことないで」
「今までと同じ人数ではなくなる可能性があります」
「客が来るたび、私らが不便になるんか」
春江の声が少し硬くなった。
「まだ、なくすとは決めていません」
美月は容器を元の場所へ戻した。
「村民用の鍵付き棚を作る方法もあります。何人が置いているか、必要な大きさを確認します」
「棚に鍵かけるんか」
「村外利用者が間違えて使わないためです」
「こんな石鹸、誰も取らんやろ」
「取るつもりがなくても、同じ容器なら間違えます」
春江は不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
美月は手帳へ記した。
村民用の私物棚。番号式。利用登録制。大きさと維持方法を確認。
*
男湯と女湯には、それぞれ小さな内湯と露天風呂があった。
内湯は、二人が足を伸ばせばいっぱいになる。露天風呂は、詰めれば三人ほど入れる広さだった。
浴槽の縁には、地元の川石が使われている。
形も色も揃っていない。黒い石、白い筋の入った石、薄い緑色の石。表面は長年の湯で滑らかになっていた。
露天風呂の向こうには木の柵があり、その下を川が流れている。
川面はほとんど見えない。
けれど、水の音は近かった。
「露天風呂を広げるなら、川側ですか」
美月が尋ねると、柿崎は首を振った。
「川側へ広げるのは難しいです。河川区域との関係がありますし、斜面の補強も必要になる。山側も擁壁があります。浴槽の面積を増やすより、配置を見直す方が現実的です」
「入浴人数は増やせませんか」
「内湯と露天を合わせて、男女それぞれ六人程度が安全でしょう。今も数字の上ではそのくらいですが、脱衣室と洗い場が狭い。浴槽だけ大きくしても、混雑は解消しません」
柿崎は湯口の近くへ測定器を入れた。
「四十二・七度。前回の測定とほぼ同じです」
以前の調査では、源泉温度は四十二・八度だった。
湧出量は毎分百十リットル。
加温も加水もせず、循環装置も使わず、源泉をそのまま浴槽へ流している。
その点だけを見れば、観光客へ強く訴えられる温泉だった。
しかし、柿崎は湯口から浴槽、排水口へ視線を移した。
「源泉はいい。ただ、設備はかなり傷んでいます」
「配管ですか」
「配管もです。湯口までの温度低下が以前より大きい。途中で漏れている可能性があります。浴槽の目地も劣化している。排水経路は、今の利用人数なら対応できても、利用者を増やすなら見直しが必要です」
「源泉かけ流しは維持できますか」
「できます。毎分百十リットルすべてをこの施設で使っているわけではありませんが、現在の浴槽面積なら量は足りています。ただし、かけ流しだから衛生管理が不要ということではありません」
柿崎は美月を見た。
「利用者が増えれば、清掃回数、湯の入れ替え、水質検査、温度と流量の記録が必要になる。源泉の良さを守るには、設備と管理の両方へ金をかけなければなりません」
「循環式へ変えた方が安くなりますか」
「利用規模によります。大浴場にするなら循環設備を検討しますが、ここでそれをやる意味は薄いでしょう。機械室が大きくなり、電気代と維持費が増えます。何より、この湯の特徴を捨てることになります」
源造が脱衣室側から声を上げた。
「機械で回した湯にするくらいやったら、直さんでええ」
「循環させると、湯が悪くなるとは限りません」
柿崎が穏やかに答える。
「でも、ここでは必要がないという話です」
「湯口は残せるんやな」
「今の石組みを一度外し、配管を交換してから組み直せます。全部を同じ位置へ戻せるかは、解体してみないと分かりません」
「石も変えるんか」
「割れていなければ使います」
「割れとらん石まで捨てんといてくれ」
「そのつもりはありません」
源造は湯口の横へしゃがみ、石へ手を置いた。
「これ、上の集落から運んだ石や」
「いつ頃ですか」
美月が聞く。
「最初に風呂作った時やから、四十年以上前や。軽トラックへ積んで、みんなで下ろした」
「どなたが運んだか、記録はありますか」
「そんなもん、ない」
「覚えている方は?」
「半分くらい、もうおらん」
源造は石から手を離した。
「名前の札はいらんぞ」
「まだ何も言っていません」
「田中さん、すぐ札つけたがるからな」
「最近は、つけない判断もしています」
「体育館の焦げ跡みたいにか」
「はい」
源造は小さくうなずいた。
「この石も、そのままでええ。誰が運んだか知らんでも、湯に入るのに困らん」
美月は図面へ書き込んだ。
既存の川石は可能な限り再使用。
由来を観光向けに加工しない。
個人名の表示はしない。
*
脱衣室には、木製の棚が十二個並んでいた。
扉も鍵もない。
利用者は衣服を籠へ入れ、そのまま棚へ置く。貴重品用の小さなロッカーは入口近くにあるが、八個のうち二個は鍵が壊れていた。
「観光客が来るなら、全部鍵付きにせんとあかんのか」
文江が尋ねた。
「貴重品だけ鍵付きにして、衣服用は籠のままでも運用できます」
三浦が答えた。
