【24:罠(4)】
ボリスが呆然としていたのは、ほんのわずかな時間にしか過ぎなかった。
「誰か、あの兵を救け出してこい! 早くしろ!」
ばたばたと数人の兵が駆けだし、炎に焼かれて苦しむ兵を、燃え盛る馬車から遠ざける。
そうしている間にも状況は更に悪化しているようだった。怒号のような号令とともに、弓の弦音がかすかに響く。炎の壁の向こうから、はっきりとした悲鳴がいくつも聞こえた。
伏兵。逃げる手段を失い、本隊と切り離された先頭の第1百人隊に対して、おそらくは弓兵の射撃が降り注いでいる。ボリスにとって、見捨てるわけにはいかない状況だった。
「イゴール・キリロヴィチ!」
「――はっ!」
半瞬の間があって、第2百人隊を指揮する百旗長が応じる。
「第1百人隊を救う! 貴官は敵からの射撃に晒されない場所を選んで、第2百人隊を斜面の上に移動させろ。おそらくだが、上に弓兵がいる。黙らせるのだ」
「はっ! 第2百人隊は第1百人隊を救援します!」
「よろしい、行け。後詰めに第3百人隊を送る」
「は!」
何が起きたのか判然としてはいない。だが、ボリスは状況を整理して受け止めている。
まず『第1百人隊が本隊と切り離された』こと、次に『一方的に攻撃を受けている』ことが問題なのだ。敵が有力な援軍を得ていない以上、いま攻撃を行っている敵の数もさほどのものではないはず。
そうであれば、急斜面の上へ百人隊を送り込み、敵を追い散らしてしまえばよい。敵がいなくなれば、第1百人隊で生き残れる者も増えるし、彼らを救うこともできるはず。
問題はあの、炎の魔術。もう一度放ってくるのかどうかさえわからない。だが、わからないことをわからないまま、危険だからと手をつかねているわけにはいかなかった。今まさにあの炎の向こうで、己の命令のとおりに突撃した兵たちが殺されつつある。
そして、罠を仕掛けて待っていたとはいえ、敵は小勢。まだ打開の術はある。
「第2百人隊、槍と盾は置いてゆけ! そのままでは登れん! 槍と盾は置け!」
第2百人隊の百旗長、イゴールが部下たちに命じていた。槍と盾は兵士たちの基本的な装備と言ってよい。だが、それらを持ったままでは急な斜面をよじ登ることなどできない。危険はあれど、予備の武器である小剣で戦わせるほかなかった。
結局のところ、戦いの趨勢を決めるのは数なのだ。だからこそ、敵は罠でもって先鋒部隊を分断した。正面からぶつかっては勝てないから、搦め手でもって対抗しようとしている。今、敵は第1百人隊を攻撃するのに忙しい。敵が対応しきれない人数を送り込めば、自然と攻撃は止むはず。周到な敵であるから、何らかの対応策を打ってくる可能性はある。
だが、数で圧倒できるのであれば勝機は小さくない。
「第2百人隊、続け!」
準備が整うなり、イゴールは急斜面をよじ登り始めた。部下たちも先を争うように斜面に取り付く。指揮官である百旗長が先頭を切ったことが大きいのだろう。指揮官が真っ先に動けば、部下たちは続かざるを得ない。指揮官は部隊の頭、兵たちは手足。頭が先に敵にぶつかるようでは、手足の立つ瀬がなくなってしまう。イゴールも兵たちのそのような心理を見越して、先に立っている。
苦労しながら、だがそう長い時間も掛けずに、先頭の10人ほどが急斜面を上がりきる。そこから先は緩やかな斜面であるらしい。イゴールは兵たちをその場で伏せさせ、しばし待機させた。上体だけをわずかに起こして、敵がいるであろう方角を観察する。大きな音を立てて、枝――というよりは、枝葉のついたままの木の幹が、木立の向こうを動いている。
――あれを落とすつもりか!
下の街道には、第1百人隊の兵士たちがいるはずだった。あんなものを落とされたら、それだけで死人が出かねない。ある意味で、射撃よりも致命的な結果が生じるかもしれなかった。イゴールは、部下たちの状況を確かめる。斜面を上がった人数は、30を超え、40に迫るあたりだった。
「行くぞ。一気に駆けて接近戦に持ち込む」
手近な兵に声をかけ、身体を起こし、走り出す。兵たちが喊声とともに続いた。木立の中は決して走りやすい場所ではないが、立ち並ぶ木々が矢から身を守る盾になる。下草を踏み、落ち葉を蹴り、木立の中を縫うように走りながら、イゴールは違和感を覚えた。
ずるり、と足下が滑る。黒く粘つく液体が、辺りの地面を黒く染めている。
――鉱油!
