ex.02 白銀の姫と何もしない日
「お嬢さま、そろそろ起きてください」
侍女が部屋のカーテンを開ける。窓から太陽の光が射し込んできて、まぶしさにサーシャは呻いた。
「ぅう……あと一時間……」
光を避け、上掛けの中に潜り込む。
「もうお昼ですよ。料理長がランチを用意して待っています」
侍女はそう言って、上掛けを掴み、無理矢理引っ剥がした。
「ぅみゃぁああ」
光を遮るものがなくなり、サーシャは気の抜けた奇声を上げて縮こまった。
「お嬢さま。はしたない声をあげないでください」
「うぅ……ひどいわ、トリフェ……。昨日は遅かったんだもの……。ミルクティー、いれてちょうだい。今日は蜂蜜がいいわ」
サーシャは寝ぼけ眼をこすりながら、上体を起こした。
侍女トリフェはてきぱきとお茶を淹れる準備をする。
サーシャの好みは、濃く蒸らした紅茶にミルクをたっぷり。そして極めつけに、どろどろになるほど蜂蜜を投入する。
「さ、できましたよ」
サーシャはベッドから足をおろすと、ソーサーに載せられたティーカップを受け取り、優雅に口元に運んだ。
「はぁ……」
体中が蜂蜜で満たされていくような多幸感に、サーシャはうっとりと息を吐いた。
このまま二度寝したい。
「お嬢さま。お湯をお持ちしてありますので、今すぐに顔を洗ってください」
サーシャの願望を阻止するように、空になったティーカップを取り上げながらトリフェが釘を刺す。
「もう……トリフェのいじわる」
サーシャはむくれた。しぶしぶ言うとおりに顔を洗ったあと、夜着を脱ぎ捨てる。
サーシャは、シュミーズとドロワーズ一枚でストレッチを始めた。トリフェは慣れた様子で夜着を片づける。
身体の柔軟性は何より大事だ。身体を動かすうち、だんだん眠気の残っていた頭もはっきりしてくる。
「ねえ、トリフェ。今日のランチ、デザートは何かしら」
「お嬢さまのお好きなベリーのジェラートだと料理長が申しておりましたよ」
「本当? 嬉しいわ」
サーシャは瞳を輝かせて大きく伸びをした。
任務続きでここのところ不在にしていたせいか、トリフェも昼まで寝かせておいてくれたし、料理長はデザートにサーシャの好物を用意してくれた。屋敷のみんなが思いきり甘やかしてくれる。そこでふと思いついた。
「今日は『何もしない日』にしようかしら」
サーシャは、料理長渾身のランチとデザートを堪能した後、自室のソファに腰掛け、ぼんやりしていた。
「何もしないって、何をしたらいいのかしら」
ふだん忙しく動き回っているせいで、いざ何もしないとなると、途端にどうしていいかわからなくなる。
社交界入り前の令嬢として、ダンスのレッスン、教養やマナーの復習、やることはいくらでもある。加えて、サーシャにはアレクシスとしての顔もあった。任務に出ていないときでも、稽古、鍛錬、男性としての所作の確認など、令嬢として以上にやることが多いかもしれない。
身体を動かす? でも、それでは稽古か鍛錬になってしまう。図書室に行って本でも借りてこようか。でもそれだと、任務に関係していそうな本を探してしまうかもしれない。
そのとき、部屋の外に人の気配がした。——トリフェだ。
ノックの音に、サーシャは返事をした。
「どうぞ」
「お嬢さま。湯浴みの準備が整いました」
「湯浴み? どうして?」
「お嬢さまのことですから、手持ちぶさたになっていらっしゃったのでは? 昨夜はお休み前に軽く汗を流されたくらいで、ゆっくり湯にはつからなかったでしょう。もしかしてお忘れかもしれませんが、明日はお嬢さまの晴れ舞台です」
「あ」
そういえば、明日は王家主催の舞踏会だ。アルクトゥルス公爵令嬢サーシャとして、初めて表舞台に出ることになる。
サーシャはアレクシスに忙しい。今のところ、公爵令嬢として果たすべき役目はないし、国王陛下に少しご挨拶をするだけ——とサーシャ自身はかなり軽く考えていた。
「というわけで、お嬢さまのお疲れを癒すため、侍女一同、全力でご奉仕させていただきます」
「待ってちょうだい、ご奉仕って何」
「ご安心ください。お嬢さまは何もせず、私たちに身を任せていただければ」
トリフェの後ろに、侍女たちが数人控えている。
「お嬢さまの美貌を、世に知らしめるときがきたのです」
満面の笑みを浮かべる侍女たち。サーシャに逃げ場はなかった。
蒸し風呂に放り込まれた後、頭の天辺から足の爪先まで丹念に洗われる。少し身体が冷めたら、今度は薔薇の花びらが浮かんだ湯船に肩まで浸からされた。
「わたくし、そんなに汚れていたかしら」
アレクシスでいるときも、宿屋で湯を使ったりして清潔にしていたつもりだ。サーシャは、不満げに唇をとがらせた。
「それは違います。これは、お嬢さまを磨いているのです」
「トリフェの言うとおりです! お嬢さまは、本当に本当にお綺麗なので、私たちは、できる最善の限りを尽くして、お嬢さまを送り出したいのです」
「私たちの自慢のお嬢さまがとうとう……複雑な気持ちですぅ。さぁさ、お嬢さまがお好きなレモネードですよ。うんと甘くしてあります」
侍女たちは賑やかだ。
「わたくしはただ、お父様の娘として恥ずかしくないよう、社交界入りできれば、それでいいのだけれど」
サーシャののんきな様子に、トリフェは深い溜息をついた。
「お嬢さまは、あまりご自覚がないようですが——お嬢さまが舞踏会にご出席されたら、間違いなく大騒ぎになりますよ。一躍時の人です」
「そうですよ! 一体何人の殿方からダンスのお誘いがあるのか……見当もつきません」
「わたくし、大騒ぎになりたくないのだけれど、あなたたちが最善を尽くしたら、状況が悪化するのではなくて?」
「それとこれとは話が別です」
「お嬢さまの未来の旦那様になる方がいるかもしれないんですよ!?」
「もしかしたらロマンスがはじまってしまうかも……!」
きゃあああと黄色い悲鳴を上げる侍女たちに、サーシャはふてくされた。
「もう。あなたたち、面白がっているでしょう」
湯船からあがった後、髪と爪に香油を塗り込まれ、自室でマッサージを受けていたサーシャは、そのままことんと寝入ってしまった。静かな寝息が聞こえてくる。
トリフェは、サーシャを起こさないように、そっと上掛けを掛けた。
「やはり、お疲れだったようですね」
「少し、お顔の色もよくありませんでした。夕食まで、このままお休みいただきましょう」
「私、料理長に、夕食には消化に良さそうで、お嬢さまがお好きなものをお願いしておきますね」
こそこそと声を潜めて話しながら、夕日が射し込むカーテンを静かに閉じる。昏々と眠るサーシャは、精巧に作られた人形のように美しい。
「うぅん……チェリークラフティ……つくって……」
もぞもぞと寝返りをうちながら、寝言をつぶやく。途端に、冷たい人形のようだった印象が、体温を持った一人の少女に変わる。
侍女たちはくすくす笑った。
自慢のお姫様は、爪の先までぴかぴかだった。




