第十八章 三つの客室
十一月の朝、旧清澄小学校の二階には、青い養生テープで三つの四角形が描かれていた。
一つ目はベッド。
二つ目は机。
三つ目は洗面台。
窓際には、段ボール箱を積んで作った仮の棚が置かれている。教室の入口から奥まで、床に貼られた線が何本も延びていた。
「思ってたより狭いですね」
森下が、ベッドを示す四角形の中に立った。
「教室そのものは広いです。でも、壁の内側へ断熱材を入れ、配管と収納を作ると、使える面積は減ります」
三浦が図面を広げた。
「避難経路も確保しなければなりません。家具を好きな場所へ置けるわけではありません」
「写真で見た案は、もっと広く見えました」
「完成予想図は、見る位置によって広く見えます」
「それ、ええんですか」
「嘘の寸法にはしていません。ただ、人の目で見るのとは違います」
東京本社から来た宿泊運営担当の長谷部遼子が、巻き尺を持って教室の中央を歩いた。
三十代後半で、都市型ホテルと郊外の研修施設の立ち上げに関わってきた人物だった。黒いパンツに白いシャツ、その上から濃紺の作業用ベストを着ている。
「狭くはありません」
長谷部は言った。
「一室二名なら十分です。問題は、家族四名を入れる部屋です。常設ベッドを四台置けば、昼間に過ごす場所がなくなります」
「布団にしたら?」
文江が尋ねた。
「床を畳にして、夜だけ敷く方法はあります。ただし、毎日上げ下ろしする人が必要です」
「客が自分で敷いたらええ」
「それを楽しむ方もいますが、宿泊料金によっては不満が出ます」
「自分の布団くらい、自分で敷くやろ」
「旅館では、従業員が敷くことが多いです」
「山路館も?」
文江が澄江を見る。
「今は私が敷いてます」
澄江は教室の後ろで答えた。
「忙しい時は、お客さんにお願いすることもありますけど」
「三室なら、できるんと違う?」
「布団だけやないからね」
澄江は床の青い線を見た。
「夕食を出してる間に、部屋へ入って布団を敷く。使った湯呑みを下げる。ごみを集める。子どもさんがおったら、荷物を踏まんようにする。三室でも、三組が同じ時間にごはん食べ終わったら重なります」
長谷部が手帳へ書き込んだ。
「布団敷きをサービスへ含めるなら、夕食担当と客室担当を分ける必要があります」
「三室のために、そこまで人を増やすんですか」
森下が言った。
「増やさないなら、やらない仕事を決めます」
長谷部は淡々と答えた。
「客室へ従業員が入らず、宿泊者が自分で寝具を用意する。その代わり、最初から分かるように案内する。料金も、それに合わせる」
「安くする?」
「必ずしも安くする必要はありません。自分たちで滞在を整えることを、この施設の方針にできます」
「サービスせんことを、ええように言うだけやないか」
中井が言った。
「そう見えない実態が必要です」
美月は答えた。
「人手がないから客へ押しつけるのではなく、客ができることは自分で行い、村の人にしかできないことへ時間を使います」
「村の人にしかできんこと?」
「山の案内、木工、わら細工、食事、地域の話です」
「布団敷くより、そっちに金払うてもらうんか」
「はい」
文江が腕を組んだ。
「それやったら、私も分かる」
長谷部が美月を見た。
「ただし、寝具の管理は宿泊者任せにできません。清潔な状態で用意し、使い方を案内し、退室後に点検するのは運営側の責任です」
「そこは削りません」
「なら、実際に時間を測りましょう」
長谷部は持ってきた折り畳み式のベッドを広げた。
「図面だけでは、人の動きは分かりません」
*
三つの客室をどの教室にするかは、まだ最終決定していなかった。
当初案では、二階南側の三教室を使うことになっていた。
どの部屋からも山が見え、そのうち二室の窓からは川まで見下ろせる。日当たりがよく、雨漏りの被害も東側より少ない。
宿泊施設として考えるなら、迷う理由はなかった。
