第十五章 もう三年
翌朝、雨はまだ降り続いていた。
午前七時二十分、美月は山路館を出た。
紺色のレインコートに、泥の付いてもいいパンツ、防水靴。右手には傘、左肩には図面と調査票を入れたバッグを掛けている。
三か月前、同じ坂道をパンプスで上った。
雨上がりの泥に足を取られ、地図アプリが動かないことへ苛立ち、金網越しに学校の写真を撮った。
今は地図を開く必要がない。
赤い橋を渡り、川沿いの道を外れ、草の間を通る坂道へ入る。どこで舗装が途切れ、どの辺りに水がたまりやすいかも覚えていた。
旧清澄小学校の校庭には、軽トラックが一台止まっていた。
颯太が昇降口の庇の下に立っている。作業着の上から黒い雨具を着ていた。
「早いですね」
美月が声をかけると、颯太は腕時計を見た。
「七時半に来る言うてましたよね」
「まだ七時二十五分です」
「田中さんも早いやないですか」
颯太は昇降口の鍵を開けた。
「昨日の雨漏り、二階です」
「立ち入りは大丈夫ですか」
「廊下までは。教室の中は床が濡れとるから、入らん方がええです」
美月は傘の水を切り、昇降口へ入った。
湿った木と埃の匂いがした。
床の一部には、颯太が持ってきたらしい古いタオルが敷かれている。廊下の端に脚立と青いバケツが置いてあった。
「昨日から来ていたんですか」
「夜に風が強なったんで、一回見に来ました」
「一人で?」
「一人の方が早いです」
「危険です」
「田中さんが言います?」
颯太は二階へ続く階段を見上げた。
「最初の日、勝手に敷地へ入った人が」
「半歩です」
「半歩でも中は中です」
美月は言い返さず、バッグから懐中電灯とマスクを出した。
階段を上る。
一段踏むたび、乾いた音が建物の中へ響いた。
二階の東側へ進むと、廊下に三つのバケツが置かれていた。
一つは半分ほど水がたまっている。天井の染みは以前より広がり、壁との境目から細い水滴が落ちていた。
「前に確認したのは、この手前の教室です」
美月は図面を開いた。
「今回は廊下まで来ていますね」
「屋根のどこから入っとるか分かりません。上で入った水が梁を伝って、離れたとこへ落ちることもあります」
颯太は教室の戸を少しだけ開けた。
中には机と椅子が積まれている。窓側の床が黒く濡れ、天井板の一枚が大きく垂れ下がっていた。
「入らんでください」
「写真だけ撮ります」
「戸口からにしてください」
美月は言われたとおり、教室の外から撮影した。
窓、天井、床、壁。角度を変えて記録する。
「応急処置はできますか」
「外からシートを掛けるくらいです。でも、この雨で屋根へ上がるのは無理です」
「雨がやんでからですね」
「やんでも、俺一人では上がりません」
意外な言葉に、美月は颯太を見た。
「危ないと言われたからですか」
「最初から一人で上がるつもりはないです」
「先ほど、一人の方が早いと言っていました」
「見に来るだけなら、です」
颯太は垂れ下がった天井板を見上げた。
「作業する時は、早いより、帰ってこられる方が大事です」
美月は返事をせず、その言葉を手帳へ書いた。
「それも会社の資料に入れるんですか」
「事故防止の基本方針に使えます」
「何でも仕事にしますね」
「仕事で来ていますから」
「三年も?」
颯太の声が少し変わった。
美月は手帳を閉じた。
「会社から聞いたんですか」
「森下さんからです」
「会社が、現地滞在の三年延長を承認しました」
「三年、ずっと村におるんですか」
「基本的には。その後の三か月は東京と村を往復します」
「ほな、全部で三年半?」
「最初に決められていた共同プロジェクトの期間は三年半です」
「最初から、そこまでおるつもりやったんですか」
「いいえ。最初は三か月で帰るつもりでした」
窓の外で雨が強くなった。
ガラスを細かな水滴が流れていく。
「なんで延ばしたんです」
颯太が尋ねた。
「三か月では、分からないことが多すぎたからです」
「三年おったら分かります?」
「すべては分かりません」
「ほな、何のためです」
美月は廊下に並ぶバケツを見た。
「分からないまま、誰かに任せて帰らないためです」
颯太は何も言わなかった。
「学校を直すと決まったわけではありません。県も会社も、まだ本格的な費用負担を決めていません」
