第8話:信じるもの
――ヴェルハ港
ゼノは波止場の縁に腰をかけ、どこか遠い海の向こうをぼんやりと見つめていた。
スラム街でノアに言われた言葉が、頭の中で何度も反芻されている。
『怖いのです。光を呑み込んでしまいそうな、その纏われた空気が。わたしが祓う対象のお方じゃないことを、願います』
ゼノは小さく、ため息をついた。
まるで怯えているようにも見えたが、ゼノには彼女の言葉を理解するに至らなかった。
「あの女の言葉を気にしてるの? 大丈夫よお、ゼノにはあたしがいたら十分なんだからあ!
何があってもあなたの味方よ♪ 忘れよう、忘れよう♪」
ゼノの前に人差し指を出して、陽気な言葉を口にする。
相も変わらず元気なベルゼに、ゼノは空返事を返した。
そうしておもむろに立ち上がり、言葉をこぼす。
「……とりあえず、酒場に行こう。この国のことを、少し知っておきたい」
ヴェルハの空気や、この国の状況を少しでも知るために。
ゼノはベルゼを置いて、スタスタと歩き出した。
「あーん、待ってよお!」
撫で声を上げて、彼女はその後ろをついていった。
*
――ヴェルハ帝国 酒場
年季の入った木造の建物の扉を潜ると、人々が賑わいを見せていた。
ゼノはきょろりと見渡して、カウンターに空いている席を見つけて腰を据える。
そうしてポケットからいくつかの硬貨を取り出すと、適当に注文を選んだ。
鼻の下に口髭をたくわえた男は、目だけで笑って注文を受けた。
少しして、きゅっと冷えたグラスになみなみと注がれた、つやのある白いミルクが目の前に置かれる。
グラスの縁に残った細かな泡が、ささやかに揺れていた。
周囲が豪快に酒を呷って騒ぐ中、ゼノだけが別世界の雰囲気をかもし出していた。
つんとしたアルコールの臭いに包まれながら、ミルクを喉へ流し込む。
濃厚な舌触りのあと、ほのかな甘みがふわりと広がる。思わず「おいしい」と口にした。
ひとしきりミルクの味を楽しむと、周囲を見渡して耳を澄ます。
陽気に笑う客の中、カウンター席に座ってしっぽりと喋る男女を見つけた。
「知ってる? 聖騎士団が今度、子供たちを対象に勇士候補を募るんだって!」
女性がそう口にすると、男性は大きく頷いた。
「ああ、国をよりよくするため、だっけ?」
ゼノは気づかれないように視線を外しつつ、そっと耳を澄ませた。
「そうなの! 参加するには、親を交えた面談が必要らしいんだけど……」
「なんか、怪しくないか? 大丈夫なのか、それ?」
「うーん。でも無事に通れば、豊かな生活を約束されるらしいよ? 生活に困らないだけの家と、物資を提供するんだって! 夢あると思わない?」
女性は両手を合わせて、弾んだ声で語った。
話を聞いて、ゼノは顎に手を当てる。
子供を集める理由にしては、待遇が良すぎる。
(……なんのための募集なんだ)
胸に小さな引っかかりを残したまま、手元のミルクを一息に飲み干した。
(……この国は、長居はしないほうがよさそうだ)
ゼノはおもむろに立ち上がり、酒場を後にした。
ゼノが大通りを歩くと、ふと聞き覚えのある声が耳に入った。
それはあの頃から変わらない、誰かに命令を下す声。
ふっと、声の方向に視線を向ける。
金髪を揺らし、ヴェルハ帝国の紋が刻まれた白銀の防具を身に纏う、見覚えのある人物。
――元小隊長クラインと、目が合った。
「まあ! ゼノをいじめてたおバカさんじゃないの~!」
ベルゼが叫んだのと同時に、クラインの体がびくりと跳ねた。
「お、お、お前ッ!」
言葉にならない声を漏らしながら、何度も息を呑んでいた。
少しして冷静さを繕うと、クラインは親指を裏路地に向ける。
「……ちょっと、話そうか」
言いながら、クラインは部下らしき者たちに待機命令を言い渡した。
部下たちは敬礼を一つ返した。
ゼノは先行するクラインの後ろをただ、無言で歩き続けた。
*
二人の足音が、表通りとは別世界のような路地に響いた。
ザッ……クラインが足を止めると、こちらを振り返って静かに言葉をこぼす。
「やっぱり、来たか。いや……来てしまったんだな」
「やっぱり、とは。どういうことだ?」
ゼノもまた、感情を抑えた調子で問い返す。
「いや、お前が気にする必要はない」
