第十九章 体育館に残る手
体育館の扉を開けると、冷えた空気が押し寄せてきた。
翌年六月。外は初夏だったが、建物の中には冬の名残がある。湿気を含んだ木の匂いと、古いワックスの匂いが混ざっていた。
美月は首元へ手を当てた。
「外より寒いですね」
「冬はもっと寒いですよ」
颯太が答えた。
「子どもの頃、朝礼の時は足の裏から冷えてきました。話の長い先生がおると、みんな順番に足踏みしとった」
「体育館で足踏みしたら、余計に怒られそうですけど」
「見つからん程度にやるんです」
颯太は土足禁止の札をまたぎ、古い上履きへ履き替えた。
美月も役場から借りた紺色のスリッパを履く。歩くたびに踵が浮き、乾いた音が響いた。
体育館の中央では、本庄と三浦が床板の状態を確認していた。
床には、バスケットボールとバレーボールの線が重なっている。赤、白、黄色。どの線も薄れ、場所によっては床板の色と見分けがつかない。
壁際には跳び箱と平均台が積まれていた。バスケットゴールの板は黄色く変色し、片方の網は途中で切れている。
舞台の上には、演台と古いピアノが残されていた。
暗幕の一部が外れ、折り畳まれた布が床へ垂れている。
「床は全面交換しなくても使えます」
本庄が膝をついたまま言った。
「腐朽が進んでいるのは北側の壁際と、雨漏りしている南西の角です。中央部分は補修と研磨で残せます。ただし、下地の確認は必要です」
「スポーツ利用は可能ですか」
「競技の水準によります。大会を開くような使い方は難しいですが、軽い運動や地域の集まりなら問題ありません。床を全部新しくするより、既存材を残して傷んだところだけ交換した方が費用も抑えられます」
三浦が図面を広げた。
「問題は、体育館を何のために残すかです」
美月は図面をのぞき込んだ。
体育館の改修費は、校舎本体とは別に四千八百万円と試算されている。
屋根の補修、耐震補強、電気設備の交換、非常灯、消防設備、床の修繕、出入口の段差解消。観客席も冷暖房もない建物にしては大きな金額だった。
「前回の住民会議では、軽いスポーツと体験教室、防災時の避難場所として使う案が出ました」
「三つとも成立させるなら、置くものを減らさないといけません」
三浦は図面の舞台脇を指した。
「体験教室用に固定の作業台を入れると、災害時の収容人数が減ります。木工用の機械を置けば、粉塵対策と防音、電気容量の追加も必要になる。スポーツ用品の収納場所も要ります」
「固定設備は置かないということでしょうか」
「それが一番扱いやすいと思います。ただし、毎回準備と片づけが発生します。誰がやるかまで決めておかないと、結局、役場か住民が無償でやることになります」
美月は体育館を見回した。
雨の日に子どもが走る場所。
住民が体を動かす場所。
藁細工や木工を教える場所。
災害の時には、避難した人が眠る場所。
一つの床へ、いくつもの役割が重ねられている。
役割が多いことは、価値が高いこととは限らない。誰にとっても便利な場所を目指せば、誰にも使いにくい場所になることがある。
「まず、避難所として必要な面積を決めましょう」
美月は言った。
「災害時の利用を最優先にして、残った条件の中で平時の用途を組みます」
「宿泊施設の付帯設備ではなく、防災施設を平時にも使うという整理ですね」
「はい。行政の補助金を使う以上、宿泊客だけが使う施設にはできません」
三浦はうなずいた。
「では、防災担当にも入ってもらいましょう。警報が出た時、何分で平時利用から避難所へ切り替えるのか。そこを基準にします」
颯太が舞台の下をのぞき込んでいた。
「この中、使えませんか」
「舞台下収納ですか」
「昔は折り畳み椅子を入れとったはずです。高さはないですけど、道具なら入るでしょう」
本庄が懐中電灯を向ける。
床下には埃をかぶった椅子と、壊れた卓球台が重ねられていた。
「湿気があります。床を上げて換気できるようにすれば、収納には使えます。ただ、藁はここへ入れない方がいい」
「火災の危険ですか」
「それもありますが、湿気を吸います。虫もつきます」
「藁は別の場所で保管して、使う分だけ持ち込む方がいいな」
颯太が言った。
「木材も同じです。体育館を倉庫にしたら、すぐ物で埋まります」
美月は図面へ書き込んだ。
固定設備なし。
可動式の机と椅子。
収納は舞台下と舞台袖。
藁と木材は必要量だけ搬入。
電動工具は使用しない。
災害時は即時中止。
書き終えたところで、森下が体育館へ入ってきた。
「大西さんたちが来ました」
森下の後ろから、源造と文江、春江、中井敏夫が姿を見せた。
源造は体育館へ入るなり、床の中央で立ち止まった。
「まだ残っとったか」
「何がですか」
美月が尋ねると、源造は足元を指した。
床板に、黒い焦げ跡のようなものが付いている。
「ストーブの跡や」
「体育館でストーブを使っていたんですか」
「地滑りのあと、ここで何日も過ごしたからな。寒かったんや。危ないからあかん言われても、火ぃなしでは眠れんかった」
本庄が跡の周囲を確認する。
「この部分も、表面を削れば薄くなります」
「消さんといてくれ」
源造が言った。
本庄の手が止まる。
「残すことはできます。ただ、仕上げの塗装をすると、色の見え方は変わります」
「見えんようになるほど削らんかったら、それでええ」
「焦げ跡を残す理由を、表示しますか」
美月が聞くと、源造は顔をしかめた。
「何でも札を立てんでええ。ここに来たもん全員に、地滑りの話を聞かせるつもりか」
「そういうつもりではありません」
「なら、そのままでええ。知っとる者は知っとる。知らん者は、床の傷やと思う。それで困ることはない」
美月は図面の端へ、小さく記した。
中央東側の焦げ跡は保存。説明板は付けない。
春江は薄くなった黄色の線を目で追っていた。
「ここで婦人会の運動会もやったなあ」
「婦人会で運動会ですか」
「パン食い競走とか、風船割りとか。若い頃やで。今は走ったら膝が壊れる」
「走らなくてもできる運動なら、また使いたいですか」
「座ってできるもんやったらな。雨の日に歩く場所がないから、ここをぐるぐる回るだけでもええ」
敏夫がバスケットゴールを見上げた。
「ゴールは残すんか」
「安全性に問題がなければ、片方は残せるそうです」
「片方だけ残してどうする」
「競技用には使わない想定です」
「ほんなら、なくてもええやろ」
「いや、あった方が学校らしい」
春江が言う。
「使わん物を、学校らしいいうだけで残すんか」
「何でも効率で取ったら、体育館やなくなる」
二人の間で、また意見が分かれた。
美月は三浦を見た。
「補強して残す場合と、撤去する場合の費用差は?」
「補強して安全基準を満たすなら、二基で百八十万円前後です。片方だけでも百万円近くかかります。撤去なら二十万円ほどです」