「昨日、県へ行ったんですよね」
「はい」
「金、出すって?」
「言われていません」
「会社は?」
「出資額は未定です」
「村も決めてない」
「はい」
「何も決まってないのに、三年延ばしたんですか」
「何も決まっていないからです」
颯太は鼻から短く息を吐いた。
「会社、よう認めましたね」
「私もそう思います」
美月が答えると、颯太は少しだけ笑った。
その時、教室の中で乾いた音がした。
二人が同時に振り向く。
天井板の端から、小さな木片が床へ落ちた。
「下がってください」
颯太が戸を閉めた。
「この区画、立ち入り禁止にします」
「今日中に役場へ報告します。調査会社にも写真を送ります」
「調査、いつです?」
「最短で三週間後です。会社の建築担当と、県から紹介された構造設計者が来ます」
「三週間、このまま?」
「応急処置だけ先に依頼できるか確認します」
「雨がやんだら、屋根の下から状態を見ます。上には業者が来るまで上がりません」
「お願いします」
「命令ですか」
「お願いです」
颯太は返事をせず、廊下の端から立入禁止の札を持ってきた。
*
午前九時、美月は村役場の会議室にいた。
壁の蛍光灯は、以前点滅していた一本だけ新しくなっている。ほかの照明より白い光を放っていた。
机には、山根、藤井、森下のほか、総務課長と議会事務局の職員が座っている。
美月は県庁との協議結果を報告した。
学校と温泉の精密調査が必要であること。
全面改修費を、公共部分と収益部分へ分けなければならないこと。
体育館の防災機能を整備する場合、避難所としての基準を満たす必要があること。
県産材の使用には、早い段階から材料を確保しなければならないこと。
補助制度の申請には期限があること。
そして、工事を始める条件だけでなく、止める条件も決める必要があること。
総務課長が資料を読みながら尋ねた。
「精密調査の費用は、会社負担で間違いないですか」
「当社の調査予算から支出します。学校が最大六百万円、温泉が二百万円程度を見込んでいます」
「合計八百万円ですか」
「上限です。見積もりを二社以上から取ります」
「調査した結果、改修をしないことになっても?」
「調査費を村へ請求することはありません」
総務課長は山根を見た。
「そこは書面にしてもらわんと」
「契約書案を会社の法務部が作成しています。調査範囲、費用負担、調査結果の所有と公開範囲を明記します」
「結果は村のものにならんのですか」
「共同で利用できる形にします。会社が撤退した場合でも、村が今後の施設判断に使えるようにします」
山根が腕を組んだ。
「撤退する話を、もうするんか」
「始める前に決める必要があります」
「縁起でもないな」
「縁起で事業は判断できません」
美月が答えると、藤井が小さく咳をした。
山根は不満そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
「今日の夜、住民説明会を開きます」
森下が予定表を確認した。
「回覧板と村内放送で案内しました。学校周辺の住民だけでなく、温泉の利用者や商店の方にも声をかけています」
「出席予定は?」
「三十二人です。でも、返事をせずに来る人もいるので、四十席用意します」
「三つの案をすべて説明します」
美月は資料を配った。
三室案。
六室案。
十室案。
それぞれの宿泊者数、雇用人数、想定売上、必要な従業員、送迎回数、温泉利用者数、体験教室の開催回数を一枚にまとめている。
美月が推奨する案だけを大きく見せないよう、三案の紙面は同じ大きさにした。
「十室案まで出すんですか」
総務課長が眉を寄せた。
「はい」
「また大きな開発をすると思われますよ」
「説明せずに隠す方が問題です」
「会社は十室にしたいんでしょう」
「収益性だけを見れば十室です。しかし、現時点で十室を運営できる人員は村にいません。当社としては三室からの開始を第一案としています」
「ほんなら、三室だけ説明したらええやないですか」
山根が言った。
「三室を選ぶことで失うものもあるからです」
「失うもの?」