「ただ、通路幅を広げるため、棚の位置は変えます」
床には十五センチほどの段差がある。
玄関から脱衣室へ入るところに一段。脱衣室から浴室へ入るところにも一段。浴槽の縁はさらに高かった。
手すりは、浴槽の横に一本だけ付いている。
文江が普段どおりに服を脱ぐ動きを見せた。
「私は、ここへ座る」
細い木のベンチへ腰を下ろす。
靴下を脱ごうと片足を上げた時、体がわずかに傾いた。
「壁に背中をつけられる方が安全ですね」
美月が言う。
「いつも春江さんおるから、大丈夫や」
「一人で来る日は?」
「一人では来ん」
「春江さんが来られない日は、入浴しないんですか」
「ほかの人がおる」
「誰もいない可能性もあります」
「そんな時間に来んかったらええ」
文江にとっては、施設の設備だけが安全を支えているのではなかった。
一緒に来る春江。
先に入っている知人。
受付に座る近所の人。
誰かがいる時間を選ぶことも、長く積み重ねられた安全の一部だった。
しかし、村外から来る人には、その関係がない。
「背もたれ付きのベンチを置きます」
美月は言葉を続けた。
「片足を上げなくても着替えられる高さにして、手すりも付けます」
「年寄り向けの風呂みたいになるな」
春江が言う。
「実際、高齢の方も多く使っています」
「そうやけど、見た目から年寄り扱いされるのは嫌や」
三浦が答えた。
「病院のような手すりにはしません。地元の木を使い、誰でも使える形にします。子どもが靴を脱ぐ時にも役立ちます」
「子どもも来るんか」
「宿泊する家族が利用する可能性があります」
「騒がしなるなあ」
春江の眉が下がった。
「子どもの利用時間を分けますか」
美月が聞く。
「そこまでせんでええ。昔は村の子がぎょうさん入っとった。知らん子やから気になるだけや」
「宿泊客の子どもも、来れば知ることができます」
「一回来ただけで、知ったことにはならん」
「それでも、名前を聞くことはできます」
春江は返事をしなかった。
代わりに、浴室入口の段差を指した。
「ここは直してほしい。濡れた足で上がる時、怖いんや」
「段差をなくします」
本庄が図面へ線を引く。
「浴室側の床を上げ、勾配を調整します。水が脱衣室へ流れないよう、排水溝も入れ直します」
「床は滑らんようになる?」
「滑りにくい材料へ替えます。ただし、全く滑らない床はありません。石鹸が残れば危険です」
「掃除する人が増えるな」
文江が言った。
美月はうなずいた。
「利用者数が増えれば、清掃時間も増やします。今の料金のままで、その費用をすべて賄うのは難しいです」
その言葉に、二人の顔が変わった。
「値上げするんか」
春江が尋ねる。
「まだ金額は決めていません」
「改修したら高うなるんやろ」
「村民料金と村外料金は分けます。村民が日常的に使えなくなる金額にはしません」
「いくらまでなら、日常的いうんや」
「それを今日、聞きたいと思っています」
「こっちに決めさせるんか」
「払える金額を、東京の会社だけで決める方がいいですか」
春江は口を閉じた。
*
午後の意見交換会には、川音の湯を普段利用している住民二十三人が集まった。
場所は、湯の建物から坂を上がった集会所だった。
大きな模造紙の中央に、美月は三つの案を貼った。
一つ目は、大規模改修案。
浴槽を広げ、休憩室と食事処を新設し、駐車場も拡張する。概算費用は一億二千八百万円。
二つ目は、中規模改修案。
浴室と脱衣室を全面的に直し、小さな休憩室を増築する。概算費用は八千九百万円。
三つ目は、基本改修案。
源泉配管、浴槽、排水、屋根、脱衣室、段差、手すり、換気、消防設備を直す。浴槽の大きさはほぼ変えず、露天風呂と川石を残す。概算費用は六千七百万円。
「会社としては、どれを勧めるんです?」
敏夫が尋ねた。
「基本改修案です」
美月は答えた。
住民の間に小さなどよめきが起きた。
「観光客を呼ぶなら、大きい風呂にした方がええんと違うか」
「大きくすれば、一度に入れる人数は増えます。でも、川音の湯へ来る道は狭く、駐車場も限られています。大勢を受け入れるには、風呂だけでなく道路と駐車場にも費用がかかります」
「食事処があったら、金落とすやろ」
「調理する人は誰ですか」
美月が尋ねる。
「募集したら来るんやないか」
「来るかもしれません。でも、来ることを前提に一億円以上を使う計画は作れません。飲食を始めれば、仕入れ、衛生管理、廃棄、勤務体制も必要です。山路館や村内の店との競合も起きます」
出席していた澄江が、膝の上で手を組んでいる。
誰もその顔を見ようとしなかった。
美月は続けた。
「川音の湯を大きな観光施設にはしません。少人数で使う湯として残します。学校の宿泊客だけで満員にしない。村外の日帰り客を大量に集めない。それが基本改修案の前提です」
「会社は、金もうけせんでええのか」
源造が聞いた。
「利益は必要です。でも、川音の湯だけを大きくして利益を出そうとすると、村民の日常利用と衝突します。宿泊、体験教室、温泉を一つの滞在として組み合わせますが、温泉を宿泊施設の付属設備にはしません」