「百八十万……」
春江の声が小さくなった。
体育館に残る景色としては大きい。しかし、実際に競技へ使わない設備へ百八十万円をかける理由は弱かった。
敏夫が言った。
「写真に残しといたらええ。子どもがおった頃の体育館を、今の体育館に全部持ち込む必要はない」
「そうやけどなあ」
春江はまだゴールを見上げている。
颯太が壁際から口を挟んだ。
「板だけ残したらどうです」
「板?」
「ゴールの金具は外して、背板を舞台袖の壁に掛ける。競技設備としては使わんけど、捨てずには済みます」
三浦が寸法を確認した。
「金具をすべて外して、落下防止をすれば可能です。二枚とも残す必要はないでしょうけど」
「一枚でええ」
春江はようやくうなずいた。
「もう一枚は、欲しい人がおったら譲ったらええ」
「譲渡前に、学校の備品台帳を確認します」
森下が答えた。
「役場の物を勝手に持って帰ったら、あとで怒られますから」
「十年放っといた物でもか」
「十年放ってあってもです」
春江が笑った。
声が高い天井へ上がり、少し遅れて戻ってきた。
*
体育館の利用について話し合う会は、その日の午後、役場の会議室で開かれた。
机の上には、美月が作った大きな週間予定表が置かれている。
月曜日から日曜日までを横に並べ、朝、昼、夕方、夜の四つに分けてあった。
「体育館の使い方を決める前に、優先順位を確認します」
美月は出席者を見回した。
村側から山根村長、藤井、森下。住民から源造、文江、春江、敏夫。佐藤林業から颯太。会社側から三浦が参加している。
「第一は災害時の避難所利用です。警報や避難情報が出た場合、予約はすべて中止します。宿泊客向けの体験教室を開いている最中でも同じです」
「客から苦情が出んか」
源造が尋ねた。
「出る可能性はあります。そのため、予約時の利用規約に明記し、中止の場合は料金を全額返金します」
「台風が来そうな時は、最初から受けん方がええんやないか」
「気象情報に基づく中止基準も決めます。大雨警報の可能性が高い時、避難準備が必要な時、村道の通行に危険がある時は、前日でも中止します」
「誰が決めるんです?」
藤井が聞いた。
「防災担当と施設責任者です。会社だけでは決めません。判断者が不在にならないよう、代理者も二人置きます」
美月は予定表の上に、赤い紙を置いた。
『防災利用はすべてに優先する』
次に青い紙を置く。
『住民の日常利用』
緑の紙。
『予約制の体験教室』
黄色の紙。
『宿泊者・来訪者の軽運動』
「住民利用と宿泊者利用が重なった場合は、どうします?」
春江が尋ねた。
「住民がいつでも自由に使える形にすると、施設側が安全管理できません。一方で、宿泊客だけの施設にすると、公費を入れる理由がなくなります。そこで、時間帯を分けます」
美月は週間予定表へ札を置いた。
火曜日と木曜日の午前は、村民の健康利用。
水曜日の午後は、村内団体の予約枠。
金曜から日曜のうち、宿泊営業を行う週だけ体験教室と宿泊者利用。
月曜日は点検と清掃。
空いている時間は、事前予約があれば村民も来訪者も利用できる。
「村民の健康利用は無料にしますか」
山根村長が聞いた。
藤井が答えた。
「無料にすると、保険と清掃費をどこから出すかという話になります」
「今までの公民館と同じ扱いではあかんのか」
敏夫が言う。
「体育館は宿泊事業と一体で管理します。鍵の開閉や床の点検も必要ですから、同じにはできません」
会議室が静かになった。
使うたびに金がかかると言われれば、住民にとっては自分たちの学校を取り上げられたように聞こえる。
かといって、すべて無料にすれば、運営費は会社か役場が負担し続けることになる。
「健康利用は、一回百円ではどうでしょう」
美月が言った。
「月に何度も使う方には、月額五百円。料金は清掃用品と保険料の一部に充てます。ただし、健康教室を開く場合の講師料は別の予算です」
「百円取るために、人を一人置く方が高うつくやろ」
源造が言った。
「現金をその場で集める方法は取りません。村民利用登録をして、月末にまとめるか、回数券にします」
「回数券を作る金もかかる」
「役場にある印刷機で作れば、大きな費用にはなりません」
「そういう細かい仕事が、結局、森下さんに来るんや」
源造の指摘に、森下が苦笑した。
「たぶん、最初は私のところへ来ます」
「役場の仕事にしない方法を考えます」
美月は予定表の横へ書き込んだ。
「施設の受付業務として扱い、宿泊施設の運営担当者が管理します。村民利用料はそのまま施設会計へ入れます。役場は減免対象者の基準だけ決める」
「減免対象とは?」
「生活上の事情で負担が難しい方や、健康支援として参加する方です。年齢だけで無料にはしません」
春江が口を尖らせた。
「年寄りを大事にする言うたのに、年寄りから金を取るんか」
「年齢だけを理由に無料にすると、若い人ほど負担が大きくなります。百円を払えない方を締め出したいわけではありません。でも、年を取っているから全員無料という形にもしたくありません」
「面倒な言い方やな」
「面倒なことを決めないまま始めると、あとでもっと揉めます」
美月が答えると、源造が鼻を鳴らした。
「そこは、前より村の人間みたいになったな」
「どういう意味ですか」
「始める前から揉める心配をするところや」
褒められたのかどうか、美月には分からなかった。
*
話し合いが体験教室へ移ると、文江が持ってきた風呂敷を開いた。
中から、藁で作られた小さな鍋敷きと、亀の形をした飾りが現れた。
「こんなんで金を取るんか」
文江は鍋敷きを美月の前へ置いた。
「商品を売るのではなく、作り方を教えていただく時間に料金を払います」
「作り方いうても、見て真似するだけや」
「その見て真似することが、村の外の人には難しいんです」
「こんなん、昔は誰でもできた」
「今はできない人が多いです」
「できんことを教えて、金もらうんか」
「はい」
美月が答えると、文江は困ったように笑った。
「変な商売やなあ」
「文江さんが作業する時間、教える時間、準備する時間に対する報酬です。材料費とは分けます」
「私は先生やないで」
「先生と名乗る必要はありません。体験教室では、案内役と呼びます」
「名前を変えても一緒や」
文江は鍋敷きの縁を指でなぞった。
「金もろうたら、ちゃんと教えなあかんやろ。私、日によって手が痛い時あるで」
「その日は中止にできます」
「客が来る言うてるのに?」
「中止にします。代わりの方がいなければ、別の体験へ変更するか、返金します」
「それでええの?」
「無理をして続けてもらう前提では組めません」
「でも、一回断ったら、次から頼まれへんかもしれん」
文江の声が小さくなった。
美月はすぐに答えられなかった。
