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『何もない村の、みんなのいえ』  作者: 久遠 睦


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第十七章 残すもの、新しくするもの

旧清澄小学校の昇降口に、三色の籠が置かれた。

 緑の籠には、「残す」。

 黄色の籠には、「直して使う」。

 赤の籠には、「新しくする」。

 それぞれの前に、同じ色の札と油性ペンが並べられている。

 全面改修案を基本として協議を進めることが決まってから一週間、美月は学校に残る物と場所を百八十七項目に分けた。

 玄関上の時計。

 校名板。

 靴箱。

 廊下の床板。

 教室の扉。

 窓枠。

 黒板。

 机と椅子。

 教壇。

 図書室の本棚。

 家庭科室の調理台。

 校長室の机。

 職員室の書類棚。

 壁に掛かった地図。

 卒業制作。

 体育館の舞台。

 バスケットゴール。

 跳び箱。

 校庭の遊具。

 桜の木。

 どれも、校舎全体の工事費から見れば小さなものだった。

 だが、学校を学校として記憶させているのは、柱や屋根だけではない。

 同じ形の教室が並んでいても、黒板の傷や、靴箱に残る名前や、机の角に刻まれた線がなければ、別の建物に見えるかもしれない。

 それでも、すべてを残すことはできなかった。

 安全に使えないもの。

 個人情報が残るもの。

 修理費が新しく作るより高くなるもの。

 維持できないもの。

 何のために残すのか、誰も説明できないもの。

 美月は項目ごとに写真、状態、修理費の概算、所有区分、想定用途を書き込んだ。

 その一覧を全戸へ配り、四回の現地確認会を開くことにした。

 最初の確認会には、二十七人が集まった。

 三浦と本庄も、東京から再び村へ来ていた。

 建物内へ入れる人数を一度に十人までとし、ヘルメットとマスクを着用する。二階東側と、床を開けた図書室の一部には入らない。

 午前九時、美月は昇降口の前で説明した。

「緑、黄、赤のどれか一つを選ぶ必要はありません。同じものに複数の意見を付けてください」

「多数決で決めるんか」

 中井が尋ねた。

「多数決だけでは決めません。安全性、費用、使い方を確認します」

「ほんなら、住民が残せ言うても、会社が高いから捨てるんやろ」

「会社だけで決めません。ただ、費用を無視もしません」

「結局、誰が決める」

「村が所有するものは、最終的に村が決めます。会社が費用を負担する部分には、会社の判断も必要です。安全基準に関わる部分は、専門家の判断を優先します」

「三人で意見が違うたら?」

「違ったままにせず、別の方法を探します」

「そんなうまい方法、毎回あるか」

「ない場合もあります」

「その時は?」

「何を優先するかを明らかにして決めます」

 中井は納得した様子ではなかったが、黄色の札を数枚取った。

「札には、理由も書いてください」

 美月が続ける。

「『懐かしいから』でも構いません。ただ、誰にとって懐かしいのかも書いてください」

「面倒やな」

 源造が言った。

「札を貼るだけやったら、残せるかどうか分からないので」

「時計は理由言うたやろ」

「はい。記録しています」

「また言わなあかんのか」

「今日は、止めたまま残すか、動かすかも考えてください」

 源造は玄関上の時計を見上げた。

 針は変わらず、三時十八分を指していた。

     *

 最初に意見が分かれたのは、靴箱だった。

 昇降口の壁一面に、低い木製の棚が並んでいる。一つ一つの区画に、薄くなった名前のシールが残っていた。

 春江は、迷わず緑の札を入れた。

『学校へ入った時、最初に見えるものだから』

 文江も緑を選んだ。

『子どもの名前を消したくない』

 一方、三浦は黄色だった。

『奥行き不足。補強と用途変更が必要』

 村外で家具職人をしている卒業生からは、事前に赤の意見が届いていた。

『使えない靴箱を飾りとして残すより、新しい棚を村の木で作った方がよい』

 颯太は棚の前へしゃがみ、板の厚さを測った。

「全部は無理ですね」

「壊れていますか」