「下がれ! ここは――!」
叫んだ瞬間、目の前で炎が炸裂した。イゴール自身は、その爆発音を認識できなかった。全身を炎に包まれた己の絶叫が、それをかき消していた。
※ ※ ※ ※ ※
ふたたび爆発音が聞こえ、急斜面の上に火の手が上がった。斜面を登りかけていた兵たちが慌てて下りる。上から転げ落ちるような勢いで下りてくる者、実際に転げ落ちる者、巻き込まれてともに転落する者。
ボリスの眼前で、収拾のつかない大混乱が始まった。炎に幾人が巻き込まれ、幾人が無事に逃げて来たのかさえわからない。
「退却! 退却させろ! 百旗長、イゴール・キリロヴィチ! 第2百人隊!」
ボリスが叫ぶも、返答はない。指揮ができない状態にあるのか、声が届かないのか。第2百人隊は既に、訓練され、組織された『百人隊』ではなかった。本能のままに逃げ惑い、混乱する100人の人に戻ってしまっている。
追い討ちをかけるように、炎の壁の向こうで、幾本かの木が――枝も葉もついたままの木が、急斜面の上から街道上に投げ落とされた。無論それは、待機していた兵たちからも見えている。呻くようなどよめきが、兵たちの間から上がった。
次いで、新たな煙が立ち上り、火の手が上がる。何が起きているのかは明らかだった。
ボリスもまた混乱の中にある。
――何も、わからない。
目の前の惨劇を引き起こしたのが、魔術だということはわかる。魔術師を引き連れた敵が、ここで罠を張っていたことも。
魔術師は何人いるのか。
どれだけあのような強力な魔術を行使できるのか。
他にどのような魔術を行使しうるのか。
それがわからなければ、強攻を続けたときにどれだけの損害を見込めばよいのかがわからない。
現にいま、ひとつの百人隊が壊滅させられようとしており、それを救うために投入した援軍も潰走させられた。指揮官である百旗長ふたりは、どちらも生死さえ定かでない。
「千旗長」
第3百人隊の百旗長が、ボリスに抑えた声で呼びかけた。狼狽を表に出してこそいないが、その顔は蒼白だ。
「……攻撃中止。負傷者を収容して手当てしろ」
「は。……その後は?」
「これでは、どうしようもあるまい」
苦々しく返答するボリスの声からは、常日頃の張りが失われていた。目の前にも、そして迂回路として想定した急斜面の上にも、火の手が上がっている。消火のためには大量の水が必要だが、そんなものはどこにもなかった。
「進軍を一旦停止する。火勢が収まり次第、障害物の除去と第1百人隊の救助を行う」
「は。下の海岸を通って救助は」
「やってくれ。だが、警戒を怠るな。無理をするな。救けに行って損害を増やした、では連中の思う壺だ」
敬礼して下がった百旗長が、部下たちに負傷者の救助と手当てを下命する。損害を受けていない部隊は、まだ常のとおりに動ける様子だった。
※ ※ ※ ※ ※
燃え広がった火災が、どうにか鎮まるまでには2刻ほどを要した。
第2百人隊の死傷者は十数名。先頭が突っ込んだところを炎の魔術で迎え撃たれたために、人数的な損害としては当初の想定ほどではなかった。だが、指揮官である百旗長は焼死している。それも、人相ではなく装備でもって本人を確かめなければならないほどの状態だった。
隊列の後尾を炎の壁で断ち切られ、閉じ込められた第1百人隊は、文字通りの全滅に近い状況だった。わずかな人数が海側の斜面の下に逃れて生き延びたに過ぎない。生存者であっても、負傷していない者はひとりもいない。矢傷か、矢から逃げたときに負った傷のどちらか、あるいは両方を負っている。
炎に巻かれて助かった者はいない。多数の遺体が収容された。第3百人隊の兵たちでさえ思わず目を背けるような有様だった。
街道上で燃えていた木を片付け、どうにか通行可能な状態になった頃には、日は大きく傾いていた。先鋒部隊は、戦闘が行われた場所から少々後退した上で露営した。この日の先鋒部隊の前進は、当初の計画の四分の一ほどに終わった。
ひどいことになりました。




