タイムスリップビール~黒船来航、ビールで対抗~① 傾奇ブルワー、江戸に飛ぶ
時は江戸。もしくは江戸によく似た時代。
その日、喜兵寿が店を開けようと外に出ると、銀髪の男が大の字で眠っていた。ぐうぐうと大きないびきをかく男の髪型も服装も、全く目にしたことがない妙ちきりんなもの。ここいらには傾奇者が多いとはいえ、こんなおかしな奴は見たことがなかった。
「おい、お前酔っ払いか?どこから来た?」
喜兵寿は持っていた箒で男の脇腹を小突いた。しかし男は全く反応しない。喜兵寿は大きくため息をつくと、男をさらに強く小突いた。昼間っから面倒事はごめんだが、こんなところに居座られたら店を開けることができない。
「お~い、起きろ~!起きないと身ぐるみはがすぞ~」
喜兵寿が男の脇にしゃがみ込むと、寝返りを打った男の手から瓶がごろんと落ちた。
「なんだこれ?」
瓶に鼻を近づけると、ぷうんと漂うのは嗅いだこともない匂い。
「……これは酒か?いや、でもこんなにおいは嗅いだこともない……おい、お前何者だ?」
喜兵寿は男の上半身を無理やり起こすと、ぶんぶんと揺すった。
「うあ?!」
男は素っ頓狂な声を出すと、目をしばたたかせた。
「なんだ?どうした?!」
「お前酒臭いな!どうしたはこっちだよ。おい酔っ払い、お前どこから来た?」
男は大あくびをしながらあたりを見回した。
「……どこだここ?」
男はしばらく何かを考えているようだったが、「だめだ、ねむい」と呟くと、再び地面にごろんと寝転がってしまった。
「おい、起きろって。ここで寝られたら店の邪魔なんだよ!」
喜兵寿が再び起こそうとすると、衣の内側から透き通った器を取り出し、押しつけてきた。
「なんだ、これ?」
「だからビールだって。おれ、すぐそこの隅田川ブリューイングでビール造ってんだわ。これ名刺代わりにやるからさ、もうちょっとだけここで寝かせてくれや」
そういうとまたぐうぐうと寝息を立てはじめてしまった。
「びいる……?ってかおい!ここで寝るなっていってんだろ!」
――
その日も酒問屋「柳や」は、常連客たちでいっぱいだった。仕事帰りの肉体労働者に、あきらかに堅気ではないような連中。毛色は違えど「柳やの酒がすき」という点は共通しており、だからいつだって店の中は笑いで満ち溢れている(たまに喧嘩も起こるが)。
「それで、このわけのわからない奴さんを置いてやってるってわけだ。まったくきっちゃんも人がいいねえ」
常連たちは店の隅に転がっている男をみながら、ガハガハと笑った。この店に集うのは、常に刺激を求めているような人種だ。変な髪色の、変な服をきた酔っ払いは最高の酒のつまみに違いなかった。
「本当、信じらんないったらありゃしない。こんなおかしな人、外にほっぽっときゃいいのに。はい、熱燗1丁おまたせだよ!」
喜兵寿の妹、つるは男を忌々しげに眺めながら酒を膳の上に置いた。つるは一見華奢に見えるが、力はそこらの男どもよりも強い。つい力が入りすぎてしまったのだろう、膳の上で徳利がピキッといやな音をたてた。
「そりゃあごもっともだ!でもよ、つるちゃん。店の前におかしなやつがいるってんじゃ、またあの同心がくるかもしんねえだろう?ただでさえこの店、目つけられてるんだからよ、目立たねえことに越したことはないだろ」
「目をつけられてるのは、あなたたちが酔っぱらって外で暴れるからでしょう!今日は飲みすぎないように、ちゃんといっぱい飲んでいきなさいよ!」
「どっちだよ!」
