第三十九話 公爵家の印璽を前に、男爵家ごと吸収される話になりました
公爵邸の応接室へ通されてから、男爵は三度目の深呼吸をした。
向かいには公爵。
隣には公爵令嬢。
昨日までなら、夜会で遠くから見るだけでも気を遣うような相手だ。その公爵本人を前にして、今日は娘との交際と婚姻について話さなければならない。
「それで」
公爵が口を開いた。
「お前が、娘に公爵家を捨ててもいいと言わせた男爵か」
「その言い方ですと、私が唆したように聞こえます」
「違うのか?」
「違います!」
「私が勝手に言いましたわ」
「お前は少し黙っていろ」
「はい」
娘が素直に引いた。
男爵はそれを見てから、公爵へ向き直る。
「まず、その件については私も先ほど初めて聞きました。公爵家を出るなどという話には賛成しておりません」
「ほう」
「むしろ止めます」
「理由は?」
「公爵令嬢だからです」
公爵の眉が僅かに上がった。
「それだけか」
「それだけで十分でしょう。御令嬢は公爵家の一員です。御本人がどう思おうと、その身分には家臣、領民、他家との関係、王家との関係までついて回る。それを恋愛だけで捨てていいとは思いません」
「自分のところへ来ると言っている女を、喜んで受け入れない?」
「受け入れたい気持ちと、それをしてよいかは別です」
公爵はしばらく男爵を見ていた。
「娘から聞いていた通り、面倒なほど真面目だな」
「褒め言葉として受け取ります」
「勝手にしろ」
*
「では、本題だ」
公爵が卓上の書類へ手を置いた。
「お前は娘とどうしたい」
「正式に交際を認めていただきたいと考えております」
「その先は?」
「互いに問題がないと判断できれば、婚姻を」
「娘が公爵令嬢だと知った上で?」
「承知しています」
「男爵家へ嫁がせろと?」
男爵は一瞬だけ黙った。
「……そこが、一番難しいと考えております」
「当然だ」
公爵家の娘を、下位の男爵家へ嫁がせる。
絶対にあり得ないわけではない。
しかし、家格差は大きい。
婚姻一つで得られる政治的利益を考えれば、公爵家にとって男爵家との縁組は決して効率のいい選択ではなかった。
「私の領地経営や仕事について評価いただいているとは、御令嬢から伺いました」
「自分で言うか」
「それ以外に、公爵閣下へ提示できるものがありませんので」
「正直だな」
「家格ではどうやっても勝負になりません」
男爵はそこを誤魔化さなかった。
「私の領地は大きくありません。軍事力も、公爵家と比べれば話にならない。古い血筋を持ち出したところで、それが御令嬢との婚姻に十分な価値を生むとも思っておりません」
「では諦めるか?」
「いいえ」
即答した。
隣で公爵令嬢が男爵を見る。
「だからこそ、公爵閣下に判断していただきたいと思って参りました」
「何をだ」
「私自身に、御令嬢を任せる価値があるかを」
公爵が腕を組んだ。
*
「お前の領地については調べた」
「はい」
「農地の収量はここ五年で上がっている。街道の補修も進めた。橋を一本架け直したな」
「はい」
「借金は?」
「あります」
「隠さないのか」
「街道と橋に使った分です。返済計画もございます」
「税を上げれば早く返せる」
「領民を逃がしてまで急いで返す意味がありません」
「凶作備蓄を増やした理由は?」
「二年前、隣領で不作がありました。こちらまで同じことになった時、商人から高値で穀物を買うより安く済みます」
「家臣団は?」
「大きく入れ替えておりません」
「何故だ」
「父の代から領地を知っている者を、私が若いという理由だけで外す必要がなかったからです」
「無能でも?」
「無能なら外します」
「なるほど」
公爵は質問を重ねた。
領地。
税。
水利。
備蓄。
街道。
役人。
小規模な争いの仲裁。
王都から命じられた仕事。
男爵は分からないものについては分からないと答え、知っていることについては数字と実例を添えて答えた。
やがて公爵が椅子へ深く座る。
「仕事はできる」
「ありがとうございます」
「だが、それでも男爵だ」
「はい」
「そこは変わらん」
「承知しております」
「ならば」
公爵が娘を見る。
「娘を男爵家へ嫁がせる必要をなくせばいい」
「……はい?」
男爵が止まった。
公爵令嬢も父を見る。
「お父様?」
「男爵家を、公爵家へ吸収する」
男爵は数秒、意味を理解できなかった。
「……もう一度、お願いできますか」
「お前の男爵家を、うちへ入れる」
「家ごと?」
