プロローグ 神域の少女
エメローネが生まれたのは、女神アルティナの神域だった。
母親は、エメローネがお腹にいるときに神域を尋ねてきたらしい。エメローネを生んだあとすぐ亡くなり、それからずっと、彼女は神域の巫女たちの手で守り育てられた。
——エメローネという名前はね、あなたのお母さまが付けてくれたのですよ。
大巫女はよく、暖炉の前で膝の上で甘えるエメローネにそう言って聞かせた。
エメローネは母を知らない。ただ、エメローネを生み、名前をくれた見知らぬ女性がいた、ということだけは幼心に理解した。
エメローネにとって、神域は世界のすべてだった。神域の外にも世界が広がっているのですよ、と皆が教えてくれたが、一度神域を訪れた者は二度と外へ出てはいけないというのが掟だった。たまに、神域を訪れ、巫女となる者もいたが、エメローネが外の世界を意識するのは、そうやって新たな家族を迎えたときくらいだった。
私は、ずっと、ここで皆と暮らしていくんだ。
エメローネは、そう信じて疑わなかった。
——だが。
「エメローネ。アルティナさまから神託が下りました。あなたは、アルティナさまの名代として、神域を旅立たねばなりません」
青天の霹靂だった。
「私が……どうして?」
戸惑うエメローネを、大巫女は抱きしめた。
「エメローネ、よかった。まだ年若いあなたがここで一生を終えるのは、あまりにもむごいと思っていたのです。アルティナさまもきっとそう思われたのでしょう」
「でも、私、外の世界のことなんて何も知らなくて……」
「何も心配することはありません。私たちが、すべて、うまくいくように取りはからいますからね」
大巫女の目には涙が浮かんでいた。
行きたくありません、とは言えなかった。
そして、エメローネは18歳の誕生日の翌日、神域を旅立った。
身の回りの物をすべて詰め込んだ小さな旅行鞄を抱え、エメローネは神殿の馬車に揺られていた。
鞄に顔を近づけると、神域で使っているラベンダーのサシェと、巫女たちが持たせてくれたハーブティーの香りがした。エメローネは、涙をこらえた。
——手紙を書いてくださいね。私たちも手紙と一緒に、あなたの好きなハーブティーを届けますから。
だからそんな悲しい顔はしないで、と、巫女たちは別れ際に代わる代わるエメローネを抱きしめてくれた。今生の別れだと、エメローネも理解していた。
どうして、私なんだろう。
エメローネは、ただ神域で生まれ育ったというそれだけの——ちっぽけで何の取り柄もない少女だ。女神さまの名代に選ばれたことを巫女たちは喜んでくれたが、エメローネにとっては重圧でしかなかった。
(私は、これからどうなるんだろう)
何も知らないまま、外に放り出されたら。そう思うと、不安が募る。
そのうちに、馬車がゆっくりと止まった。
「エメローネさま。到着いたしました」
御者を務めていた神殿の巫女が、恭しくエメローネに声をかけた。
「はいっ」
慌てて立ち上がり、馬車を降りる。
馬車の外には、真っ白な石で造られた大きな建物があった。
「お荷物はお預かりします。こちらへ。巫女長がお待ちです」
神域の香りのする鞄を取り上げられると、一層心許ない気分になった。
案内役の巫女の後について、建物の奥に進む。神域の礼拝堂と雰囲気が似ていて、少しだけ気が安らぐ。
大きな祭壇の前で、年嵩の女性が待っていた。大巫女と同じくらいの年齢だろうか。
「アルティナ大神殿へようこそお越しくださいました。『女神の聖手』よ。私は、巫女長を務めるクレース・アルティフィリアと申します」
クレースは、跪き、胸の前で手を組んだ。エメローネも、神域で巫女たちに習ったように、その場で跪く。
「エメローネ・アルティフィリアです」
アルティフィリアは、女神アルティナに仕える女性に与えられる神殿姓だ。目の前のクレースが自分と同じ姓を持つことに、エメローネはほっとした。
「あの……『女神の聖手』って、なんですか?」
「アルティナさまより神託を賜ったのは私です。アルティナさまは、あなたをご自身の手であると仰いました。そこで、私たちは、あなたのことを『女神の聖手』とお呼びすることとしたのです」
「私が……本当に?」
「ええ。アルティナさまは、神域で暮らす翠の瞳の娘と。あなたに違いありません。ですが、まだ戸惑われているお気持ちは私にもわかります。神域でお生まれになったそうですね」
「はい。外に出たのははじめてで、私、どうしたらいいのか……」
「少し、あなたには神域の外に慣れる時間が必要だと私たちは考えております。ですが、アルティナ大神殿で生活いただいても、神域とそう多くは変わりません。——ですから、あなたには、王立学院に通っていただくのがよろしいかと」
「おうりつ、がくいん?」
はじめて聞く名前だった。きょとんとするエメローネに、クレースは微笑んだ。
「エメローネさま。あなたと同じくらいの年頃の者たちが通う、いわば学び舎です。学院には寮がありますし、王族の皆さまも通われる場所ですので、警備の心配もございません。……アンフィが、あなたにお友だちを作れるような場所を、と私に手紙をくれたのですよ」
アンフィ——大巫女の名前だ。エメローネは目を見開いた。
「大巫女さまが?」
