木箱に残るひとつ
全30話 五月五日まで毎日朝七時投稿
昼のひかりが、広場の石をあたためていました。
市場のすみの古い木箱にも、白っぽいやわらかい明るさがのっていて、その上の布は、朝よりすこしだけ平たく見えます。布の上には、もりのわっかがみっつ。草の編み目と葉の重なりが、ひかりの中でおだやかに浮いていました。
行きかう人は、あいかわらず目をとめます。
立ちどまって、輪のゆがみを見たり、羽の先を見たりして、それから用事のあるほうへ流れていきました。
「森のにおいがしそうだね」
「やわらかい形だこと」
そんな声が、布の上を風みたいに通りすぎます。
リルは木箱のそばにしゃがんだり、立ったりしていました。
呼ぶことはしません。
羽の向きをなおし、紙の端が浮けば指でおさえ、三つの間を見やすいようにそろえるだけです。
木箱のはしの紙には、静かな字で、一ルクスと書いてあります。
グルゥは半歩うしろにいて、袋を足もとへ置いたまま、通りのながれを見ていました。
人が立てば、じゃまにならないように肩の向きを変える。
日が寄れば、木箱にかかる影を見て、立つ場所をわずかにずらす。
それだけで、あとは何も言いません。
しばらくして、小さな足音が木箱の前でとまりました。
前の日にも、遠くからわっかを見ていた子どもでした。今日は手の中に、丸くにぎった布きれを持っています。大人の手を引いているでもなく、買いもの帰りらしいかごを胸の前に抱えていました。
子どもは、いちばん右においた、右がひろめのわっかを見ていました。
右のほうがゆったりひらいていて、三つのなかでいちばん丸く見えるものです。
見て、また見て、それからリルの顔を見あげます。
「これ、もってかえっていいの」
リルは、わっかへ目をおろしました。
それから、紙を指さします。
「いちるくす」
子どもはにぎっていた布をひらきました。
中から、ひとつだけ、丸いルクスが出てきます。手のひらのくぼみにおさまるそれを、見失わないように、指をきゅっと寄せていました。
リルは木箱の上へ手をのばし、右のわっかを両手で持ちあげます。
渡す前に、羽が折れていないか、継ぎ目がゆるんでいないかを、指先でひとつなぞりました。
それから子どもの手の届く高さまで下ろします。
子どもはルクスを布の上に置き、かわりにわっかを受け取りました。
輪は子どもの腕にはすこし大きく、胸の前に抱えるとかるい枝の影みたいに見えます。
子どもは何も言わず、わっかを見ていました。
見てから、くるりと向きを変えて、小走りにならない速さで人のあいだへ帰っていきます。
布の上には、ルクスがひとつ残りました。
丸い光が、紙のとなりでちいさく光っています。
リルはそのルクスをすぐには取りませんでした。
空いた場所と、残ったふたつを見ます。
それから、ふたつの輪の間をすこし寄せ、布のまんなかへ置きなおしました。
ようやくルクスへ手をのばし、指でつまみあげます。
ひんやりした丸さをたしかめるように、親指でふちをひとまわりなぞりました。
グルゥがそちらを見ました。
そして、ひとつだけうなずきます。
リルはルクスを見て、わっかを見て、小さく言いました。
「……へったね」
声はいつもどおりで、眠たげで、平らでした。
けれどルクスをしまう手つきだけ、いつもよりきちんとしていました。布の端をめくって、その下へ丸い貨幣を置き、もう一度布をならします。
それからしばらくして、日の傾きが木箱の角にかかりはじめました。
市場の音も、昼のまんなかより少しやわらかくなっています。
野菜をしまう音、桶を引く音、遠くで戸を閉める音。
リルはふたつのわっかを見て、紙を見て、木箱のはしへ手をかけました。
しまおうとした、そのときでした。
「おや、あんたらかい」
ぶっきらぼうな声がして、パンの焼けたにおいが近づきました。
広場から少し入ったところのパン屋のおばさんです。腕まくりをしたまま、粉のついた手を腰にあて、木箱の前で足をとめます。
おばさんは布の上を見て、ふんと鼻を鳴らしました。
「朝から見てたけどね。まだあるんなら、ひとつ寄こしな」
リルは、木箱にかけていた手を下ろしました。
ふたつの輪へ目をやって、そのうちのひとつ、下の編み目がやや厚いものを持ちあげます。
「……いちるくす」
「書いてあるのが見えてるよ」
おばさんはそう言いながら、腰の袋からルクスをひとつ出しました。
木箱の上へことりと置いて、それからわっかを受け取ります。
手の大きなおばさんが持つと、輪はやさしくゆがんだ月みたいでした。
「店の戸にでもかけとくよ」
短くそう言って、おばさんはもう一度だけ輪を見ます。
褒めるでもなく、ためすでもなく、ただ、ほんとうに持って帰るものを見る目でした。
それからくるりと踵を返し、パンのにおいを連れて市場のむこうへ戻っていきます。
布の上には、もうひとつだけ。
羽の先が、夕方へ向かうひかりをうけて、ほそく明るくなっていました。
リルは立ったまま、そのひとつを見ています。
そのあとで、木箱の上のルクスをふたつ、指先でそろえました。
並んだ丸いかたちと、残ったひとつの輪を、順に見ます。
グルゥは袋の口をひらきました。
けれど急がせることはせず、そのまま持っているだけです。
市場の音はまだつづいていました。
風が通るたび、最後のわっかの羽が、かすかに揺れます。
リルはそれを見てから、木箱の上にのせた自分の手を、そっと引きました。
今日は、まだ終わりきっていないようでした。