会社の仕事なら、体調不良で一度休んだからといって、原則としてすべての業務から外されることはない。しかし、小さな村の体験教室では、一人の都合がそのまま事業の中止につながる。
「一回休んだことを理由に、登録を外すことはしません」
美月は続けた。
「休みやすくするため、案内役は一つの教室につき二人以上登録します。ただし、二人とも無理なら中止です。体調を隠して来てもらうことは望みません」
「登録いうても、ほかに誰がおる」
文江が周囲を見る。
春江は目をそらした。
「私は藁はあかん。昔から編むと左へ曲がる」
「曲がってもええやろ」
「金取って曲がったもん教えられん」
「そもそも鍋敷きは丸いんやから、左も右もない」
「そういう話やない」
二人のやり取りに、山根村長が笑った。
文江は風呂敷から藁を数本取り出した。
「田中さん、やってみるか」
「今ですか」
「教えるのにどれくらいかかるか、知りたいんやろ」
会議室の机の上に新聞紙が広げられた。
文江は藁を三本そろえ、指先で捻った。乾いた藁がこすれ、かすかな音を立てる。
「ここ持って、親指で押さえる。押さえたまま、こっちを回す」
美月も同じように持った。
藁を回した途端、三本のうち一本が抜けた。
「力入れすぎ」
文江が言う。
やり直す。
今度は緩すぎて、形が崩れた。
「もうちょっと締める」
「さっき、力を入れすぎと言いましたよね」
「入れるとこと、抜くとこがあるんや」
「どこで変えるんですか」
「藁を見たら分かる」
「分かりません」
「ほな、触ったら分かる」
「触っても分かりません」
文江は声を上げて笑った。
「田中さんにも、分からんことあるんやな」
「たくさんあります」
「数字のことばっかり知っとるから、何でもできるんかと思ってた」
美月の手の中で、藁がばらばらになった。
文江は自分の分を持ち上げた。
同じ時間しかたっていないのに、三本の藁は均一な縄になっている。
「もう一回や」
文江の手は細く、指の関節が大きかった。
爪の端には、土がわずかに残っている。
動きは速くない。けれど、止まる場所が一度もなかった。
美月はその指を見ながら、同じように藁を捻った。
今度は形になりかけた。
少し喜んだ瞬間、先端からほどけた。
「今、気ぃ抜いたやろ」
「抜いていません」
「抜いた。できたと思った顔したもん」
「顔は関係ないでしょう」
「手仕事は、できたと思うた時が一番危ない」
颯太が会議室の隅で笑っていた。
「何ですか」
「いや。田中さんにも合いそうな仕事やと思って」
「全くできていませんけど」
「だからですよ。できたと思った時が一番危ない」
美月はほどけた藁を机へ置いた。
「教室の時間は、九十分で考えていました」
「長いな」
文江が即座に言った。
「一時間でええ。九十分もしゃべりながらやったら、喉渇くし、腰も痛なる」
「休憩を入れてもですか」
「客が六人おったら、一人ずつ見て回るだけで疲れる。最初は四人までや」
「収支が合いにくくなります」
「ほんなら、やらん」
文江の返事に迷いはなかった。
美月は計算表を開いた。
一回の定員を六人、参加料を三千五百円とすれば、売上は二万一千円。
材料費が一人六百円。案内役二人へ、それぞれ六千円。会場準備と清掃に三千円。決済手数料や保険料を加えれば、利益はほとんど残らない。
四人なら、売上は一万四千円になる。
同じ条件では赤字だった。
「参加料を四千円に上げます」
美月は言った。
「四人で一万六千円。材料費二千四百円。案内役は、主担当八千円、補助担当五千円。施設側の準備費を加えると、それでも不足します」
「ほな、私らの金を減らしたらええ」
文江が言った。
「減らしません」
「赤字になるんやろ」
「教室単体では、利益はほとんど出ません。ただ、宿泊する理由の一つになります。体験教室だけで判断せず、宿泊と合わせて評価します」
「会社が許すんか」
「利益が出ないことを隠して許可を取るつもりはありません」
美月は計算表へ数字を入れ直した。
「一回四人、参加料四千五百円。案内役二人へ合計一万三千円。材料費と準備費を引けば、収支はほぼゼロです。宿泊者以外も参加できるようにします」
「四千五百円も払う人、おるんか」
春江が聞いた。
「いるかどうかを、開業前に試します。いなければ回数を減らします。安くして案内役の報酬を削ることはしません」
文江は自分の手を見た。
「私の手に、八千円も払うんか」
「手だけではありません。藁を選び、湿らせ、人数分に分け、失敗した人を手伝い、最後に片づけるところまで含めてです」
「材料の藁は、うちの田んぼのやで」
「材料費も別に払います」
「同じ私に二回払うんか」
「役割が二つあるなら、二つに払います。材料の売買と、教える仕事は別です」
文江はしばらく黙っていた。
「今まで、こんなんで金もろうたことない」
「今まで受け取っていなかったことと、価値がないことは同じではありません」
文江は藁の端をそろえ、風呂敷へ戻した。
「一回だけ、試してみる」
「案内役としてですか」
「まだ決めてへん。田中さんらに教えるだけや。客に教えられるかは、そのあとや」
「分かりました。試行の分もお支払いします」
「今日のこれもか」
「今日は会議への出席謝金に含まれています」
「抜け目ないなあ」
「あとで聞いていないと言われたくありませんから」
「やっぱり村の人間みたいや」
源造がまた言った。
*
木工教室については、源造が候補に挙がった。
「俺は大工やない」
源造は最初から断った。
「山仕事の道具は使うが、客に教えるようなもんはない」
「昔、学校の鳥小屋を直したん、大西さんやろ」
颯太が言った。
「あれは板を打っただけや」
「舞台袖の棚も作ったでしょう」
「必要やったから作っただけや」
「それをできない人が増えています」
美月が言うと、源造は眉を寄せた。
「板へ釘打つだけで金取るんか」
「釘を打つ前に、材料を切って、角を落として、安全に使える形へ整える必要があります」
「それは颯太がやったらええ」
「俺は材料の準備と安全確認ならやります」
颯太が答えた。
「でも、教えるのは源造さんの方が向いとる」
「若いもんがやれ」
「俺が教えたら、佐藤林業の木工教室になる。村のじいさんが教える意味がなくなるでしょう」
「じいさん言うな」
「ほな、大西さん」
「名前に変えたらええいう話やない」
颯太は笑わなかった。
「源造さん。これは、昔の暮らしを見せ物にする話やないです。山の木が、伐られて、運ばれて、板になって、人の手で使う物になる。その最後のところを、村の人が教えるんです」
「お前が教えたらええやろ」
「俺は山から板にするところを話せます。でも、手の遅い人を待つのが苦手です」
美月は颯太を見た。
「自覚はあるんですね」
「田中さんに言われたくないです」
源造が二人を交互に見た。