どっと沸く店内を横目に、喜兵寿は黙々と料理を作っていった。マグロの刺身に、きんぴらごぼう、芝海老炒りに、湯豆腐。店は西の歴史ある酒蔵「柳や」の酒が飲めるだけでなく、つまみもうまい店としても名が通っていた。
「お兄ちゃん、熱燗1丁追加で。あと幸民先生さんがなんかうまいもんをくれって言ってる」
「あいよ」
喜兵寿は大きな鍋を持ち上げると、火にかけた。
今日の一押しはなんといっても「どぶ汁」だ。炒めたあん肝の香ばしい香りを、ぶりぶりとしたあんこうの身にまとわせる。それらを野菜と一緒にじっくりと煮込んだ自信作だ。
どぶ汁の汁が焦げ付くかつかないかのギリギリのところで喜兵寿が蓋を開けると、ふわっという湯気と共に店中にいい香りが広がった。
「おいきっちゃん、こりゃあなんの匂いだ?!」
「あーいいにおいだ!こっちにもおくれ!」
それにつられたように、店内がざわつく。
「大鍋で作ってあんだ、急がなくてもたくさんあるよ」
喜兵寿はどぶ汁を椀によそい、小ねぎをふりかけた。見るからに濃厚そうな、どろりとした汁が黄昏時のひかりに反射し、てかてかと光っている。
「おまち、酒がたんまり飲みたくなるつまみだよ」
盆に椀をいくつか乗せて店に出ていくと、客たちに混じってさっきの銀髪の男が座敷で酒を飲んでいた。
「……おい、お前!」
喜兵寿が叫ぶと、銀髪男は「おれ?」というように小首を傾げ、小さくおちょこをあげた。常連客がその肩をがしっと組む。
「あー、こいつね!気づいたら起きててさ。なんだか意気投合いしちまったから一緒に飲んでんだよ」
「なあ!こいつおもしろいんだよ」
銀髪男はおちょこの酒を飲み干すと、「本当にこの酒うまいな!もっとくれ!」と盆に置いてあって徳利を持ち、ぐいぐいと飲み干した。その様子に大笑いする周りの男たち。喜兵寿はやれやれとため息をついた。
いくら平穏な時代が長く続いているとはいえ、最近は異国のわけのわからない連中が港に来ていたと聞く。
「おいお前、名前は?」
喜兵寿が尋ねると、銀髪男は「あ?」と怪訝そうに顔をしかめた。
「なんだ偉そうに。人に名を訪ねる前に、自分から名乗るもんだってお母さんから習わなかったんですかあ?」
その後頭部をつるがバコンとはたいた。
「っ!いってえ!」
「店先に転がってたあんたを助けてくれた、この店の店主だよ!」
「おぉ!あんたが!」
銀髪男はいきなり大きな笑顔になると、頭をさすりながらふらふらと立ち上がった。
「昨日はうっかり飲みすぎちまったみたいで申し訳ない。俺の名前は久我山 直也。直でいいよ」
そういいながら手を差し出してくる。
「……喜兵寿だ」
喜兵寿はその手をとらず、じろりと直の全身に目を走らせた。
「一応確認だが、あの黒い船に乗ってきたわけじゃないだろうな?」
「黒い船?なんだそれ」
直はきょとんとした顔で眉間に皺を寄せる。
「墨田川近くの店で飲んでたんだ、いくら酔っぱらってたとはいえ、船には乗ってないと思うぞ……?」
「そうか」
直の言葉に喜兵寿は小さく頷くと、差し出された手にどぶ汁のはいった椀を渡した。
「まあとりあえず、お前も食え。話を聞くのはそのあとだ。さっきまで眠ってたんだ、すきっ腹に酒を入れたんじゃ身体もびっくりしちまう」
「まじか!めっちゃうまそうじゃん。ちょうど腹減ってたんだよ」
直はほくほくとした顔で座敷に戻ると、男たちに混じって「うまい、うまい」と汁を食べ始めた。
「『黒い船』ってついこないだ浦賀に来てたって噂になっていたやつだよな?」
一通りどぶ汁を食べつくすと、店の客たちが口々に『黒い船』について話し始めた。
「あれって結局なんだったんだ?」
