第9話:Sideノア 儚き聖女
ノアは今日の務めを終え、疲れがたまった体を引きずるように教会に帰ってきた。
早く部屋に戻って、シャワーでも浴びたい――そんな“少女としての欲求”を頭に浮かべながら、教会の長い廊下を歩く。
しかしその願いをかなえる前に、高い声音に呼び止められた。
全ての執行を一任されている裁定司祭、ソーンだった。
彼は一歩前に出て、ノアの行く手をふさぐように立つ。
「ノア様、大主教がお呼びです」
ノアの疲弊した表情に目もくれず、ソーンは今の責務を淡々とこなすように言った。
「……わかりました」
小さく頷いて、息を整える。
ソーンは反応を見てすぐに、ノアを誘導した。
他にも足音は聞こえるはずなのに、二人分の足音が、妙に大きく聞こえた。
沈黙の中、普段通ることのない廊下を歩く。
壁にかけられたランプが時折チカチカと瞬いて、不規則な影を落としていた。
やがて、重々しい扉を潜る。ノアは一瞬ほど、息を止めた。
――懺悔の間。
信者が罪を祈りに変え、神に赦しを乞う特別な部屋。
柔らかな灯りを受け、大きな女神像が部屋の奥に佇んでいた。両腕を開き、全てを包み込むような見た目は、教会関係者および信者たちにとってなくてはならないものだった。
(どうして、懺悔の間なの……?)
ノアの疑問は、細い声によってすぐに答えられた。
「ノア。一つお前に聞きたい」
大主教は女神像の前にある教壇に立っていた。まるで女神像に抱かれているようにも見えて、いつにも増して神々しく見える。
「なんでしょうか?」
ノアは冷静を繕って、そう訊ねた。
大主教は眉を下げ、皺の寄った目でノアの目を見据える。
「忌憑きと邂逅した挙句、逃がした……誠か?」
ノアはドキリとした。心が飛び跳ねて、ばくばくと胸を打つ。
けれど、なぜか自分でも不思議なくらい冷静でいられた。
「違います、と言ったら……信じてくれますか?」
神の御前だ……ここで動揺するわけにはいかないと、自分に言い聞かせる。
しかしノアよりも先に、ソーンが冷静さを欠いた。
「ノア様。神の御前で虚偽の発言は感心しませんな。私は見ましたよ、スラム街で忌憑きと会話していたところを」
ソーンに告げられ、ノアは黙りこくった。
震える体を抑えながら、見えないように息を整える。
すると、大主教も場の沈黙を見計らって、改めて声を出した。
「ノア。正直にお答えなさい……我らが信ずる神は正直者に罰を与えるようなお方ではない。きっとお赦しくださる。どうなんだね」
大主教の言葉に、ノアは観念したように首を縦に振った。
うつむきながら、誰の目を見るわけでもなく口を開く。
「……できませんでした。あのお方は、わたしたちと何も変わらなかったんです。話もできて、困っている人を助けて……。それなのに、どうして祓わなければいけないんですか。
あのお方も、同じです。私たちと同じ“人”なのです」
しかし、ぷつんと何かが切れたように、大主教の口から声がもれた。
「どうしてそんなことを言う? 見た目に惑わされてはいけないよ」
「まだ、私はあのお方の悪事を見ていません。だから、祓うべきだとは判断できませんでした」
そう伝えると、ソーンが口を挟んだ。
「忌憑きは穢れそのもの。教義にもそう記されております。そして大主教様は、その討伐を神託として授かった。私どもが疑う余地などございません」
「その神託は、真のものなのですか?」
「……我らが神の神託を、否定するのですか?」
ノアはそれ以上を語らなかった。
ソーンは歯を噛みしめて、大主教を見た。
大主教が教壇の端を掴み、力を込める。懺悔の間が不穏な空気で包まれた。
「……そういう、ことですので。私はこれで――」
言いかけた瞬間、いかずちのような声が懺悔の間に響く。
「お前には神のお力が宿っているんだ‼ その力で人々を教え導き、闇を祓う太陽でなければならないんだ‼」
「大主教様……?」
細い声を荒げ、大主教は言葉を浴びせ続ける。
「どうして言うことを聞けない? どうして私の可愛いノアでいてくれない? お前にそんな教育をしたつもりはないよ」
まるで人が変わったような大主教に怯え、それ以上は何も言うことができなかった。
「……ご覧ください、大主教。これほど教えを拒むということは、すでに穢れが魂へ及んでいる証左かと」
大主教の言葉を切るように、ソーンが告げた。
