第十六章 全部を直す理由
精密調査の日は、朝から空が高かった。
三日前まで続いた雨が嘘のようにやみ、濡れた杉の梢に薄い朝日が当たっている。
午前八時前、旧清澄小学校の校庭へ、県外ナンバーのワゴン車が二台入ってきた。
一台目から降りたのは、創生都市開発の施設技術部に所属する三浦紗季だった。灰色の作業着を着た、四十歳前後の女性である。後ろで短く結んだ髪の上から白いヘルメットをかぶり、車を降りるとすぐに校舎の屋根へ目を向けた。
二台目には、構造設計事務所の本庄と、屋根、電気、給排水を担当する技術者が乗っていた。
全員がそろうと、三浦は昇降口の前で調査工程を確認した。
「今日は目視調査と床下、天井裏の確認を行います。明日、必要な箇所を一部開口し、木材の含水率と腐朽状態を調べます。体育館は耐震診断のため、柱と接合部の寸法を測ります」
美月、森下、藤井、颯太が説明を聞いている。
源造は少し離れたところに立ち、腕を組んでいた。
「壁を壊すんですか」
源造が尋ねた。
「壊すというより、内部を確認するために小さく開けます」
三浦は答えた。
「開けた場所は、調査後に仮復旧します。どこを開けたか、写真と図面に残します」
「昔の板、捨てんといてください」
「勝手に廃棄しません。取り外したものには番号を付け、保管します」
「机も動かすんか」
「床を確認するため、動かす場所があります」
「どこへ持っていく」
「同じ教室内で移動するか、空いている教室へ一時保管します」
源造は一つずつ確かめた。
三浦は面倒そうな顔をせず、すべてに答えた。
美月は調査同意書を源造へ見せた。
「備品を移動する前と後に撮影します。廃棄は、村と住民の確認なしには行いません」
「住民いうても、誰に聞くんや」
「学校の備品と資料を確認する委員を、今月中に決めます」
「わしが入るとは言うてへんぞ」
「まだお願いしていません」
「頼まれても、やるか分からん」
「承知しました」
源造は不満そうに鼻を鳴らした。
それでも、帰ろうとはしなかった。
*
調査は昇降口から始まった。
技術者が床を細い棒でたたき、音の違いを確認していく。別の技術者は、壁際へ小さな測定器を当てた。
「ここの含水率、高いですね」
三浦が数値を読み取る。
「雨が入っているんですか」
美月が尋ねた。
「外壁からの浸入か、床下の湿気か。今の段階では分かりません」
三浦は腰を下ろし、靴箱の下を懐中電灯で照らした。
「床下換気口が、土と落ち葉で半分ふさがっています。湿気が抜けにくくなっていますね」
颯太が外へ回り、換気口を確認した。
「草刈りの土が流れたんやと思います」
「ここは清掃すれば改善します。ただ、床材の一部は交換が必要です」
「全部ですか」
「まだ決められません。使える板まで替える必要はありません」
三浦は靴箱へ目を向けた。
木製の小さな棚に、薄くなった名前のシールが残っている。
「これは残すんですか」
「まだ決めていません」
美月が答えると、源造が横から言った。
「残したらええ。まだ使える」
「宿泊客の靴を入れるには、奥行きが足りません」
三浦は棚を測った。
「今の大人用の靴だと、かかとが出ます。子ども用として残す方法はありますが、全員分をこれにするのは難しいです」
「昔は、みんな入れとった」
「昔の子どもの靴ですから」
源造は靴箱を見た。
納得したのかどうかは分からなかった。
三浦は棚の側面へ緑色の小さな付箋を貼った。
「これは何です?」
森下が尋ねた。
「ひとまず保存候補です。残すと決めたわけではありません。黄色は再利用を検討するもの、赤は安全上の理由で交換が必要なものにします」
「そんな色、勝手に付けてええんか」
源造が言った。
「剝がせる付箋です」
「そうやなくて、赤を付けたら捨てるみたいやろ」
「赤は、今のままでは使えないという意味です。直して使えるものもあります」
三浦は赤い付箋を一枚、源造へ渡した。
「大西さんも、危ないと思うところがあれば貼ってください」
「わしは建築屋やない」
「この学校を使っていた人にしか分からない危険もあります」
源造は付箋を受け取った。