「雇用です。十室案なら、常勤と短時間勤務を合わせて十人以上の仕事を作れる可能性があります。三室案では、六人から八人が関わっても、常勤換算では三・五人程度です」
「村へ戻りたい若い者に、仕事を出せんいうことか」
「宿泊事業だけでは人数が限られます。ただし、十室にすれば必ず十人戻るわけでもありません。必要な経験を持つ人が応募するとは限りませんし、安定した稼働がなければ雇用を維持できません」
藤井が三案を順に眺めた。
「何を選んでも、ええことばっかりやないという説明になりますな」
「そのための比較です」
「住民は、答えを求めますよ」
「今日、結論は出しません」
「結論を出さん説明会に、人を集めるんですか」
「調査を進めてよいかどうかは確認します」
山根が資料を机へ置いた。
「田中さん。話し合いばっかり続けたら、みんな疲れる」
「分かっています」
「疲れた頃に、会社の案を通すんやないでしょうな」
美月は山根を見た。
「そうならないために、会議ごとの決定事項と未決事項を公開します。欠席した人も意見を出せるようにします」
「紙を読まん人もおる」
「森下さんと一緒に、集落ごとの小さな説明会も開きます」
「何回するつもりや」
「必要な回数です」
「三年おるから、時間があると思っとるんか」
山根の声が少し強くなった。
「三年しかありません」
美月は答えた。
「調査、基本計画、費用分担、運営者の決定、住民合意、補助申請。工事へ進むなら、設計と準備も必要です。一つずつ期限を決めます」
「時間をかけるのか、急ぐのか、どっちや」
「省いてはいけないものには時間をかけます。待たせる必要のないものは急ぎます」
山根は美月を見つめた。
「難しい言い方するな」
「私も、簡単な言い方が見つかっていません」
森下が、少しだけ笑った。
*
会議が終わったあと、美月は山根へ声をかけた。
「少し、お時間をいただけますか」
「夜も顔合わすやろ」
「村長としてではなく、山根さん個人に伺いたいことがあります」
山根は怪訝そうな顔をした。
「個人に?」
「学校が閉校した時、村議会にいらしたと聞きました」
会議室に残っていた藤井と森下の動きが止まった。
山根は椅子へ座り直した。
「誰から聞いた」
「森下さんです」
「余計なこと言うたな」
「すみません」
森下が頭を下げる。
山根は少し黙った。
「もう十年前の話や」
「最後まで閉校に反対されたんですか」
「反対したところで、子どもがおらんかった」
山根は低い声で言った。
「最後の年は、全校で七人や。先生の数も減らされて、複式学級になった。保護者から、隣町の学校へ通わせてくれいう声が出た」
「村長は、残したかった?」
「当時は村長やない」
「山根さんは?」
山根は美月へ視線を戻した。
「わしの娘も、あの学校を出た。校庭の桜を植えたのは、わしらの親の世代や。地滑りの時には、体育館で何晩も寝た。残したいに決まっとる」
「だから、今回の計画を進めたいんですか」
「それだけやない」
山根は机の端へ手を置いた。
「学校を閉める時、保護者に言われた。自分らの思い出のために、子どもの教育を我慢させるなって」
美月は黙って聞いた。
「その通りやった。学校を残したい大人と、毎日そこへ通う子どもは違う。わしらは、自分らの寂しさを子どもに背負わせようとしとった」
「今も、同じだと思いますか」
「分からん」
山根は指で机を二度たたいた。
「古い学校を残したいだけなら、また同じことをする。今度は、若い者に借金と仕事を背負わせることになる」
「それでも、壊すとは言えない」
「言えるわけないやろ」
山根の声が荒くなった。
すぐに、自分で息を整える。
「村長やから、壊す金と残す金を比べなあかん。けど、わし個人に聞かれたら、残してほしいとしか言えん」
「二つの意見を、分けて記録してもいいですか」
「記録するんか」
「村長としての判断と、一人の住民としての思いを、同じものにしないためです」
山根はしばらく考えた。
「好きにせえ。ただし、村長が学校を残せ言うた、とは書くな」
「分かりました」
「わしは、まだ決めとらん」
「はい」
山根は立ち上がり、会議室を出ようとした。
扉の前で足を止める。
「田中さん」
「はい」
「三年おる言うても、三年後には帰るんやろ」
