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 冬の女神ルーファは、広場を訪れていた。 


 氷の彫像に姿を変えていた子供たちは、再び息を吹き返し――歓声をあげて氷粒が噴き出す噴水の周囲を所狭しと走り回っている。


 本来であれば、この光景をルーファ一人で見ることはなかっただろう。

 時間(とき)の王宮に仕えるのは神々だけではない、ニキたちのように神々に眷属とされた元人間だけでもない。王宮に仕える多くは、ただ人なのだ。

 人々は、ルーファと共にあって、氷で出来た子供たちを愛で、雪を楽しみ、ときには氷を畏怖してくれた。

 善良で優しい人々を、女神は好いていた。 

 そして人々の中でも女神が特に好いていたのは、老いた森番の男だった――。



 

 その「男の子」が、王宮に来たのは、いつの頃だったろう。




 ニキたちが王の使者になってしばらくの事だったから、七十年近くは前の事だろう。まだようやく一人で歩けるほどの年齢の男の子は、聞けば両親が流行り病で相次いで亡くなり身寄りがない、と言う。遠縁であるという当時の森番が引き取って育てたいというのを、女神たちは快く認めた。

 灰色の髪と瞳がルーファの眷属である狼たちと同じだった事もあり、他の三女神と相談して名付け親にはルーファがなった。


 「ヨハン」


 と。

 名に、特別な意味などはない。ニルヴァーシュの民で最も一般的な名を選んだだけだった。


 ヨハンが走れるようになると、春の女神イシュタリは靴を送ってやった。

 泳ぐようになると、夏の女神サラディナンサは湖に入る許可を与えた。

 弓をつがえるようになると秋の女神フォーリは王宮の森の獣たちを狩って、食する権利を彼に与え――。

 冬の女神ルーファは、冬の間、森から離れて彼が休息を得ることを、許した。


 ヨハンが大人になるにつれ、女神たちは彼への特別扱いを止めたようだった。

 王宮の他の人間たちと同じうように彼をほどほどに敬い、親しみを示し、丁重に扱った。

 けれど、ルーファは駄目だった。


 ヨハンは特別だったから。


 子供時代には、雪玉を丸めて顔面にぶつけて揶揄い(ヨハンは、大声で泣いた)。

 少年時代には、詩を暖炉の側で読んでやり(ヨハンは美男ではなかったが、とても落ち着いた美しい声をしていた)。

 青年時代には、戦女神に乞うて彼に似合いの馬をこっそりと森へ放ち、受け取って世話をするように仕向けた。(ヨハンは苦笑しながらも、その馬を大層かわいがった)