「何を作らせるつもりや」
「最初は、杉板を使った小さな写真立てか、箸置きを考えています」
美月が資料を見せる。
「鋸や電動工具は参加者に使わせません。材料は事前に切断し、穴も必要なところまで開けておきます。使うのは紙やすり、木槌、接着剤、小さな手回しの道具までです」
「それでは木工やない。組み立てや」
「安全を優先します」
「失敗せんように、全部準備して渡すんか」
「刃物でけがをさせるよりはいいと思います」
「失敗せん木工なんか、おもろないやろ」
源造は資料の写真立てを指で叩いた。
「板の向きを間違えたら反る。釘を端へ打ったら割れる。木目見んと磨いたら、ささくれが立つ。そこを分からせんと、ただ持って帰る土産や」
「では、どこまでなら安全に経験できますか」
「先に木を触らせる。重さを比べる。杉と桧と、乾いとる板と湿っとる板。木目を見て、どっちから磨くか決めさせる。釘は使わんでもええ。木栓で留めたらええ」
話し始めると、源造の言葉は止まらなかった。
「接着剤も、つけすぎたら汚なる。少なすぎたら外れる。見本どおりにせんでも、板を選ばせたら同じもんにはならん」
「時間は、どのくらい必要ですか」
「二時間」
「長くありませんか」
「短くするなら、最初から完成品を売れ」
「参加者は五人までで考えています」
「五人も見られん。三人や」
「三人では収支が合いません」
「ほな、俺は教えん」
文江が声を立てて笑った。
「さっきの私と一緒や」
「一緒にするな」
「田中さん、また値段上げるんか」
「上げます」
美月は計算を始めた。
木材の材料費は、一人あたり千二百円。
佐藤林業による切断、面取り、道具の準備と安全確認が、一回一万二千円。
案内役一人の報酬が一万円。
施設準備と清掃、保険料を加えれば、三人の参加では一人あたり九千円近く必要になる。
「九千円は高すぎるな」
颯太が言った。
「材料の準備費を下げられませんか」
「最初から三人分だけ作るなら、八千円までは下げられます。でも、余分も要ります。板が割れることもあるし、客が選べるようにするなら、三人分だけでは足りない」
「選べる板を次回にも使えるように保管するなら?」
「初回はかかります。二回目以降なら、一人千五百円程度まで下げられる」
「初期の道具と予備材料は、体験プログラム開発費へ入れます」
「補助金を使うんですか」
藤井が聞いた。
「初期整備費に使えるか、県へ確認します。ただし、消耗品や案内役の報酬を補助金で払い続けることはできません。開業後は参加料で賄います」
「参加料はいくらになる」
源造が聞いた。
「一人六千五百円。三人で一万九千五百円。二時間の教室としては、利益が出ません」
「また利益出んのか」
「案内役の報酬を削れば出ます」
「削るんか」
「削りません」
源造が美月を見た。
「会社の人間が、利益出んことばっかり考えてどうする」
「利益が出ない教室を無制限に続けるつもりはありません。月二回まで。宿泊予約への効果、参加人数、満足度、案内役の負担を三か月ごとに確認します。意味がなければ回数を減らすか、内容を変えます」
「やめることもあるんか」
「あります」
「せっかく覚えても、客が来んかったら終わりか」
「案内役に、一生続く仕事だとは説明しません。続けるために改善はしますが、約束できないことは約束しません」
源造は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「客が一人しか集まらん時は?」
「開催日の七日前までに三人集まらなければ中止にします。案内役には、中止連絡が遅れた場合の補償を払います」
「どれくらい」
「七日前よりあとに施設側の都合で中止した場合は、報酬の半額。前日以降なら全額です。ただし、案内役本人の体調による中止は補償の対象にしません」
「それやったら、病気になったら損やな」
春江が言った。
「働けなかった分の報酬まで保証する制度は、今の規模では作れません。ただし、休んだことへの違約金はありません。材料を本人へ買い取らせることもありません」
「そら当たり前やろ」
「当たり前のことを、契約書に書きます」
美月は源造の前へ、案内役登録票の見本を置いた。
業務内容。
報酬額。
交通手段。
開催中止の条件。
事故が起きた時の連絡先。
撮影の可否。
氏名や顔写真を広報に使ってよいか。
自分で判断して休めること。
源造は一枚目からゆっくり読んだ。
「顔写真は嫌や」
「不同意に印を付けてください」
「名前も出さんでええ」
「教室の紹介には、『村の木工案内役』とだけ表示します」
「客は、誰に教わるか分からんのか」
「予約時には分かりません。当日、本人が名乗りたい範囲で名乗ってください」
「変な仕組みやな」
「案内役を観光の看板にするための仕組みではありませんから」
源造は登録票を机へ戻した。
「一回、試すだけや」
「試行の結果を見て決めてください」
「田中さんも作るんやろな」
「私もですか」
「客にさせる前に、自分でやるんやろ」
美月は前に置かれた藁を見た。
文江がにやにやしている。
「はい」
「木は藁みたいに、ほどけてもやり直せんぞ」
「その言い方だと、失敗する前提に聞こえます」
「失敗する前提や」
*
試行教室は、二週間後の日曜日に開かれた。
体育館はまだ改修前のため、会場には診療所裏の集会室を使った。
午前は藁細工、午後は木工。
客役として参加したのは、美月、森下、結菜、県庁の高瀬だった。
高瀬は補助制度上の事業区分を確認するために村を訪れていたが、文江の試行教室へ誘われると、予定を一時間延ばした。
「県の人まで来るんか」
文江は落ち着かない様子で、何度も藁の束をそろえ直した。
「今日は監査ではありません」
高瀬が言った。
「参加者です。私も不器用なので、難易度を確認するには向いていると思います」
「不器用な人ばっかり集めたんか」
「意図したわけではありません」
美月が答えると、結菜が藁を一本持ち上げた。
「これ、そのまま使うんですか」
「先に湿らせる」
文江は霧吹きで藁へ水をかけた。
「乾いたまま曲げたら折れる。濡らしすぎても柔らかくなりすぎるから、少し置く」
「何分ですか」
美月が聞く。
「触ってちょうどになるまで」
「参加者へ説明する時は、目安があった方が分かりやすいです」
「今日は湿気あるから、十分くらいや。晴れた日は、もうちょっと」
美月は記録用紙へ書き込んだ。
天候によって準備時間が変わる。
藁の状態は、案内役が判断する。
参加者へ一律の手順書を渡すだけでは再現できない。
「最初に、完成したものを見せた方がいいと思います」
森下が言った。
「何を作るのか分からないまま始めると、不安なので」
「見本と違うてもええんやで」
文江が鍋敷きを置く。
