第7話:光と闇の邂逅
手漕ぎボートは、心地よい波のリズムに揺られながら進み続けた。
あれからどれくらい経っただろうか?
海上では日付を確かめる術もなく、太陽が昇る回数だけを頼りに日数を数えていた。
ベルゼの「退屈~」という声を、何度聞いただろう。
唐突に明るい声が、耳元に響いた。
「あっ! 見て見て! 港が見える~♪」
ベルゼの指さす方向へ顔を向ける。
そこにはどんな大きな船でも停泊できそうな、広い港が待っていた。
近くには大きな灯台が鎮座している。
その灯は、朝日に場所を譲るように少しずつ弱まっていた。
昇る太陽が街並みを照らし、大きな倉庫街が目の前いっぱいに広がる。
「早く早くー!」
ベルゼの急かす声に煽られて、ゼノはボートを港の片隅に寄せた。
ボートを降りると、倉庫に物資を運んでいる人々が目に映った。
大男から逞しい女性まで、いろんな人が朝日の下で働いている。
倉庫街を抜ければ、煌びやかな家々が目に飛び込む。
まるで城下町全体が、宝石箱のようだった。
ゼノが物珍しそうにきょろりと辺りを見回す。聞いていた通りの多国籍な港町だと感嘆した。
値段交渉をしている褐色の肌の女性。陽気に歌う綺麗な踊り子。
自国では見たことのない様々な装いは、見ていて新鮮で楽しいものだった。
そして何より――。
「ここには、俺を差別する者はいないんだよな」
ゼノがぼそりと呟いた。少なくとも、ここには自分の顔を知る者はいない。
それだけで不思議と安堵できた。
周囲に目をやりながら、ふっと笑う。
その瞬間だった。
タッタッ――ふと、ゼノの思考を掻き消す足音がした。
それはどんどんと膨れ上がって、よそ見をしていたゼノを、はっと前へ振り向かせた。
「きゃんっ!」
ドンッ。小柄な女性と、額がぶつかった。
金髪碧眼の少女はしりもちをついて、小さく涙を浮かべる。
白いローブの裾が石畳の上に広がり、陽の光を受けてほのかにきらめく。
「いったたぁ……」
教会関係者だろうか、と考えながらゼノが手を差し伸べる。
「大丈夫ですか?」
「あ、あぁ……どうも」
ふらふら、と伸ばされた彼女の手。
指先が触れかけた時、彼女は目を見開いて手を引っ込めた。
そうして何かに気づいたように、咄嗟に立ち上がった。
「す、すみません。出会って早々に失礼なお言葉ですが……」
彼女は何度か深呼吸を繰り返し、ゼノをまっすぐ見つめた。
「あなたに“良くないもの”を感じます。暗く、深い……ドロドロの黒に、飲み込まれてしまいそうな」
彼女は言いかけて「いけない!」と叫んだ。
「すみません、急いでるので! 忘れてください!」
パタパタと忙しそうに去っていく彼女。突然の言葉に、ゼノは立ち尽くしていた。
「なあに、あの失礼な子! やっちゃう⁉」
「……やらない」
ご立腹なベルゼを適当にあしらって、ヴェルハの街を再び歩き始めた。
*
腰を落ち着ける場所を探して、しばらく街を歩き続けた。
どこもかしこも喧騒でいっぱいだった。
旅人と思われる者以外、ほぼ全ての人々が豪華な衣服に身を纏っている。
ゼノはその光景に、多少の違和感を覚える。
「ま、待てええ――‼」
突如、喧騒に割って入った怒号。
周囲の人間が一斉に、声を荒げた人へと目を向けた。
何もない場所へ手を伸ばしてうずくまる、少し恰幅のいい男。とても息が上がっており、悲嘆に暮れた瞳を宿していた。
「何かあったんですか?」
ゼノが近づいて、男に声をかける。
すると、男はいきなりゼノの体にしがみついて懇願した。
「た、旅の人ですかあ! お願いします、捕まえてください‼」
唐突に感情を爆発させ、涙声で訴えていた。引きずり降ろされそうな力強さに、ゼノは落ち着くように促す。
「うう。私、そこの商店を営んでいるものです」
男の言葉を受けて、ゼノは少しばかり間を空ける。
“待て”という叫びと、切羽詰まった様子ですがりつく姿から、ゼノはひとつ思い当たることを口にした。
「……物を盗まれたんですか?」
すると、男は目を輝かせて必死に頷いた。
「そ、そうなのです! あの汚らわしいドブネズミ! 捕まえたら聖騎士団に突き出して牢にぶちこんでやるうッ‼」
男は歯を軋ませ、盗人が逃げた先をぎらついた目で睨んでいた。
「わかりました」
「おお、やってくださいますか! 見つけ次第、すぐ聖騎士団に突き出してくだせえ! ああでもしないと、やつらはわからんのです!」
「……善処します」
なおも悪態を吐く男を背に、ゼノは目を閉じて耳を立てる。
喧騒に紛れて、わずかに足音が聞こえる。それは堂々と歩く音ではなく、どこか恐る恐る逃げ惑うような足音。
ある程度の方角を絞って、ゼノは人々の間を縫って走った。
――盗みを働いた者に追いつくまで、そんなに時間はかからなかった。
*
とある建物が密集した一角の裏。埃とコケにまみれた小階段が、暗闇へと誘っていた。
時折、コケがぬめり、足が取られそうになった。
ゼノは階段を降りる。間違っていなければ、ここに犯人がいるはずだった。
