第三十話 オホ声聖書とハイレグTバックに負けて、女将と娘の二人を大事にすると決めました
昼下がり、マジメメガネは宿の扉を開けた。
「いらっしゃいませー」
迎えたのは娘だった。
「あの、女将さんはいらっしゃいますか?」
「母さん? 買い出し。夕方前には戻ると思うけど」
「そうですか……」
そこで帰ればよかった。
本来なら。
女将に会うために来たのだから、不在なら出直せばいい。それだけの話だった。
「せっかく来たんだから待ってけば?」
「ですが、お仕事の邪魔では」
「今暇だし。お茶くらい出すよ」
「では……少しだけ」
その返事をしてしまったのが、最初だった。
*
「ちょっと待ってて。着替えてくる」
「着替え?」
「掃除しやすい服」
娘はそう言って奥へ消えた。
戻ってきたのを見て、マジメメガネは眼鏡を押し上げた。
「……」
「何?」
「いえ」
「見てたじゃん」
「見ていません」
「今めっちゃ見てた」
「見ていません!」
短いスカート。
しかもかなり腰で履いている。
その下には、どう見ても普通ではない下着が覗いていた。
腰の高い位置まで大きく切れ上がった、派手なハイレグのTバック。
「……それは、掃除に適した服装なのですか?」
「動きやすいよ?」
「別の意味で動揺しやすいです!」
「やっぱ見てんじゃん」
「見えてしまったのです!」
「へえ」
娘。
にや。
「マジメメガネってさ」
「その呼び方は」
「こういうの弱い?」
「弱いとは何ですか」
「煩悩」
「私は神父です!」
「だから面白いんじゃん」
「面白がらないでください!」
*
娘は本当に掃除を始めた。
ただし。
「……」
机。
拭く。
マジメメガネの正面。
わざわざ。
かがむ。
「……」
「どうしたの?」
「何でもありません」
「眼鏡曇ってない?」
「曇っていません」
もう一度。
かがむ。
短いスカートが上がる。
「……」
「見えてる?」
「そういう確認をしないでください!」
「じゃ見えてるんだ」
「不可抗力です!」
「目閉じれば?」
「……」
「閉じないんだ」
「掃除中の人間から目を逸らすのも失礼かと!」
「理由作るの上手くなったね」
「違います!」
娘は笑いながら、別の机へ移る。
また。
かがむ。
「……」
「煩悩ある?」
「ありません」
「ほんと?」
「ありません!」
「じゃ、もっと近くで掃除していい?」
「なぜそうなるのです!」
*
どうにか平静を保っていると、娘の視線がマジメメガネの荷物へ向いた。
「あ」
「何です?」
「それ」
「これですか?」
教会から持ち出した聖書。
ただし。
普通の聖書ではない。
「オホ声出すやつでしょ」
「そういう呼び方をしないでください」
「見せて」
「駄目です」
「何で?」
「これは教会の管理物です」
「持ってきてんじゃん」
「資料確認のためです」
「ちょっと見るだけ」
「駄目です」
「お願い」
「駄目です」
「お願い」
「……」
娘。
一歩。
近づく。
「お願い」
「近いです」
「見せて?」
「近いです!」
さらに。
密着。
「これくらい?」
「離れてください!」
「嫌?」
「嫌というか……!」
「じゃ嫌じゃない?」
「言葉尻を取らないでください!」
「聖書、見せて」
「……少しだけです」
「やった」
完全に負けた。
*
二人で長椅子へ座る。
娘。
近い。
肩。
当たってる。
腿。
当たってる。
「もう少し離れてください」
「文字見えない」
「十分見えます」
「うち視力悪いかも」
「先ほどまで普通に掃除していたでしょう!」
「じゃ読んで」
「あなたが見たいと言ったのでは?」
「マジメメガネの声で聞きたい」
「……」
「お願い」
「分かりました」
聖書を開く。
「オホッ……」
「出た」
「笑わない」
「だってページ開いただけじゃん」
「私にも分かりません!」
娘が聖書へ顔を近づける。
「これ何の話?」
「古い神話です。旅人が三つの試練を越え、最後に神から祝福を受けるという――」
「じゃ読むね」
「あなたが?」
「うん」
娘。
マジメメガネの肩へ寄りかかる。
そして。
耳元。
「……旅人は、第一の門を越え……」
近い。
声。
近すぎる。
「もう少し離れて」
「聞こえないでしょ?」
「十分聞こえます!」
「じゃ続き」
耳。
すぐ横。
「第二の試練で、旅人は己の欲望と向き合い……んっ……」
「なぜそこで吐息を入れるのです」
「雰囲気」
「不要です!」
聖書。