 美月が尋ねる。

「板そのものは、思ったより大丈夫です。でも、下の方は湿気を吸ってます。名前のシールがあるところだけ残すなら、壁に付けたままでは使えません」

「外して、別の場所へ移す?」

「一部を子ども用にするか、小物を入れる棚にするか」

 春江が顔をしかめた。

「靴箱は、靴入れてこそ靴箱やろ」

「大人の靴は入りません」

 三浦が説明した。

「宿泊者が使う棚としては、荷物も置ける大きさが必要です。入口で混雑しない動線も必要になります」

「ほな、名前のところだけ切って飾るんか」

 文江が言った。

「それは嫌やな。墓の札みたいや」

 何人かが小さく笑った。

 美月は靴箱の前に、新しい図面を置いた。

「三浦さんから、一つ案が出ています」

 新しい靴棚を、昇降口の中央へ低く設ける。

 古い靴箱は、状態のよい二列だけを修理し、壁際に残す。子ども用の靴や、室内用のスリッパを入れる。

 名前のシールは、本人または家族の希望を確認し、残すものと剝がすものを分ける。

「勝手に名前を見せるのは、個人情報の問題があります」

 森下が説明した。

「亡くなった人の名前もあります。ご家族へ確認します」

「シールなんか、十年もそのままやったやないか」

 源造が言った。

「閉まった学校の中にあることと、不特定の宿泊者が見る場所にあることは違います」

 美月が答える。

「名前を残したくない人もいるかもしれません」

「自分の名前やったら、わしは残す」

「源造さんの靴箱はどれですか」

「この校舎やない。前の校舎や」

「では、今残っている名前の持ち主へ聞きます」

 源造は言い返せなかった。

 古い靴箱を残すことと、そこに書かれた人の意思を無視することは違う。

 最終的に、靴箱には黄色の札が最も多く入った。

 全部残すのでも、全部捨てるのでもない。

 二列を修理して使い、新しい靴棚を村の木で作る。

 最初の一項目を決めるだけで、一時間近くかかった。

     *

 廊下の床板には、意外なほど多くの緑札が集まった。

『歩くと鳴る音を残したい』

『卒業式の日に、この廊下を歩いた』

『新しい床にしたら、学校ではなくなる』

 本庄は床を一枚ずつ確認した。

「音が鳴るのは、思い出だけではなく、床板と下地が動いているからです」

 緑札を入れた男性が言った。

「多少鳴るくらい、ええやないか」

「多少なら。ただ、宿泊施設として使う場合、夜に歩く音がほかの部屋へ響きます」

「静かに歩いたらええ」

「子どもに毎回言うんですか」

 男性は黙った。

 三浦が床の断面図を見せた。

「使える床板は一度外し、下地を補強して戻せます。傷みの強い部分は、清澄村の杉材へ替えます」

「色が違うやろ」

「最初は違います。古い板へ無理に色を合わせる塗装はしません」

「まだらになるやないか」

「古い場所と新しく直した場所が、分かるようにします」

 会社の設計部から送られてきた完成予想図では、床全体が同じ濃い茶色に統一されていた。

 美月はその図を最初に見た時、きれいだと思った。

 古い校舎の落ち着きを残しながら、照明と家具を整えた空間。宿泊施設の広告に使いやすい、まとまりのある色だった。

 しかし、実際の床を塗りつぶせば、傷も、補修した跡も、木の色の違いも見えなくなる。

「古い板は、磨いたらどんな色になりますか」

 美月が颯太へ尋ねた。

「今より明るくなります。でも、傷は残ります」

「新しい杉材は?」

「最初は白いです。年数がたてば色が濃くなります」

「同じ色になるまで、何年かかりますか」

「日が当たる場所なら数年。でも、まったく同じにはならんと思います」

「同じにしなくていいと思います」

 美月は完成予想図を閉じた。

 三浦が美月を見る。

「設計部へ修正を出しますか」

「お願いします。古い床と新しい床の境目を隠さない案にしてください」

「宿泊者から、工事途中に見えると言われる可能性があります」

「なぜ違うのかを説明します」

「説明を読まない人もいます」

「それでも、古く見せるために新しい板へ傷を付けるよりいいです」

 三浦は少し考え、うなずいた。

「私も、その方がいいと思います」

 源造が床を靴の裏で軽くこすった。