「さあ?数日間海の上にいて、またいなくなっちまったんだろう?お上からは何の通達もねえし、おれら庶民には関係のない話かもしんねえけど、やっぱ気持ちは悪いよな」
「おれの従弟のつれが三浦に住んでるんだけどよ、港まで見に行ったっていってたぜ。本当に動く城みたいだって騒いでた」
「まじかよ。城が海に浮かんでるとかやばいな」
そんな男たちの会話を聞きながら、直はけたけたと笑い出した。
「お上とか、城とかなんの話だよ!時代劇かっつーの。そんな話よりさ、この熱燗といい料理といい、喜兵寿ってまじで腕がいいのな」
そういいながら、おちょこをくいっと飲み干す。その様子をみながら、横の客がどや顔で言った。
「そりゃあそうさ、ここの酒は伊丹の歴史ある酒蔵『柳や』の下り酒だからな。うまいに決まってる!」
「なんでお前が自慢してんだよ」
他の客が笑う中、直はもう一度酒の味を確かめるようにぺろりと舐めた。
「ふうん?でもたぶんだけど、元の酒の質よりも喜兵寿のお燗の仕方がうまいんだと思うぞ?俺、舌には自信があるんだ。なんてったって売れっ子ブルワーだからな」
「あはは、ぶるわあ?なんだそれ」
「ビール造る人間のことだよ。クラフトビールは飲んだことないか?」
「びいる?なんだそりゃあ」
「は?ビール飲んだことないのか?え、じゃあいつもなに飲んでんだよ」
「なにって、日本酒以外になにがあるんだよ?」
直と客たちのかみ合わない会話を厨房で聞きながら、喜兵寿は先ほど直が手渡してきた酒を眺めていた。小さくゆすってみると小さな泡のようなものが動く。
喜兵寿は江戸中の酒には誰よりも詳しいという自負があった。問屋がどんな酒を扱っているか、そして近郊の酒蔵がどのような酒を造っているか、日々変わる酒情勢は常に追い続けてきたつもりだ。それでもこんな酒は見たことも聞いたこともなかった。
見たこともない格好をした男がもっている、見たこともない酒。一体これはどんな味がするのだろうか。
「つる、直を厨房に呼んでくれ」
しばらくすると、上機嫌な直が現れた。
「ここ日本酒まじでうまいな! ってそれ俺が造ったビールじゃん!ないと思ったら喜兵寿が持ってたのか」
「お前がくれたんだろう。なあ、さっきから言っている『びいる』とは一体なんなんだ?」
「あー喜兵寿もビール知らない系?いやあ、まさか世の中にビール知らない人間がいるとは思ってなかったからさ、びっくりしてるわ。でも俺らブルワーの力がまだまだ足りてないってことでもあるんだろうな、と思ってさ。正直やる気でたよ、ありがとな」
「だから『びいる』とは……」
「ま、説明するより飲んだ方が早いって」
そういうと、直は着ている妙な衣から細長い道具を取り出した。
「なっ!?」
シュポっという音と共に、器から一気に泡がこぼれだす。
「こ、こ、これはなんだ?!」
「うわ、喜兵寿、瓶振ったな~!なにか入れるもの、入れるものっと……まあこれでいいか」
直は棚に置いてあった湯飲みに液体を注ぐと、喜兵寿に差し出した。
「これがビール」
湯飲みを覗き込んでいた喜兵寿は、目を見開くと裏返ったような声を出した。
「酒が、酒が跳ねている……!」
「あはははは!おもしろい言い方すんなあ!そうだろう?しゅわっしゅわだぜえ。ってか早く飲んでみてくれよ」
「これは本当に飲んでも大丈夫なのか?」
喜兵寿はおそるおそる湯飲みに鼻を近づけると、くんっと大きく息を吸い込んだ。
「やはり嗅いだことのない香りだな……炒った穀物の香ばしさ、それにみかんのようなにおいもする」