会社の設計部は、三室を同じ広さ、同じ設備にそろえた図面を作った。
常設ベッド二台。
壁際の小上がり。
シャワーとトイレ。
洗面台。
小型冷蔵庫。
窓際の机。
一室最大四名。三室で最大十二名。
内装は白い壁と濃い色の床。教室の名残として、黒板の一部と教室札を残す。
美月が最初に見た時、完成した様子を想像しやすい案だと思った。
同じ設備なら、清掃も説明も簡単になる。料金も統一できる。予約画面を作る時も、部屋ごとの差を説明する必要がない。
しかし、住民へ図面を見せると、春江が最初に手を上げた。
「図書室より、客の部屋の方が景色ええんやな」
「二階なので、山と川が見えます」
「図書室は一階の北側やろ。昼でも暗い」
「本の保存には、直射日光が少ない方が適しています」
「本のためにはな」
春江は二階の平面図を指した。
「村の人は、景色の悪い部屋を使う。金払う客だけ、ええ景色見る。そういうこと?」
美月は答えに詰まった。
宿泊者には、料金に見合う部屋が必要だ。
わざわざ遠い村まで来る人へ、窓から見える山と川を提供する。それは事業として当然の判断だった。
「全部の景色を、宿泊者だけにするつもりはありません」
「でも、この図ではそうなっとる」
春江の言うとおりだった。
三つの客室が、二階南側の眺望を占めている。廊下の窓からも外は見えるが、立ち止まって過ごせる場所ではない。
「図書室を二階へ移す案は、検討しました」
三浦が説明した。
「ただ、階段しか使えない状態では高齢者が利用しにくい。エレベーターを設けると、工事費が大きく増えます」
「新しい建物にするのに、エレベーターないんか」
由が尋ねた。
「校舎全体を新築するわけではありません。二階の宿泊室へは、階段を使える方を案内します。一階に、段差なく利用できる客室を一つ設ける案もあります」
「一階にも客室作るん?」
美月は三浦を見た。
その案は、会社との内部協議で一度外していた。
一階に客室を置けば、住民利用区画との境界が複雑になる。玄関に近いため、人の出入りの音も聞こえる。
だが、車椅子や階段の利用が難しい宿泊者を受け入れるなら必要だった。
「検討中です」
美月は間を置かずに言った。
「三室のうち一室を、一階にする可能性があります」
「ほな、二階の景色ええ教室、一つ空くな」
春江が言う。
「そこを、みんなが使える部屋にしたらええ」
会社案では、三室を近くにまとめることで、清掃と安全管理をしやすくしていた。
一室を一階へ移せば、従業員の移動が増える。リネン庫も二か所必要になる。夜間の見回りも複雑になる。
長谷部はすぐに反対した。
「運営上は、三室を同じ階へまとめた方がいいです」
「何が困りますか」
春江が尋ねる。
「清掃道具、寝具、備品の運搬です。宿泊者の場所が分かれていると、緊急時の確認にも時間がかかります」
「三室やろ」
「三室だから、一人で管理する時間があります。一人で二つの階を見ることになります」
「夜も誰かおるん?」
「宿直担当か、緊急連絡を受ける人が必要です」
「誰がする?」
問いが、美月へ戻ってきた。
「現時点では未定です」
「部屋を決める前に、人を決めなあかんのと違う?」
中井が言った。
「同時に決めます」
「また同時か」
美月は図面を見つめた。
建物の使い方は、働く人の数を変える。
働く人の数は、収支を変える。
収支は、宿泊料金を変える。
どれか一つを先に決めても、ほかが変われば戻らなければならない。
「一階一室、二階二室の案を、運営時間と費用まで含めて比較します」
美月は口を開いた。
「二階南側の一室は、住民と宿泊者が使える読書室兼談話室にします」
「会社は認めるんか」
春江が尋ねる。
「説明します」
「田中さんは、そうしたいん?」
美月は窓の外を見た。
校庭の向こうに杉の山がある。その間を川が流れているが、一階からは土手に隠れ、ほとんど見えない。
「はい」
美月は答えた。