「同じ藁でも、太さが違う。作る人の力も違う。きれいな丸にならんでも、使えたらええ」
美月は前回より慎重に藁を捻った。
しかし、文江が結菜を手伝っている間に力が緩み、縄がまたほどけた。
「田中さん、またできたと思ったやろ」
文江が離れた場所から言った。
「思っていません」
「思った顔しとった」
「顔で判断しないでください」
結菜が笑い、結菜の手元も緩んだ。
「あ、ほどけた」
「笑うからや」
文江は二人の間へ座った。
「ここは速うせんでええ。ゆっくりでも、同じ力で回す。止まる時は、ここを膝で押さえる」
文江が美月の手の上へ、自分の指を重ねた。
節の大きい指は、見た目より温かかった。
「ほら。ここで藁が嫌がっとる」
「嫌がっているようには見えません」
「硬いやろ。そこを無理に曲げたら折れる。ちょっと戻して、柔らかい方を使う」
美月は指先へ意識を集中した。
目で見ても分からない違いが、触れるとわずかに感じられた。
一本だけ、ほかより硬い。
その部分を避け、ゆっくり捻る。
今度は縄がほどけなかった。
「できていますか」
「まだや」
「どこまで行けば、できたことになりますか」
「最後まで」
「分かっています」
一時間後、四人の前には形の違う鍋敷きが並んだ。
文江の見本は整った円だった。
森下のものは少し楕円になり、高瀬のものは中央が膨らんでいる。結菜は小さな輪を二つ重ね、眼鏡のような形にした。
美月の鍋敷きは、右側だけ厚かった。
「直した方がいいでしょうか」
「そのままでええ」
文江が答えた。
「使うたら鍋で隠れる」
「商品なら売れませんよね」
「商品やない。自分で使うもんや」
「参加者が完成度を求めた場合は?」
「ほんなら、私が直す。でも、直しすぎたら誰が作ったか分からんようになる」
高瀬が鍋敷きを持ち上げた。
「そこは、この教室の価値になると思います。完成品を買うのではなく、自分で作った形を持ち帰る」
「県の書類にも、そう書けますか」
美月が聞いた。
「書けます。ただし、文化継承という言葉だけで申請すると弱いです。案内役への所得、来訪者の滞在時間、住民参加、宿泊との連携まで示してください」
「保存するだけでは足りないということですね」
「はい。保存するなら、誰が、どの負担で続けるかが必要です」
文江は話を聞きながら、残った藁を束ねていた。
開始前には一時間で十分だと言っていたが、片づけまで終わった時には一時間二十五分が経過していた。
「文江さん、疲れはどうですか」
美月が尋ねる。
「腰は大丈夫。喉渇いた」
「休憩を入れますか」
「途中で止めたら、手順忘れる人がおる。終わってから茶ぁ出したらええ」
「四人なら、見られますか」
「今日の四人ならな」
「もっと手がかかる人もいます」
「ほな、補助の人が一人要る」
「春江さんに頼めそうですか」
「あの人は左へ曲げるからなあ」
集会室の外から声がした。
「聞こえとるで」
春江が湯飲みを載せた盆を持って入ってきた。
「藁は曲がっても、お茶は真っすぐ運べる」
文江の前へ湯飲みを置く。
「補助なら、できるかもしれん。ほどけた時に押さえるくらいやったら」
「では、次回は春江さんにも正式に試行へ参加してもらいます」
美月が言う。
「報酬も出るんやろな」
「出ます」
「文江さんより少ない?」
「役割が違うので、金額も違います」
「最初から少ない言うたら、やる気なくすで」
「役割を増やせば、主担当と同じ金額にできます。ただし、事前準備と進行も担当していただきます」
「それは文江さんに任せる」
「では、補助担当の金額です」
春江は湯飲みを配りながら言った。
「仕方ないな。左へ曲げる分、安いんやと思っとく」
「技術の差ではなく、仕事の範囲の差です」
「田中さん、冗談に説明つけたら、冗談でなくなるで」
美月は返事をせず、自分の鍋敷きの写真を撮った。
右側だけ厚い円は、画面の中でも右側だけ厚かった。
*
午後の木工試行では、源造が三種類の板を机へ並べた。
杉、桧、欅。
「今日は杉を使う。でも、その前に持ってみい」
美月は順番に板を持った。
同じ大きさでも、重さが違う。
杉は軽く、欅はずっしりとしている。桧は鼻へ近づける前から香りがした。
「木の名前を当てさせるんですか」
「当てんでええ。違いがあることを知ったらええ」
源造は杉板を裏返した。
「こっちと、こっち。どっちが表やと思う」
美月には違いが分からなかった。
「こちらでしょうか」
「何でや」
「色が均一だからです」
「外れ」
「では、こちらです」
「理由を言え」
「消去法です」
「そんなん、木に通じるか」
「木に通じるとは思っていません」
源造は板の断面を指した。
「年輪見い。木の外側と内側で、乾いた時の動きが違う。何作るかで、どっち向けるか決める」
「写真立てなら?」
「反っても倒れん向きにする」
「最初から反る前提ですか」
「木は動く。動かんように見えるだけや」
颯太が、参加者ごとに切り分けた杉板を運んできた。
角は落としてあり、手で触れてもささくれはない。
「刃物は、案内役と補助担当だけが扱います」
颯太が説明した。
「参加者が使うのは紙やすり、木槌、木栓、接着剤です。作業前に指輪と腕時計を外してください。髪の長い人は結ぶ。作業中、机の上に飲み物は置かない」
「子どもも同じですか」
森下が尋ねた。
「子どもは小学四年生以上。保護者同伴です。木槌を使う時は一人ずつ見ます」
「三人に一人の案内役で足りますか」
「源造さん一人では無理です。俺か、研修を受けた補助担当が必要です」
源造が木槌を持った。
「颯太は口出さんでええ。危ない時だけ止めろ」
「それが補助です」
「先に答えを言うなよ」
「言いません」
源造は三本の木栓を、美月たちの前へ置いた。
「この穴へ入れる。力任せに打ったら、板が割れる。音を聞け」
「音ですか」
「入っとる時と、止まった時で音が変わる」
美月は木栓を穴へ立て、木槌を振った。
一度目は軽い音がした。
二度目は少し高くなる。
三度目で、木栓の頭が板とほぼ同じ高さになった。
「もう一回ですか」
「自分で決めろ」
「判断基準を教えてください」
「音を聞け言うたやろ」
「初めて聞く音を、一度で判断するのは難しいです」
「ほな、打ってみい」
美月がもう一度打つ。
乾いた硬い音が鳴った。
「今ので終わりや。次に打ったら、たぶん割れる」
「今の一回は必要だったんですか」
「必要や。止まった音を知らんかったら、次も分からん」
美月は源造の言葉を記録しようとした。
「書いとる間に、接着剤乾くぞ」
慌ててスマートフォンを置く。
隣では、結菜が板の表面を磨いていた。
「この傷、消えないです」
「消さんでええ」
源造が言う。
「でも、きれいにならない」
「傷を全部消そうとしたら、板が薄うなる。手に引っかからんかったら、それでええ」