すぐには貼らず、作業着の胸ポケットへ入れた。
*
一階の廊下を進む。
図書室では、床の一部が沈んでいた。
本棚を動かすと、壁の下に黒い染みが広がっている。技術者が含水率を測り、別の者が床下へ小型カメラを入れた。
「土台に腐朽があります」
画面を見た本庄が言った。
「範囲は?」
「この壁沿いに、少なくとも三メートル。明日、一部を開けないと奥まで分かりません」
春江が残してほしいと言った図書室だった。
美月は黒い染みを見つめた。
「部屋ごと使えない可能性がありますか」
「補強と交換で直せる可能性は高いです。ただし、本棚を戻すなら床荷重も確認しなければなりません。本は重いですから」
部屋の中央には、古い長机が二つ置かれている。
天板には、鉛筆の跡や細かな傷が残っていた。
三浦が机へ手を置く。
「これは修理すれば使えそうですね」
「宿泊施設の家具にしますか」
森下が尋ねる。
「その前に、誰のものか確認が必要です。学校備品なら村の財産です。勝手に事業用へ移せません」
美月は手帳へ書き込んだ。
『備品台帳の確認』
建物を残すだけではない。
中にあるもの一つずつに、所有者と履歴がある。
黒板。
机。
椅子。
時計。
卒業制作。
学校が閉じたあとも、物の所有権まで消えたわけではない。
次に旧職員室へ入った。
壁際には書類棚が並び、段ボール箱が積まれている。窓枠の一部が腐り、雨が吹き込んだ跡があった。
技術者がコンセントのカバーを外した。
「電気配線は、全面更新ですね」
「使えるところはありませんか」
美月が尋ねる。
「安全を保証できません。絶縁性能も落ちています。増設を繰り返した跡があり、図面と一致しない配線があります」
「照明も?」
「器具はすべて交換です。配電盤も容量が足りません。宿泊設備、厨房、給湯、非常用電源を入れるなら、新しく引き直す必要があります」
給排水も同じだった。
水道管は複数箇所で錆び、閉校後に止めたままの区画では、内部の劣化が進んでいる。トイレは和式が中心で、排水能力も不足していた。
「三室だけ直す場合でも、ここまで必要ですか」
藤井が尋ねた。
「三室へ水を運ぶ管だけ新しくすることはできます」
給排水の技術者が答えた。
「ただし、住民利用の部屋や体育館も使うなら、結局は共通配管を直すことになります。古い管を残した場所で漏水すれば、新しくした区画にも影響します」
「使わん教室は水を止めたら?」
「止めることはできます。ただ、建物全体の凍結対策と維持管理は必要です」
三室だから、三室分の工事だけで済むわけではない。
屋根も、電気も、水道も、避難経路も、建物の途中で都合よく切ることはできなかった。
*
二階の東側は、立ち入り人数を制限した。
美月と森下は廊下の手前までにし、三浦、本庄、颯太だけが雨漏りした区画へ入った。
垂れ下がっていた天井板は、二日前に一部が落ちた。
床に破片が散らばり、その周囲がロープで囲まれている。
天井裏へ小型カメラを入れると、画面に黒ずんだ梁が映った。
本庄が木材の表面を細い器具で押す。
「表面は傷んでいますが、芯まで腐っているかは明日の検査ですね」
「屋根の範囲は、どれくらいですか」
美月が廊下の外から尋ねた。
「雨漏りの位置だけを直せば済む状態ではないと思います」
三浦が答えた。
「瓦のずれ、防水層の劣化、谷部分の板金の腐食があります。校舎の屋根は、ほぼ全面をやり直す可能性が高いです」
「瓦は使えますか」
「割れていないものは再利用できます。ただ、外して選別し、再施工する方が、新しい材料より人件費がかかる場合があります」
颯太が天井裏を見上げた。
「この梁、村の木ですか」
「建築当時の記録があれば確認できます」
本庄が木材の寸法を測った。
「いい材を使っています。今の同規模建物なら、これだけ太い無垢材をそろえるのは簡単ではありません」
「ほな、残せる?」
「状態が良ければ」
「状態が悪かったら?」
「同じ寸法の材を継ぐか、補強材を入れます。全部取り替える必要はないかもしれません」
颯太は梁から目を離さなかった。
自分の家族が関わった木かもしれない。
