祭壇
地上に近づくにつれ、アレクシスは、強烈な不快感を覚えた。首の後ろが粟立つ。強力な魔物を前にしたときでさえ、こんな、首元に刃物を押しつけられるような、ぞっとする心地を味わったことはなかった。
階段を上がり、扉を開けると、すぐ近くに砦の正門が見えた。
建物の脇には、王子を連れてきた馬車が停められていた。アレクシスは、怯えている馬を落ち着かせ、馬車との連結金具を外してやる。
「殿下」
「言いたいことはわかるが却下だ。俺も行く」
王子は、逃げ出す気はまったくなさそうだった。
「私ひとりならどうとでもなります。危ないと思ったら逃げてください。いいですね?」
「……考えておく」
教団員や傭兵相手であれば、アレクシスは後れをとる気はしなかった。だが、空気が明らかに異様だ。篝火は消されており、不気味なほど静まりかえっている。中庭の方にだけ、炎の色がちらついていた。砦にいた人間はすべて、中庭に集まっているようだ。
アレクシスは、王子を先導しながら建物の陰を進んだ。
中庭には祭壇が組まれ、中央に大きな水晶が祀られていた。祭壇の周りには、神代文字で魔法陣が描かれ、その上に何人か教団員の死体が転がっている。水晶の中には、視認できるほど濃い、どす黒いマナが渦巻いていた。
黒いマナを見ているだけで、怖気が走るようだった。先ほどから感じていた不快感の原因は、あのマナだ。
そして、跪く教団員の輪の中から一人が立ち上がり、祭壇に近づいていく。
「神よ! 大いなる天狼よ! 我が声に答えたまえ!」
男は叫び、自らの喉をナイフで刺し貫いた。そのまま地面に倒れ、死体の仲間入りをする。
「神よ! 天狼よ!」
教団員たちが一斉に唱和した。そして、新しい殉教者が進み出て、一人、また一人と地面に血だまりを作っていく。
そのたび、黒いマナが脈を打つようにその色を濃くした。
頭の中で警鐘が鳴っている。この儀式を止めなければ——何か、恐ろしいことが起きる。
「殿下。私があの祭壇を破壊します。ここで隠れていてください」
アレクシスは声を潜めて言うと、王子は首を横に振った。
「だめだ。あれは——おそらく黒蝕病患者から取り出したマナだろう。絶対に触れてはならない。俺が、」
「私であれば、問題ありません。行きます」
アレクシスは制止する声を振り切り、魔力を足に集中した。強化した脚力で地面を蹴り、一陣の風のように祭壇に突進する。狙うは、祭壇の水晶一点のみ。
アレクシスは、目にも留まらぬ速さで、水晶を双剣で刺し貫いた。水晶が粉々に砕け散る。
しかし——黒いマナは霧散するどころか、枷から解き放たれたように蠢き始めた。
「アレクシス!!」
王子が焦ったように呼ぶ声が聞こえた。
黒いマナが触手のようなものを伸ばしている。
「くッ……!!」
双剣で防ぎ、後ろに跳び退る。黒いマナはなおも新たな触手をアレクシスに向けた。切り落とし、躱し、防ぐ。
(これは何だ? 魔物か?)
触手は本体の黒いマナから切り離された瞬間に霧散するが、一向に新手を差し向ける勢いは衰えない。到底、尋常の生き物とは思えなかった。
気付けば、王子からだいぶ距離が離れてしまっていた。
「……見ろ、鍵だ」
「鍵だぞ」
「鍵がある」
いつの間にか教団員たちが、立ち上がって王子の方を向いている。
「殿下!」
「俺は大丈夫だ。集中しろ、アレクシス」
王子は長剣を抜き放った。
「鍵よ! 我らとともに、その血を天狼に捧げようぞ!」
「神を顕現させる鍵よ!」
教団員たちが一斉に王子に群がる。王子は冷静だった。走りながら、一人ずつ斬り捨てていく。
黒いマナは、アレクシスだけでなく、無差別にその触手を伸ばしていた。
目の前で、教団員が触手に捕らえられる。長衣の袖から覗く青白い腕に、みるみるうちに黒い痣が浮かび上がった。そして、触手は教団員の身体から蛭のように血を取り込んだ。王子が斬った教団員にも群がって血を啜り、徐々に肥大化していく。
「くそ、斬っても斬らなくても結果は同じだな」
王子が悪態をつき、触手もろとも、教団員を斬って捨てる。その瞬間、王子の足に、まだ息があった教団員がまとわりついた。
「鍵……鍵はここだ! 天狼よ!」
その声に答えるように、黒いマナは一斉に触手を伸ばした。王子は、即座に剣を振るうが、わずかに対応が遅れた。
「ぐっ……う……!」
一本の触手が王子の左肩を貫き、壁に縫いつける。そして、その血を啜り上げた。黒いマナが、一瞬血のような赤みを帯びる。
「この——!!」
アレクシスは限界まで身体能力を高めて疾駆し、伸びきった触手を切り落とす。王子が石畳にくずおれた。
「殿下!!」
駆け寄って抱き起こすと、王子は苦笑した。
「久々にしくじったな。帰ったら説教されそうだ。黙っていてくれ」
「こんなときに、何を……!」
アレクシスは王子の傷を確かめる。もし、触手に触れられたことで、あの黒い痣が浮き出ていたら。そう思うと、気が気でなかった。
幸い——傷は深く穿たれていたが、そのまわりに異常はなかった。
「心配するな。すぐ戦える」
王子は、右手を負傷した左肩に当て、治癒魔法を発動した。傷口に淡い光が広がり、徐々にふさがっていく。
一方、黒いマナは、四方八方に伸ばしていた触手をすべて引っ込め、卵のような形に姿を変えていた。胎動のように、時折脈打っているように見える。
気付けば、教団員はすべて骸となり、立っているのはアレクシスと王子だけだった。
「あれは……何でしょう」
「嫌な予感しかしないな。どうも本当に俺の血が欲しかったらしい。……来るぞ」
卵に、ひびが入る。そこから現れたのは、一頭の巨大な獣だった。