「売ってるものは、もっときれいです」
「売っとるもんと同じにしたいなら、店で買え」
結菜は傷の残った板を見つめた。
しばらくして、紙やすりを置いた。
「このままにします」
「何でや」
「これ以上やったら、角が丸くなりすぎるから」
源造はうなずいた。
褒める言葉はなかったが、結菜の表情が少し明るくなった。
二時間後、四つの写真立てが完成した。
美月のものは、木栓の一本がわずかに沈みすぎていた。
結菜の板には傷が残り、森下の台座は少し右へ傾いている。高瀬のものは最も整っていたが、接着剤が端から薄くはみ出していた。
「全員、完成扱いですか」
美月が聞いた。
「立ったら完成や」
源造が答えた。
写真立てを机へ並べる。
四つとも倒れなかった。
「源造さん、疲れは?」
「疲れてへん」
颯太が言った。
「途中で二回、腰押さえとったでしょう」
「立ちっぱなしやったからや」
「体育館には、高さを変えられる椅子を置きます」
美月が記録する。
「案内役も座って教えられる配置にします。参加者と同じ机を囲む形で」
「教える方だけ別の椅子やったら、年寄り扱いされとるみたいや」
「全員の椅子を高さ調整できるものにします」
「高いやろ」
三浦が試算表を開く。
「八脚で二十四万円ほどです」
「椅子に二十四万」
源造が呆れたように言う。
「腰を痛めて教室を続けられなくなるより安いです」
美月が答えた。
「可動式の机は六台。車輪にロックがあり、一人でも移動できる重さにします。災害時は壁際へ寄せ、二十分以内に床を空けられることを条件にします」
「誰が二十分で片づける」
「施設スタッフ二人です。案内役には避難所への切り替え作業をさせません」
「俺らも片づけたら早いやろ」
「警報が出ている時に、高齢の案内役へ机を運ばせる計画は作れません」
「年寄り扱いするな言うたやろ」
「安全上の役割分担です。日常の教室では、できる範囲の片づけをお願いします。でも、災害時は帰宅するか、そのまま避難者として残ってください」
「客を置いて帰るんか」
「客の誘導は施設スタッフの仕事です」
源造は不満そうだった。
しかし、颯太が横から言った。
「源造さんが客を逃がす係になったら、自分が最後まで残るでしょう」
「当たり前や」
「だから任せられんのです」
源造は言い返そうとして、やめた。
自分でも否定できなかったのだろう。
*
試行結果を本社へ報告すると、翌日のオンライン会議で黒田から質問が出た。
『体験教室の収益性が低すぎないか』
画面の向こうには、小田切と会社の財務担当者も座っている。
美月は藁細工と木工、それぞれの収支表を共有した。
「単体では、ほぼ収支均衡です。案内役の報酬を確保すると、利益は残りません」
『それを会社事業として実施する理由は?』
「宿泊の目的を作るためです。三室しかない施設では、客室数を増やして売上を伸ばす方法が使えません。滞在理由と再訪理由を増やす必要があります」
『体験が宿泊予約へ結びつく根拠はあるのか』
「現時点では仮説です。開業前の試行募集を三回行い、体験のみの申込者と宿泊希望者を分けて測定します。開業後九十日間は、予約経路、参加率、追加滞在時間、関連消費額を記録します」
財務担当者が言った。
『案内役の報酬を固定する必要はありますか。参加人数に応じた歩合の方が、損失を抑えられます』
「固定にします」
『理由は?』
「集客は施設側の責任だからです。案内役は、決められた日時に来て、準備し、参加者へ教えます。申込人数が少ない責任まで案内役へ負わせるべきではありません」
『一人でも開催するのか』
「最低催行人数を設定します。期限までに集まらなければ中止します。期限後に施設都合で中止した場合は、案内役へ補償します」
『地方の小規模事業で、そこまで契約を細かくする必要があるのか』
美月は少し間を置いた。
「小規模だから必要です。曖昧な善意で始めると、負担が同じ人へ集まります。最初は少しだからと無償で頼み、回数が増えても条件を変えられず、疲れた人から辞めていく。それでは継続できません」
黒田が資料をめくった。
『木工教室の補助担当は、佐藤林業か』
「はい。材料供給、事前加工、工具の安全確認を業務委託します。案内役の源造さんとは別契約です」
『一つの教室へ支払先が二つになる』
「仕事が二つあるからです」
『管理が増えるぞ』
「管理の手間を減らすために仕事の違いを曖昧にすると、あとで責任範囲が分からなくなります」
小田切が口を開いた。
『田中さん。体育館の体験教室は、会社にとって大きな利益にはならない。それは理解しているね』
「はい」
『社会貢献だけを理由に、赤字を残すわけにもいかない』
「理解しています。教室単体の営業利益ではなく、宿泊単価、稼働率、再訪率への効果を含めて評価します。ただし、効果が確認できなければ、内容か回数を変更します」
『中止も含む?』
「含みます」
『住民から反発が出るだろう』
「出ると思います。だから、開始前に見直し条件を共有します。続けること自体を成果にはしません」
画面の向こうで、小田切が黒田を見た。
黒田は腕を組んだまま言った。
『三か月ごとの評価項目を出せ。売上だけではなく、案内役の負担、事故、住民利用との衝突、防災切り替えの実績も入れること』
「理解しました」
『それから、広報で「村のおじいちゃん、おばあちゃんが教える」という書き方は禁止だ』
美月は顔を上げた。
「私も、その表現は使わないつもりでした」
『年齢と親しみやすさを売りにすれば、集客はしやすい。だが、本人の技術ではなく人物像を消費する形になる。会社としても危険だ』
「案内役の氏名や顔写真は、本人の同意がある場合だけ使います。体験内容を中心に紹介します」
『よし。試行予算は承認する。本運用は、結果を見て改めて判断する』
会議が終わる直前、黒田が言った。
『田中』
「はい」
『藁細工は、できたのか』
美月は机の端に置いた鍋敷きを見た。
「鍋を載せれば、形の悪いところは見えません」
『そうか』
黒田の口元がわずかに動いた。
『現地報告の添付写真で見た。右側だけ厚かった』
「見えないように撮ったつもりでした」
『見えていた』
通話が切れた。
*
体育館を避難所へ切り替える訓練は、改修計画を確定する前に行われた。
役場の倉庫から借りた机と椅子を、体育館の体験教室予定区画へ並べる。
舞台袖には、藁細工用の材料箱と、木工用の道具箱を置いた。
スポーツ用品として、卓球台一台、バドミントンの支柱、ボッチャの球、体操用のマットも仮置きした。
「これを二十分で片づけます」
森下がストップウォッチを持つ。
作業するのは、施設スタッフ役の藤井と颯太、会社側の美月と三浦。源造たちは見守る側に回った。
「始めます」
合図と同時に、四人が動いた。
折り畳み机を壁際へ運ぶ。