「会社の予定では、その後三か月の引き継ぎ期間があります。それ以降は、まだ決まっていません」
「村は、そのあとも残る」
「承知しています」
「分かっとるいう言葉は、便利やな」
山根は扉を開けた。
「夜、みんなの前で、同じこと言われても怒るなよ」
*
住民説明会は、午後七時から公民館で開かれた。
用意した四十席では足りず、森下が倉庫から折り畳み椅子を八脚運んだ。
前の列には、源造、文江、川根由、澄江が座っている。颯太は一番後ろの壁際に立っていた。
学校の卒業生。
温泉の利用者。
商店を営む人。
林業関係者。
これまでの会議では見かけなかった住民も来ていた。
入口近くには、幼い子どもを連れた女性がいる。村外へ勤めに出ているため、夜の会議にしか参加できないと森下から聞いた。
美月は出席者を数えた。
四十六人。
村の人口から見れば、少なくない人数だった。
山根が前へ出た。
「今日は、旧清澄小学校、体育館、川音の湯の今後について、会社と県との協議状況を説明します」
会場の後ろで、子どもが椅子を動かす音がした。
「最初に言うときます。何かを作ると決まったわけではありません。会社が全部金を出すと決まったわけでも、国や県の補助が決まったわけでもありません」
「また話だけか」
男性の声が飛んだ。
山根は声の方を見た。
「話もせんと決めたら、前と同じになる。今日は田中さんから説明してもらう」
美月は前へ立った。
「創生都市開発の田中です。三か月の調査を終え、東京へ戻りましたが、今後三年、現地事業責任者として清澄村へ滞在することになりました」
会場がざわついた。
「三年も旅館におるんか」
「会社が本気になったいうことか」
「もう学校を買うたんか」
複数の声が重なる。
美月はマイクを持ったまま、声が静まるのを待った。
「会社が、清澄村との共同プロジェクトを正式事業として進めることは決まりました。ただし、学校を買う計画はありません。施設は村が所有したまま、活用方法を検討します。本格的な改修も、まだ決定していません」
「ほな、何が正式なんや」
後ろの席から男性が尋ねた。
「調査だけで終わらず、事業化に必要な協議へ進むことです。学校と温泉の精密調査費は、会社が負担します」
「調べて、無理でした言うて帰るんやろ」
「無理だと判断する可能性はあります」
会場の空気が硬くなった。
「最初から逃げ道作っとるやないか」
「できないものを、できると言うことはできません」
「会社は損せんから、そんなこと言えるんや」
声を上げたのは、中井敏夫だった。六十代半ばで、以前のリゾート計画では、資材運搬道路の候補地に畑の一部が含まれていたという。
中井は椅子から立ち上がった。
「調査費だけ出して、あかんかったら会社は帰る。村には、また期待した時間だけ残る。こっちは何回それを繰り返したらええ」
美月は中井を見た。
「おっしゃるとおりです。会社は撤退できます。私は三年後、村を離れる可能性があります。村の皆さんは、その後もここで暮らします」
会場が静かになった。
中井も、続きを待っている。
「だから、会社だけで計画を決めません。会社が撤退した場合に、調査結果と設計資料を村へ残す契約を結びます。改修へ進む場合は、運営を誰が続けるのか、会社が撤退したあと施設をどうするのかも、工事前に決めます」
「決めたって、会社が潰れたら終わりや」
「その場合も想定します。保証できないことを、保証できるとは言いません」
「そんな話聞いて、誰が賛成するんや」
「今日は、賛成をお願いするために来たのではありません」
中井の眉が動いた。
「では、何しに来た」
「選ぶための材料を出しに来ました」
美月はスクリーンへ三つの案を映した。
「宿泊室を三室から始める案、六室から始める案、十室から始める案です」
十室という数字が出ると、再び声が広がった。
「十室も作るんか」
「前のホテルと何が違う」
「客が来るなら多い方がええやろ」
「温泉に入れんようになる」
美月は三案の比較表を配った。
「三室案では、一日に受け入れる家族を最大三組、十人程度とします。初年度の宿泊者は五百人から七百人。関わる仕事は六人から八人ですが、短時間勤務を含むため、常勤換算では三・五人程度です」