ゼノは辺りを軽く見回す。
つぎはぎだらけの家……ボロボロのシート。埃とカビが鼻腔を刺激した。
周囲の人間は、破れかけた衣服を身に纏い、煤けていた。
いるだけで息が詰まりそうなほど、湿った臭いがこもっていた。
――俗にいう、スラム街というやつだろうか。
ゼノは経験したことのない悪臭を前に、ゆっくりと進んだ。
皆が肩を寄せ合い、こちらを見つめている。
ゼノはただひたすら、真っすぐを向いた。
「ほら、やつらから盗ったんだ! バレないうちに食べるぞ!」
「おにいちゃん、ありがとう!」
やがて幼い子供のやり取りが聞こえてきた。
まだ十にも満たない子どもが、おもむろに服の中から食べ物を取り出す。
それは周囲の景色には似つかわしくない、綺麗な包み紙にくるまれた食べ物だった。
――あいつか。
軽く息を吸って、ゼノは少年へと近づいた。
「ひっ」
先に気づいた少女が、こちらを見た。瞳は激しく揺れ動き、体は石のように固まっている。
「ん……?」
次に気づいた、少年がこちらを振り返った。
少年がゼノの姿を捉えた次の瞬間、ゼノはその腕を取り、地面へ組み伏せた。
「ぎゃっ……!」
「お前だな、盗んだやつは」
「痛い、痛い痛い、いだいッ‼」
痛みに悶え、ただ泣き叫んでいた。まだ取り返しのつかないことをしたわけではない。そう考え、少しだけ力を緩める。
大人の兵士にかけるときの半分にも満たない力加減で、怪我をしない程度に腕を捻ってやる。
絶叫がスラム街に轟いた。少年の悲鳴が耳の奥をつんざいた。
ベルゼもその様子を見て、妖艶に笑うばかりだった。
ゼノが待っていたのは少年からの「謝罪」だった。
少なくともローウェンにはそう教わってきた。
だからこそ謝罪を口にせず、泣きわめくばかりの少年が理解できなかった。
――ゼノが謝罪を要求しようとした瞬間だった。
「何をやっているんですかッ‼」
甲高い声が、ゼノの気を緩めた。少女に胸を強く押され、少年から離れる。
痛みを訴えていた少年は、彼女に縋りついた。
「ねえちゃん、ねえちゃん――っ!」
「……手が真っ赤。ひどい、こんなやり方……」
先ほどぶつかった少女だった。彼女は少年の手首をさすりながら、キッとこちらに鋭い眼光を向ける。
ゼノは、動揺して汗を滲ませる。
「先ほどから、どこか不穏な方だとは思ってましたけど……弱者にここまで暴力を振るうなんて。まるで、書物に描かれた悪魔みたい」
目を細め、眉が大きく吊り上がる。ゼノは少女を前に、口を開こうとした。
「だが……」
「なんですか、言い訳無用です。この子たちが何をしたって言うんですか‼」
ひどく興奮して、まくしたてていた。
どうにか落ち着かせようと、ゼノは言葉を切りこんだ。
「この子たちは……ッ‼」
「俺はただ、盗人を捕まえてくれと頼まれただけだ。上で、店の人が困ってた」
「え……?」
少女が硬直する。そうして、縋りつく少年に視線を滑らせた。
当の少年は、サッと視線を壁に向けた。次の瞬間、少年がスラム街全域に聞こえるような大声を上げた。
「し、し、仕方ないだろ! ねえちゃんだけのお菓子やパンじゃ足りないんだ! 持ってるやつから盗んで何が悪い‼」
怒りを露わにする少年に対し、ゼノはぼうっと見つめた。
(予定通りに聖騎士団に突き出すか)
そう考えていると、少女は首を振った。少年の肩を抱いて優しく諭す。
「他人を犠牲にしてまで得る幸福は、いずれ自分にも返ってくるの。いい子だから、盗んじゃダメ。ね?」
ゼノの中で「それが今じゃないのか」という思考がよぎるが、少女の穏やかな声を前に、ゼノは口を挟まず成り行きを見守った。
彼女の言葉に、少年は静かに頷いた。
「……ねえちゃん。にいちゃん……ごめんなさい」
少年は頭を深々と下げた。ゼノは少年から目を逸らし、明後日の方向を見て言葉だけ聞き入れた。
「……あの。ごめんなさい、勘違いして」
少女が申し訳なさそうに、謝る。
「お詫び、と言っては安いけど。わたしはヴェルハ教団・司祭、聖女のノアと申します」
「……ゼノだ」
「ゼノ様、ですね」
ノアと名乗る少女は綺麗な碧眼でゼノを映すと、眉を下げて静かに言った。
「やっぱり、わたしたちは会話するべきではないですね。
聞こえるのです、ゼノ様から、死を纏う足音が。わたしの心がざわつくんです」
「……さっきから何を言って」
「怖いのです。光を呑み込んでしまいそうな、あなたを包むその空気が。わたしが祓う対象のお方じゃないことを、願います」
ノアは言いたいことを言い残し、階段を駆け上がった。
ゼノの胸の奥が、妙にざわついていた。
(やはりこの土地にもいるべきではない、か)
そう考え、静かにスラム街を出る。
じめじめとした空気から解放され、澄んだ空気が体中に駆け巡る。
ゼノは大きく一つ、深呼吸をした。
「なあに、あの子! やっぱむかつくんですけどお!」
人の気も知れずに頬を膨らませるベルゼ。
ゼノはとてつもない疲労感に肩を落とし、大きなため息をついた。