椅子を重ねる。
材料箱を舞台袖へ戻す。
卓球台を畳もうとしたところで、車輪の一つが動かなくなった。
「止めます」
三浦が言った。
「無理に押すと、床を傷つけます」
颯太が卓球台を持ち上げようとした。
「一人で上げないでください」
美月が止める。
「時間がないでしょう」
「けがをしたら、訓練の意味がありません」
二人で持ち上げ、台車へ載せる。
今度は、舞台袖の入口で木工用の材料箱とぶつかった。
通路が狭い。
「藁と木材を舞台袖へ置く案は無理ですね」
三浦が言った。
「災害備蓄の搬入経路と重なります」
結局、床を空けるまでに二十七分四十一秒かかった。
「不合格ですね」
美月が言う。
源造が壁際から声を上げた。
「そもそも置きすぎや」
「そのとおりです」
美月は配置図を床へ広げた。
「卓球台は常設しません。使う日のみ、校舎側の倉庫から運びます。体験教室の材料は体育館へ保管せず、管理棟の専用庫へ移します」
「毎回運ぶんか」
文江が聞く。
「施設スタッフが運びます。案内役には、必要量の確認だけお願いします」
「藁は私が見んと、どれ持っていくか分からんで」
「開催前日に確認していただけますか」
「前の日も来るんやったら、その時間も仕事やろ」
「はい。準備時間として報酬へ入れます」
文江は満足そうにうなずいた。
颯太が配置図の一角を指した。
「可動机は六台もいらんでしょう。体験教室は四人か三人までなら、四台で足ります」
「予備を含めて五台にします」
「椅子は?」
「案内役と補助担当を含めて八脚。壁際の見学者用は、避難所用の折り畳み椅子を使います」
「スポーツ用品も増やさん方がええ」
敏夫が言う。
「バドミントンと卓球とボッチャ、全部置いても、使う人おらんかもしれん」
「最初はボッチャと体操用具、バドミントン一式だけにします。卓球台は寄贈の申し出がありますが、受け取る前に保管場所を確認します」
「寄贈いうのが、一番危ないんや」
源造が言った。
「ただで物もろうたら、捨てられんようになる」
美月はその言葉も利用規則へ加えた。
備品の寄贈は、管理者の事前承認が必要。
保管場所、維持費、廃棄条件を確認する。
寄贈者の希望だけで常設しない。
二回目の訓練では、床を空けるまでに十六分二十二秒だった。
三回目は十四分五十八秒。
机を動かす順番と、収納先を床へ表示すれば、さらに短くできた。
「これなら、二十分以内に切り替えられます」
森下が言った。
「でも、実際の災害では、人も荷物もあります。訓練どおりにはいきません」
「だから、目標を十五分にします」
美月は言葉を選んだ。
「訓練で十五分なら、混乱があっても二十分に近づけます」
「体験教室の客も手伝うんか」
春江が聞いた。
「手伝わせません。スタッフが避難誘導を優先します。机や材料は、危険がなければ後回しです」
「床が空かんかったら?」
「避難者を先に入れます。商売の道具より、人が先です」
当たり前の答えだった。
しかし、その当たり前を守るには、当たり前を手順にしておく必要がある。
誰かの判断へ任せれば、道具を片づける人、客を案内する人、役場へ連絡する人が重なる。
責任感の強い者ほど、最後まで残る。
源造のような人ほど、自分は大丈夫だと言って重い机を動かす。
美月は利用規則の最初に、一行を加えた。
『案内役は、避難所開設作業の責任者としない』
*
改修後の体育館には、大がかりな暖房を入れないことになった。
全館を暖める設備には、導入費だけでなく、毎年の光熱費がかかる。冬の利用が少なければ、維持できない。
代わりに、体験教室を行う一角へ可動式の間仕切りを置き、天井から遠赤外線暖房を設置する。火を使う暖房器具は禁止する。
夏は大型の送風機と自然換気を基本とし、暑さ指数が基準を超えた場合は利用を中止する。
客が来ているから。
予約が入っているから。
案内役が準備したから。
どの理由も、暑さや寒さを我慢させる根拠にはしない。
床は傷んだ部分だけを交換し、残せる板は研磨して使う。
競技用の鮮やかな線は引き直さず、バドミントンとボッチャの目印だけを小さく付ける。
焦げ跡は残す。
バスケットゴールは撤去し、背板一枚を舞台袖へ保存する。
舞台は、住民会議、発表会、災害時の物資置き場に使えるよう補強する。
古いピアノは調律費と修理費を確認した上で、村内外から演奏希望者を募る。半年間、使い手が見つからなければ、譲渡先を探す。
使わない物を、懐かしいという理由だけで増やさない。
残すと決めた物には、置く場所と手入れする人を決める。
美月がまとめた案は、住民会議で一項目ずつ確認された。
「体育館で、子どもが走ってもええんやな」
春江が尋ねた。
「軽い運動はできます。ただし、宿泊客の子どもだけで使わせることはしません。保護者か施設スタッフの見守りが必要です」
「ボールは?」
「柔らかい物だけです。硬いボールを壁へ当てる遊びは禁止します」
「学校やった頃は、そんな細かいこと言わんかった」
「学校には先生がいました。今は、常に見守る職員がいるわけではありません」
「何でも禁止にしたら、面白うないで」
「禁止を減らすには、見守る人を増やす必要があります。その人の人件費を払えますか」
春江は黙った。
美月は続けた。
「最初は、できる範囲を狭くします。運営できることが分かれば広げます。最初から何でもできると約束して、あとで禁止を増やす方が失望されます」
「木工教室は月二回?」
源造が聞いた。
「最大で月二回です。源造さんの体調と、申込状況を見て決めます。毎月二回必ず開催するわけではありません」
「藁も月二回か」
「同じです。宿泊営業を行う週の土曜日か日曜日に一回。二つの教室を同じ日に開く場合は、午前と午後に分けます」
「同じ日にしたら、施設の人は休む暇ないやろ」
文江が言った。
「昼に一時間半空けます。会場転換と清掃をします」
「藁のくず残っとったら、木に付くで」
「掃除機を分けます。木工の粉塵用と、通常清掃用。藁は箒で集めてから吸います」
「藁くず、捨てるんやったら畑へ持って帰る」
「持ち帰る場合も、記録上は廃棄物ではなく材料残渣の返却とします」
「また難しい言い方するな」
「会計上、必要です」
文江は呆れながらも、反対はしなかった。
案内役の報酬額が記されたページへ移る。
藁細工。
主担当一回八千円。
補助担当一回五千円。
材料費は別途。
事前準備が一時間を超える場合は追加報酬。
木工。
主担当一回一万円。
安全補助と材料準備は佐藤林業への委託。
参加者の最低人数は三人。
七日前までに満たなければ中止。
施設都合による直前中止には補償。
体調不良で休んでも違約金なし。
氏名、年齢、顔写真を本人の同意なく広報へ使わない。
「ここまで書かんとあかんのか」
源造が登録票をめくる。
