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透明少女×目立ちたがり

 校門へ続く坂道を、朝倉カナデは足早に上っていた。


 朝の風が強い。

 乱れた髪を指で押さえながら、前方へ視線を向ける。


 派手な髪の男子生徒。


 渡辺ライキだ。


 身振りまで大きく、笑いながら何か話している。

 だが、その視線が妙に左へ流れていた。


(……誰と話しているの?)


 意識を向けて、ようやく気づく。


 少し後ろ。

 女子生徒が一人。


 あまりにも自然に背景へ溶け込んでいて、一瞬、視界から零れ落ちる。


(……いつからいたのかしら)


 風で揺れる木陰。

 そこだけ輪郭が薄いみたいだった。


(光学迷彩?)


 ライキは楽しそうに笑っている。


 対して彼女の反応は薄い。

 それでも、会話自体は成立していた。


 カナデは少しだけ目を細める。


(……付き合ってる?)


 一瞬、長峰ユウトと須田サアヤの顔が浮かぶ。


 今回もまた、極端だった。


 自己主張の塊みたいな男と、

 存在感そのものが希薄な少女。


(ありえない組み合わせ)


 なのに。


 不思議と、違和感だけでは終わらなかった。


(……少し、興味が湧くわね)


-----------------------


 朝。教室。


「ねえ、ユウナ。渡辺ライキと付き合ってる子の名前知ってる?」


「え? 渡辺くん?軽音楽部の?」

 藤堂ユウナはきょとんとする。


「付き合ってるっていうか、あの人いつも一人じゃない?」

「……一人?」カナデが眉を寄せる。

「うん。よく廊下で喋ってるけど、イヤホンじゃない?」

「イヤホン」


「ほら、ミュージシャンって独り言多いじゃん」

「偏見ね」

「え、違うの?」


「幽霊でも見たんじゃね?」と佐倉ルイが冗談めかして笑う。

「幽霊なんて居ないわよ」

 即答。

 三原アズサが小さく笑う。


「朝、彼が話しかけながら、親しそうだったのよね」

 一瞬。


(……どんな顔だったかしら)


 思い出せない。


「……あの、それって……榎本さん?」

 それまで本を読んでいた砂川マフユが、小さく顔を上げた。


 一瞬。


 教室が静まる。


「え?」とユウナ。


 マフユは少しだけ考えるように視線を泳がせる。


「……多分だけれど」


「……ああ!」ユウナが顎に指を添えながら、

「榎本さんって、ちょっと存在感薄すぎるっていうか」

「写真撮ると背景にピントが合うとか、集合写真に写っているのに見つからないとかいう噂、聞いたことあるかも」


「は?なにそれこわ」とルイ。

「他にも、先生が出席取って、出席しているのに欠席扱いにされてた、とか」

「やっぱ幽霊じゃね?」


「うん……たぶんその噂……全部合ってる」

 マフユが補足する。


 沈黙。


(オートフォーカスすら外す、認識阻害?)


 カナデはいつかの、伊藤アイカを想起して、首を振った。


----------------------


 カナデは図書室に来ていた。

 マフユによれば、放課後、たまに訪れるのだという。


 視線を這わせるが、それらしい人影は見当たらない。


 書架とその裏。

 全て確認する。


 居ない。


(また見えなくなっている?)


 開いた窓、カーテンが揺らいでいる。


 遠くから、風に乗ってくるピアノの音。

 カナデもピアノは習っていた。それでも、努めて弾きたいとは思わなかった曲。


 リストのコンソレーション第3番。

 リストの作品中でも静かでマイナーな曲。


(旧校舎、余り使われない、第一音楽室)


(誰が弾いているのかしら)


