第5話:Sideノア スラム上がりの聖女
――ヴェルハ帝国 スラム街
「みんな、いい子にしてた?」
川のせせらぎのように透き通る声が、荒んだ空気に広がった。
スラム街。武力で成り上がった栄華の、知られざる一面。
ボロボロのシートで眠り、つぎはぎだらけの家に住み、それでも人々は今を生きていた。
金糸のような繊細で滑らかな髪。青空を想起させる碧眼が、振る舞いも相まって可憐な少女を形作っている。
身にまとっているのは、純白を基調とした簡素な司祭服だ。
淡い水色の刺繍が裾や袖口を縁取り、胸元には光を象った小さな紋章が縫い込まれている。
そしてヴェルハの町を歩き回るのに適した、革のブーツを履いていた。
ノアは、子供たちには籠いっぱいのお菓子を、大人たちには箱に詰めたパンを配っていく。
「えへへ、ノアお姉ちゃんありがとー!」
「ふふっ。喜んでくれてよかった!」
次々と子供たちに声を掛けられて、ノアに慕いの言葉をかけて順繰りにお菓子をもらう。
日の当たらないスラム街で、太陽にも負けない笑顔が咲き誇る。
ノアが最後の子にお菓子を渡した時、一人の女性がノアに声をかけた。
「ノアちゃん。あたしは誇らしいよ……このスラムから、聖女様が生まれるなんて」
弾んだ声がノアの心をくすぐった。
「大げさですよ! わたしはそんな、大した者じゃないです」
ノアはこのスラムで生まれ育ち、偵察に訪れた大主教にその力を見出された。
ここを離れることになったとはいえ、自分はただの一人の少女にすぎないと自覚していた。
大主教は「光の加護をお持ちだ」とノアを持て囃し、神に選ばれた聖女なのだと何度も口にしていた。
自分はそんな大した者じゃない。
このスラムの人たちと共に育ったのに、一人だけ華やかな舞台へと旅立ってしまった。その後悔がノアの心を未だに苦しめる。
全てを配り終えると、ノアはスラム街を後にした。
石畳の道をしばらく進んだ先に、教会が管理する小さな孤児院がある。
銀製の柵が敷地を囲んでいた。
柵の先端は鋭利な槍のように尖り、邪なるものを決して寄せ付けまいとする、教会の厳格さをそのまま形にしたようだった。
孤児院の広場に入るなり、甲高い歓声が上がった。子供たちが一斉にノアを囲み、ぎゅうっと身体に抱き着いてくる。
「もう。甘えん坊さんなんだから」
抱き着いた子を撫でてやると、とろんとした表情を浮かべて顔を緩めた。
「ねえちゃん! 遊ぼうぜ!」
男児が両腕をいっぱいに広げ、ノアの前へ飛び出した。
「ごめんね、今は忙しいの。また今度ね」
「ちぇーっ」
男児は口を尖らせて、不満げに言った。
次々に子供たちに声を掛けられて、ノアは困ったようにはにかんだ。
「みんな、ノア様にご迷惑をかけてはいけませんよ」
孤児院から、女性が現れて子供たちを中へ促す。
皆が帰るのを待ってから、孤児院の先生は口を開いた。
「ノア様……ご足労いただき、ありがとうございます」
「これ、頼まれていたものです」
そう言って、野菜の種を渡す。子供たちと一緒に、小さな菜園を作りたいとお願いされていたものだ。
女性はそれを受け取ると、唐突に眉を下げた。
「どうかされたんですか? わたしでよければ聞きますよ」
女性は不安げな眼差しでノアを映した。
少しばかり言いづらそうに、もごもごと口元を動かしていた。けれど決心をしたように頷いて、声を落とす。
「いえね。最近、何かと物騒でしょう?」
頬に手を当てて、少し間を置いてから言葉を口にした。
「セイントベルクとの領地争いに、貴族さま方のスラムへの当たりの強さ……嫌な話ばかり耳にしてしまって」
言いながら、女性は胸に手を置いた。
「私はもう、心配で……。ノア様の身になにかあったら、私もスラムの人たちも……とても悲しみます」
彼女の言葉に反して、ノアは静かにほほ笑んだ。
「ありがとうございます。けれど、わたしは大丈夫ですよ」
「ノア様――」
「たとえ相手が暴虐の限りを尽くす邪神だとしても、このヴェルハを護るのがわたしの役目ですので」
「それでは」とだけ返して、孤児院を後にする。
いまだ不安そうな眼差しを受けながら、ノアは教会の方向へ、足を進める。
――途端、神官のローブを着た末端の信者が、息絶え絶えにノアの名を叫ぶ。
「はあ、はあ。ノア様ー!」
ノアは肩を上げて、その足を止めた。
「落ち着いてください。一体どうされたのですか?」
「ノア様……怪我人が、運び込まれて……はぁ、はぁ。手当を……“いつもの奇跡”を、お願いします」
喋るのもやっとと言わんばかりに、信者はノアに懇願した。
「わかりました、急ぎましょう」
ノアも力強く頷いて、教会へと足を早めた。
*
教会の治療室。
清潔なベッドが横に並ぶ部屋の一角、その怪我人は横たわっていた。
煌びやかな服装を身に纏い、震える手に嵌められた指輪のダイヤモンドが、光に反射した。どうやら貴族のようだった。
足が赤く腫れて、内部出血をしているのだろうか?