そう思っているのだろうと、美月は考えたが、口にはしなかった。
*
体育館では、床下の湿気と、屋根の接合部が問題になった。
建物全体がすぐに倒れる状態ではない。
しかし、現在の耐震基準を満たしておらず、避難所として使うなら大規模な補強が必要だった。
本庄は壁際の柱を測りながら説明した。
「筋交いを増やすだけでは足りません。屋根と壁、基礎を一体で補強する必要があります」
「費用は?」
藤井が尋ねる。
「計算しないと出せませんが、当初概算より上がると思ってください」
「どれくらい」
「今、数字を言えば独り歩きします」
「議会へ説明するのに、幅だけでも要るんです」
「調査が終わってから出します」
本庄は譲らなかった。
体育館の奥には、地滑りの際に使った古い毛布と折り畳みベッドが残っていた。
源造が用具室の扉を開ける。
「ここ、備蓄庫にする言うてたな」
「はい」
美月が答える。
「でも、今の広さでは足りないそうです。宿泊者を含む想定避難者数から必要量を計算します」
「昔は、あるもんで何とかした」
「昔と同じ人数ですか」
「今は少ない」
「高齢者の割合は増えています。必要な薬や介護用品も違います」
源造は古い毛布の束を見た。
「全部、新しくするんか」
「使用期限と保存状態を確認します」
「捨てるんやったら、雑巾にでもしたらええ」
「処分方法も相談します」
美月が答えると、源造は胸ポケットから赤い付箋を取り出した。
毛布を置いた木製の棚へ貼る。
「これは、ぐらぐらしとる。地震来たら倒れる」
三浦が棚を確かめた。
「本当ですね。固定するか、交換が必要です」
「赤で合っとるか」
「はい」
源造は何も言わず、もう一枚の赤い付箋を受け取った。
*
調査二日目には、住民六人が立ち会った。
春江は図書室。
文江は家庭科室と体育館。
川根由はトイレと温泉へ続く外の動線。
中井は校庭と周辺道路。
源造は校舎全体。
颯太は木材と屋根。
全員が改修に賛成しているわけではない。
それでも、調査で何が行われるのか、自分の目で確かめたいと集まった。
春江は図書室の床が開けられると、壁際でじっと見ていた。
黒くなった土台の一部を本庄が削り、内部の硬さを確認する。
「虫に食われとるんですか」
「一部に蟻害があります」
「シロアリ?」
「跡はあります。ただ、今も活動しているか調べます」
「本、置かれへんの?」
「直せば置けます」
「直るんですか」
「直せます。ただし、費用はかかります」
春江は胸の前で両手を握った。
「直せるんやったら、直してほしい」
「どの部屋も、直そうと思えば直せるんですか」
美月が本庄へ尋ねた。
本庄はすぐには答えなかった。
「技術的には、直せる建物が多いです。問題は、直す費用と、直したあと使い続ける理由があるかです」
「直せることと、直すべきことは違う?」
「はい」
春江が二人を見る。
「図書室は、直すべきやと思います」
「その理由を、次の会議で聞かせてください」
美月が言うと、春江はうなずいた。
*
家庭科室には、古い調理台が四台残っていた。
水道の蛇口は錆び、ガス管は閉じられている。収納棚の扉はゆがみ、一部が閉まらなかった。
「これは全部替えるんやろ」
文江が調理台をたたいた。
「宿泊者の食事を作る厨房にするなら、衛生基準を満たす設備が必要です」
三浦が答えた。
「今の調理台は使えません」
「学校の給食、ここで作っとったんやないで。子どもが料理を習う部屋や」
「体験用の調理室として残す案もあります」
美月は図面を開いた。
「本格的な厨房は別に設け、ここでは少人数の郷土料理体験を行う方法です」
「別に作ったら、金かかるやろ」
「かかります」
「ここを厨房にしたらええやないか」
「宿泊者の食事を毎日作る場所と、体験参加者が使う場所を同じにすると、衛生管理と時間調整が難しくなります」
「毎日、食事出すんか」
「夕食と朝食を基本に考えています。ただし、最初から村の人だけで調理を担う計画にはしません」
文江は古い流し台の蛇口をひねった。
水は出ない。
「ここ、昔は冬になると水が冷たうてな。子どもら、洗いもん嫌がっとった」