においをかぐと、喜兵寿の目の色が変わった。今度は湯飲みの中の液体を数滴、自分の手のひらにのせる。
「色は山吹色なのだな!いや、実際はもっと濃いのか?おい、直!この酒、肌の上でも液体が小刻みに震えているぞ!これは一体どうしたものか。本当に奇術のような酒だ。嗚呼、このまちの酒はすべて飲み尽くしたと思っていたが、まさか今日という日にこんな出会いがあるなんて」
「だから早く飲めって!」
にやにやとおかしそうに見ていた直だったが、ついに我慢できずに突っ込んだ。
「小難しいこといってないで、まずは俺の自慢の酒を飲んでみてくれよ」
「……たしかに、そうだな。申し訳ない」
喜兵寿は小さく咳ばらいをすると姿勢を正し、改めて湯飲みに向かい合った。
「では、いざ」
そういってぐうっと湯飲みの中の液体を一気に飲み込んだ。
「……っ?!」
喉を抑え、目を白黒させる喜兵寿。
「ぐうううううううううううう。うわあああ。舌が!喉があああああ!」
直はその様子をきょとんとした顔で見ていたが、次の瞬間には大爆笑していた。
「ぎゃははははは!なんだそれ!!!まじでうけんだけど。まさかそんな初めて炭酸飲んだ子どもみたいな反応するとは思わなかったわ」
喜兵寿は肩で息をし、涙をためながらぜえぜえと言った。
「口の中に雷でも落ちたのかのようだ……」
「ビールどころか、炭酸すらも飲んだことないのな」
直は残ったビールを、瓶から直接ぐびぐびと飲んだ。
「全員着物にちょんまげだしさ。え、まじでここ江戸時代?みたいな。そんなおかしな格好して、今日は祭りでもあるのか?」
直の言葉に喜兵寿は考え込んでいたが、しばらくして言った。
「お前の言っている意味がわからんが……この町の大抵の男はまげを結っているぞ?」
「は?何言ってんだよ。そんなわけあるはずないだろ?」
直は笑いながら、店の外へと出ていった。と思いきや、ものすごい勢いで帰ってきた。
「え?喜兵寿!え?なんだここ?時代劇の人しかいないんだけど。え?これって映画のセット?」
「だからそれはどういう……」
喜兵寿がしゃべり終わらないうちに、「いや、もう一回みてくる!」と直は飛び出していき、またしてものすごい勢いで厨房に飛び込んできた。
「ちょんまげ、馬、あと全部土!!!まじで土しかない!んでもって全員着物じゃん。草履じゃん。え、ちょんまげじゃん!はあ?俺まだ寝てる感じ?それか酔っぱらってるのか?いや、酔っぱらってはいるけれども!」
大きな声で取り乱す直に、つるも店の客も「どうした、どうした?」とわらわらと厨房に集まってきた。
「ひょっとしておれ、タイムスリップでもしたのか?!いや、そんなまさかな!あはははは」
直はひとしきり騒ぐと、突然ぴたりと止まるといった。
「よくわかんねえけど……とりあえず酒飲むわ。喜兵寿、熱燗1本つけてくれ」
泥酔して起きたらゴミ捨て場だったことはある。植込みの中で眠っていたり、知らない女とホテルにいたこともある。記憶は気軽に飛ぶタイプだから、途中のことをまったく覚えていないなんてことはざらにあるわけだけれども……
「起きたら違う世界にいたなんてことあるかーーーい!」
直は5本目の熱燗を徳利ごと煽ると「おかわり!」と叫んだ。周囲からは「いいぞ、いいぞ」と歓声が上がる。
喜兵寿たちのはなしによれば、ここは将軍様のおひざ元にある、堀に面した「下の町」。近くには「墨田川」が流れているといっていたから、やはり直が飲んでいた墨田川ブルーイングからは遠く離れておらず、別世界にいるとしか考えられなかった。
「んー、まさかこんなことが起こるなんてなあ……」