「この建物で一番いい景色の一つは、宿泊しない人も見られる場所にしたいです」
*
会社との協議は、予想どおり難しかった。
オンライン会議には、小田切、財務部、宿泊運営部、設計部が参加した。
長谷部が二つの案を示す。
A案。
二階へ三室を集約する。最大十二名。全室にトイレとシャワー。運営効率が高く、想定客室単価は最も高い。
B案。
一階に一室、二階に二室。最大十名。一階の客室は段差をなくし、車椅子で利用できるトイレとシャワーを設ける。二階南側の一室を共用の読書室兼談話室へ変更する。
B案は、工事費がA案より一千百万円高かった。
一階客室へ新たな水回りを入れる費用。
リネン庫を二か所に分ける費用。
防火区画の変更。
住民利用区画と宿泊区画を分ける扉と鍵。
一方、宿泊定員は二名減る。
「利益が減り、工事費が増える案です」
財務担当者が言った。
「なぜ採用する必要がありますか」
「利用できる宿泊者の範囲が広がります」
美月が答える。
「高齢者、車椅子利用者、小さな子どもを連れた家族が、一階を選べます」
「その需要は調査しましたか」
「価格調査の回答者三百十二人のうち、移動に配慮した客室を重視すると答えた方は四十一人です」
「一割強ですね」
「本人ではなく、親を連れて行きたいと答えた方も含まれます」
「一室へ一千百万円を追加して、回収できますか」
「客室収入だけでの回収には時間がかかります」
「また、公共性ですか」
「一階の段差解消と多目的トイレは、宿泊者だけでなく、住民利用にも必要です。共通部分の費用を区分します」
「客室内のシャワーは事業側です」
「はい」
小田切が腕を組んだ。
「共用の談話室に、一番景色のいい教室を使う必要は?」
「住民利用と宿泊者利用を分けない場所を作るためです」
「交流室は一階にもある」
「一階の交流室は、集会と体験に使います。静かに過ごす場所ではありません」
「住民が毎日、二階まで上がると思いますか」
「毎日である必要はありません」
「利用回数の少ない共用室に、収益性の高い部屋を一つ渡す?」
「宿泊室を三室から減らすわけではありません。位置を変えます」
「定員は十二名から十名に減る」
「最初に想定していた受け入れ上限は十名です」
「将来六室へ増やす時、この配置が足かせになる」
三浦が口を開いた。
「配管の幹線は六室へ増やせるように整備します。一階客室は、将来、宿泊需要が減った場合も、短期滞在者や介助が必要な来訪者の部屋として使えます」
「誰が介助するんですか」
「施設職員は介護を行いません」
美月が答えた。
「介助者と一緒に宿泊できる部屋です。対応できる範囲は、予約時に明示します」
「できないことが増えますね」
財務担当者が言った。
「できないことを決めなければ、現場が何でも引き受けることになります」
小田切はしばらく資料を読んでいた。
「田中さん。この村で、誰でも受け入れる施設を作ることはできません」
「承知しています」
「高齢者も、乳幼児も、車椅子利用者も、外国人も、企業研修も。対象を広げるほど、設備と人員が必要になる」
「誰でも受け入れるとは言っていません」
「なら、誰を受け入れる?」
美月は用意した資料を開いた。
「最初の一年は、家族単位を中心にします。一組二名から四名。最大三組、十名。食物アレルギー、移動上の配慮、子どもの年齢は予約前に確認します。医療的な支援が必要な方は、村の診療体制では受け入れられない場合があります」
「企業研修は?」
「宿泊を伴う大人数の研修は行いません。日帰りか、最大十名までです」
「団体旅行は?」
「受けません」
「外国人は?」
「日本語または英語で安全説明を理解できる方から始めます。通訳が必要な方を、今の人員で受け入れるとは言えません」
「明確ですね」
「できないのに、できると表示しないためです」
小田切がB案の図面を画面へ映した。