 青年は大人になり、壮年になり、当たり前のように老いた。

 それでも、相変わらずルーファは、彼を傍に置いていた。

 ヨハンはヨハンに変わりなかったからだ。

 何をするではない、春夏秋と彼が森で過ごした事柄を訥々と語るのを、暖炉の側で聴く。

 それを終えて、眠りにつく。

 王宮で過ごすこの時間が、ルーファには何よりも大切なものだった。


 ヨハンは口数の多い男では無かったが、二人きりになると雪の平原を見つめて、冬を言祝(ことほ)いだ。


 「ニルヴァーシュの季節はどれもいいけれど、俺は――いっとう冬が好きだな」

 「仕事を休めるからではなくて?」


 青年時代のヨハンがある日、夜明けの雪原を見ながらつぶやいた。ルーファが揶揄うと、ほんの少しだけ柔らかく、笑う。

 灰色狼に似た髪を撫でたい衝動を、ルーファは押し隠す。

 それもありますけど、と森番はぶっきらぼうに言ってから、目を、細めた。



 「全ての季節の中で、一番冬が綺麗だから―――」



 振り返るヨハンの背中越しに、冬の白い太陽が見えた。

 光を弾く雪原と、白い空の境界が曖昧になって行くのをぼんやりと見つめていると、ヨハン節ばった指が、躊躇いがちにルーファへと伸ばされる。

 ヨハンの灰色の瞳の中に閉じ込められた幼い娘が、息を潜めて――期待を込めた視線で彼を見上げている。

 紅い唇は睦言を囁くのを我慢できずに、微かに開かれている――吐息が重なるのを感じながら、ルーファはそっと森番の手を握り返した。





◆◆◆

ヨハン翁は、冬のはじめに死んだ。


飼っていた狼と折り重なるようにして――眠るようにしてこと切れた。ルーファはそう、と一言呟いて、平然と彼を見送り……、そして、冬の庭に彼をよみがえらせた。

 氷の心臓を与えて。



 冬の女神の庭では、子供たちが遊ぶ。



 子供たちはいづれも生者ではない。 

 ニルヴァーシュでその年に亡くなった人間のうち、心美しい者たちが王に特別に許されて子供に還り、ここでひと時、遊ぶのだ。

 痛みも苦しみも悲しみさえもすべて忘れて、人であった記憶も忘れて。

 雪の野に遊び、――癒され、春の光に祝福されて、溶けていく。

 ヨハンは心美しい男だった。冬の庭に選ばれたのは必然で、ルーファもそれを喜んだ。


 けれど、気づいてしまったのだ。

 冬が終われば、ヨハンは溶けてしまう。

 春に祝福されて、二度と手の届かないところへ行ってしまう――――。


 なぜ人は、とルーファはうつむいて涙をこぼした。あっと言う間に老いていくのだろう、そして、死の誘いを振りきれないのか。

 ルーファには耐えられなかった。ヨハンがルーファを置いて行ってしまうことを、許せなかった。


 ヨハンはルーファにとっては特別だった。けれど、神の眷属になれる魂の器を、彼は持たなかった。だから、当たり前のように老いて、死んで行った。覚悟を何度もした事だったのに、けれども、どうしても諦めきれなかった……。


 「…………だって、私が名付け親なのだもの」


 視線の先、氷から解き放たれたヨハンが――少年姿のヨハンが所在なさげに佇んでいる。全てを忘れて遊んでいたはずのヨハンは、冬の庭で遊ぶうちに、次第に記憶をとり戻した。そして、春を拒絶するルーファを窘める――。

 ヨハンはルーファの視線に気づくと、近づいてきた。涙にぬれた頬を見て、気づかわしげに手を伸ばしかけ……握りしめて降ろす。少年の灰色の瞳が、潤んで、揺れる――。


 「冬の君――」

 「……ヨハン」

 「……もう春はそこまで来ています……出迎えなければ」

 「でも、ヨハン、あなたは言ったわ。冬が一番好きだって」

 「言いました」

 「なら、もう少しでいい。冬のままでいたいの」

 「王がお許しになりません――」

 「春が来たら、あなたは溶けてしまうのよ――」

 「氷が解けるのは当たり前のことです、冬の君」

 「いやよ。――この冬は終わらせないわ」


 言いながらも、気づいていた。ヨハンの足下が透明に透け始めている――。いつの間にか歓声を上げていた子供たちは輪郭を曖昧にしながら、暖かな陽ざしに包まれている。

 ひとり、またひとりと、幸福な笑みを浮かべながら、細かな光の粒に姿を変えてきらきらと風に流される砂のように音を立てて消えていく。

 冬の女神は近づいてくる足跡に立ち上がって対峙した。涙をぬぐい、振り返る――。


 「冬の君、どうか悲しみは胸にしまって、王宮を出られますよう。神々の庭で皆が……お待ちです」


 広場に現れたニキの言葉に、ルーファは少しも表情を動かさなかった。春の女神、イシュタルは厳しい表情で、朋友を見据える。


 「帰るのよ、ルーファ。――ヨハンの事は、私も残念だけれど――彼は幸福に生きたのよ。その彼の魂を縛りつける事は私達には出来ない。我儘を言わないで。それはあなたの性分じゃないはず」