「それだけしか働けんの?」
入口近くの女性が尋ねた。
「宿泊部門だけなら、その程度です。体験、木工品の製作、食材の提供を含めれば、関わる人数は増やせます。ただし、毎月安定した収入になるとは限りません」
「十室なら?」
「常勤と短時間勤務を合わせ、十人以上の雇用が必要です。調理、清掃、予約管理、送迎を毎日行う体制が必要になります」
「そっちの方がええやないか」
別の男性が言った。
「仕事がない言うて、若い者が出ていっとるんやぞ」
「その一方で、初年度から年間二千人以上の宿泊者を集めなければ収支が安定しません。温泉の来訪者利用が増え、送迎車の往復も一日数回必要になります。食事を村内で用意する場合、調理を担う人が不足する可能性があります」
「外から雇うたらええ」
「その場合、村へ戻る人の仕事にはなりません」
声を上げた男性は黙った。
美月は六室案も説明した。
三室より雇用と収益が増え、十室より負担は小さい。
だが、稼働率が下がると赤字になりやすく、必要な人員は三室より明らかに多い。中間だから安全というわけではない。
「会社は、どれがええと思っとる」
源造が尋ねた。
「会社の収益だけを考えれば十室です」
美月が答えると、会場の空気が変わった。
「やっぱり、でかくしたいんやないか」
「しかし、現時点の清澄村で十室を運営するのは難しいと、私は判断しています。当社の第一案は、三室から始め、運営状況を見て増室を判断する方法です」
「田中さんがそう思っとるだけか。会社もそうなんか」
颯太が壁際から尋ねた。
「会社の正式資料でも、三室からの段階的開始を第一案としています。ただし、最終決定ではありません」
「三室しか使わんのに、学校を全部直すんか」
文江の隣に座っていた女性が言った。
「そこが一番分からん。寝る部屋だけ直したらええやないの」
美月は学校の平面図を映した。
「一部だけを直しても、屋根、耐震、給排水、避難経路は建物全体に関わります。また、学校を宿泊施設だけにする計画ではありません」
一階の図書室を指す。
「ここは、住民の方も使える読書室と資料室にします。普通教室の一つは、集会や子どもの学習に使える交流室。もう一つは、雨の日に木工やわら細工を行う体験室です。宿泊室は二階の三教室から始めます」
「住民が使ういうても、誰が行くんや」
中井が言った。
「学校があった時も、閉まってからは誰も行っとらん」
「使いたい人がいない部屋は作りません」
「図書室、残してほしい言うたのは私や」
前列から、春江が手を上げた。
「家に置けんようになった本を持ってきたい。子どもがおらんから要らん言うけど、大人かて本は読む」
「本を管理する人は?」
中井が尋ねる。
「私が行ける日は行く」
「毎日は無理やろ」
「毎日開けんでもええ」
春江が言い返す。
「東京の図書館やないんやから」
会場の数か所で笑いが起きた。
「わら細工は、誰が教えるんです?」
美月が尋ねると、文江が手を上げた。
「私と、あと二人はできる。ただ、毎週は無理や」
「月に何回なら可能ですか」
「二回くらい。冬なら三回できるかもしれん」
「講師料を払います」
「そんなもん、いらん」
「払います」
美月ははっきり言った。
「参加者から料金をいただき、材料費と講師料を支払います。無償で続ける計画にはしません」
「金もろうたら、きちんと教えなあかんやろ」
「はい」
「遊びで来て、途中で帰る子もおるで」
「それでも構いません。ただし、刃物を使う木工は安全管理が必要です。年齢や人数に制限を設けます」
文江は隣の源造と顔を見合わせた。
「金もらうほどのことかいな」
源造が言った。
「金を払わんかったら、仕事やないいうことやろ」
「そういう意味ではありません」
美月は資料から顔を上げた。
「でも、村の方の時間を、最初から無料として計画に入れたくありません」
後ろの席で、誰かが小さくうなずいた。
美月は体育館の案を示した。
床と屋根の修繕。
耐震補強。
非常用電源。
備蓄庫。
高齢者が利用できる手すりと段差の解消。
平常時には、軽いスポーツ、雨天時の体験、予約制の教室に使う。
「避難所にするなら、災害の時は宿泊客を先に入れるんか、村の人を先に入れるんか」
