傘ザクラの朝
遡ること数時間前。
2月18日の土曜日、時刻は8時過ぎ。
心なしか、いつもより賑やかな傘ザクラの、平和的な朝。
一階のとある客室前では、忍ぶように、そっと静かに扉を閉める青年の姿があった。
すっかり洋服姿が様になってきた、彼の名はユメビシ。
ここへ来た当初身に付けていた着物は、度重なるハプニングの末、修繕するよりも新調した方が早いほどボロボロとなってしまった。
そこで、ヨミトがトオツグの私室から勝手に拝借してきた服だ。
ターコイズのカットシャツに、ゆったりとしたセーターとグレーのパンツ。
そこに従来の手袋と、懐へ入れっぱなしだった耳飾りを、普段使いしやすい様に手心を加えてもらい身に付けている。
これが現在のスタイルだった。
廊下を進み、玄関に差し掛かる直前、微かに聞こえた足音に思わず硬直してしまう。
しかし、それは玄関からではなく、その対面に位置する階段から聞こえてくるものだった。
顔を上げれば、黒いコートに身を包んだチナリが降りてきた。
「おはよ、ユメビシ。……なんだか顔色悪い、というよりやつれてない? 大丈夫?」
「おはよう……いや、実は」
ユメビシが当主代理を引き受け、早数日。
瞑之島全体を見ても、比較的平和と呼べる日々だったはずだ。
ただし、彼の心労は計り知れない。
その理由は一重に、寝る以外は四六時中、ヨミトと行動を共にしていた事が挙げられる。
『一先ず、瞑之島での暮らしに慣れてほしい。まあ当主代理として必要な場面では遠慮なく、こき使わせて貰うけどね』
先日の会合で、ヨミトから告げられた方針。
これを遂行すべく、奴は連日、それも朝から晩まで……俺をあらゆる場所へ連れまわした。
そう……わざわざ部屋まで起こしにくるのだ。
初日こそ玄関を経由し部屋まで訪ねてきたヨミトも、流石に毎日通うとなれば面倒になったらしい。
以降から、窓を経由し、直接室内へ侵入する様になったのだ。
これが非常に精神的苦痛で、気がまるで休まらない。
当然、抗議はしてみたが、そんな事に耳を貸してくれるほどヨミトの耳は親切じゃない。
つまりは全くの無意味だったからこそ、今日という今日は早めに部屋を抜け出してきたのだ。
……まあ、今日も訪ねてくるとは限らないのだが。
「それは壮絶ね、ご愁傷。ノイローゼを発症してないことを祈るわ」
「はは……チナリは、これから出かけるのか?」
「うん、ちょっとね。借りてた本を返しに行くの。それじゃあ」
「あぁ、気をつけて」
玄関先で別れると、俺はそのまま左へ曲がり階段の横を通りすぎる。
すると、続く廊下の先から良い匂いが漂ってきた。
奥から二番目の扉が、僅かに開いているらしく、そこから漏れた香りのようだ。
中へ入ると広がる一室は、傘ザクラにおける共有スペース。
台所と居間が地続きになっており、建物内で一番の広さらしい。
この大部屋は憩いの場となっており、団欒したり食事を摂ったりなど、交流の場にもなっているのだとか。
全員が頻繁に利用するため、思い思いの私物で彩られている空間は温かみがあり、部外者の俺ですら、居心地良く感じるほどだ。
故に、自室があるにも関わらず、ここで寝泊まりをしている者もいる。
ソファーに丸くなって寝ている大きな男――確か、ユキタケと言ったか。
彼の起きてる姿をこれまで見たことがない。
……というより、素顔も見たことない。
常に謎の『アイマスク』なる目隠しを装着してるからだ。
「お! 来たねユメビシ。偉いぞ〜ちょうど出来てるよ」
左奥にある台所から、ニカっと笑顔を覗かせるのはアリマ。
何かと世話を焼き良くしてくれる彼だが、決して必要以上にこちらの事情へ踏み込んでこない。
会った当初から変わらないその態度に、どれだけ救われていることか。
「アリマ、おは……」
そんな傘ザクラで最も信頼してる相手への挨拶は、最後まで紡がれることなく、口の中で消滅していった。
台所の手前には五人がけの食卓が設置してあり、端には初めて見る女の子が座っている。
顎の下ほどで切り揃えられた短い髪に、物静かそうな雰囲気を纏う、コエビと歳が近そうな外見。
そんな彼女は、丼に白い山を築いた米と大皿に盛られた野菜炒めを、なんとも幸せそうに頬張っている。
あの細身の一体どこに収納されていくのだろうかと、つい釘付けになってしまう。
「あれ? 初めましてだっけか。その子はホマロ。ちょっと待ったげてね、集中してるから。あ、こっちのカウンター席においで」
アリマに手招かれるがまま、台所と隣接した長机まで移動する。
そこには、おにぎりと味噌汁、さらには卵焼きが用意されていた。
まだほのかに湯気の立つそれは、アリマの手料理だ。
彼の作るものがどれも美味しいのは、ここ数日間ですでに体感済みだ。
自然と綻ぶ口元を隠すように、前で手を合わせる。
「いただきます」
「どうぞ〜」
ほろほろと口の中で崩れるおにぎりに、出汁の風味が優しく広がる卵焼きを堪能し、味噌汁をすすっている時。
背後から椅子を引く音がした。
「……アリマ、ご馳走様。美味しかっ……た」
「はーい、お粗末さま。ホマちゃん、会うの初めてでしょ? 彼がユメビシだよ」
振り返ると初めて、ホマロと視線が交わる。
その吸い込まれそうなほど深い色の瞳から、彼女側の感情を読み取るのは難しかった。
「私はホマロ。よろしく……気づかなくて、ごめんなさい」
「いや、こちらこそ」
「それより……食べられちゃうよ、卵焼き」
「へ?」
その突飛な様に思えた忠告は、背中から伝わる一種の寒気により、最悪の可能性を連想させた。
向き直れば、アリマの隣にはいつの間に入ってきたのか、ヨミトの姿が。
台に肘をつきながら、こちらに手を伸ばし卵焼きを素手で摘んでいる。
「うん、ふわふわで美味しいね」
「おま……どうやって入ってきたんだよ!」
「えー? どうもこうも、裏口からだよね。それより、待ちくたびれちゃったよ」
結局、ヨミトから逃れる事に失敗したユメビシは、本日も外へ連れ出される羽目になる数分後を思い、深いため息を漏らすのだった。