澄江が初めて口を開いた。
「山路館の客も、川音の湯へ入れますか」
「入れます。学校の宿泊客だけを優先することはしません」
「学校の宿泊代に、川音の湯の料金を含めるんですか」
「含めない案で考えています」
美月が答えると、澄江は顔を上げた。
「宿泊客が利用する場合も、川音の湯へ入浴料を払います。学校側で無料券は出しません。宿泊プランへ組み込む場合は、学校の運営側が川音の湯から正規料金で入浴券を購入します」
「学校の客だけ、貸し切りにすることは?」
「村民優先時間にはしません。それ以外も、常時貸し切りにはしません。家族や介助が必要な方のために、一部の時間を予約制にする案はあります」
「山路館の客も、その予約枠を使える?」
「同じ条件で使えます」
澄江はしばらく考えてから言った。
「それなら、反対はしません」
その一言で、集会所の空気が少し緩んだ。
澄江が懸念していたのは、学校に客を取られることだけではなかった。
会社の宿泊施設が村の温泉まで囲い込み、自分たちだけの価値として売り出すことだった。
「山路館にも温泉がありますよね」
住民の一人が言った。
「うちの湯は、泊まる方のための湯です」
澄江が答える。
「日帰りを増やすつもりはありません。川音の湯とは役割が違います。でも、学校が『温泉旅館』みたいな売り方をしたら困ります」
「学校は温泉旅館として売りません」
美月は明言した。
「学校の宿泊施設にはシャワーと家族風呂を用意します。川音の湯は、希望する方が別料金で利用する村の共同浴場です。雨の日、体調が悪い日、歩くのが難しい日は、行かなくても滞在できるようにします」
「家族風呂にも温泉引くんか」
敏夫が聞いた。
「引きません。給湯設備の湯です」
「温泉あるのに、普通の風呂作るんか」
「川音の湯へ行けない方もいます。夜道を歩けない方、小さな子どもがいる方、介助が必要な方もいる。宿泊施設に最低限の入浴設備は必要です」
「何でも温泉にした方が、客は喜ぶやろ」
「源泉を学校まで引くには、新しい配管と権利関係の整理が必要です。維持費も増えます。客が喜ぶという理由だけで、源泉の使い方を広げるつもりはありません」
美月は模造紙の横へ、一枚の紙を貼った。
『源泉は、先に売り物ではなく、村の共同資源として扱う』
藤井が紙を見た。
「共同資源という言い方は、所有権と誤解されませんか」
「正式な文書では、源泉の所有者と利用権者を明記します。これは運営方針です」
「山も川も、誰かのものやと最初に言いましたからな」
「覚えています」
美月が答えると、藤井はわずかに笑った。
*
村民料金について、意見はすぐにはまとまらなかった。
現行の三百円を維持してほしいという人。
改修後なら四百円まで払ってもよいという人。
回数券を安くしてほしいという人。
高齢者は無料にすべきだという人。
使う回数に関係なく、村民全員へ年間利用券を配るべきだという人。
美月は一つずつ、模造紙へ書いた。
「無料にすると、使わん人の税金で、使う人の風呂を維持することになる」
敏夫が言った。
「公共施設は、そういうもんやろ」
別の男性が返す。
「道路かて、毎日使わん人おる」
「風呂と道路は違う」
「診療所も、行かん人は行かん」
「病院と温泉を一緒にするな」
議論は、料金から公共施設の意味へ広がっていった。
山根村長はしばらく聞いていたが、やがて手を上げた。
「村民全員を無料にはできません。改修後の維持費を考えれば、利用者負担は必要です。ただ、改修したせいで今まで使ってきた人が来られなくなるのも困ります」
「では、現行料金を維持しますか」
美月が尋ねる。
「村の負担額を見ないと決められません」
藤井が資料をめくった。
「試算では、基本改修後の年間維持費が、人件費を含めて約九百八十万円。今より二百四十万円ほど増えます。設備点検、水質検査、清掃、電気代、保険が増えるためです」
「利用者が増えたら、収入も増えるやろ」
源造が言う。
「村外利用者が年間二千人まで増えれば、料金次第では補えます。ただ、二千人来る保証はありません」
美月は試算表を配った。
「村民料金を一回四百円。十二回券を四千円。村外料金を九百円。小学生はそれぞれ半額。就学前の子どもは無料。これが第一案です」
「いきなり倍近いやないか」
春江が村外料金を見て言った。
「村外料金です。村民は百円の値上げです」
「学校の客は九百円払うんか」
「はい」
「高い言われへん?」
「施設の規模だけを見れば、高いと感じる方もいると思います。でも、源泉かけ流しの小規模浴場を維持する料金として設定します。混雑させないことも価値に含めます」
「村民は三百円のままではあかんのか」
文江が尋ねる。
「回数券なら、一回あたり約三百三十三円です」
「十二回も先に買わなあかん」
「六回券も作れます」
「券ばっかり増やしたら、受付が面倒や」
源造が言う。
