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氷壁のエース

 門から校舎へ続く朝の道。

 頬をなでる風はまだ涼しく、校庭の若葉の緑が、吸い込まれそうなほど深い青空に溶け出している。


 しかし、朝倉カナデは眼の前の二人から目が離せなかった。


 握られる手、交差する指と指。

 いわゆる、恋人繋ぎ。


 それは良い。よくある。


 しかし、二人は――

 思いかけて止める。形は自由だ。

 

 短い髪、背の高い凛とした立ち振舞。

 長野フブキ。

 言わずと知れたバレー部のエース。


 そして隣りにいるのは、柔らかそうな、軽いウエーブのある髪。

 伊藤アイカ。


 長野フブキが優しげな視線で隣を見つめる。

 伊藤アイカが、少し遅れて、チラリと見上げる。

 距離が、少し近づく。


 しばらく、それを見ていた。


 瞬間、

 伊藤アイカの視線が振り返る。


 目が合う。


 風が吹く。

 髪が、伊藤アイカの表情を少し隠す。


 微笑だった。


 ――違う。


 何が、とは言えない。

 視線を外すのが、ほんの一拍遅れた。


 カナデはそのまま、横をすり抜けた。


 一瞬だけ、アイカの視線がこちらに寄った気がした。


 気のせいかもしれない。

 測られた気がした。


-----------------------


 体育館には、シューズが床を刻む鋭い音が絶え間なく反響していた。

 その入り口で、カナデは足を止める。

 周囲を埋める観客の熱気に気圧されながらも、視線はただ一点、コートの中へと向けられた。


 長野フブキ。


 朝のあの表情に比べれば、今のフブキの顔は、仮面のように冷たい。


 ブロックが成功する。

 鋭いホイッスルが鳴る。

 同時に、耳を(ろう)するような黄色い歓声が上がった。


 そのとき、自分に向けられた視線に気づいた。

 視界の端、少し離れた位置。


 伊藤アイカ。


 ……違う。


 フブキだけを捉えていたはずの視界に、ノイズが混じる。


 何かが、ずれている。


 カナデは一度だけ、深く瞬きをした。

 体育館の喧騒が、急速に遠のいていく。


 カナデは踵を返した。

 これ以上、観測を続ける意味はなかった。


-----------------------


 教室。

 朝の光が窓から斜めに差し込み、机の列を切り分けている。空気に浮いた埃が、その境界をゆっくりなぞっていた。


「ねえ、ユウナ。長野フブキと伊藤アイカ、知ってる?」

「もちろん!めっちゃ尊いカップル!長野さんが伊藤さんを大事にしてる感じ、見ていて微笑ましいよね」

「え、それ百合じゃん」とルイが挟む。

「結構有名だぞ。でも……なんか、あいつら、雰囲気変じゃね?」とカズマ。

「変じゃないよ。見せつけるくらい恋人同士って雰囲気醸してるだけでしょ」笑いながら否定するユウナ。


(……全く参考にならない)

 カナデは視線を机に落とす。


 “カップル”“百合”“雰囲気が変”。

 それぞれが別の方向を向いている。


(評価軸が統一されていない)


(つまり、観測されているのは同一対象ではない)


 ペンを持つ指が止まる。

(同じ二人を見ているはずなのに)


(別の現象として語られている)

 視線が、窓の外へずれる。

 体育館の方向。


(……ズレているのは関係ではない)


(観測の方)


-----------------------


 教室。


「ねえ、長野フブキと伊藤アイカの中学の頃のこと、知らない?」

「分かんねえな。例の金光モトヤと一緒の中学だったんじゃ」とカズマ。

「確か、うちのクラスだと、砂川さんが同じ中学だよ」とユウナ。

「そう」

 カナデは立ち上がり、廊下側の席へ向かった。


「砂川さん、少しいい?」


「はい。あの二人ですよね。小学校からの幼馴染です」

「あの二人、いつからああなったの?」

「……ああ、って?」

「今みたいな関係」


 砂川マフユは少し考えてから、首を傾げた。


「普通の友達、でしたよ」

 間が空く。

「ずっと一緒にいたはずなんですけど……」言いながら、言葉に自信がなくなっていく。

「……なんでそう思ってるのか、うまく説明できなくて」


(情報がない)

 一瞬。

(……違う)

(均されている)


「変わったきっかけは?」

「それが……特に何も」困ったように笑う。

「ケンカもないし、距離ができたこともないし……」

「でも?」

「気づいたら、ああいう感じでした」

(気づいたら)

 ペン先が止まる。

(また、それ)


