第6話:Sideノア 聖女と脱走兵
グレンの後を追って、ノアは客間まで辿りついた。
(この先に、脱走兵が……)
手のひらに汗がにじみ、緊張で少しばかり鼓動が早くなった。
心臓が胸を打ち、何も考えられなくなっていく。
不安ばかりが頭の中を埋め尽くした。
「……心配しないでください」
「え……?」
唐突なグレンの言葉に、ノアはドキリとする。
その眼差しは扉に固定され、力強い言葉が返ってくる。
「何があっても、ノア殿はお護りします」
「……心配しすぎですよ」
ノアはふっとぎこちない笑みを返した。
同時に、緊張の糸が解けて鼓動が落ち着いた。
キイッ……ドアの軋む音が耳に張りつく。
ふかふかなソファを挟んで、木目調の綺麗な机が目に映る。
ノアはきょろきょろと辺りを見回して、噂の脱走兵を目にとらえた。
「お待たせいたしました。こちら、我がヴェルハに仕える聖女ノア様でございます」
ノアは一礼を返す。
噂の脱走兵らしき男は、真面目な面持ちでノアたちを捉えた。
短い金色の髪を揺らし、傷一つない綺麗な顔立ちをしていた。
相当な実力者なのだろうか?
ノアは小首を傾げた。
グレンは隣で拳を胸に置き、どっしりとした声を響かせた。
「改めまして私、ヴェルハ帝国聖騎士団長のバーンハルトと申します。失礼ですが、お名前と身分をお聞かせください」
男が名乗りを上げるまでの間、ノアは思わずグレンの横顔を見つめる。
少しして男が立ち上がり、同じように敬礼を返した。
少し高めの、よく通る声だった。
「はっ。私、元セイントベルク王国騎士団所属、クラインと申します。王都では小隊を率いてました」
「ふむ。我が聖騎士団への所属を望んでいると伺いました。不躾ではありますが、理由をお聞きしても?」
グレンの言葉に、クラインは怯えた様子なく、強い瞳を宿していた。
「はい」
そう言って息を吸い上げて、クラインは一息に放った。
「俺は……もう、セイントベルクには戻れません。これまで信じて仕えてきたものが、本当に正しかったのか。先の戦で、分からなくなりました。
俺が本当に仕えたかったのは、この国のように多くの人種を受け入れる、多様性に富んだ自由な国なのだと。
この命も、この腕も──すべてヴェルハに捧げる覚悟です」
自分の手のひらを見つめ、ゆっくりとこぶしを握る。
グレンは理由を聞いて、ノアの隣で声量を抑えて言った。
「……どう思う、ノア殿」
グレンは目を落とし、ノアの返事を待っているようだった。
ノアは少しばかり考えて、ゆっくりと言葉にした。
「悪い人……じゃあなさそう、かな?
少なくとも、こちらに尽くしたいという信念は伝わります」
「ふむ……」
グレンが考え込むように唸った。
口ではそう返したものの、ノアの胸には小さな懸念が残っていた。
(この人もきっと何かあるはず。だけど、なんでこんなに心がざわつくんだろう)
思考に霧がかかったようで、その正体をうまく言葉にできない。
「――ノア殿。ノア殿……?」
肩が揺れ、かかっていた霧が一気に晴れる。気づけばグレンに肩を支えられて軽く揺らされていた。
「はっ! いえ、寝てませんよ!」
「は、はぁ……」
恥ずかしさに縮こまり、ノアは静かに話の続きを待った。
グレンとクラインが互いに言葉を交わす。気づけば話は少し先へと進んでいた。
「それで……その話は本当なのか?」
「はい。俺はこの目で見たんです。あなた方に助力するため、私は直接、騎士団長に問うたのです。けれどしらばっくれるばかり。
私にはハッキリと聞こえました。あなた方の国へ亡命すると」
クラインは胸に手を置いて、くっと唇を噛みしめた。よほど力が入っていたのか、私服がシワを作っていた。
「……忌憑きは殉職したと聞いていたが。なるほどな」
顎に手を当てて、グレンはひとりでに考え込む。
(また、忌憑き。みんな不安がってる。孤児院の人たちも、スラムの人たちも)
ノアは膝元で拳を作った。教会がその情報を外側へ出したことに、悲しみを覚えた。
(みんなを不必要に怖がらせて、警鐘を鳴らすなんて)
「それは誠だな。虚偽の言葉であれば、穏便な死だけでは済まさんぞ」
そうグレンが、クラインに目を向けて問いかける。
クラインは、大きな声で宣言した。