「では、月額制も考えます。月千二百円で、月六回まで」
「七回目は?」
「通常料金です」
「毎日入りたい人は?」
「毎日利用を前提にした金額だと、施設の収入が維持費へ追いつきません」
集会所の後ろに座っていた一人暮らしの男性が言った。
「うちの風呂、もう壊れとる。ここ閉まる日だけ、家で体拭いとる。毎日使えんかったら困る」
美月は男性を見た。
「現在、営業は週何日ですか」
「火曜以外の六日です」
森下が答えた。
「改修後も六日営業を維持したいと考えています」
「この人のように、生活上必要な方がいます」
美月は山根村長へ向き直った。
「観光施設の料金設計だけでは対応できません。福祉目的の利用支援を分けてください」
「減免制度ですか」
「はい。年齢ではなく、自宅の入浴設備、所得、介護上の必要性などを基準に、役場が対象者を認定する。対象者の利用料を村が一部負担します」
「申請させるんか」
男性が不安そうに聞いた。
「役場で確認が必要です。ただ、何度も書類を出す形にはしません。年一回の更新で済むようにします」
「みんなに、うちの風呂壊れとること知られるやろ」
「受付には、減免対象かどうかだけを表示します。理由は伝えません」
「村役場の人には分かる」
「制度を利用する以上、担当者には確認が必要です。でも、担当者以外に伝えないことを規則にします」
男性は納得したようには見えなかった。
小さな村では、個人情報を紙の中だけに閉じ込めることは難しい。
誰が何曜日に風呂へ来るか。
誰が回数券を買わないか。
誰が受付で料金を払わないか。
見ようとしなくても、互いの暮らしが目に入る。
「減免券だと分からない方法にします」
森下が言った。
「通常の回数券と同じ見た目にして、役場が本人へ渡す。受付では同じ券として扱う。これなら理由までは分かりません」
「役場の会計処理は?」
「月ごとに券の番号を照合します」
「手間が増えますね」
美月が言うと、森下は苦笑した。
「増えます。でも、この程度なら私だけの仕事にしなくても回せます。福祉担当と分けます」
源造が腕を組んだ。
「四百円で、回数券なら少し安い。生活で必要な人には別の券。それでええんやないか」
「村外九百円は?」
「外から来るもんには払うてもろたらええ」
春江が言う。
「東京の風呂は、もっと高いやろ」
「東京にも安い銭湯はあります」
美月が答えた。
「そこで東京をかばわんでええ」
集会所に笑いが起きた。
*
最も時間がかかったのは、利用時間だった。
会社側の当初案では、午後三時から五時半を村民優先とし、午後六時から九時を宿泊客と村外利用者の時間にする予定だった。
住民へ示すと、すぐに反対が出た。
「六時すぎに入る人もおる」
「畑から帰る時間は、季節で違う」
「夏は明るいうちに仕事しとる」
「冬は四時には暗いから、早う入る」
「時間を固定されたら困る」
美月は一度、案を持ち帰った。
一度持ち帰った、と本社への報告書には書いた。
それは正確ではなかった。
提案を出した二日後には、川音の湯の運営方針を固める本社会議が予定されていた。会議までに住民合意の見通しを示さなければ、基本改修案そのものが承認されない可能性があった。
美月は迷った末、住民説明会の議事録に「時間案については引き続き調整中」と記し、会議資料には「大枠で了承済み」と書いた。
嘘ではない、と自分に言い聞かせた。
反対意見はあったが、改修そのものへの反対ではなかった。時間の区切り方だけの問題だと考えた。
会議では、その一文がそのまま読み上げられた。
承認は下りた。
数日後、藤井から電話が入った。
「田中さん、住民の一人から聞かれました。時間案、もう決まったんかと」
「まだ結論は出ていません」
「本社の資料には、大枠で了承済みと書いてあったそうです」
「引き続き調整中とも書いています」
「読んだ人間には、決まったように見えます」
美月は何も言えなかった。
翌日、集会所で開かれた小さな集まりに、美月は呼ばれた。
源造が、コピーされた資料を机へ置いた。
「これ、村の誰が了承したんです」
「了承したという意味ではありません。反対が改修そのものへの反対ではないという趣旨で」
「趣旨は、こっちが決めることです」
源造の声は大きくなかった。
それが、かえって重かった。
「言葉を、都合よく使こうたんですね」
「時間の制約があり、資料の表現を——」
「制約があったら、何を書いてもええんですか」
美月は沈黙した。
数字も、事実も、噓はついていない。
それでも、書き方を選んだのは自分だった。
「申し訳ありませんでした」
美月は頭を下げた。
「本社の資料を訂正します。時間案は未承認、住民との調整が続いていると書き直します」
「今さら書き直しても、一回崩れた信用は消えません」
源造は言った。
「消えないことは承知しています。それでも、次から同じことをしない以外に、示す方法がありません」
藤井が資料を回収しながら言った。