「新しいもんを古く見せる必要はない。新しいもんは、新しいままでええ」

 その意見には、反対が出なかった。

     *

 教室の黒板は、全部で七枚残っていた。

 表面が割れているもの。

 湿気で浮いているもの。

 まだ文字を書けるもの。

 端に卒業の日付が残っているもの。

 二階西側の教室には、閉校式の日に書かれた文字がうっすら残っていた。

『清澄小学校 ありがとう』

 白いチョークの線は、何度か湿気を吸い、一部が消えかけている。

 春江が黒板の前に立った。

「これ、誰が書いたんやろ」

「最後の六年生です」

 森下が答えた。

「閉校式のあと、消さんといてくれ言われて、そのままです」

「残せますか」

 美月が三浦へ尋ねる。

「黒板自体は、壁から外せます。ただ、動かす時に表面が剝がれる可能性があります」

「ここへ残したままでは?」

「この教室を宿泊室にするなら、ベッドの配置に影響します。壁の断熱工事も必要です」

 会社の宿泊運営担当は、黒板を外し、壁を白く仕上げる案を出していた。黒板の代わりに、写真を撮れる小型の掲示板を置く。

 美月はその案を住民へ説明した。

「写真撮るための黒板なんか要らん」

 文江がすぐに言った。

「本物捨てて、偽物置くんか」

「偽物という意味ではありません。宿泊者が自由に書ける設備です」

「ほな、別の部屋に新しい黒板置いたらええ」

 高校生の結菜が口を開いた。

「この文字は、触らん方がいいと思います」

 若い声に、年配の住民たちが振り向いた。

「黒板、全部残さなくていい。でも、これだけは資料室に置いた方がいい」

「資料室へ移す時に、壊れるかもしれません」

 美月が言う。

「壊れたら、写真しか残らない?」

「そうなります」

「ここを宿泊室にしない方法は?」

 結菜が平面図を指した。

 この教室は、三室目の候補だった。

 窓から山がよく見え、床の状態も比較的良い。宿泊室に適していると判断されていた。

「ほかの教室を宿泊室にすると、配管の距離が延びます」

 三浦が説明した。

「この教室を資料室に替える場合、工事費が約三百万円増える見込みです」

「黒板一枚に三百万?」

 中井が声を上げた。

「黒板の移設費ではありません。客室の位置を変えるための配管と避難経路の変更です」

「ほな、写真撮って消したらええ」

 中井は言った。

「三百万あったら、ほかに使える」

 春江が黒板を見る。

「最後の子らに聞けんの?」

 森下が名簿を確認した。

「六人とも村外です。連絡先が分かる家もあります」

「書いた本人に聞いたらええ」

「全員が残してほしいと言ったら?」

 中井が尋ねた。

「三百万かけるんか」

 誰も答えなかった。

 美月は黒板の前へ進んだ。

 近くで見ると、白い文字の下に、何度も消した授業の跡が残っている。

 計算式。

 漢字。

 日直の名前。

 その上に、最後の言葉が書かれた。

「宿泊室の場所を、今日決め直すことはしません」

 美月は言った。

「書いた人へ連絡します。黒板の保存方法と移設費も、もう一度確認します」

「期限は?」

 中井が尋ねる。

「一週間です」

「また延びるんか」

「理由を聞かずに消したら、あとで戻せません」

 中井は不満そうだったが、反対はしなかった。

     *

 閉校時の六年生のうち、五人と連絡が取れた。

 三人は「残せるなら残してほしい」と答えた。

 一人は「写真で十分」と答えた。

 もう一人は、返事をするまで二日かかった。

『あの文字は自分たちが書きました。でも、ずっとあの日のままにしておく必要はないと思います。学校がまた使われるなら、次に使う人が書ける黒板にしてください』

 美月はその返信を、森下と一緒に読んだ。

「残してほしい、ではないんですね」

 森下が言った。

「消してほしい、とも書いていません」

「難しいですね」

「はい」

 三浦が保存業者へ相談し、別の方法を出した。

 黒板を壁から外さず、文字の残る部分を透明な保護板で覆う。宿泊室ではなく共用の資料室とし、隣の教室を客室にする。配管経路は変わるが、客室内の浴室を共用の家族風呂へ変更すれば、増額を百二十万円まで抑えられる。