「一階一室、二階二室。最大十名。客室単価と収支を再計算してください。増額分を全額会社負担にはしません。公共利用との按分を県と村に確認すること」
「承知しました」
「談話室は、利用規則を作ってください。住民と宿泊者が同じ場所を使うなら、時間と責任者を決める必要があります」
「作成します」
承認ではなかった。
だが、却下でもなかった。
*
三つの客室は、同じ形にしないことになった。
一階の第一室は、二名用だった。
入口から室内まで段差をなくす。
低いベッドを二台置き、間隔を広く取る。車椅子でも方向を変えられる広さを確保し、トイレとシャワーには手すりを設ける。
介護施設のようにはしない。
手すりの高さと位置は、由と、左手に麻痺のある住民、その家族に確認してもらう。ベッドの高さも、実際に腰掛けて決める。
一階の廊下に面しているため、防音を強くする。
窓からは校庭と桜が見える。
二階の第二室は、家族四名用だった。
常設ベッド二台と、床へ敷く寝具二組。
小さな子どもが落ちないよう、ベッド同士を寄せられる。床には一部畳を入れるが、全面を畳にはしない。
専用のトイレとシャワーを設ける。
窓から、山と川が見える。
二階の第三室も、四名まで利用できる。
閉校式の黒板を残す教室の隣で、専用の浴室は設けない。家族風呂と川音の湯を利用する。
その代わり、部屋を広く取り、机と流し台を備える。二泊以上の滞在や、親子での工作、簡単な食事の準備ができる。
部屋ごとに料金も違う。
「三室なのに、三種類ですか」
森下が一覧を見て言った。
「予約の説明、大変ですね」
「同じ部屋を三つ作るより、大変です」
長谷部が答える。
「でも、利用者の感想を比較できます。どの設備が本当に必要か、開業後に判断できます」
「実験みたいですね」
「最初の三室は、検証のための客室でもあります」
美月は補足した。
「ただし、宿泊者に不便を我慢してもらう実験ではありません。違いを予約時に説明し、選んでもらいます」
「部屋の名前は?」
森下が尋ねた。
設計部からは、「森」「川」「桜」という案が出ていた。
広報担当は、検索しやすく覚えやすい名前が必要だと言った。
住民からは、「一年一組」「二年一組」「三年一組」を残してほしいという意見もあった。
「一年一組に泊まる、いう方が学校らしいやろ」
源造は言った。
「でも、元の教室名と場所が違います」
美月が答える。
「一階の部屋は、もともと保健室です」
「ほな、保健室に泊まるんか」
文江が笑った。
「病気みたいやな」
「元保健室を隠す必要はありません。ただ、商品名にするかは別です」
結菜がスマートフォンの画面を見ながら言った。
「森とか川って、どこにでもありそう」
「覚えやすいですよ」
森下が言う。
「清澄村にしかない名前がいい」
「何がありますか」
「考えろって言われると、出てこん」
源造が教室札を見た。
黄ばんだ札に、「保健室」と書かれている。
「番号でええんと違うか」
中井が言った。
「一、二、三で」
「味気なくありませんか」
森下が尋ねる。
「名前だけきれいにしても、部屋は変わらん」
長谷部がうなずいた。
「海外の小規模宿では、番号だけの客室も珍しくありません。説明を増やしすぎない利点があります」
最終的に、客室名は「一号室」「二号室」「三号室」となった。
扉の横には、小さく元の用途を記す。
『一号室 旧保健室』
『二号室 旧四年教室』
『三号室 旧五年教室』
学校らしさを作るために、実際とは違う教室名を付けない。
元の場所が何だったかを、そのまま残す。
*
料金を決める会議は、客室の配置以上に長引いた。
会社の第一案は、二食付きで一人二万二千円から二万八千円。
体験は別料金。
三室しかないため、一組当たりの単価を上げなければ、常勤職員の人件費と修繕積立を確保できない。
住民からは、高すぎるという声が出た。
「家族四人で十万近いやないか」
「そんな金払って、学校に泊まる人おるんか」
「温泉旅館へ行ける」