 「イシュタリ、呼んでいないのに来てしまったのね?貴方をまねいたのはニキかしら――やはり、牢に閉じ込めるのではなくて追い出しておけば、よかったわ」

 ルーファの軽口には応じずに、イシュタリは厳しく彼女にいい放った。

 「私たちが、己の感情(かって)で季節を引き延ばすことなど、決してあってはならないことだわ。冬は終わり、春はまた、巡るの。そしてあなたはまた冬の玉座に、座す」

 ルーファは静かに首を振って自嘲した。

 「玉座など誰かにあげるわ。来年の冬にはヨハンはいない――。だから、私は、今年の冬を手放せない……」

 「ルーファ!」 

 「私はもう、冬を愛せない、冬を愛せない女神が、冬を司ることなどあってはならない――イシュタリ、イシュタリ、お願いよ。王を呼んで。私を消して。――ヨハンと共に黄泉の国に旅出させて――どうか」


 涙に濡れた顔を、覆って、冬の女神がすすり泣く。

 女神は、自死ができない。

 不老不死である神々が消えるにはより高位の神に力を奪われるしかない。


 「そんなこと、私が出来るわけが無いでしょう、ルーファ!」


 イシュタリが拒絶し、何も言えずに女神達を見守っていたニキは、女神の横に佇む少年を見た。

 ニキは、森番であるヨハンを知っていた。

 だが、彼を特別に観察したことはない。彼は善良で、凡庸で、どこにでもいる、ただの人間だったからだ。


 すすり泣く女神の頭上の雲間が晴れる――春の陽光が、十日の遅れを取り戻すかのように残酷までに麗らかな陽射しを時間の王宮に注ぎ始めて、冬の女神ルーファは絶望的な声をあげて、泣き崩れた。

 少年ヨハンを形作っていた、冬の女神の魔法が(ほど)けていく。彼は悲しげに微笑んで冬の女神を見つめ、そうして、己の身に起こる事を悲しいまでに静かに享受している。


 イシュタリは唇を噛みしめ、泣きそうな顔をして……、二人を見つめていた。

 ニキは何とも言えずに棒立ちになり、胸を抑える何かが指の先に当たり、はた…と思い当った。胸には春の女神から下賜された神木の種がある。


 (ニルヴァの種は瀕死の命を救うと言ったが、死者に対してはどうなのだ……?)


 徐々に透明になって行くヨハンと悲しみに暮れる女神たちを見比べて、ニキは、意を決し、消えようとするヨハン少年を無理やり引き寄せると、その口元に乱暴にニルヴァの種を含ませた。

 突然の事に灰色の瞳が大きく開かれる。


 「何を」


 ルーファが静止する間もなく、ニルヴァの種は彼の身体に瞬く間に吸収されていった。ニキのように苗床になるわけでなく、花を咲かすわけではなく。

 溶ける寸前だった少年の身体はぐにゃりと姿を喪って、限りなく透明になって行く。駄目か、とヒヤリとした刹那――少年の姿が再構築されていく。

 ルーファが膝をついたまま、ヨハンを見上げた。

 少年であったヨハンが、その姿を変えていく。思春期の姿から、成長し……そしておそらく、それが彼の一番幸せだった時期なのだろう。

 逞しい体の青年の姿になると、灰色の瞳を優しく細めて、愛しい女神に微笑んだ。


 「……冬の君、俺は――言い遺した事があったんです」


 ヨハンはとりたてて美男ではない。しかし、よく通る心に染入るような柔らかな声をしていた。

 冬の女神は森番をみつめて、青銀の瞳を瞬かせた。ヨハンは彼女の細い手を取って、そっと立たせる――二人のシルエットが暖かな陽ざしに包まれた。


 「冬がいっとう、好きですよ」

 「そんな事は知っているわ、何度も、何度も聞いたもの」

 「それは、冬がいっとう綺麗だからだけど――あなたの季節だからです、あなたが愛しんでいる季節だから。森の木々も、花の種も、動物も人も……(あなた)がいるから安らげるんです。春に目覚めるのを夢見ながら、あなたの優しい揺り籠に揺られて、癒されている」