「ええ。アンフィはあなたを案じ、あなたを私に託したのです。学院で学ぶだけでなく、色々な方々と触れ合いなさい。そのうちに、あなたがなすべきこともわかるでしょう」
自分はひとりじゃない。たとえ離れても、神域の巫女たちは自分を見守っていてくれる。
それだけは、エメローネにもわかった。
神域の外に出て、エメローネが最初に知ったことのひとつは、「男の人」がいるということだった。女神アルティナの神域は男子禁制だったため、エメローネは生まれてこの方、知識はあっても、「男の人」というのを見たことがなかった。
初めて見たのは、アルティナ大神殿に仕える神官だった。
——大きくて、声が低くて、なんだか怖い。
彼らを目にすると、エメローネは身が竦むのを感じた。
幸いなことに、エメローネは、彼らを見かけることはあっても相対することはなかった。
そして、入学式より一足早く、エメローネは、学院の寮に住み始めることになった。神殿から学院に送ってくれた馬車の御者にも、おどおどと失礼な態度をとってしまった気がする。
「私、やっていけるのかな……」
寮母に案内された学院女子寮の自室で、エメローネは深い溜息をついた。
荷物はそう多くなく、片づけはすぐに終わってしまった。やることといえば、神域に手紙を書くことくらいだが、まだ、報告できるようなことが何もない。せっかく手紙を送るのなら、巫女たちを少しでも安心させたかった。
部屋で物思いに耽っていても、悪いことばかり考えてしまう気がして、エメローネは思い切って外に出ることにした。
学院の敷地は広い。あまり遠くまで行くと、迷ってしまいそうだ。
エメローネは、女子寮を出てすぐの小さな庭園を散策することにした。
よく手入れされた庭に、初夏の花々が植えられている。特別目を引くのは、色とりどりの薔薇の花だ。
神域では、実用的なハーブや野菜、果物の木などが多く植えられていた。観賞用の花は少なかったが、神域にも薔薇は持ち込まれていて、巫女の一人が特別に手を掛け、大事にしていたことを思い出す。
ふと、視界の端に、きらきらと銀色の光がちらついた。訝しんでエメローネが近づくと、薔薇の茂みの陰、芝生の上に、白銀の髪の少女が眠っているのを見つけた。
エメローネは感嘆した。
(なんて……きれい……)
同年代の女の子を見るのは初めてだった。こんなきれいな子がいるなんて、外の世界はすごい。
そこで、はたとエメローネは気づいた。初夏とはいえ、こんなところで眠っていたら、風邪を引いてしまう。
おそるおそるエメローネは少女に声を掛ける。
「あの……こんなところで眠っていたら、身体が冷えてしまいますよ」
「ん……」
少女は眉根を寄せ、ゆっくりと瞼を開いた。左右で目の色が違う。エメローネは、息をのんだ。
「……いつの間にか眠ってしまったみたい。起こしていただいて、感謝するわ」
彼女は、ゆっくりと身体を起こした。
エメローネは、彼女にまっすぐに見つめられて、顔が真っ赤になるのを感じた。眠っているときより、こうして目を開けている方が、何倍も魅力的だ。
——あなたにお友だちを作れるような場所を。
ふと、クレースの言葉が頭をよぎった。
「あ、あのっ……よかったら、ハーブティーを飲みませんか? 身体が、温まると思う、ので……」
エメローネは、なけなしの勇気を振り絞った。少女は、驚いたように少しだけ目を瞠り、それから、くすくす笑い始めた。
「可愛い方。お名前は?」
「エメローネ、です……」
「わたくしはサーシャ。ぜひ、ご相伴に預からせていただくわ、エメローネ」
エメローネは、サーシャを部屋に招いて、ハーブティーをふるまった。ティーカップは2揃い。ハーブティーと併せて巫女たちが持たせてくれたものだ。ひとつあればいいのに、と思っていたが、もしかしたら、こういうことを見越していたのかもしれない。
とっておきの、カモミールとジンジャーのハーブティーに蜂蜜を入れて甘くすると、ことのほかサーシャは喜んだ。
「あの、サーシャさんは、どうしてあんなところで眠っていたんですか?」
「サーシャと呼んで。敬語も必要ないわ」
「え……ええと、サーシャ」
名前を呼ばれたサーシャはにっこり笑顔になる。
「わたくしね、明後日からこの学院に入学するの。だから、今日は学院長にご挨拶に伺ったのよ」
挨拶のあとに学院を散策していて、あの庭園で休憩していたら、つい眠り込んでしまった、とサーシャは続けた。
(この子も、新入生なんだ)
エメローネは嬉しくなった。神域を出て以来、曇りがちだった気持ちに、光が射し込むようだった。
「あの、私も、新入生なの」
「そうだと思った。わたくし、少し事情があって、あまり学院には通えないのだけど……仲良くしてくださる?」
「もちろん! あ、あのね……」
エメローネはもじもじと言い淀んだ。
「なあに?」
「その、私のこと、ローネって呼んでくれる?」
「ローネ、あなたって、本当に可愛い!」
ハーブティーを飲み終えると、サーシャはそろそろ迎えの来る時間だわ、と言って席を立った。そして、去り際に言った。
「今日はありがとう、ローネ。また、お邪魔させてね」
エメローネは、嬉しくて飛び上がりそうだった。
——その日の夜、ランプの明かりをつけて、エメローネは羽ペンを取った。皆に素敵な報告ができる、そう思った。