「書かずに、全部分かっていることにできますか」
「村の中なら、大体分かる」
「会社と県と村と案内役が関わります。誰か一人が分かっていても足りません」
「俺が死んだら、この紙はどうなる」
会議室の空気が止まった。
美月は源造の顔を見た。
冗談を言っている表情ではなかった。
「契約は終了します」
「木工教室も終わりか」
「ほかに引き継ぐ方がいなければ、終わります」
「颯太がやったらええ」
「颯太さんが同じ内容を続けるかは、颯太さんが決めます。源造さんの代わりとして自動的に引き継がせることはしません」
「俺が教えたらええやろ」
「教えることを希望されるなら、研修の仕事として別に報酬を設定します。ただし、後継者を作る義務にはしません」
「義務にせんかったら、誰も覚えへんかもしれん」
「義務にしたら、覚えたい人がいなくても続けることになります」
源造は登録票を閉じた。
「なくなるもんは、なくなるか」
「残したいとは思っています」
「思うだけやったら残らんぞ」
「はい。でも、残すために誰かの人生を縛ることもできません」
源造は窓の外へ目を向けた。
役場の駐車場の向こうに、学校の屋根が見える。
「学校も同じやな」
しばらくして、源造が言った。
「残せ言うたら、誰かがずっと面倒見なあかん」
「だから、面倒を見る仕事にお金を払います」
「金で全部できるか」
「できません。でも、お金を払わずに気持ちだけ求めるよりはいいと思います」
「田中さんは、ほんまに面倒なことばっかり言うな」
「最近、よく言われます」
「前は、もっと簡単そうに数字出しとったのに」
「数字を出す前に、誰の時間が使われるか確認するようになりました」
源造は登録票の最後の欄へ名前を書いた。
大きく、角張った字だった。
大西源造。
顔写真の使用は不同意。
実名の広告掲載も不同意。
体験教室で参加者へ名乗ることは可。
木工案内役としての試行登録は、六か月。
「三年やないんですね」
美月が言う。
「半年やって、嫌になったらやめる」
「分かりました」
「会社が嫌になるかもしれんぞ」
「その場合も、半年で見直します」
文江も登録票を引き寄せた。
「私も半年でええ」
春江が横からのぞく。
「補助も書くんか」
「書いてください」
「顔写真は、きれいに撮ってくれるなら使ってもええ」
「写真を確認してから決められます」
「十年前の写真ではあかんか」
「現在の案内役として紹介するなら、現在の写真にしてください」
「十年くらい、そんな変わらん」
「変わっとる」
文江が言った。
「文江さんに言われたくない」
二人が言い合っている間に、源造が席を立った。
美月は登録票を透明なファイルへ入れた。
契約書は、人を縛るためだけのものではない。
どこまでなら頼めるか。
何を断れるか。
いつやめられるか。
そこまで書いて、初めて、引き受けるという言葉に形ができる。
*
夕方、美月は一人で体育館へ戻った。
西日が高い窓から差し込み、床を細長く照らしている。
昼間の会議で使った机も椅子も片づけられ、広い床には何もなかった。
焦げ跡のそばへしゃがむ。
表面は黒く、周囲の板より少しだけへこんでいる。
二十年以上前、この場所にはストーブが置かれていた。
体育館には、家を失うかもしれない人たちが集まり、山と水と土地について話し合った。
今度は同じ場所で、藁を編み、木を磨き、体を動かす。
けれど、災害が起きれば、また机を端へ寄せ、人が眠る床へ戻る。
体育館は、観光客のための体験施設ではない。
住民だけの思い出の場所でもない。
災害の記憶を展示するための建物でもない。
その時々で必要な役割へ戻れるよう、何も置きすぎない場所だった。
扉が開く音がした。
振り向くと、颯太が木箱を抱えて立っていた。
「まだおったんですか」
「それは私の台詞です。何を持ってきたんですか」
「試行で余った杉板です。管理棟へ置こうと思って」
「体育館には保管しないと決めました」
「分かってます。通り道です」
颯太は美月のそばまで来ると、床の焦げ跡を見た。
「これ、残すんですね」
「源造さんの希望です。説明板は付けません」
「田中さんなら、横に数字いっぱい書くかと思いました」
「何でも説明すればいいわけではないと、源造さんに言われました」
「素直に聞いたんですか」
「必要な意見は聞きます」
「必要ないと思ったら?」
「理由を説明して聞きません」
「そこは変わってないな」
颯太は木箱を床へ置いた。
中には、短い杉板が何枚も重なっている。
どれも色や木目が少しずつ違った。
「源造さん、教えるの上手でしたね」
美月が言う。
「俺には、あんなゆっくり教えませんでしたけど」
「颯太さんが子どもの頃ですか」
「山へ戻ってきたあとです。道具の手入れも、木の見方も教わりました。間違えたら、先に怒られた」
「今日は参加者が間違えるまで待っていました」
「客やからでしょう」
「それだけではないと思います」
颯太は一枚の板を取り出した。
表面に浅い傷がある。
「結菜が使った板の残りです。同じ丸太から取った」
「捨てないんですか」
「使えますから」
「何に?」
「まだ決めてません」
颯太は傷の上を親指でなぞった。
「板は、切った時点で使い道が一つに決まるわけやないです。短くなっても、小さい物なら作れる。薄くなったら、箱の仕切りにもなる」
「人と同じだと言いたいんですか」
「そんなうまいこと言うつもりないです」
「そうですか」
「田中さんは、何でも意味つけすぎです」
颯太は板を木箱へ戻した。
「でも、源造さんが案内役を引き受けたのは、よかったと思います」
「半年だけです」
「半年あったら、何回かはできます」
「参加者が集まればです」
「集めるのは、田中さんの仕事でしょう」
「私一人の仕事ではありません」
「ほな、会社と村と施設の仕事」
「そうです」
「源造さんの仕事ではない」
「はい」
颯太はうなずいた。
「それなら、ええと思います」
体育館の外で、鳥が一度鳴いた。
高い窓から入る光が少しずつ傾き、床の焦げ跡から離れていく。
「電気、消しますよ」
颯太が言った。
「まだ点けていません」
「そうでした」
二人で体育館を出る。
美月が扉を閉める前に振り返ると、床の中央には、薄くなった競技線と、補修を待つ傷が残っていた。
そこへ新しい机が置かれ、文江が藁を捻る。
源造が木槌の音を聞く。
春江が曲がった縄を笑い、結菜が木の傷を残す。
訪れた人の手は、同じ形の物を作らない。
教える人の手も、毎回同じようには動かない。
疲れる日があり、休む日があり、いつか教室を終える日が来る。
だから、その手が動く時間を、善意という名前で無料にしてはいけない。
美月は扉を閉めた。
古い体育館の中には、まだ何も置かれていない。
けれど、そこで働く手の値段だけは、もう決まっていた。