川根由が尋ねた。
「災害時には、宿泊施設としての営業を止めます。体育館は村の避難所として使います」
「客も避難するやろ」
「宿泊客を含めて、村の防災計画に従います。誰を優先するかは、人数と状況によって決めなければなりません」
「観光客を呼んで、災害の時に村の人の場所が減るんやったら困る」
「そのため、想定収容人数と宿泊者数を合わせて計算します」
「十室にしたら、避難する客も増えるな」
由の言葉に、何人かが比較表を見直した。
客室数は売上だけを変える数字ではない。
災害時の人数も、必要な食料も、水も変える。
「川音の湯は、どうなる」
今度は、温泉を毎日のように利用する男性が尋ねた。
「配管、床、手すり、脱衣所、換気設備の改修を検討します。源泉と露天風呂の景観は残します」
「宿泊客専用になるんか」
「なりません。地元利用の時間を優先します」
「優先いうても、客が来たら入れ言われるんやろ」
「地元利用時間は、予約状況にかかわらず守ります」
「貸切風呂にする話は?」
「県から提案はありましたが、現時点では採用していません」
「会社は、客単価上げたいんやろ」
「はい」
美月が認めると、男性は驚いた顔をした。
「ただし、貸切時間を増やして地元の方が使えなくなれば、この事業の条件に反します」
「条件いうても、会社があとで変えたら終わりや」
「運営協定に記載します。会社だけでは変更できない条項にします」
中井が再び手を上げた。
「何でも契約、契約いうけど、村の暮らしを紙で守れるんか」
「紙だけでは守れません」
「ほな、何のためや」
「誰かが約束を破った時に、破ったと示すためです」
美月は中井から目をそらさなかった。
「口約束では、言ったか言わないかになります。契約があれば、会社にも責任を問えます」
「会社の人間が、会社を縛る契約を作るんか」
「会社の法務部が案を作り、村の弁護士にも確認していただきます。県にも協定へ入ってもらえるか相談します」
「そこまでして、会社に何の得がある」
質問は、会場の誰もが抱いているものだった。
美月は一度、息を吸った。
「利益があります」
ざわめきが止まる。
「宿泊、体験、研修、商品の販売によって利益を得ます。それがなければ、会社は事業を続けられません」
「社会貢献や言うとったやないか」
「社会貢献の一面もあります。でも、寄付ではありません」
「結局、村で金もうけするんやろ」
「はい」
美月は否定しなかった。
「ただし、村の人の無償労働や、公共施設を不当に安く使うことで利益を得る形にはしません。会社が利益を得るなら、村にも使用料を払い、働く人へ賃金を払い、施設の修繕費を積み立てます」
「そんなにうまくいくか」
「分かりません」
「また、それか」
「分からないから、検証します」
中井は立ったまま、美月を見ていた。
「田中さん。三年おる言うたな」
「はい」
「三年で失敗したら、どうする」
「結果と理由を残します」
「謝って帰るだけか」
「そうなるかもしれません」
会場の空気が鋭くなった。
美月はマイクを両手で握った。
「私は、この村へ住民票を移したわけではありません。会社から給料を受け取り、仕事として来ています。三年後に帰る可能性があります。それは隠せません」
「ほな、信用せえいう方が無理や」
「今、信用していただかなくて構いません」
中井の表情が変わった。
「毎月、何にいくら使い、何を決め、何を決めていないかを公開します。私の言葉ではなく、その行動を見て判断してください」
「三年も?」
「三年です」
「長いな」
「村のこれからを決めるには、短いと思います」
中井はしばらく立っていたが、やがて椅子へ座った。
*
説明と質疑は、予定していた九時を過ぎても終わらなかった。
子どもを連れていた女性が、途中で帰る前に意見用紙を森下へ渡した。
『働ける時間は平日の午前九時から午後二時まで。土日は難しい。短時間でも仕事があるなら説明を聞きたい』
温泉を利用する高齢者からは、地元利用時間を朝と夕方に残してほしいという意見が出た。
学校近くの住民からは、送迎車が増えるなら道路の安全対策が必要だと言われた。
十室案を支持する者もいた。