直が腕組みしながら唸っていると、喜兵寿が熱燗と一緒に小さな小鉢を持ってきた。
「これ、食ってみろ」
中に入っていたのは子芋の煮っころがしで、甘辛く煮詰められた香ばしいいい香りが鼻先をくすぐる。喜兵寿は口こそ悪いが、なんやかんやと世話を焼いてくれていた。
「お、うまそう!」
直は子芋を大きな口で頬張った。子芋の皮はパリっと香ばしく、噛んだ瞬間に中からほろほろとやわらかい芋が崩れる。間髪入れずに熱燗を飲み下すと、双方のあまみが助長されるように喉奥いっぱいに広がった。
「やっぱうまいな!なんか喜兵寿のつくったもん食べると緩むわ」
直は大きく息つく。
「新作ビールは無事リリースしたばかりだし、仕込みは昨日ひと段落着いたところだし……あれ、ひょっとして急いで帰らなくてもいい感じか?」
思い返せば、ここのところ働きすぎていた気もする。初めて自分のレシピでビールを造るという大事なタイミングだったから全く苦には感じなかったが、長らく休暇というものをとっていない。
「知らない町に、知らない文化これってなんか海外旅行みたいじゃね?」
もしもこれがタイムスリップなのだとしたら、そう滅多にできるもんじゃない。どうやら美味いものはたくさんあるみたいだし、この時代のいろんな酒を飲んでみるのもいいかもしれない。元来旅行好きの直は一気にわくわくが湧いてくるのを感じた。
「よっしゃ、そうと決まったら俄然楽しくなってきたぞ!まずは飲むか!」
直は隣の男におちょこを掲げた。
「よろしくな。乾杯!」
「かんぱい?」
「一緒に楽しく飲もうってことだよ」
直が説明すると、男たちは面白がっておちょこを掲げた。
「それじゃあ、乾杯!」
その夜、直は常連たちと酒を酌み交わし、気がつけば再び酔いつぶれていた。
夜もとっぷりとふけた頃。客足の引いた店の床では、直が昼間と同じように寝転んでいびきをかいていた。ごうごうと鳴り響く音は、まるで地鳴りのようだ。
「それで?どうするつもりなの?この人」
つるは眉をひそめ、喜兵寿に向き合う。もともと鋭い目つきのつるだ。それがギッと睨みつけてくるもんだから、その眼光は痛いほどに鋭かった。
「そうだなあ……まあとりあえず明日の朝にはどうにかするよ」
「まったく。お兄ちゃんはそんな見た目してるくせに人が良すぎるよね」
つるはやれやれといったように、大きくため息をつく。
「わたしおもての暖簾おろしてくる」
つるは大きく伸びをしながら、外へと出ていった。
「すまんな」
喜兵寿はつるの背中を見送ると、戸棚の下から先ほどの器を取り出した。つるりとした表面に手を這わせ、瓶の口に鼻を近づけると深く息を吸う。
喜兵寿は自他共に認める「酒狂い」だった。酒狂いといっても別に大酒を飲むわけではない。とにかく酒というものが熱烈に好きで、近隣の酒は新酒も含めすべて飲み漁り、気になる噂を聞けば何日かけてでも飲みに行っていた。
酒はその酒蔵の個性が色濃くでるものだ。「この酒蔵はあそこの弟子が独立して創った酒蔵か」とか「この新酒を仕込んだのはあそこの酒蔵か」だとか。しかし直の持っていた酒は、すべてが未知で味わったことがないものだった。口にしたことのない香りに、舌の痺れるような不可思議な感覚……
一滴でも酒が残っていないかと瓶の中を覗き込んでいると、外からつるの大きな声がした。
「ちょっと、一体なんの用ですか!」
喜兵寿が急いで表に出ると、数人の男たちが店の前に立ちふさがっていた。
「失礼」
