門の手前のにおい
全30話 五月五日まで毎日朝七時投稿
朝の森は、まだすこしだけひんやりしていました。
小屋のまえの草は、夜のあいだに冷えた色をのこしていて、石の上にも、うすい朝の明るさがそっと乗っていました。
グルゥは戸をあけると、外の空気をひとつ吸って、それから袋の口をたしかめました。中には、空になった小さな布袋が入っています。町へ行けば、塩か豆か、なにかひとつ買ってこようという朝でした。
リルは戸口の木わくにもたれて、ぼんやり道のほうを見ていました。まだ目がすっかり覚めたわけではなさそうで、髪の先だけが風にふれています。グルゥが肩の高さをすこし下げるように立つと、リルはその横に来ました。言葉はなくても、出かけるのだとわかるようでした。
細い道は、森のあいだをぬうようにつづいています。
土はやわらかく、ところどころに小さな石があって、朝の光がそこだけ白くのっていました。グルゥは大きな足で静かに歩き、リルはその半歩うしろを、眠たげな顔のままでついていきます。
門が見える少し手前まで来たころ、風の向きが変わりました。
森のにおいのなかに、あたたかいものがまじりました。
かわいた木の香りでも、家の火でもなく、もっとやわらかくて、丸いにおいでした。焼けた皮のところがすこし香ばしく、中はまだ湯気をふくんでいるような、あの町のパン屋のにおいです。
リルが足をとめました。
小さく鼻を上げて、もういちど吸いこみます。
それから、門のむこうを見ないまま、道のわきの石に手をのせました。石はまだ朝の冷たさを持っていて、リルの指がそこにしばらくとまっていました。
「……ぱんや」
声は、あくびのつづきみたいに小さなものでした。
グルゥは立ちどまって、町のほうへ顔を向けました。
まだ門の向こうはよく見えません。けれど、においだけは先にこちらへ来て、見えない棚や、木の板の上に並んだ丸いパンを、朝の風のなかへ運んできているようでした。
リルは石に手をのせたまま、目を閉じるでもなく、ただじっとしていました。
においはすぐに消えず、風がふくたび、近くなったり遠くなったりします。まるで、町のほうで白い湯気がゆっくりほどけて、その端だけがここまで歩いてきたみたいでした。
グルゥは何も言わず、袋を肩からおろしました。
中をたしかめると、布に包んだ黒パンが、まだ半分だけ残っています。昨日のものなので、町の焼きたてみたいなやわらかさはありません。それでもグルゥは布をひらき、その半分をまた割って、リルのほうへ差し出しました。
リルは手のひらを出して受け取りました。
受け取ったあとも、すぐには食べませんでした。町から流れてくるあたたかな匂いと、手のなかの少しかためのパンとを、くらべるでもなく並べるようにして、しばらく見ていました。
それから、ひとくちだけかじります。
静かな音でした。
「においのほうが、あたらしいね」
リルはそう言って、ほんのすこしだけ口もとをゆるめました。
グルゥはうなずいて、石のそばの草を足でならしました。そこへ座れるようにしただけで、自分は立ったままでいます。リルはその草の上にちょこんと座り、もうひとくち食べました。
門のむこうから、また風がきます。
見えないパン屋の朝は、きっともうはじまっていて、棚にパンがふえたり、木の板の上に粉がうすくのこっていたりするのでしょう。けれど今日は、そこまで行かなくてもいいようでした。
においだけが、もうじゅうぶんに町の朝でした。
リルは食べかけのパンを両手でもって、鼻先をすこし上げました。
グルゥは袋の口を閉じなおし、風がおさまるまで、となりで待っていました。
しばらくして、リルは立ちあがります。
石から手をはなすと、朝の冷たさがすこしだけ指に残っていたようで、指をひらいて見ていました。それからグルゥを見あげて、小さく言いました。
「もう、いい」
グルゥはまたうなずきました。
ふたりは門のほうへ歩きだします。町はまだ見えきらず、パン屋も見えません。けれど、風のなかには、さっきのにおいがまだうすく残っていて、道の先をやわらかくしていました。
朝の光は、木のあいだから細く落ちていました。
そのなかを、グルゥの大きな影と、リルの小さな影が、ならんでゆっくりのびていきます。
見えない棚のパンは、まだあたたかいままなのだろうと、言葉にしなくてもわかるような道でした。