「どうせやるなら、中途半端では人は戻らん」
「三室では、また都会の会社が試して帰るだけや」
反対する者もいた。
「静かな村を観光地にする必要はない」
「学校を残すために、温泉まで客へ差し出すのは違う」
三室案なら賛成する者。
六室を妥当と考える者。
精密調査そのものに反対する者。
温泉だけ先に直してほしい者。
学校より高齢者の送迎へ金を使うべきだという者。
意見はまとまらなかった。
美月はホワイトボードを四つに分けた。
『賛成』
『反対』
『条件付き』
『判断できない』
出た意見を、どこか一つへ無理に入れなかった。
学校は残したいが、宿泊には反対。
雇用は欲しいが、十室は多い。
温泉は直したいが、観光客は増やしたくない。
同じ人の中にも、複数の考えがある。
午後九時四十分、山根が前へ出た。
「今日は、工事をするかどうかは決めません」
会場から、疲れた息が漏れた。
「ただ、会社負担で学校と温泉の精密調査を行うこと。調査結果を村へ提出し、住民に公開すること。今後三年、月に一度は住民へ進捗を説明すること。この三つについて、異議がある人はいますか」
中井が手を上げた。
「調査で建物を壊すことはあるんか」
美月が答えた。
「一部、壁や天井を開けて内部を確認する可能性があります。ただし、範囲を事前に示し、必要最小限にします。調査後は仮復旧します」
「古いもんを勝手に捨てんといてくれ」
「備品を動かす場合は、記録を残します。廃棄はしません」
「調査結果が悪かったら、隠さんか」
「良い結果も悪い結果も公開します。ただし、個人情報と、建物の防犯に関わる詳細は除きます」
中井は手を下ろした。
ほかに、強く反対する者はいなかった。
賛成の拍手も起きなかった。
山根は会場を見回した。
「では、精密調査と協議の継続については、村として進めます。工事の実施は、調査結果と費用が出てから、改めて判断します」
それは、学校を直す決定ではなかった。
宿泊施設を始める決定でもない。
ただ、次の判断に必要な扉を開けることだけが決まった。
*
住民が帰ったあと、公民館には美月、森下、颯太、源造、文江が残った。
床に落ちた資料を拾い、椅子を畳む。
「四十八脚、出したんやな」
源造が椅子を二つ重ねながら言った。
「四十六人でした」
森下が答える。
「前の会議の倍以上です」
「賛成が増えたわけやないぞ」
中井はすでに帰っていたが、源造の声には同じ警戒があった。
「その点は理解しています」
美月は机の上の意見用紙を集めた。
「来た人が増えただけです」
「来るいうことは、気にはしとる」
文江が言った。
「反対でも?」
「どうでもよかったら、夜にわざわざ来ん」
颯太が畳んだ椅子を倉庫へ運ぶ。
美月も二脚持ち上げようとした。
「一脚ずつにしてください」
「二脚くらい持てます」
「その靴、床で滑ります」
見ると、防水靴の底に泥が残っていた。
美月は一脚だけ持った。
「田中さん」
倉庫の前で、颯太が足を止めた。
「はい」
「三年おること、なんで今日までみんなに言わんかったんです」
「会社の正式書類が届く前に、私から広めるべきではないと思いました」
「森下さんから、だいたい広まってましたけど」
「情報管理上の問題です」
「村でそれ言うても無理ですよ」
「無理でも、必要です」
颯太は椅子を倉庫の壁へ立てかけた。
「三年おるって聞いて、安心した人もおると思います」
「私がいることと、事業が続くことは同じではありません」
「分かってます」
「会社が出資することとも違います」
「それも今日、何回も聞きました」
「なら――」
「けど、三か月で帰る人に、本当のこと言わんかった人はおる」
美月は言葉を止めた。
颯太は次の椅子を受け取った。
「三年おるなら、冬の山も、雪で道が止まる日も、温泉の配管が凍る朝も見る。春になったら、草が一気に伸びるのも見る」
「それが安心につながるんですか」
「少なくとも、夏だけ見て村を知った顔はできんようになる」
「するつもりはありません」
「今は、です」
颯太は倉庫から出た。
言い方は相変わらず素っ気なかった。
それでも、三か月前の拒絶とは違っていた。
「颯太さんは、どの案がいいと思いますか」