文江は笑ったあと、蛇口から手を離した。
「全部、新しいのに替えたら、この部屋やなくなる気がする」
「古い設備を残して事故が起きれば、使えません」
美月が言うと、文江は少し顔をしかめた。
「分かっとる。分かっとるけど、何でも新しくしたらええとは思わん」
「私も、そう思います」
「東京の会社が?」
「私が、です」
文江は美月を見た。
「会社は、どう思っとる」
「安全に使えて、維持費が抑えられ、事業として必要な設備を求めています」
「ほな、古いもんは邪魔やろ」
「残すことが、この施設を選ぶ理由になるなら、会社にとっても価値があります」
「客に見せるために残すんか」
「それだけではありません」
「ほな、誰のため?」
美月はすぐに答えられなかった。
村の人のため。
宿泊客のため。
学校の記憶のため。
どれも間違いではない。
だが、どれか一つに決めれば、ほかが薄くなる。
「次の会議で、それを決めたいです」
文江は苦笑した。
「まだ決めること増やすんか」
*
三日間の調査が終わったあと、結果がまとまるまで二週間かかった。
その間、美月は毎朝、学校の前を通った。
調査で開けた壁と床には仮の板が当てられ、赤、黄、緑の付箋が校内のあちこちに残っている。
赤が多い場所。
緑が多い場所。
一つの扉に、三色すべてが貼られている場所もあった。
扉本体は修理できる。
ガラスは安全なものへ交換。
取っ手は残せる。
古いものと新しいものは、部屋単位では分けられなかった。
*
調査結果の報告会は、十月半ばに村役場で行われた。
午前中は、村長、役場、会社、調査関係者による会議。
夜は住民向けの説明会。
東京本社からは黒田と三浦が出席し、小田切と財務部はオンラインで参加した。
本庄が最初の結論を述べた。
「旧清澄小学校の校舎は、改修可能です」
森下が小さく息をついた。
山根は表情を変えなかったが、机の下で握っていた手を緩めた。
「解体せんでもええということですか」
「構造上、直ちに全体を解体しなければならない状態ではありません。ただし、現在のまま使用を再開することはできません」
本庄は調査写真を示した。
屋根の広範囲な劣化。
二階東側の梁の腐朽。
一階図書室周辺の土台の蟻害。
古い電気配線。
給排水管の腐食。
防火区画の不足。
避難経路の問題。
段差。
不足する耐震性能。
「主要な柱と梁の多くは、補強と一部交換によって残せます。基礎も、想定していたより状態が良い箇所があります。一方で、屋根はほぼ全面的な改修が必要です」
「費用は?」
山根が尋ねた。
三浦が資料を配った。
「校舎と体育館を全面改修する場合、概算で二億七千八百万円です」
誰もすぐには言葉を発しなかった。
紙をめくる音だけが聞こえる。
「前は、二億四千万まで言うてませんでしたか」
藤井が尋ねた。
「精密調査前の上限概算です」
三浦は答えた。
「追加になった主な費用は、屋根の全面改修、図書室周辺の土台交換、電気設備の全面更新、体育館の基礎補強、防火設備です。それから、一部の天井材と配管保温材にアスベストを含む可能性があり、除去費用を計上しています」
「可能性?」
「分析結果が出た箇所は含有が確認されました。封じ込めで対応できる部分もありますが、改修範囲では除去が必要です」
「三千八百万円も増えたんか」
山根は資料を見つめた。
「部分改修なら、いくらです」
小田切の声がスピーカーから聞こえた。
三浦が次の表を示す。
「宿泊室三室、管理室、最小限の厨房とトイレ、一つの避難経路だけを使える状態にする案で、一億九千四百万円です」
「三室だけで?」
山根が顔を上げた。
「屋根、電気の幹線、給排水の共通部分、防火設備が必要です。使わない区画を完全に切り離すための壁と防火扉も追加しなければなりません。体育館を避難所として使う場合は、さらに費用がかかります」
「校舎の半分を壊したら?」
総務課長が尋ねた。
「解体費、残す部分の外壁新設、構造補強が必要です。アスベスト除去もあります。概算では、部分改修と合わせて二億二千万円前後です」
「壊す方が高いんですか」