澄江は料金表を見ながら言った。
「山路館より高いですね」
「新しい設備と、体験を含む滞在価値で設定しています」
長谷部が説明する。
「体験は別料金やろ」
文江が言う。
「なら、何が含まれとるの」
「夕食、朝食、川音の湯の利用、共有室の利用、スタッフによる滞在案内です」
「滞在案内って何?」
「村での過ごし方、歩ける場所、安全上の注意を説明します」
「説明に金払うんか」
「説明だけに払うわけではありません」
美月は価格調査の結果を示した。
大人一人一万五千円なら、利用したいと答えた人は多い。
二万円を超えると、数は大きく減る。
しかし、一万五千円では、食事と人件費を賄えない。
「安くして客を増やす案は?」
藤井が尋ねた。
「三室なので、客数に上限があります。値下げしても、受け入れ人数を増やせません」
「営業日を増やす」
「最初は月八日です」
長谷部が答える。
「月八日しか開けんの?」
源造が驚いた。
「金曜から日曜を中心に、月二回の受け入れです」
「それで商売になるんか」
「初年度は、毎週営業できる人員がいません」
美月が言う。
「清掃、食事、送迎、体験の負担を確認しながら増やします」
「せっかく直して、月八日?」
「宿泊しない日は、住民利用と日帰り体験に使います」
「客室は空くやろ」
「空きます」
「もったいない」
「無理に営業して、働く人が続かなければ、もっともったいないです」
中井が料金表を見た。
「高うして、開ける日減らして、誰のための宿や」
「安い宿を作ることが目的ではありません」
美月は返した。
「村の人へ正当な賃金を払い、施設の修繕費を積み立てられる料金にします」
「都会の金持ちだけ来るんか」
「高級設備で囲う施設にはしません。ただ、払える金額には限りがあります」
「子どもを連れた普通の家族に来てほしい言うてたやろ」
問いに、美月は黙った。
体験家族として来た正志、由紀、彩の三人が払った参加費は四万八千円だった。
実際にかかった費用は、それを大きく上回った。
同じ内容を正式な事業として提供すれば、家族三人で六万円を超える。
交通費まで含めれば、気軽に来られる金額ではない。
「平日の一部に、食事を簡素化した連泊料金を設けます」
美月は新しい案を出した。
「夕食を毎日提供せず、朝食用の食材を渡す。三号室を二泊以上で利用する家族には、一泊当たりの料金を下げます」
「自炊させるんか」
「完全な自炊設備はありません。村の商店や食事提供者と連携します」
「店、夜には閉まるで」
「予約時に食事を選べるようにします」
長谷部が計算した。
「食事を選択制にすると、予約管理は複雑になります。ただ、調理担当の負担は減らせます」
最終案では、大人一人一万六千五百円から。
子どもは九千円から。
食事内容と部屋によって変動する。
三号室の連泊は、一泊目より二泊目を安くする。
わら細工、木工、山歩きは別料金とし、講師へ直接報酬が回る仕組みにする。
極端に安くはない。
高級旅館の価格でもない。
誰にでも来られる宿にはできなかった。
だからこそ、支払った金がどこへ使われるのかを、予約画面へ表示することにした。
食事。
清掃。
体験講師。
施設維持。
温泉利用。
細かな原価をすべて見せるわけではない。それでも、料金が村の中でどの仕事へつながるのかを伝える。
*
清掃時間を測る試験は、山路館の空き部屋を借りて行った。
三室分を想定し、使用済みのシーツ、タオル、ごみ箱、洗面台、トイレを用意する。
澄江、文江、村内の女性二人、美月、長谷部が参加した。
最初に、長谷部がホテルの標準手順を説明した。
換気。
忘れ物確認。
ごみ回収。
寝具の撤去。
水回り清掃。
床。
備品補充。
最終確認。
「一室三十分で終わります」
長谷部が言った。
実際に始めると、五十二分かかった。
慣れていないこともある。
使用済みのシーツをどこへ置くか決まっていない。新しいタオルを持ってくる人と、床を拭く人の動線が重なる。洗剤の種類が多く、どれを使うか迷う。