「オホッ……」
「ほら聖書は喜んでる」
「聖書の反応を判断基準にしないでください!」
「じゃもっと読むね」
さらに密着。
「欲望を否定するのではなく……受け入れ……オホッ……」
「なぜあなたまで!」
「聖書につられた」
「そんなことがありますか!」
「オホォッ……」
「演技でしょう!」
「半分くらい?」
「半分は本物なのですか!?」
*
そこから。
長かった。
娘は神話を読む。
普通に。
途中から。
耳元。
吐息。
オホ声。
「旅人は……オホッ……己の望みを認め……」
「その読み方は絶対に原典と違います!」
「内容は合ってるじゃん」
「読み方の問題です!」
「でも」
娘。
聖書を閉じる。
顔。
近い。
「マジメメガネ」
「何です」
「ずっと我慢してるよね」
「……」
「うちのスカート見て」
「……」
「Tバック見て」
「……」
「密着されて」
「……」
「耳元でこんなん読まれて」
「……」
「まだマジメでいられる?」
「私は」
「うん」
「……」
娘。
待つ。
「私は、女将さんに会いに来たのです」
「知ってる」
「あなたとこのようなことをするつもりでは」
「うん」
「ありませんでした」
「過去形じゃん」
「……」
「ね」
娘。
笑う。
「嫌なら、ここで終わりにしよ」
「……」
「ほんとに」
マジメメガネ。
眼鏡を押し上げる。
一回。
二回。
「……嫌ではありません」
「やっぱり」
「ですが!」
「何?」
「あなたが後悔するようなことは」
「しない」
「即答ですね」
「だって最初から狙ってたし」
「……」
「マジメメガネ落とすの」
「最初から!?」
「うん」
「何という……」
「で?」
「……」
「落ちた?」
長い沈黙。
「……落ちました」
「やった」
*
そこから娘は遠慮しなかった。
最初から。
全力。
「オホッ……!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「待たない!」
「最初から飛ばしすぎです!」
「せっかく落ちたんだから楽しまないともったいないじゃん!」
「オホッ……!」
「マジメメガネも出てる!」
「あなたにつられたのです!」
「じゃもっと!」
短いスカート。
ハイレグTバック。
聖書。
「オホッ……!」
「聖書まで!」
「三人で応援してるみたい」
「二人と一冊です!」
「そこ真面目に訂正すんの!?」
娘は笑う。
オホ声。
また笑う。
「オホォッ……!」
互いに。
最初から。
遠慮なし。
マジメメガネも一度認めてしまえば、もう中途半端にはしなかった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫!」
「本当に?」
「そういう確認しながら全力なの、マジメメガネっぽい!」
「必要です!」
「好き!」
「今それを言いますか!?」
「オホォォォッ……!」
*
どれくらい経ったのか。
二人とも。
まだ止まっていなかった。
「オホッ……! オホォッ……!」
「もう……少し休みませんか……!」
「マジメメガネが先に言う?」
「あなたが元気すぎるのです!」
「まだいける!」
「本当に?」
「いける!」
「では……」
そこで。
がちゃ。
「ただいま」
「……」
「……」
玄関。
女将。
帰宅。
二人。
固まる。
「……」
「……」
「……まずい」
「母さん」
「服!」
「どこ!?」
「私の神父服は!?」
「何でそっち探してんの!」
「これあなたのスカートです!」
「それ今履いてる!」
「ではこれは!?」
「Tバック!」
「なぜ二枚あるのです!?」
「知らない!」
ばたばた。
完全に。
手遅れ。
*
「何やってんだい」
女将。
入口。
腕組み。
「……」
「……」
娘。
マジメメガネ。
正座。
「説明は?」
「えっと」
「私から説明します」
「マジメメガネが?」
「私にも責任があります」
「ほう」
「女将さんが不在で」
「うん」
「待っている間に」
「うん」
「……」
「その先は?」
「……」
娘。
「うちが誘惑した」
「お前か」
「でも最後は二人で決めた」
「なるほどね」
女将。
マジメメガネを見る。
「で?」
「……申し訳ありません」
「何で謝る」
「私は、あなたに会いに来たのに」
「娘ともした」
「……はい」
「後悔してるのかい?」
「……していません」
「娘が嫌だった?」
「いいえ!」
「じゃ何だい」
「それは……!」