「客室ごとの風呂をなくすんですか」

 会社の宿泊運営担当がオンライン会議で尋ねた。

「三室すべてではありません。一室だけ、家族風呂と近い位置にします」

「単価が下がる可能性があります」

「その分、部屋を広く取れます」

「宿泊者は、黒板の保存より専用風呂を選びます」

「全員がそうとは限りません」

「価格調査では、客室内の水回りを重視する回答が多いです」

「全三室へ独立した浴室を入れる案は、工事費も清掃時間も増えます。最初の体験家族は、山路館の共同浴場を利用しています」

「新しい施設を作るのに、設備を減らすんですか」

 美月は一度、黙った。

 宿泊者が求めるもの。

 村が残したいもの。

 工事費。

 運営負担。

 どれか一つだけで決めることはできない。

「三室すべてを、同じ仕様にする必要はありません」

 美月は短く返した。

「専用のシャワーを備えた部屋を二室。水回りを共用にして広く使える部屋を一室。料金も分けます」

「販売しにくくなります」

「選べるようになります」

「運営は複雑になります」

「予約画面と清掃手順を分けます」

 画面の向こうで、担当者は資料をめくった。

「田中さん。学校を残すことが優先されすぎていませんか」

「黒板一枚のためだけではありません。配管を各室へ引き込まないことで、古い床と壁を壊す範囲も減らせます。将来、客室の用途を変えやすくなります」

「収益性の再計算をしてください」

「行います」

 会議は、賛成でも反対でもなく終わった。

 美月は三室の価格を変え、稼働率を変え、清掃時間を減らし、再計算した。

 専用設備の少ない一室を、連泊者と親子体験向けに設定する。

 宿泊料金は下がる。

 しかし、初期工事費と清掃費も下がる。

 三年間の収支差は、会社案より小さかった。

 その数字を提出すると、宿泊運営担当は条件付きで了承した。

 閉校式の黒板は、元の壁に残ることになった。

     *

 校長室の机には、緑札が二枚、赤札が九枚入った。

 大きく、重く、引き出しの鍵がない。

 表面には深い傷があり、脚の一部がぐらついていた。

「これは残さんでええ」

 元保護者の女性が言った。

「校長先生が座っとっただけやろ」

「歴代の校長が使ったんやぞ」

 源造が反論する。

「それが何なん」

「学校の歴史や」

「何でも歴史言うたら、捨てられへんやないの」

 源造は机へ手を置いた。

「この机で、閉校の話もした」

「だから見たくない人もおるんよ」

 女性の声が震えた。

 美月は二人の間へ入らなかった。

 机そのものに、良い思い出だけがあるわけではない。

 残すことが、誰かの痛みを残すこともある。

「校長室ごと残す必要はありますか」

 三浦が尋ねた。

「改修後は、運営事務室の一部にする案です。この机を置くと、作業机を置く場所が狭くなります」

「資料室へ置けんか」

 源造が言う。

「机だけで、かなりの面積を取ります」

「解体して板を使うのは?」

 颯太が提案した。

「天板は厚いです。削れば、共用の大きなテーブルにできます」

「校長の机やなくなるやないか」

「形を残す必要があるんですか」

 颯太が源造を見る。

「木を残すんやったら、使えるものにした方がええ」

「何でも作り替えたら、元が分からん」

「元の形を写真と図面で記録します」

 美月が言った。

「天板の裏に、元校長室机と分かる小さな印を残すこともできます」

「客に説明するんか」

「聞かれたら説明します。でも、宣伝のために大きな札は付けません」

 源造は机の傷へ指を当てた。

「この傷も消えるんか」

 颯太が確かめる。

「削る深さによります。できるだけ残すことはできますけど、平らにはならんです」

「平らでなくても、机になるんか」

「食事には向かんかもしれません。作業台なら使えます」

 文江が言った。

「わら細工する台にしたらええやない。多少でこぼこしとっても困らん」

 源造はしばらく黙った。

「校長の机で、わら編むんか」