 「ヨハン……」

 「あなたが愛した季節だから、俺は一番冬が好きでした……ルーファ……あなたを」


 ただの森番に過ぎない男は、冬の女神の名をうっとりと口にした。溶けそうなほど甘く。


 「あなたを愛していました」


 灰色の色彩を持った男は、愛おしげに冬の女神を抱きしめる。だから、と言葉をつづけた……。


 「あなたが愛した冬を――俺があなたと愛した冬を、もう愛せないだなんて言わないでください…」


 ルーファが、男の腕の中ですすり泣く。

 何度も愛おしげに冬の女神の髪を梳きながら……ヨハンは、きらきらと、雪のように消えた。


 またきっと。

 あなたの元に生まれてきますから。――どうかそれまで、待っていて……。


 彼がいた場所にはわずかな雪の残骸と、ニルヴァの種が、ひっそりと、落ちていた……。





 ◆◆◆

 クシャン!と大きなくしゃみを一つして『王の使者』ニキは毛布にくるまれていた。ちょうど扉を開けたサントは、温めたワインを手にニキのくしゃみの勢いに目を丸くした。


 「まだ治らないのか、ずいぶんと酷い風邪もあったもんだな」

 「言い訳をするが……冬が嫌いなわけじゃない。ただ、寒いのが苦手なんだよ本当に」


 ワインを受け取りながらぼやくと、サントは珍しく声を立てて笑った。


 あの後、女神の交代式を迅速に終えて、ルーファを無事に神々の庭に送り届け、安心したのか疲れが出たのかニキは情けなくも寝込んだ。

 神々の眷属と言えども、元はただの人に過ぎないから、不死と言うわけではない。怪我もすれば病気もする。

 温かなワインを腹に収めてサントに尋ねる。


 「フェルナンはどこだ――?」 

 「王にご報告に」

 「王はなんと……?」

 怖々と聞けば、サントは様子を思い出したのか、微かに笑った。

 「王はこの半月ほど、遠出(・・)をされていてな……季節の交代が遅れていたことを……『気付きもしなかった』との、仰せだ」

 「そうか」


 そういう事、にしたのだろう。(イシュタリは遅れを取り戻すために必死だろうが)被害もなかったことだしこの度は不問に処す、と。ただし――


 「冬の君は――今は王妃の宮でご静養中だ……後のことは神々が万事うまく運ばれるだろう」


 近しい存在の死を嘆いた結果だ、という同情はあるにしろ、身勝手な感情に振り回されて責務を放り出そうとしたのだ。

 全くの無罪放免と言うわけにもいくまい……。


 イシュタリからニキに下賜されたニルヴァの種は、結局、再びイシュタリに返された。何せ、ヨハンの魂を最後に宿したものなのだ。育ててみるわとイシュタリは言っていた。

 うまくすれば、どこに流れたかわからない、ヨハンの魂の行方の手がかりになるのかもしれないからと。


 冬の女王と、森番が再び出会えるかはわからないが――うまく事が運べばいいなとニキがぼんやり思っていると、サントがどこか楽しげに言った。


 「しかし、ニキ。あんたはニルヴァーシュよりも、もっと北の出のくせに、寒い季節が嫌いとは。……おかしなこともあるものだな?」

 ニキは肩をすくめる。

 「生まれより育ちだ、お前だって賑やかな民の生まれのくせにお喋りが嫌いじゃないか?」

 サントは細い目を伏せて、くすりと笑い、そうだな、と同意する。ともあれ季節の交代が無事に終わって良かったと二人が安堵の息を漏らしていると――。


 「お、ホットワインか、いいじゃないか!」


 しみじみとした空気を男が乱した。いつの間に帰ってきたのか、フェルナンが笑顔で戻ってきた。

 サントにしろ、フェルナンにしろあれだけ寒い場所にこもっていたのに全く風邪をひく様子がない。鍛え方の違いか、それともなんとかは風邪をひかないというのは万国共通なのかと失礼極まりない事を考えていると、遠くで軽やかな囀りが聞こえた。


 王の使者は、三人そろって窓を見る。

 春の女神、イシュタリと同じ色彩の鳥が窓の外の若木に止まっている。


 ようやく、春が訪れたのだ。

 

 少しすれば夏が来て秋が訪れ……、ニキは羽ばたいていく鳥を眺めた。

 次に巡りくる冬には、美しい冬の女王の、心からの笑顔が見られれば良いと。


 らしくもなく感傷的な願いを込めたニキの頭上、春告鳥が不器用に鳴いて、春先の空気を震わせた。




冬童話2017。

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