女将。
にや。
「マジメすぎるんだよ、あんた」
*
女将は買い物袋を置く。
「まあ」
娘。
見る。
「楽しんだ?」
「めっちゃ」
「オホ声出した?」
「めっちゃ」
「神父は?」
「出してた」
「出していません!」
「出してたじゃん」
「……多少は」
「ほら」
女将。
笑う。
「ならいいじゃないか」
「いいのですか!?」
「何が?」
「娘さんと、その……!」
「成人同士だろ」
「ですが」
「私に惚れてるくせに娘にも惹かれたから悩んでる?」
「……」
「分かりやすいねえ」
女将。
一歩。
近づく。
「なら」
「……?」
「比べてみるかい?」
「何をです?」
「私と娘」
「……」
「どっちがいいか」
「母さん、それ面白そう」
「面白がらないでください!」
「嫌ならやめるよ」
「……」
「どうする?」
マジメメガネ。
眼鏡。
押し上げる。
「……嫌ではありません」
「知ってる」
*
女将。
娘。
最初から。
全力だった。
「オホッ……!」
「母さん最初から飛ばすじゃん!」
「お前に言われたくないよ! オホォッ……!」
「女将さん!」
「何だい神父!」
「もう少し落ち着いて!」
「嫌だね!」
「オホッ……!」
「マジメメガネも楽しんでんじゃん!」
「声は不可抗力です!」
「そんな不可抗力あるかい!」
二人。
交代。
片方と向き合っている間。
もう片方。
煽る。
「どうだい?」
「何がです!」
「娘と私」
「比べさせないでください!」
「どっちがいい?」
「答えられません!」
「じゃ次、うち!」
「待ってください!」
「待たない!」
「オホォォォッ……!」
「マジメメガネ、今めっちゃ嬉しそう!」
「嬉しくないとは言っていません!」
「認めた!」
*
しばらくすると。
比較どころじゃない。
女将。
オホ声。
「オホッ……! オホォォッ……!」
娘。
オホ声。
「オホッ……! オホォォォッ……!」
マジメメガネ。
「なぜ二人とも最初から最後まで全力なのです!」
「楽しいから!」
「そういうことだよ!」
「オホォォッ……!」
「神父もだろ!」
「……否定しません!」
「やっと素直になった!」
女将。
笑う。
娘。
笑う。
三人。
誰も。
止める気。
ない。
*
最後。
三人とも。
長椅子。
「……」
「……」
「……」
マジメメガネ。
天井。
見る。
「どうだった?」
女将。
「何がです」
「比べた結果」
「その話をまだ続けるのですか?」
「どっち?」
娘。
「うち?」
「私?」
「……」
二人。
見る。
娘。
明るい。
悪戯っぽい。
煩悩を全力で刺激してくる。
女将。
落ち着いてる。
でも始まったら全力。
熟れた女の余裕。
「……選べません」
「逃げた」
「違います!」
マジメメガネ。
起きる。
「選ぶという発想が間違っています」
「ほう?」
「私は」
一度。
眼鏡。
直す。
「女将さんが好きです」
「……」
「そして」
娘。
見る。
「あなたにも惹かれています」
「マジメメガネ」
「ですから」
「うん」
「どちらかを選んで、もう一人とのことをなかったことにするような真似はしたくありません」
女将。
黙る。
「何それ」
娘。
「責任取るってこと?」
「はい」
「どうやって?」
「二人を大事にします」
「……」
「……」
女将と娘。
顔。
見合わせる。
「神父なのに?」
「それは今、私が一番考えています!」
「ハーレム?」
「その言い方は!」
「二人とも?」
「……はい」
「大事にする?」
「はい!」
娘。
にや。
「じゃ次もある?」
「そこへ直結するのですか!?」
「ある?」
「……」
女将も笑う。
「神父様?」
「……あります」
「やった」
「オホッ!」
「……」
三人。
聖書。
見る。
「オホォォッ……!」
「お前は話を聞いていたのですか!」
*
夕方。
マジメメガネは宿を出る。
「では、また」
「またおいで」
「今度は母さんいなくても帰らないでね」
「その言い方には問題があります!」
「でも帰らないでしょ?」
「……」
「ほら」
「……はい」
女将。
娘。
二人。
笑う。
マジメメガネは大きく息を吐いて、眼鏡を押し上げた。
女将に会いに来ただけだった。
そのはずなのに。
帰る頃には。
二人を大事にすると決めていた。
「……神父として、これは本当にいいのでしょうか」
「オホッ……!」
鞄。
中。
聖書。
「今はお前に聞いていません!」