「校長先生も、怒らんやろ」

 文江が笑う。

 源造の口元がわずかに緩んだ。

 校長室の机は、黄色へ移された。

 形のまま保存するのではなく、天板を体育館の体験教室で使う大きな作業台へ変える。

 引き出しの一つは修理し、資料室へ残す。

 残すことは、元の姿へ固定することではなかった。

     *

 最も迷いなく赤が選ばれたのは、トイレと電気設備だった。

 和式便器。

 錆びた配管。

 容量の足りない配電盤。

 裸のまま増設された配線。

 割れたスイッチ。

 古い消火器。

 非常灯。

 これらには、思い出を理由に残したいという意見は出なかった。

 ただ、由がトイレの入口で言った。

「新しくするんやったら、若い人だけで決めんといて」

「どういう意味ですか」

 美月が尋ねる。

「手すりの場所や。図面で決めても、実際に立つ時に届かんことある。病院でも、遠すぎる手すりあるやろ」

「試作品を確認していただけますか」

「私一人やなくて、背の低い人、杖使う人、左手が動かしにくい人にも聞いた方がええ」

 美月は記録した。

「車椅子の方は、村におられますか」

「今は家からあまり出ん人がおる。本人が来られんかったら、家族に聞いたらええ」

「理解しました」

「温泉の手すりも同じやで」

「温泉の設計時にもお願いします」

 新しいものだから、専門家だけで決めてよいわけではない。

 新しい設備を実際に使うのは、図面の中の標準的な人間ではない。

 背の高さも、握る力も、歩く速さも違う。

 美月は赤の一覧に、新しい欄を増やした。

『使用者確認』

     *

 校庭の遊具は、ほとんどが赤だった。

 錆びた鉄棒。

 鎖の外れたブランコ。

 木部の腐った平均台。

 塗装の剝がれた滑り台。

 安全基準を満たさず、修理費も高い。

「全部なくしたら、校庭が寂しなるな」

 文江が滑り台を見た。

「新しいのを入れますか」

 美月が尋ねる。

「誰が使うんや」

「宿泊する子どもと、村へ来た家族です」

「村の子は?」

「今、村に住んでいる小学生以下の子どもは六人です」

「六人のためにも、あってええんと違う?」

 子どもを連れて説明会へ来た女性が言った。

「うちの子、遊ぶ場所ないから。公園まで車で行かなあかん」

「遊具を新設すると、定期点検と保険が必要です」

 三浦が説明した。

「誰でも自由に使える形にするか、施設の営業時間だけ開放するかも決めなければなりません」

「学校やのに、勝手に入ったらあかんの?」

 女性の隣にいた男の子が尋ねた。

 大人たちが黙る。

 閉校前の校庭は、子どもが遊ぶ場所だった。

 改修後は、宿泊施設の敷地になる。

 防犯と安全のため、誰でもいつでも入れるわけにはいかない。

「昼間は、村の子が使える時間を作ります」

 美月が答えた。

「ほんま?」

「ただし、大人が近くにいる時間です」

「誰が見るんや」

 中井が言った。

 また、運営する人の問題へ戻る。

「施設の職員が勤務している時間を基本にします」

「休業日は?」

「使えません」

「学校やったのに?」

 男の子の声は責めているようではなかった。

 だからこそ、美月は答えにくかった。

「前の学校と、同じ使い方にはできないの」

「なんで?」

「今は先生がいないから」

 男の子は校庭を見た。

「颯太兄ちゃん、おるやん」

 数人が笑った。

 颯太は困った顔をした。

「俺は先生やない」

「木のこと教えてくれるやん」

「毎日は無理や」

「ほな、いる時だけ」

 男の子は簡単に言った。

 大人たちが複雑にしていた問題を、子どもは必要な範囲へ小さくした。

 毎日でなくていい。

 誰かがいる時だけでも、使えればいい。

 校庭には大きな複合遊具を新設せず、低い鉄棒、木製の平均台、可動式の遊び道具を置く案が残った。

 壊れた滑り台とブランコは撤去する。

 撤去前に写真を撮り、滑り台の一部は校庭の案内板へ再利用することになった。

     *