「田中さんは、いつも正確に話す人やと思っとりました。今回のことで、正確さと、都合のいい書き方の境目が近いことを知りました」
美月は何も言い返せなかった。
その夜、山路館の部屋で、美月は本社への訂正報告書を作成した。
理由の欄に、事実だけを書いた。
住民合意は成立していなかったこと。
表現を選んで、成立しているように見せたこと。
その結果、住民の信頼を損ねたこと。
黒田からの返信は短かった。
『訂正、確認した。次はない』
それだけだった。
美月は画面を閉じ、しばらく動けなかった。
数字を正確に扱うことと、誠実であることは、同じではなかった。
父が最後まで、悪気なく事実を並べ替えていたことを、美月は初めて理解した気がした。
翌週、川音の湯の利用記録を過去一年分確認した。
券売機では利用者の住所までは分からないため、受付担当者に協力してもらい、二週間だけ村民と村外利用者の入場時間を記録した。
村民の利用は、午後三時半から六時半へ集中していた。
最も多いのは午後五時台。
村外利用者は、午後四時前後と六時以降に分かれる。
学校の宿泊客が夕食前に入るとすれば、村民の利用時間と重なる。
美月は二つ目の案を作った。
午後三時から六時半は、村民優先。
村民だけに限定はしないが、村外利用者の受付人数を制限する。
午後六時半から八時半は、村民と村外利用者が同じ条件で利用。
学校と山路館の宿泊客には、混雑状況を事前に知らせる。
午前の営業は、金曜から日曜と祝日のみ。午前十時から午後一時まで。
家族や介助利用の予約枠は、営業前後の一時間に設定する。
「優先いうても、外の人も入るんやろ」
春江が尋ねた。
「入れます。ただし、男女それぞれ村外利用者は同時に二人までとします。村民利用者で混み合っている場合は待ってもらいます」
「誰が村民か、顔で分かるんか」
「村民利用証を発行します」
「またカード増えるんか」
「券売機だけでは料金を分けられないので、必要です。顔写真は付けません。本人確認が必要な時だけ、住所を確認します」
「貸す人おるで」
「不正利用が続けば、方法を見直します。最初から全員を疑う仕組みにはしません」
源造が言った。
「学校の客には、三時から六時半は来るな言うたらええ」
「完全に禁止すると、雨の日や体調の事情がある時に利用できません」
「宿に風呂あるんやろ」
「あります。でも、川音の湯を楽しみに来る方もいます」
「ほな、村民の時間を楽しみにしとる人はどうなる」
その言葉に、美月は返事を止めた。
学校の宿泊客には、ほかの入浴手段がある。
川音の湯を日常的に使ってきた村民には、同じ場所の代わりはない。
「宿泊客は、午後六時半以降を基本にします」
美月は案を修正した。
「村民優先時間中は、介助が必要な場合や、施設側が認めた事情がある場合に限ります。単に夕食前に入りたいという理由では案内しません」
「客から金もろうとるのに、断れるんか」
「予約時に説明します。村民の入浴が優先される温泉だと理解した上で来てもらいます」
「そんなこと書いたら、客が減るんやないか」
「減る可能性はあります」
「それでええの?」
「川音の湯を使いたい時間に自由に使えることを求める方には、学校の宿泊は向きません」
美月は、はっきり答えた。
「この村では、宿泊客がお金を払っているからといって、すべてに優先されるわけではありません」
山根村長が穏やかに聞いていた。
「会社は、その条件を認めますか」
「本社へ説明します」
「説明して、断られたら?」
「学校の宿泊計画から、川音の湯との連携を外します」
会議室が静まり返った。
「そこまで言い切ってええんか」
藤井が低い声で尋ねた。
「村民優先を宣伝文句にして、実際には客を優先する方が問題です。条件を守れないなら、最初から連携しない方がいいです」
源造が腕をほどいた。
「それでええ」
短い言葉だった。
けれど、その場にいた住民の何人かが、同じようにうなずいた。
*
本社との会議では、予想どおり異論が出た。
『宿泊客が温泉へ入れる時間を限定するのか』
事業管理部の担当者が尋ねた。
「午後六時半以降を基本にします。午前営業日は、午前十時から午後一時も利用できます」
『夕食時間と重なる』
「学校では、決まった時間に一斉に夕食を出す運営にはしません。食事提供の形は別途調整します」
『宿泊プランの商品力が落ちないか』
「温泉を自由に使える宿としては販売しません」
『せっかく近隣に源泉かけ流しの湯があるのに、それを前面へ出さないのは非効率では?』
「前面には出します。ただし、村民優先であることも同じ大きさで表示します」
『客は制限を嫌う』
「制限を隠して予約を取れば、現地で苦情になります」
『村民優先時間でも、浴槽が空いていれば入れてもいいのではないか』
「個別判断を増やすと、受付担当者が断りにくくなります。空いているから一人だけ、遠くから来たから一組だけと例外を重ねれば、優先時間がなくなります」
黒田が資料を見ながら言った。