文江がベッドの下をのぞき込んだ。
「子どもの靴下、落ちとる設定やで」
小さな靴下を拾い、忘れ物袋へ入れる。
「忘れ物、毎回役場へ持っていくん?」
「施設で一定期間保管します」
美月が答える。
「送る時の送料は?」
「宿泊者負担を基本にします」
「食べ物は?」
「衛生上、処分します」
「手作りのもんでも?」
「規約を決めます」
清掃一つにも、判断がいくつもあった。
二回目は、道具の置き場所を変えた。
シーツを客自身がまとめる。
ごみを分別する箱を部屋に置く。
備品を必要以上に増やさない。
使用したタオルを一か所へ集める。
四十一分まで短くなった。
「三室で二時間以上ですね」
森下が記録を見た。
「二人で行えば一時間ほどです。ただし、汚れが強い部屋は延びます」
長谷部が答える。
「チェック担当も必要です」
「一人でできませんか」
「清掃した本人が見落とすことがあります。交代で確認します」
澄江がシーツを畳みながら言った。
「毎回、同じ汚れ方やないからね」
「最初の半年は、二人一組にします」
美月が決めた。
「清掃時間は、一室四十五分を基準に賃金を計算します。早く終わっても、基準時間分は支払います」
「遅れたら?」
村内の女性が尋ねた。
「理由を記録します。通常の汚れなら追加時間も支払います。手順の問題なら改善します」
「客がひどく汚した時は?」
「追加清掃料を請求できる規約を作ります」
女性はうなずいた。
「それなら、やってみてもええ」
初めて、働く側から具体的な言葉が出た。
美月はその人の名前を、採用候補ではなく「相談希望者」の欄へ書いた。
働くと言ったわけではない。
安易に決めないことも、続けるためには必要だった。
*
食事について、澄江は最初から線を引いた。
「山路館の厨房で、学校の宿泊客の分まで毎回作るのは無理です」
美月はうなずいた。
「その点は理解しています」
「最初の何回か、献立を教えることはできます。でも、私が調理責任者にはなれません」
「お願いしません」
「学校が開いたら、山路館の客が減るかもしれんしね」
澄江は冗談のように言ったが、目は笑っていなかった。
新しい宿泊施設は、村に人を呼ぶ。
同時に、今ある旅館の客を奪う可能性がある。
「山路館と同じ宿泊商品にはしません」
美月は答えた。
「山路館は、温泉旅館として食事と休息を提供する。学校は、体験と連泊を中心にする。学校の宿泊者が、前後の日に山路館へ泊まるプランも作れます」
「うちを前座か後座にするん?」
「そういう意味ではありません」
「分かってます」
澄江は美月の返答を真似るように言った。
「でも、会社が学校を『村で唯一の宿』みたいに売り出したら、話は別ですよ」
澄江は言った。
「山路館が古い宿で、学校が新しい宿。比べるような見せ方をされたら、うちは勝てません」
「その表現は使いません」
「田中さんが使わなくても、広報の人が使うかもしれんでしょう」
美月は否定できなかった。
客室の紹介文も、料金表も、最終的には会社の広報部が確認する。村で話し合った言葉が、東京で分かりやすい表現へ置き換えられる可能性はあった。
「山路館と競合しないと書くだけでは足りませんね」
「書いたら競合せん、というもんでもないです」
「では、数字で確認します」
美月はノートパソコンを開いた。
「学校の営業日、宿泊人数、山路館の予約状況を毎月共有します。学校の開業後に、山路館の宿泊者数や単価が大きく下がった場合は、原因を確認して商品と営業方法を見直します」
「うちの帳簿を会社に見せるんですか」
「売上額まで求めません。宿泊組数と、学校との重なりが分かる範囲で構いません」
「学校の数字も、うちに見せる?」
「同じ範囲で見せます」
澄江は腕を組んだ。
「見せた数字が悪かったら、学校を閉めるんですか」