美月が尋ねた。
「今、決めるんですか」
「意見を聞くだけです」
「三室」
「理由は?」
「十室分の木を出す仕事は欲しいです。働く人も増えた方がええ。でも、今の村で十室を始めたら、足りん分を誰かが無理します」
「六室は?」
「一番危ない気がします」
「なぜですか」
「三室ほど小さくない。十室ほど人を雇えるわけでもない。中途半端に、今おる人で何とかしようとする」
美月は六室案の収支表を思い出した。
数字の上では、中間案だった。
だが、颯太の言うとおり、人員不足を住民の負担で埋める可能性がある。
「その意見、次の比較表へ入れます」
「俺の名前は出さんといてください」
「匿名意見として記録します」
「何でも記録しますね」
「言ったことを、言わなかったことにしないためです」
颯太は返事をせず、残った椅子を持ち上げた。
*
午後十一時過ぎ、美月は山路館の部屋へ戻った。
机の上に、住民から集めた意見用紙を広げる。
賛成、反対、条件付き、判断できない。
どの欄にも、同じ人の筆跡が何度も現れた。
『学校は残したい。でも、村が借金を抱えるなら反対』
『仕事は欲しい。けれど、夜まで働けない』
『孫を連れて来られる場所になればうれしい』
『観光客に家の前を歩かれたくない』
『温泉をきれいにしてほしい』
『今のままの温泉がいい』
『三室で始めて、うまくいったら増やせばいい』
『小さく始めて失敗したら、また金だけなくなる』
正しい意見を一つ選ぶことはできなかった。
美月はノートパソコンを開き、説明会の記録を作り始めた。
出席者四十六人。
質問二十八件。
意見用紙三十一枚。
精密調査と協議継続への明確な反対、ゼロ。
工事実施への賛成、未確認。
宿泊規模への合意、なし。
数字だけを見れば、進展は小さい。
それでも、「反対者はいなかった」を「全員が賛成した」とは書かなかった。
午前零時を過ぎた頃、仕事用のスマートフォンへ黒田からメッセージが届いた。
『住民説明会の結果を報告してください』
美月は作成途中の記録を添付した。
『精密調査と協議継続について了承を得ました。工事および宿泊規模についての合意はありません』
黒田からの返信は短かった。
『了解。合意がないことを成果として扱うな。次に何を決めるか明確に』
美月は画面を見つめた。
厳しい言葉だった。
だが、正しかった。
話し合っただけで、計画が進んだと思ってはいけない。
住民が集まったこと。
意見が出たこと。
反対されなかったこと。
それだけでは、事業は始まらない。
美月は行動計画を開いた。
九月。
学校と温泉の精密調査契約。
十月。
調査実施。村長、議会、住民への中間報告。
十一月。
改修範囲と概算費用の確定。三室案を基準とした運営体制案。
十二月。
村、県、会社の費用分担協議。運営主体の決定。
一月以降の欄は、まだ白かった。
補助制度の申請時期。
設計。
工事。
追加の体験家族受け入れ。
採用。
研修。
決めなければならないことは増える一方だった。
美月は壁に、東京から持ってきた一年分のカレンダーを掛けた。
最初の月は九月。
最後は翌年八月。
一番下の八月を見ても、清澄村を離れる日は書かれていない。
会社が承認したのは、三年間の滞在だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
美月は九月の今日の日付へ、小さな丸を付けた。
『調査継続、了承』
工事決定ではない。
成功でもない。
ただ、村の人たちが、もう少し先まで話を続けることを選んだ日だった。
窓を開ける。
雨はやんでいた。
雲の切れ間から、わずかに星が見えた。
川の音の向こうで、山から落ちる水の音が重なっている。
旧清澄小学校では、今も三つのバケツが雨水を受けている。
三年は長くない。
天井板が落ちる方が早いかもしれない。住民の気持ちが離れる方が早いかもしれない。会社の判断が変わる可能性もある。
美月は窓を閉め、机へ戻った。
白紙だった翌月の予定へ、最初の一行を入力する。
『住民と、残すものを決める』
何を新しく作るかではない。
何を残すために、何を変えるのか。
その答えを探すための三年が、始まっていた。