「あなた方に偽りを伝える意味など何もない。もう私は、セイントベルクの人間でないのだから」
グレンはクラインの目をじっと見据える。
しばしの沈黙のあと、静かにうなずいた。
「わかった。貴殿を受け入れよう」
「本当ですか!」
「その代わり」とグレンが間髪入れずに差し込んだ。
クラインはびくりと肩を上げ、目を丸くさせた。
「本当に我がヴェルハに忠誠を誓うというのなら、それなりの誠意を見せてもらおう」
「誠意、ですか……?」
きょとんとした表情で、クラインの顔面がこわばった。
「ああ、なにも身構えなくていい。簡単なことさ」
グレンがそう言い放つと、クラインは静かに生唾を呑んだ。
「教会では長らく、ある研究をしていてね。貴殿には聖騎士団としての責務を果たしつつ、その研究の助力を頼みたい。その代わり、必要な支援はなんでもしよう」
「研究……ですか?」
「今は伝えることができない。機密情報だからね」
グレンはそこで言葉を切った。
いつもと変わらないはずの横顔なのに、ノアはなぜか小さく身震いした。
「ノア殿も、それでよろしいか?」
唐突に声を掛けられ、体が飛び上がった。
「ひゃ、ひゃいっ!」
一瞬の沈黙のあと、グレンが小さく吹き出した。
「ノア殿、落ち着いてください」
「は、はわわ……すみません」
顔を真っ赤にさせ、恥ずかしさにうつむいた。
「以上だ。今からその研究に携わっている女性の元へ行く予定なのだが……貴殿もぜひ、会ってほしい」
「わかりました。受け入れていただいた恩は、必ず行動でお返しします」
クラインは立ち上がり、深々と一礼をした。
話し合いが終わっても、いまだにノアの心は晴れなかった。
*
その後、ノアは今日の務めを全てこなし、自室のベッドに倒れこむ。
疲労が今になって、どっときた。
まるで電池が切れた人形のように、ぴくりとも動かなくなった。
――しかし、まだノアの一日は終わらなかった。
トントン。ノックが響く。ノアは聖女とは思えない、だらけた声を出した。
それは、務めから解放された“普通の女の子”としての返事だった。そうであることを、今だけは許された。
「失礼します」
グレンが部屋へ足を踏み入れた。
ノアが起き上がろうとすると、グレンは片手を突き出して制止する。
「そのままで構いません。あの者を特例で、小隊長に任命しました。それで、少しお話が」
「……何かあったの?」
グレンはノアを見据えて、真面目な声色で喋る。
「陛下は、あの者に利用価値ありと見ておられます。可能な限りセイントベルクの情報を引き出し、必ずやあの研究を完成させます。
成功した暁には、きっとどの国も我が主にひれ伏すこととなりましょう」
「……あの人が携わっている研究のこと?」
ノアも実情は知らなかった。けれど、良くない噂だけが独り歩きをしてノアの心を締めつける。
「グレン様……わたし、怖いよ。あの人のことも、即位した皇帝陛下のことも、全部」
そんなことを、思わずぽつりとつぶやいた。
グレンは困った顔で頬を掻き、静かに首を振った。
「あなたはただ、あなたのままでいればいいのです。それが一番美しい」
「わたしにできることは何でもしたいの。でも、どこを見ても……この国には邪なる者が潜んでいるように見えて、休まらないの。
みんな不安がってるんだよ。なんで不必要な領土争いなんて仕掛けたの。なんで……」
ノアはベッドの上で、自分の体をきつく抱きしめる。気づけばわずかな涙が零れ落ちていた。
「ノア殿……私には、今のあなたを慰める資格はない。けど、これだけは信じてください」
グレンは静かにすすり泣くノアを見つめながら、大きく息を吸いこんだ。
「何があっても、あなただけは護り抜きます。この言葉に偽りなどありません」
「失礼します」とグレンが声をかけ、扉の音がノアを思考から引き戻した。
ノアは誰もいなくなった部屋で涙を拭い、ベッドに顔を押しつける。
何度か深い息を吐いて、ひとりでに呟いた。
「もう嫌だよ……誰かの悲鳴を聞くのは」
手のひらに力を込め、シワが寄ったシーツの中で急に瞼が重くなった。
ノアが眠りに落ちるまで、そう時間はかからなかった。
けれど、微睡の中――意識が落ちる間際まで、ノアの頭からは忌憑きのことが離れなかった。