「すべてではありませんが、この建物は廊下を中心に構造がつながっています。途中で切れば、切った面を新しい外壁にし、構造を補強しなければなりません」
藤井が三つの数字を紙へ書いた。
部分改修、一億九千四百万円。
半分解体と改修、二億二千万円。
全面改修、二億七千八百万円。
「差は八千四百万円か」
山根が言った。
「八千四百万円を、安いとは言えません」
三浦が答える。
「ただし、部分改修では住民交流室、図書室、体験室の多くが使えません。使わない区画も、屋根と外壁の最低限の維持管理は必要です」
「閉めといたらええやないか」
「閉めても、建物は傷みます。数年後に追加改修しようとすれば、今回より高くなる可能性があります」
小田切が画面越しに美月へ尋ねた。
「田中さん。宿泊室は三室で始めるという提案でしたね」
「はい」
「三室の事業のために、二億七千八百万円をかけるのですか」
「宿泊室三室だけのためではありません」
「では、会社が負担するのは、どこまでです」
「宿泊区画、事業用厨房、管理設備、予約と通信設備。共通部分については、事業利用の割合に応じて負担します」
「割合は?」
「現在、三浦さんと財務部で算定中です」
「全面改修を選べば、会社負担も増える」
「はい」
「三室事業の収益では回収できません」
「会社だけで全面改修費を回収する計画ではありません」
「公共部分を県と村へ負担させるという意味ですか」
声は冷静だった。
美月は資料を開いた。
「公共部分は、公共性を説明した上で、村、県、国に支援を求めます。ただし、補助金で事業赤字を埋めません。会社が使う区画と、会社の事業によって必要になる設備は、会社側の責任として計上します」
「それでも、全面改修にする理由を会社へ示す必要があります」
「三つあります」
美月は立ち上がった。
「一つ目は、安全性です。部分改修では、使う区画と使わない区画を完全に分けるため、追加の防火壁と避難設備が必要になります。雨漏りや漏電が使わない区画で発生しても、建物全体へ影響します」
図面の中央を指す。
「二つ目は、事業の継続性です。宿泊室が三室でも、雨の日に使う体験室、住民との交流室、資料室がなければ、清澄村で滞在する価値を作れません。宿泊室だけ直せば、山路館との差別化も弱くなります」
「三つ目は?」
「将来の選択肢です」
美月は二階の空き教室を示した。
「最初は三室でも、運営人材と需要が確認できれば六室へ増やす可能性があります。今、使わない区画を放置すれば、増室する時に再び大規模工事が必要になります。反対に、宿泊需要が増えなくても、住民利用と防災機能は残ります」
「宿泊事業が失敗しても、公共施設は村に残る?」
「はい」
「それは会社にとって、どういう利益になる」
「撤退時の損失と責任を限定できます。会社が専有する建物ではなく、村が使い続けられる施設なら、事業を縮小しても建物全体が無駄になりません」
小田切はすぐに返事をしなかった。
黒田が腕を組んだまま尋ねた。
「田中。全面改修したい本当の理由は何だ」
「今、説明した三つです」
「それだけか」
美月は止まった時計の写真を見た。
学校を残したい。
その思いが、自分の中にあることは否定できない。
だが、それだけで二億七千八百万円を使うことはできない。
「部分改修では、使わない場所を建物の中に残すことになります」
美月はゆっくり答えた。
「廊下の途中に壁を作り、その先へ誰も入れなくする。雨漏りがあっても、予算がないから直さない。宿泊者には見せない。でも、村の人は、その向こうに何が残っているか知っています」
「感情の話か」
「感情もあります」
美月は認めた。
「ただし、事業上の問題でもあります。使わない場所の劣化は、建物全体の維持費と安全に影響します。隠した区画がある施設を、村と共同で運営しているとは言えません」
「全部を使う予定があるのか」
「すべてを毎日使う必要はありません。予約制の部屋、季節ごとに使う部屋、資料を保存する部屋があってもいい。大切なのは、危険だから閉じたままの場所を残さないことです」
黒田は三浦を見た。
「技術的には、全面改修が合理的か」