『利用人数の上限は?』
「男女それぞれ同時に六人です。脱衣室の入場管理を行います。混雑時は受付で待ってもらいます」
『予約制にした方が管理しやすいだろう』
「村外利用者と貸切枠は予約できますが、村民の日常利用は予約不要にします」
『なぜ?』
「風呂へ入るたびに予約が必要になれば、村民の日常施設ではなくなります。畑仕事や天候で時間が変わる方も多いです」
『待ち時間が発生するぞ』
「村民同士で混雑した場合は発生します。ただ、過去の利用実績では、改修後の定員を超える日は多くありません。村外利用者を制限すれば対応できます」
小田切が口を開いた。
『田中さん。この温泉は、利益を上げる施設になるのか』
「単体で大きな利益を上げる施設にはなりません。基本改修案でも、減価償却を含めれば利用料収入だけで投資を回収するのは困難です」
『では、会社が関わる理由は?』
「学校の宿泊価値を高めます。村民の生活機能を維持します。観光客と村民が同じ場所を使うため、外から来た人が村の暮らしを知る接点にもなります」
『交流という言葉で、村民へ接客を求めてはいけない』
「求めません。話したくない時は話さなくてよいと、利用案内にも記載します。村民は観光案内役ではありません」
『入浴中の撮影対策は?』
「浴室と脱衣室へのスマートフォン持込みは禁止します。鍵付き保管場所を入口に設けます。施設紹介用の写真は、休業日に許可を得た撮影者だけが撮ります」
『外国人利用者への説明は?』
「入浴方法、村民優先時間、刺青への対応、子どもの利用、静かに使うことを、多言語と図で表示します。ただし、禁止事項を壁一面に並べる見せ方にはしません」
『刺青は全面禁止か』
「県の指導と村の方針を確認中です。小さなものは覆う方法も含めて検討します。見た目だけで現場担当者が判断しない基準を作ります」
小田切はしばらく黙っていた。
『基本改修案を前提に、詳細設計へ進めていい。ただし条件がある』
「はい」
『第一に、学校の宿泊会計と川音の湯の会計を分けること。第二に、無料券を乱発しないこと。第三に、村民優先を広報の美談として消費しないこと。第四に、利用実績と維持費を毎月出すこと』
「承知しました」
『それから、源泉かけ流しという言葉だけで安全性を印象づける表現は禁止する。水質管理と清掃記録を公開できる形にしておけ』
「はい」
『温泉は、事故が起きれば事業全体が止まる。湯が良いことと、運営が安全なことは別だ』
「理解しています」
黒田が続けた。
『歩行経路はどうする。学校から川音の湯まで、夜に歩かせるのか』
「徒歩八分ですが、一部に街灯がありません。送迎車を常時出すと人件費が増えるため、午後六時半と七時半の二便を予約制で運行します。徒歩の方には、反射材付きの貸出灯と地図を渡します。ただし、大雨や路面凍結時は徒歩利用を中止します」
『車椅子利用者は?』
「石段を使わない裏側の搬入路を改修し、車で玄関近くまで入れるようにします。勾配と転回場所は現在確認中です」
『送迎担当者が休んだら?』
「施設スタッフのうち二人以上が運転できる体制にします。それが確保できない日は送迎便を出さず、予約時に案内します」
『何でもできるとは言わない、か』
「はい」
『それでいい』
会議が終わったあと、美月は椅子の背にもたれた。
温泉がある。
その一言だけなら、宿泊施設の魅力として簡単に書ける。
源泉かけ流し。
川音を聞く露天風呂。
山に囲まれた秘湯。
どれも嘘ではない。
しかし、その言葉の下には、受付に座る人、浴槽を洗う人、湯温を測る人、配管を直す人、凍った石段へ融雪剤をまく人がいる。
夕方に風呂へ来る七十九人がいる。
その人たちを写真の背景へ追いやり、客だけの静かな温泉として売ることはできない。
*
改修案の最終確認には、実際に杖を使っている住民にも参加してもらった。
川根由は、玄関から脱衣室までをゆっくり歩いた。
新しい図面では、石段を使わない経路に車寄せを設け、入口の段差をなくす。玄関には腰掛けを置き、濡れた傘を持ったままでも手すりを使える幅を確保する。
「車から降りるところに屋根が欲しいです」
由が言った。
「玄関だけ屋根あっても、降りた時に濡れるから」
三浦が図面へ書き込む。
「車一台分の庇を延ばします。ただ、大雪の荷重を確認する必要があります」
「雪の日は来ません」
「由さんが来なくても、送迎車や職員が使います」
脱衣室では、由が椅子へ座る高さを確認した。
「もう少し高い方が立ちやすいです」
「ほかの方には高すぎる可能性があります」
「高さの違う椅子を二つ置いたら?」
「場所を取ります」
「一つを壁に固定して、もう一つを動かせるようにしたらええ」
春江が言った。
三浦が寸法を測る。
「可能です。固定椅子は立ち上がり用の手すりと一体にします」
浴室では、由が杖の代わりに浴室用の手すりをつかんだ。
浴槽へ入るところには、二段のステップを付ける計画になっている。
「足が上がらん日は、この浴槽には入れません」