ノアは息を大きく吸って、怪我の部位に手をかざす。
陽射しを連想させるような、柔らかい光が患部を覆う。それは見る見るうちに腫れを引かせ、血色のいい肌色に戻った。
「はっ……痛くない。動くぞ!」
患者は嬉しそうに立ち上がる。勢いよくお礼を返すと、忙しそうにパタパタと駆けて行った。
ノアは頬を緩めて、その背を見送った。
額からは笑顔に似つかない、大粒の汗が滲み出る。
「……うっ」
ノアは近くの壁に手をつき、くらりとする体を支えた。
教会では、どんな怪我も治せる奇跡こそが、神から賜りし加護だと教えられていた。
――代償に、自分の命が少しずつ削れていく音がする。
このことを知っているのは、皇帝陛下と聖騎士団長、大主教だけだ。
それでもノアには止まることができなかった。
誰かを救うことが、自分に与えられた使命なのだと心に言い聞かせていた。
やがて症状が落ち着いてきた頃、大主教がお呼びであると、信者に促された。
ノアは一息をつきたいと願ったが、自分自身を鼓舞して重い体を動かした。
すれ違う神官たちの視線が、ノアに突き刺さる。
『スラム上がりの、穢れた聖女』――そんな囁きが背後から聞こえてくることも、珍しくなかった。
ノアが自分の味方だと感じられるのは、一部の信者と大主教、そしていつも傍で見守ってくれている聖騎士団長だけだった。
教壇に佇む男の姿が目に入る。恰幅のいい体つきに反して、頬はこけていた。
鋭い目つきだがどこか遠い目をした、大主教だった。
その表情からノアには感情が読み取れなかった。けれど細く伸びる声色だけはノアを安心させた。
「ノアよ、まずはお務め……ご苦労であった」
ノアは一礼を返す。
「ノア、忌憑きは覚えていますか?」
「忌憑き……」
ノアはその名を知っていた。教会の書物にも、幾度となく記されている。
――忌憑き。
『悪魔の力を借り、暴虐の限りを尽くす邪神』
ノアは幼い頃から、そう教えられてきた。
祓うには同じく神の力が必要で、ノアにはその力が宿っているのだと言われ続けていた。
(まさか、存在するなんて思いもしなかったけど)
ノアはただの伝承だと思っていた。
ノアにとって忌憑きは祓うべき対象。それは責務であり、逃げられない宿命である。
「同胞の話によると数日前、セイントベルク港を出立したと聞きました。もうじき、襲来すると思われます」
ノアは大主教の言葉の続きを、静かに待った。
「ノア。万が一出会ったら、迷わず祓いなさい。相手は暴虐の限りを尽くす邪神……我々の敵なのです」
「敵……」
「これはお前にしか、できないことなんだよ。いいね?」
強い口調を聞いて、ノアは「はい」とそれだけ答え、静かに頭を下げた。
少しして、ノアが大主教の元を去ろうとした時――重装プレートの足音が教会に響いた。
「ご無礼、お許しください」
白を基調として、継ぎ目に水色の装飾で彩られた重々しい鎧。胸元のプレートにはヴェルハの文様が描かれていた。
赤い髪色は炎のように美しく、金色の瞳には、揺るぎない意志が宿っているように見えた。
――聖騎士団長、グレン・バーンハルトである。
(いつ見ても、絵本に出てくる英雄みたい……)
若くして実力で聖騎士団長の座に就いた彼を、ノアは尊敬の眼差しで見つめた。
その姿を見るだけで、不思議と元気が湧いた。
長剣を腰に携えたグレンは片膝をつき、拳を床につけて、かしこまる。
「続けなさい」
大主教が、グレンに細い声をかける。グレンはおもむろに顔を上げ、ノアの方を向いた。
「ノア殿に、会ってほしい御仁がございます」
ひときわ改まった声音で告げた。
ノアは少しだけ唇を震わせて、息を整える。
「……わかりました。その者はどちらへ?」
ノアは背筋を伸ばし、できるだけ平静を装った。
「客間の方で待たせております。敵国セイントベルクの脱走兵でありながら、ヴェルハ帝国聖騎士団に所属したいと、のたまっておりますが……」
「いかがいたしましょう」と、グレンが告げる。
ノアは大きく頷いた。
「わたしも行きます。まずはその者の話を聞いてから判断します」
それを聞いて、グレンは体勢を起こした。ガシャンとプレートの音が室内に響く。どっしりとしたグレンの背中を、ノアは小さな歩幅で追いかけた。
疲れたなどと、弱音は吐けない。これも仕事のうちだと、自身に言い聞かせる。
――聖女としての責務を、全うするのみだった。