「すぐには閉めません。何が起きているかを一緒に確認します」
「一緒に、という言葉は便利ですね」
「便利だから使っているわけではありません」
「忘れてはいません」
また同じ言葉だった。
今度は、美月も少し笑った。
澄江の口元も、わずかに緩んだ。
「学校の食事は、学校の運営側で責任を持ちます」
美月は続けた。
「山路館の厨房と人員を、事業計画の前提にはしません。澄江さんへお願いするのは、最初の献立づくりと調理手順への助言までです。助言料も支払います」
「ただで教えろとは言わんのですね」
「言いません」
「前の会社は、村の味を教えてくださいと言うて、何でもただで聞いていきました」
「教えてもらった献立を、会社のものにはしません。誰から教わったかを記録し、別の施設で使う場合は改めて相談します」
「そこまで決めるん?」
「決めないと、あとで曖昧になります」
澄江はしばらく黙り、窓の外へ目を向けた。
山路館の広縁からは、川の上に薄い霧が残っているのが見えた。美月が初日に見逃した景色だった。
「朝ごはんの味噌汁は、教えます」
澄江が言った。
「夕食は?」
「まだです」
「承知しました」
「交渉せんの?」
「今、断られたところです」
「田中さん、前より聞き分けよくなりましたね」
「必要な時は、またお願いします」
「それは聞き分けがええとは言わんね」
澄江は笑った。
*
食事の運営案は、三つに分けた。
一つ目は、夕食と朝食を学校で提供する日。
二つ目は、夕食を村内の店や作り手から届けてもらい、朝食だけ学校で用意する日。
三つ目は、二泊以上の宿泊者が、自分たちで選んだ食事を持ち込み、部屋の流し台や共用の食事室を使う日。
すべての日に、同じ内容を約束しない。
予約画面には、宿泊日ごとの食事方法を先に表示する。
食事を提供する日は、調理責任者を一人決める。
アレルギーへの対応範囲を、予約前に確認する。
できない対応は、曖昧に引き受けない。
食材を提供する人、調理する人、運ぶ人、片づける人へ、それぞれ報酬を支払う。
最初の半年は、宿泊営業を月八日に限定する。
八日すべてを満室にする計画にはしない。
長谷部は、運営表の横へ赤い字で書いた。
『満室より、継続』
「広報には使えませんね」
森下が言った。
「使うための言葉ではありません」
長谷部が答える。
「働く人が、予約を断ってもいいと判断するための言葉です」
「予約を断るんですか」
「人員が足りない日、安全に提供できない食事を求められた日、道路や天候に不安がある日には断ります」
「客が来てくれるのに?」
「来てもらうことより、帰ってもらえることが先です」
美月はその言葉を、運営表の下へ書き足した。
『安全に帰れることを、受け入れの条件にする』
客室の数は三つだった。
予約枠も三つに見える。
しかし、三室空いていることと、三組を受け入れられることは同じではない。
食事を作れる人がいるか。
清掃する時間があるか。
夜間に連絡を受ける人がいるか。
川音の湯が使えるか。
バスが動いているか。
雨や雪で道路が閉じないか。
一つでも確認できなければ、空室は売らない。
会社の予約システムは、空いている部屋を自動的に販売する仕組みだった。
美月は自動販売を使わず、最初の一年はすべて仮予約として受け付ける案を出した。
担当者が条件を確認したあとで、予約を確定する。
「効率が悪いですね」
システム担当者は言った。
「三室しかありません」
「三室だからこそ、自動化した方が人件費を抑えられます」
「三室のうち一室で問題が起きれば、受け入れ能力の三分の一を失います。最初から例外処理を人が確認した方が、誤った予約を取り消すより負担が少ないです」
「予約確定まで、どのくらい待たせますか」
「二営業日以内です」
「週末しか働かない担当者では間に合いません」
「予約確認を担当する人の勤務日を、宿泊営業日とは別に設けます」
また一つ、見えていなかった仕事が増えた。