「長期利用を前提にするなら、合理性はあります」
三浦が答えた。
「初期費用は高くなります。ただ、屋根と構造を全体で直し、設備の幹線を更新すれば、あとから区画を変えやすい。部分改修を二回、三回と繰り返すより、総額を抑えられる可能性があります」
「耐用年数は?」
「適切に維持すれば、少なくとも三十年を目標にできます」
山根が顔を上げた。
「三十年……」
「ただし、維持管理を続けることが条件です」
三浦は強調した。
「木造建物は、直したら終わりではありません。屋根、塗装、床下、配管を定期的に点検する必要があります。毎年の修繕積立を計画に入れてください」
「年間、どれくらいです」
「初期は少なくても、将来に備えて建物取得価額の一定割合を積み立てるべきです。具体額は設備内容が決まってから算定します」
「また金が増えるな」
山根がつぶやいた。
「維持できないなら、建てない方がいいです」
三浦は静かに言った。
美月はその言葉を、手帳へ書かなかった。
すでに何度も、頭の中へ刻まれていた。
*
昼休み、美月は校舎の前で黒田と話した。
黒田は東京へ戻る前に、自分の目で建物を見たいと言った。
二人は調査用のヘルメットをかぶり、校庭から屋根を見上げた。
止まった時計は、三時十八分を指している。
「思っていたより大きいな」
黒田が言った。
「建物がですか」
「金額だ」
「はい」
「二億七千八百万円で収まる保証もない」
「設計を進めれば、さらに増える可能性があります」
「会社では、部分改修へ戻せという意見が出る」
「忘れてはいません」
「県と国の制度が使えなければ、全面改修は難しい」
「はい」
「それでも、全面改修案を基本にするのか」
「したいと考えています」
黒田は校舎の右端を見た。
二階東側の窓には、立入禁止を示す紙が貼られている。
「お前の父親も、全部を作り替えようとしたんだったな」
突然の言葉に、美月は黒田を見た。
「なぜ、その話を」
「人事資料に、最低限の記録はある」
「父の会社と、この事業は関係ありません」
「分かっている」
黒田は視線を校舎から外さなかった。
「ただ、全部を直すという言葉には気をつけろ。全部を新しくする、と聞こえる」
美月は家庭科室での文江の言葉を思い出した。
全部新しくしたら、この部屋ではなくなる。
「全部を直すことと、全部を新しくすることは違います」
「その違いを、金額と図面で示せ」
「はい」
「思い出を残す、だけでは社内決裁は通らない」
「思い出が利用者にとって価値になるなら、事業性があります」
「何でも事業価値に置き換えるな」
美月は言葉を失った。
黒田は初めて、美月へ顔を向けた。
「村の人にとって大事だから残すものがあってもいい。ただし、その費用を会社が出すのか、村が出すのかを分けろ。価値があると言えば、全部会社の投資対象になるわけじゃない」
「分かっています」
「お前は今、村に残したいものを、会社の言葉へ翻訳しようとしている」
「必要だからです」
「翻訳するうちに、元の意味を変えるなよ」
黒田は時計を見た。
「夜の住民説明会には出られない。東京から聞く」
「承知しました」
「田中」
「はい」
「全面改修を望むなら、残すものより、捨てるものを先に決めろ」
「捨てるもの?」
「金は有限だ。全部を残すと言った瞬間、重要なものの順位が消える」
黒田は校庭へ止めた車へ向かった。
美月はその背中を追わなかった。
振り返ると、校舎の窓に午後の光が反射していた。
*
夜の住民説明会には、前回より少ない三十九人が集まった。
調査結果の概要と費用がスクリーンへ映される。
『全面改修 二億七千八百万円』
数字が表示された瞬間、会場がざわついた。
「村の一年分の金より多いんと違うか」
「そんな金、学校に使えるか」
「国が出すんやろ」
「全部は出ん言うてたやないか」
美月は声が収まるまで待った。
「二億七千八百万円は、現時点の概算です。国、県、村、会社の負担割合は決まっていません」
「村はいくら出すんや」
中井が尋ねた。
「まだ算定できません」
「前と同じやないか」