「一度も、変な空気になったことは?」

「……あ」マフユの表情がわずかに引っかかる。

「一回だけ、あった気がします」

「どんな?」

「えっと……」

 沈黙。

「……思い出せないです」苦笑する。

「でも、そのあと普通に戻ってて」

「そう。ありがとう」


 カナデは頷いて席に戻る。


(ズレはあった)


(でも、残っていない)


 ノートの端に、短い線が引かれる。


(プロセスが消えている)


(……違う)


 ペン先が止まる。

(消えたのではない)


 わずかに、指先に力が入る。

(最初から――)


 言葉が、そこで一度途切れる。

 ノートの上に視線が落ちる。


(観測以前に)


(変化は、起きていないのではない)

 ペン先がわずかに浮く。

(“起きるという概念が成立していない”)


 窓の外。体育館の方向。


(あの二人は)


(状態ではなく――)

 一度、息を止める。


(初期条件)


-----------------------


 ノートの上に視線が落ちる。

 長野フブキ、伊藤アイカ。

 小学校からの幼馴染。

 中学の頃は友人同士という認識。

 高校に入ると、誰が言うことなく、友人以上に認識されるようになった。


 その一因はフブキ側にある。

 アイカは何も変わっていない。

 ユウナのような表層を評価する者にとって、フブキ側がアイカを掴んでいると認識している。


(でも、違う)

 視点がズレている。


 長野フブキが能動的に伊藤アイカを離さないのではなく、離せないとすれば?

("依存")


 ――違う。

(これは、選択の結果じゃない)


 ノートの文字が、やけに静かに見えた。

(選んだように見える“状態”が、先にある)


(フブキはアイカを選んだのではない)

(“選ばされる以前の配置”に置かれている)

 ペン先が止まる。

(違う)


 思考が、もう一段深く沈む。


(これは関係ではない)


(関係が成立する“条件の固定”)


 視線が揺れる。

 ノートの余白が、やけに広く見えた。


(……なら)

 一瞬だけ、言葉が引っかかる。

(誰が“配置”した?)

 答えが出ないまま、思考だけが進む。


(いや)

 すぐに否定する。

(“誰か”ではない)

(この構造には、意思が要らない)


 教室の音が遠くなる。

 ページをめくる手が、わずかに遅れる。


(状態が先にあり)

(その状態に“意味”が後から貼り付く)


 フブキとアイカの関係が、ただの人間関係ではなくなる。

(……観測以前に、成立している)

 そこで初めて、カナデは気づく。

 自分が今見ているものは「関係」ではない。


(これは)


(“関係になるしかない形”)


 ノートの端を、指が軽く押す。

 紙がわずかに沈む。


(依存ではない)

(選択でもない)

(――)