客が来る日だけ人を雇えばよいわけではない。
来る前の質問。
食事の確認。
交通手段。
支払い。
キャンセル。
忘れ物。
帰ったあとの連絡。
客室の外にも、宿泊の仕事は続いている。
*
十二月の初め、二階の教室で最後の動線確認を行った。
青い養生テープは、何度も貼り直されていた。
一号室は一階へ移ったため、最初に描いた四角形の一つは消えている。
空いた教室には、読書室兼談話室の椅子を置く位置が黄色いテープで示された。
窓際に四脚。
壁際に長いベンチ。
中央は、車椅子でも通れるように空ける。
「椅子、全部窓へ向けるんですか」
森下が尋ねた。
「山を見る部屋だから、ええんと違う?」
春江が答えた。
「人と話す時、顔が見えませんよ」
「話したい人は、椅子を動かしたらええ」
「床に傷が付きます」
三浦が言った。
「脚に保護材を付けます。ただ、配置は固定しません」
長谷部が一脚だけ持ってきた木の椅子へ腰を下ろした。
「宿泊者だけの休憩室にも、住民だけの集会室にもしない。使い方を一つに決めないなら、家具も動かせる方がいいです」
「誰が元へ戻すん?」
中井が尋ねた。
「使った人です」
「客も?」
「客も、住民もです」
美月は答えた。
「戻す位置は、床へ小さな印を付けます」
「結局、印付けるんか」
春江が笑った。
窓の外では、川面に冬の光が当たっていた。
葉を落とした木の間から、向こう岸まで見える。
美月は初めてこの教室へ入った時、客室にすれば高い料金を取れると思った。
その判断は間違いではない。
しかし、それだけが正しいわけでもなかった。
景色のいい場所を誰が使うか。
段差のない部屋を誰のために作るか。
食事を誰が作り、誰が責任を持つか。
空いている部屋を、いつ売らないと決めるか。
三つの客室を決めるために、客室の外にいる人たちの暮らしまで考える必要があった。
「これで、部屋は決まりですね」
森下が言った。
「基本案は決まりました」
「まだ基本案なんですか」
「工事が始まれば、図面どおりに収まらない場所が出ます。働く人が決まれば、手順も変わります」
「完成するまで、決まらんのですね」
「完成してからも変わります」
「それ、終わりないやないですか」
「続けるなら、終わりません」
森下は困ったように笑った。
春江が窓際の椅子へ座り、山を見た。
「ここ、客がおらん日も入ってええんやな」
「はい」
「鍵は?」
「住民利用の時間は、管理担当者が開けます」
「その担当者は?」
「これから決めます」
「また人やな」
源造が言った。
「建物より、人を決める方が時間かかる」
誰も反論しなかった。
*
年が明け、雪が解けるまでに、三つの客室の基本設計は承認された。
一号室は、誰かの助けが必要な人だけの部屋ではない。
階段を避けたい人も、小さな子どもと泊まる家族も選べる部屋にする。
二号室は、山と川を見ながら短く滞在する家族の部屋。
三号室は、二泊以上を基本に、自分たちで滞在を整える部屋。
三室を同じにしなかったことで、説明する仕事は増えた。
清掃の動線も、備品の管理も複雑になった。
最大宿泊人数は減り、工事費は増えた。
それでも、選べる人は増えた。
客室の位置を決めた図面の横には、もう一枚の紙が添えられた。
『学校の宿泊事業が、村にある仕事と暮らしを奪っていないか、半年ごとに確認する』
澄江が求めた文言だった。
会社は最初、「事業環境への影響を検証する」と書き換えた。
美月は元の言葉へ戻した。
誰の何を確認するのか、分からなくなるからだった。
三つの客室には、まだ壁もベッドもなかった。
床に引いた青い線だけが残っている。
けれど、その線の外側で、誰が働き、誰が使い、何を守るのかは、少しずつ見え始めていた。
客室の次に残されたのは、校舎より大きな空間だった。
誰の手で、何のために使うのか。
まだ一つの答えも書かれていない体育館が、春を越えた先で待っていた。