「調査前より、必要な総額と工事内容は明確になりました。次に、公共部分と事業部分の費用を分けます」
「全面改修に決めたんか」
「決まっていません」
「田中さんは、全部直したいんやろ」
「はい」
美月は答えた。
住民の視線が集まる。
「なぜですか」
春江が尋ねた。
「図書室を残すため?」
「それも一つです」
美月は三つの改修案を示した。
「三室だけを使う部分改修でも、一億九千四百万円かかります。屋根、電気、水道、避難設備は、建物全体に関わるからです。使わない区画を閉じても、維持管理費は残ります」
「ほな、差は八千四百万やろ」
「はい」
「八千四百万あったら、バス何年走らせられると思っとる」
中井の声が強くなる。
「その比較は必要です」
「必要やなくて、答えを聞いとる」
藤井が資料を確認した。
「今の村営バスの年間運行費から補助を引いた村負担で考えると、十年以上です」
会場がどよめいた。
中井は美月を見た。
「学校全部直す代わりに、十年以上バスを走らせられる。どっちが村の暮らしに要るんや」
「どちらか一つしか選べないと決まったわけではありません」
「村の金は一つや」
「はい」
「県の金も国の金も、元は税金や」
「はい」
「思い出のために使う金やない」
美月は否定しなかった。
「学校を思い出だけのために残すつもりはありません」
「図書室も、わら細工も、なくても生活はできる」
「できます」
「ほな、バスや診療所が先や」
「そう考える方がいることも理解しています」
「理解やなくて、田中さんはどう思う」
中井は答えを求めていた。
どちらにも利点がある、という説明では足りない。
美月は正面から答えた。
「学校の全面改修を目指すべきだと思います」
会場の空気が止まった。
「バスより?」
「同じ予算から同額を出すなら、比較が必要です。ただし、学校改修には、国や県の施設整備支援と会社の出資を組み合わせます。バスの運行費とは、使える制度が異なります」
「結局、外の金なら使うんか」
「外の金も税金であり、会社の資金です。無駄にしていいとは思いません」
「なら、なんで全部や」
美月はスクリーンの図面を消した。
白い壁だけが映る。
「三室の宿泊室だけなら、この学校である必要がないからです」
住民の顔を一人ずつ見た。
「三室だけをきれいにし、廊下の途中に壁を作り、その先を閉鎖する。図書室も体育館も使えない。雨漏りした教室には入れない。その状態なら、空き家を三軒直す方が安く、運営もしやすいです」
「学校を使う意味がない?」
「宿泊だけなら、です」
美月は続けた。
「学校を使うなら、宿泊者が寝る場所だけではなく、村の人が本を読む場所、体験を教える場所、雨の日に子どもが体を動かす場所、災害時に避難する場所として使える状態にする必要があります」
「毎日、全部使うんか」
「使いません」
「使わん部屋に金かけるんか」
「毎日使わなくても、必要な時に安全に使えるようにします。使い方の決まらない部屋は、無理に内装を作り込みません。構造と設備を直し、将来変えられる状態にします」
文江が手を上げた。
「全部直すいうことは、昔のままに戻すん?」
「いいえ」
「家庭科室も?」
「今の設備をそのまま使うことはできません」
「黒板も、机も、靴箱も、全部きれいにするんか」
「残すものと替えるものを、これから一つずつ決めます」
「誰が決める?」
「村の皆さんと、設計者と、運営する人です」
中井が首を振った。
「また会議か」
「はい」
「いつまで話すんや」
「一か月で決めます」
美月は言い切った。
「校舎内の物と場所を一覧にします。残す、直して使う、別の用途へ変える、記録して撤去する。その四つに分けます」
「一か月で全部?」
「はい」
「無理や」
「期限を決めなければ、設計へ進めません」
源造が前列から声を出した。
「時計は残す」
全員が源造を見る。
「玄関の上の時計や。止まっとるけど、あれは残す」
「理由を聞かせてください」
美月が言うと、源造は顔をしかめた。
「理由がないと残せんのか」
「優先順位を決めるためです」
「山が動いた時に止まった。学校へ避難した時間や」
「三時十八分ですね」