「家ごとだ」
*
公爵は卓上の紙を引き寄せた。
「もちろん、私の一存で明日から男爵位を消すという話ではない。王家への届け出と裁可が必要になる。爵位、土地、権利関係の整理もある」
「はい」
「だが仕組みとしては難しくない」
公爵が紙へ簡単な線を引く。
「現在のお前の男爵領を、公爵家の直轄領へ編入する」
「……領地を公爵領へ?」
「そうだ」
「では私の男爵家は」
「独立した家としては公爵家へ吸収する」
男爵は黙った。
家を失う。
そう聞けば、普通なら反発する。
だが公爵の話はそこで終わらなかった。
「ただし」
公爵が男爵を指した。
「土地を取り上げて、お前を王都に座らせるつもりはない」
「と申しますと」
「お前を、その領地の特別代官に任じる」
「……私を?」
「今までお前が治めていた土地を、今まで通りお前が治めろ」
男爵が瞬きをした。
「家臣は?」
「原則そのまま」
「役人も?」
「そのまま」
「税制は?」
「急に変える必要はない」
「領民への法や慣習は?」
「公爵家の基本法に反しない限り、現状を尊重する」
公爵が淡々と続ける。
「家臣団も領地の役人も、当面はお前の指揮下に置く。日常の領地経営もお前が決裁する。今までと大きく変える必要はない」
「……それでは」
「看板が変わるだけだ」
公爵は言った。
「男爵領ではなく、公爵領の一部になる。そしてお前は男爵ではなく、公爵家から特別に権限を与えられた代官として、同じ土地を治める」
*
男爵はすぐには答えなかった。
公爵令嬢も珍しく口を挟まない。
「……私の家臣たちは」
「不安がるだろうな」
「でしょうね」
「だから説明は必要だ」
「はい」
「だが、首をすげ替えるつもりはない。お前の家臣が有能なら、そのまま公爵家の家臣として取り込む」
「領地の兵も?」
「同じだ」
「財政は」
「公爵家の監査は入れる」
「そこは入るのですね」
「当たり前だ」
「ですよね」
「ただし、今まで問題なく回っているものを、公爵家式だからという理由だけで全部壊すつもりはない」
公爵は男爵を真っ直ぐ見る。
「私が欲しいのは、お前の土地そのものではない」
「では?」
「その土地をまともに治めている仕組みと、人間だ」
男爵が黙る。
「吸収するからといって、全部公爵家から人を送り込めば、お前が今まで作ったものを壊すだけだ」
「……ありがとうございます」
「まだ礼を言うな」
公爵は続けた。
「お前には今まで以上の責任が乗る」
「公爵領の一部になるから?」
「そうだ。失敗すれば男爵家だけの問題では済まなくなる」
「はい」
「その代わり、公爵家の資金、人脈、商取引、軍事力も使える」
男爵の目が僅かに変わった。
公爵はそれを見逃さなかった。
「今、何を考えた」
「街道をもう一本延ばせるな、と」
「娘との婚姻話の最中だぞ」
「申し訳ありません」
「いや」
公爵が僅かに笑う。
「そういう男だから、この案を出している」
*
公爵令嬢がようやく口を開いた。
「では、お父様」
「何だ」
「この方は、公爵家へ入ることになりますの?」
「そうなる」
「婿として?」
「婚姻が成立すればな」
男爵が確認する。
「私は公爵家の後継になる、という意味ではありませんね」
「当然だ」
「安心しました」
「そこを狙っていたなら、この話はここで終わりだった」
「そのような器ではありません」
「自分で言うな」
公爵は紙へもう一本線を引いた。
「公爵家の本流の継承と、お前の領地経営は分ける。お前は娘との婚姻によって公爵家の一門へ入るが、爵位継承について別の権利が自動的に生じるわけではない」
「はい」
「旧男爵領については、お前を特別代官として固定する。少なくとも私が生きている間は、よほどの失政がない限り動かさん」
「私の死後は?」
「そこまで今決めるか?」
「領地に残る家臣たちは気にします」
公爵が少し考える。
「……お前に子ができた場合、適性があれば代官職を継がせることを検討する。ただし世襲を無条件には保証しない」
「十分です」
「即答だな」
「領民にとって重要なのは、私の血筋より統治が安定することですから」
「その答えも覚えておこう」
*
ここまで来て。
公爵令嬢が少しだけ首を傾げた。
「つまり」
「何だ」
「私は男爵家へ嫁がない」
「そうだ」
「男爵家の方がこちらへ来る」
「そうだ」
「でも領地はそのまま男爵が治める」
「特別代官としてな」
「家臣もほぼそのまま」
「そうだ」
「でしたら」
