第六十九話 婚約発表の別荘で、招待客全員の距離感がおかしくなってきました
公爵令女と、公爵家の特別な代官となった元男爵。その婚約を正式に発表する宴が、公爵家所有の郊外の別荘で開かれた。
本邸で行うほど堅苦しくせず、それでいて公爵家主催として十分な格式は保つ。庭園と森に囲まれた大きな別荘には、公爵家と縁の深い貴族、その子女、有力な騎士や役人までが集まっていた。
「おめでとうございます、公爵令女様」 「ありがとうございます」 「代官殿も。このたびは誠に」 「ありがとうございます」
ユキとマコトは朝から何度同じ祝いの言葉を返したか分からない。エリーも今日はあくまでメイド長として二人の後ろに控え、マコトの襟元を直し、ユキのグラスが空けば交換し、長話になりそうな客がいれば自然に次へ流していた。
ただ、この宴には婚約祝いとは別の意味もある。
貴族にとって、同年代の男女がこれほど大勢集まる機会は多くない。しかも公爵家に正式に招かれている時点で、家柄も身元もある程度保証されている。未婚なら将来の縁談相手を探す絶好の場所であり、既婚者にとっても新しい人脈を作る機会だった。
「何かさ」 「はい?」 「みんな、ちょっと目が怖くない?」
ユキが笑顔のまま小声で言うと、マコトも会場を見回した。
「まあ、出会いの場でもありますからね」 「やっぱギラついてるよね」 「本人たちは隠しているつもりでしょうけれど」
表向きは優雅な社交の場。それでも、誰と話すか、誰の隣へ立つか、誰へ紹介を頼むか。その一つ一つに、わずかな欲が透けて見えた。
*
そしてユキ自身も、今日に限って他人のことを笑えなかった。
「……みんな気合い入ってない?」 「何がでしょう」 「ドレス」
令嬢たちの装いは華やかだった。胸元を大胆に見せる者、腰を細く締めて身体の曲線を強調する者、歩くたびに尻や脚の形が目につく仕立てを選んでいる者もいる。
元エロゲオタクのユキは、それを普通の同性を見る目だけでは眺められなかった。
「……あの赤いドレス、胸すご」 「公爵令女様」 「その隣も尻が」 「ユキ」 「分かってるって」
男側の身体が、本人の意思とは関係なく反応している。
「今日、何か駄目かも」 「婚約発表の主役が何を言っているのです」
一方、マコトもまるで他人事ではなかった。
騎士。
若い貴族子弟。
細身の美青年。
精悍な武官。
柔らかな笑顔を浮かべる長身の男。
「……あの二人」 「旦那様」 「幼馴染だったりしないかな」 「旦那様」 「片方だけ昔から好きで、でも家格の差があって」 「マコト様」 「はい」
止められた時には遅い。腐女子の妄想はすでに十分たぎっており、こちらも身体が正直に反応していた。
「二人とも」
エリーが低い声で言った。
「本日は御自身方の婚約発表ですよ」 「分かってる」 「分かってるよ」 「なら、他人を見てそのような状態にならない」 「エリーは平気なの?」
ユキが尋ねる。
「当然です」
即答したエリーが、その直後に黙った。
「……」 「エリー?」 「何でもございません」 「もしかしてエリーも?」 「何でもございません」 「してるんだ」 「公爵令女様」
三人とも、その時点では気づいていなかった。
自分たちを中心に、性神の祝福から生まれた甘い気配が、少しずつ別荘全体へ広がり始めていたことに。
*
最初は、本当に些細な変化だった。
「今夜は少し暑くありません?」 「そうですね。酒のせいでしょうか」
身体が熱い。
酒の回りが早い。
近くにいる相手の香水や汗の匂いが、妙にはっきり分かる。
それだけだった。
ところが時間が経つにつれて、会場の距離感がおかしくなっていった。
「……近くない?」 「何がです?」 「みんな」
ユキが気づいた頃には、挨拶の時に腕一本分ほど距離を取っていた男女が、肩を触れ合わせて話していた。婚約者同士で手を繋いでいた者は、いつの間にか腰へ腕を回している。
「あ」 「どうしました?」 「あの人、今、婚約者の尻撫でた」 「……本当ですね」 「人前でやる?」 「普通はいたしません」
女性たちも妙に落ち着かない。頬を赤くし、胸元を気にし、何度も脚を組み直す。下着が湿るほど身体が熱を持ち始めている者もいるらしい。
男性陣はさらに分かりやすかった。
「……隠せてない人、増えてない?」 「見ない方がよろしいかと」 「でも分かるじゃん」 「分かりますが」
礼服越しでも、股間の反応を隠しきれていない男があちこちにいる。
しかも。
異変は身体だけではなかった。
*
「今年の穀物価格についてですが――」
そんな話をしていた男が、いつの間にか。
「ところで、伯爵はどういう女性がお好みで?」 「私は背の高い女性が」 「男性なら?」 「……男性?」 「ええ。今夜は何故か、そういう話も悪くない気がしまして」
別のところでは。
「先ほどから、あの騎士をご覧になっていますね」 「そんなことは」 「お好みなのでしょう?」 「あなたこそ、あちらの令嬢を何度も」 「可愛いでしょう?」
