天狼
「なるほど、天狼か。だが、生け贄が足りなかったと見える」
王子が呟く。獣は、巨大な狼のように見えた。表皮は黒い瘴気のようなものに覆われているが、ところどころ肉と骨が覗いている。その濁った目は、ただひたすら血に飢えているようだった。
——『災厄の獣』。
建国神話に語られる怪物の忌み名が脳裏をよぎる。
獣が咆哮した。アレクシスと王子に向かって突っ込んでくる。アレクシスは、突進を躱し、側面から獣を双剣で切りつけた。
「——ッ!!」
刃がまったく通らない。
獣は首を大きく振り、アレクシスをなぎ払った。吹き飛ばされるアレクシスを、王子が咄嗟に受け止める。
「大丈夫か?」
「申し訳ありません。次は急所を狙います」
「俺が盾になる」
「……わかりました」
この状況では、アレクシスもその申し出を承諾するしかなかった。
獣が一気に間合いを詰め、その鋭い牙と爪で襲いかかってきた。すかさず、王子が間に入り、長剣で牙を受け止めた。王子が獣の注意をひいている間に、アレクシスは死角から側面に移動し、獣の左目に刃を走らせた。
身の毛がよだつような叫び声を上げ、手傷を負った獣が後退る。
(……身体強化だけではだめだ)
今のアレクシスの攻撃では、決定打に欠ける。このまま両目を潰したところで、獣に致命傷を与えられるとは思えなかった。
「……殿下。後は私に任せて、お逃げください」
「断る。二人とも生き延びるか、二人とも死ぬか。どちらかだ」
「私は近衛騎士、あなたは王子です。あなたは、生きなければならない。……もちろん私も、ここで死ぬつもりはありません」
「これは返す」
王子から不意に長剣を渡され、アレクシスは戸惑う。
「何を……」
王子は、地下で再会したときと同じく、不敵な笑みを浮かべて見せた。
「お前だって本当はこちらのほうが得意だろう?」
「それは、そうですが……あなたは」
「実は一つ、奥の手があってな」
そう言うと、王子は、手のひらを宙に向けた。
「——来い」
瞬間、王子の真紅の瞳に、蒼色の光がゆらいだ。周囲のマナが膨大な魔力に反応し、王子の手の中に収束していく。
きぃん、と氷が割れるような音がした。
王子が両手で握るのは、一振りの蒼い大剣だった。
「教えてやろう。俺は、人間以外を相手にするほうが得意なんだ」
獣は、大きく身を震わせてから、じりじりと距離を詰める。王子は、獣の攻撃を待たず、間合いに入った瞬間、その左前足を切り落とした。
「アレクシス!」
「御意」
アレクシスは王子の膂力に驚きつつ、双剣から持ち替えた長剣で、すかさず後ろ足に追撃する。すれ違いざまに獣の腱を斬りつけた。肉を断つ感覚が両手に伝わってくる。
——やはり、この剣であれば攻撃が通る。
支えを失い、獣が大きくバランスを崩した。残った右前足めがけて王子が大剣を振り抜こうとした。瞬間、瘴気が膨れ上がって鞭のような触手を形成し、王子をなぎ払う。
「——ッ!!」
王子は大剣を盾にし、咄嗟に後退する。
その間に、瘴気が切り落とされた左前足の代わりとなり、獣の身体を支えた。
黒いマナの塊であったときと同じように、触手は血を求めているようだった。地面に転がっている死体にまで群がり、血を根こそぎ吸い尽くす。
アレクシスは触手を切り払いながら王子に合流し、その隣で長剣を構えた。
「厄介だな」
「私は露払いを。本体は殿下にお任せします」
「承知した」
アレクシスは、王子の前に出て、襲い来る触手を迎え撃った。獣の本体が右前足を振るう。すかさず王子が前に出て、その攻撃を受け止めた。
アレクシスは跳躍し、獣の右前足を駆け上った。今度は右目に、必殺の斬撃をたたき込む。獣がひるんだ。アレクシスはその頬骨を蹴って宙返りし、地面に着地する。間髪を入れず、王子が獣の右前足を断ち切った。
両前足を失った獣は、瘴気を手足のように使い、頭だけで王子に食らいつく。王子は、その牙を大剣で受け止めた。王子めがけて無数の触手が伸びる。
「殿下!!」
アレクシスは、脚力を限界以上に引き上げ、王子の肩に手を突いて宙に身を躍らせ、襲い来る触手を切り払った。その勢いのまま、獣の鼻面を蹴り飛ばす。獣がのけぞった。
瞬間、王子は強く踏み込んで、魔力を限界まで込めた大剣を振り抜いた。
蒼い刃が獣を両断し、凍てつく剣圧で砦壁まで吹き飛ばした。
「……終わったか」
長い夜が明けつつあった。
蒼い大剣を手に佇む王子の後ろ姿に、目を奪われる。
「……驚きました。あなたには、その蒼色がよく似合う」
気付けば、率直すぎる感想を述べていた。
——なぜ、自分はこんなことを。
動揺するアレクシスに、王子もまた、呆気にとられたようだった。
「今のは、忘れてください」
「いや……いい」
王子はアレクシスに笑みを向けた。笑うと、少し幼い印象になる。
「やはり——お前と肩を並べて戦うのは、楽しかったな」




