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忌憑きの執行人  作者: 葉玖 ルト
一章 剣と呪いのセイントベルク
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第5話:Sideノア スラム上がりの聖女

 ――ヴェルハ帝国 スラム街


「みんな、いい子にしてた?」


 川のせせらぎのように透き通る声が、荒んだ空気に広がった。

 スラム街。武力で成り上がった栄華の、知られざる一面。

 ボロボロのシートで眠り、つぎはぎだらけの家に住み、それでも人々は今を生きていた。

 金糸のような繊細で滑らかな髪。青空を想起させる碧眼が、振る舞いも相まって可憐な少女を形作っている。

 身にまとっているのは、純白を基調とした簡素な司祭服だ。

 淡い水色の刺繍が裾や袖口を縁取り、胸元には光を象った小さな紋章が縫い込まれている。

 そしてヴェルハの町を歩き回るのに適した、革のブーツを履いていた。

 ノアは、子供たちには籠いっぱいのお菓子を、大人たちには箱に詰めたパンを配っていく。


「えへへ、ノアお姉ちゃんありがとー!」

「ふふっ。喜んでくれてよかった!」


 次々と子供たちに声を掛けられて、ノアに慕いの言葉をかけて順繰りにお菓子をもらう。

 日の当たらないスラム街で、太陽にも負けない笑顔が咲き誇る。

 ノアが最後の子にお菓子を渡した時、一人の女性がノアに声をかけた。


「ノアちゃん。あたしは誇らしいよ……このスラムから、聖女様が生まれるなんて」


 弾んだ声がノアの心をくすぐった。


「大げさですよ! わたしはそんな、大した者じゃないです」


 ノアはこのスラムで生まれ育ち、偵察に訪れた大主教にその力を見出された。

 ここを離れることになったとはいえ、自分はただの一人の少女にすぎないと自覚していた。


 大主教は「光の加護をお持ちだ」とノアを持て囃し、神に選ばれた聖女なのだと何度も口にしていた。


 自分はそんな大した者じゃない。

 このスラムの人たちと共に育ったのに、一人だけ華やかな舞台へと旅立ってしまった。その後悔がノアの心を未だに苦しめる。


 全てを配り終えると、ノアはスラム街を後にした。

 石畳の道をしばらく進んだ先に、教会が管理する小さな孤児院がある。

 銀製の柵が敷地を囲んでいた。

 柵の先端は鋭利な槍のように尖り、邪なるものを決して寄せ付けまいとする、教会の厳格さをそのまま形にしたようだった。

 孤児院の広場に入るなり、甲高い歓声が上がった。子供たちが一斉にノアを囲み、ぎゅうっと身体に抱き着いてくる。


「もう。甘えん坊さんなんだから」


 抱き着いた子を撫でてやると、とろんとした表情を浮かべて顔を緩めた。


「ねえちゃん! 遊ぼうぜ!」


 男児が両腕をいっぱいに広げ、ノアの前へ飛び出した。


「ごめんね、今は忙しいの。また今度ね」

「ちぇーっ」


 男児は口を尖らせて、不満げに言った。

 次々に子供たちに声を掛けられて、ノアは困ったようにはにかんだ。


「みんな、ノア様にご迷惑をかけてはいけませんよ」


 孤児院から、女性が現れて子供たちを中へ促す。

 皆が帰るのを待ってから、孤児院の先生は口を開いた。


「ノア様……ご足労いただき、ありがとうございます」

「これ、頼まれていたものです」


 そう言って、野菜の種を渡す。子供たちと一緒に、小さな菜園を作りたいとお願いされていたものだ。

 女性はそれを受け取ると、唐突に眉を下げた。


「どうかされたんですか? わたしでよければ聞きますよ」


 女性は不安げな眼差しでノアを映した。

 少しばかり言いづらそうに、もごもごと口元を動かしていた。けれど決心をしたように頷いて、声を落とす。


「いえね。最近、何かと物騒でしょう?」


 頬に手を当てて、少し間を置いてから言葉を口にした。


「セイントベルクとの領地争いに、貴族さま方のスラムへの当たりの強さ……嫌な話ばかり耳にしてしまって」


 言いながら、女性は胸に手を置いた。


「私はもう、心配で……。ノア様の身になにかあったら、私もスラムの人たちも……とても悲しみます」


 彼女の言葉に反して、ノアは静かにほほ笑んだ。


「ありがとうございます。けれど、わたしは大丈夫ですよ」

「ノア様――」

「たとえ相手が暴虐の限りを尽くす邪神だとしても、このヴェルハを護るのがわたしの役目ですので」


「それでは」とだけ返して、孤児院を後にする。

 いまだ不安そうな眼差しを受けながら、ノアは教会の方向へ、足を進める。

 ――途端、神官のローブを着た末端の信者が、息絶え絶えにノアの名を叫ぶ。


「はあ、はあ。ノア様ー!」


 ノアは肩を上げて、その足を止めた。


「落ち着いてください。一体どうされたのですか?」

「ノア様……怪我人が、運び込まれて……はぁ、はぁ。手当を……“いつもの奇跡”を、お願いします」


 喋るのもやっとと言わんばかりに、信者はノアに懇願した。


「わかりました、急ぎましょう」


 ノアも力強く頷いて、教会へと足を早めた。


 *


 教会の治療室。

 清潔なベッドが横に並ぶ部屋の一角、その怪我人は横たわっていた。

 煌びやかな服装を身に纏い、震える手に嵌められた指輪のダイヤモンドが、光に反射した。どうやら貴族のようだった。

 足が赤く腫れて、内部出血をしているのだろうか?