------


 旧校舎の廊下は、時間だけが置き去りにされたように静かだった。


 磨耗した床板が、西日の色を鈍く反射している。

 窓は少しだけ開いていて、初夏の風が、古い木の匂いと乾いた楽譜の紙の匂いをゆっくり運んでいた。


 遠くで、運動部の掛け声が小さく響く。

 それすら、ここでは別の季節の音みたいに遠い。


 音楽室の扉が、少しだけ開いていた。


 隙間から、鍵盤の音が流れてくる。


 古い校舎に溶けるような音だった。

 不意に、記憶が揺れる。


 子供の頃の発表会。

 薄暗いホール。

 スポットライト。

 遠くから聞こえていた、誰かのピアノ。


 カナデは足を止める。


 窓辺のカーテンが揺れる。

 光に舞い上がった埃が、金色の粒みたいに空気を漂っていた。


 静かに、扉を押し開ける。


 西日の差し込む室内。

 黒いグランドピアノ。

 譜面台に置かれた開きっぱなしの楽譜。

 風に揺れるレースカーテン。


 誰もいない。


 ——はずだった。


 ふいに、曲が止まる。


「……何か用?」


 声だけが、先に聞こえた。


 カナデは視線を巡らせる。


 グランドピアノのルーフの陰。

 西日の影に溶け込むように、小柄な少女が座っていた。


 長い髪だけが、光を掬うみたいに淡く揺れている。


 朝、校門で見かけた——気がする少女。


 おそらく。


「あなたが、榎本ナナコさん?」

「そう、ですけれど」


 静かな声だった。

 この部屋の空気を乱さないために、小さく発音しているみたいに。


「さっきの、もう少し聴かせてもらえるかしら」


「……? ええ」

 ナナコは頷かずに答える。


 細い指が、そのまま鍵盤へ落ちた。


 ゆっくりと、弦が響き始める。


 上手い。


 音が滑らかとか、技術があるとか、

 そういう感想より先に、“乱れがない”と思った。


 肩も、呼吸も、視線も動かない。


 まるで、

 一枚の古い絵画だけが、そのまま演奏しているみたいだった。


 音が鳴り止んだ。

 それほど、長い曲ではない。


「どう……でしょうか?」


 カナデはすぐには答えなかった。

 窓の外で、風が木々を揺らしている。


「……どこかで、聴いた気がするわ」

 それだけ言う。


 ナナコは、少しだけ目を瞬かせた。


 ——ように見えた。


 一瞬だけ、

 何かが揺れた気がした。


 けれど次の瞬間には、

 それがどんな表情だったのか、もう思い出せない。


 その時。


 ガラッ。


「よお、榎本ォ。新しい曲――」


「……あれ。朝倉?」渡辺ライキだった。


「ごめんなさい。邪魔したわね」


 カナデは振り切るように、立ち去った。


-----------------------


 教室に戻ると、

 さっきまでの静けさが嘘みたいに騒がしかった。


 誰かの笑い声。

 机を引く音。

 窓際で揺れるカーテン。


 その中で、

 なぜか、いつものメンバーが集まっていた。


「あんた達、……暇なの?」

「さあ」ユウナ。

「別に」カズマ。

「その言い方ひどくなーい?」ルイ。

「カナデ、もう掴んだんじゃないかなって思って」アズサ。

「……なんで分かるのよ」

「なんとなく?」


「あの子、別に幽霊でも透明人間でもないわ」

「というと?」


「おそらくだけれど、バレエか日舞でも習ってるんでしょう」

 カナデは席に腰を下ろす。


「姿勢にブレがなさすぎるのよ」

「え、そんなので分かるもんなの?」とユウナ。

「人は普通、無意識に揺れるわ」

 鞄を机に置く。


「視線も、重心も、呼吸も」


「でも、あの子は“止まりすぎてる”」


「こわ」ルイが即答する。


「褒めてるのよ」

「いや今のは怖いだろ」