 一か月の期限が近づく頃、一覧の大部分に方針が入った。

 校名板は、傷を直して玄関へ戻す。

 靴箱は二列を修理し、新しい棚と並べて使う。

 廊下の床板は、使えるものを戻し、傷んだ部分を村の杉材へ替える。

 教室の扉は、状態のよいものを残し、防火上必要な場所だけ新しい扉へ替える。

 窓は断熱と安全のため新しいガラスを入れるが、取り外した木枠の一部を室内の間仕切りに使う。

 黒板は、閉校式の文字が残る一枚を元の場所へ保存する。ほかの二枚は体験室と交流室で使い、傷みの強いものは記録後に撤去する。

 机と椅子は、状態のよい二十組を修理する。体験教室と読書室で使う。

 図書室の本棚は、土台から離した新しい配置にし、半分を修理、半分を新設する。

 家庭科室の古い調理台は撤去する。ただし、取っ手と琺瑯の流し台一台を残し、展示ではなく洗い場として使う。

 校長室の机は、わら細工と木工の作業台へ作り替える。

 卒業制作は、すべてを展示しない。作者と家族の意向を確認し、公開するもの、保存だけするもの、返却するものに分ける。

 体育館の舞台は残す。床と幕は新しくする。

 校庭の桜は、樹木医の診断を受け、危険な枝だけを落とす。

 玄関上の時計だけは、最後まで決まらなかった。

     *

 時計について話す会議には、源造のほか、地滑り当時に体育館へ避難した住民十一人が参加した。

 時計が止まったのは、地滑りが起きた時刻ではなかった。

 午後三時十八分、停電によって時計が止まった時刻だった。

 山が崩れたのは、その少し前。

 学校へ避難した人が全員そろったのは、日が暮れてからだった。

「三時十八分を、災害の時刻みたいに見せるのは違う」

 当時、消防団にいた男性が言った。

「時計が止まっただけや」

「でも、あの日に止まったんや」

 源造が返す。

「電気戻ってから、動かそうと思ったら動かんかった。みんな、それどころやなかった」

「二十年以上、そのままにした理由は?」

 美月が尋ねた。

「誰も直さんかったからや」

「意図的に残したわけではない?」

「最初はな」

 源造は腕を組んだ。

「でも、一年たっても二年たっても、三時十八分のままやった。学校へ来るたび、あの日のこと思い出した」

「子どもは困らなかったんですか」

「校内に別の時計があった。先生も腕時計しとった」

 結菜が言った。

「外から来た人が、災害で亡くなった人がいたと思うかもしれません」

 会場が静かになった。

 地滑りで家や土地を失った人はいた。

 しかし、学校で亡くなった者はいない。

 時計を悲劇の象徴として宣伝すれば、事実を歪めることになる。

「観光の話には使わんといてくれ」

 当時避難した女性が言った。

「写真撮って、『時が止まった村』とか書かれるのは嫌や」

 美月はうなずいた。

「宣伝には使いません」

「写真撮る客はおるやろ」

「時計を撮影禁止にはしません。ただ、災害について説明する表示を近くに置きます」

「止まったまま残すんか」

「それを、今日決めたいです」

 颯太が壁際から口を開いた。

「時計、二つにしたらどうです」

「二つ?」

 源造が振り向く。

「外の時計は、今のまま残す。建物の中に、新しい動く時計を付ける」

「外の時計、壊れたままにするんか」

「文字盤と針は直して、三時十八分で固定する。雨入らんようにして、落ちんようにする。時計としては動かさん」

「新しい時計は、どこへ?」

「玄関入ったとこ。今の時間が分かる場所です」

 美月は三浦へ確認した。

「可能ですか」

「可能です。外の時計は機械部分を外し、針を固定します。外観は補修します。内側には、停電時も動く電波時計を設置できます」

「外の時計だけ見た人が、時間を間違えへんか」

 中井が尋ねた。

「文字盤の下に、小さく説明を入れます」

 美月は紙へ文案を書いた。

『この時計は、地滑りが起きた日の停電後、午後三時十八分で止まりました。災害の記憶を残すため、針を当時の時刻のまま保存しています。現在時刻は、館内の時計をご確認ください』

