神隠し帰り
——当時のことを、ハッキリと覚えている訳じゃない。
いつも通り自室で就寝したのに、気づけば見知らぬ森を一人で歩いていた。
それから誰かに会って、誰かと話して……アレが起きたのだ。
あの頃の俺は「怖い夢」を見た、と本気で思っていた。
夢ならこの痛みも、恐怖も。
朝日が昇る頃には忘れられる……全て元通りだと、信じてやまなかった。
……しかし、そんな無知な子供に待っていたのは、終わらない苦痛。
一夜にしてその家の長男は、変わり果てた姿になっていた。
それに一早く気がついたのは、厳しい世話係の老婆で。
真っ青な顔でうなされている俺の布団を剥ぎ取り、見つけてしまった。
「いやああああああああ、呪い、呪いじゃあああああああ! 誰か、誰か来てくれええええ」
普段あんなに落ち着いた人が発狂し、取り乱す姿は恐ろしかった。
その迫真迫る悲鳴は、早朝の静けさの真っ只中にあった屋敷全体を、震撼させるには十分過ぎて。
真っ先に駆けつけたのは、朝食の支度をしていたお手伝いさん数名。
次に親戚の叔母夫婦。
一番最後に「騒々しい」と不機嫌そうに吐き捨てながら現れたのは……普段滅多に姿を見せない、両親。
あの場に集まった誰もが、俺の腕を見て言葉を失っていた。
仕方ないだろう、前例のない異常事態だ。
朝起きたら、齢五つにも満たない小さな子供の腕から、成熟しきった老人の手が生えていたのだから。
***
——俺はあの晩、ユメの場所で、両手を失くした。
それならば代わりにと、干物の様な手を接合された。
骨と皮、大きな爪。カサカサしてそうで、意外としっとりした外壁。
どう考えても、幼い子供の体には不釣り合いな大きさで、歪な代物。
それ以前に赤の他人であり、老人の手。
当然、身体は拒絶反応を示した。
——痛い、熱い、苦しい……早く、終わってよ……。
激痛と高熱に侵される日々。
まともに食事なんて摂れなかったし、眠ることもままならない。
周りから漂う空気は、「生きていても死んでも迷惑だ」と言わんばかりだった。
故に、守るべき本家の跡取り長男から、ただの煩わしい存在へと認識が変わるのに、そう時間は掛からなかった。
この時思ったのは、ただ一つ。
悲しいとか、辛いとか、激情に駆られたものではなく……単純に『諦め』が優ったのだ。
——人間とは、こうも簡単に態度を変えられるものなのか、と。
少し前なら誰もが自分に優しく……いや。取り入ろうと、必死に世話を焼きたがった。
ほんの少し微熱が出た、指を切った、舌を火傷した。
その程度のことで、毎回必要以上に騒ぎ立てたのに、いざ得体の知れないものが関わってると分かった瞬間、これだ。
『呪い』だと勝手に決めつけ、本質を見ようとしない。
これは本当に呪いじゃない。体が異物に拒絶反応を示してるだけ。
誰も信じてはくれないだろうが、この手は……本来の持ち主は。
——あの時、危ない所を助けてくれたんだ。
***
重い襖を隔てた先で、何人かの声がヒソヒソ聞こえる。
とは言っても、小声で話しているつもりなのは大人達だけで、子供には丸聞こえだった。
「……あぁ、どうしてこんなことに」
「まだ40℃から熱、下がらないの?」
「ちょっと、医者なんて絶対呼ばないで。こんなことが他に知られたら、我が一族の恥だわ。それに……普通の医者には治せないでしょアレ」
「たった一人のご子息だったのにねぇ」
「はぁ…………本当、薄気味悪い」
「ねえ聞いた? 発見された時、足や着物が土で汚れていたそうよ」
「なんだって!? 外を出歩いたというのか」
「出歩くって、夜更けに?」
「さあ? そもそも出られないでしょう。門、閉じてるんだから」
「それもそうだよな。あ……」
「何よ」
「神隠しにでも、あったんじゃないのか?」
「まさかそこで取り替えられたとか? じゃあ、あの子……」
「本物のご子息ではないかもね」
「呪い子だ」
「近づきたくもないよ、恐ろしい……」
「ああ! もういいわ! 少し黙って頂戴!」
一際大きな金切り声。
苛立ちを隠そうともしない、母さんのものだった。
あれだけ好き放題発言していた大人たちが、水を打ったように静まり返る。
だから次の一言が一層際立ち、耳に届いてしまったのだ。
「はぁ……頭がおかしくなりそう。地下牢に移しておきなさい」
頬を伝う雫は、発熱に伴う発汗のせいだ。
そう自分に言い聞かせて、その後の会話を意識から遠ざけた。
——この場所には、誰も、味方なんていない。
程なくして、俺は一人きりになった。
静かで、薄暗くて、湿っぽくて、少し埃臭い。
自室とは比べ物にならないほど不衛生な環境に、一人放り込まれたのだ。
けれど無性に、安心感を覚えた。
「……だって、誰の声もしないから」
『……そうか、こんな場所にいたか』
あれからどれだけの日が経ったのか、正確には知る術はなかった。
ただ随分久しぶりに、近くで誰かの優しい声を聞いた。
温かく大きなゴツゴツした手に、額を優しく包まれ、なんとか瞼を開ければ、二つの人影がゆらゆらと視界に映る。
『ここを出て一緒に暮らそう。今日からお前は儂の孫だ』
『待たせちゃってごめん……よく頑張ったね』
陽だまりのような、人達だった。
一人は別の屋敷に住む遠縁のおじさんで、もう一人の女の人は……あれ?
——あの人は、一体誰だったか。