「昇降機を付ける案もあります」
三浦が言う。
「でも、屋外の露天風呂では維持管理が難しい。内湯側へ入浴用の椅子を設ける案を考えています」
「一人で入れるものですか」
「介助者が必要です」
「介助する人と一緒に入るなら、男女で分かれた浴室は使いにくいです」
美月は図面を見た。
学校の宿泊客に介助が必要な場合、家族風呂を使える。
しかし、川音の湯を日常利用する村民にとっては、男女別の浴室しかない。
「貸切利用の時間を、介助の必要な村民にも使えるようにします」
美月が言った。
「予約料は取りません。入浴料だけです」
「村外の家族貸切と同じ時間ですか」
「同じ枠を使います。ただし、村民の介助利用を先に予約できる期間を設けます」
「私のためだけに、そこまでせんでもええですよ」
由が言う。
「由さんだけのためではありません」
「でも、今まで入れんかったら、家の風呂で済ませてました」
「改修するのに、今までどおり入れないままにする理由はありません」
「全部の人が入れる風呂には、できへんでしょう」
「できません」
美月は即答した。
「だから、できる範囲を一つずつ増やします。入れない方が残ることも、書いておきます」
「書くんですか」
「はい。完全なバリアフリーだとは表示しません。使える設備と、必要な介助を具体的に案内します」
由は露天風呂の方を見た。
浴槽から湯気が上がり、その向こうで木の葉が揺れている。
「露天は、今のままがええな」
「浴槽の位置は変えません。縁の石も残します」
「入れん日があっても、残してほしいです」
「内湯を使うことになってもですか」
「川の音は、内湯でも聞こえるから」
由は手すりを握ったまま、しばらく水音を聞いていた。
*
川音の湯の運営条件は、十二項目にまとめられた。
一、源泉かけ流しを維持し、加水と循環を前提に拡張しない。
二、浴槽を過度に広げず、男女各六人を利用上限とする。
三、露天風呂の位置と川石を可能な限り残す。
四、村民優先時間を午後三時から六時半とする。
五、学校の宿泊客は午後六時半以降の利用を基本とする。
六、学校だけに無料券、専用枠、優先入場を認めない。
七、村民料金と村外料金を分け、生活上必要な利用者には別の減免制度を設ける。
八、介助利用と家族利用の予約枠を設ける。
九、浴室と脱衣室への撮影機器の持込みを禁止する。
十、清掃、水質、温度、流量を記録し、定期的に公開する。
十一、学校と川音の湯の会計を分ける。
十二、利用者増加より、村民の日常利用と安全を優先する。
最後の項目について、本社からは「評価基準として曖昧ではないか」と指摘された。
美月は、具体的な停止条件を加えた。
村民優先時間に、村民が満員を理由に入れなかった日が月五日を超えた場合、村外利用枠を減らす。
清掃または受付人員が確保できない日は、営業を短縮する。
水質検査に異常があれば、原因が確認できるまで営業しない。
送迎体制がない日に、悪天候なら宿泊客へ利用を勧めない。
案内と実際の運用が異なるという苦情が三件続いた場合、販売ページを一時停止して見直す。
営業を続けるための条件だけではない。
止めるための条件も、同じ紙へ書いた。
その案を役場の会議室で読み終えた時、藤井が言った。
「村民が入れん日を、数えるんですね」
「はい。村民優先と言うだけでは確認できません」
「受付の人に、理由も記録してもらう必要がありますな」
「満員、設備不良、清掃、体調、その他に分けます。個人名は記録しません」
「記録ばっかり増える」
源造が言う。
「記録せんかったら、約束を守ったか分かりません」
「昔は、風呂入るのに記録なんかいらんかった」
「昔は、東京の会社が宿泊客を連れてきませんでした」
「それもそうやな」
源造は十二項目の紙を裏返した。
「この条件、会社が途中で変えることあるんか」
「変える場合は、村と運営協議会の承認を必要とします。会社だけでは変えられません」
「村長が変わっても?」
「協定に入れます」
「田中さんが東京へ帰っても?」
その質問に、美月の指が止まった。
「はい。私がいなくても残る形にします」
源造は美月を見た。
「そこが一番大事や」
会議室の窓から、夕方の光が差していた。
学校の計画を始めた頃、美月は自分が何を提案するかばかり考えていた。
今は、自分がいなくなったあとに、誰が条件を変えられるのかを考えている。
人が替わっても、約束が残ること。
残った約束を、次の人が確認できること。
それが、成果を今後へつなげるという命令への、美月なりの答えだった。
*
その日の営業終了後、美月は川音の湯へ入った。
村民優先時間は終わり、ほかの利用者はいなかった。
服を脱ぎ、古い籠へ入れる。
棚には鍵がない。
浴室へ続く段差をまたぎ、濡れた床を慎重に歩いた。
内湯には入らず、露天風呂へ向かう。
湯へ足を入れると、思っていたより熱かった。
ゆっくり体を沈める。
石の縁へ背中を預けると、目の前に木の柵が見えた。