がっしりとした身体に、狡猾そうに光る目。そこにいたのは下の町の同心である村岡だった。後ろに控える手下は3人。どいつもこいつもやたらと体躯がよく、気持ちの悪い笑みを口元に浮かべている。
「今日はもう店じまいだよ。酒は売り切れだ」
喜兵寿が下から睨みつけるようにいうと、村岡は両手を挙げた。
「別に今日は飲みに来たわけじゃない。実はこの町におかしな輩が迷い込んできたと通報があってな」
村岡は笑みを浮かべたまま、喜兵寿の肩に手をかけた。厚みのある手のひらが、ぐぐっと肩にのめり込む。なんて力だ。喜兵寿は肩の痛みに思わず顔をしかめる。
「おかしな格好をした輩がうろついていたんじゃあ、下の町の皆さんも安心できないだろう?町の安全を守るのが我々の仕事だ。これは大変と、こんな夜更けにわざわざ出向いてきたってわけだ」
村岡は喜兵寿の肩を思いっきり突き飛ばすと、どすどすと店の中に入っていった。手下たちもにやにやしながらその後に続く。
「なに人の店に勝手に入ってんだ」
ぼそっと呟き、その背中に殴りかかろうとした喜兵寿を、つるが必死に止めた。
「やめなって、お兄ちゃん!こいつらに手をだしたら、罪をでっちあげられて牢屋敷にいれられちまう。牢屋敷になんて入っちまったら店がつぶれちまうよ」
村岡の悪評は下の町でも有名だった。「町の治安が」などと耳障りのいい言葉を並べ、気に入らない人間をどんどんと牢屋敷送りにしていると聞く。村岡の雇い主である人物が権限を持つが故、誰もが疑問を持ちつつも口出しをすることができないのであった。
「……くそ」
喜兵寿がギリギリと歯を食いしばりながら店の中に入ると、床で眠る直を村岡たちが取り囲んでいた。その手には刀が握られており、行燈の光に照らされ、なまめかしい殺気を放っている。
「ほう、これはまた噂通りの珍妙な輩だな。やはり異国のものが迷い込んだか」
村岡は直をまじまじと見つめていった。
「おい、起きろ!お主はなにものだ」
村岡が大きな声で叫ぶと、直はパチリと目を開けた。
「ふぁあ。やべ、また眠っちまったかあ。飲みすぎた」
大きなあくびをしながら身体を起こす。
直が動いたことで、男たちの構えた刀の切っ先に力が入るのがわかった。人の殺意とはしばしば目に見えるものだ。「何かしでかしたら斬る」という意思が空中に漂うのを感じ、喜兵寿はごくりと唾を飲んだ。この男のことはよく知らないが、この男が死ねば、もう二度とあの酒を飲むことは叶わなくなってしまう。
(おかしなことをしないでくれよ……)
そう直に祈りつつも、心のどこかではこの男がおかしなことをしないわけがないだろうなあ、という諦めに似た気持ちもあった。
「お主、名はなんと申す」
「……うっさいなぁ。いまは無理だって~」
寝ぼけたまま頭をかく直に、喜兵寿は「やっぱりな」と心の中で大きなため息をついた。
「おい!村岡さまに無礼がすぎるぞ!」
手下たちの大声で、直はやっと自分が刀を向けられていることに気づいたようだった。
「なに物騒なもん人に向けてんだよ。どうせ偽もんだろけどよ」
そういって軽く切っ先に触れると、その指からは血がたらりと垂れた。
「げ、うっわまじか!え?ちょっと待てって。なんだこれ」
「もう一度聞く。お主、名はなんと申す?」
「え、あっと、久我山……久我山 直也です」
酔いが一気にさめ、状況が飲み込めてきたのであろう。「やばい、本物じゃん」などと呟きながら、目を白黒させている。
「直也、その姿によく似合うおかしな名だな。時に直也、お主は何者だ?どこから来た。返答次第ではここで叩き切る」
「ちょっ、え、えっと、墨田川ブルーイングのブルワーで、ビールを造ってます」