そう言って、妙に濁した。。
「俺は驚いたよ。死んだはずのお前が、生きてるなんて。まるで幽霊にでも会ったようだ」
そうやって、乾いた笑いを零した。
「どうしてこの国に。お前が護るべきは、セイントベルクだろう」
ゼノはハッキリとしないクラインに、切り込んだ。
彼もまた、腰に手を当てて静かに答える。
「あんな敗戦国に未来などないさ。俺が本当に護るべき対象は、この国のように全てに寛容な国だった。それに気づいただけの話さ」
「騎士としての誇りはないのか」
わずかに怒りを含んだ声を上げ、ゼノはクラインを問い詰める。
クラインの眉がぴくりと動く。
「逆に聞くけど、お前はそれでいいのかよ。俺に散々負け犬扱いされても、黙って耐えてた。今だって同じじゃねえか。都合の悪いことから目を逸らして、全部受け入れてるだけだろ」
ゼノは何も答えられなかった。
それに畳みかけるように、クラインは語気を強くした。
「大体、うちの騎士団長様はよくわかんねえよ。人当たり良いフリをして、お前を追い出したんだぞ? 悔しくねえのかよ。もっと怒れよ! お前は――」
ゴッ‼
クラインが言い切るよりも早く、ゼノの拳が彼の頬を真っ赤に染めた。
自分のことよりも、ローウェンをバカにされたことが何よりも許せなかった。
わけもわからず、クラインが倒れこみながらこちらを凝視する。
だんだんと冷静さを欠いていく自分を抑え込んで、ゼノは必死に息を整えた。
「いってぇ……」
倒れるクラインに目を落とし、ゼノは息を整えて、静かに言った。
「……俺は間違ってない。ローウェン様は俺を思って言って下さったんだ。お前こそ、盗み聞きばかりで恥ずかしくないのか」
そう強い言葉を放った。
クラインは尻もちをついたまま、硬い石畳に拳を押しつける。
「やっぱ、お前は嫌いだ。特別な力を持っているくせに、力の使い方を間違えてやがる。俺を殴ったところで何も解決しない。
お前が向けるべき刃は、セイントベルクに対してだと思わないか」
クラインの目はどこか遠くを見つめていて、口元を緩ませた。
その笑みが何を意味するのか、ゼノには理解できなかった。
クラインは拳を作って、ゆっくりと起き上がる。
「そういう、ことだ。俺はもうセイントベルクに戻らねえ。お前は知らないままでいい。のうのうと別の人生を歩みな。俺もお前も、もう誰も止めるやつはいねえよ」
クラインが背を向けた瞬間、ゼノは鎌形態のヒュプノスを構え、背後から刃先をその胸元へ突きつけた。
「なっ――」
「国のおかげで、俺は俺でいられたんだ。ローウェン様のおかげで、俺はここに立っていられるんだ。それをお前みたいに嘲笑して生きてきたやつに、わかるはずがない!」
クラインの背に足を置き、大きく蹴りを入れる。
ドサッ‼
重々しい音が響く。
クラインは前へ転がり、慌ててこちらを振り返った。
チャキッ――鎌の刃先が嘲笑うように鳴って、クラインの首にかけられた。
クラインは突然のことに目を丸くした。
ゼノは息を上げた。無性に騒ぎ立てる心を、どうにか鎮めたかった。
(こいつのせいか……こいつのせいで、心がざわついているのか?)
「……ゼノ。やっぱお前は、適切な場面で力を使えない、子供だ。お前みたいなやつが力を持っちゃいけなかったんだ」
「うるさいッ‼」
興奮が抑えられず、大きく鎌を振り上げた。
ガキン――ッ‼
首元スレスレで、鎌の刃先は石造りの地面に突き刺さった。
小石が軽く爆ぜて、辺りに散らばる。
「……はッ」
クラインが息を吹き返したように瞳を揺らす。
深い呼吸を二度、三度繰り返してゼノの顔を見つめていた。
ゼノはすぅっと鎌を上げ、ヒュプノスを霧散させる。
わずかに震えるクラインに、背中を見せた。
「……俺は正しいんだ。ローウェン様の判断は間違ってない。正しいんだ、俺をここに送ったことも、今までの判断も、全部」
喧騒が遠くに聞こえる路地の中――ゼノの靴音と、クラインが地面に拳を何度もたたきつける音だけが、静かに響いていた。
「ええ~今の首、コロンっていったら絶対きれいだったのにぃ。つまんないの~」
ベルゼは頬を膨らませて言った。
彼女のいつもと変わらない明るい声だけが、ざわつく胸の奥に、わずかな安堵を残した。