 ノアは息を大きく吸って、怪我の部位に手をかざす。


 陽射しを連想させるような、柔らかい光が患部を覆う。それは見る見るうちに腫れを引かせ、血色のいい肌色に戻った。


「はっ……痛くない。動くぞ!」


 患者は嬉しそうに立ち上がる。勢いよくお礼を返すと、忙しそうにパタパタと駆けて行った。

 ノアは頬を緩めて、その背を見送った。

 額からは笑顔に似つかない、大粒の汗が滲み出る。


「……うっ」


 ノアは近くの壁に手をつき、くらりとする体を支えた。

 教会では、どんな怪我も治せる奇跡こそが、神から賜りし加護だと教えられていた。


 ――代償に、自分の命が少しずつ削れていく音がする。


 このことを知っているのは、皇帝陛下と聖騎士団長、大主教だけだ。

 それでもノアには止まることができなかった。

 誰かを救うことが、自分に与えられた使命なのだと心に言い聞かせていた。

 やがて症状が落ち着いてきた頃、大主教がお呼びであると、信者に促された。


 ノアは一息をつきたいと願ったが、自分自身を鼓舞して重い体を動かした。


 すれ違う神官たちの視線が、ノアに突き刺さる。

 『スラム上がりの、穢れた聖女』――そんな囁きが背後から聞こえてくることも、珍しくなかった。

 ノアが自分の味方だと感じられるのは、一部の信者と大主教、そしていつも傍で見守ってくれている聖騎士団長だけだった。


 教壇に佇む男の姿が目に入る。恰幅のいい体つきに反して、頬はこけていた。

 鋭い目つきだがどこか遠い目をした、大主教だった。

 その表情からノアには感情が読み取れなかった。けれど細く伸びる声色だけはノアを安心させた。


「ノアよ、まずはお務め……ご苦労であった」


 ノアは一礼を返す。


「ノア、忌憑きは覚えていますか?」

「忌憑き……」


 ノアはその名を知っていた。教会の書物にも、幾度となく記されている。

 ――忌憑き。

 『悪魔の力を借り、暴虐の限りを尽くす邪神』

 ノアは幼い頃から、そう教えられてきた。

 祓うには同じく神の力が必要で、ノアにはその力が宿っているのだと言われ続けていた。


(まさか、存在するなんて思いもしなかったけど)


 ノアはただの伝承だと思っていた。

 ノアにとって忌憑きは祓うべき対象。それは責務であり、逃げられない宿命である。


「同胞の話によると数日前、セイントベルク港を出立したと聞きました。もうじき、襲来すると思われます」


 ノアは大主教の言葉の続きを、静かに待った。


「ノア。万が一出会ったら、迷わず祓いなさい。相手は暴虐の限りを尽くす邪神……我々の敵なのです」

「敵……」

「これはお前にしか、できないことなんだよ。いいね?」


 強い口調を聞いて、ノアは「はい」とそれだけ答え、静かに頭を下げた。


 少しして、ノアが大主教の元を去ろうとした時――重装プレートの足音が教会に響いた。


「ご無礼、お許しください」


 白を基調として、継ぎ目に水色の装飾で彩られた重々しい鎧。胸元のプレートにはヴェルハの文様が描かれていた。

 赤い髪色は炎のように美しく、金色の瞳には、揺るぎない意志が宿っているように見えた。

 ――聖騎士団長、グレン・バーンハルトである。


(いつ見ても、絵本に出てくる英雄みたい……)


 若くして実力で聖騎士団長の座に就いた彼を、ノアは尊敬の眼差しで見つめた。


 その姿を見るだけで、不思議と元気が湧いた。

 長剣を腰に携えたグレンは片膝をつき、拳を床につけて、かしこまる。


「続けなさい」


 大主教が、グレンに細い声をかける。グレンはおもむろに顔を上げ、ノアの方を向いた。


「ノア殿に、会ってほしい御仁がございます」


 ひときわ改まった声音で告げた。

 ノアは少しだけ唇を震わせて、息を整える。


「……わかりました。その者はどちらへ?」


 ノアは背筋を伸ばし、できるだけ平静を装った。


「客間の方で待たせております。敵国セイントベルクの脱走兵でありながら、ヴェルハ帝国聖騎士団に所属したいと、のたまっておりますが……」


「いかがいたしましょう」と、グレンが告げる。

 ノアは大きく頷いた。


「わたしも行きます。まずはその者の話を聞いてから判断します」


 それを聞いて、グレンは体勢を起こした。ガシャンとプレートの音が室内に響く。どっしりとしたグレンの背中を、ノアは小さな歩幅で追いかけた。


 疲れたなどと、弱音は吐けない。これも仕事のうちだと、自身に言い聞かせる。

 ――聖女としての責務を、全うするのみだった。




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