村岡は眉間に皺を寄せると、「わけのわからんことをいうな!」と大きな声を出した。
「聞いたこともない言葉を使うとは、お主の異国のものだな」
「いや、ちがくて!つまり、えっと……自分は日本人で、ビールはお酒の一種で。ビールはこの国のお酒じゃないんですけど、それをつくってる自分は日本人です」
しどろもどろの直の説明に、村岡は目を細めた。
「……つまり異国の酒を造ると?」
その瞬間、喜兵寿の脳裏に数日前の会話が蘇る。幸民先生は酒を片手にこう言っていた。
『あの黒い船は異国の力そのものを示しているわけでな。たんまり見たこともないものが乗っているわけよ。
そいつらにどうやって太刀打ちするかを、お上たちは考えているらしい。わしが思うに、まずは酒だろうな。うまい酒さえあれば、大抵のことはうまくいく』
もしもその話が本当で、異国の酒が造れるものをお上が探しているのだとすれば……喜兵寿は大きく息を吸い込んだ。
「そうだ、直は異国の酒を造る杜氏だ」
「ほう?」突然話し出した喜兵寿を、村岡が睨みつける。
「わたしの遠縁にあたる男で、南方からはるばる呼び寄せた。
直が造る『びいる』なる酒は、ここでは見たこともない代物。その奇妙なる味わいの酒は、異国では重宝されるものと聞く。そんな類稀なる酒を造れるものが、多少おかしな格好をしていても不思議はないだろう」
村岡はしばらく黙って何かを考んでいたが、にやりと意地悪そうに笑うといった。
「なるほどな。ではその『びいる』とやらを造ってみせよ。しかしもしも今の話が虚言だった場合、お主たちは牢屋敷送りとさせてもらう」
村岡は手下たちに刀を下ろさせた。
「それで?酒は幾月ほどでできるのか」
「……半年ほどで」
「そんなには待てぬ。3か月でどうにかせよ。では、その『びいる』とやらを楽しみにしておるぞ」
そういうと村岡はドスドスと足音を鳴らしながら店を出ていった。
「ちょっと!お兄ちゃん、何言ってんの?!」
岡っ引きたちがいなくなると、つるが鬼の形相で喜兵寿の着物を掴んできた。恐ろしかったのであろう、手にはびっしょりと汗をかいているのがわかる。
「すまん、しかしあのままでは直が斬られていたかもしれないだろう」
「だからと言って……ねえちょっとあんた!『びいる』本当に造れるんでしょうね?!」
つるに話しかけられても、直は茫然とした表情のまま床に座っていた。
「俺本物の刀初めてみたわ。やべえ威力だ。こっわ」
「ちょっと!」
「まぁ落ち着け」
喜兵寿は荒ぶるつるをなだめると、直に向かい合った。
「聞いていたと思うが、『びいる』を献上しなければお主も俺も死ぬことになる」
「ああ、それは大丈夫だ。なんたって俺は売れっ子ブルワーだからな。最高にうまいビールを造って、あいつらをびっくりさせてやろうぜ」
直は「まじで怖かった!」と大きな声を出すと、大の字に寝ころんだ。
「休暇のつもりだったけど、やっぱここでもビール造るのかぁ。3か月ってことは、すぐにでも仕込みは始めなきゃだよな。ホップってどこに売ってるかわかるか?」
「ほっぷ?なんだそれは」
喜兵寿が眉間に皺を寄せる。その表情を見て、直は「え」と息を飲んだ。
「麦芽はあるよな……?」
「は?そんなもん知らぬ」
直の顔からはすうっと血の気が引き、それで状況を察した喜兵寿の顔からも血の気が引いて行った。
「ホップも麦芽もなかったら、どうやってビール造るんだよ!」
ビールを造らにゃ殺される。
されどもそれは険路。
こうして直と喜兵寿の、ないないづくしのビール造り紀は幕を開けたのである。