公爵令嬢が男爵を見る。
「私、家出しなくてよくなりましたわね」
「最初からする必要ありません!」
男爵が即座に返した。
「本当に家出するつもりだったのですか!」
「その場合は」
「その場合も止めます!」
「ですが二日に一度」
「その話をここで出さないでください!」
男爵の声が裏返った。
公爵の目が細くなる。
「二日に一度?」
「……」
「……」
公爵令嬢と男爵が同時に黙る。
「何だ」
「お父様」
「何だ」
「それはまだ秘密ですわ」
「私にも?」
「はい」
「男爵」
「申し訳ありません。御令嬢だけの秘密ではございませんので、私からは」
公爵は二人を交互に見る。
「……妙な共犯関係があるのは分かった」
「犯罪ではありません!」
二人の声が重なった。
「そこまで揃えて否定されると、余計に怪しいな」
*
最後に、公爵は書類をまとめた。
「話は王家へ持っていく」
「もう?」
「こういうものは、決めたら早い方がいい」
どこかで聞いたような台詞だった。
公爵令嬢が少し嬉しそうな顔をする。
「やはり私、お父様に似ていますわね」
「どこがだ」
「思い切ると早いところ」
「お前ほどではない」
「昨日は私のことを――」
「今その話はいい」
公爵が男爵を見る。
「王家の裁可が下りるまでは、まだ何も正式には変わらん」
「はい」
「その間に、お前は家臣へどう説明するか考えておけ」
「承知しました」
「娘との関係も」
「はい」
「軽く扱うな」
空気が変わった。
父親の顔だった。
「もちろんです」
「二人にどんな秘密があるかは、今は聞かん」
「ありがとうございます」
「だが、その秘密を理由に娘を都合よく扱ったと分かれば」
「お父様」
「黙っていろ」
公爵は男爵から目を逸らさない。
「分かっているな?」
「はい」
男爵も真っ直ぐ返した。
「御令嬢を、公爵家から奪うつもりはありません」
「ほう」
「私が公爵家へ入ります」
公爵令嬢が隣で瞬きをする。
「私の領地も、家臣も、私自身も。条件を受け入れていただけるのであれば、公爵家の一員として責任を負います」
「言ったな」
「はい」
「後で男爵位が惜しくなっても知らんぞ」
男爵は少しだけ考えた。
父から受け継いだ爵位。
家名。
独立した男爵家。
簡単に捨てていいものではない。
それでも。
「領地と、そこで暮らす者と、仕えてくれる家臣を守れるのであれば」
男爵は答えた。
「肩書きにはこだわりません」
公爵が小さく頷いた。
「なら決まりだ」
*
応接室を出たあと。
公爵令嬢は隣を歩く男爵を見た。
「男爵ではなくなってしまいますわね」
「裁可が下りれば」
「寂しいです?」
「少しは」
「やはり」
「父から継いだものですから」
「……申し訳ありません」
「何故あなたが謝るのです」
「私との婚姻がなければ」
「違います」
男爵は足を止めた。
「公爵家へ吸収されることが、自分の領地にとって悪いと思えば断っています」
「でも」
「資金力は上がる。交易も広げられる。いざという時に動かせる兵も増える。家臣も領民もそのままなら、悪い話ばかりではありません」
少し考えてから付け加える。
「何より」
「何より?」
「二日ごとに公爵令嬢と密会して、いつ醜聞になるか怯えるよりは遥かにいい」
「……」
「御令嬢?」
「そこまで現実的に言われると、少し情緒が足りませんわ」
「昨日会ったばかりの男に家出宣言をした方に言われたくありません」
「恋でしたので」
「見切り発車でしょう」
「今から本物にします」
「やはりその考え方、おかしいですよ」
公爵令嬢が笑う。
「ではまず」
「はい?」
「特別代官殿」
「まだ早いです」
「私との恋愛も、領地経営と同じくらい真面目にお願いいたしますわ」
「……努力します」
「そこは即答してくださいませ」
「領地経営より難しそうなので」
「失礼ですわね!」
二人の声が廊下へ響く。
男爵家は、やがて独立した家ではなくなる。
領地は公爵領へ組み込まれる。
けれど土地は動かない。
そこで働く家臣も、大きくは変わらない。
領民の暮らしも、明日から突然別物になるわけではない。
そして男爵自身も。
男爵という肩書きを失う代わりに、公爵家の特別な代官として、これまでと同じ土地を、これまで以上に大きな後ろ盾を得て治め続けることになる。
性神のせいで始まった二人の関係は。
たった数日のうちに。
一つの男爵家を丸ごと、公爵家へ飲み込ませるところまで話が進んでいた。