「地滑りが起きた時間やないことも分かるな」

 消防団にいた男性が言った。

「はい」

「会社の名前は入れんといてくれ」

 源造が言う。

「入れません」

「村長の名前も要らん」

 山根が苦笑した。

「誰も入れ言うてへん」

 小さな笑いが起きた。

 外の時計は、三時十八分のまま残す。

 玄関の中には、新しい時計を置く。

 止まった時間と、今の時間を、同じ場所に並べる。

 その案に反対する者はいなかった。

     *

 最終一覧をまとめると、保存と再利用にかかる追加費用は九百六十万円になった。

 会社の当初案より高い。

 古い床板を外し、番号を付け、補修して戻す費用。

 黒板を保護する費用。

 靴箱と机の修理。

 建具の再利用。

 時計の保存。

 一方で、将来用途を決める教室の内装を最低限にし、三室のうち一室から専用水回りを外すことで、七百四十万円を削減できた。

 差額は二百二十万円。

 美月はその数字を本社へ提出した。

 小田切から、オンライン会議で尋ねられた。

「二百二十万円を、残すための費用として認めてほしいということですか」

「はい」

「事業上の効果は?」

「地域との合意形成だけではありません。建物の由来を隠さず、宿泊者が村の時間へ触れられる場所になります」

「展示物を増やす?」

「増やしません。説明札も最小限にします。使えるものは使います。使わないものを、懐かしさだけで並べる計画にはしません」

「古い学校らしさを売りにしないのか」

「学校であったことは伝えます。ただ、古さを演出するために不便を残しません」

「広告は、何を見せる」

「完成後に実際の使われ方を見てから決めます」

「先に販売計画が必要です」

「写真映えを理由に残すものを決めると、村の人が嫌がるものまで広告へ使うことになります」

「すべて住民へ確認していたら、広報できない」

「公開してよい範囲を、先に決めます」

 小田切は美月の資料を読み返した。

「田中さん。この二百二十万円は、会社負担に入っていますね」

「はい」

「村の記憶を残す費用を、なぜ会社が払う」

「会社の施設運営に必要な設計変更と、宿泊者が使う部分だからです。村だけの保存資料は、公共側へ分けています」

「会社が撤退した場合は?」

「残したものは村へ帰属します」

「会社の資産にはならない」

「なりません」

「それでも必要だと?」

「はい」

 しばらく沈黙が続いた。

 小田切は画面の向こうで、誰かと短く話した。

「二百二十万円は、設計変更費として認めます。ただし、今後、残すものが増えても追加は認めません」

「今回の一覧で確定します」

「例外は?」

「安全上、新たな問題が見つかった場合のみ、再申請します」

「分かりました」

 会議が終わったあと、美月は椅子の背へ体を預けた。

 村の思い出を、すべて会社の利益へ言い換えずに済んだ。

 同時に、会社の金を使う理由も示さなければならなかった。

 どちらか一方だけでは、残せないものがある。

     *

 十一月の初め、学校の廊下から三色の札が外された。

 代わりに、各部屋の入口へ一枚ずつ白い紙が貼られた。

『残すもの』

『直して使うもの』

『新しくするもの』

『記録して撤去するもの』

 その下に、決まった内容と理由が書かれている。

 図書室の紙には、春江の言葉が載った。

『大人も本を読む。毎日開かなくても、村に本を置ける場所が必要』

 体育館の紙には、由の意見が載った。

『災害時に高齢者が使える手すりとトイレを、実際に使う人が確認する』

 校庭の紙には、男の子の言葉が載った。

『毎日でなくても、誰かがいる時に遊べる場所にする』

 美月は最後に、昇降口の紙を貼った。

『外の時計は三時十八分のまま保存する。館内には、今の時刻を示す新しい時計を設置する』

 作業を終え、少し離れて校舎を見る。

 古い時計は、まだ止まっている。

 廊下には傷んだ床板が残り、教室の壁には雨染みがある。工事は始まっていない。資金も、すべて決まったわけではない。

 それでも、何を残し、何を変えるかは、少しずつ言葉になった。

 颯太が昇降口から出てきた。

「全部、決まりました?」

「一覧にしたものは」

「あとから、これも残したいって出てきますよ」

「その時は、ほかの何を諦めるか一緒に聞きます」

「厳しいですね」

「何でも残すとは言えませんから」

 颯太は玄関上の時計を見上げた。

「新しい時計、どんなのにするんです」

「まだ決めていません」

「また会議ですか」

「時計の形まで住民会議にはしません。設計者から三案出してもらいます」

「田中さんが選んだらええのに」

「私が?」

「外の時計は村が選んだ。今から動く方は、これから使う人が選んだらええ」

「私は、三年後に帰るかもしれません」

「今、使う人ではあるでしょう」

 美月は校舎のガラスへ映った自分を見た。

 防水靴。

 作業用のジャケット。

 図面の入ったバッグ。

 三か月前に金網の外から写真を撮った時とは違う。

「考えておきます」

「丸投げしましたね」

「頼まれたと受け取ります」

「仕事にせんといてください」

 颯太は先に坂道を下り始めた。

 美月はもう一度、時計を見上げた。

 三時十八分。

 あの日から動かない時刻。

 その下に、これからの時間を刻む新しい時計が置かれる。

 古いものと新しいものは、どちらか一つを選ぶためにあるのではない。

 二つを並べることで、初めて見える時間もある。

 美月は校舎へ背を向け、颯太のあとを追って坂道を下りた。


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