 カズマが苦笑する。


 カナデは小さく息を吐いた。

「だから、多分あれは訓練の結果」


 窓の外へ視線が流れる。

 視線の先はグラウンドの向こう。旧校舎。

「……そういうことにしておくわ」


「ふーん。で、馴れ初めは?」ルイ。

「知らないわ」

「え、一人だけ納得してんの、ずるくね?」


 視線が集まる。


「……」


「あくまでも仮説よ――」


 そう前置きすると、カナデの描くストーリーが展開された――


-----------------------


 放課後の旧校舎は、現役の校舎とは別の時間が流れているようだった。

 窓ガラスは薄く曇り、廊下には誰の足音もない。使われなくなった教室特有の、乾いた木材と埃の匂いが漂っていた。


 その静寂を切り裂くように、エレキギターの音が響く。


「——よし」


 最後のコードを鳴らし切ると、渡辺ライキは満足そうに息を吐いた。

 アンプの前で髪をかき上げる。


「今の、かなりヤバかったな……」

 愛用のレスポールを抱えたまま、窓ガラスに映る自分を見る。


「これ文化祭でやったら確実に空気持ってけるわ。女子、三割くらい落ちるんじゃね?」

 誰もいない音楽室で、ひとり頷く。


 そのときだった。


「……三小節目、少しフラットしてました」


 ライキの肩が跳ねた。


「うおっ!?」


 反射的に振り返る。

 誰もいない。

 西日が差し込む音楽室。並んだ机。閉じたピアノ。

 静かだった。


「……いやいやいや」ライキは乾いた笑いを漏らす。

「今の絶対聞こえたって。え、何? 幽霊? 音楽室の怪談的な?」

「違います」


 声は、今度はすぐ近くから聞こえた。

 ピアノの陰。

 そこに、人がいた。

 榎本ナナコだった。

 ライキは数秒、言葉を失った。


「……え、お前いつからいた?」

「最初からです」

 ナナコは文庫本を閉じながら答えた。

「渡辺くんが入ってきた時から」

「嘘だろ……」


 本気で気づかなかった。

 ライキは自分の記憶を巻き戻す。扉を開けた。アンプを繋いだ。チューニングした。派手に音を鳴らした。

 なのに、そこに人がいた記憶がない。


「いや、マジで?」

「はい」

 ナナコは平然としていた。

「大体、気づかれません」

 責めるでもなく、自虐するでもない口調だった。

 ただ事実を述べているだけのように聞こえる。


 ライキは妙な居心地の悪さを覚えた。


 榎本ナナコ。

 同じクラスなのに印象が薄いことで有名な女子生徒だ。

 出席しているのに欠席扱いされたとか、集合写真で背景にピントを持っていかれたとか、半分都市伝説みたいな噂まである。

 けれど今、目の前にいる彼女は、別に幽霊じみてもいなければ陰気でもなかった。

 静かなだけだった。


「……で、さっきの」ナナコが言う。

「もう一回弾いてもらってもいいですか」


「え?」

「三小節目」

 彼女は迷いなく言った。


「コード進行、すごく綺麗だったので。あそこだけ少し惜しいなって」

 ライキは思わずギターを見た。


 適当に褒めているわけじゃない。

 本当に聴いていた人間の言い方だった。


「……分かんの? お前」

「少しだけ」

 ナナコはそう言って視線を逸らした。

「ピアノ、やってたので」


 一瞬、空気が止まる。

 ライキはこれまで何度も演奏を褒められてきた。

 盛り上がるとか、かっこいいとか、モテそうとか。

 でも。

 音そのものを指摘されたのは初めてだった。

 しかも、こんな静かな声で。


「……なるほどな」

 ライキは小さく笑った。

「だから気づいたのか」

「はい?」

「俺のミス」

 ナナコは少し考えるように瞬きをした。


「気づくと思います。あそこ、少しだけ不安そうだったから」

「不安そう?」