領地。
派閥。
縁談。
商取引。
そういう話が、少しずつ消えていた。
代わりに増えるのは、誰が好みか。男なら誰か。女なら誰か。あの人の胸がいい。あの騎士の身体つきがいい。
性別すら関係なく、会話が妙に生々しい方向へ寄っていく。
「おかしいですね」
エリーが最初に真顔になった。
「だよね」 「はい。明らかに通常の宴席ではありません」 「僕たちもさっきから変だよね」 「……性神?」
ユキの一言で。
三人が黙った。
「……」 「……」 「……可能性は高いですね」
*
異変に気づいた頃には、三人へ言い寄る者たちの目的まで変わっていた。
「代官様」
若い令嬢が、マコトのすぐそばへ寄る。
「少しだけ、別室でお話しいたしません?」 「何のお話でしょう」 「二人きりでなければできないお話ですわ」
最初なら、公爵家の特別代官へ近づいておきたい、婚約前に多少の縁を作っておきたい、という政治的な思惑を疑っただろう。
今は違う。
目が完全に。
一度でいいから相手をしてほしい。
そう訴えていた。
「いやぁ……」
しかも困ったことに、マコト自身も会場のフェロモンに当てられている。
「代官様?」 「いえ。お断りします」 「本当に?」 「近い、近いです」
*
ユキにも来た。
「公爵令女様」 「はい?」 「御結婚前に、最後の火遊びはいかがでしょう」
見栄えのする若い男が囁く。
「火遊び?」 「別室を一つ、お借りできれば」 「……ずいぶん直接的ですね」 「今夜は、何故か遠回しに申し上げる気になれなくて」
しばらくすると、別の男はもっと酷かった。
「庭園の奥なら暗いですよ」 「行きません」 「少しだけ」 「行きません」
さらに時間が経つ。
「もう場所はどこでも構いません」 「我慢してください」 「難しいです」 「難しいじゃありません」
ユキが断っても。
十数分後には。
また別の男が来る。
*
エリーも例外ではなかった。
「メイド長殿」 「何でしょう」 「少し、お時間をいただけませんか」 「ございません」 「別室で」 「ございません」 「庭でも」 「ございません」 「では廊下の奥でも」 「ございません」 「もうここでも――」 「黙りなさい」
エリーが笑顔を消した。
「公爵家の婚約発表の席です。御自分が何を口走っているのか、一度お考えください」 「……申し訳ありません」
男は我に返ったように離れていった。
だが十歩ほど歩くと、今度は別の女性へ話しかけ始める。
「重症ですね」 「これ、放っておくとまずくない?」 「すでにまずいかと」
*
三人は一度、会場脇の小部屋へ退避した。
「原因、たぶん私たちだよね」 「性神の加護同士が集まったことと、この場の欲望の多さが何らかの形で作用しているのでしょうか」 「公爵家の婚約発表で何をしてくれてるの、あの神」
マコトが頭を抱える。
窓から庭を見ると、すでに何組かが暗い方へ消えていくところだった。
「見なかったことにしましょう」 「エリーが諦めた」 「全員を止めて回る方が目立ちます」
問題は。
三人自身への誘いも、まったく止まる気配がないことだった。
「僕、さっきから女性に五回くらい誘われてる」 「私は男性が六人」 「私は男女双方です」 「エリー強い」
ユキが少し考える。
「じゃあさ」 「嫌な予感がします」 「女の人は、私とエリーが受け持つ?」
「……」
エリーが黙る。
「ほら。私たちなら女性を相手にしても、少なくとも跡継ぎ問題には発展しないじゃん」 「理屈だけなら、そうですが」 「相続騒ぎにならないの大事でしょ?」 「大事ですが、そのために宴席で何をする気ですか」
マコトが恐る恐る尋ねる。
「では……男性は?」
ユキとエリーが。
同時に。
マコトを見る。
「……」 「……」 「何で僕を見るの?」
*
「男の人はマコトが一身に受ければいいんじゃない?」 「どうしてそうなるの!?」 「男性同士なら、少なくとも子供ができて継承問題になることはないし」 「旦那様なら適任かと」 「エリーまで!?」
ユキがにやにやする。
「それにマコト、さっきからイケメン見て妄想してたじゃん」 「妄想と実行は別!」 「先ほどの騎士を見た時など、かなり嬉しそうでした」 「エリー!」
外から、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「別室、空いてます?」 「もう外でいいでしょう」 「あなた、さっきからずっと私を見ていたでしょう?」
三人。
黙った。
宴はまだ半分も終わっていない。
「……これ」 「はい」 「もっと酷くなるよね」 「おそらく」 「じゃあ」
ユキが会場へ続く扉を見る。
「女は私とエリー」 「まだ決定しておりません」 「男はマコト」 「決定しないで!」
マコトの悲鳴の向こう。
別荘を満たす甘い気配は。
まだ。
濃くなり続けていた。