 それを定義した瞬間、別のものになる。


「カナデ?」ユウナが覗き込む。

「なんか顔青いよ。大丈夫?」


「……ねえ、私が仮定した長野フブキと伊藤アイカのストーリー、聞いてくれない?」

「いいけど」ユウナは首を傾げている。


 視線が集まる。


 指が、ゆっくりと、ノートをなぞる。


 カナデの描くストーリーが展開された――


-----------------------


 放課後の体育館裏には、湿った土とキンモクセイの香りが混じっていた。


 長野フブキは、コンクリートの壁に背を預け、膝を抱えていた。

 さっきまでコートに立っていた「氷壁のエース」の姿は、そこにはない。


 息を殺す。

 それでも、震えは止まらない。


「よしよし。頑張ったんだね」


 頭上から、場違いなほど柔らかい声が落ちてきた。


 フブキの肩が跳ねる。

 顔を上げると、伊藤アイカが立っていた。


「……いつからそこにいたの。今の、見てたの?」


 声がうまく整わない。

 アイカは、いつもと同じ曖昧な微笑を浮かべたまま答える。


「最初から。ずっと我慢してたから、すごいなって思って」


 逃げ場がなくなる。


 見られてはいけないものだった。

 強くて、冷たくて、隙のない自分でいなければいけないのに。


「……私、本当は全然格好よくなんてない」


 言葉が、こぼれた。


「ただの泣き虫で、気が弱くて……最低なの。みんなを騙してる」


 アイカは、否定しなかった。


 ただ、少しだけ首を傾ける。


「……なんとなく、そうかなって思ってた」


 フブキの動きが止まる。


 痛いはずなのに、どこかで息が楽になる。


「でも」


 アイカが、隣に腰を下ろす。


「今のフブキの方が、私は好きだよ」


 指先が頬に触れる。

 ひやりとした感触。


 一度だけ、肩が強張る。

 ――だめだ離れなきゃ。

 そう思ったはずだった。


「誰にも見せない顔、見せてくれてありがとう」


 そのまま、少しだけ距離が近づく。


 近い。

 でも、不思議と嫌ではない。


 離れようと思えば、離れられる。


 ――そう思った瞬間、

 アイカの指先に、ほんの少しだけ力が強められた。


 体は動かなかった。


「……アイカだけだよ」

 気づけば、そう言っていた。


「私のこと、分かってくれるのは」

 その言葉を、どこかで一度言った気がした。


 アイカは、ただそこにいる。

 離れもしないし、促しもしない。


 ただ、同じ距離のまま、そこにいる。


 フブキは目を閉じる。

 重さを預ける。


 その距離は、心地よかった。

 少しだけ、息がしやすくなるくらいに。


---------------------


「――と、いう訳なんだけれど」そう言って、カナデはノートを見る。

 表情は少し硬い。


 教室は、いつもの放課後のざわめきに戻りつつあった。

 窓の外では、部活動の掛け声が遠くで揺れている。

 カナデだけが、ノートを開いたまま動かない。


(違う)


(これは、恋愛ではない)


 その確信だけが、やけに静かに残っていた。


「いや、それって普通の恋じゃね?」

 ルイが軽く笑う。


「構造的には恋愛だよね」

 ナオヤが続ける。


「うんうん。恋は盲目って言うでしょう?」

 ユウナが楽しそうに頷く。


「誰かを好きになるって、そんな感じだろ」

 カズマが肩をすくめる。


「伊藤さんの気持ちはもっとシンプルだと思うよ?」

 アズサが、少しだけ優しい声で言う。


 誰も悪意はない。

 むしろ、全員が“正しいこと”を言っている。


 だからこそ、カナデの中でだけ、答えがずれていく。

(恋愛?)

 一瞬、思考が揺れる。

(この構造が?)


 ノートの上に落ちる影が、やけに長く見えた。

(違う)


(説明可能なものは、ここにはない)

 カナデはゆっくりとノートを閉じる。

 その動作だけが、少しだけ硬い。


「……理解不能ではないわ」


「ただ」

 言葉を選ぶように、視線を落とす。

「これは、恋愛という分類には収まらない」


 沈黙。


 そして、ルイが軽く笑った。

「いや、それって普通の恋じゃね?」


 その一言で、空気は何事もなかったように戻っていく。

 笑い声、椅子の音、紙の擦れる音。

 カナデだけが、その輪の外に残ったまま。


(……私だけが、ずれている?)


 その問いだけが、最後に残る。


 その時、視線を感じた。

 振り返る。

 廊下。

 伊藤アイカが、そこに立っていた。


 ——はずだった。


 瞬きを一度。

 そこには、誰もいない。

 ただ、廊下の空気だけが、わずかに歪んでいる気がした。


 誰かが肩に触れた。思わず跳ね上げる。


「カナデ、大丈夫か? お前、変な顔してるぞ」

 カズマが心配そうに顔を覗き込む。


「……なんでもないわ」


「そうか」既に興味を無くしているような声。


「あ、そういえば」アズサがポツリと呟いた。


「今日は伊藤さん、カナデを見に来てなかったね」

 

「……え?」

「あれ? カナデ、てっきり気づいているかなって思ってたんだけど」


 風が吹いた。瞬間、視界が、澄んだ。


(……紐づいていなかった?)


 カーテンが膨らんだ。


(……彼女は常に居て、無意識にノイズとして扱っていた?)


 遅れて、髪が視界を遮った。


(……私は、いつ彼女を見ていた?)


 体育館の方角を見る。


----------------------


 時は遡って、前日の午後。

 廊下。


「ねえ、あなた」


 天童ユウナは突然声をかけられた。


 振り返ると、そこには、伊藤アイカ。

 口元にはやわらかい笑み。


「あ、はい」

「あなた、朝倉カナデさんの友人よね?」

「そう、ですけれど?」ユウナは首を傾げた。

「彼女、フブキのこと、どう思ってると思う?」


「え? 長野先輩を?」

「ええ。もしかしたら朝倉さん、フブキのこと……好きなのかなって思って」その瞬間だけ、笑みが薄くなる。


 一瞬の沈黙。


 次第に言葉の意味が染み込んでくる。

(この人、誤解してる!)


「無い無い無い!ぜっっったい無いです。

 カナデ、男女問わず、人を好きになる要素が欠落してるような子なので!」

「だから、安心していいですよ。カナデは先輩には無害ですから」ユウナは少し笑いながら言う。


「……そう。よかった」その笑みは、本心から安心したような顔だった。

「ありがとう」

「いいえ。どういたしまして」


 じゃ、と、手を振ると、アイカはくるりと振り返って、去っていった。

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