「はい」

 彼女はライキを見る。

 まっすぐだった。


「渡辺くん、急に“見せよう”としてたので」


 ライキは言葉を失った。

 そんなことを言われたのは初めてだった。

 見せようとしていた。

 確かに、その通りだったからだ。

 文化祭。観客。歓声。

 頭に浮かべた瞬間、指が少し走った。

 それを、この女子は聞き取った。


「……お前さ」ライキは苦笑する。

「意外とちゃんと人見てんだな」


 するとナナコは、小さく首を傾げた。


「渡辺くんも」

「え?」

「ちゃんと見てました」


「今まで、誰も気づかなかったので」


 窓の外で風が吹く。

 古いカーテンが揺れ、西日が床を滑った。

 ライキは、その瞬間だけ妙に落ち着かなくなった。


 ステージの上では、一度も感じたことのない種類の沈黙だった。


--------------------


「――というわけよ」カナデは面倒くさそうに髪をすくい上げる。

「別に珍しい出会いでもなんでもないわ」


「なるほどね……」「さすがカナデ……」と、いつものメンバーがそれぞれの反応を見せる中、教室の空気は一気に騒がしくなる。


「……つーか、マジ無理」

 沈黙を破ったのは、スマホをいじりながら足を組んだ佐倉ルイだった。

「今の話、超ドラマチックじゃん? でも渡辺っちって、鏡あれば自分と付き合えるタイプじゃん。その横に存在感ゼロの榎本さん? キャラ渋滞しすぎでしょ、詰んでんじゃん」

「ルイ、言い過ぎ」三原アズサがツッコむ。でも口元は緩んでいる。


「渡辺くんなら、むしろ『うおっ、今のリアクション俺カッコよくね?』って鏡見そう」

 天堂ユウナがクスクス笑いながら乗っかる。

「でもさー、存在感ゼロの女の子にだけ、自分の演奏の『迷い』を聴き取られちゃうなんて、なんかエモくない? 派手な男と、背景みたいな女の子。コントラスト最高じゃん!」


「……でも、榎本さん。苦労してそう」

 アズサが少しだけ心配そうに小首を傾げる。

「出席してるのに欠席扱いって……。文化祭の時とか、渡辺くんがステージで目立ってる横で、彼女が機材の影に同化してて、誰かに踏まれたりしないかな」


「ありえるな」

 瀬川カズマが苦笑いしながら頷く。

「渡辺が『俺の隣には最高のパートナーがいるぜ!』とか紹介しても、観客が『え、どこ? アンプの話?』ってなりそうだ」


「それ、逆に渡辺くんが『俺にしか見えないパートナー』ってことで、さらに中二病拗らせる未来が見えるわね……」

 ユウナが遠い目をする。


「……あなたたち、想像力が豊かすぎるわ」

 朝倉カナデは、閉じた本を机にトントンと叩いた。


「問題は、榎本ナナコが『消えている』わけじゃないってことよ」

 カナデは本を閉じる。

「余計なノイズが、極端に少ないの」

「なにそれ、褒めてんの?」

「……さあ」


「でも、渡辺ライキみたいな人間とは、妙に噛み合うんでしょうね」


「はいはい、合理性ね」

 ルイがニヤニヤしながらカナデを覗き込む。

「で? さっき旧校舎から出てきた時、カナデ、ちょっと顔赤かったっしょ? もしかして、あの二人の空気感に当てられたんじゃね?」


「……。光の屈折と、西日の影響よ」

 カナデは即答し、視線を窓の外へ投げた。


「出た、光の屈折!」

 ユウナが楽しそうに囃し立てる。

「ねえねえ、次はその『光学迷彩カップル』がどうやってお弁当食べてるか観測しに行かない? 渡辺くんが空中に向かって唐揚げあーんってしてたら、それが正解ってことで!」


「……勝手に行きなさい。私は、他の謎を精査するから」


 カナデはそう突き放したが、その手元のノートの端には、五線譜のような直線が、無意識に引かれていた。

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