「そうや」
「動く時計として直しますか。それとも、止まったまま残しますか」
源造は答えなかった。
今まで、残すか捨てるかだけを考えていたのだろう。
止まった時計を動かすのか。
止まった時間そのものを残すのか。
それも決めなければならない。
「次の会議で話します」
源造が言った。
「はい」
美月はホワイトボードへ最初の項目を書いた。
『玄関上の時計』
その横へ、二つの選択肢を並べる。
『修理して動かす』
『三時十八分のまま保存する』
住民たちは白い文字を見つめていた。
*
説明会の最後に、山根が全面改修案の扱いを確認した。
「今日、工事を決めるわけではありません。ただ、県と国へ相談する基本案を、全面改修とするかどうかを確認したい」
中井が手を上げた。
「全面改修案を出したら、それで決まりみたいに進むんと違うか」
「部分改修案と解体案も、比較資料として残します」
美月が答えた。
「全面改修の費用分担が成立しない場合は、規模を見直します。村の負担上限も、議会で決めていただきます」
「上限を超えたら?」
「中止を含めて再判断します」
「いつ決める」
「設計へ入る前です」
中井は腕を組んだ。
「全部直せるなら、直したい気持ちはある」
声が少し低くなった。
「けど、直したあとで、金がないからバス減らします、診療所の補助減らします、言われたら賛成できん」
「その条件を記録します」
「わし一人の条件やないぞ」
「同じ考えの方はいますか」
会場で、十人ほどが手を上げた。
美月は人数を数えた。
「村の既存サービスを削減して改修費へ充当しないこと。これを費用分担の条件案に入れます」
山根が驚いた顔をした。
「そこまで約束したら、村の出せる金が減る」
「だから、今決める必要があります」
「国や県の補助が少なかったら?」
「全面改修を断念する可能性があります」
会場が静かになる。
残したい。
だが、何を犠牲にしても残すわけではない。
その線を、これから引かなければならない。
山根は出席者を見回した。
「全面改修案を基本に、国、県、会社との費用協議を進める。村負担の上限と、既存サービスを削らない条件を先に決める。工事の実施は、費用分担が出てから改めて判断する。それでええですか」
拍手はなかった。
反対の声も上がらなかった。
何人かが隣同士で話し、やがて静かになった。
中井が言った。
「条件を紙にして、全戸へ配ってくれ」
「配ります」
森下が答えた。
「会議へ来られなかった人からも、意見を受けます」
山根はうなずいた。
「ほな、その形で進めます」
全面改修が決まったわけではない。
それでも、部分的に塞いで使う案から、学校全体をもう一度使える建物にする案へ、村は一歩進んだ。
*
説明会が終わったあと、美月は一人で旧清澄小学校へ向かった。
夜の坂道は暗かった。
懐中電灯を足元へ向け、ゆっくり上る。
校庭の入口から先へは入らなかった。
雨雲はなく、月の光が校舎の輪郭を薄く照らしている。
玄関上の時計は、暗闇の中でも三時十八分を指していた。
全部を直す。
その言葉は、建物を元どおりに戻すことではない。
古いものを磨き、新しい設備を隠して入れ、過去の姿を再現することでもない。
安全のために取り替えなければならないものがある。
便利にするためではなく、誰かが使えるように変えなければならない場所がある。
残したくても、残せないものもある。
黒田は、残すものより先に捨てるものを決めろと言った。
中井は、学校のために村の暮らしを削るなと言った。
文江は、全部新しくしたら同じ部屋ではなくなると言った。
源造は、時計を残せと言った。
美月は手帳を開いた。
明日から始める作業を書き出す。
建具。
黒板。
机と椅子。
靴箱。
図書室の本棚。
家庭科室。
卒業制作。
校長室の机。
体育館の舞台。
校庭の桜。
玄関上の時計。
一つの建物を全部直すには、一つずつ決めるしかない。
美月は最後の項目の横に、小さく書き加えた。
『何のために残すのか』
月が雲に隠れ、校舎の輪郭が暗くなった。
それでも、時計の白い文字盤だけは、かすかに見えていた。