豪華な景色ではない。
遠くの山が一望できるわけでもなく、夜空が大きく開けているわけでもない。
古い柵。
濡れた石。
軒先から落ちる雫。
その向こうから、川の音だけが絶えず届いていた。
湯口から流れる湯へ手を伸ばす。
四十二・八度の源泉。
毎分百十リットル。
数字は資料の中で何度も見た。
けれど、指の間を通り抜ける湯には、温度と量だけでは表せない重さがあった。
四十年以上、同じ石の間から流れてきた。
村の人が仕事を終え、服を脱ぎ、同じ湯へ入った。
誰かが受付に座り、誰かが床を洗い、誰かが壊れた鍵をそのままにしてきた。
変えなければ危険になるものがある。
変えれば失われるものもある。
美月が目を閉じると、川の音が近くなった。
脱衣室の方から、扉の開く音がした。
「まだ入っとる?」
春江の声だった。
「入っています」
「一人やと聞いたから来た」
「営業時間は終わりましたよ」
「受付の人に聞いたら、田中さんおる間はええ言うた」
「そういう例外をなくそうとしているんですけど」
「改修前やから、今はええやろ」
春江が浴室へ入り、続いて文江も現れた。
「忘れ物でもしたんですか」
「田中さんが、風呂で仕事の顔しとるか見に来た」
「どんな顔ですか、それは」
「眉間にしわ寄せて、湯の量数えとる顔」
「数えていません」
「数えられへんやろ」
二人は笑いながら湯へ入った。
三人が露天風呂へ並ぶと、それだけで狭くなる。
春江の肩が美月の腕へ触れた。
「ほら、三人でいっぱいや」
「改修しても、浴槽はほぼ同じ大きさです」
「大きゅうせんでええ」
文江が言った。
「広なったら、向こうにおる人の話、聞こえへん」
「話したくない人もいると思います」
「ほな、黙っとったらええ」
「近すぎて、黙りにくいです」
「それも、この風呂や」
春江は湯口の近くに座り直した。
「学校の客、ほんまに六時半まで来んの?」
「原則として来ません」
「私らがおらんようになったら、変わるんやろか」
「簡単には変えられない協定にします」
「簡単やなかったら、変えられるんやな」
「未来のすべてを、今の人間だけで固定することはできません」
「正直やなあ」
「変わらないと約束する方が、無責任です」
文江が湯を両手ですくった。
「この湯も、ずっと同じやないで。雨のあとと、冬と、夏で、ちょっとずつ違う」
「温度ですか」
「匂いも違う気する」
「測定では、大きな変化は出ていません」
「数字には出んのやろ」
以前なら、美月は測定結果を優先していた。
今も、衛生管理や設備判断では数字が必要だと思っている。
けれど、文江が感じる違いを、測れないから存在しないとは言えなかった。
「記録項目に、利用者の気づきも入れます」
「また書くんか」
「湯の色、匂い、肌触りが普段と違う時は、受付へ伝えてください」
「風呂入るたび、感想文書かされそうや」
「異常を感じた時だけです」
「田中さんと風呂入ると、仕事になるな」
春江が笑った。
美月は湯の中で足を伸ばそうとした。
すぐに文江の足へ当たった。
「すみません」
「三人しか入れんからな」
「承知しています」
狭い浴槽だった。
大きくすれば、利用者を増やせる。
利用者が増えれば、料金収入も増える。
学校の宿泊客をまとめて案内し、専用時間を作れば、商品として売りやすい。
けれど、そのために、この距離を変える必要があるのか。
肩が触れる距離。
黙りにくい距離。
顔を知らないままではいられない距離。
それを不便と呼ぶ人もいる。
だから、すべての客に好かれる場所にはならない。
美月は木の柵の向こうへ耳を澄ませた。
川は見えなかった。
それでも、流れていることは分かった。
「田中さん」
春江が言った。
「はい」
「客に、ちゃんと書いといてな」
「何をですか」
「ここ、立派な風呂やないって」
美月は春江を見た。
「露天風呂があります。源泉かけ流しです」
「そういうことやない。狭いし、石段あるし、虫も入る。秋は葉っぱ浮く。湯が熱い日もある」
「悪いところまで書くんですか」
「来てから文句言われる方が嫌や」
それは、美月が住民へ繰り返してきた言葉と同じだった。
都合の悪いことを隠して客を呼ばない。
できないことを、できると言わない。
美月はうなずいた。
「書きます」
「川の音は、書かんでも聞こえる」
文江が言った。
「来る前には聞こえません」
「来てから聞いたらええ」
湯口から、新しい湯が流れ続けている。
浴槽からあふれた湯は、石の間を通り、排水口へ消えていく。
同じ湯をため続けるのではない。
流れ込むものと、出ていくものがあるから、浴槽の湯は保たれている。
美月は肩まで湯へ沈んだ。
改修後も、石は残る。
露天風呂も残る。
源泉も流れ続ける。
けれど、何も変えないわけではない。
配管を替え、床を直し、手すりを付ける。
料金を見直し、時間を分け、記録を残す。
変えないために、変えなければならないものがある。
三人分の湯気が、古い軒下へ上がっていった。