「……どうやら、あなたの魂を浄化しなければならないようですね」
ソーンが追い打ちのように、声を上げた。
「待ってください、ソーン様! 私は、ただ!」
「偽りに惑わされ、悪魔を赦し、我々の望む神聖なる教会にその穢れを持ち込んだ。このままでは民も、国も、穢れ切ってしまう。
ノア様には浄化の炎に身を預けてもらわねばなりません。
よろしいですかな、大主教」
少しばかり落ち着いた大主教に、ソーンはちらりと横目で確認する。
大主教は一度大きな息を吐いて、声を振り絞った。
「バーンハルト! バーンハルトはおるか‼」
外で待機していたグレンが、懺悔の間に現れる。
片膝をつき、拳を床につけて大主教の命を静かに待つ。
「穢れを持ち込んだ聖女を、投獄せよ。少し牢に入れておけば、神もお赦しになり、穢れを払うお力を貸してくださるかもしれん」
「……はっ」
おもむろに立ち上がったグレンが、ノアの両手首を拘束する。
ノアはそれを、ただ受け入れた。
「……大主教。教会内に穢れが及び始めています。このまま放置すれば、ノア様の魂は完全に悪魔へ呑まれましょう。
今ならまだ間に合います。穢れが魂の奥底まで根を張る前に、浄化せねばなりません」
身を震わせて、ソーンが声を出した。大主教は半ば無視をするように、去り行くグレンに声をかけた。
「……頼むぞ、バーンハルト」
「……承知」
両手を拘束されたまま、ノアは懺悔の間から遠ざかっていく。
けれど、自分がどうなるかは、もうどうでもよかった。
(みんな……ごめんね)
スラム街の人々、孤児院の子らに想いを馳せて、静かに投獄を受け入れた。
*
ガチャン。鍵の閉まる音が、誰もいない牢獄に響いた。
ノアとグレンを隔てる鉄格子。
何も語らない時間が、少しばかり流れた。時がとても、ゆっくりと感じられた。
ただ冷たい床に座り込むノアに、グレンは空気を震わせて言った。
「……結局、私は何も護れなかった」
それは涙を含む、感情的な声だった。
スラム街から引き取られたばかりの頃、慣れない寝台で眠れずにいたノアの傍に、グレンは何度もいてくれた。
お目付け役という名目で、いつも少し離れた場所から見守ってくれていた。
ノアはおもむろに首を振って、精一杯の偽りの笑顔を向けた。
「わたしが招いたことだから。グレン様は何も悪くないよ」
(わたしが甘いから――)
ノアはふうっと小さく息を吐いて、精一杯の微笑みを返した。
「グレン様。最期の時まで、わたしに寄り添ってくれてありがとう」
彼もまた、引きつったように不自然な笑顔を浮かべた。
「そんな悲しいことを言わないでください。絶対に、ここから解放してみせます」
「いいの、大丈夫」
ノアが空気を胸に入れる。深呼吸で心を落ち着かせ、言葉をこぼした。
「わたしの命で皆の心に光が灯るなら……それはきっと、神も認めた必要な犠牲です」
頭に浮かんだ言葉を、淡々と述べる。ノアの笑顔は、乾いていた。
ガシャンッ‼
鉄格子が激しく音を立てた。
感情の赴くままに、グレンが鉄格子を強くつかんだ。
激しく揺さぶると、金属音とともにせりあがった感情が虚無の空間へ轟く。
「そんな身勝手な神は許しませんぞ! なぜノア殿が――ノア、殿が」
やがて、グレンは膝から崩れ落ちた。
教会同様、神を重んじる聖騎士団の団長とは思えない発言だった。
それは、誰もいない地下牢で――ノアの前だからこそ漏れた“神への冒涜”だった。
ノアは最後まで、笑顔を繕った。
「ありがとう。グレン様に想ってもらえただけで、わたしの存在は無駄ではなかったと思えたの。
さあ、怪しまれちゃう……もう行って」
グレンはゆっくりと立ち上がり、ヴェルハの聖女として最期まで尽くそうとする彼女に敬礼を送った。
鎧の重々しい足音が、遠くなっていく。
(これで、よかったんだよ。きっと……)
ノアは心の中でそう唱えた。
――やがて足音が途絶えたとき、ノアはふいにひとりぼっちの不安に溺れた。
けれど、これも運命なのだと……受け入れざるを得なかった。
ノアはふと、スラム街でのできごとを思い出す。
あのとき感じ取った、いろんな感情がドロドロに溶け合った底なし沼みたいな闇。
つい最近のことのはずなのに、とても懐かしく感じた。
闇の気配にわずかな期待を抱いてしまう自分がいた。
そして、静かにつぶやいた。
「忌憑き様――」




